最終更新日 2025-06-21

坂井成政

旗本・坂井成政の生涯 ―激動の時代を生き抜いた武士の実像―

序章:坂井成政という武士―歴史の潮流に埋もれた実像の探求

本報告書は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての激動期を生きた徳川家旗本、坂井成政(さかい なりまさ)の生涯を、信頼性の高い史料に基づき、網羅的かつ詳細に解明することを目的とする。彼の生涯は、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いで功を立て、大坂の陣を経て旗本としての地位を確立したという概要で知られている 1 。しかし、その背景には、一族の出自、父の非業の死、そして彼のキャリア形成を左右した人間関係の力学など、より深い文脈が存在する。本報告書では、これらの要素を丹念に掘り起こし、一人の武士の実像を立体的に再構築する。

坂井成政の調査において、最大の障壁となるのが、同時代に活躍した類似名の武将との混同である。特に、織田信長の重臣として名高い「坂井政尚(さかい まさひさ)」 2 や「佐々成政(さっさ なりまさ)」 2 は、坂井成政本人としばしば混同、あるいは誤って関連付けられることがある。この情報の混濁を排し、正確な人物像を追求するため、本報告書では江戸幕府による公式系譜集『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』と略す)の記述を最も信頼性の高い基軸史料と位置づける 1 。これにより、坂井成政を「本姓を赤川氏とし、父・成利の代に坂井姓に改めた、通称・半左衛門」として明確に定義し、その生涯を追跡する。

坂井成政という一人の武将を正確に理解する過程は、単なる事実の列挙に留まらない。それは、どの史料を主軸とし、どの史料を補助的に用いるかという「史料批判」の実践そのものである。『寛政譜』のような幕府の公式記録と、『武功夜話』のような信憑性に議論のある史料を比較検討することは、歴史像を構築する上での学術的アプローチの重要性を示す好例となる 4 。本報告書は、このプロセスを通じて、歴史の潮流の中に埋もれがちな一人の武士の人生を、確かな輪郭をもって描き出すことを目指すものである。

第一章:一族の源流 ―赤川氏から坂井氏へ

坂井家の本姓と出自

『寛政譜』によれば、坂井成政の家系は本姓を赤川氏という 1 。彼の父は坂井成利と名乗ったが、その父、すなわち成政の祖父は赤川景弘であった 5 。したがって、坂井家は元来、赤川氏を名乗る一族であったことがわかる。

「坂井」姓への改姓の経緯

父・成利は、初め織田信長に仕官した 5 。その際、信長の有力な武将であった坂井政尚(右近将監)と義兄弟の盟約を結んだとされている 1 。この個人的な結びつきを背景に、主君である信長の命によって、成利は姓を「赤川」から「坂井」へと改めた 1

この改姓は、単なる名前の変更以上の意味を持っていた。戦国時代において、武士の「家」のアイデンティティは、純粋な血縁だけでなく、主君の命令や有力者との政治的な結合によっても形成・変化する流動的なものであった。有力家臣である坂井政尚の一門に連なる形をとることで、赤川氏は織田家臣団という新たな社会集団内での地位を固め、その後の家の存続と発展の基盤を築こうとしたと考えられる。これは、血統(本姓)よりも、現実的な政治力学や主君への奉公が「家」の存続において重要であった戦国期の価値観を色濃く反映している。

異説の検討―余語氏出自説

一方で、『武功夜話』や、それを参照した可能性のある『諸家系図纂』といった史料には、坂井政尚と佐々成政が兄弟であり、その父を「余語盛政」とする、全く異なる系譜が記されている 4 。この説は、著名な武将たちを一つの家系にまとめる魅力的な物語ではあるが、『寛政譜』に記録された旗本・坂井家の公式な家譜とは全く整合しない。旗本となった坂井家自身が幕府に提出した家譜には、赤川氏からの改姓と明記されており、余語氏との関連は一切認められない 1 。したがって、本報告ではこの余語氏出自説を信憑性の低い異説として扱い、坂井成政の直接の家系とは切り離して考察する。

第二章:父・坂井成利の軌跡と非業の死 ―激動の時代の波に翻弄された生涯

坂井成政の人生を理解する上で、父・成利の生涯、とりわけその最期は決定的に重要な意味を持つ。成利は織田、豊臣という二つの政権を渡り歩き、息子に有形無形の遺産を残した。

織田信雄の家臣として

本能寺の変後、成利は織田信長の次男・織田信雄に仕えた 5 。この時期、彼は信雄の三人の重臣の一人であった岡田重孝と親しい関係にあった。しかし、天正12年(1584年)、羽柴秀吉との対立を深める信雄は、秀吉との内通を疑い、岡田重孝を長島城にて誅殺するという挙に出る 5

この事件が引き金となり、小牧・長久手の戦いが勃発する。成利は、兄を殺された岡田善同と共に、秀吉方の星崎城を守備した。しかし、織田方の猛攻の前に城を支えきれず、退城を余儀なくされた 5 。この時に共に戦った岡田善同との関係が、後に息子・成政の運命を救う伏線となる。

豊臣政権下での知行

小牧・長久手の戦いが和睦に終わった後、成利は天下人となった豊臣秀吉の配下となり、伊勢国に二千石の知行を与えられた 5 。これにより、彼は小大名に準ずる地位を確立し、坂井家は一時的な安定期を迎える。知行地の具体的な場所を示す史料は見当たらないが 8 、伊勢という戦略的要地に所領を得たことは、秀吉政権下で一定の評価と信頼を得ていたことを示唆している。

慶長五年の悲劇―一揆による戦死

しかし、その安定は長くは続かなかった。天下分け目の年である慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが目前に迫る緊迫した情勢の中、成利の伊勢領内で一揆が発生する 5 。この一揆の性格が、西軍方の策動によるものか、あるいは在地領民との偶発的な衝突であったかは定かではない 10 。『寛政譜』によれば、成利はこの一揆の鎮圧を焦るあまり、敵の矢を受けて戦死したと記されている 1

この父の死は、息子・成政に二重の影響を与えた。一つは、当主と二千石の知行地を同時に失うという「負の遺産」である。これにより、成政は一日にして「浪人」同然の苦境に立たされた。しかしもう一つ、父は「正の遺産」も残していた。それは、かつて戦場で苦楽を共にした岡田善同との信頼関係という、目に見えない人脈であった。この無形の資産こそが、成政が新たな主君を見出し、家を再興するための唯一の生命線となるのである。

第三章:徳川家臣としての再出発 ―関ヶ原の戦いと新たな主君

父の突然の死により、坂井家は存亡の危機に瀕した。しかし成政は、父が遺した人脈を活かし、時代の転換点において見事な再起を果たす。

徳川家康への謁見―人脈を活かした起死回生

慶長五年(1600年)、父を失い浪々の身となった成政は、会津の上杉景勝討伐のため下野国小山に大軍を率いて進駐していた徳川家康のもとへ赴いた 1 。この時、家康という天下人に一介の浪人が謁見を許されることは、通常ではあり得ない。

ここで決定的な役割を果たしたのが、山岡景友(道阿弥)と岡田善同という二人の有力者であった 1 。山岡景友は、足利、織田、豊臣、徳川と主君を変えながらも生き抜いた老練な武将で、当時は家康に接近し、その信頼を得ていた 14 。そして岡田善同は、前章で述べた通り、成政の父・成利と小牧・長久手の戦いで共に戦った旧知の仲であった 5 。この二人の有力者による口添え、すなわち紹介と推薦によって、成政は家康への拝謁という千載一遇の機会を掴んだのである。

家康が成政を受け入れた背景には、単なる温情だけではない、彼の合理的な人材登用戦略が見え隠れする。成政の父・成利は元織田信雄の家臣であり、信雄は家康と小牧・長久手で同盟を結んだ関係にあった。また、成利が関ヶ原直前に領内の一揆で命を落としたことは、家康の視点からは「西軍の策動による犠牲者」と見なすことも可能であった。こうした背景を持つ成政を召し抱えることは、家康にとって旧織田家臣団への影響力を示し、かつ「西軍の犠牲者の子を救う」という大義名分も立つ、理に適った判断だったのである。

関ヶ原の戦いでの武功

家康への仕官を許された成政は、直ちに東軍の一員として天下分け目の決戦に臨むことになった。彼は、自らを推挙してくれた恩人である山岡景友の部隊に所属して戦った 1 。関ヶ原における彼の具体的な戦闘行動に関する詳細な記録は現存しないが 17 、『寛政譜』には明確に「戦功あり」と記されており、この大戦で確かな働きを見せたことがわかる 1

恩賞と新たな知行―旗本坂井家の誕生

戦後、関ヶ原での戦功が認められ、成政は近江国蒲生郡内において新たに五百石の知行を与えられた 1 。ここで重要な点は、この知行が父の遺領であった伊勢二千石の継承ではなく、全く新しい知行の宛行であったという事実である 1 。これは、成政がもはや豊臣家臣・坂井成利の子としてではなく、徳川家臣・坂井成政として、自らの働きによって新たな地位を築いたことを明確に示している。ここに、江戸幕府の直参旗本としての坂井家が実質的に誕生したのである。

第四章:江戸幕府旗本としての確立

関ヶ原の戦いを経て徳川家の家臣となった坂井成政は、その後、江戸幕府の体制が固まっていく中で、旗本としての務めを果たしていく。

大坂の陣への従軍

徳川と豊臣の最終決戦となった大坂の陣において、成政は幕府軍の一員として従軍した。慶長19年(1614年)の冬の陣、および慶長20年(1615年)の夏の陣の両陣に参加したことが記録されている 1

この際、彼は幕府の重臣である松平正綱の部隊に属して戦った 1 。松平正綱は家康の側近であり、後に勘定奉行などを歴任する幕政の重要人物である。彼の配下で戦ったことは、成政が単なる地方の小領主ではなく、幕府の中央の指揮系統に完全に組み込まれた旗本として活動していたことを示している。

大番への列格―将軍親衛隊として

家康の死後、成政は二代将軍・徳川秀忠に仕え、幕府の軍事組織の中核である「大番」に列せられた 1 。大番は、徳川家康が三河時代に創設した最も古い歴史を持つ番方(将軍親衛隊)の一つである。その職務は、平時においては江戸城の二の丸や西の丸といった重要区画の警備、将軍外出時の供奉などであり、戦時には将軍直属の先鋒隊となる、非常に名誉ある役職であった 22

五百石の旗本である成政がこの大番に任じられたことは、彼が幕府からその武勇と忠誠を高く評価され、将軍に近侍し、幕府中枢を警護するに足る信頼された家臣として認められていたことを意味する。

晩年と死

大番としての務めを果たし、乱世の記憶が遠のき始めた寛永二年(1625年)4月3日、坂井成政は江戸でその生涯を閉じた 1 。法名は道英といい、その墓所は当時の江戸芝伊皿子にあった大円寺に設けられた。この大円寺は後年、現在の東京都杉並区に移転し、今に至っている 1

第五章:坂井家の系譜とその後 ―旗本としての家の存続戦略

坂井成政が一代で築き上げた旗本としての地位。その家をいかにして後世に繋いでいくかという課題は、息子・成令の代に引き継がれた。坂井家のその後の歩みは、江戸初期の旗本が家の安泰を図るための典型的な戦略を示している。

婚姻による家格の安定

成政の正室は、新庄直忠の娘であった 1 。岳父である新庄直忠は、もともと近江・伊勢に1万4600石を領した大名であったが、関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易された経歴を持つ 20 。しかし、その後は家康に許されて幕臣として再起を果たしている。この婚姻は、同じように一度は危機に瀕しながらも、徳川政権下で家名を再興した武家同士の結びつきであり、互いの立場を強化する意味合いがあったと考えられる。

家督の相続と更なる血縁戦略

成政の死後、家督と五百石の知行は、嫡男の坂井成令(なりよし)が滞りなく継承した 1 。成令は、父が築いた基盤をさらに強固なものにするため、極めて戦略的な婚姻を結ぶ。彼の正室は、旗本六千石の大身であった松平忠実の娘であった 27

この松平忠実は、単なる大身旗本ではない。彼は五井松平家の当主であり、徳川家康の異父妹を母に持つ、将軍家と極めて近い血縁関係にある重要人物であった 28 。五百石の坂井家が、将軍家の親族である六千石の松平家と縁戚関係を結んだことは、家の存続と発展にとって計り知れない価値があった。初代・成政が自らの武功で再興した家を、二代目・成令が有力な縁組によってその基盤を盤石なものにしたのである。この一連の動きは、江戸幕府という新たな支配体制の中で、旗本という階層が自らの家を維持・発展させるために、軍功だけでなく閨閥(けいばつ)という社会的なネットワークの構築がいかに不可欠であったかを具体的に示している。

現代への繋がり

坂井成政の血筋は、江戸時代を通じて旗本として存続し、現代まで続いている。その子孫には、数多くの歴史的・SF的なイラストで知られる著名なイラストレーター、坂井永年氏がいることが確認されている 1 。これは、歴史上の人物が現代社会と確かに繋がっていることを示す興味深い事例である。

付属資料:坂井成政家略系図

関係

氏名

備考

祖父

赤川 景弘

坂井 成利

(元・赤川氏)。織田信長、信雄、豊臣秀吉に仕える。伊勢二千石。慶長五年(1600年)に戦死。

本人

坂井 成政

通称:半左衛門。徳川家康、秀忠に仕える。旗本五百石。寛永二年(1625年)没。

坂井 成高

通称:善右衛門。

岳父

新庄 直忠

元・近江大名。関ヶ原で西軍に属し改易後、幕臣となる。

正室

新庄直忠の娘

嫡男

坂井 成令

成政の家督を継ぐ。旗本坂井家二代。

息子の岳父

松平 忠実

五井松平家当主。大身旗本六千石。家康の近親。

結論:乱世を生き抜き、新たな主君のもとで家名を再興した武士

坂井成政の生涯は、豊臣政権下で父・成利が築いた二千石の地位を、父の突然の死によって失うという絶望的な逆境から始まった。しかし彼は、父が遺した人脈という無形の財産を最大限に活用し、天下人・徳川家康に仕える道を見出すことに成功する。そして、関ヶ原の戦いという時代の転換点において自らの武功を立てることで、近江国に五百石の知行を得て、旗本として新たな家の礎を築き上げた。

彼の人生は、織田・豊臣から徳川へと権力が移行する激動の時代において、大名ではない中級武士がいかにして生き残り、新たな秩序に適応していったかを示す貴重なケーススタディである。父の死による没落、人脈を頼った再起、自らの戦功による地位の獲得、そして婚姻政策による家の盤石化という一連の軌跡は、個人の武勇や才覚だけでなく、社会的な関係性や時代の潮流を読み解く力が、武家の存続にとっていかに重要であったかを雄弁に物語っている。

坂井成政は、歴史の表舞台で華々しく活躍する英雄ではない。しかし、彼の堅実な生涯は、泰平の世を支えた数多の旗本たちの、リアルな生き様を我々に伝えてくれる。それは、危機を乗り越え、新たな主君のもとで家名を再興し、次代へと確かにバトンを渡した、一人の武士の確かな足跡なのである。

引用文献

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