最終更新日 2025-08-03

周布元兼

石見の国人領主・周布元兼は、3歳で家督を継ぎ、毛利氏に帰属。石見銀山を巡る争奪戦や尼子再興軍との戦いに身を投じ、播磨上月城で33歳の若さで戦死。
周布元兼

石見の国人領主・周布元兼 ― 激動の時代を生きた武将の実像

序論:石見の国人領主・周布元兼 ― 激動の時代を生きた武将の実像

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り広げた。その多くは天下人や大大名の影に隠れ、その実像が詳しく語られることは少ない。本報告書で取り上げる石見国の国人領主、周布元兼(すふ もとかね)もまた、そうした武将の一人である。利用者様が事前に把握されていた「1497年から1574年頃に活躍した国人衆の頭領」という情報は、この人物の重要性の一端を的確に捉えている。しかし、近年の研究や史料の分析により、彼の生涯はより具体的かつ劇的な姿で浮かび上がってきた。史料によれば、周布元兼の生没年は**天文15年(1546年)から天正6年(1578年)**とされ、33歳という短い生涯であったことが確認されている 1

元兼が生きた16世紀中頃の石見国は、西に君臨する周防の大内氏、北から勢力を伸ばす出雲の尼子氏、そして安芸から急速に台頭する毛利氏という、中国地方の三大勢力がその覇権を賭けて激しく衝突する、地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。この地で自立を維持しようとする周布氏のような国人領主たちは、常に一族の存亡を賭けた厳しい選択を迫られていた。彼らの決断一つが、地域の勢力図を大きく塗り替える可能性を秘めていたのである。

本報告書は、周布元兼という一人の武将の生涯を、その出自から最期に至るまで丹念に追跡することを目的とする。彼の個人的な物語を深く掘り下げることを通じて、戦国時代における国人領主の生き様、彼らが直面した葛藤、そして時代の奔流の中で遂げた変容の過程を具体的に解き明かしていく。周布元兼の決断と運命は、一個人の物語に留まらず、戦国という時代そのものの力学と、そこに生きた人々のリアルな姿を映し出す鏡となるであろう。

第一章:周布氏の起源と戦国前期の動向

第一節:益田氏からの分立と周布郷への定着

周布氏の歴史を紐解く上で、その出自は石見国で絶大な影響力を誇った名族・益田氏に行き着く。本姓を藤原北家とする周布氏は、益田氏の正統な庶流であり、その祖は益田氏5代当主・益田兼季の子である兼定に遡る 2 。兼定は、石見国那賀郡周布郷(現在の島根県浜田市周布町一帯)の地頭職を得てこの地に定着し、その地名から「周布」を名乗ったのが始まりとされる 3

益田惣領家の本拠地から地理的に離れた周布郷を領有した周布氏は、同じく益田氏の庶流である三隅氏や福屋氏と同様に、鎌倉時代の半ば頃から徐々に惣領家とは一線を画し、独立した領主としての性格を強めていった 3 。この独立志向は、早くも南北朝時代の動乱において顕著に表れる。当時、惣領家である益田氏が北朝方についたのに対し、周布氏は南朝方としてこれと争った記録が残っている 3 。これは単なる一族内の不和ではなく、周布氏が惣領家の意向よりも自らの領国の安定と勢力拡大という、より現実的な利益を優先して行動したことを示している。この早期に形成された自立的な精神と行動原理は、後の戦国時代において、周布氏が激動の情勢を乗り切るための重要な資質となった。彼らが大内氏や毛利氏といった大大名との間で巧みな外交を展開できた背景には、こうした長い歴史の中で培われた独立領主としての気概と現実的な判断力があったと考えられる。

第二節:大内氏の庇護と経済基盤

戦国時代に入ると、中国地方の勢力図は周防国山口を本拠とする大大名・大内氏を中心に展開される。石見国人である周布氏もまた、この巨大な権力体系の中に組み込まれていく。彼らが大内氏に従属したのは、北方の出雲から圧力を強める尼子氏の脅威に対抗するための、地政学的に見て必然的な戦略的選択であった 3

大内氏の庇護下に入ったことで、周布氏は新たな発展の機会を得る。特に重要だったのが、大内氏が掌握していた朝鮮半島との貿易への関与である 3 。周布元兼の先祖にあたる周布和兼の代には、石見の諸豪族の中でもいち早く朝鮮貿易に着手し、その利益によって城下町を大いに発展させたと伝えられている 5 。この海外貿易によってもたらされる富は、単に一族を潤すだけでなく、彼らの軍事力と政治的影響力を支える強力な基盤となった。沿岸部に拠点を持ち、海運の知識に長けていた周布氏は、貿易によって得られる鉄や最新の武具(後には鉄砲なども含まれたであろう)によって軍備を増強し、他の内陸の国人領主に対して優位に立つことができた。この経済力こそが、周布氏が単なる一地方の小領主にとどまらず、地域全体の動向に影響を与えるほどの存在感を示すことを可能にした源泉であった。彼らにとって経済力は、外交交渉における重要な切り札でもあったのである。

第三節:父・武兼の時代と尼子氏の脅威

周布元兼の父であり、周布氏第13代当主であった周布武兼は、外交手腕に優れた有能な領主であった。彼の時代、石見国は尼子氏による侵攻の脅威に常に晒されていた。天文9年(1540年)、尼子氏の当主・尼子晴久が石見に大軍を差し向けた際には、武兼は地域の国人衆を巧みにまとめ上げ、一致団結してこれを撃退することに成功した 6 。この功績に見られるように、彼は反尼子を掲げる石見国人衆の中心的なリーダーとして、地域の防衛に大きな役割を果たした。

武兼の活動は、一貫して大内氏の石見経営を支えるものであった。その忠勤に対し、大内義隆は石見銀山に近接する戦略的要衝である福光郷の所領を与えるなど、武兼を高く評価し、厚遇した 7 。これにより、周布氏は大内氏の石見支配における重要なパートナーとしての地位を確立した。しかし、戦国の世は常に不安定であり、武兼は一族の将来を見据え、天文17年(1548年)に隠居を決意する。そして、家督と所領の全てを、当時わずか3歳であった嫡男の元兼に譲った 1 。この異例とも言える早期の家督相続は、いつ何時、当主が戦乱で命を落とすか分からない厳しい現実の中で、後継者を早期に確定させ、家中の動揺を防ぎ、一族の安泰を図るための、武兼による深慮遠謀の末の決断であったと考えられる。

第二章:毛利氏の台頭と周布元兼の決断

第一節:三大勢力の角逐と石見銀山

16世紀中頃の石見国は、文字通り戦国大名たちの草刈り場であった。その中心にあったのが、当時、世界有数の銀産出量を誇った石見銀山である。この銀山から産出される莫大な銀は、大名たちにとって巨大な軍資金源であり、その支配権を握ることは、地域の覇権を確立する上で決定的な意味を持っていた 8 。大内、尼子、そして毛利の三氏は、この「宝の山」を巡って、血で血を洗う熾烈な争奪戦を幾度となく繰り広げた。

周布氏の本領は那賀郡周布郷であったが、彼らは石見銀山に近い邇摩郡にも福光湊(ふくみつみなと)などの重要な所領を有していた 7 。これは、彼らが単に銀山の周辺に土地を持っていたという以上の意味を持つ。銀山から産出された銀を安全かつ効率的に搬出し、また銀山経営に必要な物資を搬入するためには、港湾施設とそれを結ぶ海上輸送路が不可欠であった。周布氏は、この銀山の物流ネットワークの結節点となる港と、そこに至る海上ルートの一部を掌握していた可能性が高い。つまり、どの勢力が銀山本体を占領したとしても、その富を最大限に活用するためには、物流の「門番」である周布氏の協力が欠かせなかったのである。この戦略的な立地こそが、周布氏にその所領規模以上の影響力を与え、三大勢力が彼らを無視できない存在たらしめていた。彼らの力は、土地そのものだけでなく、重要なインフラを支配することに根差していたと言える。

第二節:毛利氏への帰属と元服

弘治元年(1555年)、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が、厳島の戦いで大内氏の実力者・陶晴賢を討ち破るという歴史的な勝利を収めた。この一戦を境に、西国のパワーバランスは劇的に変化し、長らく中国地方に君臨した大内氏は急速に衰退、滅亡へと向かう。この地殻変動とも言える情勢の変化を、若き周布元兼は見逃さなかった。

父・武兼の代からの反尼子という家の方針とも合致し、かつ将来性を見極めた上で、元兼は厳島の戦いの直後である同年9月には、早くも毛利元就への帰属を表明する 1 。これは、旧来の主家であった大内氏の没落を冷静に判断し、次なる覇者として台頭しつつあった毛利氏にいち早く味方するという、迅速かつ極めて現実的な政治判断であった。

この決断から2年後の弘治3年(1557年)、元兼は12歳で元服の儀式を迎える。この際、毛利元就の嫡男である毛利隆元を烏帽子親(えぼしおや)として迎えた。そして、主君筋にあたる隆元からその諱(いみな)の一字である「元」の字を拝領し、名を「 元兼 」と改めた 1 。これは単なる形式的な儀礼ではない。主君から偏諱を授かることは、主従関係が公式に確立したことを内外に示す、極めて重要な意味を持つものであった。この儀式を経て、周布氏は名実ともに毛利氏の家臣団の一員として組み込まれたのである。毛利氏もまた、元兼の忠誠に応え、旧来の所領を安堵するだけでなく、長門国や石見国邇摩郡内に新たな所領を加増した 1 。これは、毛利氏が周布氏を、今後の石見支配における重要な戦略的パートナーとして高く評価し、その活躍に大いに期待していたことの明確な証左であった。

第三章:毛利家臣としての周布元兼の生涯

周布元兼の生涯は、毛利氏の勢力拡大と密接に連動していた。彼の人生における重要な出来事を、当時の歴史的背景と共に時系列で整理すると、以下のようになる。

年代 (西暦)

周布元兼の動向

関連する出来事(毛利氏・日本)

天文15年 (1546)

周布元兼、誕生 1

天文17年 (1548)

3歳で家督を相続 1

弘治元年 (1555)

毛利元就に帰属 1

厳島の戦い。毛利氏が陶晴賢を破り、防長経略を開始。

弘治2年 (1556)

忍原崩れ。毛利軍が石見銀山を巡り尼子軍に敗北 12

弘治3年 (1557)

12歳で元服。毛利隆元を烏帽子親とし「元兼」と名乗る 1

毛利氏、大内義長を滅ぼし防長を平定。

永禄5年 (1562)

毛利氏、石見銀山を完全に掌握 10

永禄9年 (1566)

第二次月山富田城の戦い終結。尼子氏が滅亡 13

元亀元年 (1570)

本拠・周布城が落城 15

尼子再興軍(山中鹿介ら)が蜂起し、出雲・伯耆で活動 17

元亀4年 (1573)

毛利輝元より兵庫頭の官途を授かる 1

天正6年 (1578)

播磨上月城の戦いで吉川元春軍に属し、 戦死(享年33) 1

上月城落城。尼子勝久自刃、山中鹿介処刑。尼子再興運動終焉。

第一節:国人領主から毛利家臣へ

毛利氏の家臣となった周布元兼の立場は、かつての独立した国人領主から、巨大な大名権力の一翼を担う武将へと大きく変貌を遂げた。この変化は、彼に与えられた所領の配置にも見て取れる。毛利氏は元兼に対し、石見の本領に加えて長門国にも所領を与えた 1 。これは、国人領主を旧来の地盤から部分的に引き離し、大名への経済的・軍事的な依存度を高めることで、その独立性を削ぎ、より強固な主従関係を構築しようとする、毛利氏が他の国人衆にも用いた巧みな支配戦略の一環であった。

元兼は、この新たな体制の中で着実にその地位を固めていく。元亀4年(1573年)には、毛利氏の当主である毛利輝元から、武官としての名誉ある官途である「兵庫頭(ひょうごのかみ)」を授けられた 1 。これは、元兼が単なる一地方の領主としてではなく、毛利家の軍団を構成する正式な武将として、その能力と忠誠を認められていたことを明確に示している。彼はもはや周布郷の領主であるだけでなく、毛利家臣団というより大きな組織の一員としてのアイデンティティを確立していったのである。

第二節:元亀元年の悲劇―周布城の落城

毛利家臣として順調にキャリアを重ねていた元兼であったが、元亀元年(1570年)、彼の本拠地である周布城(別名:鳶巣城)が毛利軍によって攻撃され、落城するという衝撃的な事件が起こる 15 。この時、城主である元兼自身は城を不在にしていた。

一見すると、この事件は元兼に対する毛利氏の懲罰のようにも思える。しかし、史料を詳しく見ると、その背景はより複雑であったことが分かる。落城の原因は、元兼の背信行為ではなく、「家中の反毛利派が反旗を翻した」ためであったと記録されている 15 。この「反毛利派の反乱」は、孤立した内紛と考えるべきではない。この時期、まさしく元亀年間は、かつて毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興を掲げる山中鹿介らの尼子再興軍が、出雲や伯耆を中心に最も活発に活動していた時期と完全に一致する 17 。尼子氏の旧領に隣接する石見国は、この尼子再興戦争の最前線であった。

このような状況を鑑みれば、周布城内での反乱は、尼子再興軍と呼応した動きであった可能性が極めて高い。つまり、元兼の家臣の一部が、主君の不在を好機と捉え、尼子方に寝返って毛利氏の防衛線に内から揺さぶりをかけようとしたのである。忠実な毛利家臣である元兼が公務などで城を離れている間に起きたこの反乱に対し、毛利軍が迅速に軍を派遣してこれを鎮圧したのは、懲罰ではなく、戦略的要衝である周布城が敵の手に落ちるのを防ぐための、当然の対反乱作戦であった。この悲劇は、一人の国人領主が、大大名間の熾烈な戦争の渦中で、自らの家臣団すら完全に統制しきれないという、戦国時代の過酷な現実を浮き彫りにしている。

第三節:最期の戦い―播磨上月城に散る

周布城落城の悲劇を乗り越え、毛利氏への忠誠を貫いた元兼は、やがて中国地方全土を巻き込む、より大きな戦いの渦中へと身を投じていく。天正6年(1578年)、彼は毛利氏の軍事の要である吉川元春の軍団に属し、織田信長軍との勢力争いの最前線となっていた播磨国の上月城攻めに参加した 1 。この城には、織田軍の支援を受けて再起を図る尼子勝久と山中鹿介ら、尼子再興軍の最後の残党が立て籠もっていた。

この戦いは、毛利氏にとって、長年にわたる宿敵・尼子氏の息の根を完全に止めるための総仕上げとも言うべき決戦であった。元兼もまた、一軍の将としてこの重要な戦いに臨んだ。しかし、同年6月9日、激しい攻防戦の最中に元兼は討ち死にした 1 。享年33歳。その生涯は、あまりにも短いものであった。

彼の死は、一人の武将の死に留まらない、象徴的な意味を持っている。かつて石見国周布郷の独立領主としてキャリアをスタートさせた彼は、毛利氏への帰属を経て、その支配体制に組み込まれていった。そして最期は、故郷の石見から遠く離れた播磨の地で、毛利家全体の戦略目標、すなわち織田信長の西進を食い止め、尼子氏を滅ぼすという大局のために命を捧げた。これは、彼のアイデンティティが「周布の元兼」から「毛利の元兼」へと完全に変貌を遂げたことの証左である。彼の生涯の軌跡は、多くの中世的国人領主が、戦国の動乱を経て近世的な大名家臣へと変質していく過程そのものを、凝縮して示しているのである。

第四章:元兼死後の周布一族と後世への遺産

第一節:息子たちの運命

周布元兼の死後、その遺志は息子たちに引き継がれた。嫡男の周布元盛は、父の跡を継いで毛利氏の家臣として仕えた 19 。彼の生涯もまた、父と同様に毛利家への忠勤に捧げられた。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、元盛は吉川広家の軍に属して朝鮮半島へと渡海する。そして、異郷の地で行われた晋州城の戦いにおいて、壮絶な討ち死を遂げた 20

元盛の死により、家督は弟の長次が継ぐこととなった。長次の時代、周布家は再び大きな転機を迎える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、彼らの主君である毛利輝元は西軍の総大将として徳川家康に敗北。その結果、毛利氏は中国地方の大半の領地を没収され、周防・長門の二国(現在の山口県)に減封されることとなった。この時、長次もまた主君に従い、先祖代々受け継いできた故郷・石見の地を永久に離れ、新たな本拠地となった長門国萩へ移住する道を選んだ 2 。父・元兼、兄・元盛の死、そして故郷の喪失と、周布家は二代にわたって毛利家と運命を共にし、多大な犠牲を払い続けたのである。

第二節:長州藩大組筆頭としての周布家

関ヶ原の戦いの後、石見の地を失い、主君と共に萩へ移った周布氏であったが、その忠義は決して忘れ去られることはなかった。新たに成立した長州藩(萩藩)において、周布家は1530石余という非常に高い石高を与えられ、藩の主要な軍事組織である「大組」の筆頭という、極めて名誉ある家格を認められた 3 。これは、減封によって多くの家臣を整理せざるを得なかった毛利家が、周布家に対して破格の待遇を与えたことを意味する。元兼の上月城での戦死や元盛の朝鮮での討ち死に代表される、周布一族の長年にわたる揺るぎない忠誠が、藩主によって高く評価されたことの何よりの証拠であった。

江戸時代中期に長州藩が公式に編纂した家臣の系譜書である『萩藩閥閲録』にも、周布家の由緒や功績が詳細に記録されており、藩内におけるその重要な地位が後世にまで伝えられている 23 。関ヶ原後の危機的な状況において、毛利氏は周布家のような忠誠心の高い中核家臣を厚遇することで、藩の結束を固め、新たな支配体制を構築しようとした。この過程で、周布家は「石見の領主」という地理的なアイデンティティを失う代わりに、「長州藩の永代家臣筆頭」という、新たな地位に基づく格式高いアイデンティティを獲得したのである。これは、彼らが時代の変化に適応し、新たな秩序の中で一族の存続と繁栄を勝ち取ったことを示している。

第三節:幕末の周布政之助との繋がり

周布元兼の血脈は、江戸時代を通じて長州藩士として受け継がれ、幕末の動乱期に再び歴史の表舞台に登場する。元兼から数えて数代後、周布一族の分家から、幕末の長州藩を主導した重要人物、 周布政之助 (1823-1864)が輩出されたのである 2 。政之助は、藩政改革を推し進め、尊王攘夷運動の中心人物として活躍したが、禁門の変などの政変の責任を一身に背負い、自刃するという悲劇的な最期を遂げた 25

周布元兼と政之助の血縁関係を簡潔に示すと、以下のようになる。

世代

人物

備考

益田氏

石見の名族

初代

周布兼定

益田氏より分立 3

(…中略…)

13代

周布武兼

元兼の父 1

14代

周布元兼

本報告書の主題 1

├─ 15代

周布元盛

元兼の嫡男、朝鮮で戦死 19

└─

周布長次

元盛の弟、萩へ移住 2

(…江戸時代の系譜…)

(分家)

周布政之助

幕末の長州藩士 2

元兼と政之助は直系の祖先と子孫ではないが、同じ一族の血を引いている 3 。戦国時代に三大勢力の狭間で一族の存続を賭けて巧みな舵取りを行った元兼の戦略的思考と、幕末の激動の中で藩を率いて国事に奔走した政之助の卓越した政治手腕には、時代は違えど、周布一族に受け継がれた資質と歴史の連続性を感じ取ることができるかもしれない。

結論:戦国国人領主の典型として

周布元兼の33年という短い生涯は、戦国時代を生きた「国人領主」の典型的な軌跡を、鮮やかに体現している。彼の人生は、旧来の地域的な独立性を維持しようとする中世的な在地領主から、巨大な大名権力にその身を組み込まれ、その一翼を担う近世的な家臣へと変貌を遂げていく、過渡期の武将の姿そのものであった。

彼の生涯を追うことは、16世紀後半の中国地方の歴史的ダイナミズムを追体験することに他ならない。大内氏の劇的な没落、それに代わる毛利氏の急速な台頭、天下の趨勢を左右した石見銀山を巡る熾烈な争奪戦、そして西から迫る織田信長との存亡を賭けた対決。元兼は、これら全ての歴史的事件の当事者として、その激流の只中にいた。彼はその中で、常に一族の存続という重責を背負い、冷静な判断力で決断を下し、新たな主君に忠誠を尽くし、そして最後は遠い戦場の露と消えた。

歴史の主役として華々しく語られることは少ないかもしれない。しかし、周布元兼という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた無数の人々のリアルな姿を理解するための、極めて貴重な鍵となる。彼の物語は、同じように時代の波に翻弄されながらも、必死に生き抜いた名もなき多くの国人領主たちの、声なき声の代弁者と言えるだろう。

引用文献

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  4. 萩のお散歩 長州藩の家臣たち 周布家(すふ(う)け) https://hananari.site/?p=1677
  5. 周布 和兼 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/suhu-kazukane.htm
  6. 周布 武兼 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/suhu-takekane.htm
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  9. 武家家伝_石見小笠原氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ogas_iwa.html
  10. 毛利元就28「雲石経略①」 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page107.html
  11. 福光湊 ふくみつみなと - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2024/11/08/204119
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