最終更新日 2025-06-10

内ヶ島雅氏

「内ヶ島雅氏」の画像

飛騨国帰雲城主・内ヶ島雅氏に関する調査報告

1. はじめに

本報告書は、戦国時代の飛騨国、特に白川郷を本拠とした内ヶ島氏の三代目当主とされる内ヶ島雅氏(うちがしま まさうじ)について、現存する史料や研究成果に基づき、その生涯、一族の盛衰、そして彼らを取り巻く歴史的環境を多角的に明らかにすることを目的とする。

雅氏が活躍した時期の日本は、室町幕府の中央権力が著しく衰退し、各地で守護大名や国人領主が実力で覇を競う群雄割拠の様相を呈していた。同時に、浄土真宗本願寺教団(一向宗)に代表される宗教勢力が、武士のみならず農民や商工業者をも巻き込み、時には大名権力をも揺るがすほどの強大な力を持つに至った激動の時代であった。

利用者におかれては、内ヶ島雅氏について「飛騨の豪族。帰雲城主。氏理(本報告では主に氏理(うじまさ)として言及する)の父。豊富な鉱山資源を収入源に領地経営を安定させる。熱心な一向衆門徒で、本願寺家と協力して長尾為景と争うが、敗北した」との概要を既に把握されている。本報告書は、これらの情報を深掘りし、より詳細かつ正確な歴史像を提示することを目指す。具体的には、内ヶ島氏の白川郷における支配確立の経緯、特に経済基盤となった鉱山経営の実態、雅氏の時代における一向宗(本願寺)との緊密な関係、越後の長尾為景との抗争の具体的な様相、そして一族の最終的な当主である内ヶ島氏理の時代を経て、天正大地震という未曾有の自然災害によって悲劇的な終焉を迎えるまでを詳述する。

2. 内ヶ島氏の勃興と飛騨支配の確立

2.1. 内ヶ島氏の起源と白川郷への入部

内ヶ島氏の出自を遡ると、初代当主とされる内ヶ島為氏(ためうじ)の父である内ヶ島季氏(すえうじ)は、室町幕府の奉公衆、具体的には将軍足利義満の馬廻衆であったと記録されている 1 。その子、為氏の代に至り、室町幕府の第8代将軍足利義政(在職:1449年~1473年)の命令を受けて、飛騨国白川郷に入部した。為氏は白川郷に拠点を構え、向牧戸城(むかいまきどじょう)を築城し、この地を支配する基盤を築いたとされる 1 。この入部は、義政の治世である1449年から1457年の間の出来事であった 1

白川郷は、飛騨の山深い地域にありながら、加賀国(現在の石川県南部)や越中国(現在の富山県)へ通じる交通路を押さえる戦略的要衝でもあった。そのため、内ヶ島氏の本拠地は、北陸地方の政治・軍事的情勢から常に大きな影響を受ける地理的条件にあったと言える 1

足利義政が内ヶ島氏を白川郷に入封させた背景には、金山や銀山といった鉱物資源の開発という明確な目的があったとする説が有力である 2 。当時の室町幕府、特に義政の時代は財政的に困窮しており、例えば銀閣寺(慈照寺)の造営費用などもその財政を圧迫していた。そのため、鉱物資源が豊富とされた白川郷のような遠隔地に信頼できる一族を配置し、鉱山開発を通じて幕府財政の安定化を図ろうとしたと考えられる。このことは、後述するように、為氏の入部後に実際に複数の鉱山が発見され、内ヶ島氏の経済基盤となった事実からも裏付けられる。

2.2. 鉱山経営による経済力の掌握と領国経営

内ヶ島為氏が白川郷に入国した後、その領内では実際に複数の金山が発見され、内ヶ島氏はこれらの鉱山経営によって莫大な富を築き上げたとされる 2 。この豊富な鉱山資源、特に金や銀は、内ヶ島氏の主要な収入源となり、彼らの領国経営を安定させる上で決定的な役割を果たした 2 。利用者の認識にある通りである。

内ヶ島氏が支配したとされる鉱山には、上滝(うえたき)金山、落部(おちくべ)金山、六厩(むまい)金山、森茂(もりも)金山、片野(かたの)金山、そして横谷(よこたに)銀山、天生(あもう)金山などがあったと伝えられている 5 。また、『神岡鉱山史』によれば、白川郷周辺には当時6つの金山と1つの銀山が存在したという記録もある 4 。これらの鉱山における採掘方法は、主に砂金採りであった可能性が指摘されている 4

内ヶ島氏が鉱山経営によって得た富は、単に彼らの領国経営を潤すに留まらなかった。一説には、その財の一部が足利義政や将軍家の財政基盤となり、有名な銀閣寺の造営費用にも充てられたとまで言われている 2 。これが事実であれば、内ヶ島氏は一地方豪族でありながら、中央の室町幕府の財政にも影響を及ぼすほどの経済力を有していたことになり、特筆すべき点である。

しかしながら、別の史料では、内ヶ島氏は「国力の乏しさから歴代の内ヶ島氏当主はもっぱら白川郷の統治に専念し、外征という形で周辺地域の戦国史に顔を出すことはなかった」とも記述されている 6 。この記述と、莫大な経済力という評価との間には、一見矛盾があるように見える。この点を考察すると、内ヶ島氏の経済力は、飛騨の山間部を本拠とする国人領主としては確かに大きなものであり、領内の統治を固め、外部からの侵攻を防衛し、あるいは本願寺のような同盟勢力への資金的援助を行うには十分であったと考えられる。しかし、その富が、他の有力な戦国大名のように大規模な軍勢を組織し、広範囲にわたる領土拡大戦争を継続的に行うほどの規模ではなかった可能性が示唆される。彼らが厳しい戦国時代を「生き残る切り札」として鉱山資源、すなわち金銀を有していたことは確かであるが 3 、その経済力の具体的な規模や使途、対外的な影響力については、史料の制約もあり、慎重な評価が求められる。

2.3. 初期の照蓮寺(一向宗)との関係:為氏の時代

内ヶ島為氏が白川郷の支配を確立しようとしていた頃、同地では浄土真宗の寺院である照蓮寺(しょうれんじ)が大きな勢力を持っていた。照蓮寺の住職であった教信(きょうしん)は還俗して三島将監(みしましょうげん)と名乗り、弟の明教(みょうきょう)に寺務を譲ると、自らは武士となり、諸国から兵を集めて内ヶ島氏に匹敵するほどの武力を擁するに至った 1

この事態を看過できないと判断した為氏は、文明7年(1475年)、照蓮寺を攻撃した。激しい戦闘の結果、三島将監は自害し、弟の明教も逃亡の末に命を絶った。これにより、白川郷における一向宗の武力勢力は一時的に鎮圧された 1

しかし、この後、本願寺教団の指導者であった本願寺蓮如(れんにょ)が仲介に入り、照蓮寺が内ヶ島氏の支配下に入ることを条件として、先の戦いで亡くなった明教の遺児である明心(みょうしん)に照蓮寺の再興を許した 1 。この一連の出来事は、内ヶ島氏と在地の一向宗勢力との間に、当初は深刻な武力対立が存在したことを明確に示している。しかし、蓮如の仲介による和解と、照蓮寺を完全に排除するのではなく支配下に組み込むという選択は、後の内ヶ島雅氏の時代における本願寺との緊密な協力関係へと繋がる重要な転換点となった。

なお、この内ヶ島氏と照蓮寺との抗争について、単純な領主対領民(門徒)という構図に疑問を呈し、むしろ照蓮寺がその後発展できたのは内ヶ島氏の貢献による部分も大きかったのではないか、という見解も存在する 7 。これは、両者の関係が一面的ではなく、より複雑な側面を持っていた可能性を示唆しており、興味深い指摘である。

表1:内ヶ島氏主要系図と活動概要

当主名(読み)

関係性・役職など

主要な活動・事績

典拠

内ヶ島季氏(すえうじ)

為氏の父

室町幕府奉公衆(足利義満の馬廻衆)

1

内ヶ島為氏(ためうじ)

季氏の子、初代当主

上野介。足利義政の命で白川郷に入部。向牧戸城・帰雲城を築城(帰雲城は1462年頃)。照蓮寺を平定。

1

内ヶ島雅氏(まさうじ)

為氏の子、三代目当主

上野介。熱心な一向宗徒。本願寺と連携し、長尾為景と抗争。本報告の中心人物。

1

内ヶ島氏利(うじとし)

雅氏の子、四代目当主

当主としての活動記録は8年間のみ。史料は皆無に近い。氏理(うじまさ)と混同されやすい。

1

内ヶ島氏理(うじまさ)

氏利の子(諸説あり)、五代目当主(最後の当主)

天正地震(1586年)で帰雲城と共に一族郎党もろとも埋没し死亡。

1

経聞坊(きょうもんぼう)

氏理の弟

仏門に入っていたため天正地震の難を逃れる。『経聞坊文書』を残す。

1

この系図は、内ヶ島一族の主要人物とその関係性を一覧で示すことで、報告全体の理解を助ける。特に、雅氏の父祖と子孫を明確にすることで、彼の時代的背景と一族の連続性を把握しやすくする。また、史料が乏しいとされる氏利と、最後の当主である氏理との関係や、両者の名前の類似による混同の可能性についても注意を促すものである。

3. 内ヶ島雅氏の時代 ― 信仰と動乱

3.1. 雅氏の人物像と篤信な一向宗門徒としての側面

内ヶ島雅氏は、白川郷の内ヶ島氏初代当主・為氏の子として生まれ、父と同様に上野介(こうずけのすけ)を自称したと伝えられる 1 。彼の時代において特筆すべきは、その熱心な一向宗(浄土真宗本願寺派)門徒としての側面である。父・為氏の代には、在地の一向宗勢力である照蓮寺と武力衝突し、これを平定した経緯があったが、雅氏の代になると一転して融和政策が採られた。これは、為氏による平定と本願寺蓮如の仲介を経て、照蓮寺が内ヶ島氏の支配下に入ったという前代の経緯を踏まえた上での政策転換であったと考えられる。雅氏は照蓮寺との関係を改善し、本願寺教団とは極めて友好的な関係を築いた 1

雅氏のこの篤信ぶりは、単に個人的な信仰心に留まるものではなかった。それは内ヶ島氏の外交戦略、さらには軍事戦略の根幹を成す要素となったのである。当時、北陸地方を中心に強大な勢力を誇った本願寺教団との連携は、特に越後の長尾氏のような反一向宗勢力と対峙する上で、内ヶ島氏にとって不可欠な支えであったと考えられる。雅氏の信仰は、まさに領主としての現実的な政治判断と不可分に結びついていたと言えよう。

3.2. 本願寺との連携強化と軍事的協力

内ヶ島雅氏の当主時代を通じて、内ヶ島氏と本願寺は一貫して友好的な関係を維持した 1 。この友好関係は、具体的な軍事協力という形で現れることもあった。例えば、大永年間(1521年~1528年)には、内ヶ島氏は越中国における本願寺勢力の防衛のために軍勢を派遣している 2 。さらに天文年間(1532年~1555年)には、美濃国へ侵攻したが、これは本願寺宗主である証如(しょうにょ)からの依頼によるものであったとされ、後に証如から撤兵を要請されるなど、両者は軍事行動において密接に足並みを揃えていたことがうかがえる 2

これらの事実は、内ヶ島氏が領内の鉱山開発によって得た経済力と、本願寺教団が有する広範な門徒組織と軍事力を巧みに結びつけ、自領の防衛のみならず、時には領土の拡大をも視野に入れた活動を展開していたことを示唆している 2 。雅氏の深い信仰心と、戦国領主としての現実的な戦略が、本願寺との強力な連携という形で結実した結果と言えるだろう。特に、本願寺からの依頼で美濃へ軍事侵攻を行うほどの関係性は、単なる友好を超えた、実質的な軍事同盟に近いものであった可能性を強く示している。

3.3. 長尾為景との抗争:背景と雅氏の役割

内ヶ島雅氏の時代における重要な対外関係の一つが、越後国の守護代であった長尾為景(ながお ためかげ)との抗争である。この対立の背景には、まず永正3年(1506年)に、為景の父である長尾能景(よしかげ)が越中一向一揆との戦いの最中に討死したという出来事がある。父の跡を継いだ為景は、父の仇である越中一向一揆、そしてこれと結びつく神保(じんぼう)氏を強く敵視するようになった 1

永正17年(1520年)、長尾為景は満を持して越中に侵攻し、一向一揆と結んでいた神保慶宗(よしむね)を新庄城に攻め、これを討ち取った 1 。この越中制圧は、隣接する加賀国(当時は「百姓の持ちたる国」と称されるほど一向一揆の勢力が強大であった)の本願寺教団にとって大きな脅威となった。

3.3.1. 越中情勢と本願寺による雅氏への上洛要請

長尾為景が越中を制圧した勢いに乗じて、さらに加賀国へも侵攻してくるのではないかと予測した本願寺は、越中の緊迫した情勢を正確に分析し、対策を協議するため、同盟者である内ヶ島雅氏に対して上洛(京都へ赴くこと)を要請した 1 。雅氏はこの要請に応じ、大永元年(1521年)に上洛している 1

本願寺が、一地方領主である雅氏に対して、わざわざ京都へ呼び寄せてまで情勢分析と戦略協議を求めたという事実は、雅氏が本願寺から単なる一門徒としてではなく、軍事的・政治的な見識と実力を持つ重要な同盟者として認識され、深い信頼を寄せられていたことを物語っている。これは、雅氏が本願寺教団内で一定の影響力を有していた可能性を示唆するものである。

3.3.2. 雅氏不在時の弟・兵衛大夫による軍事行動と「敗北」の実態

内ヶ島雅氏が本願寺の要請に応じて京都に滞在している間、本願寺の予測通り、越中国内の一向一揆勢力は、長尾為景と能登の畠山(はたけやま)氏の連合軍によって次々と制圧されていった 1 。長尾為景がまさに加賀侵攻の勢いを見せたため、本願寺は飛騨の照蓮寺に対して出陣を命じた。照蓮寺は、かねて内ヶ島雅氏と打ち合わせていた通り、雅氏の弟である内ヶ島兵衛大夫(ひょうえだゆう)を大将として、長尾軍に対抗すべく出陣した 1

利用者の初期情報にある「(雅氏が)長尾為景と争うが、敗北した」という点について、現存する史料 1 を詳細に検討すると、雅氏自身が直接軍を指揮して敗北したというよりは、雅氏が京都に不在の間に、彼の弟である兵衛大夫が率いた内ヶ島勢(照蓮寺門徒との連合軍)が、越中の一向一揆勢と共に長尾・畠山連合軍によって制圧された、という状況がより正確な描写となる。

この戦いは、内ヶ島氏にとって人的・物的な損失を伴う痛手であった可能性は高い。また、結果として越中における本願寺勢力、ひいては内ヶ島氏の影響力が一時的に後退したことも想像に難くない。しかし、これは雅氏本人の直接的な戦場での敗北ではなかった点を明確にしておく必要がある。この「敗北」が、その後の内ヶ島氏の戦略や本願寺との関係に具体的にどのような影響を及ぼしたのかについては、史料の制約から詳述することは困難であるが、内ヶ島氏の歴史における重要な出来事であったことは間違いない。

4. 内ヶ島氏の変容と終焉

4.1. 雅氏以降の氏利・氏理の時代と周辺勢力との折衝

内ヶ島雅氏の跡を継いだとされるのは、その子・内ヶ島氏利(うじとし)である。しかし、この氏利については、当主としての具体的な活動を伝える記録はわずか8年間分しかなく、関連する史料も皆無に近いとされている 1 。氏利の存在は、彼を系譜から除外すると、他の各当主の在位期間が不自然に長くなり、100年以上も生きた計算になってしまうという矛盾が生じるため、内ヶ島氏の系譜上の連続性を保つ上でその名が記されている側面がある 1

氏利の子(ただし、これには諸説あり)とされる内ヶ島氏理(うじまさ、または「うじとし」とも読まれる)が、内ヶ島氏最後の当主となる 1 。氏理の時代になると、内ヶ島氏を取り巻く環境は一層厳しさを増す。飛騨国内の有力者であった姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)や、越後の上杉謙信(うえすぎ けんしん)といった強大な戦国大名による侵攻を度々受けたが、氏理はこれらを撃退することに成功している 1 。これは、内ヶ島氏の本拠地である帰雲城が天然の要害に位置し、堅固な防御施設を備えていたこと、そして鉱山資源を背景とした経済力が防衛力の維持に貢献していたことを示唆している。

雅氏の時代が、本願寺との積極的な連携を通じて外部への影響力行使を試みた時期であったとすれば、氏理の時代は、織田信長や豊臣秀吉といった中央の巨大な統一権力との関係構築や、上杉氏のような隣接する大大名からの直接的な軍事侵攻への対処など、より切迫した状況下での生存競争に直面していたと言える。内ヶ島氏が置かれた政治的・軍事的環境は、雅氏の時代から氏理の時代にかけて大きく変容していたのである。

4.2. 織田政権、豊臣政権との関わり

内ヶ島氏理の時代、全国規模での天下統一事業が進展する中で、内ヶ島氏もその渦中に巻き込まれていく。越中国に佐々成政(さっさ なりまさ)が織田信長の勢力下で本拠を構えると、氏理は信長、そしてその配下である成政に従属した 1 。天正10年(1582年)の魚津城の戦いでは、織田軍の一翼を担い、上杉方の魚津城を陥落させるのに貢献している 1

しかし、同年6月に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、氏理は佐々成政との間で停戦し、軍勢を飛騨へと引き返させた 1 。その後、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が争った小牧・長久手の戦い(天正12年・1584年)では、氏理は佐々成政に与して越中に出陣した。ところが、この氏理の不在を好機と見た豊臣秀吉は、配下の金森長近(かなもり ながちか)に命じて白川郷へ侵攻させた 1

金森長近軍は、内ヶ島氏の支城である向牧戸城を守る尾上氏綱(おのえ うじつな)を攻めたが、容易には陥落させることができなかった。そこで長近は武力だけでなく懐柔策を用い、氏綱を寝返らせることに成功した。これにより、領内の民衆も金森軍になびき、内ヶ島氏の本拠地である帰雲城も金森勢に占拠されてしまった 1 。この報を聞いた氏理は急ぎ飛騨へ引き返したが、時すでに遅く、万策尽きた氏理は豊臣秀吉に降伏した 1

注目すべきは、秀吉への降伏後の処遇である。豊臣秀吉は、内ヶ島氏が長年にわたり培ってきた鉱山経営の技術や、領内の金銀資源の価値を重要視したと見られる。そのため、所領を一部削減したものの、内ヶ島氏による旧領の経営継続を許したのである 3 。これは、戦国末期から統一政権の成立期にかけて、鉱物資源とその採掘・精錬技術が国家的な戦略物資として極めて重要視されていたことを示す好例と言える。秀吉は金銀山を「公儀のもの」とし、大名領の鉱山も実質的には預け置くという専有主義的な政策を採っており 13 、内ヶ島氏の鉱山とその技術を自身の支配下に組み込むことを優先したと考えられる。この処置は、秀吉の巧みな経済政策の一端を垣間見せるものであり、単に敵対勢力を滅ぼすのではなく、利用価値のあるものは取り込むという現実的な判断があったことを示している。

4.3. 天正大地震と帰雲城の埋没 ― 一族の悲劇的末路

豊臣秀吉による所領安堵を受け、内ヶ島氏理は一族の将来に光明を見出したかに思われた。しかし、その矢先に未曾有の大災害が内ヶ島一族を襲う。天正13年11月29日(グレゴリオ暦換算:1586年1月18日)の深夜、後に「天正大地震」と呼ばれるマグニチュード7.9とも推定される巨大地震が発生した 1

この大地震により、内ヶ島氏の居城である帰雲城の背後にそびえる帰雲山が大規模な山体崩壊を起こした。山が崩れ落ち、莫大な量の土砂が津波のように押し寄せ、麓にあった帰雲城と城下町を一瞬にして飲み込み、完全に埋没させてしまったのである 1

この時、城内では所領安堵を祝う祝宴が催されていたとも伝えられており 8 、城主の内ヶ島氏理をはじめ、その家族、家臣団、そして城下町の住民の多くが逃げる間もなく土砂に巻き込まれた。被害は死者500人以上、埋没家屋300戸以上とも記録されており 8 、この瞬間をもって、戦国大名として存続してきた内ヶ島氏は、文字通り地上からその姿を消し、滅亡した。たまたま所用などで城外に出ていて難を逃れた者は、わずか数名(4人とも言われる)に過ぎなかったという 1

内ヶ島氏の滅亡は、戦国時代の他の多くの武家のように、合戦での敗北や政略による失脚といった人的要因によるものではなく、人間の力の及ばない巨大な自然災害によってもたらされたという点で、日本の歴史上でも極めて特異な事例である。この事実は、歴史の展開がいかに予測不可能な要因によって左右されうるかを示すと同時に、戦国史の中でも際立った悲劇性を持つ出来事として記憶されることとなった。そして、このあまりにも劇的な終焉と、内ヶ島氏が鉱山経営によって富を蓄えていたという事実が結びつき、後の世に「帰雲城埋蔵金伝説」というロマンあふれる物語を生み出す素地となったのである 3

4.4. 生存者と『経聞坊文書』

天正大地震による帰雲城埋没という未曾有の悲劇の中にあって、奇跡的に難を逃れた内ヶ島氏の一族も少数ながら存在した。内ヶ島氏理の弟にあたる経聞坊(きょうもんぼう)と、もう一人の弟(名は不詳)は、当時仏門に入っていたために城外におり、この災厄から生還することができた 1

特に経聞坊は、この天正大地震の惨状を見聞し、後に『経聞坊文書(きょうもんぼうもんじょ)』と呼ばれる貴重な記録を残した 1 。この文書には、地震が発生した具体的な日時(「天正十三年乙酉十一月廿九日亥子ノ剋ヨリ大地震初而十二月廿五日マテ時々不止」など 25 )や、山崩れの様子、帰雲城と城下町が埋没した状況などが生々しく記されており、この歴史的大災害の実態を伝える一級の一次史料として極めて重要である。

内ヶ島氏の一族以外にも生存者がいた。例えば、内ヶ島氏の重臣で荻町城(おぎまちじょう)の城主であった山下時慶(やました ときよし)・氏勝(うじかつ)親子もこの地震を生き延びたとされる。子の氏勝はその後、尾張徳川家に仕えたと伝えられており 10 、内ヶ島氏滅亡後の家臣たちの動向の一端をうかがわせる。

『経聞坊文書』の存在は、この悲劇的な出来事を単なる伝説ではなく、具体的な歴史的事実として後世に伝える上で計り知れない価値を持っている。また、山下氏のような家臣が生き残り、他の大名家に仕官したという事実は、内ヶ島氏が築いていた人的ネットワークや、家臣団が有していたであろう技能や知識が、形を変えて受け継がれていった可能性を示唆しており、研究を進める上での一つの手がかりとなる。

4.5. 帰雲城埋蔵金伝説について

内ヶ島氏が長年にわたる鉱山経営によって蓄えたとされる莫大な黄金が、天正大地震による帰雲城の埋没とともに地中深くに眠っているのではないか――これが、今日まで語り継がれる「帰雲城埋蔵金伝説」である 3 。その額は数千億円から数兆円とも噂され、多くの人々の想像力を掻き立ててきた。

しかしながら、この魅力的な伝説について詳細に調査すると、必ずしも古くから白川地域に伝承されてきたものではないことが指摘されている。実際には、1970年(昭和45年)頃になって、内ヶ島氏の末裔を称する白川村出身の人物がこの話を喧伝し始め、それを新聞などのメディアが取り上げたことから、全国的に広く知られるようになったというのが実情のようである 8

伝説の真偽はともかく、帰雲城が実際にどこにあったのか、その正確な位置は現在に至るまで特定されていない 8 。岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)には「帰雲城趾」の碑が建てられているが、これはあくまで推定地の一つであり、その地下に城が埋まっているという確証は得られていない。地質調査によって過去に大規模な土砂崩れがあったことは確認されているものの、城そのものの遺構発見には至っていないのが現状である 8 。1970年代から「白川帰雲城・発掘保存準備委員会」や「白川郷埋没帰雲城調査会」といった組織が結成され、断続的に調査や試験的な発掘が試みられているが、決定的な成果はまだ得られていない 8

埋蔵金伝説は、内ヶ島氏が実際に鉱山経営で栄えたという歴史的事実と、天正大地震による悲劇的かつミステリアスな終焉、そして現代における地域振興への期待やメディアの関心といった複数の要素が複雑に絡み合って形成され、増幅されてきた文化的な現象と捉えることができる。歴史学的なアプローチとしては、伝説そのものの魅力とは別に、史実と後世の創作・脚色とを冷静に区別して考察する必要がある。

表2:内ヶ島氏の経済基盤としての鉱山

項目

詳細

典拠

主要鉱山名(推定含む)

上滝(うえたき)金山、落部(おちくべ)金山、六厩(むまい)金山、森茂(もりも)金山、片野(かたの)金山、横谷(よこたに)銀山、天生(あもう)金山など。その他、『神岡鉱山史』に記載される白川郷周辺の6つの金山と1つの銀山。

4

役割・意義

<ul><li>内ヶ島氏の主要な収入源であり、領国経営の安定化に不可欠な基盤であった。</li><li>初代為氏の時代には、その富が中央の足利義政政権の財政に貢献した可能性も指摘される。</li><li>最後の当主氏理の時代には、織田・豊臣政権下で内ヶ島氏が存続を許された大きな理由の一つとなった。</li></ul>

2

関連史料・情報

<ul><li>足利義政による白川郷入部の目的が鉱山開発にあったとする説。</li><li>砂金採りが主要な採掘方法であった可能性。</li><li>歴史家・作家の加来耕三氏は、内ヶ島氏が生き残るための切り札が鉱山(金銀)であった可能性を指摘。</li><li>豊臣秀吉は土地よりも金銀を重視し、内ヶ島氏を代官的な立場で活用しようとしたとの見解。</li></ul>

2

この表は、内ヶ島氏の権力と繁栄の源泉であった鉱山経営の具体像を整理し、その経済的重要性を改めて示すものである。複数の史料に散見される鉱山名やその意義、関連する専門家の見解などを集約することで、内ヶ島氏の歴史を理解する上で不可欠な経済的背景を明確にすることができる。

5. 内ヶ島雅氏の歴史的意義と内ヶ島氏研究の展望

5.1. 内ヶ島雅氏の事績の再評価

内ヶ島雅氏は、父・為氏が築き上げた飛騨国白川郷における支配基盤と、そこから産出される豊富な鉱物資源を背景に、当時強大な勢力を誇った一向宗(本願寺)との連携を深めることによって、戦国乱世における自立を巧みに維持しようとした人物として評価することができる。彼の統治下で、内ヶ島氏は鉱山経営による経済力と本願寺の宗教的・軍事的影響力を両輪として、周辺勢力との間で巧みな外交を展開し、時には軍事行動も辞さなかった。

特に、越後の長尾為景との抗争における雅氏の役割は、自ら前線に立って軍を指揮する武将としてよりも、本願寺教団との連絡調整役や、京都における情勢分析・戦略協議といった後方支援、あるいは外交交渉におけるキーパーソンとしての側面が強かった可能性がある。本願寺が雅氏に上洛を求め、越中情勢の分析を依頼した事実は、彼が単なる武辺者ではなく、一定の政治的見識と交渉能力を備えた人物として本願寺から信頼されていたことを示唆している。

また、雅氏の篤い一向宗への信仰心と、領主としての現実的な政治・軍事行動とが不可分に結びついていた点は、戦国時代における宗教勢力と武士団との複雑な関係性を考察する上で、非常に興味深い事例を提供する。彼の時代は、内ヶ島氏が最も積極的に外部勢力(特に本願寺)と連携し、単なる飛騨の一国人領主の枠を超えて、より広域的な政治・軍事動向に関与しようとした時期であったと言えるだろう。これは、後の内ヶ島氏理の時代が、織田・豊臣といった中央の巨大勢力や上杉氏のような隣接する大大名からの圧力に対し、従属や防衛に終始せざるを得なかった状況とは対照的である。雅氏の指導のもと、内ヶ島氏はその経済力と宗教的紐帯を最大限に活用し、戦国時代における独自の存在感を示そうとしたのである。

5.2. 史料的制約と今後の研究課題

内ヶ島氏、とりわけ本報告の中心人物である内ヶ島雅氏や、その子である氏利に関する直接的な一次史料は、残念ながら極めて限定的であるというのが現状である 1 。天正大地震の際に難を逃れた経聞坊が残した『経聞坊文書』は、地震そのものの被害状況や当時の白川郷の様子を伝える上で比類ない価値を持つ史料であるが、それ以前の内ヶ島氏族の具体的な活動全般や、雅氏個人の事績を詳細に網羅するものではない。

加えて、内ヶ島氏の居城であった帰雲城の正確な位置が現在も特定されていないという事実は、考古学的なアプローチからの情報収集を著しく困難にしている 8 。城郭の構造や規模、出土遺物などから当時の生活や文化、さらには経済活動の実態を具体的に復元する上で、城跡の発見と学術的な発掘調査は不可欠である。

これらの史料的制約を踏まえた上で、今後の内ヶ島氏研究、特に雅氏の時代に関する研究を進めるためには、いくつかの課題が挙げられる。まず、内ヶ島氏と直接的な関係があった周辺の大名家(例えば上杉氏や、後に飛騨を支配する金森氏など)に残された古文書や記録類、あるいは本願寺教団側の史料を丹念に調査し、それらを相互に照合することによって、間接的ながらも内ヶ島氏に関する情報を収集・分析していく地道な作業が求められる。

また、帰雲城跡の特定に向けた努力を継続し、もし発見された場合には、歴史学だけでなく考古学、地質学、地理学といった関連分野の研究者とも連携した学際的な発掘調査を実施することが期待される。これにより、文献史料だけでは知り得ない新たな事実が明らかになる可能性がある。

さらに、内ヶ島氏の経済基盤であった鉱山経営の実態についても、より詳細な研究が望まれる。具体的には、鉱山の具体的な運営規模、採掘や精錬の技術水準、産出された金銀の流通経路、そして本願寺教団への献金額の実態などである。例えば、高山市の旧家には、内ヶ島氏が京都の山科本願寺へ金を納めていたという伝承が残っており、その際に用いられたとされる道具類や関連する民謡なども伝えられているが 23 、これを裏付ける具体的な会計記録や書状などの発見が待たれる。

内ヶ島氏研究は、史料の断片性と、天正大地震という特異な終焉によって多くの情報が途絶してしまったという二重の困難を抱えている。しかしながら、彼らが築いた鉱山経営という経済的特色、一向宗という強大な宗教勢力との深い関わり、そして何よりも一瞬にして歴史の表舞台から姿を消した悲劇的な最期といった要素は、戦国時代史研究において依然として大きな魅力と謎を秘めたテーマであり続ける。多角的なアプローチによる今後のさらなる解明が期待される。

6. おわりに

本報告書では、戦国時代の飛騨国白川郷を本拠とした内ヶ島雅氏および内ヶ島一族について、現時点で入手可能な史料や研究成果に基づいて考察を加えてきた。

その結果、以下の主要な知見が明らかになった。第一に、内ヶ島氏は室町幕府の奉公衆の家系から興り、足利義政の命により白川郷に入部し、帰雲城を拠点として支配を確立したこと。第二に、領内の豊富な鉱山資源(特に金銀)の開発に成功し、これを強固な経済基盤としたこと。この経済力は、領国経営の安定のみならず、時には中央の足利将軍家や後の豊臣政権の政策にも影響を与える可能性を秘めていた。第三に、内ヶ島雅氏の時代には、彼自身の篤い一向宗信仰を背景に、本願寺教団と極めて緊密な連携関係を築き、これを外交・軍事戦略の柱としたこと。越後の長尾為景との抗争においては、雅氏自身が直接的な軍事指揮官として戦ったというよりは、本願寺との連絡調整や戦略協議において重要な役割を果たした可能性が高いこと。第四に、雅氏の子孫である内ヶ島氏理の代には、織田・豊臣といった中央集権勢力との間で複雑な関係を経験し、最終的には豊臣秀吉に降伏するものの、鉱山経営の技術を評価されて所領を安堵されたこと。そして最後に、天正13年(1586年)の天正大地震という未曾有の自然災害により、帰雲城と城下町が山津波に飲み込まれて埋没し、氏理をはじめとする一族郎党のほとんどが犠牲となり、内ヶ島氏は瞬時にして滅亡するという悲劇的な末路を辿ったことである。

内ヶ島雅氏は、飛騨の山深い地にありながら、信仰という精神的支柱と、鉱山資源という経済的実力を巧みに組み合わせ、激動の戦国時代を主体的に生き抜こうとした一地方領主であったと言える。彼の生涯と彼が率いた内ヶ島一族の興亡は、戦国時代の多様な地域権力のあり方や、宗教勢力と武士との関係、そして時には人の力の及ばない自然の猛威が歴史を大きく左右するという厳然たる事実を我々に示している。

確かに、内ヶ島氏に関する史料は断片的であり、特に雅氏や氏利の具体的な事績については未解明な点も多く残されている。しかし、本報告書が、この悲運の戦国武将・内ヶ島雅氏、そして特異な歴史を辿った内ヶ島一族への関心を僅かなりとも喚起し、今後の更なる研究進展への一助となるならば、望外の喜びである。

引用文献

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  12. 白川郷の埋蔵金を追え!地下約14メートル、戦国時代の地層の発掘調査を現地からライブ配信!3度目の挑戦でついに歴史的発見か!? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=x4XWndbvwZU
  13. 我が国の鉛需給の変遷と世界大戦前後の 鉛需給動向 - JOGMEC金属 ... https://mric.jogmec.go.jp/wp-content/old_uploads/reports/resources-report/2007-11/MRv37n4-08.pdf
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