最終更新日 2025-06-29

土屋昌恒

武田家最後の忠臣 土屋昌恒 ―その伝説と実像―

序章:武田家終焉に咲いた忠義の花

天正10年(1582年)3月11日、甲斐国天目山。かつて戦国最強と謳われた名門・武田氏が、その永きにわたる歴史に幕を下ろそうとしていた。織田・徳川連合軍の圧倒的な兵力の前に、主君・武田勝頼に残された道は、武士としての誇りを保ち自刃することのみであった。その絶望的な状況下、主君が最期の覚悟を決めるための、わずかな時間を稼ぐべく、一人の武将が鬼神の如く奮戦した。その名は、土屋惣蔵昌恒(つちや そうぞう まさつね)。彼の壮絶な戦いぶりは、後に「片手千人斬り」という鮮烈な伝説として語り継がれ、滅びゆく武田家にあって、最後まで忠義を貫いた最後の忠臣として、その名を歴史に深く刻み込むこととなる 1

しかし、この「片手千人斬り」という、あまりにも英雄的な伝説は、土屋昌恒という一人の人間の実像を、かえって覆い隠してはいないだろうか。彼の壮絶な死の背景には、どのような生涯があったのか。彼が背負っていた一族の宿命、兄と養父の死によって突如として担うことになった二つの名家の重責、そして、彼の死がもたらした驚くべき結末とは何だったのか。本報告書は、彼にまつわる伝説を入り口としながらも、『甲陽軍鑑』や『信長公記』といった複数の史料を横断的に分析し、その記述を比較検討することで、伝説の奥に秘められた人間・土屋昌恒の全体像を再構築することを目的とする。

第一章:源流 ― 甲斐源氏の名門・金丸一族

土屋昌恒の比類なき忠義を理解するためには、まず彼の出自である金丸氏が、武田家の中でいかに特別な存在であったかを知る必要がある。彼の行動は、個人の資質のみならず、一族に流れる奉公の精神と深く結びついていた。

1-1. 金丸氏の出自と武田家中の地位

土屋昌恒の生家である金丸氏は、甲斐源氏の嫡流・武田信重の子である光重を祖とする、武田一門に連なる由緒正しい家柄であった 5 。その本拠は、現在の山梨県南アルプス市徳永にあり、長盛院が建つ地に館を構えていたと伝わる 1 。この地は、御勅使川扇状地の東端に位置し、釜無川が深く削り取った断崖を天然の要害とする、軍事上の戦略的要衝でもあった 6

金丸氏は、武田信虎、信玄、勝頼の三代にわたって仕えた譜代の重臣であり、甲斐国内が混乱した室町時代中期から戦国初期にかけても勢力を維持し、武田家の甲斐統一と勢力拡大に大きく貢献した 1 。彼らは単なる家臣ではなく、武田宗家を守護する責務を負った「一門」としての強い自負と忠誠心を持つ一族だったのである。

1-2. 父・金丸筑前守虎義の肖像

昌恒の父は、金丸筑前守虎義(かねまる ちくぜんのかみ とらよし)という 9 。その諱(いみな)に含まれる「虎」の一字は、主君・武田信虎からの偏諱(へんき)であると推察され、虎義が主君からいかに厚い信頼を寄せられていたかを物語っている 11

虎義の武田家中における役割は、極めて重要であった。『甲陽軍鑑』などの記述によれば、彼は若き日の武田信玄(当時は晴信)の傅役(もりやく)を務めたとされ、これは主君の教育と人格形成にまで関わる、家臣として最高の名誉の一つであった 1 。また、武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を預かるなど、武田家中枢において絶対的な信頼を得ていたことがうかがえる 11 。軍事面では信濃の伊那・佐久攻略に参加する一方、外交・調整役としても活躍し、永禄10年(1567年)には、上野国(こうずけのくに)をめぐり、真田幸綱(幸隆)と高坂昌信(春日虎綱)との間の談合を信玄から命じられるなど、文武にわたって信玄を支えた重臣中の重臣であった 11 。このような父の姿は、子である昌恒の武士としての理想像を形成する上で、大きな影響を与えたに違いない。

1-3. 兄弟たちの道 ― 戦略的配置と一族の宿命

金丸虎義には多くの男子がおり、彼らは信玄の家臣団統制戦略の中で、それぞれ重要な役割を担うこととなる 10

  • 次男・土屋昌続(昌次) : 虎義の次男・平八郎は、後に土屋昌続としてその名を馳せる。彼は信玄の奥近習六人衆に抜擢されるほどの寵臣であり、戦功によって名門「土屋」の名跡を継承。武田二十四将にも数えられる、武田家を代表する名将となった 1
  • 三男・秋山昌詮、七男・秋山親久 : 三男の昌詮と七男の親久は、いずれも武田家の譜代家老・秋山虎繁(信友)の婿養子となり、相次いで秋山氏を継承した 11
  • 四男・金丸定光 : 四男の定光(助六郎)は、兄たちが他家を継いだため、金丸家の家督を相続したが、天目山の戦いにおいて弟・昌恒と共に勝頼に殉じ、壮絶な最期を遂げている 11

このように、金丸一族の男子は、自らの家(金丸家)の存続だけでなく、断絶した名家の再興や、有力家臣との姻戚関係の構築という、武田家臣団全体の利益のために戦略的に配置された。これは、個人の都合よりも「公」である武田家の安泰を優先する、信玄の高度な統治術の一端を示すと同時に、金丸一族に根付いていた奉公の精神を象徴している。土屋昌恒が見せた自己犠牲的な忠義は、こうした一族の伝統と、公のために尽くすという家風の中で育まれた、必然的な帰結であったと解釈できよう。


【表1:金丸虎義の子とそれぞれの道】

続柄

名前(通称)

継承家名

主な事績・最期

長男

金丸平三郎(昌直)

金丸氏

永禄3年(1560年)以降の消息は不明。『甲陽軍鑑』によれば、武田信廉の被官に殺害されたとされる 11

次男

土屋昌続(平八郎)

土屋氏(本家)

信玄の寵臣。武田二十四将。天正3年(1575年)、長篠の戦いで戦死 12

三男

秋山昌詮

秋山氏

秋山虎繁の婿養子。天正7年(1579年)に病死 11

四男

金丸定光(助六郎)

金丸氏

金丸家の家督を継承。天正10年(1582年)、天目山の戦いで勝頼に殉じ戦死 11

五男

土屋昌恒(惣蔵)

土屋氏(分家)

本報告書の主題。駿河の土屋貞綱の養子となる。天正10年(1582年)、天目山の戦いで勝頼に殉じ戦死 9

六男

土屋正直(惣八)

(土屋氏か)

詳細は不明 10

七男

秋山親久(源三郎)

秋山氏

兄・昌詮の死後、秋山氏を継承。天正10年(1582年)、天目山の戦いで勝頼に殉じ戦死 11

10


第二章:二つの「土屋」を継ぐ者 ― 運命の転換点

土屋昌恒の生涯は、長篠の戦いを境に大きく転換する。兄と養父の死という悲劇は、彼に二つの名家「土屋」の命運を託し、その忠義心を決定的に醸成する「るつぼ」となった。

2-1. 兄・昌続の栄光と「土屋」姓

昌恒の運命を理解する上で、まず兄・土屋昌続の存在は欠かせない。昌続は、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにおける戦功が信玄に高く評価され、桓武平氏三浦氏の流れを汲む甲斐の名門「土屋」の名跡を継ぐことを許された 1 。これは、戦功のあった家臣に断絶した名家を継がせることで、家臣の忠誠心を高め、家臣団の再編・強化を図るという、信玄ならではの統治術の一環であった。

昌続は信玄から並々ならぬ寵愛を受け、『甲陽軍鑑』によれば、歌会で信玄の隣に座ることを許される「御膳担」を務め、さらには主君の夜伽の相手もしたと記されている 12 。これは、彼が単なる武将としてだけでなく、主君の最も私的な空間に侍ることを許された、極めて特別な側近であったことを示している。兄の輝かしい栄光は、弟である昌恒にとって大きな誇りであっただろう。

2-2. 昌恒、駿河の将・土屋貞綱の養子へ

一方、弟の昌恒は、弘治2年(1556年)に金丸虎義の五男として生を受けた 9 。彼が歴史の表舞台に登場するのは、永禄11年(1568年)、13歳で迎えた初陣(宇津房の戦い)である。この戦いで彼は、当時敵方であった今川家の将・岡部貞綱の家臣を討ち取るという武功を挙げた 1

運命の皮肉か、武田家の駿河侵攻後に武田氏に降った岡部貞綱は、かつて自らの家臣を討った昌恒の武勇に深く感銘を受け、彼を養子に迎えたいと信玄に嘆願したという 18 。貞綱自身も信玄から土屋姓を与えられ、「土屋豊前守貞綱」と名乗っていた 19 。この養子縁組により、昌恒は15歳にして「土屋惣蔵昌恒」となり、兄・昌続とは別の系統の土屋家を継ぐことになったのである 1 。この縁組には、旧今川家臣である貞綱を武田家臣団に完全に組み込むと同時に、金丸一族の影響力を駿河方面へも浸透させるという、二重の戦略的意図があったと考えられる。

2-3. 長篠の悲劇と家督相続

天正3年(1575年)5月21日、設楽原。武田家にとって悪夢となった長篠の戦いは、昌恒個人の運命をも根底から揺るがした。この歴史的な大敗の中で、兄・土屋昌続と、養父・土屋貞綱は、二人とも壮絶な戦死を遂げたのである 1

武田二十四将に数えられた兄と、武勇を認められて養父となった駿河の将。昌恒にとって最も重要な二人の庇護者が、同時にこの世を去った。さらに、昌続と貞綱の双方に男子がいなかったため、当時まだ20歳であった昌恒は、信玄直系の「土屋右衛門尉家」と、旧今川系の「土屋豊前守家」という、出自も家風も異なる二つの土屋家の家督、そしてその配下の遺臣団すべてを同時に継承するという、極めて重い責務を一身に負うことになった 1

この個人的な喪失感と、突如として背負わされた公的な責任の重圧は、計り知れないものがあったはずである。彼は兄・昌続の居館であった甲斐市島上条大庭の館を受け継ぎ、そこを自らの拠点として、落日の武田家を支えるべく孤独な戦いを始めることとなる 1 。長篠の悲劇は、彼に武田家臣としての、そして土屋家の当主としての覚悟を、骨の髄まで刻み込んだに違いない。兄や養父が命を懸けて守ろうとした武田家を、今度は自分が支えなければならない。この強烈な使命感が、後の天目山での彼の行動の伏線となっていくのである。

第三章:落日の武田を支えて ― 忠臣の孤独な戦い

長篠の敗戦後、武田家は急速に衰退の道をたどる。その中で土屋昌恒は、勝頼の側近として、また二つの土屋家を率いる将として、崩壊しつつある組織を必死に支え続けた。彼の忠義は、裏切りが相次ぐ中で一層際立ち、それは単なる情緒的なものではなく、武士としての理念を守ろうとする理性的な行動でもあった。

3-1. 勝頼の側近としての活動

家督相続後の昌恒は、武田勝頼の側近として、主に東海道や関東方面での戦いの多くに参加し、武田家の立て直しに尽力した 9 。彼の役割は、単なる一武将に留まらなかった。『甲陽軍鑑』には、重病を患った重臣・小幡昌盛が、勝頼への暇乞いの言葉を取り次いでもらうために昌恒を頼る場面が描かれている 16 。この逸話は、昌恒が勝頼と他の家臣たちとの間を取り持つ、信頼の置けるパイプ役であったことを示唆している。勝頼が家臣団の掌握に苦慮する中で、昌恒のような存在は極めて貴重であっただろう。

3-2. 逸話に見る武勇と人柄 ― 「素肌攻め」

昌恒の武勇を伝える逸話として、「素肌攻め」が知られている。これは上野国・膳城(ぜんじょう)攻めの際に、昌恒が武具をほとんど身に着けない軽装(素肌)のまま、城の大手門に一番乗りを果たしたというものである 18 。この行動は、彼の豪胆さと死を恐れない勇猛さを示すエピソードとして語り継がれているが、同時に、自らの武勇を示すことで味方の士気を鼓舞しようとする、将としての責任感の表れとも解釈できる。

3-3. 裏切りの連鎖と際立つ忠節

天正10年(1582年)1月、木曽義昌の謀反を皮切りに、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されると、武田家臣団は雪崩を打って崩壊する。信玄の娘婿であり、親族衆の筆頭格であった穴山梅雪(信君)までもが徳川家康に内通し、寝返るに及んで、武田家の命運は事実上尽きた 1

勝頼一行が最後の望みを託し、譜代の家臣・小山田信茂の居城である岩殿城へ向かう道中、その信茂までもが裏切ったという報せが届く。この時、動揺し、うろたえる勝頼側近の跡部勝資に対し、昌恒は厳しく詰め寄ったと『甲乱記』は伝えている。「そもそも、譜代の家臣をないがしろにし、新参者ばかりを重用したからこそ、このような事態を招いたのではないか」と 18

この発言は、単なる感情的な爆発ではない。武田家が崩壊に至った原因を、勝頼側近による組織運営の失敗、すなわち「譜代家臣の軽視」という点に見出した、彼の冷静な分析と現状への深い憂慮が込められている。多くの家臣が己の保身のために次々と勝頼を見捨てる中、昌恒は、なぜ武田家が滅びるのかという根本的な問いと向き合い、武士としての「筋」を通そうとしていた。彼の忠義は、崩壊しつつある組織の秩序と理念を、自らの行動をもって最後まで守ろうとする、極めて理性的なものであった。この剛直な姿勢こそが、彼の最後の戦いを、単なる「犬死に」ではない、後世に語り継がれるべき行為へと昇華させたのである。

第四章:天目山の死闘 ― 伝説の誕生と終焉

天正10年3月11日、土屋昌恒の生涯は、天目山の麓、田野の地でクライマックスを迎える。彼の最期の奮戦は、敵味方の区別なく人々の心を打ち、やがて「片手千人斬り」という不滅の伝説を生み出した。

4-1. 最後の道程 ― 天目山へ

頼みの綱であった小山田信茂の裏切りにより、勝頼一行は完全に進退窮まった 3 。彼らは、武田家発祥にゆかりの深い天目山栖雲寺を目指し、日川の渓谷沿いの険しい道へと分け入った 1 。数万の軍勢を誇った武田軍も、この時には女性や子供を含め、わずか数十名にまで減っていた 1 。この絶望的な状況下にあっても、昌恒は彼の兄弟である金丸定光、秋山親久らと共に、最後まで勝頼に付き従い続けた 14

4-2. 「片手千人斬り」― 伝説の舞台と状況

天目山を目前にした田野(現・山梨県甲州市大和町田野)で、一行はついに織田軍の追撃部隊に捕捉される 3 。勝頼主従が覚悟を決め、自害を遂げるための時間を稼ぐべく、昌恒は殿(しんがり)を引き受けた。彼は、日川に沿った、人一人がようやく通れるほどの狭隘な崖道に、ただ一人(あるいは少数の供回りと共に)踏みとどまった 1

後世に伝わる伝説によれば、彼は左手で崖に生える藤蔓にしっかりと掴まり、自らの体を支えながら、右手の一刀で押し寄せる敵兵を次々と斬り伏せ、眼下の谷底へと蹴落としたという 1 。この鬼神の如き奮戦ぶりこそが、「片手千人斬り」の伝説の源流である 2 。物理的に千人を斬ることは不可能であるが 24 、この伝説は、彼の並外れた武勇と精神力が敵方に与えた心理的インパクトの大きさを物語っている。死を覚悟した一人の武者が、特殊な地形で鬼と化して戦う姿は、敵兵に計り知れない恐怖と驚嘆を与えたであろう。その衝撃が、「まるで千人斬りのようだ」という比喩的な表現を生み、時を経て具体的な伝説へと昇華したと考えられる。

この壮絶な戦いの結果、斬られた兵たちの血で日川は三日間も朱に染まったとされ、「三日血川(みっかちがわ)」という地名も生まれたと伝えられている 1 。彼が奮戦したとされる場所は、現在「土屋惣蔵片手斬跡」として甲州市の史跡に指定され、その勇姿を今に伝えている 1

4-3. 史料に見る最期の姿 ― 敵からの称賛

この伝説は、主に江戸時代に成立した軍記物である『甲陽軍鑑』などで劇的に描かれている。しかし、彼の奮戦は、より信憑性の高い同時代の史料にも記録されており、それが伝説の核となった事実を裏付けている。

特に重要なのが、織田信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』の記述である。これは敵方の記録でありながら、昌恒の最期を次のように記し、最大限の賛辞を贈っている。

「(土屋惣蔵は)弓を取り、矢をつがえては放ち、矢が尽きるまで散々に射尽くして、屈強の武士多数を射倒した末、勝頼のあとを追って切腹した。高名を後代に伝える、比類ない働きであった」 4。

また、徳川方の史料である『三河物語』においても、徳川家臣の大久保忠教が昌恒の活躍を賞賛している 18。これらの記録は、彼の最期が敵味方の将兵の心を等しく揺さぶる、壮絶なものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

4-4. 辞世の句 ― 主君への返歌

武田家の侍女であった理慶尼が記したとされる『理慶尼の記』には、勝頼と昌恒が交わした辞世の句が伝えられている。勝頼は、自らの死後の行方を西の山の端に見える月に託し、こう詠んだ。

「朧なる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行衛(ゆくゑ)の 西の山の端」 29

これに対し、昌恒は即座に次のように返歌したという。

「俤(おもかげ)の みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも 同じ山の端」 29

「殿のお姿(俤)という月は、私の身から離れることはございません。ですから、私があの世へと向かうのも、殿と同じ西の山の端でございます」―。この歌には、最後まで主君と運命を共にし、同じ場所へ旅立とうとする、彼の揺るぎない忠節と覚悟が見事に表現されている。

なお、同書には、昌恒が忠義の証として自らの5歳の子を刺し殺したという壮絶な逸話も記されているが 16 、後述するように彼の子孫は生き延びており、これは彼の忠義をより一層強調するために後世に創作された虚説である可能性が極めて高い 4


【表2:天目山の戦いにおける土屋昌恒の最期に関する史料比較】

史料名

成立時期

史料的性格

奮戦の様子

「千人斬り」

辞世の句

『信長公記』

天正10年代

一次史料(信長側近の記録)

弓矢で多数を射倒し、比類なき働き。追腹を切って自害。

なし

なし

『三河物語』

江戸初期

二次史料(徳川家臣の記録)

昌恒の活躍を賞賛。

なし

なし

『甲陽軍鑑』

江戸初期

二次史料(武田旧臣の伝聞集)

崖道で藤蔓を掴み、片手で奮戦。

あり

なし

『理慶尼の記』

江戸初期

二次史料(武田家侍女の記録)

勝頼への返歌を詠む。我が子を刺殺する逸話も。

なし

あり

4


第五章:死して家名を遺す ― 徳川の世に続く血脈

武士が主家と運命を共にする「殉死」は、通常、自らの家系の断絶を意味する。しかし、土屋昌恒の生涯は、この常識を覆す稀有な事例となった。彼の「見事な死に様」は、滅びの美学の極致であると同時に、敵将の心をも動かし、結果として一族に新たな繁栄をもたらすという、逆説的な結末を迎えるのである。

5-1. 敵将・家康の心をも動かした「武名」

土屋昌恒の忠義と壮絶な最期は、武田家滅亡後、一つの「武勇伝」として天下に広く知れ渡った 4 。特に、武田家と長年にわたり熾烈な戦いを繰り広げてきた徳川家康は、敵将である昌恒の「比類なき働き」に深く感銘を受けたとされる 32 。戦国の世において、卓越した武勇と忠節は、敵味方の垣根を越えて尊敬の対象となり得た。昌恒の死は、彼に「武名」という不滅の資産を遺したのである。

5-2. 遺児・土屋忠直の発見と庇護

昌恒の死後、その妻(駿河の将・岡部元信の娘)は、まだ幼い嫡男・忠直(幼名:平三郎)を連れて甲斐を脱出し、駿河国の清見寺に身を寄せていた 4

運命の転機が訪れたのは、武田滅亡から7年後の天正17年(1589年)のことである。鷹狩りの途中で清見寺に立ち寄った徳川家康は、そこで茶を出す一人の利発な子供に目を留めた 26 。住職にその素性を尋ねたところ、彼こそが「あの忠臣・土屋昌恒の子」であると聞かされる。家康はいたく感心し、「忠臣の子であるならば、我が手元で育てよう」と、その場で忠直の身柄を引き取ることを決めたという 26 。この逸話は、昌恒が命を懸けて得た「武名」が、滅亡した敵将の子を救い、その未来を切り拓くという奇跡をもたらした瞬間を象徴している。

5-3. 徳川家での立身 ― 大名・土屋家の誕生

家康に引き取られた忠直は、単に庇護されただけではなかった。彼は、家康が最も信頼した側室の一人である阿茶局(あちゃのつぼね)によって養育されるという、破格の待遇を受ける 18 。これは、家康が昌恒の忠義を高く評価し、その遺児を徳川家臣団における忠誠の模範として育てようとした、高度な政治的意図の表れでもあった。

忠直は期待に応えて成長し、徳川秀忠の小姓として仕え、主君・秀忠から「忠」の一字を与えられて「忠直」と名乗る 34 。天正19年(1591年)には相模国において3000石を与えられ、慶長7年(1602年)には、上総国久留里(くるり)藩2万石の大名に取り立てられた 6 。父・昌恒が武田家に殉じてからわずか20年。その遺児が、かつての敵国の主君の下で大名として家名を再興するという、劇的な展開であった。

5-4. その後の土屋家 ― 分家と存続

忠直を初代とする上総久留里藩土屋家は、三代で改易となるものの、その血脈は絶えなかった。忠直の次男・数直が、常陸国土浦藩主として分家を興し、こちらは譜代大名として幕末まで存続したのである 5

さらに興味深いことに、土屋家の血筋は、後の世で再び「忠義」を巡る歴史的事件に深く関わることになる。元禄赤穂事件(忠臣蔵)において、討ち入りがあった吉良邸の北隣に屋敷を構え、その義挙を黙認したとされる旗本・土屋主税(ちから)は忠直の孫にあたり、一方で、赤穂浪士を裁く幕府の老中であった土浦藩主・土屋政直もまた、忠直の孫であった 26

また、昌恒には忠直の他にもう一人の遺児・重虎がおり、彼は信州に落ち延びて出家し、その地で血脈を伝えたとされている 16 。土屋昌恒は、自らの死をもって、複数の家系を未来へと繋いだのである。

終章:土屋昌恒という武士が遺したもの

土屋昌恒の生涯は、甲斐源氏の一門・金丸氏としての出自、兄と養父の死によって二つの土屋家を継ぐという宿命、そして武田家滅亡という時代の激動の中で、一人の武士がいかにして自らの忠義を貫き、その名を歴史に刻んだかの物語である。

彼の記憶は、現代にも確かに受け継がれている。その墓は、生家である金丸氏の館跡があった山梨県南アルプス市徳永の長盛院にあり、市指定の史跡として地元の人々によって今も大切に守られている 5 。また、彼が最後の奮戦を遂げた山梨県甲州市大和町の「土屋惣蔵片手斬跡」は、訪れる者にその壮絶な最期と、滅びゆく主君への揺るぎない忠誠を静かに語りかけている 3

土屋昌恒の歴史的意義を再評価するならば、彼は単なる悲劇の忠臣という枠に収まる人物ではない。彼は、主家と共に滅びるという武士の滅びの美学を貫きながら、その「死に様」そのものを政治的資産へと転化させ、子孫に繁栄をもたらした。この逆説的な生涯は、戦国乱世における「忠義」という無形の価値が、いかにして有形の「家名存続」という実利に結びつき得たか、そして個人の「武名」が家運そのものを左右する力を持っていたかを、我々に力強く示している。土屋昌恒は、自らの死をもって未来を切り拓いた、卓越した戦略家でもあったと評価すべきであろう。彼の物語は、戦国という時代の過酷さと、その中で光り輝いた人間の精神性の両面を、今なお我々に教えてくれるのである。

付録:土屋昌恒関連年表

年号

西暦

年齢

出来事

典拠

弘治2年

1556年

1歳

金丸筑前守虎義の五男として、甲斐国に生まれる。通称は惣蔵。

17

永禄11年

1568年

13歳

宇津房の戦いで初陣を飾り、今川家臣を討ち取る武功を挙げる。

1

元亀元年

1570年

15歳

駿河の武将・土屋貞綱の養子となり、「土屋惣蔵昌恒」と名を改める。

9

元亀3年

1572年

17歳

三方ヶ原の戦いに参加し、戦功を挙げる。

9

天正3年

1575年

20歳

5月21日、長篠の戦いで兄・土屋昌続と養父・土屋貞綱が戦死。二つの土屋家の家督を継承する。

1

天正10年

1582年

27歳

3月、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始される。

1

3月11日、天目山麓・田野の戦いにおいて、主君・武田勝頼に殉じて戦死。「片手千人斬り」の伝説を残す。

1

同年、長男・土屋忠直(平三郎)が生まれる。

34

天正17年

1589年

-

徳川家康が清見寺で忠直を見出し、庇護下に置く。

33

天正19年

1591年

-

土屋忠直が徳川秀忠の小姓となり、相模国に3000石を与えられる。

34

慶長7年

1602年

-

土屋忠直が上総国久留里藩主(2万石)となり、大名に列せられる。

34

慶長17年

1612年

-

3月24日、土屋忠直が31歳で死去。

34

引用文献

  1. 郷土の武将 土屋惣蔵昌恒 - 南アルプス市 https://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/fs/8/1/9/7/5/_/__2006_12__No8_______.pdf
  2. 天目山の戦い(甲州征伐)古戦場:山梨県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tenmokuzan/
  3. 土屋惣蔵片手切り https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/katatekiri.k/katatekiri.k.html
  4. 徳川家康との偶然の出会いが運命を変えた!「片手千人斬り」の父と息子のちょっといい話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/161683/
  5. 武田家宗家と武田史跡を訪ねるバスの旅…その1 金丸氏館跡(長盛院)・土屋昌恒供養塔 http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2013/12/1-12f7.html
  6. 金丸氏館跡巡りウォーク - 八ヶ岳歩こう会 | https://ywa.jp/2018/01/jyoushi0117.html
  7. 金丸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E6%B0%8F
  8. 金丸氏館跡 - BIGLOBE http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/kanamarusikai.htm
  9. 土屋惣蔵昌恒の墓 - 山梨県 南アルプス市 -人がつどい 次世代につなぐ 活力あふれるまち- https://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/docs/tutiya-masatune-haka.html
  10. 金丸筑前守とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%87%91%E4%B8%B8%E7%AD%91%E5%89%8D%E5%AE%88
  11. 金丸筑前守 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E7%AD%91%E5%89%8D%E5%AE%88
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  13. 信玄公のまち 古府を歩く|武田家の家臣たち 武田二十四将と甲州軍団 - 甲府市 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/shingenkou-no-machi/24generals.html
  14. 金丸定光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%B8%B8%E5%AE%9A%E5%85%89
  15. 最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由【2023下半期BEST5】 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (5ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/76920?page=5
  16. 土屋昌恒 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%81%92
  17. 歴史の目的をめぐって 土屋昌恒 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-18-tsuchiya-masatsune.html
  18. 土屋昌恒とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%81%92
  19. 土屋家伝来の日本刀 太刀 景依/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7185/
  20. 土屋貞綱とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E8%B2%9E%E7%B6%B1
  21. 『どうする家康』には描かれない、実は活躍した戦国武将・土屋昌恒と長連龍 https://san-tatsu.jp/articles/264246/
  22. 最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 | (3/5) | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) https://president.jp/articles/-/70500?page=3
  23. 土屋惣蔵片手斬跡 - アソビュー! https://www.asoview.com/spot/19305aj2200130055/
  24. 土屋惣蔵片手切り|勝沼氏館(山梨県甲州市)の周辺スポット - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/2710/pins/25830
  25. 【土屋惣蔵片手斬跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_19305aj2200130055/
  26. 土屋惣蔵の墓 | 八田 | 文化財Mなび https://103.route11.jp/?ms=2&mc=85&mi=289
  27. 4.武田氏と家臣団の足跡 | 文化財Mなび https://103.route11.jp/?ms=2&mc=42&mi=
  28. 土屋昌恒- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E6%98%8C%E6%81%86
  29. 武田勝頼の最期とその辞世……歴史家が語る天目山、武田滅亡の瞬間とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8919?p=1
  30. 武田勝頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%A0%BC
  31. 番外編・土屋華章のご先祖様たち-その①土屋惣蔵昌恒 https://www.tsuchiyakasho.jp/archives/249/
  32. 【武田でも徳川でも重臣 土屋家】武田家滅亡と共に滅亡したと思いきや - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ozbOn7_czKo
  33. 南アルプス市を駆けた武田家家臣 その6 https://sannichi.lekumo.biz/minamialps/2016/07/post-ab71.html
  34. 土屋忠直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E5%BF%A0%E7%9B%B4
  35. 6888_1_戦国時代の史跡を歩く.pdf https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/25/25247/6888_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F.pdf