最終更新日 2025-06-15

加藤貞泰

「加藤貞泰」の画像

加藤貞泰の生涯―豊臣から徳川へ、激動の時代を生き抜いた藩祖の実像

序論:乱世の継承者、加藤貞泰

本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、伊予大洲藩の初代藩主である加藤貞泰(かとう さだやす)の生涯を、多角的な史料を駆使して包括的に解明することを目的とする。彼の生涯は、豊臣政権から徳川幕府へと移行する時代の激動を体現しており、その軌跡は近世外様大名の典型的な生存戦略と苦悩を浮き彫りにする。

父・加藤光泰は、美濃の斎藤氏、織田氏を経て豊臣秀吉に仕え、甲斐国に24万石という破格の所領を与えられた実力派の武将であった 1 。しかし、その朝鮮出兵中の急死は、当時わずか14歳の貞泰に、巨大な政治的遺産と同時に、豊臣政権中枢との軋轢という負の遺産をもたらした。

貞泰の生涯は、豊臣政権の権力基盤が揺らぎ、徳川家康が台頭する時代の転換点と完全に重なる。彼の選択と行動は、個人の資質のみならず、時代の大きなうねりの中で形成されたものであった。父の死による逆境から始まり、関ヶ原の戦いでの決断、度重なる転封を経て、最終的に伊予大洲に250年以上続く藩の礎を築くに至るまでの道のりを詳細に追うことで、一人の武将の実像に迫るとともに、近世大名成立過程の一断面を明らかにしたい。


加藤貞泰 年表

西暦 (和暦)

年齢

主要な出来事・役職

領地・石高

関連史料

1580 (天正8)

1

加藤光泰の嫡男として誕生

-

4

1593 (文禄2)

14

父・光泰が朝鮮で陣没

(父の遺領:甲斐24万石)

3

1594 (文禄3)

15

家督相続。美濃黒野へ大幅減転封される。

美濃黒野4万石

4

1600 (慶長5)

21

関ヶ原の戦いで当初西軍に属するも東軍に転じ、戦後、水口城を攻略。

美濃黒野4万石

4

1610 (慶長15)

31

伯耆米子へ加増移封される。

伯耆米子6万石

4

1614 (慶長19)

35

大坂冬の陣に徳川方として参陣(天満口配備)。

伯耆米子6万石

7

1615 (元和元)

36

大坂夏の陣に参陣(神崎口配備)。

伯耆米子6万石

7

1617 (元和3)

38

伊予大洲へ転封、初代大洲藩主となる。

伊予大洲6万石

4

1623 (元和9)

44

江戸藩邸にて死去。

伊予大洲6万石

4


第一章:出自と家督相続―巨大な遺領の喪失と再出発

誕生と一族の背景

加藤貞泰は、天正8年(1580年)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣であった加藤光泰の嫡男として誕生した 4 。生誕地については、父・光泰が知行を得ていた近江国磯野村(現・滋賀県長浜市高月町)とする説が一般的である 2 。一方で、高野山の墓石調査からは美濃国岐阜の橋詰(現・岐阜市役所南東)であった可能性も指摘されている 10 。母は、同じく秀吉の家臣であった一柳藤兵衛の娘である 5

父・光泰は、秀吉の天下統一事業において軍功を重ね、小田原征伐後には、徳川家康が関東に移封された後の旧領に隣接する甲斐国24万石を与えられた 1 。この配置は、家康を牽制するという秀吉の戦略上、極めて重要な意味を持ち、光泰がいかに厚い信頼を得ていたかを物語っている。貞泰が本来継承すべきであった家の格は、このような背景を持つものであった。

父の急死と相続を巡る暗雲

栄華を誇った加藤家であったが、文禄2年(1593年)、貞泰が14歳の時に大きな転機が訪れる。父・光泰が文禄の役の帰途、朝鮮の西平浦の陣中にて病没したのである 1 。享年57歳であった。

この光泰の死には、当時から不穏な噂が付きまとっていた。かねてより対立していた石田三成による毒殺説である。大洲藩の藩史『北藤録』によれば、光泰は宮部長房の陣で饗応を受けた後に発病し、急逝したと記されており、これが三成の差し金であったとされている 3 。この説の真偽を直接証明する史料はないものの、当時ある程度信じられていたことは事実のようであり、この一件が、後の関ヶ原の戦いにおいて貞泰が徳川方に与する遠因になったと推測されている 1

24万石から4万石へ―若き当主の試練

父の死後、貞泰は家督を継承するが、甲斐24万石の広大な領地は豊臣政権によって没収され、新たに美濃国黒野4万石へと大幅に減らされた上での転封を命じられた 3

この苛烈な処分の表向きの理由は、貞泰が14歳と「若年」であったこと 3 、そして父・光泰と石田三成ら奉行衆との「不和」であったこと 7 が挙げられている。しかし、この減封の背景には、より構造的な問題が存在した。豊臣政権下では、一代で成り上がった大名の死後、その子息への家督相続に際して、難癖をつけて減封・転封するという事例が頻発していた。例えば、丹羽長秀の子・長重は123万石から15万石へ、蒲生氏郷の子・秀行は91万石から12万石へと、いずれも大幅な減封を経験している 13

これは、秀吉が二世家臣の忠誠心を簡単には信用せず、一度所領をリセットした上で、改めて奉公させて忠誠を試すという人事政策をとっていたためと考えられる 14 。つまり、貞泰の減封は、父と三成の個人的な確執という要因に加え、豊臣政権が抱えるシステム上の問題、すなわち二世大名への厳しい継承方針が複合的に作用した結果であった。この経験は、貞泰が単なる不運な後継者ではなく、豊臣政権末期の構造的な問題の渦中にいたことを示している。そして、この理不尽ともいえる体験は、彼のその後の慎重かつ現実的な政治判断の礎となった可能性が高い。

家臣団の再編成と経営基盤の再構築

石高が6分の1以下に激減したことで、貞泰は深刻な問題に直面した。甲斐24万石時代には670名にも上ったとされる大規模な家臣団を維持することは不可能となり、その多くに暇を与え、解雇せざるを得なかった 2 。父の代から仕える譜代の家臣を中心に、4万石の身代に見合った規模へと家臣団を再編成する必要に迫られたのである 2 。この苦境の中での藩経営の再スタートが、後の黒野藩における堅実な領国経営へと繋がっていくことになる。

第二章:美濃黒野藩主時代―若き領主の藩政手腕

黒野城の築城と領国経営の開始

文禄3年(1594年)、美濃国黒野(現・岐阜県岐阜市)に入封した15歳の貞泰は、逆境からの再出発の象徴として、新たな本拠地となる黒野城の築城に着手した 10 。この時期、彼は従五位下・左衛門尉に叙任され、豊臣姓を下賜されており、形式上は豊臣大名の一員として認められていた 4

城下町振興策―「楽市」の導入

若き領主であった貞泰は、内政において優れた手腕を発揮した。慶長15年(1610年)正月、彼は城下町の繁栄を企図し、当時としては先進的な経済政策である「楽市」の免許を町に与えた 1 。これは、特定の商人組合の特権を廃し、自由な商業活動を認めるもので、織田信長が用いたことで知られる政策である。貞泰はさらに、町人に対して土地の年貢と諸役を5年間免除するという大胆な措置を講じ、商工業の振興を図った 1 。しかし、この意欲的な政策は、同年7月に貞泰が伯耆米子へ転封となったため、わずか半年という短期間で幕を閉じることになった 1

治水事業への注力―「尉殿堤(じょうどのつつみ)」

貞泰はまた、領民の生活安定を重視し、治水事業にも力を注いだ。領内を流れる長良川の分流であった古々川は、しばしば氾濫して水害をもたらしていたため、その対策として堤防の築造工事を行った 1 。この堤防は、貞泰の官位である左衛門尉にちなんで「尉殿堤」と呼ばれ、後世まで領民に親しまれたという 1

この治水事業もまた、彼の転封によって未完に終わったが、領民を慈しむ為政者としての姿勢がうかがえる。しかし、この善政が皮肉にも彼の転封を招いた可能性が指摘されている。一説によれば、貞泰が築いた尉殿堤が、長良川を挟んで対岸にある加納藩の堤防よりも高く頑丈であったため、加納藩主・奥平信昌(徳川家康の娘婿)の正室である亀姫が「黒野の堤のせいで加納側に水が溢れる」と父・家康に訴え出たことが、貞泰の転封の一因になったという 1

この説の真偽は定かではないが、関ヶ原の戦功に対する恩賞とされる米子への移封が10年も後に行われた不自然さを考えると、表向きの理由の裏に、幕府有力者との軋轢という政治的な実情があった可能性は否定できない。これは、貞泰の行動が常に中央政権の力学に左右されていたことを示す好例であり、彼の巧みな領国経営が、結果として新たな政治的困難を招いてしまったことを示唆している。

第三章:関ヶ原の戦い―天下分け目の決断と武功

東軍への転向―宿命と戦略

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、加藤貞泰は極めて難しい立場に置かれた。当初、彼は西軍に属し、石田三成の命によって竹中重門らと共に尾張犬山城の守備に就いていた 1

しかし、貞泰は東軍への寝返りを決意する。この決断の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、父・光泰の代からの石田三成との因縁である 1 。父の死に三成が関与したという疑念は、貞泰にとって西軍に与しがたい大きな理由であっただろう。第二に、徳川家康による周到な調略である。貞泰は、家康の誘いに応じ、弟の加藤平内(光直)を人質として家康のもとに送り、忠誠を誓った 1

彼の行動は単なる寝返りに留まらなかった。犬山城内において、同じく西軍に加わっていた他の美濃の武将たちを説得し、東軍に味方させるという重要な役割を果たしたのである 1 。これにより、東軍は美濃・尾張国境の要衝である犬山城を戦闘なしに確保し、美濃制圧を有利に進めることができた。これは、貞泰の決断が戦局に影響を与える戦略的な行動であったことを示している。

本戦における役割―錯綜する記録

関ヶ原の本戦における貞泰の具体的な動向については、史料によって記述が異なり、その実像は錯綜している。

一つの説は、彼が前線で積極的に戦闘に参加したとするものである。この説によれば、貞泰は黒田長政や竹中重門と共に、関ヶ原の西、丸山烽火場付近に布陣した 10 。そして、開戦後は島津義弘の部隊と激しく交戦したとされている 4 。この記述は、大洲加藤家の藩史である『北藤録』など、貞泰の武功を強調する史料に見られるものである 21

一方で、別の説も存在する。藩の記録である『大洲秘録』によれば、貞泰は家康の直接の命令により、西軍の主力部隊が籠る大垣城を牽制するため、主戦場からやや離れた美濃国本田(現・岐阜県瑞穂市本田)に在陣していたとされる 21 。大垣城には石田三成をはじめとする西軍の主力がおり、彼らが関ヶ原の本隊と合流するのを防ぐという任務は、極めて重要な戦略的役割であった。

これらの記録の相違を鑑みると、貞泰の役割は、派手な突撃といった前線での武功よりも、むしろ東軍の勝利を盤石にするための戦略的な配置(犬山城の無力化、大垣城の牽制)に主眼があったと評価するのが妥当であろう。藩の公式史である『北藤録』が、主君の武功をより華々しく記録するのは自然なことであり、両方の記録が部分的に真実を伝えている可能性も考えられる。主たる任務は大垣城の牽制であり、その後の追撃戦や、有名な島津軍の敵中突破の際に小規模な戦闘があったという解釈も可能である。

戦後の論功―水口岡山城攻略

関ヶ原の本戦が東軍の勝利に終わった後も、貞泰の戦いは続いた。彼は稲葉貞通と共に、西軍の長束正家が守る近江水口岡山城の攻略に向かった 4 。この城を落としたことは、東軍の背後の安全を確保し、戦後処理を円滑に進める上で大きな功績であった。

この一連の働きが評価され、戦後、貞泰は徳川家康から美濃黒野4万石の所領を安堵された 1 。西軍から東軍へ寝返った大名の多くが改易や減封の憂き目に遭う中、本領を維持できたことは、彼の政治判断と行動が成功であったことを示している。

第四章:伯耆米子への移封―徳川体制下での新たな段階

6万石への加増移封―恩賞か、左遷か

関ヶ原の戦いから10年後の慶長15年(1610年)7月、加藤貞泰に転機が訪れる。2万石を加増され、合計6万石の大名として、伯耆国米子藩への転封を命じられたのである 4

表向きは、関ヶ原の戦功に対する恩賞とされている。しかし、戦功に対する褒賞としては10年という歳月は不自然に長く、その背景には別の政治的意図があったと推測されている 17 。前章で触れた、美濃黒野での治水事業「尉殿堤」が、隣接する加納藩(藩主は家康の娘婿)との間に軋轢を生み、これが転封の直接的な引き金になったという説は非常に説得力がある 1 。幕府としては、家康の縁者とのトラブルを穏便に解決するため、貞泰を美濃から動かす必要があった。その際、体面を保たせるための配慮として、2万石の加増を伴う形での転封という措置をとったと考えられる。この一件を通じて、貞泰は徳川体制下における外様大名の立場、すなわち幕府の意向には逆らえないという現実を痛感したことであろう。

米子藩での統治と幕府への奉公

伯耆米子藩主として、貞泰は元和3年(1617年)までの7年間、統治にあたった 25 。この間に新たに13名の家臣を召し抱えるなど、加増された石高に見合うよう藩体制の拡充に努めた記録が残っている 2

また、父・光泰の菩提を弔うため、米子の地に曹渓院を建立した 27 。この寺院は、後に彼が伊予大洲へ移る際に共に移され、大洲加藤家の菩提寺となっている 29

米子藩主時代、貞泰は徳川幕府への奉公も忠実に果たしている。慶長18年(1613年)から翌年にかけては、江戸城の普請手伝いを命じられており、外様大名として課せられた公役を滞りなく務めていたことがわかる 7

第五章:大坂の陣と伊予大洲への道―加藤家安泰の礎を築く

大坂の陣での戦功

徳川家と豊臣家の最終決戦となった大坂の陣において、加藤貞泰は完全に徳川方の大名として参陣した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、天満口の守備を担当した 7 。翌元和元年(1615年)の夏の陣では、神崎口に布陣し、戦功を立てたと記録されている 4

かつて父・光泰が仕えた豊臣家を、今度は徳川方として滅亡に追い込む側に立ったことは、貞泰にとって複雑な心境であったかもしれない。しかし、この戦いでの忠勤が、彼の家を近世大名として存続させるための最後の、そして決定的な試金石となった。

伊予大洲6万石への転封―西国大名配置の一環

元和3年(1617年)、大坂の陣での戦功を理由として、貞泰は伊予国大洲への転封を命じられた 1 。しかし、その石高は伯耆米子時代と同じ6万石であった。戦功に対する恩賞としては、石高の加増がないこの転封は不可解であり、その裏には幕府のより大きな戦略的意図があったと考えられる 17

この転封の背景には、西国における大名の再配置という幕府の政策があった。この時期、鳥取藩には池田光政が32万石という大封で入ることになっており、それに伴い、隣接する米子を信頼できる大名に任せるか、あるいは空ける必要が生じた 17 。幕府にとって、貞泰はこれまでの経緯から「従順で扱いやすい大名」と見なされていた可能性が高い 17 。そのため、彼を伊予大洲へ動かすことで、伯耆・因幡地方の再編を円滑に進めようとしたのである。

この転封は、貞泰個人への恩賞というよりも、幕府の天下泰平に向けた大名配置戦略の一環であった。彼はその戦略の中で、いわば都合の良い駒として動かされた側面が強い。しかし、この一見すると不利益にも見える転封が、結果的に加藤家を伊予大洲の地に根付かせ、250年以上にわたる安定した治世の礎を築くことになった。彼の「文句を言わない」と評されたかもしれない性格が、結果として家の存続に繋がったと言えるだろう。

初代大洲藩主としての出発

元和3年(1617年)8月、貞泰は132人の給地侍をはじめとする家臣団を率いて、伊予大洲城に入部した 2 。彼は初代藩主として、藩体制の確立に鋭意努めた 7 。その治世は短かったが、大坂城の改築普請の手伝いを務め 7 、元和8年(1622年)には幕府の証人(人質)制度に従い、妻子を江戸に移すなど 7 、幕府への忠誠を態度で示し続けた。

しかし、その治世は長くは続かなかった。元和9年(1623年)5月22日、貞泰は江戸の藩邸にて病没した 4 。享年44。彼の藩主としての在位期間はわずか7年であったが、彼が築いた基礎の上に、大洲藩加藤家は明治維新まで13代にわたり存続することになる 1

第六章:人物像と文化的側面

文武両道の武将

加藤貞泰の人物像は、武勇と教養を兼ね備えた、時代の転換期にふさわしい武将として伝えられている。藩史『北藤録』は、彼を「人となり仁愛深くして節義を重んじ、武事に達し」たと高く評価している 7 。特に武芸においては、八条流馬術に長じ、師から「無明一巻抄」という秘伝を授かるほどの達人であった 7

この文武両道の気風は、父・光泰から受け継いだものかもしれない。光泰もまた、戦陣の合間に『論語』や『孟子』に親しんだ篤学の人であったとされ、その朝鮮本は家宝として子孫に伝えられた 7

風雅を好む文化人

貞泰は、武辺一辺倒の人物ではなかった。公務の暇な日には、「詩を賦し歌を詠じ、連歌を好み、志を風雅に遊しめけり」と記録されており、洗練された文化人としての一面を持っていた 7 。この藩主の好学・風雅の気風は、その後250年にわたる大洲藩の藩風となり、後代まで受け継がれていくことになる 31

家族と後継者

貞泰は、正室に妙金禅定尼を、継室には岸和田藩主・小出吉政の娘(法眼院)を迎えている 5 。これにより、他の大名家との姻戚関係を築き、家の安定を図った。

彼の跡は、長男の加藤泰興が継ぎ、大洲藩二代藩主となった 4 。一方、次男の加藤直泰には1万石が分知され、支藩である新谷藩が成立した 4 。しかし、この分知を巡っては、兄の泰興が当初同意せず、貞泰の死後、兄弟間に長年の対立が生じることになった 4 。この問題の源流は、貞泰の死に際して生まれたものである。


加藤貞泰 関係人物一覧

人物名

貞泰との関係

役割・影響

関連史料

加藤光泰

豊臣秀吉の信頼厚い武将。彼の死と三成との確執が貞泰の運命を大きく左右した。

1

石田三成

父の政敵

貞泰の減封の一因とされ、関ヶ原で貞泰が東軍につく動機となった。

1

徳川家康

主君

関ヶ原で味方し、以降仕える。貞泰の所領を安堵し、移封を命じた。

1

加藤光直(平内)

関ヶ原の際、兄に代わり家康への人質となるなど、兄を支えた。

1

小出吉政

継室の父

姻戚関係を結ぶことで、大名家としての安定を図った。

5

加藤泰興

長男・後継者

大洲藩二代藩主。父の築いた基盤を継承し、藩政を安定させた。

4

加藤直泰

次男

新谷藩初代藩主。分知を巡り、兄・泰興と対立の火種が残った。

4


中江藤樹との逸話の検証

加藤貞泰にまつわる逸話として、近江聖人と称された陽明学者・中江藤樹とのエピソードがしばしば語られる。それは、母への孝行のために脱藩したいと願う藤樹の崇高な志を汲み、藩主である貞泰が追っ手を差し向けずに見逃した、という心温まる物語である 17

しかし、この逸話は歴史的事実とは異なる。年代を照合すると、その矛盾は明らかである。中江藤樹は慶長13年(1608年)の生まれであり 38 、彼が大洲藩を脱藩したのは寛永11年(1634年)のことである 7 。一方で、加藤貞泰はそれより11年も前の元和9年(1623年)に死去している 4 。したがって、藤樹が脱藩した当時の大洲藩主は、貞泰ではなく、その息子である二代藩主・加藤泰興であった。

この感動的な逸話が、なぜ藩祖である貞泰のものとして語られるようになったのか。それは、彼が築いた「好学の藩風」という文化的イメージが、後世において藩の創業者である貞泰という存在に集約され、象徴的に語られるようになった結果と考えられる。これは、厳密な歴史的事実と、地域で育まれる文化的記憶との間に見られる差異を示す興味深い事例であり、貞泰という人物が、いかに大洲藩の「理想の創業者」として記憶されていったかを物語っている。

結論:加藤貞泰の遺産

加藤貞泰の生涯は、44年という短いものであった。しかし、その生涯は、戦国の終焉と泰平の世の到来という、日本の歴史における最も劇的な転換期を凝縮している。

彼は、父の急死と24万石から4万石への大減封という、ほとんど絶望的ともいえる状況からそのキャリアをスタートさせた。しかし、彼はその逆境に屈することなく、美濃黒野における着実な領国経営、関ヶ原の戦いにおける的確な政治判断、そして大坂の陣や普請手伝いにおける幕府への忠実な奉公を地道に積み重ねた。その結果、家名を再興し、6万石の外様大名として家を存続させることに成功した。この手腕は、再評価されるべきである。

彼の生涯はまた、徳川体制下における外様大名の生存戦略の典型を示している。幕府の意向に翻弄され、時には理不尽とも思える転封を命じられながらも、それに巧みに適応し、最終的に安定した地位を確保した。彼の「文句を言わない」と評されたかもしれない性格は、決して弱さではなく、激動の時代を生き抜くための現実的な処世術であったと言えよう。

伊予大洲における彼の治世はわずか7年であったが、彼が築いた藩政の基礎と、文武を重んじる気風は、その後250年以上にわたって続く大洲加藤家の治世の原点となった。彼の死後、大洲藩は和紙や木蝋といった産業を奨励して発展していくが 39 、その安定した統治基盤は、まさしく貞泰によってもたらされたものである。彼は、戦乱の世の継承者から、泰平の世の「創業者」へとその役割を変え、見事に家名を後世へと繋いだ。加藤貞泰は、その波乱に満ちた生涯を通じて、時代の変化を見極め、家を守り抜いた、真の意味での成功者であった。

引用文献

  1. 黒野城主・加藤左衛門尉貞泰公(かとうさえもんのじょう さだやす) https://kuronojyo.com/katousadayasu.html
  2. 中心に、今治に移動した際に多くの家臣を召し抱えている。 - researchmap https://researchmap.jp/read0110330/published_papers/16575315/attachment_file.pdf
  3. 加藤光泰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0
  4. 加藤贞泰- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%B2%9E%E6%B3%B0
  5. 加藤貞泰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%B2%9E%E6%B3%B0
  6. 加藤氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B0%8F
  7. 一 加藤家の大洲藩就封と初期の加藤家 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8109
  8. 大洲城_もっとお城が好きになる http://ashigarutai.com/shiro003_ohzu.html
  9. 加藤貞泰(かとう・さだやす)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E8%B2%9E%E6%B3%B0-1065999
  10. 戦国武将 竹中家と加藤家の https://ryugen3.sakura.ne.jp/toukou3/dai42kaibennkyoukai.pdf
  11. 加藤光泰- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0
  12. 加藤光泰- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%85%89%E6%B3%B0
  13. 木村吉清 豊臣の天下で成り上がる! (旧題)マイナー戦国武将に転生したのでのんびり生きようと思ったら、いきなり30万石の大名になってしまいました - 娘さんを儂にください - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n7128ha/78/
  14. 結局日本人は家康が大好き…秀吉流ド派手な人事より家康流ドケチ ... https://president.jp/articles/-/76239?page=2
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  18. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
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  32. 大洲藩主加藤家 - わがまちの文化財 - 大洲市ホームページ https://www.city.ozu.ehime.jp/site/bunkazai/41594.html
  33. 加藤 貞泰(かとう さだやす) | ぬるま湯に浸かった状態 https://ameblo.jp/syunpaturyoku/entry-10869835119.html
  34. 愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行) - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7499
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  36. 歴史・文化 | 大洲市公式観光情報【VisitOzu】愛媛県大洲市 https://jp.visitozu.com/story/history
  37. 新谷藩主加藤家 - わがまちの文化財 - 大洲市ホームページ https://www.city.ozu.ehime.jp/site/bunkazai/41598.html
  38. 九 大洲・新谷藩の文教 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8117
  39. 大洲城(愛媛県大洲市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note https://note.com/digitaljokers/n/nbdd22db43e5f
  40. 内子の町並み http://matinami.o.oo7.jp/sikoku/utiko.htm
  41. アトラス出版/刊行目録/大洲歴史探訪 https://userweb.shikoku.ne.jp/atlas/book/200604.html