上杉家臣団と聞けば、多くの人々は軍神・上杉謙信の旗の下、戦場を駆け巡った猛将たちの姿を想起するであろう。柿崎景家や本庄繁長に代表される、武勇をもって名を馳せた武士たちの物語は、戦国時代の華として語り継がれてきた。しかし、上杉家の歴史を深く紐解くと、武勇とは異なる資質で主家を支え、その存続に不可欠な役割を果たした重臣の存在が浮かび上がる。その筆頭格が、本報告書で詳述する千坂対馬守景親(ちさか つしまのかみ かげちか)である。
千坂景親の生涯は、派手な戦功に彩られてはいない。彼の名は、謙信時代の主要な合戦記に頻繁に登場することはない。しかし、彼の真価は戦場ではなく、政権の中枢、情報が錯綜する外交の最前線でこそ発揮された。情報収集、諜報活動、他勢力との交渉、そして国家の進路を左右する冷静な政治的判断――景親は、これらの「智」の力をもって、上杉謙信、景勝という二代の主君に仕え、特に主家が存亡の危機に瀕した関ヶ原の戦い後には、その手腕を遺憾なく発揮し、上杉家の改易という最悪の事態を回避させた最大の功労者の一人となった。
本報告書は、千坂景親という一人の武将の生涯を、その出自から晩年に至るまで丹念に追跡することを目的とする。第一章では、彼が属した千坂一族の歴史的背景と、上杉家における特異な地位を明らかにする。続く第二章、第三章では、謙信・景勝という二人の主君の下で彼が果たした役割を検証する。第四章、第五章では、豊臣政権から徳川政権へと時代が大きく転換する中で、外交官・交渉人として彼がいかに活躍したかを、具体的な史料に基づいて分析する。そして第六章、第七章では、米沢藩における彼の晩年と、後世に与えた影響を考察する。
この一連の分析を通じて、戦国末期から江戸初期という激動の時代を生きた大名家が、いかにして存続を図ったのか、そしてその存続戦略を支えた家臣の役割がいかに多岐にわたっていたのかを解明する。千坂景親の生涯は、我々が抱く「武士」のイメージをより豊かで複眼的なものへと導いてくれる、稀有な事例と言えるだろう。
本報告書の理解を助けるため、千坂景親の生涯と、それに関連する上杉家及び中央政界の主要な出来事を時系列で以下に示す。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主な出来事と千坂景親の動向 |
典拠・備考 |
1536年 |
天文5年 |
1歳 |
5月3日、越後国にて千坂藤右衛門景長の子として誕生 1 。諱は清胤(きよたね)とも伝わる 2 。 |
官途名は対馬守 2 。 |
1575年 |
天正3年 |
40歳 |
2月16日、「上杉家軍役帳」に名が見える 4 。この頃、謙信の本営を警固する親衛隊的な役割を担っていたとされる 1 。 |
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1577年 |
天正5年 |
42歳 |
12月23日、「上杉家家中名字尽手本」に名が見える 4 。 |
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1578年 |
天正6年 |
43歳 |
3月、上杉謙信が急死。家督を巡る「御館の乱」が勃発。景親は一貫して上杉景勝方に与する 5 。乱中、居城の鉢盛城が一時、景虎方の今井右衛門に攻め落とされるも、安田上総介の助力を得て奪還する 4 。 |
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1583年 |
天正11年 |
48歳 |
8月18日、越中国在番の家臣として、羽柴秀吉の使者である寺内素休からの書状を受け取る 7 。 |
この時点で越中方面での軍事・行政活動に関与していたことが確認できる。 |
1586年 |
天正14年 |
51歳 |
主君・上杉景勝の上洛に随行。6月16日、大坂城にて直江兼続と共に千利休の茶会に参加する 1 。 |
豊臣政権との公式な外交の舞台に登場し、上杉家の代表者の一人として遇される。 |
1595年 |
文禄4年 |
60歳 |
伏見城普請総奉行に任命される。同年11月、その功績により伏見留守居役に就任 1 。 |
上杉家の対中央政権外交の最高責任者となる。文禄3年時点での知行は2,176石余であった 8 。 |
1598年 |
慶長3年 |
63歳 |
上杉家の会津120万石への移封に伴い、陸奥国大沼郡に5,500石を知行 5 。伏見滞在中、直江兼続と共に妙心寺に帰依し、塔頭「亀仙庵」(現在の雲祥院)を創建する 1 。 |
知行高が倍増しており、景勝政権下での評価の高さがうかがえる。 |
1598-1600年 |
慶長3-5年 |
63-65歳 |
伏見留守居役として、秀吉の死、徳川家康の台頭、家康による上杉討伐の動きなど、中央の重要情報を本国へ頻繁に注進(報告)する 1 。 |
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1600年 |
慶長5年 |
65歳 |
関ヶ原の戦い後、上杉家中の軍議において、直江兼続ら主戦派に対し、本庄繁長と共に徳川家との和睦を強く主張する 1 。 |
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1601年 |
慶長6年 |
66歳 |
本庄繁長と共に徳川家との戦後交渉を担当。かねてより親交のあった本多正信らとの折衝に尽力し、上杉家の存続(米沢30万石へ減封)に貢献する 13 。 |
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1603年 |
慶長8年 |
68歳 |
米沢藩の初代江戸家老に就任する 1 。 |
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1606年 |
慶長11年 |
71歳 |
4月24日、江戸にて死去 1 。戒名は鶴齢院殿亀仙宗策居士 1 。 |
墓所は米沢市の一花院跡に供養塔があり、千坂家の菩提寺である日朝寺にも墓がある 4 。 |
千坂景親という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「千坂」という家名とその歴史的背景を深く知る必要がある。彼の行動原理の根底には、一族が長年にわたり培ってきた上杉家における特異な地位と、それに伴う強烈な自負心が存在した。
千坂氏の歴史は、室町時代に関東管領を輩出した上杉氏の四家の一つ、犬懸(いぬがけ)上杉家の重臣として始まる 10 。この事実は、千坂氏が戦国時代に勃興した新興の家臣ではなく、上杉氏そのものの歴史と深く結びついた古参の名門であったことを示している。
その古さは、『上杉家系図』に記された一つの記述によって裏付けられる。1338年(延元3年/建武5年)、犬懸上杉家の祖である上杉憲藤が摂津渡辺の戦いで足利尊氏方として討死した際、家臣の石川覚道が憲藤の幼い遺児二人、朝房(4歳)と朝宗(2歳)を保護した。この時、石川は二人の公子と共に「家人千坂子(二歳)」と和久の子(四歳)をも一緒に保護し、鎌倉で育て上げたと記録されている 10 。これは、南北朝時代の初期、14世紀前半には既に千坂氏が上杉家の「家人」として存在し、主家の危機に際して運命を共にするほどの密接な関係にあったことを物語る動かぬ証拠である。
その後、14世紀末から15世紀初頭にかけて、犬懸上杉家の上杉朝宗が関東管領として権勢を振るうと、千坂氏はその重臣として武蔵国や上総国の守護代を務めるなど、家臣団筆頭としての地位を確立した 18 。しかし、応永23年(1416年)に朝宗の子・氏憲(禅秀)が起こした「上杉禅秀の乱」によって犬懸上杉家が没落すると、千坂一族の動向は一時、歴史の表舞台から姿を消す 18 。
だが、彼らは滅びなかった。乱から約11年後の1428年頃から、千坂氏の名は越後守護であった山内上杉家の記録に再び現れるようになる 18 。この事実は、主家である犬懸家の没落後、一族が同族である越後の上杉家に新たな活路を見出し、仕官することでその家格と命脈を保ったことを示唆している。この巧みな存続戦略こそ、千坂一族の特質を理解する上で極めて重要である。
千坂家には、「千坂ありて、上杉あり、上杉ありて、千坂あり」という家伝が代々、口伝として継承されていた 10 。これは単なる自負心の表明ではない。主家である上杉家と自らを不可分の存在と位置づける、強烈な運命共同体意識の表れである。この家伝は、千坂氏が単なる主従関係を超えた特別なパートナーであるという自己認識を内外に示す、強力なイデオロギーとして機能した。
興味深いことに、上杉家側にも千坂氏を「同族」と見ていたという伝承が残っている 10 。両家の間に、上杉氏の発祥まで遡るような古い由緒があった可能性も否定できない。こうした特別な関係性は、千坂氏が上杉家中で重きをなす背景となった。
15世紀後半には、当時の記録に「上杉方被官、長尾、石川、斎藤、千坂、平子、この五人古臣なり」と記され、関東・越後を統治する上杉家において、守護代の長尾氏と並び称される「古臣」としての評価を確立していた 18 。
時代が下り、越後の実権が守護上杉家から守護代の長尾為景(上杉謙信の父)へと移る過程においても、千坂氏の政治的嗅覚は鋭敏であった。千坂景親の父とされる千坂景長は、永正18年(1521年)に為景が発した一向宗禁止令の連署契状に、長尾一門と共に名を連ねている 10 。これは、守護家の権威が揺らぐ中で、いち早く新たな実力者である為景に協力し、新体制下での家の安泰を図った戦略的な行動であった。
このように、千坂一族は、犬懸上杉家の没落、越後守護上杉家の衰退、そして長尾氏の台頭という三つの大きな権力移行期を巧みに乗り越え、常に上杉氏の中枢にあり続けた。それは、単なる偶然の産物ではなく、時代の変化を的確に読み、新たな権力構造に柔軟に適応することで家格を維持するという、一族に受け継がれた高度な政治的判断力の結果であった。そして、その根底には「千坂ありて、上杉あり」という家伝に象徴される、主家の存続に対する強い責任感があった。後年、景親が関ヶ原の戦後処理において、主戦派の直江兼続と対峙してでも和睦を主張できた精神的支柱は、こうした一族の歴史と自己認識の中にこそ見出すことができるのである。
千坂氏は、上杉家において「四家老家」の一つに数えられる別格の家柄であった 1 。これは、藩の最高意思決定機関に列し、国政に関与する家格であることを意味する。この高い地位は、景親の代に確立されたものではなく、それ以前からの長い歴史の積み重ねによって築かれたものであった。
この家格は景親個人の一代に留まらず、江戸時代を通じて米沢藩においても維持された。景親の子孫は代々、藩の重職である江戸家老などを歴任し、上杉家の政治と外交を支え続けたのである 1 。千坂景親の生涯と功績は、このような名門の当主としての責務と誇りを背景に理解されなければならない。
長尾景虎が上杉謙信として越後の国主、そして関東管領となると、千坂景親は新たな主君の下でそのキャリアを本格化させる。しかし、彼の役割は、多くの武将が目指したであろう戦場での武功とは一線を画すものであった。
景親は、越後国蒲原郡白河庄女堂村(現在の新潟県阿賀野市女堂)に位置する鉢盛城を居城としていた 1 。この地域は、阿賀野川の北に位置し、揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる独立性の高い国人領主たちが割拠する勢力圏に隣接していた 22 。揚北衆は、鎌倉時代以来の誇り高い家柄が多く、時の権力者である上杉氏に対しても完全には服従しない気風を持っていた 23 。
このような地政学的環境において、千坂氏の鉢盛城は、単なる居城以上の意味を持っていた。それは、揚北衆を牽制し、上杉家の直接支配をこの地域に浸透させるための重要な戦略拠点であった。景親は、中央で謙信に仕えるだけでなく、在地領主として地域の安定化という重要な任務も担っていたのである。彼の存在は、独立勢力に対する楔(くさび)としての役割を期待されていた。
天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」や天正5年(1577年)の「上杉家家中名字尽手本」といった一次史料に景親の名が記載されていることは、彼が謙信政権下で安定した領地経営を行い、定められた軍役を確実に果たしていたことを示している 4 。
上杉謙信の生涯を描いた数々の合戦記や軍記物語において、他の重臣たちの名が華々しく躍る一方で、千坂景親の名が登場する機会は極めて少ない 1 。一見すると、彼は重要な役割を担っていなかったかのような印象さえ受ける。しかし、この「沈黙」こそが、彼の特異な立場と謙信からの信頼の深さを物語っている。
複数の史料が一致して伝えるところによれば、景親の主な任務は、謙信の本営を警固すること、すなわち親衛隊的な立場にあった 1 。彼の部隊は、本陣が敵の奇襲に遭うなど、謙信の身に直接的な危険が迫らない限り、前線に出動する機会がなかった。これが、彼の戦功が記録に残りづらい理由である。
この役職は、単なる警備担当ではない。それは、謙信から寄せられた絶大な信頼の証であった。主君の身辺警護という最も重要かつ機密性の高い任務を任されていたことは、彼が武勇だけでなく、忠誠心や沈着冷静さにおいても高く評価されていたことを意味する。
さらに重要なのは、この任務が彼に与えた経験である。本陣は、軍の司令塔であり、最高意思決定が行われる場所である。常にその場に侍るということは、謙信の戦術思想、戦略決定のプロセス、そして政権の最高機密に、誰よりも近い場所で触れ続けていたことを意味する。戦場で個別の武功を上げるよりも、主君の側近くで政権運営の中枢を学ぶこと。この経験は、単なる一武将では得られない大局的な視野と政治感覚を景親に与え、後に彼が外交官・情報分析官として類稀なる才能を発揮するための、確固たる素地を養ったに違いない。信頼の証としての「非戦闘任務」こそが、彼のキャリアの真の基盤となったのである。
天正6年(1578年)3月、軍神・上杉謙信は後継者を指名しないまま、春日山城で急死した。この突然の出来事は、上杉家を根底から揺るがす未曾有の危機をもたらした。謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の子)と上杉景虎(北条氏康の子)の間で、家督を巡る骨肉の争い「御館の乱」が勃発したのである 6 。この国家存亡の岐路において、千坂景親は冷静に時勢を読み、断固たる決断を下す。
家中が二つに割れる中、千坂景親は一貫して上杉景勝を支持した 5 。景勝方の主要武将を列挙したリストには、謙信旗本・蒲原郡内領主として、彼の名が明確に記されている 6 。この選択は、単なる個人的な好悪や関係性によるものではなく、上杉家の将来の方向性を左右する、極めて政治的な判断であった。
一方の旗頭である上杉景虎は、関東の巨大勢力・後北条家から越相同盟の証として送り込まれた「外様」の養子であった。彼を支持することは、北条家との連携を強化し、関東へと勢力を拡大する「外向き」の選択肢を意味した。しかしそれは同時に、上杉家の内政に北条氏の強い影響力が及ぶことを許容することでもあった。
対して上杉景勝は、謙信の実の姉を母に持つ甥であり、越後の名門・上田長尾家の血を引く、生粋の「内」の人間であった 26 。景親をはじめ、独立性の高い揚北衆の多くが景勝を支持した背景には、外部勢力の介入を排し、越後の国衆を中心とした結束によって新たな上杉家を打ち立てようとする強い意志があったと考えられる 27 。彼らにとって、この争いは「北条家という外部大国の影響下に入るか」「越後の国衆連合体として自立を維持するか」という、国家の基本構造を巡る選択だったのである。千坂景親ら古参の重臣たちが後者を選んだのは、外部勢力に上杉家の主導権を握られることを危惧し、越後の独立性を保つことを最優先した、熟慮の末の決断であった。
景親の景勝支持は、単なる政治的表明に留まらなかった。彼は自らの領地と命を懸けて、この内戦を戦い抜いた。御館の乱が春日山城周辺の政争に留まらず、越後全土を巻き込んだ激しい内戦であったことを示す貴重な記録が残っている。
天正6年(1578年)6月18日、景親の居城である鉢盛城が、景虎方に与した笹岡城主・今井右衛門によって攻められ、一時的に落城の憂き目に遭う。しかし景親は、同じく景勝方であった安田上総介の助力を得て反撃に転じ、今井右衛門を討ち取り、見事に城を奪還した 4 。この鉢盛城を巡る攻防は、景親が自領においても死線をさまよう激しい戦闘を繰り広げていたことを如実に物語っている。
約二年に及んだ乱は、最終的に景勝方の勝利に終わった。この勝利によって景勝政権が樹立され、景親の家中における地位も、新体制を支えた功臣としてより一層強固なものとなった。しかし、この乱が残した傷跡は深かった。特に、戦後の論功行賞が景勝の出身母体である上田衆に厚く配分されたことは、他の国衆の間に深刻な不満を生んだ 6 。この不満が、後に7年もの歳月を要する新発田重家の反乱へと繋がっていく。景親がこの恩賞問題に具体的にどう関わったかを示す直接的な史料は見当たらない。だが、彼が謙信以来の旗本であり、かつ名門の当主として、新興の上田衆と他の古参国衆との間に生じた軋轢を調整し、新政権の安定に心を砕く役割を期待されていたことは想像に難くない。
御館の乱を乗り越え、上杉景勝が名実ともに上杉家の当主となると、時代は織田信長の死を経て、豊臣秀吉による天下統一へと大きく動いていく。この新たな政治秩序の中で、千坂景親は戦場ではなく、外交の最前線でその真価を発揮することになる。
上杉家が豊臣政権に臣従する過程で、景親は上杉家の外交官として華々しく表舞台に登場する。その象徴的な出来事が、天正14年(1586年)の景勝の上洛に随行した際の逸話である。この時、景親は執政の直江兼続と共に大坂城に招かれ、天下人・秀吉の側近中の側近である千利休が点てた茶を賜るという、破格の栄誉に浴した 1 。これは、彼が兼続と並ぶ上杉家の公式代表者として、豊臣政権から認知されたことを意味する。
実際には、この上洛以前から彼の外交活動は始まっていた。天正13年(1585年)には、景勝から秀吉へ太刀と馬を贈る際の供としてその名が記録され 8 、天正14年(1586年)6月には、本願寺顕如への使者として京都に赴いている 8 。これらの記録は、彼が景勝政権の早い段階から、対中央政権の交渉役として信頼されていたことを示している。
文禄4年(1595年)、景親は伏見城の普請総奉行という大役を務め、その功績が認められて同年11月、伏見留守居役に任命された 1 。留守居役とは、国元にいる主君に代わって京都・伏見の藩邸に常駐し、中央政権とのあらゆる折衝、情報収集、そして本国への報告を担う、極めて重要な役職である。彼は、文字通り上杉家の「目」と「耳」として、政治の中心地に送り込まれたのである。
彼の活動は、武家社会に留まらなかった。当時の公卿・勧修寺晴豊の日記『晴豊記』には、景親が晴豊に対して銭や酒、藤戸のりといった品々を贈答した記録が残されている 8 。これは、彼が公家社会にも深く入り込み、儀礼的な交流を通じて人脈を広げ、多角的な情報網を構築しようとしていたことを示唆している。また、天正19年(1591年)に催された茶の湯の席では、直江兼続に次ぐ席次で相伴しており 8 、上杉家における彼の序列の高さが客観的な記録からも裏付けられる。
千坂景親の外交官・情報分析官としての能力が最も発揮されたのは、慶長3年(1598年)の秀吉の死から慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに至る、天下が激動した期間であった。彼は伏見の地から、刻一刻と変化する中央政情を冷静に分析し、その情報を本国の景勝・兼続へ注進(報告)し続けた 1 。
彼の報告がいかに重要視されていたかは、米沢藩の公式記録である『上杉家御年譜』に、景親からの注進内容が数多く引用されていることからも明らかである。彼は単なる伝聞を右から左へ流す連絡係ではなかった。収集した断片的な情報を有機的に結びつけ、それが持つ政治的・軍事的な意味を読み解き、本国の戦略決定に資するインテリジェンス(諜報)として報告していたのである。
以下の表は、『上杉家御年譜』に記録された景親からの注進内容の一部を抜粋したものである。これを見れば、彼がいかに豊臣政権の崩壊と徳川政権の台頭という一連の巨大な権力移行を、極めて冷静かつ正確に捉えていたかが分かる。
日付 |
報告内容の要約(『上杉家御年譜』より) |
政治的意味合い |
典拠 |
慶長3年4月20日 |
秀吉が発病し、五大老が政務を決定する体制になったことを報告。 |
豊臣政権の権力構造の変化、秀吉不在の政治運営の開始をいち早く察知。 |
1 |
慶長3年7月15日 |
秀吉が秀頼の後見と天下の政務を家康に託すよう命じたことを報告。 |
徳川家康への権力集中という、来るべき時代の潮流を的確に把握。 |
1 |
慶長3年10月2日 |
豊臣秀吉の死を報告。 |
天下人不在という最大の政治的変動を本国へ即時伝達。 |
1 |
慶長5年1月中旬 |
上杉景勝に謀叛の疑いありとの噂が、近国から家康に告げられていることを報告。 |
徳川家康による「上杉討伐」の口実作りの動きを早期に察知し、警告。 |
1 |
慶長5年6月2日 |
家康が諸大名を召集し、上杉討伐のための出兵を正式に決定したことを報告。 |
徳川との軍事衝突が不可避となったことを最終通告。 |
1 |
慶長6年1月中旬 |
関ヶ原合戦後、家康が上杉家の処分を評定し、結城秀康らの執り成しで減封の上で存続させる方針が固まったことを報告。 |
戦後処理の機微な情報をいち早く入手し、交渉による家名存続の余地があることを示唆。 |
1 |
この一連の報告は、上杉家の意思決定に決定的な影響を与えた。例えば、直江兼続が家康を挑発したとされる有名な「直江状」は、慶長5年4月の出来事である。その直前の1月には、景親から「上杉謀叛の噂が家康に流れている」との報告が届いている 1 。これは、兼続が「もはや弁明は無意味であり、家康は戦の口実を探している」という景親からのインテリジェンスを前提として、あの強硬な返書を書いた可能性が極めて高いことを示唆している。景親の情報活動は、上杉家の対徳川政策の根幹を支える、影の立役者であったと言っても過言ではない。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原で徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利した。西軍の主力であった上杉家は、東軍の最上義光・伊達政宗と出羽国で激戦(慶長出羽合戦)を繰り広げている最中に、この敗報に接することになる。主家の存亡をかけた、絶体絶命の危機であった。この国難において、千坂景親は再びその真価を発揮する。
西軍敗北の報がもたらされると、上杉家中で今後の対応を巡る激しい軍議が開かれた。執政の直江兼続をはじめとする多くの将は、徳川との徹底抗戦を主張した。しかし、この主戦論に敢然と異を唱えたのが、千坂景親と、皮肉にも家中随一の猛将として知られた本庄繁長であった 13 。
彼らは、これ以上の抗戦は上杉家の滅亡を招くだけの無謀な行為であると断じ、一刻も早く徳川家と和睦すべきだと強く主張した。特に景親は、伏見留守居役として徳川家康の圧倒的な権勢と政治的力量を間近で見てきた。彼にとって、もはや武力で徳川に抗う道はなく、交渉のテーブルに着くことこそが、家名を後世に残す唯一の活路であるという確信があった。
この時、景親と繁長が連携したことは非常に興味深い。外交のプロフェッショナルである「智」の景親と、武勇で鳴らした「武」の繁長。異なるタイプの二人の重臣が、「家の存続」という至上命題の下に利害を一致させ、現実主義者(リアリスト)としての一大勢力を形成したのである。主君・景勝の最も信頼する側近である直江兼続の主戦論を覆すには、この二人の重鎮による、家の歴史と武功を背負った強力な進言が必要不可欠であった。
主君・上杉景勝は、最終的に景親と繁長の和睦論を容れ、徳川家との終戦工作を開始することを決断した。景勝は繁長に上洛を命じ、既に京都にいた景親と協力して交渉にあたるよう指示したのである 13 。
この絶望的な状況下で、景親が長年培ってきた人脈が決定的な役割を果たす。彼は、徳川家の謀臣として知られる重臣・本多正信と、かねてより親交があった 1 。敵対勢力の中枢にさえ、平時から個人的なパイプを築いていたのである。これは、万が一の事態に備えた高度なリスク管理であり、彼の外交官としての非凡さを示すものである。関ヶ原後の和平交渉は、敗戦後に慌てて行われた付け焼き刃の嘆願ではなく、景親が伏見留-居役時代から周到に準備していた外交チャネルを活用した、戦略的な危機管理活動であった。
上洛した繁長は、景親と合流し、家康の息子である結城秀康や、交渉の鍵を握る本多正信と面会を重ね、上杉家の存続を粘り強く嘆願した 15 。
景親と繁長の懸命な交渉は、ついに実を結ぶ。慶長6年(1601年)、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に領地を削減されるという厳しい処分を受けながらも、改易(領地・家臣団の完全没収)という最悪の事態を免れ、大名家として存続することを許されたのである 13 。
この功績は、単に頭を下げて謝罪した結果ではない。京都にいた景親から本国にもたらされた「(徳川方に)和平許容の動きあり」という正確な情報 15 に基づき、適切なタイミングで、適切な人物(本多正信)を相手に交渉を進めた、景親の卓越した情報分析能力と外交手腕の賜物であった。景勝が景親と繁長の意見を採用したことは、最側近である兼続の意見よりも、家の存続を最優先するリアリストたちの客観的な情勢分析と進言を重視した、苦渋に満ちた、しかし賢明な君主としての決断であったと言えよう。
関ヶ原の戦後処理を乗り越え、上杉家は出羽米沢30万石の大名として新たな時代を迎える。戦乱の世は終わりを告げ、徳川家康による新たな秩序、すなわち江戸幕府体制が構築されようとしていた。この新時代において、千坂景親は再び、上杉家の存続に不可欠な役割を担うことになる。
慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開くと、千坂景親は米沢藩の初代江戸家老に任命された 1 。江戸家老とは、江戸の藩邸に常駐し、藩と幕府との間のあらゆる公式・非公式の交渉や連絡、情報交換を取り仕切る、極めて重要な役職である。
この人事は、景親のこれまでのキャリアの集大成とも言えるものであった。豊臣政権下で伏見留守居役として中央政界の機微に通じ、関ヶ原後には徳川家との困難な和睦交渉を成功させた実績を持つ彼こそ、この役職の初代に最もふさわしい人物であった。敗戦大名として幕府から厳しい監視下に置かれた上杉家にとって、最も信頼でき、かつ幕府中枢に人脈を持つ景親を対幕府外交の最前線に配置することは、藩の将来を左右する戦略的な人事であった。
景親の生涯を俯瞰すると、その役割は一貫して「権力の中枢とのパイプ役」であったことがわかる。謙信の親衛隊としての「主君との近さ」、伏見留-居役としての「豊臣政権との近さ」、そして初代江戸家老としての「徳川幕府との近さ」。彼のキャリアは、戦国時代から江戸時代への移行期において、大名家臣に求められる能力が、戦場での武勇から、いかに政治・外交能力へと劇的にシフトしていったかを象徴している。
景親が築いた江戸家老という職務と、幕府との関係性は、千坂家に受け継がれていく。景親以降、千坂家は江戸時代を通じて江戸家老職を世襲することが多くなり、米沢藩の外交を専門に担う家として定着した 1 。彼が初代として築いた幕府との信頼関係や、江戸における情報収集のノウハウは、一族の無形の財産として継承され、米沢藩の長期的な安定に大きく貢献した。
慶長11年(1606年)4月24日、千坂景親は71歳で江戸の藩邸にてその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。戦国の動乱を生き抜き、主家を滅亡の淵から救い出し、新たな泰平の世に上杉家を軟着陸させるという大事業を成し遂げた、一人の智将の時代の終わりであった。
千坂景親は、政治家・外交官として卓越した手腕を持つ一方で、深い信仰心や文化的素養を兼ね備えた人物でもあった。彼の残した足跡は、米沢藩における千坂家の地位を不動のものとし、後世にまで様々な影響を与えている。
景親は、武辺一辺倒の武将ではなかった。そのことを示す最も顕著な例が、京都における寺院の創建である。慶長3年(1598年)、上杉家が会津へ移封となり、徳川との緊張関係が高まる多忙な時期に、景親は伏見の地で直江兼続と共に臨済宗大本山・妙心寺の僧、南化玄興や海山元珠に帰依している 1 。
そして、彼は私財を投じて妙心寺の境内に塔頭(たっちゅう、大寺院の敷地内にある小寺院)を創建した 1 。この塔頭は、景親の戒名「鶴齢院殿
亀仙 宗策居士」にちなんで「亀仙庵(きせんあん)」と名付けられた。これが、現在も妙心寺に残る塔頭・雲祥院(うんしょういん)である 1 。主家の存亡をかけた激しい情報戦の渦中にありながら、禅宗に深く帰依し、寺院を建立するほどの精神的余裕と信仰心の深さは、彼の人物像に複雑な奥行きを与えている。
景親には、太郎左衛門や長朝といった実子が存在した 1 。しかし、千坂家の家督は、親戚筋から迎えた養子の高信(たかのぶ)が継承した 1 。高信は元々、越後国満願寺村に住し、満願寺仙右衛門と称していた人物であった 1 。
実子がいるにもかかわらず、能力のある人物を養子に迎えて家を継がせるというこの選択は、個人の血筋よりも、家名の永続と藩への安定した奉公を最優先する、近世武家の合理的な判断を示す典型的な事例である。
景親のこの決断は功を奏し、高信以降も千坂家は米沢藩で大いに繁栄し、江戸時代を通じて数多くの重臣を輩出した 1 。特に有名なのが、景親の玄孫にあたる千坂高房(兵部)である 20 。彼は、後世の創作物『忠臣蔵』において、主君・上杉綱憲が吉良邸へ出兵しようとするのを諌める冷静沈着な名家老として描かれ、広く知られることとなった(史実では赤穂事件の前に死去している) 20 。また、時代は下って幕末、戊辰戦争で米沢藩軍事総督として藩を率い、明治維新後は石川県令や岡山県令、貴族院議員を務めた千坂高雅も、景親の直系の子孫である 1 。
景親の人物像と千坂家の家意識を考察する上で、極めて興味深いのが「那須与一供養塔」の存在である。米沢市中央、景親の当初の菩提寺であった一花院の跡地には、現在も高さ4メートルを超える巨大な三重の石塔が残されている。この石塔には、中央に「供養塔」と刻まれ、その両脇に「千坂対馬守景親公」そして「那須与市宗隆公」の名が並記されている 17 。
那須与一は、言うまでもなく源平合戦の屋島の戦いで「扇の的」を射抜いた伝説的な弓の名手である。なぜ、時代も場所も異なる二人の名が、一つの供養塔に刻まれているのか。
この供養塔は、景親の死後100年以上が経過した享保4年(1719年)に、景親の子孫によって建立されたものである 41 。千坂家に伝わる伝承によれば、千坂氏は那須家と縁続きであり、与一が守本尊としていた虚空蔵菩薩像を代々伝えてきたという 40 。
この伝承の史実性を証明することは困難である。しかし、重要なのはその真偽ではない。江戸時代中期という泰平の世にあって、千坂家が自らのルーツを、武士の鑑として誰もが知る伝説的英雄・那須与一に結びつけようとした、その意図である。これは、戦場で武功を立てる機会がなくなった時代の武家が、自らの武門としての権威と家格を、由緒や伝承といった「物語」によって補強し、再生産しようとした戦略的行為と見ることができる。家の運営においては有能な養子を迎えるという実力主義(高信の家督相続)をとりながら、家のブランド価値を高めるためには輝かしい血統の物語(那須与一伝承)を必要とする。この一見矛盾した二つの価値観を巧みに両立させていた点に、近世武家のしたたかな生存戦略が見て取れる。
千坂対馬守景親の生涯を追うことは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将の役割と価値観の変遷を辿る旅であった。彼の功績は、城をいくつ攻め落としたか、敵の首をいくつ取ったかという、従来の武勇伝の指標では測ることができない。彼の武器は、剣や槍ではなく、情報、交渉力、そして何よりも主家の存続を最優先する冷静沈着な判断力であった。
軍神・上杉謙信の傍らで絶対的な信頼を得て政権の中枢を学び、主家分裂の危機であった御館の乱では、冷静に時勢を読んで景勝を支持し、新政権の樹立に貢献した。豊臣政権下では、伏見留守居役として情報と外交の力で上杉家の地位を支え、中央政界の激動をリアルタイムで本国に伝え続けた。そして、関ヶ原の敗戦という最大の国難においては、感情的な主戦論が渦巻く中で、本庄繁長と共に現実的な和平交渉を主導し、上杉家を滅亡の淵から救い出した。
彼の生涯は、戦乱の世から泰平の世へと移行する時代にあって、武士に求められる能力がいかに変化したかを象徴している。千坂景親は、その変化を見事に体現し、情報分析官、外交官、そして交渉人として、新たな時代の要請に応えた「智」の武将であった。彼なくして、近世大名としての上杉家の歴史はあり得なかったかもしれない。戦場の華々しい英雄たちの影で、静かに、しかし確実に主家の未来を切り拓いた千坂景親は、その功績を改めて評価されるべき、稀有な人物である。