卜部季武は源頼光四天王の一人。史実の記録は乏しいが、産女との遭遇や酒呑童子討伐伝説で知られる。その名は祭祀氏族「卜部」や武門「坂上」とも結びつき、後世の文化に影響を与えた。
源頼光四天王。この名は、日本の説話文学において、比類なき武勇と忠誠を象徴するヒーローチームとして、時代を超えて人々の心を捉えてきた。渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、そして本報告書が主題とする卜部季武。この四人の猛者たちは、主君である源頼光と共に、大江山の酒呑童子をはじめとする数多の怪異を討ち果たしたと語り継がれる。中でも卜部季武は、その華々しい武勇伝によって広く知られる一方で、その出自や実像は深い霧に包まれている。
本報告書は、この史実と伝説の狭間に存在する武人、卜部季武の姿を、あらゆる角度から徹底的に解明する試みである。彼の実像に迫る旅は、必然的にいくつかの根源的な問いへと我々を導く。卜部季武とは、果たして何者だったのか。なぜ彼は、祭祀を司る「卜部」であり、武門を代表する「平」であり、そして鬼退治の英雄の末裔たる「坂上」でもあるのか。同時代の史料にほとんどその名を留めない一人の武士が、いかにして後世、不滅の英雄へと昇華されたのか。これらの謎を探求する過程は、単に一個人の生涯を追うに留まらない。それは、中世日本の人々が「武士」という存在に、そして「英雄」という理想に何を求め、いかなる物語を紡ぎ出したのかを明らかにする作業に他ならない。
この探求を体系的に進めるため、本報告書は三部構成を採る。第一部「史実の影を追う」では、錯綜する姓名と断片的な史料の分析を通じて、歴史上の人物としての季武の輪郭を慎重に描き出す。第二部「伝説の鋳型」では、『今昔物語集』や『御伽草子』といった説話・物語の世界に分け入り、頼光四天王の一人として活躍する英雄・季武の姿を、具体的な逸話と共に丹念に読み解く。そして第三部「後世への影響」では、能や神楽、浮世絵、さらには地域伝承といった後代の文化の中で、彼のイメージがどのように受容され、変容し、そして現代にまで至る確固たる文化的表象として定着していったのか、その軌跡を追跡する。この多角的な分析を通じて、卜部季武という一人の武人を通して映し出される、日本文化の豊饒な精神世界に光を当てることを目指す。
卜部季武という人物を理解する上で、最初の、そして最大の障壁となるのが、その出自の不確かさである。史料や伝承によって彼の姓名は様々に語られ、それぞれが異なる背景を示唆する。この章では、これらの錯綜する情報を整理・分析し、歴史的文脈の中に彼を位置づけることで、伝説の奥に潜む「史実の影」を追う。
卜部季武は、少なくとも三つの異なる氏姓で語られてきた。「卜部」「平」「坂上」。これらは単なる異名ではなく、それぞれが季武というキャラクターに特定の意味合いを付与する、物語的な機能を持っている。
卜部季武の名で最も一般的に知られている「卜部」氏は、古代日本において卜占(ぼくせん)、すなわち吉凶判断を専門の職務とした祭祀貴族の一族であった 1 。亀の甲羅を焼いてそのひび割れの形で占う亀卜(きぼく)などを家業とし、朝廷の神祇官に仕えた 1 。特に伊豆、壱岐、対馬の卜部氏は中央の神祇官に官人を輩出し、中でも伊豆卜部氏は神祇大副・少副といった高官の地位を占める家系であった 1 。後世には、京都の吉田神社の社家や、『徒然草』の作者として知られる卜部兼好(吉田兼好)もこの流れを汲むが、その性格はあくまで神事を司る文官的な氏族であり、武勇を誇る武士の家系とは本質的に異なる 2 。
ここに、根本的な矛盾が生じる。武勇をもって源頼光に仕え、鬼や妖怪と渡り合ったとされる季武が、なぜ非武装の祭祀氏族である「卜部」を名乗るのか。この矛盾は、卜部季武という人物の出自が、史実そのものではなく、後世の物語作者によって意図的に「創作」された可能性を強く示唆する。卜部氏は神事に通じ、古代からの権威を持つ一族である。武勇に秀でた英雄に、この神聖な背景を付与することには、明確な文学的意図が見出せる。すなわち、酒呑童子や産女といった怪異・妖怪は、単なる物理的な力だけで討伐・克服できる存在ではない。それらに対抗するためには、超自然的な領域にアクセスできる「聖性」が必要とされる。季武に「卜部」の名を与えることは、彼が遂行する超常的な任務に、血筋に由来する「正当性」と「神秘性」を付与するための、極めて効果的な文学的装置であったと考えられる。
この矛盾を物語の中で解消しようとする試みの痕跡も存在する。いくつかの伝承では、季武の父は坂上氏、あるいは卜部季国とされ、母が「三島の卜部尼公」であると語られる 4 。これは、父系の武門(坂上氏)と母系の祭祀氏族(卜部氏)という二つの異なる血統を結びつけることで、季武が「武」と「聖」の両方の力を生まれながらに継承する、いわばハイブリッドな英雄であることを説明する物語的作為と解釈できる。
卜部季武に関する説話の中で、成立年代が最も古いとされるのが、平安時代末期に編纂された『今昔物語集』である。注目すべきは、この最古級の説話集において、彼は一貫して「平季武(たいらのすえたけ)」として登場することである 5 。しかし、彼が桓武平氏をはじめとする平家一門の系譜に連なることを示す、信頼に足る史料は存在しない 10 。
主君が清和源氏の棟梁である源頼光であるにもかかわらず、その郎党がライバルとも言える平氏を名乗る点は不可解に映る。この背景には、いくつかの可能性が考えられる。まず、平安時代の武士を代表する二大氏族が源氏と平氏であったことから、物語作者が作中に登場する武士を、その出自の如何にかかわらず、便宜的にどちらかの姓に割り振るという、説話文学における一種の「型」が存在した可能性である 11 。あるいは、主君の源氏に対して、郎党に「平」姓の者を含ませることで、源氏の陣営が他氏の有能な武士をも惹きつけるほどの魅力と度量を持っていたことを、間接的に示す効果を狙ったのかもしれない。最も単純な解釈としては、「平」という姓が、特定の家系を指す固有名詞としてではなく、「武士」という階級を象徴する一般的な記号として用いられた可能性も否定できない。
いずれにせよ、『今昔物語集』における「平季武」という呼称は、彼の出自をさらに複雑化させる要因となった。しかし同時に、この呼称は、季武の物語を源氏一門という閉じた世界の中だけの話に留めず、より普遍的な「武士の物語」として、広く世に流布させる一助となった側面も持つと言えるだろう。
後世の軍記物語や能、神楽といった芸能の世界において、卜部季武の出自として最も強調されるのが、征夷大将軍・坂上田村麻呂の末裔という系譜である 6 。この説では、彼の本名は「坂上季猛(さかのうえのすえたけ)」とされる。この系譜は、季武という武人に、日本史上最も輝かしい武門の血統を与えるものである。
この系譜が「創造」された意図は明白である。坂上田村麻呂は、歴史上の偉大な武人であると同時に、伝説の世界では、大江山の酒呑童子と並び称される日本三大妖怪の一角・大嶽丸(おおたけまる)を討伐した、元祖「鬼退治の英雄」として君臨している 10 。その田村麻呂の末裔として季武を位置づけることは、彼の超人的な武勇や、怪異を前にしても微動だにしない精神力の「根拠」を、その血筋に求めるという、物語として最も説得力のある解決策であった。これは、英雄の卓越した能力をその高貴な出自によって説明する、古くからの物語類型(貴種流離譚など)にも通じる手法である。季武が鬼を討つのは、彼が鬼退治の英雄の血を引いているからだ、というわけである。
この全国区で語られる英雄譚が、特定の土地の歴史と結びつき、根を下ろしていく現象も見られる。兵庫県宝塚市山本地区に鎮座する松尾神社には、その創建者が「浦辺太郎坂上季猛」、すなわち卜部季武であるとの伝承が残されている 7 。これは、抽象的な物語上の人物が、具体的な神社の創建者として祀られることで、「我々の土地の英雄」としてローカライズされていく過程を示す好例である。伝説は信仰の対象となることで、より強固なリアリティを獲得し、後世へと継承されていくのである。
錯綜する姓名の謎を一旦脇に置き、彼が生きたとされる時代の歴史的状況に目を向けることで、その実像の輪郭を探る。
伝承によれば、卜部季武の生没年は天暦4年(950年)から治安2年(1022年)とされることが多い 5 。しかし、これらの年代はいずれも後世の資料に基づくものであり、確実な史実とは言い難い。ただ、この年代は、彼の主君である源頼光(天暦2年(948年) - 治安元年(1021年))の生涯とほぼ重なるように設定されている 17 。
主君の源頼光は、藤原道長をはじめとする摂関家の爪牙として活躍した、まぎれもない実在の有力武士であった 17 。彼は父・源満仲から摂津国多田荘(現在の兵庫県川西市周辺)を本拠地として受け継ぎ、摂津源氏の祖となった 17 。備前、美濃、伊予など豊かな国の国司(受領)を歴任して莫大な富を築き、その財力と武力をもって京の治安維持や上級貴族の警護にあたった、当代きっての「京武者」である 17 。卜部季武は、このような強力な武士団を率いた頼光の配下の一人であったと推測される。
しかし、ここで決定的に重要なのは、「史料の沈黙」である。主君である頼光自身は、藤原道長の日記『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』といった同時代の貴族の日記に、その名が散見される 9 。一方で、頼光四天王、とりわけ卜部季武の名は、同時代の一次史料からは一切確認することができない 4 。この事実は、二つの可能性を示唆する。一つは、季武が頼光の数多くの郎党の中で、特に突出した存在ではなかった可能性。そしてもう一つは、より根本的な問題として、「頼光四天王」という渡辺綱を筆頭とする固定メンバーからなるドリームチーム自体が、史実ではなく、後世の物語作者による創作である可能性である。
これらの状況を総合的に勘案すると、歴史上の卜部季武(あるいはそれに該当する人物)の実像は、次のように再構築できるかもしれない。彼は、源頼光が地方の国司として赴任した際にその配下となった、数ある在地武士の一人に過ぎなかった。しかし、彼にまつわる何らかの特異な逸話、例えば「産女との遭遇譚」の原型となるような出来事が、まず口承の形で伝わった。その小さな物語が語り継がれるうちに、より有名で権威のある主君・源頼光の名と結びつき、やがて他の武勇伝を持つ武士たちの物語と集合して、「頼光四天王」という壮大な伝説へと、雪だるま式に膨らんでいったのではないだろうか。史実の季武は、その伝説の核となった、名もなき武人だったのかもしれない。
表1:卜部季武の呼称と出自に関する諸説の比較
呼称/姓名 |
主な典拠 |
想定される出自 |
分析・考察 |
平 季武 |
『今昔物語集』 5 |
武門平氏 |
最古級の説話集に見られる呼称。平家との直接的な系譜関係は不明。武士の代名詞として「平」姓が用いられたか、あるいは物語上の作為の可能性がある。 |
卜部 季武 |
『御伽草子』、能『大江山』、神楽など 7 |
祭祀氏族・卜部氏 |
最も一般的な呼称。武士の家系ではない卜部氏の名を持つことで、怪異退治に必要な「聖性」や「神秘性」を英雄に付与する文学的装置として機能したと考えられる。 |
坂上 季猛 |
『前太平記』、松尾神社縁起など 13 |
征夷大将軍・坂上田村麻呂の末裔 |
鬼退治の元祖である田村麻呂の血筋とすることで、季武の超人的な武勇の根拠を説明する。英雄としての権威を最大化する物語的作為。 |
史実の記録からは姿を消した卜部季武は、その代わりに説話や物語の世界で不滅の生命を得た。彼は源頼光という輝かしい主君のもと、個性豊かな同僚たちと共に「頼光四天王」の一人として、後世の人々が理想とする武士の姿を体現していく。この部では、伝説上の英雄として鋳造された卜部季武の活躍を、具体的なエピソードを通じて詳細に分析する。
「頼光四天王」とは、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、そして卜部季武の四人の屈強な家臣を指す呼称である 19 。しかし、この概念は源頼光が生きていた時代に存在したものではなく、時間をかけて文学的に形成されたものである。平安末期の『今昔物語集』の時点では、頼光の郎党として季武(平季武)や貞道(平貞道、碓井貞光のモデルか)、公時(坂田金時)の名は個別に登場するものの、「四天王」という固定化されたグループとしては言及されていない 4 。この四人が一つのチームとして明確に物語られるようになるのは、室町時代の『御伽草子』などを経て、特に江戸時代に刊行された通俗軍記『前太平記』が広く読まれるようになってからである 22 。
このようにして形成された頼光四天王は、単なる武勇に優れた者たちの集まりではなく、それぞれが明確なキャラクターと役割分担を持つ、理想的な英雄集団として描かれている。筆頭格とされる渡辺綱は、一条戻橋や羅生門で鬼の腕を切り落とす、華々しい英雄譚の主役である 19 。坂田金時は、足柄山で山姥に育てられたという異色の経歴を持つ怪力童子「金太郎」の成長した姿として知られる 4 。碓井貞光は、身の丈七尺(約2.1メートル)と伝えられる大男で、その巨躯と膂力が特徴だ 4 。
こうした個性的な面々の中で、卜部季武に与えられたキャラクター的個性は、後述する「産女」との遭遇譚に象徴される「豪胆さ」と「冷静沈着さ」であった 6 。彼は、怪力や派手な武功で目立つタイプではないが、いかなる超常現象を前にしても動じることのない、強靭な精神力の持ち主として描かれる。この巧みな役割分担により、頼光四天王は物理的な脅威から精神的な恐怖に至るまで、あらゆる危機に対応可能な、完璧なヒーローチームとして物語の中で機能するのである。
頼光四天王の武勇伝の中で、最も有名かつ壮大なスケールを誇るのが、大江山の酒呑童子討伐である。この物語は『御伽草子』や『大江山絵詞』などを通じて広く知られ、頼光と四天王の集団的功績の頂点に位置づけられている 17 。
物語のあらすじはこうだ。平安京で若者や姫君が次々と神隠しに遭う事件が発生。陰陽師・安倍晴明の占いにより、その犯人が丹波国の大江山に棲む鬼・酒呑童子であることが判明する 18 。一条天皇の勅命を受けた源頼光は、四天王と盟友の藤原保昌を率いて討伐に向かう 17 。一行は山伏に変装して鬼の岩屋に潜入し、酒呑童子に一夜の宿を請う 18 。酒宴の席で、頼光たちは神々から授かった毒酒「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」を酒好きな酒呑童子に飲ませて体を痺れさせ、油断したところを寝首を掻いて討ち取るというものである 17 。
この物語は、単なる妖怪退治譚として読むだけではその本質を見誤る。その構造には、より深い文化的な意味が込められている。物語の構図は、「都(=秩序、文明、王権)」が、「山(=混沌、自然、異界)」に住まう「鬼(=まつろわぬ民、自然の脅威、疫病の象徴)」を制圧するという、古代から続く王権神話の典型的なパターンを踏んでいる 26 。頼光一行は、天皇の権威を代行する者として、物理的な武力だけでなく、神々の加護(神便鬼毒酒)と謀略(変装と騙し討ち)という、人知を超えた力をも用いて、都の秩序を回復する。この壮大なミッションにおいて、卜部季武は、王権の武威を体現する不可欠なパーツとして、その役割を忠実に果たすのである。
また、討伐される側の酒呑童子も、単純な悪鬼として描かれてはいない。その出自には、越後の山寺にいた稚児であった、あるいは伊吹山でスサノオに敗れた八岐大蛇の子孫であるなど、様々な伝承が存在し、悲劇的な背景を持つ存在としても語られる 27 。彼が最期に「鬼に横道はなきものを(鬼は嘘をついたり、道を外れたりしないものだ)」と叫んだという伝承は 18 、この物語が、討伐する側の一方的な正義の物語ではなく、敗者の側にも理があったかもしれないという、多層的な解釈を許す深みを持っていることを示唆している。
数ある卜部季武の逸話の中で、彼個人の資質を最も鮮やかに描き出しているのが、妖怪「産女」との遭遇譚である。この話は、最古級の説話集である『今昔物語集』巻二十七の四十三に「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」として収録されており、彼のキャラクターを決定づけた重要なエピソードと言える 6 。
その内容は、極めてシンプルかつ印象的だ。ある暗い夜、平季武(卜部季武)が馬に乗って川を渡っていると、川の中ほどに赤子を抱いた女(産女)が立っており、「これを抱け」と言って赤子を渡してくる。季武は少しも騒がず、その赤子を受け取ると、そのまま馬を進めて岸へと向かう。産女は「子を返せ」と叫びながら追いかけてくるが、季武は一切取り合わずに陸へ上がり、館へと帰り着く。そして、腕の中の赤子をよく見てみると、それはただの木の葉に変わっていた、というものである 7 。
この逸話の巧みさは、英雄の資質を「武力」ではなく「精神力」によって証明している点にある。産女とは、一般に、難産で亡くなった女性の無念の霊が妖怪化したものとされる 6 。その存在は、母性の悲哀と怨念が絡み合ったものであり、力でねじ伏せるべき敵とは性格が異なる。季武は、この不気味で理不尽な要求に対して、恐怖も嫌悪も見せず、ただ冷静に受け入れる。その動じない態度こそが、結果的に怪異そのものを無力化し、乗り越える力となった。この物語は、武士に必要な資質が腕力や戦闘技術だけではなく、いかなる異常事態に遭遇しても平常心を失わない「胆力」こそが重要であることを示す、一種の教訓譚としても機能している。
このエピソードによって、卜部季武は頼光四天王の中で「怪異に最も耐性のある男」「動じない精神の持ち主」という、他にはない唯一無二のキャラクターを確立した。彼は単なる戦闘員ではなく、主君や同僚たちが動揺するような局面においても、精神的な支柱となりうる存在として、その価値を不動のものとしたのである。
卜部季武は、源氏の武威を象徴する宝刀をめぐる物語においても、重要な役割を担う。それは、平将門の娘とされる妖術使い・滝夜叉姫に盗まれた宝刀「蜘蛛切丸(くもきりまる)」を奪還するという伝説である 30 。
この物語は、神楽の演目などで知られ、その内容は次のようなものである。朝廷に反逆した平将門の遺志を継ぐ娘・滝夜叉姫は、筑波山に籠って妖術を身につけ、源氏への復讐を企てる。彼女は妖術を用いて源氏の宝物庫に忍び込み、伝家の宝刀「蜘蛛切丸」(源頼光が土蜘蛛を斬ったとされる名刀で、「髭切」の別名ともされる)を盗み出す 30 。この非常事態に際し、宝刀奪還の任を命じられたのが卜部季武であった。季武は、時に同僚の碓井貞光と共に、滝夜叉姫の岩屋へと乗り込み、数々の妖術や化け物との激闘の末、見事に滝夜叉姫を討ち果たし、宝刀を取り戻す 30 。
この物語は、いくつかの点で非常に興味深い。まず、これは「源頼光・四天王の物語圏」と、関東で絶大な人気を誇る「平将門の物語圏」という、日本の中世を代表する二大レジェンドを接続する、壮大なクロスオーバー作品としての性格を持っている 35 。将門の怨念を継ぐ妖姫という強力な敵役を、源氏の忠臣である季武が打ち破るという構図は、源氏の武威と正統性を改めて強調する効果を持つ。
さらに重要なのは、宝刀の象徴性である。「蜘蛛切丸」(あるいはその元となったとされる髭切・膝丸)は、単なる武器ではない。それは、幾多の怪異を退け、源氏一門の武運を支えてきた、一族の正統性と霊的な力を象徴する霊剣である 25 。その宝刀を奪われることは、主家の権威の失墜に直結する。したがって、それを奪還する季武の行為は、単なる物品の回収ではなく、主家の名誉と霊的な守護力を回復するという、忠臣として考えうる最高度の働きを示しているのである。
卜部季武の活躍は、上記の主要なエピソード以外にも、四天王の他のメンバーとの関係性を描く物語の中にも見出すことができる。
神楽の演目として知られる『子持山姥』では、頼光と季武(あるいは渡辺綱)が東国への旅の途中、信州の山中で道に迷い、一軒の山家で一夜の宿を乞う 36 。しかし、その家の主は、都を追われた武士の妻が山賊と化した山姥であり、その子・怪童丸と共に頼光主従に襲いかかる。頼光の武勇の前に敗れた山姥は、自らの命と引き換えに息子の助命を嘆願する。その母の情に感じ入った頼光は怪童丸を家来とするが、この怪童丸こそが、後の頼光四天王の一人、坂田金時その人であった 36 。この物語において季武は、後の同僚となる坂田金時の「発見」という、頼光の武士団形成における重要な瞬間に立ち会う。これは、頼光のチームが、ただ集められただけでなく、才能ある者が見出され、リクルートされた者たちで構成されていることを示し、組織としての魅力を高める役割を果たしている。
また、能や神楽、絵巻で有名な『土蜘蛛』の物語では、季武は主君の守護者としての役割を全うする 7 。病の床に臥している源頼光のもとに、僧侶に化けた土蜘蛛の精が現れ、糸を投げかけて苦しめる。頼光は名刀・膝丸でこれを斬りつけるが、土蜘蛛は逃走する。この主君の危機に際し、頼光の傍らで碁を打ちながらも警護を固めていたのが四天王であった 20 。その後、彼らは血の跡を追って葛城山の塚に潜む土蜘蛛の本体を発見し、激しい戦いの末に退治する 20 。この物語の中で季武は、主君が最も弱っている時にこそ、その忠誠が試されるという状況下で、揺るぎない守護者として描かれているのである。
中世の説話文学の中で形成された卜部季武の英雄像は、後代の多様な文化メディアを通じて再生産され、そのイメージをより強固なものとしていった。文字の読めない人々にも親しまれた舞台芸術、英雄の姿を鮮やかに視覚化した浮世絵、そして特定の土地の記憶と結びついた地域伝承。これらの文化的表象を追跡することで、伝説がいかにして国民的記憶へと定着していったかを明らかにする。
卜部季武の物語は、書物の中に留まらなかった。室町時代に大成された能(謡曲)や、古くから各地の神社で奉納されてきた神楽といった舞台芸術の演目として採用されたことで、彼の名は広く大衆に浸透していった。
能の演目としては、酒呑童子討伐を主題とする『大江山』が名高い 7 。この作品では、頼光や四天王が厳かな謡と囃子に乗せて、鬼の岩屋での緊迫したやり取りや、勇壮な立ち回りを演じる。また、各地の神楽においても、季武は人気の登場人物であった。『土蜘蛛』、『滝夜叉姫』、『子持山姥』といった演目は、今日でも多くの神楽団によって受け継がれており、季武は主君や同僚と共に、面や華麗な衣装をまとって舞台を舞う 7 。
これらの舞台芸術が果たした役割は極めて大きい。文字を読み書きできる層が限られていた時代において、謡曲や神楽は、物語を視覚的・聴覚的に体験させる最も強力なメディアであった。観客は、目の前で繰り広げられる英雄たちの活躍に固唾を飲み、鬼や妖怪の恐ろしさに震え、そして悪が滅ぼされる結末に喝采を送る。このライブ感あふれる体験を通じて、卜部季武の英雄像は、もはや一部の教養層が知るだけの物語ではなく、農村の祭りの夜に誰もが胸を躍らせる、庶民の娯楽と信仰の一部へと昇華された。これにより、彼の伝説は日本人の集合的記憶の奥深くに、確固たる地位を築いていったのである。
江戸時代に入ると、出版文化の隆盛に伴い、卜部季武を含む頼光四天王の人気は絶頂期を迎える。通俗軍記物である『前太平記』などが広く読まれ、彼らの武勇伝は講談や草双紙の格好の題材となった 22 。そして、この英雄譚に決定的な視覚イメージを与えたのが、当代随一の絵師たちが描いた浮世絵、特に武者絵であった。
幕末の浮世絵界に彗星の如く現れた歌川国芳は、「武者絵の国芳」として名を馳せ、頼光四天王を題材にした数多くの作品を残した 41 。その豪快でダイナミックな作風は、英雄たちの力強さを見事に表現し、大衆の人気を博した。そして、国芳の弟子筋にあたり、幕末から明治にかけて活躍した「最後の浮世絵師」月岡芳年は、師の系譜を受け継ぎつつ、より写実的で繊細な表現を加えた傑作を生み出した 43 。
芳年が描いた卜部季武の浮世絵の中でも、特に傑作として知られるのが、慶応元年(1865年)に発表された「和漢百物語」シリーズの一枚、「主馬介卜部季武」である 15 。この作品は、季武が産女と遭遇する、あの有名な逸話を描いたものである 6 。闇に包まれた川辺で、背後に不気味な産女の影が迫る中、季武は差し出された赤子を、動じることなく冷静な横顔で受け取っている。この一枚の絵は、これまで文章で語られてきた季武の「豪胆さ」や「冷静沈着さ」という内面的な特質を、誰もが一目で理解できる強烈な視覚情報へと変換した。この芳年によって完成されたイメージの力は絶大であり、現代に至るまで、我々が卜部季武という人物を想起する際の、基本的な視覚的テンプレートとして機能し続けている。彼の姿は、江戸から明治へと至る浮世絵のダイナミックな変遷の中で、最高の絵師たちによって磨き上げられ、完成されたのである。
全国区の英雄である卜部季武の伝説は、時として特定の地域の歴史や信仰と深く結びつき、その土地ならではの物語として語り継がれることがある。その代表的な事例が、兵庫県宝塚市山本地区に残る伝承である。
この地に鎮座する松尾神社の縁起によれば、この神社は坂上田村麻呂の子孫である「浦辺坂上季猛」、すなわち卜部季武が、安和年間(968年 - 970年)に祖先・田村麻呂を土地の神として祀るために創建した「将軍宮松尾丸社」が起源であると伝えられている 7 。この伝承は、抽象的な物語上の英雄を、具体的な土地の歴史の中に根付かせる「土着化」の典型的なプロセスを示している。
この地に季武の伝承が生まれたことには、地理的な必然性も考えられる。摂津国は、源頼光の父・満仲が多田に本拠を構えて以来の清和源氏の地盤であり、その郎党である季武の物語がこの地域に根付くのは自然な流れである 17 。また、この地で勢力を持っていた山本氏のような一族が、自らの祖先を、全国的に著名な英雄である坂上氏(卜部季武)と系譜的に結びつけることで、一族の権威を高めようとしたという、政治的な意図が背景にあった可能性も推測される 7 。
伝説は、このようにして具体的な場所や神社、一族の歴史と結びつくことで、単なる「お話」から、その土地のアイデンティティを構成する重要な一部へと昇華される。そして、地域の祭事などを通じて繰り返し語られ、演じられることで、物語は世代を超えて受け継がれる強固な文化的遺伝子となる。宝塚市の伝承は、卜部季武という英雄が、いかにして人々の生活の中に生き続けてきたかを示す、貴重な証言なのである。
本報告書で詳述してきたように、平安中期の武将・卜部季武の実像は、歴史の記録の中にはほとんど見出すことができない。同時代の一次史料における彼の名は、完全な沈黙に包まれている。しかし、皮肉なことに、その史実上の「空白」こそが、後世の人々が理想の武士像を自由に投影するための、広大で豊饒なキャンバスとなった。
卜部季武という人物像は、幾重もの物語的な属性を重ね着することで形成された、文化的な創造物である。彼は、神事に通じる祭祀氏族の神秘性(卜部)を帯び、武士の代名詞たる姓(平)を名乗り、そして日本最強の鬼退治の英雄の血統(坂上)を引くとされた。その活躍は、理想的な武士が備えるべき資質のすべてを網羅している。集団の一員としては、主君・源頼光への絶対的な忠誠を尽くし、王権の代行者として大江山の鬼を討つ(酒呑童子討伐)。個人としては、いかなる超常的な危機に際しても動じない、鋼の精神力を示す(産女との遭遇)。そして、主家の権威の象徴である宝刀が危機に瀕した際には、身を挺してそれを取り戻す(滝夜叉姫伝説)。これらは、中世から近世にかけて日本の人々が「武士」という存在に求めた、武勇、忠誠、そして何よりも「胆力」という理想の姿そのものである。
したがって、卜部季武の物語を追うことは、一人の人間の伝記をたどる作業とは本質的に異なる。それは、日本文化が数百年という長い時間をかけて丹念に練り上げた、「英雄の肖像画」を鑑賞する行為に他ならない。史実の彼方に消えた一人の武人の名は、伝説の此方で不滅の輝きを放ち続けている。彼の姿を追う旅路は、史実の人物を探求すること以上に、日本人の心性や、時代が求めるヒーロー像の変遷を理解するための、尽きることのない示唆に富んだ探求なのである。