徳川家康の天下統一と江戸幕府の創設を支えた家臣団には、数多の武将や官僚が存在する。その中にあって、内藤清成(ないとう きよなり)という名は、知る人ぞ知る存在でありながら、その実像は必ずしも広く知られてはいない。一般的には、主君・家康の小姓から身を起こし、二代将軍・秀忠の傅役(ふやく)、そして関東総奉行という要職を歴任した忠実な側近として語られる。しかしその一方で、キャリアの絶頂期に突如として家康の勘気を被り、籠居を命じられた悲運の人物という側面も持つ。
本報告書は、この内藤清成という一人の武将の生涯を、単なる経歴の追跡に留めず、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。彼の出自の謎、徳川政権黎明期における行政手腕、江戸・新宿の都市形成に与えた影響、そして栄光からの転落の裏に潜む政治的力学に至るまで、現存する史料を基に深く掘り下げ、その歴史的価値を再評価する。
報告を進めるにあたり、まず一点明確にしておくべきことがある。同時代に徳川家に仕えた重臣に、内藤信成(ないとう のぶなり)という人物が存在する。信成は家康の異母弟ともされ、後に関東総奉行とは異なるキャリアを歩み、越後村上藩の藩祖となった武将である 1 。本報告で対象とするのは、弘治元年(1555年)に生まれ、慶長13年(1608年)に没した修理亮清成(しゅりのすけ きよなり)であり、この両者を明確に区別することが、清成個人の功績を正しく理解する上での第一歩となる 3 。
内藤清成の生涯を辿る上で、まず直面するのがその出自の複雑さである。彼は弘治元年(1555年)、三河国岡崎において、竹田宗仲(たけだ むねなか)なる人物の子として生を受けた 4 。しかし、この実父・宗仲がどのような人物であったか、その出自や具体的な実績を伝える史料は極めて乏しく、その人物像は歴史の霧に包まれている 5 。
だが、清成が自身のルーツを深く心に刻んでいたことは、後年の彼の行動から明らかである。彼は関東総奉行として権勢を誇るようになった後、慶長8年(1603年)、自らの所領であった相模国座間宿に、実父・宗仲の菩提を弔うための寺院「宗仲寺」を建立している 5 。この事実は、彼が公的な成功の陰で、自らの原点である竹田の血筋を忘れることなく、父への深い敬愛の念を抱き続けていたことを物語っている。
清成の運命を大きく変えたのは、徳川家譜代の家臣である内藤忠政の養子となったことであった 5 。この養子縁組により、彼は竹田宗仲の子から、徳川家臣団の中核を成す譜代層の一員「内藤弥三郎」へと生まれ変わった。史料によれば、彼は19歳という若さで内藤家の家督を継いだとされる 5 。この経緯は、彼自身の才覚か、あるいは何らかの政治的配慮があったのか定かではないが、彼の生涯における最初の、そして最大の飛躍の機会となったことは間違いない。
内藤家の当主となった清成は、浜松城において徳川家康に召し出され、小姓として仕え始める 3 。主君の最も近くに侍る小姓という役職は、単なる身辺雑務係ではない。それは、主君の人柄や思考を昼夜を問わず直接学び、人間的な信頼関係を築くための重要な登竜門であった。清成がこの小姓時代に家康から得た深い信任こそが、その後の異例とも言える出世街道の確固たる基盤となったのである。
彼のキャリアは、徳川譜代の「内藤家」という公的な立場によって切り開かれたが、その精神的な支柱には、出自不明の実父「竹田宗仲」への想いが存在した。この公私の二重性が、内藤清成という人物の複雑な内面を形成していたと考えられる。
家康の小姓として着実に信頼を積み重ねた清成に、次なる大きな転機が訪れる。天正8年(1580年)、当時26歳であった彼は、家康の三男にして世子である徳川秀忠の傅役(ふやく)に任命されたのである 4 。この時、秀忠はわずか2歳の幼児であった。
この人事は、家康が清成の忠誠心や実務能力のみならず、その人格そのものを高く評価していたことの何よりの証左である。後継者の傅役は、学問や武芸を教える単なる教育係に留まらない。将来の将軍の人間形成に絶大な影響を与え、その後の政治的立場をも左右する、極めて重要な役職であった。この大役には、後に常陸国江戸崎藩主となる青山忠成も共に任命されており、この二人が若き秀忠を支える側近の中核を形成していくことになる 12 。
清成の重要性は、徳川家の歴史的転換点においても発揮された。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により徳川家が三河から関東へ移封されるという一大事業において、清成は鉄砲隊を率いて先陣を務めるという大役を担った 9 。
これは、未だ服従せぬ勢力が残る新領国・江戸へ、徳川軍の先頭に立って入ることを意味し、軍事指揮官としての能力と、新天地の平定を託されたことの証であった。この先陣の功績は、彼の武人としての名誉を高めると同時に、後の関東における広大な屋敷地の拝領へと繋がる布石となったと考えられる。
このように、内藤清成は家康からの「個人的な信頼」(小姓として)と、秀忠への「公的な奉仕」(傅役として)という二つの軸で、その地位を確立していった。家康と秀忠という、徳川の二つの権力源泉の双方に強固な繋がりを持つという彼の特異な立場が、彼を次なる要職へと押し上げる原動力となった。しかし、この「二重の信頼」は、皮肉にも後の彼の運命に影を落とす遠因ともなっていくのである。
関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が事実上の天下人となると、その本拠地である関東の統治体制の整備が急務となった。慶長6年(1601年)、この重要課題を担うべく、内藤清成は青山忠成、そして家康の謀臣として名高い本多正信と共に「関東総奉行」に任命された 4 。これは、文禄元年(1592年)に設置された「関東庶務奉行」を整備・拡充したものであり、江戸幕府初期における関東統治の中枢機関であった 4 。
関東総奉行の権限は絶大なものであった。その支配領域は、広大な関東の農村地帯から、建設途上の新都・江戸の市中にまで及び、さらには旗本や代官といった幕府直属の役人までも規制する強大な力を持っていた 4 。治安維持、租税徴収、インフラ整備、訴訟の裁断など、その職掌は広範にわたり、事実上、関東一円の行政・司法・警察権を掌握する、後の老中、町奉行、勘定奉行の機能を併せ持ったかのような特設機関であった。清成は江戸町奉行も兼務したとの記録もあり、江戸の都市行政において中心的な役割を果たしていたことが窺える 4 。
この三奉行体制は、それぞれの得意分野を活かした巧みな役割分担の上に成り立っていた。史料によれば、内藤清成と青山忠成には与力・同心が付属しており、これは彼らが実務行政と治安維持を担う執行部隊の長であったことを示している 4 。特に清成は、秀忠の傅役という経歴から、新将軍となる秀忠との連携を密にし、江戸の民政や都市基盤整備といった実務面で辣腕を振るったと推察される。
一方で、本多正信は家康の「友」とまで呼ばれた腹心であり、個別の行政実務よりも、幕政全体を見渡す大局的な戦略立案や政務調整を担っていたと考えられる 20 。この三者の関係性を以下の表にまとめる。
表1:関東総奉行三名の役割比較
項目 |
内藤清成 |
青山忠成 |
本多正信 |
||
出自・背景 |
譜代・内藤家養子 5 |
竹田宗仲の実子 5 |
譜代・青山家 12 |
元三河一向一揆方 20 |
|
主君との関係 |
家康の小姓 5 |
秀忠の傅役 5 |
家康の近習 12 |
秀忠の傅役 12 |
家康の謀臣 21 |
主な職掌(推定) |
江戸の民政・都市計画 19 |
実務行政・治安維持 |
関東の広域行政 18 |
実務行政・治安維持 |
幕政全体の戦略・調整 22 |
付属組織 |
与力・同心あり 4 |
与力・同心あり 16 |
付属の記述なし |
||
所領(総奉行就任時) |
2万1千石 4 |
2万5千石(加増後) 12 |
1万石 20 |
この表が示すように、「秀忠側近の実務家グループ」である清成・青山と、「家康の最高顧問」である本多正信という構造が見て取れる。関東総奉行という職制は、徳川幕府が全国支配を確立する以前の、関東という限定された領国を効率的に経営するために創設された、過渡期の統治機構であった。その強力な権限は、法制度が未整備な時代にあって、奉行個人の裁量と能力に大きく依存していた。この機関が清成らの失脚と共に消滅したという事実は 16 、徳川の統治体制が、カリスマ的な個人に依存する段階から、恒久的な官僚機構へと移行する画期的な出来事であったことを物語っている。内藤清成は、まさしくこの過渡期の統治を担った、最後の巨頭の一人であったと言えよう。
内藤清成の名を後世に最も広く知らしめているのは、政治的な功績以上に、一つの伝説と、それが生み出した広大な土地であろう。それは「駿馬伝説」として知られる逸話である 11 。
伝説によれば、ある時、清成は家康の鷹狩に同行した。その際、家康は戯れに「その馬に乗り、ひと息に駆け巡った範囲の土地をそなたに与えよう」と告げたという。主君の半ば意地悪とも取れる要求に対し、清成は愛馬に鞭を打った。驚くべきことに、その馬は広大な土地をひと息に駆け巡ってみせたが、役目を果たし終えると同時に力尽き、息絶えてしまったとされる 11 。
この伝説は、清成の馬術の巧みさ、主君の要求に応えようとする忠誠心、そして広大な土地を拝領したことの正当性を象徴的に物語る逸話として、長く語り継がれた。興味深いことに、同僚であった青山忠成にも同様の伝説が伝わっていることから 5 、これは当時の大名が広大な土地を得た経緯を民衆に分かりやすく説明するための、一種の類型的な物語であった可能性も考えられる。
この伝説によって清成が拝領したとされる土地は、現在の新宿御苑を中心とする、四谷、代々木、千駄ヶ谷、大久保の一部にまで及ぶ広大なものであった 3 。その面積は20万坪以上に及んだとも伝えられている 24 。
この土地は、信州高遠藩主となる内藤家の中屋敷(あるいは下屋敷)として、幕末まで代々受け継がれた 25 。明治維新後、この屋敷地は国に上納され、近代農業振興のための「内藤新宿試験場」が設けられた。その後、宮内省所管の皇室庭園となり、第二次世界大戦後、国民公園「新宿御苑」として一般に公開され、今日に至っている 23 。
清成の遺産は、新宿の地名そのものにも刻まれている。元禄11年(1698年)、甲州街道の新たな宿場を設けるため、幕府は内藤家の中屋敷地の一部を返上させた。こうして誕生したのが「内藤新宿」である 27 。これが、日本有数の繁華街「新宿」という地名の直接の由来となった 19 。
一人の武将が拝領した土地が、三百数十年の時を経て、大都市東京の中核をなす地名の起源となったのである。内藤清成の最大の遺産は、政治的な功績以上に、東京という大都市の地理と歴史にその名を深く刻み込んだことにあると言えるかもしれない。駿馬伝説という物語、新宿御苑という物理的空間、そして「新宿」という地名。これら三つが結びつくことで、彼の存在は単なる歴史上の人物に留まらず、都市のアイデンティティの一部として生き続けている。彼のキャリアが個人的な悲劇で終わるのとは対照的に、彼が手にした土地は永続的な価値を持ち続けた。この事実は、歴史のダイナミズムと皮肉を示す好例である。
関東総奉行として江戸の町づくりに辣腕を振るい、順風満帆なキャリアを歩んでいた内藤清成の運命は、慶長11年(1606年)1月、突如として暗転する。
事件の表向きのきっかけは、些細なことであった。「鷹場の狩猟罠事件」である。大御所となっていた家康が郊外で鷹狩を行った際、禁猟区であるはずの御鷹場に、無許可で狩猟用の罠が仕掛けられているのが発見された。調査の結果、この罠の設置を許可したのが、関東総奉行である内藤清成と青山忠成であったとされたのである 11 。
これに家康は激怒。結果として、二人は将軍・秀忠から籠居(自宅謹慎)を命じられ、事実上、幕政の中枢から失脚した 4 。同年11月には赦免されたものの 4 、彼らが再び政治の表舞台に返り咲くことはなかった。長年の功績と、関東総奉行という地位の重要性を考えれば、この処罰はあまりに厳しく、事件の裏に複雑な政治的力学が働いていたことを強く示唆している。
この突然の失脚の真相については、いくつかの説が唱えられている。
第一に、「大御所家康と将軍秀忠の権力闘争説」である 5 。慶長10年(1605年)に将軍職を秀忠に譲ったとはいえ、依然として実権を握り続けていた家康が、秀忠の傅役であり側近中の側近であった清成と青山を罰することで、自らの絶対的な権威を再確認し、新将軍とその周辺を牽制したとする見方である。
第二に、「本多正信による陰謀説」が挙げられる 5 。同じ関東総奉行でありながら、家康の絶対的な信任を得ていた謀臣・本多正信が、秀忠に近い清成・青山を政敵とみなし、その影響力を削ぐために仕組んだとする説である。かつて三河一向一揆で家康に敵対した過去を持つ正信は 20 、譜代の重臣たちとは一線を画す存在であり、自らの地位を盤石にするために政敵を排除する動機は十分考えられる。
第三に、より構造的な「幕府統治体制の転換に伴う整理説」である。前章で述べた通り、関東総奉行という属人的で強大な権限を持つ役職から、より恒久的で官僚的な組織へと幕府の統治システムが移行する過程で、旧来の功臣を整理する必要があったとする見方である。この説に立てば、鷹場の事件は、彼らを円満に政権から退場させるための口実に過ぎなかったということになる。
これらの説は相互に排他的なものではなく、複合的に絡み合って清成の失脚を招いたと考えるのが最も妥当であろう。事件が秀忠の将軍就任の翌年に起きているというタイミングは、これが徳川政権の権力移行期に発生した「構造的な事件」であったことを物語っている。内藤清成は、鷹場事件という引き金をきっかけに、①家康による秀忠派への牽制、②本多正信ら政敵による排除、③幕府の官僚制への移行という、複数の政治的ベクトルが交差した一点で、その犠牲となったのである。彼は、徳川政権が安定期へと移行する過程で必要とされた、非情な人事刷新の対象となった悲劇の功臣であった。
籠居を命じられて以降、内藤清成は行政の第一線から完全に遠ざかった 11 。赦免はされたものの、かつて関東一円に号令した権勢を取り戻すことはなく、不遇の晩年を送ったと考えられる。
そして失脚からわずか2年後の慶長13年(1608年)10月20日、清成は江戸の屋敷にて、54年の生涯を閉じた 3 。その死は病死と伝えられるが、志半ばで政治生命を絶たれた無念が、彼の心身に影響を与えたことは想像に難くない。
清成の亡骸は、相模国座間宿の宗仲寺に葬られた 5 。この寺は、彼自身が失脚するわずか3年前の慶長8年(1603年)、実父である竹田宗仲の菩提を弔うために創建したものであった 5 。
栄華を極めた時期に、その出自さえ定かではない実父のための寺を建立し、自らもそこに眠ることを選んだという事実は、彼の人間性を深く物語っている。宗仲寺の墓所には、実父・宗仲夫妻、清成、そして跡を継いだ長男・清次の墓碑が、今も静かに並んで祀られている 8 。これは、彼が武士としての公的なキャリアの裏で、一個人の息子としての敬愛と自身のルーツへの想いを終生持ち続けていたことの証である。
内藤清成個人のキャリアは悲劇的な結末を迎えたが、彼が築いた礎は、その子孫によって受け継がれ、大きな実を結ぶことになる。
清成の家督は、長男の清次、次いで次男の清政が継承した 5 。清成自身は信州高遠の藩主にはなっていないが、彼が徳川家中で築き上げた多大な功績と、関東総奉行として得た2万石を超える所領が基礎となり、彼の子孫は後に信州高遠3万3千石の譜代大名として封じられるに至った 25 。このため、内藤清成は、江戸時代を通じて存続した高遠藩内藤家の事実上の初代(藩祖)として位置づけられている 5 。
個人の一生は失脚という悲劇で終わったが、彼は「家」を大名へと押し上げ、幕末まで存続させるという、当時の武士としての最大の責務を果たしたのである。彼の晩年の無念と、彼が遺した「高遠内藤家」という永続的なレガシーの対比は、個人の一生を超えて家名を後世に残すことを至上の価値とした、江戸時代の武家社会のあり方を象徴している。
内藤清成の生涯を俯瞰するとき、そこには栄光と悲劇、功績と不運が複雑に織りなされている。彼は家康と秀忠という二代の主に忠実に仕え、特に徳川政権がその支配体制を確立する黎明期において、関東の統治と新都・江戸の行政基盤整備に絶大な功績を挙げた、極めて有能な行政官僚であった。
しかしその一方で、彼は徳川の権力が初代から二代へと移行する過渡期に発生した、非情な政治力学の渦に巻き込まれ、キャリアの絶頂から突き落とされた悲劇の人物でもあった。彼の失脚は、個人的な失策というよりも、徳川幕府という巨大な組織が、属人的な統治から官僚的なシステムへと変態を遂げる過程で生じた、必然的な軋轢の犠牲であったと言える。
内藤清成を、単に「家康の忠臣」や「失脚した武将」といった一面的な評価から解放し、歴史におけるその真の価値を再定義する必要がある。彼は、戦国の世から泰平の世への移行期に、新たな統治システムの構築に心血を注いだ「創業者」の一人であり、その行政手腕はより高く評価されるべきである。
さらに、彼が拝領した広大な土地が今日の新宿の礎となり、その名が地名として現代にまで残っていることは、彼が東京の都市形成史においても記憶されるべき重要人物であることを示している。内藤清成の生涯は、徳川幕府確立期の光と影を一身に体現した、稀有な事例として歴史に深く刻まれているのである。