戦国時代の末期、房総半島は相模を拠点とする後北条氏と、安房から勢力を伸ばす里見氏という二大勢力が激しく覇を競う最前線であった。この地で活動した土岐頼春は、上総国万喜(まんぎ)城を本拠とした武将である。一般的には「北条家臣。父・為頼の跡を継ぎ、武田信栄や里見義康の攻撃を退けるも、小田原落城の直前に消息を絶った」人物として知られている 1 。
しかし、彼の生涯は、この短い記述のみで語り尽くせるものではない。その出自は清和源氏の名門・美濃土岐氏に連なり、房総の地で繰り広げた奮闘の記録、そして歴史の表舞台から姿を消した後の足跡には、多くの謎と注目すべき伝承が残されている。本報告書は、断片的な史料や伝承を丹念に繋ぎ合わせ、土岐頼春という一人の武将の生涯と、彼が率いた一族の知られざる運命を徹底的に解明することを目的とする。
本報告書の理解を助けるため、まず土岐頼春に関連する出来事を時系列でまとめた年表を以下に示す。
表1:土岐頼春関連年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
出典・備考 |
1492 (明応元) |
上総土岐氏の祖とされる土岐頼元が死去したとされる年。 |
土岐頼元 |
海雄寺の墓誌に基づく。為頼との没年差から系譜に謎が生じる 3 。 |
1564 (永禄7) |
第二次国府台合戦。里見氏が北条氏に大敗。 |
土岐為頼、里見義堯、北条氏康 |
この敗戦を機に、為頼は里見氏から離反し北条氏に属す 4 。 |
1583 (天正11) |
土岐為頼が死去。嫡男の頼春が家督を継承し、万喜城主となる。 |
土岐為頼、土岐頼春 |
1 |
1588 (天正16) |
庁南城主・武田信栄が万喜城を攻撃。頼春はこれを撃退する。 |
土岐頼春、武田信栄 |
日の子(火の子)の戦いと呼ばれる 6 。 |
1589 (天正17) |
武田信栄が再び万喜城を攻撃するが、頼春は再度これを退ける。 |
土岐頼春、武田信栄 |
6 |
1589 (天正17) |
北条氏の里見征伐に呼応し、小田原へ300騎の援軍を派遣。 |
土岐頼春、北条氏直 |
家臣の大曾根右馬允らが率いた 7 。 |
1590 (天正18) |
豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。 |
豊臣秀吉、北条氏政・氏直 |
|
1590 (天正18) |
徳川家康配下の本多忠勝が万喜城を攻撃し、落城。 |
土岐頼春、本多忠勝 |
頼春はこの後、消息不明となる。自害説と逃亡説がある 2 。 |
1590-91 (天正18-19) |
本多忠勝が大多喜城へ移るまで、一時的に万喜城を居城とする。 |
本多忠勝 |
近年の研究で判明。万喜城が即時廃城ではなかったことを示す 9 。 |
1637-38 (寛永14-15) |
島原の乱が勃発。 |
万喜廉直、万喜治左衛門 |
大垣藩戸田家臣として万喜一族が参陣。廉直は戦死する 10 。 |
土岐頼春という一個人を理解するためには、彼が属した「上総土岐氏」の源流と、その複雑な系譜を解き明かすことが不可欠である。その出自は名門に遡る一方で、房総における具体的な家系の変遷は謎に包まれている。
上総土岐氏の源流は、清和源氏頼光流を汲む名門・土岐氏である 11 。美濃国(現在の岐阜県南部)を本拠とし、室町幕府においては代々美濃守護職を務めた有力大名であった 12 。その勢力は美濃・尾張・伊勢の三国に及び、土岐一族は「桔梗一揆」と呼ばれる強力な武士団を形成していた 11 。上総土岐氏が用いた家紋も、この本家と同じ「桔梗紋」であり、その血脈の証となっている 11 。この名門としての出自は、遠く離れた房総の地にあって、上総土岐氏が一定の権威と影響力を保持する上での大きな背景となっていたと考えられる。
上総土岐氏が房総半島に根を下ろす直接のきっかけは、美濃土岐氏の庶流である「土岐原氏」の関東への移住にある 11 。南北朝時代、土岐原秀成が関東管領・上杉氏の被官(惣政所職)として常陸国信太荘(現在の茨城県稲敷市周辺)に下向した 11 。その後、土岐原氏の勢力は上杉氏の所領であった上総国伊南荘にまで及び、この地が房総における土岐氏の足がかりとなった 11 。具体的な記録として、土岐原秀成が伊南荘を土岐時政に任せ、万喜城主としたと伝えられている 11 。
万喜城主であった上総土岐氏の具体的な系譜は、史料によって記述が異なり、確証がない「謎に包まれた」状態にある 18 。主に三つの説が伝えられており、その比較検討は一族の実像に迫る上で重要である。
表2:上総土岐氏の主要系譜説比較表
代 |
九代説 |
五代説 |
三代説 |
推定活動時期 |
関連史料・備考 |
1 |
時政 |
- |
- |
応永年間 (1394-1428) |
土岐原秀成により万喜城主に任じられたとされる 3 。 |
2 |
光頼 |
- |
- |
不明 |
- |
3 |
頼金 |
- |
- |
不明 |
- |
4 |
頼為 |
- |
- |
不明 |
- |
5 |
頼元 |
頼元 |
頼元 |
明応年間 (1492頃) |
菩提寺・海雄寺を創建。明応元年に没したとされる 3 。 |
6 |
頼房 |
頼房 |
- |
明応・文亀年間 (1492-1504) |
里見氏の尖兵として活躍したとの伝承がある 3 。 |
7 |
頼定 |
頼定 |
- |
天文年間 (1532-1555) |
美濃を追われた土岐頼芸と同一人物とする説がある 3 。 |
8 |
為頼 |
為頼 |
為頼 |
- 天正11年 (1583) |
頼春の父。第二次国府台合戦後に北条方へ寝返る 4 。 |
9 |
頼春 |
頼春 |
頼春 |
天正11年 - 18年 (1583-1590) |
本報告書の主題。万喜城最後の城主 1 。 |
これらの説の中で、九代説が最も詳細であるが、いずれの説も決定的な史料に欠ける。この系譜の混乱自体が、中央の名門から分かれた一族が、地方の国人領主として在地化していく過程で、中央の記録から離れ、独自の歴史を歩み始めたことの証左とも考えられる。
錯綜する系譜の謎を解く上で、極めて重要な物証となるのが、一族の菩提寺である海雄寺(千葉県いすみ市)に残る墓誌の記録である 3 。この墓誌によれば、初代城主ともされる土岐頼元は明応元年(1492年)に没し、一方で土岐頼春の父である為頼は天正11年(1583年)に没している 3 。両者の没年には91年もの隔たりがあり、これが単純な親子関係でないことは明らかである。もし親子であれば、父・頼元が没した時点で為頼が生まれていたとしても、91歳以上の長寿でなければ計算が合わない。
この事実は、最も簡潔な「三代説」の信憑性を大きく揺るがすものである。そして、頼元と為頼の間には、頼房や頼定といった複数代の当主が存在したとする「五代説」や「九代説」の方が、より事実に近い可能性が高いことを強く示唆している。
土岐頼春の生涯と運命を決定づけたのは、父・為頼の代の政治的決断であった。当初、土岐為頼は安房の里見義堯と強固な同盟関係にあり、自らの娘を義堯の正室として嫁がせていた 4 。さらに、家臣の斎藤道三に美濃を追われた本家の当主・土岐頼芸が流浪の末に関東へ下った際には、これを万喜城に迎え入れている 5 。このことは、上総土岐氏が単なる一国人領主ではなく、名門・土岐一族の関東における拠点としての自負と役割を担っていたことを物語っている。
しかし、この状況は永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で一変する。この戦いで同盟相手の里見氏が北条氏に大敗を喫すると、為頼は里見氏を見限り、房総半島に勢力を拡大する北条氏へと寝返った 4 。これは単なる裏切りではなく、没落しつつある勢力から離れ、関東の新たな覇者の傘下に入ることで一族の存続を図る、戦国武将としての現実的な生存戦略であった。
この父の決断が、その後の上総土岐氏の立場を決定づけた。天正11年(1583年)に為頼が没し、頼春が家督を継いだ時 1 、彼はすでに「北条氏の配下」という宿命を背負っていたのである。頼春の悲劇の種は、彼が家督を継ぐ約20年前に、父・為頼によって蒔かれていたと言えるだろう。
父・為頼の跡を継いだ土岐頼春は、房総半島という激動の地で、北条氏配下の国人領主としてその勢力を維持し、宿敵との戦いに明け暮れる日々を送った。
頼春の本拠地であった万喜城(万木城とも記される)は、現在の千葉県いすみ市に位置し、夷隅川の蛇行を天然の外堀として利用した、房総半島を代表する堅固な山城であった 21 。標高約80メートルの丘陵上に築かれ、三方を断崖に囲まれた要害の地であり、その戦略的価値は高かった 18 。城跡からは籠城戦の激しさを物語る焼米が出土しており 21 、この城が幾度となく攻防の舞台となったことを示唆している。
家督を継いだ頼春は、父の代から続く宿敵である里見氏、特に当主の里見義康との抗争を続けた 1 。さらに、近隣の庁南城(現在の千葉県長生郡長南町)を拠点とする武田信栄とも激しく対立した。天正16年(1588年)と翌17年(1589年)の二度にわたり、武田信栄は万喜城に猛攻を仕掛けてきたが、頼春はいずれの攻撃も巧みに撃退し、居城を守り抜いている 6 。
この勝利は、頼春が単に大勢力に翻弄されるだけの弱小領主ではなく、自らの武力と采配で領地を守り抜く気概と能力を兼ね備えた、独立性の高い武将であったことを証明している。彼の物語は、大名同士の華々しい戦史の陰に隠れがちな、国人領主たちの熾烈な生存競争の実態を浮き彫りにするものである。これらの攻防の様子は、『関八州古戦録』といった軍記物にも「庁南勢、上総万喜城攻め」として記録されている 24 。
頼春が動員できた兵力は、「千騎」とも「千五百騎」とも伝えられており、北条氏の傘下にあって房総方面における重要な戦力と見なされていた 9 。その立場から、主家である北条氏への軍役も果たしている。天正17年(1589年)5月、北条氏当主の氏直が里見氏征伐を計画した際には、頼春もこれに呼応し、家臣の大曾根右馬允、三階図書助らを代官として300騎余りの兵を小田原城へと派遣した 7 。
この援軍派遣は、北条氏への忠誠を示す行為であると同時に、自らの本拠地である万喜城の守りを手薄にするという諸刃の剣であった。事実、この隙を突く形で武田信栄の侵攻を招いている。これは、巨大勢力に従属する地方領主が常に抱える「中央への奉公」と「地元領地の防衛」という戦略的ジレンマを象徴する出来事であり、このジレンマこそが、翌年の小田原征伐における彼の運命に直接的な影響を与えることになったのである。
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉と、関東の覇者・北条氏の対立はついに決戦へと至る。この歴史的な戦いは、北条方についた土岐頼春と万喜土岐氏の運命を決定づけることとなった。
豊臣秀吉は、北条氏が「天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ」として、その討伐に「天罰」という大義名分を掲げた 26 。そして、20万を超える大軍を動員して関東へ侵攻した。これに対し、北条方は小田原城を中心とした各支城に籠城して迎え撃つ策を選択する 27 。土岐頼春もこの方針に従い、北条方の一員として豊臣軍と対峙することになった。
秀吉軍の先鋒として房総方面の制圧を命じられたのは、徳川家康の軍勢であった。その中でも、万喜城攻略の任にあたったのは、徳川四天王の一人として、また生涯無傷の猛将として名高い本多忠勝であった 2 。
頼春は万喜城に籠り抵抗したものの、天下に名だたる猛将が率いる圧倒的な兵力の前に、ついに敗北を喫した。堅城を誇った万喜城も、この猛攻の前に落城したのである 1 。一地方領主であった頼春が、その最期に戦国最強とも謳われる本多忠勝と対峙したという事実は、彼の生涯に悲劇的な彩りを添えている。
興味深いことに、落城後、万喜城はすぐには廃城とならなかった。敵将である本多忠勝が、近隣に大多喜城を築いて居城を移すまでの間、一時的に万喜城を自らの居城として使用していたことが、近年の研究で明らかになっている 9 。この事実は、逆説的に万喜城が戦略的価値の高い、優れた城であったことを証明している。征服者である忠勝にとっても利用価値のある拠点であったからこそ、即時廃城とはならなかったのである。これは、頼春とその父祖が築き上げた拠点の優秀さを物語る、間接的な証拠と言えよう。
万喜城の落城後、城主であった土岐頼春の消息は、多くの史料で「不明」と記されている 1 。彼の最期については、大きく分けて二つの説が伝えられており、土岐氏の物語がここで完結するのか、あるいは新たな展開を見せるのかの分岐点となっている。
最も一般的に伝えられているのが、城の落城と運命を共にし、城内で自害したとする説である 2 。城を枕に討ち死にすることは、敗れた武将の責任の取り方として自然な選択であり、この説は蓋然性の高いものとして広く受け入れられている。
この説を裏付ける状況証拠として、一族の菩提寺である海雄寺の存在が挙げられる。海雄寺には、現在も土岐頼春のものとされる墓石や位牌、木像が安置されており、地元では彼がこの地で亡くなったと信じられている 5 。これらの存在は、頼春が房総の地でその生涯を終えたとする伝承を今日に伝えている。
一方で、頼春は落城の混乱を生き延びたとする説も根強く残っている。具体的な伝承として、「僅かな家臣と共に常陸国の平潟(現在の茨城県北茨城市)へと漁船にて逃れ、その後、三河国(現在の愛知県東部)に落ち延びた」という里伝が存在する 10 。
公的な記録に残りやすい「自害」という壮絶な最期とは対照的に、「逃亡」は敗軍の将が身を隠しながらの行動であるため、その足跡が公的な史料に残ることは稀である。そのため、この種の伝承は断片的な里伝や、後世に編纂された家伝としてのみ伝わる傾向がある。この逃亡説は、次章で詳述する「大垣藩士・万喜氏」の伝承へと繋がる、極めて重要な伏線となっている。土岐頼春の物語は、房総の地で悲劇的に完結したのか、それとも新天地で一族が再生する物語へと続いていくのか。その鍵を握るのが、この逃亡説の行方である。
土岐頼春の「消息不明」という記録の先に、一族の再生を物語る驚くべき伝承が存在する。それは、遠く離れた美濃国大垣藩(現在の岐阜県大垣市)にその足跡を求めるものである。
消息不明とされた上総土岐氏の行方を追う上で、決定的な手がかりとなるのが、江戸時代に編纂された美濃国の地誌『美濃明細記』や『美濃國諸舊記』に残された一行である。そこには、「上総万喜道鐡(どうてつ)の裔(えい)は、大垣戸田氏にあり」と記されていた 10 。これは、上総万喜城主の子孫が、大垣藩主・戸田家に仕えていることを示すものであり、歴史の闇に消えたはずの一族の、その後の消息を照らす一筋の光となった。
この記述を基にした郷土史家・清水春一氏の研究(著書『美濃大垣十万石太平記』)により、徳川譜代の大名である大垣藩主・戸田家に仕えた「万喜(まんき)」姓の武士たちの具体的な姿が明らかになった 10 。
これらの記録は、上総土岐氏の一族が、万喜城落城後に姓を「万喜」と改め、新天地で武士として再び立身していたことを示している。滅亡した一族が、本姓である「土岐」ではなく、旧領地の名を新たな姓「万喜」として名乗ることは、戦国から江戸初期にかけて見られる典型的な生存戦略であった。これにより、徳川幕府にとって政治的に危険な「北条方であった土岐氏」という過去のレッテルを回避しつつ、自らの出自の証を密かに後世に残すことができたのである。
最大の謎は、大垣藩士となった「万喜道哲」が、土岐頼春本人(出家後の名)なのか、あるいはその子なのかという点である。史料には「天正18年萬喜城落城と共に浪々の身となった土岐頼春の子と思われる」と記されており 10 、親子説が有力視されている。
この説に基づけば、物語は次のように再構築できる。万喜城落城の際、城主・頼春は自害、あるいは戦死した。しかし、その幼い息子は忠臣たちに守られて城を脱出し、父の伝承通り常陸から三河へと落ち延びた。その後、徳川譜代の戸田氏に仕官する機会を得て、父の旧領地名を姓とし「万喜道哲」を名乗った。そして、幕府の一大事業であった島原の乱において、一族の者(廉直)が命を賭して戦功を挙げることで、過去(北条方)を完全に清算し、新たな支配体制下でその忠誠と実力を証明した。
房総で城を失った一族が、遠く離れた九州の戦場で血を流すことで、美濃大垣の地に新たな根を下ろした。このダイナミックな変遷こそ、土岐頼春の物語の知られざる結末であり、武士の「再生」の物語そのものである。
土岐頼春の生涯は、戦国末期の房総半島という限定された地域で、巨大勢力の狭間にあって自らの存続をかけて奮闘した、一人の国人領主の姿を鮮やかに映し出している。彼は、ただ大勢力に翻弄されるだけの存在ではなく、武田信栄の猛攻を二度にわたり撃退するなど、地域の覇権を巡り最後まで戦い抜いた、気骨ある武将であった。
彼の物語は、天正18年(1590年)の万喜城落城という「滅亡」の場面で終わるものとして語られがちである。しかし、本報告書で詳述したように、その先には、一族が「万喜」の名で大垣藩士として存続したという「再生」の物語へと繋がっていた可能性が極めて高い。自刃説が伝える悲劇的な最期も、逃亡説が示唆する再起への執念も、どちらもまた、戦国の世を生きた武将の真実の一面であっただろう。
土岐頼春のように、歴史の表舞台から消えたかに見える無数の武将たち。彼らの多くは、天下統一という大きな歴史の奔流の中に埋もれ、その詳細は忘れ去られてきた。しかし、断片的な史料や各地に残る伝承を丹念に繋ぎ合わせることで、その知られざる生涯や一族のドラマを再発見することができる。土岐頼春の物語は、歴史の狭間に消えた武将たちの声に耳を傾けることの重要性と、歴史研究の醍醐味を我々に教えてくれる、貴重な一例である。