古田重勝は、戦国時代の終焉から江戸幕府の成立という、日本史上最もダイナミックな転換期を生き抜き、大名へと駆け上がった人物である。しかし、同族の著名な茶人・古田織部(重然)との混同や、彼が築いた大名家が早期に改易(所領没収)されたことなどから、その功績や実像は十分に知られているとは言い難い。豊臣家臣として伊勢松坂に3万5千石を領し、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げ、加増されたという断片的な情報は、彼の生涯のほんの一面に過ぎない。本報告書では、点在する史料を丹念に紐解き、古田重勝という一人の武将の出自、功績、そして一族の運命までを多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。
本報告書は、重勝の出自と生年にまつわる謎から説き起こし、父の死という悲劇を乗り越えて豊臣政権下で台頭する過程を追う。キャリアの頂点となった関ヶ原の戦いにおける戦略的な判断、伊勢松坂藩の初代藩主としての治世を詳述する。特に、長らく混同されてきた古田織部との関係性については独立した章を設け、その誤解の実態と、史料に残る実際の交流について深く考察する。最後に、彼の死後、一族が辿った栄光と悲運の軌跡を明らかにすることで、古田重勝という人物の歴史的評価を試みる。
古田重勝の生涯を理解する上で、まず直面するのがその生年にまつわる問題である。史料によって記述が異なり、主に二つの説が存在する。一つは永禄3年(1560年)説 1 、もう一つは天正6年(1578年)説である 3 。
この生年の違いは、単なる記録の誤りという以上に、彼の人物像と経歴の解釈を根本的に左右する重要な分岐点となる。もし天正6年(1578年)説を採るならば、父・重則が戦死した天正7年(1579年)の時点で重勝はわずか1歳に過ぎない。この年齢で家督を継ぎ、その後の豊臣政権下で武将として活動を開始するには、年代的な矛盾が生じる。一方で、永禄3年(1560年)説であれば、父の戦死時に19歳となり、家督を相続して武将としてのキャリアを歩み始めるのに極めて現実的な年齢である。その後の小田原征伐や文禄の役への従軍、そして慶長11年(1606年)に没した際の享年(47歳)を考慮しても、永禄3年説の方が彼の経歴全体とより自然に整合する。この年代の不確実性そのものが、重勝に関する記録が後世において錯綜した一因とも考えられ、本報告書では、より蓋然性の高い永禄3年説を主軸として論を進める。
古田氏の出自は、美濃国本巣郡を本拠とする一族であったとされている 4 。江戸時代の地誌である『美濃国諸旧記』には、重勝が美濃国山口城で生まれたとの記述も見られる 5 。この美濃という土地は、後の彼のキャリア、そして同族の古田織部との関係を考える上で重要な背景となる。
古田重勝の名は、茶人として絶大な名声を誇る古田織部(重然)と長らく混同されてきた。江戸時代に編纂された史料の中には、織部のことを「古田織部正重勝」と誤記する例が散見される 5 。しかし、両者は同族ではあるものの別人であり、親子や兄弟といった直接的な血縁関係ではない。系譜によれば、重勝の祖父は五郎右衛門、織部の祖父は総兵衛(民部)とされ、それぞれ別の家系に属していた 5 。
この混同が生じた背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、両者が同じ「古田」姓であったこと。第二に、共に美濃出身であり、織田信長、豊臣秀吉に仕えたという共通の経歴を持つこと。そして第三に、伊勢国との関わりである。重勝は伊勢松坂藩主となり、一方の織部の一族も伊勢国員弁郡を本貫(ルーツ)としていた 4 。これらの要素が絡み合い、後世において両者の人物像が混ざり合ってしまったと推察される。一部の資料に見られる「重勝は織部の息子」といった記述 8 は、この混同から生じた明確な誤りである。
両者の違いを明確にするため、以下の表にその経歴をまとめる。
項目 |
古田 重勝(ふるた しげかつ) |
古田 重然(ふるた しげなり/しげてる) |
通称 |
兵部少輔 |
織部(おりべ) 、左介 |
生没年 |
永禄3年(1560年) - 慶長11年(1606年) |
天文13年(1544年) - 元和元年(1615年) |
出自 |
美濃国本巣郡の一族 4 |
美濃の土岐氏家臣。本貫は伊勢国員弁郡 4 |
主な功績 |
武将、伊勢松坂藩初代藩主(5万5千石) 1 |
大名茶人、 茶道織部流の祖 6 |
最期 |
江戸にて病死 5 |
大坂の陣後、豊臣方内通の嫌疑で 切腹 11 |
知行 |
最大5万5千石 5 |
最大1万石 6 |
この表が示すように、重勝は武将・大名として政治の世界で確固たる地位を築いたのに対し、織部は武将でありながらも文化人として「織部好み」という一大流行を生み出した。両者は全く異なる分野で頂点を極めた、同族の偉人だったのである。
重勝のキャリアの原点には、父の死という悲劇的な出来事があった。天正年間、織田信長の天下統一事業は播磨国(現在の兵庫県南西部)へと及び、信長の命を受けた羽柴秀吉は、織田家に反旗を翻した別所長治が籠る三木城の攻略にあたっていた。この戦いは、城への兵糧補給路を完全に遮断し、城兵を飢餓に追い込むという「三木の干殺し」として知られる、戦国史上屈指の壮絶な包囲戦であった 13 。
秀吉軍の一員としてこの戦いに加わっていたのが、重勝の父・古田吉左衛門重則である。天正7年(1579年)、三木城内へ兵糧を運び込もうとする別所方の部隊と、それを阻止しようとする秀吉方の間で局地的な戦闘が発生した。この一子坂付近での小競り合いにおいて、重則は奮戦の末、討死を遂げた 14 。これは、数万の軍勢が激突するような大会戦ではなく、長期にわたる包囲戦の中で兵站線を巡って繰り広げられた無数の小戦闘の一つであった。この死は、三木合戦の過酷さと、最前線で戦う武将たちが常に死と隣り合わせであった現実を物語っている。
父の突然の戦死により、当時19歳(永禄3年説に基づく)であった重勝は、古田家の家督を相続することとなった 15 。この出来事は、重勝にとって個人的な悲劇であったと同時に、彼の将来を決定づける重要な転機となった。戦国時代において、主君のために命を捧げる「忠死」は、その子孫が主君から特別な恩顧を受けるための最も正当な根拠と見なされていた。父・重則の死は、古田家と主君である羽柴(豊臣)家との間に、「主君のために命を落とした忠臣の子」という、極めて強固な関係性を構築したのである。重勝がその後、秀吉に重用され、順調に立身出世の道を歩むことができた背景には、この父の死が「政治的資産」として機能していた側面があったことは想像に難くない。彼が相続したのは、単なる家督や家臣団だけではなく、豊臣政権下で生き抜くための強力な後ろ盾でもあったのだ。
父の跡を継いだ重勝は、羽柴秀吉に仕え、武将としての経験を積んでいく。秀吉が天下統一を推し進める中で行われた天正18年(1590年)の小田原征伐や、その後の文禄元年(1592年)から始まった文禄の役(朝鮮出兵)にも従軍した記録が残っている 5 。これらの戦役を通じて、彼は着実に武功を重ね、秀吉からの信頼を得ていったと考えられる。当初は近江国日野(現在の滋賀県日野町)周辺に所領を与えられていたとされる 1 。
重勝のキャリアにおける最初の大きな飛躍は、文禄4年(1595年)に訪れる。この年、彼は秀吉から伊勢国松坂城を与えられ、3万4千石(史料により3万5千石とも 15 )を領する大名へと抜擢されたのである 5 。
この大抜擢の背景には、豊臣政権を揺るがした一大政変、「豊臣秀次事件」が深く関わっている。重勝が松坂城主となる直前、この城を治めていたのは服部一忠という武将であった 9 。服部一忠は、秀吉の甥であり、既に関白の位にあった豊臣秀次と近い関係にあった。しかし、文禄4年、秀吉は秀次に対して謀反の嫌疑をかけ、高野山にて切腹を命じる。さらに、秀次の一族や側近、連座した大名を大規模に粛清した。服部一忠もこの事件に連座し、改易、すなわち所領を没収されてしまったのである 9 。
重勝は、この粛清によって生じた政治的な空白を埋める形で、後任として松坂城主に任命された。これは、彼が秀吉から見て、特定の政治派閥に属さず、忠実で「安全」な武将と評価されていたことを強く示唆している。父の忠死という背景も、この判断に影響したかもしれない。結果として、重勝は豊臣政権の内部危機を好機とし、自身の地位を小領主から一国の大名へと大きく向上させることに成功したのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立は、徳川家康率いる東軍と石田三成らを中心とする西軍との間で、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。豊臣恩顧の大名であった重勝だが、彼は家康率いる東軍に与するという重大な決断を下した 1 。当初、重勝は家康に従い、会津の上杉景勝討伐軍に参加していたが、道中で三成らの挙兵を知ると、急ぎ自身の領国である伊勢松坂へと引き返した 16 。
重勝の主戦場は、美濃国関ヶ原の本戦ではなかった。彼の役割は、自身の領国である伊勢において、西軍の南下を食い止める防波堤となることであった。松坂城に籠城した重勝は、西軍の脅威に備え、巧みな防衛戦略を展開する 20 。
『勢陽雑記』などの記録によれば、彼は大和国(現在の奈良県)から伊勢へと通じる多気、川俣といった街道筋に農民兵を配置し、西軍の侵攻ルートを厳重に警戒した 21 。松坂城にとって最大の脅威は、西軍の本隊が北方の安濃津城を攻略し、そのまま南下してくることであった。この状況を打開するため、重勝は西軍の大軍に包囲され、落城寸前であった安濃津城の城主・富田信高に対して援軍を派遣するという果敢な行動に出る 22 。この援軍は、安濃津城が完全に陥落するまでの時間を稼ぎ、西軍の主力を伊勢方面に引きつけておく上で重要な役割を果たした。結果として、西軍は伊勢の攻略に手間取り、その兵力を関ヶ原の本戦へ集中させることができなかった。重勝の行動は、東軍全体の戦略に大きく貢献するものであった。
関ヶ原での東軍の圧倒的な勝利の後、重勝の功績は家康から高く評価された。特に、伊勢方面で「西軍を引き止めた功」が認められ 5 、戦後、2万石という大幅な加増を受ける。これにより、彼の所領は合計5万5千石となり、ここに伊勢松坂藩が正式に立藩、重勝はその初代藩主となった 1 。
重勝の関ヶ原における成功は、冷静な情勢分析と的確な戦略的判断の賜物であった。豊臣恩顧の大名として西軍に付くという選択肢もあった中で、彼は豊臣家内部の対立構造と、家康の持つ圧倒的な実力を冷静に見極めていたと推測される。そして、関ヶ原の本戦で一か八かの賭けに出るのではなく、自領の地理的優位性を最大限に活かし、伊勢方面での「遅滞戦術」に徹した。これは、最小限のリスクで最大限の戦功を挙げるという、極めて現実的かつ効果的な戦略であった。この勝利により、彼は豊臣政権下の大名から、徳川の治世を支える大名へと、見事な転身を遂げたのである。
時期 |
出来事 |
知行(石高) |
備考 |
文禄4年(1595年) |
伊勢松坂城主となる |
3万4千石 |
豊臣秀吉による任命 9 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦後 |
5万5千石 |
徳川家康による2万石の加増 5 |
元和5年(1619年) |
石見浜田へ転封 |
5万4千石 |
弟・重治の代 23 |
伊勢松坂藩の初代藩主となった重勝は、領国の経営と支配体制の強化に着手する。その中心となったのが、居城である松坂城の改修と増築であった 5 。松坂城は、かつて蒲生氏郷によって築かれた近世城郭の傑作であったが、重勝はこれをさらに拡充した。特に、自身の隠居所として「隠居丸」と呼ばれる曲輪を新たに設けたと伝えられている 25 。この時代の城普請は、単に軍事拠点を強化するだけでなく、藩主の権威を領民や他の大名に示すための象徴的な事業であり、重勝の藩主としての意気込みが窺える。この普請事業は彼の代では完了せず、後を継いだ弟・重治の時代に完成したとされている 27 。
徳川体制下の大名として、重勝は江戸幕府が諸大名に課した全国規模の公共事業(天下普請)にも従事した。記録によれば、江戸城の石垣普請を命じられている 5 。これは、幕府への恭順と忠誠を示す重要な義務であり、これを滞りなく遂行することは、藩の安泰を保つ上で不可欠であった。
重勝の藩主としての治世は、慶長11年(1606年)に没するまでのおよそ10年間と比較的短いものであった。しかし、この期間は関ヶ原の戦乱で疲弊した領国の安定化を図り、松坂藩の藩政の基礎を固める上で極めて重要な意味を持っていた。
第一章で詳述した通り、武将・古田重勝と茶人・古田織部(重然)は、後世においてしばしば混同されてきた。しかし、彼らの生涯と功績は実に対照的である。重勝が武将として、そして大名として、家の存続と発展にその生涯を捧げた現実主義者であったのに対し、織部は武将の身でありながら、千利休亡き後の茶の湯の世界を牽引する革新的な文化人であった。彼は「織部好み」と称される、大胆で自由闊達な美意識を確立し、茶器、建築、作庭に至るまで、安土桃山文化に絶大な影響を与えた 6 。
このように異なる道を歩んだ二人だが、彼らの直接的な交流を示す、極めて貴重な史料が存在する。それは、当時の茶会の記録である『旁求茶会記(ぼうきゅうちゃかいき)』である。この記録によれば、慶長8年(1603年)1月13日、重勝は織部が主催した茶会に、最も身分の高い客を意味する「正客(しょうきゃく)」として招かれている 5 。
この一事実は、単なる親族間の付き合い以上の、深い意味合いを持っている。当時の茶会は、大名や高僧、豪商らが集う重要な社交の場であり、政治的・文化的な情報交換が行われるネットワークの中心地であった。その中でも、千利休亡き後の「天下一」と称された茶人である古田織部の茶会に招かれること自体が、当代一流の人物であることの証であった。さらに、その茶会で主客である亭主の正面に座る「正客」として遇されることは、亭主である織部が客である重勝に対して、最大限の敬意と評価を払っていたことを示している。
これは、重勝が5万5千石の大名という武将としての確固たる地位だけでなく、文化的側面においても高い見識と教養を備えた人物として、当代随一の文化人である織部から認められていたことの何よりの証左である。彼は単なる武辺者ではなく、一流の文化人とも対等に交流できる品格と奥行きを持った人物であったことが、この茶会の記録から鮮やかに浮かび上がってくる。
伊勢松坂藩主として順調な道を歩んでいた重勝であったが、その治世は長くは続かなかった。慶長11年(1606年)、江戸城の普請などに従事していた最中、江戸にて病没した 5 。永禄3年生まれとすれば、享年47歳。藩の礎を築いたばかりの、あまりにも早い死であった。
重勝の死後、古田家は後継者問題に直面する。嫡男の希少丸(後の古田重恒)は、父の死の時点でまだ幼少であった 5 。このため、家督を継ぐには時期尚早と判断され、幕府の許可のもと、重勝の弟である古田重治が家督を継承し、伊勢松坂藩の2代藩主となった 23 。ただし、これは重治が家を乗っ取ったわけではなく、あくまで甥の重恒が成長するまでの「後見人」あるいは「中継ぎ」という立場であった。
元和5年(1619年)、古田家は伊勢松坂から石見国浜田(現在の島根県浜田市)へ5万4千石で転封(領地替え)を命じられる 23 。この転封は、江戸幕府による大名配置戦略の一環であり、古田家にとっては実質的な左遷であった可能性が高い。伊勢松坂は、京・大坂と江戸を結ぶ交通の要衝であり、伊勢神宮を擁する戦略的・経済的に極めて重要な土地である。一方、石見浜田は山陰地方の、当時は比較的辺鄙な土地であった。幕府は、譜代大名や親藩といった信頼の厚い大名を中央や要衝に配置し、関ヶ原の戦いで味方についた外様大名を、次第に中央から遠い土地へ移す政策を推進していた。古田家も外様大名であり 9 、彼らが去った後の伊勢松坂を含む南伊勢の地は、徳川御三家の一つである紀州徳川家(徳川頼宣)の広大な領地の一部に組み込まれた 9 。これは、徳川の治世が盤石になるにつれて、かつての関ヶ原の功臣であった外様大名でさえも、その影響力が相対的に低下していったことを示す象徴的な出来事であった。
石見浜田に移った後、成長した重恒は叔父の重治から家督を譲られ、浜田藩の2代藩主となる。しかし、重恒には世継ぎがおらず、家中では跡目相続を巡る深刻なお家騒動(古田騒動)が勃発した 31 。この内紛は藩を二分する激しい対立に発展し、最終的に、重恒が嗣子のないまま死去したことで、古田家は幕府により改易、すなわち大名としての身分と所領を全て没収される処分を受けた 31 。重勝が一代で築き上げた大名家は、彼の死からわずか40年余りで、歴史の舞台からその姿を消すことになったのである。
古田重勝の生涯は、父の戦死という逆境から始まり、豊臣から徳川へと権力の中心が移り変わる激動の時代を、冷静な判断力と的確な戦略眼で生き抜いた、優れた武将の姿を浮き彫りにする。彼は、感情や旧恩に流されることなく、時代の潮流を読み、自家が生き残るための最も現実的な道を選択した。特に、関ヶ原の戦いにおける東軍への参加と伊勢方面での戦功は、彼と彼の家を一大名へと押し上げる決定的な転換点であり、彼の政治的センスの高さを示すものであった。
彼は伊勢松坂藩の初代藩主として、城の改修や幕府の賦役への対応を通じて、藩政の礎を築いた。その治世は短かったものの、藩祖としての功績は確かであった。しかし、彼が一代で築き上げた5万5千石の大名家は、後継者問題とそれに端を発する内紛によって、彼の死からわずか40年余りで断絶するという悲運に見舞われる。彼の成功と、その後の古田家のあっけない終焉は、将軍の代替わりや跡目問題など、些細なきっかけで家が取り潰される危険と常に隣り合わせであった江戸初期における大名家の存続の困難さを物語る、一つの典型例と言えるだろう。
古田重勝は、同族の偉大な茶人・古田織部の輝かしい名声の影に隠れがちであるが、決して単なる「織部の親族」ではない。彼は、自らの力で運命を切り拓き、戦国の世を生き抜いて大名の地位を掴んだ、独立した一人の武将である。武将として、そして藩祖として、歴史に確かな足跡を残した。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国から江戸への移行期を生きた武将たちの、現実的な生存戦略と栄枯盛衰の実態を理解する上で、非常に価値のある作業であると結論付けられる。