江戸時代初期、徳川幕府による全国支配体制が確立していく激動の時代に、伊勢国松坂藩、そして石見国浜田藩の経営に卓越した手腕を発揮した大名、古田重治(ふるた しげはる)。彼の名は、伊勢松坂藩初代藩主として武功を挙げた兄・古田重勝や、茶の湯の世界に「織部好み」という一大潮流を築いた高名な茶人・古田織部(重然)といった、華々しい一族の存在の陰に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。一般的には、兄の死後、幼い甥が成長するまでの「中継ぎ」として家督を継いだ人物として認識されている 1 。
しかし、その評価は古田重治という人物の一側面に過ぎない。彼の生涯を丹念に追うと、単なる代理の当主という枠を超え、新たな時代の要請に応える優れた行政官(能吏)としての姿が浮かび上がってくる。松坂藩では巧みな経済政策によって藩の基盤を支え、石見浜田ではゼロから城と城下町を創生し、治水事業によって民生の安定を図った。その治績は、後世の浜田の町の骨格を形成する、不滅の功績であった 3 。
本報告書は、古田重治の生涯を、その出自から伊勢松坂藩主時代、石見浜田への転封、そして初代浜田藩主としての都市建設事業に至るまで、現存する史料を基に多角的に検証するものである。兄・重勝や同族・織部との関係性を明らかにするとともに、彼の藩主としての具体的な政策とその歴史的意義を深く掘り下げる。これにより、「中継ぎ」という静的なイメージを覆し、戦国の気風が残る時代から泰平の世へと移行する過渡期において、藩経営の礎を築いた極めて有能な統治者であったという、古田重治の実像を明らかにすることを目的とする。
西暦(和暦) |
重治の年齢 |
古田重治の動向・役職 |
関連事項・人物 |
1578年(天正6年) |
1歳 |
美濃国にて、古田重則の三男として誕生 3 。 |
兄・重勝は19歳。織田信長による天下統一が進む。 |
1606年(慶長11年) |
29歳 |
兄・重勝が江戸で死去。甥・重恒(4歳)が幼少のため、家督を相続し伊勢松坂藩二代目藩主となる 1 。 |
徳川家康が将軍職を秀忠に譲り、大御所となる(1605年)。 |
1609年(慶長14年) |
32歳 |
伯耆国米子城の城番を務める 1 。 |
幕府による大名の統制が強化される時期。 |
時期不詳 |
- |
長女を甥であり養子の重恒の正室とする 7 。 |
古田家の継承体制を盤石にするための婚姻政策。 |
時期不詳 |
- |
松坂藩にて、松ヶ崎の船頭に特権を与える書状を発給 8 。 |
港湾都市・松坂の経済振興策を実施。 |
1615年(元和元年) |
38歳 |
大坂夏の陣。 |
豊臣家が滅亡。徳川による天下泰平が確立。 |
1619年(元和5年) |
42歳 |
大坂の陣の功により、伊勢松坂から石見浜田へ5万4千石で転封 4 。 |
西国外様大名への備えとして、要衝に譜代・親藩大名を配置する幕府の政策の一環。 |
1620年(元和6年) |
43歳 |
浜田城(亀山城)の築城に着手 10 。 |
|
1623年(元和9年) |
46歳 |
浜田城と城下町を完成させる。家督を成長した重恒に譲り、江戸で隠居 4 。 |
重恒は21歳。徳川家光が三代将軍に就任。 |
1625年(寛永2年) |
48歳 |
江戸にて死去 4 。 |
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1648年(慶安元年) |
- |
(死後) |
二代藩主・古田重恒が跡継ぎなく死去。浜田藩古田家は改易となる 13 。 |
古田重治の人物像を理解するためには、彼が生まれた古田一族の背景と、彼を取り巻く二人の重要な人物、すなわち武功に優れた兄・重勝と、文化の頂点に立った同族・織部の存在をまず把握する必要がある。
古田重治は、天正6年(1578年)、美濃国の武士であった古田重則(しげのり)の三男として生を受けた 3 。父・重則は吉左衛門と称し、美濃国山口城を拠点としていたと記録されている 6 。この時期の美濃は、織田信長の支配下にあり、古田氏もまた、信長、そしてその後の豊臣秀吉へと続く天下人の下で、戦国の世を生き抜いた一族であったと考えられる。重治の誕生は、信長が畿内を平定し、天下統一事業を本格化させていた、まさにその時代であった。
重治の人生に最も大きな影響を与えたのが、長兄の古田重勝(しげかつ)である。重勝は永禄3年(1560年)生まれで、重治より18歳も年上であった 5 。早くから豊臣秀吉に仕え、小田原征伐や文禄の役といった主要な戦役に従軍し、武将としてのキャリアを積んだ 6 。その功績により、文禄4年(1595年)には秀吉から伊勢国松坂城を与えられ、大名としての地位を確立する 6 。
豊臣家臣であった重勝だが、天下の形勢を冷静に見極めていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍に与し、西軍の進軍を阻止するなどの功績を挙げた。この働きが戦後高く評価され、2万石を加増されて伊勢松坂5万5千石の大名となったのである 6 。重勝の活躍は、古田家が豊臣政権下で築いた地位を、徳川の世においても大名として維持・発展させるための強固な基盤となった。重治のキャリアは、この兄が築いた「家」の遺産の上に成り立っていたと言える。
古田一族には、もう一人、日本の文化史にその名を刻む傑出した人物がいた。茶人として名高い古田織部(本名:重然、しげなり)である 17 。重治や重勝は、この織部と「同族」ではあったが、直接の兄弟や親子といった関係ではない。史料によれば、重勝の祖父は五郎右衛門、織部の祖父は総兵衛(民部)とされ、家系としては分かれている 6 。しかし、江戸時代の記録には重勝と織部が混同されて記述される例もあり 6 、当時から「古田」姓を代表する人物として、両者が並び称されていたことが窺える。
古田織部は、千利休の高弟七人を指す「利休七哲」の一人に数えられ、利休の死後、茶の湯の世界の第一人者となった 17 。彼の創始した大胆で華やかな美意識は「織部好み」と呼ばれ、茶器のみならず建築や作庭にまで及び、一大流行を巻き起こした 17 。
このような「武」の兄・重勝と、「芸」の同族・織部という二つの大きな存在は、重治の生涯に多大な影響を与えたと考えられる。彼の人生は、兄が武力で獲得した家を安定的に維持・経営するという「守り」の役割を担う一方で、織部に代表されるような当代一流の文化的素養を身につけた、新しい時代の支配者像を体現するものであった。重治の功績が戦闘ではなく、藩政や都市建設といった内政面に集中しているのは、兄・重勝の「武」による領地獲得を、自らの「文」の統治によって完成させるという、明確な役割分担があったからかもしれない。彼は、兄や織部とは異なる形で、古田家の名を歴史に刻んだのである。
古田重治が歴史の表舞台に登場するのは、慶長11年(1606年)、兄・重勝の突然の死がきっかけであった。この予期せぬ出来事により、彼は一族の存亡をかけた重責を担うことになる。
慶長11年(1606年)、伊勢松坂藩主・古田重勝は、江戸城の普請事業に従事している最中、江戸で急逝した 6 。当時、重勝の嫡男であった希少丸(きしょうまる、後の古田重恒)は、数え年でわずか4歳(一説には3歳)という幼児であった 1 。戦国の遺風が未だ色濃く残るこの時代、幼君の下では広大な領地と家臣団を維持することは極めて困難であり、家は容易に取り潰しの危機に瀕する。
この危機に際し、徳川幕府の裁定により、亡き重勝の弟である重治が「中継ぎ」、すなわち後見人として家督を相続することが決まった。これにより重治は、兄が築いた伊勢松坂藩5万5千石の二代目藩主となったのである 1 。これは、古田家の断絶を防ぎ、正統な後継者である重恒が成長するまで家を保全するための、幕府による現実的な措置であった。重治は形式上、藩主となると同時に、甥である重恒を養子として迎え、その後見人としての立場を明確にした 7 。
藩主となった重治は、直ちに統治者としての務めを開始した。慶長14年(1609年)には、改易となった中村家の領地であった伯耆国米子城の受け取り役を、他の大名と共に務めるなど、幕府から命じられる公務を着実にこなしている 1 。
彼の藩主としての資質を最も雄弁に物語るのが、松坂の港町・松ヶ崎の船頭たちに与えた一通の書状、通称「古田大膳書状」である 8 。この文書で重治は、松ヶ崎の船に対し、積み荷が余っている特別な場合を除いて、他所の船に荷を積ませることを禁じるという、一種の独占的な輸送権を保証した。これは、地域の海運業者を保護・育成し、松坂藩の主要港であった松ヶ崎の競争力を高めることで、藩全体の経済基盤を強化しようとする、明確な意図を持った経済政策であった。この特権は、後に古田家が去り、紀州藩領となった時代においても維持されたという事実が、その政策の有効性を物語っている 8 。
重治は、政治的な後見人であると同時に、古田家の血筋を未来へ繋ぐための布石も着々と打っていた。彼は、自身の長女を、養子であり甥でもある重恒の正室として嫁がせたのである 7 。これにより、重治は重恒にとって「叔父」「養父」そして「舅(しゅうと)」という三重の極めて強固な関係を築き上げた。血縁と婚姻という二重の絆によって後継者との結びつきを盤石なものにし、将来起こりうる家督相続を巡る内紛の芽を未然に摘み取ろうとした。
重治の一連の行動は、単なる権力の代行ではなかった。甥を養子とし、娘を嫁がせ、藩の経済基盤を強化し、最終的に家督を完全に譲渡するという流れは、近世初期における「家」の存続を最優先事項とする、極めて忠実かつ計画的な後見人としての理想的な姿を示している。下剋上が常であった戦国の価値観とは一線を画し、幕藩体制下における大名として、個人の野心よりも「家」の永続を重んじるという、新しい時代の支配者像を体現していた。彼の松坂での港湾政策と、後の浜田での治水事業には、「インフラ整備による民生の安定と経済の振興」という一貫した統治哲学が見て取れる。彼は任地が変わっても、同じビジョンに基づき統治を行う、先見性のある行政家だったのである。
元和5年(1619年)2月13日、古田重治の人生は大きな転機を迎える。幕府の命により、伊勢松坂から石見国浜田へ、5万4千石での移封(転封)が決定されたのである 4 。この転封は、彼のキャリアにおける新たな段階の始まりであり、その背景には徳川幕府の深謀な国家戦略が存在した。
この浜田への転封の理由として、複数の史料や伝承は「大坂の陣(1614-1615年)における功績」を挙げている 10 。しかし、重治が具体的にどのような戦闘で、いかなる武功を挙げたのかを詳細に記した一次史料は見当たらない。彼の能力を分析したとされるゲームのデータにおいても、武勇の評価は低く、その特性が戦闘よりも内政や知略にあることが示唆されている 22 。
この事実から、「大坂の陣の功」という言葉の意味を再考する必要がある。これは必ずしも、戦場での華々しい一番槍や敵将の首といった武功のみを指すものではない。むしろ、兵站の維持、物資の調達、城の留守居役、あるいは戦後の混乱収拾といった、彼の優れた行政官としての能力を発揮した「後方支援における功績」であった可能性が極めて高い。戦という巨大な事業を遂行するには、前線で戦う兵士だけでなく、それを支える高度なマネジメント能力が不可欠である。幕府は、重治のそうした縁の下の力、すなわち忠実な管理者としての能力を高く評価したのではないだろうか。
この推論は、転封先である浜田の地政学的な重要性を考慮すると、より説得力を増す。石見国浜田は、日本海に面し、西国、特に長州藩の毛利氏をはじめとする有力な外様大名を監視・牽制する上で、軍事・政治的に極めて重要な戦略拠点であった 26 。徳川幕府は、天下泰平の世を盤石にするため、こうした要衝に信頼できる譜代大名や親藩を配置する政策を進めていた。
幕府がこの西国の喉元とも言える浜田に送り込んだのが、戦闘能力に秀でた猛将ではなく、行政能力と幕府への忠誠心に優れた重治であったという事実は、幕府の意図を明確に示している。幕府が浜田の初代藩主に求めたのは、新たな戦乱の火種となることではなく、安定した統治によってこの地を確実に掌握し、西国への睨みを効かせることであった。
したがって、浜田への転封は、大坂の陣における功績に対する「恩賞」という側面を持ちつつも、本質的には彼の行政手腕と忠誠心を最大限に活用するための、幕府による「戦略的人事」であったと結論付けるのが最も合理的である。彼の武功ではなく、その卓越した統治能力そのものが「功績」として評価され、国家の重要政策を担う大役を任されたのである。
石見国浜田に入封した古田重治は、その卓越した行政手腕を遺憾なく発揮し、わずか数年のうちに、近世都市・浜田の礎を築き上げた。彼の事業は、単なるインフラ整備にとどまらず、軍事・政治・経済の各機能を統合した、包括的な「都市創生プロジェクト」と呼ぶにふさわしいものであった。
転封の翌年である元和6年(1620年)2月、重治は新領地の拠点となる浜田城の築城に着手した 10 。城地として選ばれたのは、浜田川の河口に位置する標高約68メートルの独立した丘陵であった。この地は古くから「鴨山」や「神山」と呼ばれていたが、重治は築城にあたり、長寿や吉兆を象徴する「亀山」へと改名したと伝えられている 24 。この改名には、新たな領地経営の永続を願う彼の強い意志が込められていたであろう。
築城工事は迅速に進められ、元和9年(1623年)5月までのわずか3年余りで、天守閣を備えた梯郭式の平山城として完成した 9 。浜田城は、日本海を望む軍事拠点であると同時に、浜田藩政の中心として、その後約250年間にわたりその役割を果たし続けることになる 11 。
重治のビジョンは、城の建設だけに留まらなかった。彼は城の完成と並行して、計画的な城下町の建設を進めた。浜田川を天然の境界線として利用し、その北側に浜田城と上・中級武士の居住区である「曲輪内(くるわうち)」を配置した 4 。一方、川の南側には、紺屋町や新町、原町など「浜田八町」と呼ばれる商工業者の町人地と、中・下級武士の屋敷を計画的に整備した 4 。
この都市設計は、藩主の居城と政治・行政の中心(武家屋敷)、そして領国の経済を支える商業地区(町人地)を機能的に分離しつつ、一体的に運用するという、近世城下町の典型的な構造を有していた。さらに、城下の東西の出入り口にはそれぞれ三重口番所と青口番所を設置し、人や物資の出入りを厳格に管理することで、城下の治安維持と経済統制を図った 28 。重治が描いたこの都市のグランドデザインは、極めて合理的かつ先見性に富んだものであり、現在の浜田市旧市街地の基礎として、その痕跡を今なお色濃く残している 3 。
城と城下町の建設に加え、重治が力を注いだのが治水事業であった。城下を流れる浜田川と浅井川は、人々の生活や経済活動に恵みをもたらす一方で、ひとたび氾濫すれば甚大な被害をもたらす存在でもあった。重治は、都市の永続的な繁栄のためには、水害の克服が不可欠であると理解していた。彼は両河川の治水工事に積極的に取り組み、堤防の建設や流路の整備を行ったと記録されている 9 。
この治水事業は、領民の生命と財産を災害から守り、農業生産性を向上させることで、藩の財政基盤を安定させるための重要な施策であった。築城、城下町建設、そして治水。これら三つの事業は、それぞれが独立したものではなく、浜田という都市を総合的に創造し、その持続可能性を担保するための、相互に連携した一大プロジェクトであった。古田重治の最大の功績は、この地に永続的な都市機能の礎を、わずか数年で築き上げた、その卓越した構想力と実行力にあると言えよう。
古田重治の人物像を、優れた行政官という側面だけで捉えるのは十分ではない。彼の内面には、当代一流の文化人としての一面が存在し、その文化的素養が彼の治績に影響を与えた可能性を看過することはできない。
重治は、高名な茶人・古田織部(重然)の同族であり、彼自身も茶の湯に深く通じていた。後世の記録には、彼が「織部流五世を嗣ぐ」と伝えられるほどの茶人であったと記されている 30 。この伝承の真偽はさておき、彼が茶の湯文化の深い影響下にあったことは間違いない。その証左として、浜田城築城の際に、茶花として珍重される椿を城山に好んで植樹したという逸話が残っている 30 。この行為は、単なる藩主の趣味という以上に、彼の美意識と文化的背景を物語るものである。
重治が嗜んだとされる織部流茶道は、師である千利休が確立した「静」の侘び茶とは対照的な性格を持つ。織部流は、整然とした調和の中に美を見出すのではなく、意図的に形を歪ませた「破調の美」や、大胆で躍動感あふれる意匠を特徴とし、「動の中の美」を追求した 19 。また、利休が好んだ三畳以下の狭い茶室ではなく、書院のような広間での公式な茶事を想定しており、武家社会の儀礼と強く結びついた「公の茶」、すなわち「武家茶道」の元祖とされている 32 。
この織部流の精神性は、古田重治の浜田における治績と驚くほど響き合う。何もない土地に、わずか3年という短期間で、城郭、武家屋敷、町人地からなる壮大な都市をゼロから創造するという彼の事業は、まさに伝統に囚われず、新しい時代の秩序と美意識を大胆に構築しようとした、織部好みの精神性と通底しているように見える。彼の行った大規模な都市建設は、単なる土木事業ではなく、自らの美意識と構想力を領地というキャンバスに表現する、文化的な創造活動の一環であったと捉え直すことができるかもしれない。彼の政治的・軍事的行動の背後には、茶の湯によって培われた文化的な価値観が存在した可能性は、彼の人物像をより一層、深く、魅力的なものにしている。
浜田の地に不滅の功績を刻んだ古田重治であったが、彼の統治者としての時間は、自らの手で幕が下ろされることとなる。その決断は、彼が後見人として歩み始めた当初からの目的を達成するための、最後の仕上げであった。
元和9年(1623年)5月、浜田城と城下町の完成を見届けた重治は、藩主の座を退くことを決意する。彼は、かつて4歳の幼児であった甥であり、養子であり、そして今や自身の娘婿でもある古田重恒に家督を譲り渡した 4 。この時、重恒は21歳。もはや後見を必要としない、一人の大名として藩を率いるに十分な年齢に達していた。
重治は、兄の死から17年の歳月をかけて、後見人としての責務を完璧に果たした。家を存続させ、藩の基盤を磐石なものとし、そして正統な後継者である重恒に、万全の形でその全てを引き継いだのである。家督を譲った後、彼は政治の第一線から退き、江戸の藩邸で静かな隠居生活に入った 9 。
隠居からわずか2年後の寛永2年(1625年)11月25日、古田重治は江戸の藩邸でその生涯を閉じた。享年48歳であった 4 。兄から家督を継いでから19年、彼はその生涯の後半を、古田家の存続と領地の経営に捧げ尽くした。
古田重治自身の菩提寺は、彼が浜田の地に建立した恵賢寺(えけんじ)であったと伝えられている 35 。この寺は、後の藩主・松平家が菩提寺とした長安院の故地にあったとされる 35 。
一方、二代藩主となった重恒は、初代藩主であり、養父・舅でもある重治を弔うため、新たに宝珠院(ほうしゅいん)という寺院を建立した 37 。重治の死後、重恒自身の菩提寺もこの宝珠院となり、現在、境内には重恒の供養塔である巨大な五輪塔が残されている 35 。なお、重恒の墓所は江戸の高輪泉岳寺にもあり、浜田のものは分骨されたものと考えられている 7 。
古田重治の生涯は、近世初期の大名が直面した課題と、その役割を象徴するものであった。彼が目指した「家」の存続と、彼が成し遂げた「公」の治績。その結末は、歴史の皮肉とも言うべき対照的なものであった。
重治がその生涯をかけて守り、育てようとした浜田藩古田家は、意外なほど早くその終わりを迎える。家督を継いだ二代藩主・古田重恒は、慶安元年(1648年)、跡継ぎのないまま46歳で急逝した 7 。一説には、家臣間の対立である「古田騒動」を悔いて自刃したとも伝えられる 14 。世継ぎがいないことにより、浜田藩古田家は幕府から無嗣改易(むしかいえき)を命じられ、その歴史に幕を下ろした 13 。重治が入封してからわずか30年弱、彼が後見人として家督を継いでから約42年。彼の努力は、血脈の継承という点においては、次代で水泡に帰したのである。
しかし、古田家の血脈が途絶えた一方で、重治がこの地に遺したものは、藩主家の交代という出来事を遥かに超えて生き続けた。彼が築いた浜田城と、その下に広がる計画的な城下町の都市構造、そして氾濫を抑えられた河川は、後に入封した松平家や本多家といった後継の藩主たちにそのまま引き継がれ、江戸時代を通じて浜田藩の政治・経済・文化の中心地として機能し続けた 3 。その骨格は、明治維新を経て近代に至るまで、浜田の町の発展の礎となったのである。
古田重治の生涯は、「家」の存続という武士社会の至上命題に対して、皮肉な結末を迎えた。彼は後見人として、血脈を繋ぐために万全の策を講じたが、その血脈は天命によって次代で途絶えた。しかし、彼が藩主として心血を注いで築き上げた「公」の遺産、すなわち浜田という都市の社会基盤は、一個人の、あるいは一つの「家」の運命を超えて、永続的な価値を持ち続けた。
彼は、武士として「家」を守る戦いには、結果として敗れたのかもしれない。しかし、統治者として「民」の生活を支え、地域の未来を築く戦いには、見事に勝利した。古田重治は、戦乱の世から泰平の世への移行期に現れた、理想的な能吏型大名として、血脈ではなく、その不滅の治績によってこそ、その名を歴史に深く刻んだ人物として最終的に評価されるべきである。