土肥政繁(どい まさしげ)は、織田信長や上杉謙信のように天下にその名を轟かせた戦国大名ではない。しかし、彼の生涯は、戦国時代という巨大な転換期において、在地に根を張る領主である「国衆」が、二大勢力の狭間でいかにして生き残りを図り、そして時代の奔流に飲み込まれていったかを示す、極めて貴重な事例である。越中国新川郡の弓庄城主として、ある時は上杉に、またある時は織田に属し、その選択の連続は、そのまま北陸の戦国史の縮図とも言える 1 。
彼の動向は、単なる変節や裏切りといった言葉で片付けられるものではない。それは、絶対的な後援者の死、中央政権の激変という、自らの力では抗いようのない外部環境の変化に対し、一族の存続という至上命題を背負って下された、必死の選択の連続であった。
本報告書は、この土肥政繁という一人の国衆の生涯を、史料に基づき丹念に追跡することを目的とする。彼の出自から、勢力の伸張、佐々成政との死闘、そして一族の辿った悲劇的な末路までを詳細に解明することで、戦国時代を「天下人」の視点からのみならず、地方に生きた無数の人々の視点から捉え直し、その過酷な実像に迫るものである。彼の物語は、一個人の伝記を超え、戦国末期における「国衆」という社会階層が経験した普遍的な苦悩と選択の物語として、我々に多くを語りかけてくれるであろう 1 。
土肥政繁の率いた越中土肥氏のルーツは、遠く源平の争乱期にまで遡る。その祖は、源頼朝の挙兵を伊豆で支え、鎌倉幕府の創設に多大な功績を挙げた相模国の豪族、土肥次郎実平とされている 2 。実平の一族は、その後、幕府内部の権力闘争(和田合戦)に巻き込まれるなど浮沈を経験するが、その一派が越中国へと移り住んだことが、越中土肥氏の始まりであった 4 。
鎌倉時代の建長年間(1249年~1255年)頃、実平の子孫である土肥頼平が越中国新川郡堀江庄(現在の富山県滑川市堀江周辺)の地頭職を得て入部したのが、その直接の起源とされる 6 。当初、一族は堀江城を拠点としていたが 7 、時代が下り戦国期に入ると、庶流が井見庄内に弓庄城(ゆみのしょうじょう、現在の富山県中新川郡上市町)を築き、こちらが政繁の系統の本拠地となった 1 。この堀江の宗家と弓庄の分家という関係性は、土肥一族の勢力基盤の広がりを示すと同時に、戦国期の複雑な動向を理解する上での一つの鍵となる。
南北朝時代から戦国時代にかけて、土肥氏は越中守護であった畠山氏の傘下に入り、その家臣団の一翼を担う在地領主、すなわち国衆として着実に勢力を伸ばしていった 6 。
この越中土肥氏の歴史、特に政繁の時代の動向を知る上で、極めて重要な史料が存在する。それは、土肥氏の滅亡後、その元家老であった有沢氏の子孫が、旧主を偲んで延宝九年(1681年)に書き上げた『土肥家記』である 4 。この記録は、土肥一族の視点からその栄枯盛衰が描かれており、他の史料では窺い知れない内部の事情や一族の認識を伝える一級史料と言える。しかしながら、旧主を顕彰し、その没落を正当化する意図が含まれる可能性も否定できない。したがって、本書の記述を他の客観的な記録、例えば上杉家や織田家の文書と比較検討することで、より立体的で正確な歴史像に迫ることが可能となる。政繁の勢力範囲を「新川一郡の大半を領した」 1 といった記述も、こうした史料の性格を考慮して慎重に解釈する必要があるだろう。
土肥政繁が歴史の表舞台に本格的に登場する16世紀中頃の越中は、守護代であった神保氏と椎名氏が覇権をめぐって激しく対立する、まさに群雄割拠の時代であった 9 。当初、土肥氏は神保長職の勢力下にあり、その膨張に伴って行動を共にしていた。しかし、これが仇となり、椎名氏を支援するために越中へ介入してきた上杉謙信との直接対決を余儀なくされ、一族は一時的に没落の危機に瀕した 1 。
この絶体絶命の状況下で、政繁は極めて重要な戦略的決断を下す。それは、旧主である神保氏を見限り、敵対していたはずの上杉謙信に臣従するという「乗り換え」であった。この行動は、単なる敗北による服従ではなく、地域のパワーバランスを冷静に分析し、より強力な後援者(パトロン)を得ることで自家の再興と勢力拡大を図る、能動的な生存戦略であった 1 。これは、主家への忠誠といった情緒的な価値観よりも、一族の存続と発展という現実的な利益を優先する、戦国国衆のリアリズムを体現した行動と言える。
政繁のこの決断は、見事に功を奏する。絶対的な権力者である謙信の庇護下に入ったことで、土肥氏は息を吹き返した。さらに、長年のライバルであった椎名氏が、後に謙信と対立して没落したことも、土肥氏にとっては追い風となった 1 。その結果、土肥氏は謙信配下の越中衆として勢力を急拡大させ、天正年間(1573年~)の初め頃には、本拠地である新川郡の大半をその支配下に置くほどの有力国衆へと成長を遂げたのである。『土肥家記』が記す「新川一郡は大半領之」 1 という記述は、この最盛期の状況を反映したものと考えられる。
表1:上杉謙信期の越中新川郡における主要国衆の動向 |
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国衆名 |
主要拠点 |
当初の所属勢力 |
謙信への臣従 |
その後の動向 |
土肥氏(政繁) |
弓庄城 |
神保氏 |
早期に臣従 |
謙信配下で勢力を急拡大。新川郡の最有力国衆となる。 |
椎名氏(康胤) |
松倉城 |
当初は上杉方 |
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後に謙信に反旗を翻し、滅亡する。 |
神保氏(長職) |
富山城 |
上杉氏と敵対 |
- |
謙信の攻撃により勢力を大きく後退させる。 |
轡田氏 |
大村城 |
上杉氏 |
- |
謙信配下の武将として各地を転戦する 11 。 |
この表が示すように、政繁の臣従は、越中の複雑な政治力学の中で行われた戦略的な一手であった。彼は、旧来のしがらみに囚われることなく、新たな秩序の形成者である謙信にいち早く接近することで、他の国衆を出し抜き、一族にかつてないほどの繁栄をもたらしたのである。
政繁が築き上げた栄華は、しかし、絶対的な後援者であった上杉謙信という一本の柱によって支えられた、脆いものであった。その柱が失われた時、彼は再び存亡をかけた選択の渦中へと投げ込まれることとなる。
天正6年(1578年)3月、越後の龍・上杉謙信が急死する。この報は、越中の国衆たちに激震をもたらした。謙信の後継者をめぐり、上杉家では養子の景勝と景虎の間で家督争い「御館の乱」が勃発し、越中への影響力は著しく低下した 1 。これまで上杉の威光によって保たれていた越中の秩序は、一気に崩壊へと向かう。
このパワーバランスの激変を前に、政繁は迅速に行動する。彼は、他の多くの越中国衆と同様、西から怒涛の勢いで勢力を伸張させていた織田信長方へと寝返ったのである 1 。これは、力の空白地帯となった越中で生き残るため、新たな、そしてより強力な後援者を求める、国衆として当然かつ必然の選択であった。彼の行動原理は一貫しており、常に最も確実な存続の道を探求することにあった。
織田信長という新たな庇護者を得て、土肥氏の安泰は続くかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。本能寺の変である。信長の横死により、織田家の統制力は麻痺し、特に北陸方面軍を率いていた柴田勝家や佐々成政らは、背後の上杉勢の反攻を警戒し、身動きが取れない状況に陥った 14 。
この千載一遇の好機を、政繁は見逃さなかった。彼は、織田家の混乱を察知するや否や、即座に再び上杉景勝方へと帰属する 1 。謙信の死から本能寺の変に至るまで、わずか4年の間に二度の大勢力間での乗り換えを行ったことになる。この驚くべき対応の速さは、彼が常に中央の政局に鋭いアンテナを張り、情報収集を怠らなかったことの証左である。在地領主にとって、情報の優劣こそが死活問題であったことを、彼の行動は雄弁に物語っている。
政繁の再度の「裏切り」は、織田信長から越中一国を与えられ、その支配の確立を急いでいた佐々成政を激怒させた 16 。成政にとって、政繁の離反は単なる一国衆の寝返りではなく、自身の越中支配の根幹を揺るがしかねない危険な動きであった。本能寺の変後の混乱の中、他の国衆の動揺を抑え、上杉の脅威に直接対峙しなければならない成政の立場は、極めて切迫していた。
同年8月、成政は報復と見せしめのため、大軍を率いて政繁の居城・弓庄城を包囲した 1 。そしてこの時、成政は冷酷非情な手段に訴える。以前から人質として佐々方に差し出されていた、政繁の13歳になる次男・平助を、籠城する城兵たちの目の前で磔に処したのである 1 。これは単なる残虐性から出た行為ではない。他の国衆への「裏切ればこうなる」という強烈なメッセージを込めた、計算された政治的テロリズムであった。豊臣秀吉が後に関白秀次の一族を処刑した事例 18 と同様、恐怖による支配を徹底しようとする為政者の強い意志がそこにはあった。
『土肥家記』には、その処刑場所が「ハリツケ田」という生々しい地名で伝えられており、この事件が土肥家の人々に与えた衝撃の大きさを物語っている 1 。しかし、我が子を無残に殺された悲劇にもかかわらず、政繁は屈しなかった。彼は将兵を鼓舞し、徹底抗戦の構えを見せる。弓庄城の堅固な守りの前に、佐々軍は攻めあぐね、9月には一旦撤退を余儀なくされた 1 。さらに翌天正11年(1583年)2月には、成政が越後へ出兵した隙を突き、逆に太田新城(新庄城)を奪取するなど、果敢な反撃を展開している 1 。
この一連の攻防は、政繁にとって、単なる領地をめぐる政治的・軍事的対立を超えた、佐々成政個人への消しがたい怨恨を伴う私闘へと変質したに違いない。以降の彼の執拗なまでの対佐々軍事行動は、旧領回復という目標に加え、息子の仇討ちという極めて個人的な動機に強く突き動かされていたと見るべきであろう。政治闘争が個人的な悲劇を生み、その悲劇がまた次の闘争の燃料となる。戦国時代の非情な連鎖が、この弓庄城をめぐる攻防に凝縮されている。
佐々成政との死闘を繰り広げた政繁であったが、彼の運命は、彼自身が直接関与できない、より大きな政治の枠組みの中で決定されていく。
弓庄城で奮戦を続けた政繁だったが、戦局は膠着する。この状況を最終的に動かしたのは、中央の覇者となった羽柴秀吉であった。天正11年(1583年)から13年(1585年)にかけて、秀吉は佐々成政と上杉景勝の双方と和睦を結ばせる。この大局的な和議の結果、越中における佐々の支配権が追認され、政繁は完全に梯子を外された形となった 14 。
故郷での抵抗を続ける大義名分を失った彼は、ついに苦渋の決断を下す。長年守り抜いてきた本拠地・弓庄城を明け渡し、一族郎党を率いて越後へと退去せざるを得なくなったのである 1 。越後では、彼が忠誠を誓った上杉景勝に正式に仕え、同じように越中から逃れてきた他の国衆たちと共に、上杉家臣団の一部である「越中衆」として組み込まれることになった。
故郷を追われた政繁であったが、彼の闘志は衰えていなかった。彼の後半生の目標は、ただ一つ、故郷・越中の奪還であった。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに連動して上杉軍が佐々領の越中に侵攻した際には、その先鋒を進んで務め、宮崎城の攻略などで目覚ましい功績を挙げた 1 。
その後も、彼は対佐々成政の最前線に立ち続けることを望み、宮崎城や天神山城の守将として、常に故郷の方角を睨み続けた 1 。その姿は、息子の仇であり、自らを故郷から追いやった成政への復讐心と、失われた領地への執念に燃える、執拗な闘将そのものであった。
しかし、政繁の旧領回復の夢は、ついに叶うことはなかった。天正18年(1590年)、彼は志半ばで、越後国能生(のう)の地にて病に倒れ、その波乱の生涯を閉じた 1 。
彼の死後、上杉家の「越中衆」の運命はさらに過酷なものとなる。文禄4年(1595年)、豊臣政権による全国的な領地再編(蒲生騒動に伴う国替え)の一環として、越中新川郡は前田利家の所領となることが最終的に決定された 1 。これにより、土肥氏をはじめとする「越中衆」が故郷に戻る道は、完全に断たれてしまったのである。
上杉家は、彼らの忠誠に報いるため、越後国内に代替地を与えた。しかし、この措置が、皮肉にも彼らの価値を失わせる結果につながった。国衆の力と価値の源泉は、その土地に深く根差した地縁・血縁のネットワーク、そして長年培われた土地勘にこそあった。故郷という基盤を完全に失った「越中衆」は、上杉家にとって、もはや「越中の専門家」ではなく、単なる寄る辺なき客将に過ぎなくなってしまったのである。その結果、彼らは上杉家中で軍功や内政手腕を発揮する機会を次第に失い、冷遇される立場へと追いやられていった 1 。
政繁は、上杉家への忠誠を最後まで貫いた。その選択は、短期的には佐々成政の報復から一族の命を救った。しかし、長期的には一族を故郷から引き離し、その勢力とアイデンティティを削ぐ結果を招いた。彼の生涯は、戦国末期に地方の国衆が、より大きな中央権力に吸収されていく過程で経験した、実力と存在価値の喪失という、より大きな歴史的プロセスの悲劇的な一断面を示している。
土肥政繁の死と故郷回復の夢の断絶は、越中土肥氏の凋落を決定づけた。根を失った一族は、流浪の末に悲劇的な終焉を迎えることとなる。
政繁の死後、上杉家は慶長3年(1598年)に会津120万石へ、さらに慶長の役(関ヶ原の戦い)での敗戦により、慶長6年(1601年)には出羽米沢30万石へと、相次ぐ転封を命じられる。主家の領地が移り変わる中で、故郷との繋がりを完全に断たれた土肥一族の多くは、上杉家を離れ、新たな仕官先を求めて流浪の身となった 4 。
その中で、政繁の子である土肥半左衛門(諱は不詳)らは、新たな活路を出羽の大名・最上義光に見出した 20 。最上氏は当時、庄内地方をめぐり上杉氏と激しく争っており、越中での戦闘経験が豊富な土肥一族は、即戦力として期待されたのであろう。また、海を持つ大名である最上氏に、同じく海に面した越中出身の武士たちが活躍の場を見出そうとした可能性も考えられる 1 。半左衛門は姉婿の下(しも)氏との縁から最上家に仕え、慶長出羽合戦などで戦功を挙げ、一定の地位を築いた 20 。
しかし、新天地での再興の夢も、主家の内紛という不運によって打ち砕かれる。最上家で嫡男・義康の廃嫡をめぐるお家騒動(最上騒動)が勃発すると、土肥半左衛門もその渦中に巻き込まれてしまった。彼は同輩の家臣からの讒言(ざんげん)によって謀反の疑いをかけられ、弁明の機会も与えられぬまま、自害に追い込まれたと伝えられている 6 。
これにより、鎌倉時代に土肥実平から分かれ、越中の地で数百年にわたり勢力を保ってきた名門・越中土肥氏の嫡流は、故郷から遠く離れた出羽の地で、悲劇的な最期を遂げ、歴史の表舞台から完全に姿を消したのである 6 。
政繁が下した、上杉家への忠誠を貫き越中を去るという決断。その余波は、世代を超えて一族の運命を左右し、最終的に滅亡という結末にまで繋がった。一度失った地盤を取り戻すことの困難さと、寄寓した主家で待ち受ける予期せぬリスクが、戦国を生き抜いた一族の末路に重くのしかかったのである。
土肥政繁の生涯は、戦国時代後期に生きた地方領主、すなわち国衆が直面した過酷な現実を凝縮している。彼の相次ぐ主家の乗り換えは、現代的な価値観から見れば「変節」や「裏切り」と映るかもしれない。しかし、それは、自らの力ではコントロール不可能な巨大な政治権力の変動の中で、一族の存続という唯一絶対の目的を達成するために下された、必死の選択の連続であった。
彼は、激変する情勢を的確に分析する情報収集能力と判断力、我が子を目の前で殺されても屈しない強靭な精神力、そして旧領回復のために最前線で戦い続けるリーダーシップを兼ね備えた、有能な武将であったことは間違いない。しかし、一個人の才覚や武勇だけでは、天下統一へと向かう巨大な権力の奔流に抗うことはできなかった。
彼の物語は、戦国史を「天下人」の視点からだけではなく、彼らによって翻弄され、吸収され、あるいは滅ぼされていった無数の地方勢力の視点から見ることの重要性を我々に教えてくれる。土肥政繁という一人の国衆の栄光と悲劇を通して、我々は戦国という時代の多層性と非情さを、より深く理解することができるのである。
その名は、歴史の教科書に大きく記されることはないかもしれない。しかし、彼の本拠地であった富山県中新川郡上市町には、今なお土肥姓が多く残り 6 、弓庄城跡の石碑とともに、激動の時代を必死に生き抜いた一人の武将の記憶が、確かに地域に刻まれ続けている。
土肥政繁の栄枯盛衰の舞台となった弓庄城は、現在の富山県中新川郡上市町舘に位置した平城である 19 。白岩川東岸の微高地に築かれ、その立地は、地域の支配と防衛に適したものであった 2 。
現在、城跡の大部分は圃場整備によって水田化されているが、本丸があったとされる場所には「弓庄城本丸跡」の石碑が建てられ、往時を偲ぶことができる 19 。また、近隣に設立された「上市町弓の里歴史文化館」では、城跡からの出土品や関連資料が展示されており、その歴史を学ぶことが可能である 2 。
この城跡の歴史的価値を飛躍的に高めたのが、昭和55年(1980年)から5年間にわたって実施された発掘調査である。この調査により、文献史料だけでは知り得なかった多くの事実が明らかになった 24 。城の規模は、南北約600メートル、東西約150メートルにも及ぶ、在地領主の拠点としては大規模なものであったことが判明した 24 。また、本丸を二重の堀が囲むなど、堅固な防御施設を備えていたことも確認されている 23 。
さらに重要なのは、多種多様な出土遺物である。これらは、土肥氏の具体的な生活レベルや経済活動、そして熾烈な戦闘の実態を物語る物証と言える。
表2:弓庄城跡の主要な出土遺物とその意義 |
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遺物の種類 |
出土状況 |
年代 |
歴史的意義 |
中国製磁器(白磁、青磁) |
城内各所 |
15~16世紀 |
土肥氏が、日本海交易を通じて大陸の文物にアクセスできる経済力と流通ルートを持っていたことを示す 23 。 |
珠洲焼・越前焼などの陶器 |
城内各所 |
15~16世紀 |
北陸地方の広域的な経済圏に組み込まれていたことを示唆する。日常雑器から大型の甕まで出土している 23 。 |
鉄砲玉、鎧の破片、刀の破片、小柄 |
城内各所 |
16世紀後半 |
佐々成政との激しい籠城戦の実態を物語る直接的な証拠。鉄砲が実戦で多用されていたことがわかる 24 。 |
灯明皿、木製漆器、下駄など |
井戸跡、堀跡 |
16世紀 |
城内で暮らした武士やその家族の日常生活、文化レベルを具体的に復元するための貴重な手がかりとなる 23 。 |
これらの考古学的成果は、『土肥家記』などの文献史料を裏付け、補完するものである。弓庄城跡は、単なる城の跡地ではなく、土肥政繁という一人の武将と彼の一族が生きた時代の政治、経済、文化、そして戦争の実態を、現代に伝える貴重な歴史遺産なのである。