本報告は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、蝦夷地(現在の北海道)の松前藩に仕えた武将、厚谷四郎兵衛貞政(あつや しろべえ さだまさ)に焦点を当てる。現存する史料に基づき、その出自、事績、特に寛永十四年(1637年)に発生した福山城火災における顕著な活躍、及びそれに伴う恩賞について詳細かつ徹底的に調査し、その歴史的意義を考察することを目的とする。利用者からの指示に従い、本報告は全て日本語で記述し、不自然な英単語の使用や、特定の箇所のみにマークダウン記述が集中するような不適切な使用を避けるよう留意する。
厚谷貞政が生きた時代は、日本本土においては戦国時代の終焉から徳川幕府による全国統一へと移行する激動の時代であった。しかしながら、蝦夷地においては、和人勢力の進出と先住民族であるアイヌ民族との関係が複雑に展開し、蠣崎氏から名を改めた松前氏がその支配体制を徐々に確立していく過程にあった。この時期の松前藩は、他の多くの藩とは異なり、米作に依存するのではなく、アイヌ民族との交易を主要な経済基盤とする独自の藩体制を築きつつあった点が特筆される 1 。このような蝦夷地という辺境性と、中央政権の動向とは異なる独自の政治経済構造を持つ松前藩の特殊性を認識することは、厚谷貞政の生涯や行動、さらには彼に対する評価を理解する上で不可欠な前提となる。彼の活動や功績もまた、この特異な環境下で形成され、意味づけられたと考えられるからである。
以下に、厚谷貞政に関連する主要な出来事をまとめた略年表を提示する。
表1:厚谷貞政 関連略年表
年代 |
出来事 |
典拠 |
嘉吉元年 (1441年)頃 |
厚谷右近将監重政、比石館を築く |
4 |
長禄元年 (1457年) |
コシャマインの戦い、比石館落城 |
4 |
天文十五年 (1546年) |
厚谷重政(四代比石館主とされる)、蠣崎季広に従い出羽へ従軍 |
6 |
元亀元年 (1570年) |
厚谷季貞(貞政の父)没。厚谷貞政、家督を相続し奥用人兼家老職を継いだとされる |
7 |
慶長九年 (1604年) |
松前藩成立(徳川家康より黒印状) |
1 |
寛永十四年 (1637年) 三月 |
福山城(松前城)大火、焔硝蔵爆発。厚谷貞政、酒井伊兵衛広種と共に藩主松前公広を救出 |
5 |
寛永十四年 (1637年)以降 |
厚谷貞政、藩主救出の功により久遠場所を拝領 |
5 |
厚谷氏の出自に関しては、後世に編纂された家伝によれば、下野国足利(現在の栃木県足利市周辺)の出身であるとされている 10 。この伝承は、松前氏の始祖とされる武田信広もまた、若狭国(現在の福井県の一部)の出身で、下野国足利を経由し、陸奥国田名部(現在の青森県むつ市)に来住したという松前氏側の伝承と軌を一にしており、興味深い。これらの伝承が事実を反映しているとすれば、厚谷氏は、何らかの因縁によって当時の蝦夷地における有力者であった安東氏のもとに集い、新天地を求めて蝦夷へ渡った武士の一族であった可能性が考えられる 10 。
このことは、厚谷氏が単に蝦夷地の土着の有力者であったのではなく、本州にそのルーツを持ち、一定の武士的背景や戦闘技術を有していた集団であったことを示唆している。蝦夷地への和人の移住は、この時代、散発的あるいは集団的に行われており、厚谷氏もそうした流れの中で蝦夷地に渡ってきたのであろう。松前氏の祖との関連が伝えられている点は、両家が古くから何らかの結びつきを持っていたことを強調する意図が後に込められた可能性も否定できないが、一方で、安東氏の勢力圏内において、共に活動した歴史的背景を反映している可能性も考慮されるべきである。
諸文献によれば、厚谷氏は渡島半島南部の上之国(かみのくに)に位置する比石館(ひいしだて)の館主であったことが確認できる。初代の館主は、畠山重忠の一族であるとも伝えられる厚谷右近将監重政(あつや うこんのしょうげん しげまさ)であり、嘉吉元年(1441年)頃に蝦夷地へ渡り、この比石館を築いたとされている 4 。比石館は、三方が水に面した断崖の上に築かれ、残る一方も空堀で防御するなど、地形を巧みに利用した堅固な要害であったと描写されている 5 。
しかし、蝦夷地の和人史において重要な画期となる長禄元年(1457年)に発生したコシャマインの戦いにおいて、この比石館はアイヌ勢力の攻撃を受けて陥落し、館主であった重政も討死を遂げたと伝えられている 4 。この戦いは、蝦夷地における和人支配のあり方に大きな影響を与えた事件であった。
その後、時代は下り、『新北海道史』などの記録によれば、天文十五年(1546年)、当時勢力を伸長しつつあった蠣崎季広(かきざき すえひろ、後の松前氏の基礎を築いた人物)が出羽国(現在の秋田県・山形県)への軍事行動を起こした際、比石館の第四代館主であったとされる厚谷重政(前述の初代重政とは時代が異なるため、同名の別人か、あるいはその子孫か)が、蠣崎氏の軍勢に従軍したとの記述が見られる 6 。
比石館主としての厚谷氏の存在は、松前氏(蠣崎氏)が蝦夷地における覇権を完全に確立する以前の、道南十二館などに代表される和人領主が割拠していた時代の様相を反映している。コシャマインの戦いにおける比石館の落城と、その後の蠣崎氏への従軍という記録は、当時の蝦夷地における和人勢力間の興亡と、それに伴う主従関係の複雑な変化を象徴する出来事と言えるだろう。厚谷氏が蠣崎(松前)氏の家臣団に組み込まれていく背景には、こうした軍事的・政治的な力関係の変動があったと推測される。
以下に、厚谷貞政を中心とした略系図を示す。
表2:厚谷氏略系図(貞政中心)
厚谷右近将監重政(初代比石館主、15世紀中頃)[4, 5]
|(数代不明)
厚谷重政(四代比石館主とされる、天文十五年活動)[7]
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厚谷季貞(備中守、奥用人兼家老職、元亀元年没)[7]
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厚谷四郎兵衛貞政(季貞の子、寛永十四年活動)[6, 7]
厚谷貞政の直接の父は、厚谷季貞(あつや すえさだ)であると記録されている 7 。この季貞は、前述の天文十五年(1546年)に蠣崎季広に従軍した厚谷重政の子であり、厚谷氏の第五代当主にあたるとされる 7 。
季貞の事績として特筆すべきは、天正十八年(1590年)、松前慶広(まつまえ よしひろ、後の初代松前藩主)によって「奥用人兼家老職」という重要な役職に任じられたという記録である 7 。奥用人および家老職は、藩主の側近として藩政の中枢に関与する役職であり、この事実は、厚谷家が松前家中において既に重きをなす存在であったことを明確に示している。
この厚谷季貞は、元亀元年(1570年)に病により死去し、その子である厚谷四郎兵衛貞政が家督を相続し、父の職責を継いだとされている 7 。この家督相続の時期は、日本本土においては織田信長が台頭し、戦国時代が新たな局面を迎えていた頃であり、貞政がまさに戦国時代の動乱の最中にそのキャリアを開始したことを意味する。また、『厚谷家記』には、季貞の代に松前藩の家臣となっていたとの記述も見られるとされ、これは厚谷家が松前氏の支配体制確立の過程で、その家臣団に組み込まれていったことを裏付けている 6 。
貞政の父・季貞が松前氏の家老職という要職にあったという事実は、貞政が家督を相続した時点で、既に松前藩内における厚谷家の地位がある程度確立されていたことを物語っている。したがって、貞政の後の活躍の背景には、父祖代々にわたる松前氏への貢献と、それによって築かれた信頼関係があったと考えることができる。元亀元年という早い時期の家督相続は、彼が戦国時代の気風が残る中で成長し、その後の江戸時代初期という新たな時代への移行期を、松前藩の家臣として生き抜いた人物であることを強く印象付ける。
厚谷四郎兵衛貞政は、父・季貞の跡を継いで松前藩に仕えた。彼の具体的な役職については、寛永十四年(1637年)の福山城火災以前の記録では必ずしも明確ではない。しかし、後述する火災の際に、当時の寺社町奉行であった酒井伊兵衛広種と共に藩主を救出したという顕著な行動が記録されていることから 6 、彼もまた藩政において一定の責任ある立場、あるいは藩主の近辺に仕えるような職務に就いていたと推測される。藩主の危機に際して迅速かつ的確に行動できたのは、そのような立場にあったからこそ可能であったと考えられる。
松前藩の家臣団における厚谷家の位置付けとして、旧比石館主としての家柄を有していたことから、「弓之間席」という席次に列せられていた可能性が指摘されている 11 。弓之間席が具体的にどのような序列や職務を意味するのかは、さらなる史料の検討を要するが、一定の家格を持つ家臣が列せられるものであったとすれば、厚谷家が藩内で相応の待遇を受けていたことを示唆する。
寛永十四年(1637年)三月二十八日(旧暦)、松前藩の居城である福山城(後の松前城)において、城中から火の手が上がった 8 。この火災は、折からの強風に煽られた可能性も考えられ、火勢は瞬く間に拡大し、城内の焔硝蔵(火薬庫)に保管されていた硝薬瓶に燃え移り、大規模な爆発を引き起こしたと記録されている 8 。
この爆発を伴う大火の結果、福山城は甚大な被害を被り、城内の建造物の多くが焼失した。さらに、松前氏に代々伝来してきた貴重な武器や財宝、そして藩政運営に不可欠な古文書や記録類のほとんどがこの火災によって灰燼に帰した 8 。これは、松前藩の歴史と文化、そして統治システムにとって計り知れない損失であった。
当時の松前藩主は、第二代の松前公広(まつまえ きんひろ)であった 9 。公広自身もこの火災に巻き込まれ、火傷を負うなど、その生命すら危ぶまれる危険な状態に陥った 8 。『福山秘府』などの記録によれば、公広はこの火災で負った火傷を治療するため、知内温泉(現在の北海道上磯郡知内町)で湯治を行い、予定されていた江戸への参府を中止せざるを得なかったと伝えられている 13 。
福山城が炎上し、焔硝蔵の爆発によって混乱と危険が極限に達するという危機的状況下において、厚谷四郎兵衛貞政は、当時、松前藩の寺社町奉行の職にあった酒井伊兵衛広種(さかい いへえ ひろたね)と共に、燃え盛る城内から藩主松前公広を救出した。この勇敢な行動は、『新北海道史年表』、『福山秘府』、『厚谷家記』といった複数の信頼性の高い史料に一致して記録されており、歴史的事実として確立している 6 。
特に、上之国町教育委員会の説明板の記述を引用した資料によれば、「貞政が一命を捨て藩主公広を救った功により」と記されており 5 、その救出活動が自らの生命の危険を全く顧みない、文字通り命懸けの非常に困難なものであったことが強調されている。焔硝が爆発し、火勢が最も激しい中での救出は、想像を絶する困難と恐怖を伴ったはずであり、貞政と広種の行動は、単なる職務遂行という範疇を遥かに超えた、主君に対する強い忠誠心と並外れた勇気の現れであったと言える。この出来事は、松前藩の歴史において、藩主の危機を救った忠臣の美談として、永く語り継がれるべきものである。
藩主松前公広の生命を救うという、家臣として最大級の功績を挙げた厚谷貞政に対し、松前藩は相応の褒賞を与えた。複数の資料によれば、貞政はこの功績により、久遠場所(くどおばしょ、現在の北海道久遠郡せたな町久遠付近と推定される)を知行地として拝領したと記録されている 5 。
松前藩における「場所」とは、蝦夷地特有の知行形態であり、藩士に対して給与された特定の地域におけるアイヌ民族との交易権や漁業権などを含むものであった 1 。米作が困難であった蝦夷地において、これらの「場所」からの収益は、藩士にとって極めて重要な経済的基盤であり、その価値は非常に高かった。場所の規模や収益性によって藩士の序列や生活水準が大きく左右されるため、新たな場所の拝領や、より収益性の高い場所への移封は、家臣にとって最大の関心事の一つであった。
久遠場所が具体的にどの程度の規模や収益性を持っていたのか、その詳細に関する情報は提供された資料からは判然としない。しかし、藩主の生命を救ったという比類なき功績に対する恩賞であることから、相当に価値の高い、収益の大きな場所であったと推測するのが自然であろう。この久遠場所の拝領は、厚谷貞政の忠義と勇気が藩主および松前藩によって最大限に評価されたことを具体的に示すものであり、単なる経済的な報酬に留まらず、彼の家格と名誉を一層高めるものであった。松前藩独自の「場所制度」という文脈の中でこの恩賞を捉えることで、その重要性はより一層明確になる。この出来事は、厚谷家の松前藩における地位をさらに強固なものとし、その後の家の存続と発展に大きく寄与したと考えられる。
厚谷四郎兵衛貞政の最も輝かしい事績である寛永十四年の福山城火災における藩主救出以降の晩年や、彼の正確な生没年、さらには墓所の所在地に関する具体的な情報は、提供された資料の中には乏しい。一部資料 7 で「生没年未詳」と記されているのは、貞政の父祖である厚谷重政(天文十五年に活動した人物)に関するものであり、貞政自身のものであるかは判然としない。また、徳川譜代の青山氏家臣に関する厚谷貞政の記録 14 も存在するが、これは松前藩の貞政とは明らかに別人である可能性が極めて高い。
藩主の命を救うという多大な功績を挙げた人物でありながら、その後の詳細な記録が少ないという事実は、いくつかの可能性を示唆する。一つには、当時の地方藩における一個人の記録保存には限界があり、特に大きな事件に関わらない限り、詳細な記録が残りにくいという事情が考えられる。あるいは、藩主救出という大功を立てた後、貞政の生涯が比較的平穏無事であったため、特筆すべき事件が少なく、記録として残る機会が少なかったのかもしれない。いずれにせよ、彼の晩年に関する具体的な情報を得るためには、松前藩関連の古文書や『厚谷家記』のような家伝史料のより詳細な調査が今後の研究課題として求められる。
厚谷貞政の功績の後、厚谷家が松前藩においてどのような道を辿ったのかについても、断片的な情報しか得られていない。一般的に、厚谷氏の子孫は代々松前藩に中堅の武士として仕えたと伝えられている 4 。これは、貞政が打ち立てた功績の余光が、その後も一定期間、厚谷家の家名を支え、藩内での地位を維持する助けとなった可能性を示唆している。
しかしながら、あるウェブサイトの掲示板における書き込み 15 によれば、『函館・道南大事典』という文献の厚谷貞政および厚谷重好(しげよし、貞政との関係は不明)の項目に、「重好の子孫が断絶した」との記述があると言及されている。この情報が貞政の直系や本家に関するものであるのか、またその情報の信頼性については、原典である『函館・道南大事典』を直接確認し、慎重に検証する必要がある。
厚谷家の系図に関しては、いくつかの資料 10 に断片的な人名リストが見られるものの、これらの情報から貞政以降の明確な家系の繋がりを詳細に追跡することは、現時点では困難である。
戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会においては、家の盛衰は常であり、主君への忠功によって一時的に家が興隆したとしても、それが永続的に保証されるわけではなかった。厚谷家がその後も松前藩に仕え続けたという伝承と、子孫の断絶に関する情報が混在している状況は、まさにそのような武家の常を反映しているのかもしれない。貞政の功績が家名存続の一助となったことは想像に難くないが、その後の厚谷家の詳細な動向については、さらなる史料の発見と分析が待たれる。
厚谷四郎兵衛貞政は、日本史における大きな転換期である戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけて、北辺の蝦夷地松前藩の藩士としてその生涯を送った人物である。彼の名は、今日まで主に、寛永十四年(1637年)に発生した福山城の大火という未曾有の危機に際し、燃え盛る城内から藩主松前公広を自らの危険を顧みずに救出した忠勇の士として記憶されている。この生命を賭した行為は、当時の武士道精神の極致とも言えるものであり、その功績によって久遠場所という重要な知行地を拝領した事実は、彼の行動が藩主および藩によって最大限に評価されたことを明確に物語っている。
また、貞政が、かつて比石館主として一定の勢力を有した厚谷氏の家系に連なる人物であり、父・季貞も松前慶広の家老職を務めるなど、父祖代々松前氏に仕えてきたという背景も、彼の揺るぎない忠誠心の基盤を形成した重要な要素であったと考えられる。彼の行動は、個人の資質のみならず、家に伝わる奉公の精神の発露であったとも言えよう。
本報告は、現時点でアクセス可能であった研究資料に基づいて構成したが、厚谷貞政の個人的な側面、藩政における他の具体的な貢献、藩主救出後の晩年の詳細、そして厚谷家の子孫の具体的な動向については、依然として不明な点が多く残されている。これは、地方の一家臣に関する記録が、中央の著名な人物や大名家の記録ほど豊富には残存していないという、歴史研究における一般的な史料的制約に起因する部分が大きい。
しかしながら、『厚谷家記』のような家伝史料の原本や、松前藩に関連する未調査の古文書、日記、その他の記録類が今後発見され、詳細な分析が進められることによって、厚谷貞政という人物、そして彼が属した厚谷家に関する我々の理解が一層深まることが期待される。
現状では、厚谷貞政の歴史的評価は、主に福山城火災における英雄的行為に集約されている。これは、その行為が記録として残りやすい顕著な事件であったためであろう。彼の生涯全体や、松前藩政における他の具体的な貢献については、史料の制約から詳述が難しいものの、危機に際して藩主の生命を救ったという一点だけでも、彼の名は松前藩史において特筆されるべき存在であり、主君への忠義を貫いた武士としての典型例として評価することができる。