本報告書は、一般に「仏の茂助」として知られ、豊臣三中老の一人として歴史に名を刻んだ堀尾吉晴の生涯を、多角的に再検証するものである。彼の功績は、国宝松江城と城下町の礎を築いた「松江開府の祖」として結実するが 1 、その道のりは、単なる温厚な武将という一面的な評価では捉えきれない、武勇、知略、そして政治的洞察力に満ちたものであった。本稿では、出自から堀尾家の終焉までを徹底的に追跡し、戦国から江戸への移行期を生き抜いた、一人の大名の複雑で深遠な実像に迫る。
堀尾吉晴は、天文12年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町)にて、土豪・堀尾泰晴の長男として生を受けた 3 。幼名は仁王丸、のちに小太郎と称した 5 。父・泰晴は、単なる地方の土豪ではなく、尾張上四郡の守護代であった岩倉織田氏の当主・織田信安に仕える重臣であった。その地位は、同じく信安の家臣であった山内一豊の父・山内盛豊と共に名を連ねた連署状が現存していることからも窺い知ることができる 6 。この事実は、堀尾家が当時、尾張において一定の格式と影響力を持つ武士階級であったことを示唆している。
吉晴の人生は、早くから戦国の動乱に翻弄される。永禄2年(1559年)、16歳で迎えた初陣、岩倉城の戦いにおいて、彼は敵の首級を挙げる一番首の功名を立てる 7 。しかし、この戦いで主君である岩倉織田氏は、織田信長の尾張統一の過程で滅亡。輝かしい武功とは裏腹に、堀尾家は仕えるべき主家を失い、父子ともに浪人の身へと転落した 4 。
主家滅亡後、吉晴は約5年間にわたる厳しい浪人生活を送った。尾張から伊勢へと放浪を重ねた末、美濃国で猟師として生計を立てていたと伝えられる 7 。武士としての地位を失い、日々の糧を得るために野山を駆けたこの雌伏の時代は、彼の人間性を深く形成する上で決定的な意味を持った。主を失うという武士にとって最大の挫折と、社会の底辺で生きる困苦を身をもって経験したことが、後に彼が示す他者への共感性や現実的な洞察力の源泉となったと考えられる。
この不遇の時代に、運命的な転機が訪れる。猟師をしていた吉晴は、当時、木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉にその才覚を見出され、家臣として召し抱えられた 7 。そして永禄10年(1567年)、織田信長による稲葉山城(後の岐阜城)攻めにおいて、吉晴は城へ通じる裏道を案内するという極めて重要な役割を果たし、織田軍の勝利に大きく貢献したとされる 6 。この功績が、秀吉からの絶対的な信頼を勝ち取る最初の大きな一歩となり、彼の立身出世の物語がここから始まったのである。彼の浪人経験は、単なる苦労話に留まらない。それは、人の痛みを理解し、地理を読み、逆境に屈しない精神力を養うための試練であり、後に多くの浪人を召し抱えてその能力を活用するという、情けと実利を兼ね備えた人材戦略の礎ともなった 7 。
木下藤吉郎に見出されて以降、堀尾吉晴は羽柴秀吉の腹心として、その天下統一事業のあらゆる局面で重要な役割を果たした。天正10年(1582年)の本能寺の変という激震の後、秀吉が敢行した「中国大返し」に随行。それに先立つ備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治が切腹する際の検死役という、高い信頼がなければ任されない重責を務めている 6 。続く山崎の戦いでは、明智光秀軍との雌雄を決する天王山争奪戦において、堀秀政や中村一氏らと共に先手の鉄砲隊を率いて奮戦し、敵将を討ち取るという目覚ましい武功を挙げた 6 。
彼の能力は、単なる武勇に留まらなかった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉本隊が出陣した後も大垣城に留まり、城主・氏家直通を説得して秀吉方として出陣させることに成功する 6 。これは秀吉軍の背後の安全を確保する上で極めて重要な功績であり、吉晴が戦術眼のみならず、高度な交渉能力と政治感覚を兼ね備えていたことを示す初期の好例である。この功績により、若狭高浜城を与えられた 6 。その後も、九州征伐 6 、そして天正18年(1590年)の小田原征伐 13 と、秀吉の主要な戦役にはことごとく従軍し、着実にその地位を固めていった。
秀吉の出世は、そのまま吉晴の飛躍に繋がった。秀吉が長浜城主となると110石を与えられたのを皮切りに 13 、その知行は戦功を重ねるごとに飛躍的に増大していく。
年代 (和暦) |
領地 (国・城) |
石高 |
関連する戦役・出来事 |
天正元年 (1573) |
近江国 長浜 |
110石 |
秀吉の長浜城主就任に伴う 13 |
天正10年 (1582) |
丹波国 氷上郡 (黒井城) |
6,284石 |
山崎の戦いの功績による 6 |
天正11年 (1583) |
若狭国 高浜城 |
17,000石 |
賤ヶ岳の戦いの功績による 6 |
天正13年 (1585) |
近江国 佐和山城 |
40,000石 |
豊臣秀次付宿老への任命 13 |
天正18年 (1590) |
遠江国 浜松城 |
120,000石 |
小田原征伐の功績による 8 |
この知行の変遷は、吉晴が秀吉政権内でいかに信頼され、その地位を向上させていったかを如実に物語っている。特に、近江佐和山や遠江浜松といった交通・軍事上の要衝を次々と任されている点は、彼への期待の大きさを物語る 6 。
天正18年(1590年)、小田原征伐が終結し、徳川家康が関東へ移封されると、吉晴はその旧領である遠江浜松12万石の城主に抜擢された 14 。これは、彼が豊臣政権下で方面軍の重鎮と呼ぶべき大名にまで登り詰めたことを意味する。浜松城主への就任は、単なる栄転ではなかった。秀吉は、関東に移した家康を牽制するため、東海道の要衝に山内一豊(掛川)、中村一氏(駿府)、そして堀尾吉晴(浜松)という腹心の武将を配置した 18 。吉晴の浜松入封は、この「対家康包囲網」の重要な一角を担うという、極めて戦略的な意味合いを持っていた。
浜松在城は約10年間に過ぎなかったが 14 、吉晴はこの地で大きな足跡を残した。家康時代の戦国城郭であった浜松城を、近世城郭へと大改修し、現在も見られる野面積みの高石垣や壮麗な天守閣を築いたのは吉晴である 17 。これは豊臣政権の威光を東海地方に誇示する政治的デモンストレーションであった。同時に、普済寺や西来院といった寺社の竹木伐採を禁じる制札を出すなど、領民の生活に配慮した細やかな民政も実施しており 14 、彼の為政者としての一面も垣間見える。秀吉の「楔」として打ち込まれた吉晴であったが、彼はこの地で、後に重要となる家康との関係を構築する布石を打つことにもなる。
堀尾吉晴の人物像は、しばしば二つの対照的な異名によって語られる。それは平時の仁愛を示す「仏の茂助」と、戦時の勇猛さを表す「鬼の茂助」である。この二面性は、彼の複雑な人格を示すと同時に、戦国から江戸への移行期を生きた武将が持つべき資質を体現していた。
吉晴はその温和で誠実な人柄と、端正であったと伝わる容貌から「仏の茂助」と呼ばれ、多くの人望を集めた 5 。この異名は、単なる印象に留まらず、具体的な逸話によって裏付けられている。
特筆すべきは、彼が浪人に対して示した深い同情心と支援である。自らも5年間の浪人生活で苦労した経験から 7 、彼は多くの浪人を積極的に召し抱え、さらには他家への仕官の斡旋まで行った。その数は100人を超えたとも言われ、これは単なる情け深さだけでなく、有能な人材を発掘し、自家の勢力基盤を強化するという実利的な目的も兼ね備えた、戦略的な行動であった 7 。また、家臣が病に倒れれば、複数の医師を手配し、看病のための小姓を付けるなど、手厚い配慮を欠かさなかった 7 。自らの武功を決してひけらかさず、常に謙虚な姿勢を崩さなかったことも、彼の人望を高める要因となった 7 。
一方で、ひとたび戦場に立てば、吉晴は「鬼の茂助」と称されるほどの獅子奮迅の働きを見せた 12 。その戦いぶりは、秀吉をして「仏の茂助は鬼の茂助というべし」と賞賛させたという逸話も残るほどである 22 。
彼の武勇を物語る逸話は数多い。信長と狩りに出かけた際、突如現れた猪を前に、武器も持たずに格闘して見事に仕留めたという伝説的な武勇伝もその一つである 23 。より現実的な武功としては、後述する三河池鯉鮒での刃傷事件が挙げられる。この事件で彼は、不意の襲撃を受け全身に17箇所もの傷を負いながらも、冷静さを失わず相手を討ち取っている 7 。この絶体絶命の状況下で見せた凄まじい気迫と戦闘能力は、平時の温厚な姿からは想像もつかない、「鬼」の一面を明確に示している。
吉晴の能力は、武勇と仁愛だけに留まらない。彼はまた、優れた調停者・交渉者でもあった。賤ヶ岳の戦いにおける氏家直通の説得工作 6 や、秀吉の妹・朝日姫と佐治氏との離縁交渉の使者を務めたこと 24 など、政治の機微に通じた外交手腕は、豊臣政権下で高く評価された。
彼の気骨を示す逸話として、関白・豊臣秀次に対する諫言がある。秀吉の甥として権勢を誇った秀次が驕りを見せた際、その宿老であった吉晴は、臆することなく堂々とその非を諫めたという 25 。これは彼の温厚さが、権力におもねる迎合ではなく、道理や正義を重んじる強い信念に裏打ちされていたことを物語っている。
これら「仏」と「鬼」、そして「調停者」という三つの顔は、互いに矛盾するものではない。むしろ、これらは乱世を生き抜き、新たな時代を築くために不可欠な、補完的な機能を持っていた。「仏」の側面で人心を掌握し組織を固め、「鬼」の側面で敵を討ち危機を乗り越え、「調停者」の側面で政局を渡り歩く。この高度なバランス感覚こそが、堀尾吉晴という武将の本質であったと言えよう。
豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を根底から揺るがした。堀尾吉晴は、この天下の分水嶺において、豊臣政権の重鎮として、そして自家の存亡を賭けた一人の大名として、極めて困難な舵取りを迫られることとなる。
慶長3年(1598年)の秀吉死後、吉晴は生駒親正、中村一氏と共に三中老に任命された 5 。この役職は、政権の最高意思決定機関である五大老と、実務を担う五奉行との間に立ち、両者の対立を仲裁・調整するために設けられたものである 14 。しかし、この三中老という役職は、秀吉が死の間際に作り出した、権力構造の綻びを繕うための弥縫策に過ぎなかった。
秀吉の遺言を無視して大名間の私的な婚姻を推し進める五大老筆頭の徳川家康と、それを豊臣家への忠誠に悖る行為として糾弾する五奉行筆頭の石田三成との対立は、もはや構造的なものであり、中間組織の調停で解決できるレベルを越えていた。吉晴は、家康に秀吉の遺言遵守を求める誓詞を出させるなど、調停役として奔走するが 7 、政局の大きな流れを変えるには至らない。慶長5年(1600年)には、他の三中老や三奉行と連名で、会津の上杉景勝討伐へ向かう家康に遠征中止を諌める書状を送っているが 26 、これも聞き入れられることはなかった。
豊臣政権の公的な調停者としての立場に限界を感じた吉晴は、極めて現実的な政治判断を下す。彼は、次代の天下を担う者として台頭しつつあった徳川家康への接近を強めていく 2 。家康と前田利家との対立を周旋した際には、その功を賞され、慶長4年(1599年)2月5日付で家康の重臣・井伊直政から丁重な感謝状を受け取っている 8 。
この関係を象徴するのが、同年10月の隠居である。吉晴は老齢を理由に家督を次男の忠氏に譲るが、その際、家康から直接、隠居料として越前府中5万石を与えられた 7 。これは、豊臣恩顧の大名が家康から直接知行を与えられた最初の事例であり、両者の間に単なる主従関係を超えた、強固な個人的信頼関係が構築されていたことを示している。吉晴は、豊臣家への「義理」を果たしつつも、自家の生き残りをかけた「実利」を家康に見出すという、卓越した政治的リアリズムを発揮したのである。
慶長5年(1600年)、家康が会津征伐の軍を起こすと、吉晴は子の忠氏と共に出陣を申し出るが、家康は忠氏のみの従軍を認め、吉晴には越前への帰国を命じた 8 。その帰路、三河国の池鯉鮒(現在の愛知県知立市)の宿で、吉晴の運命を大きく左右する事件が起こる 10 。
その夜、吉晴は刈谷城主・水野忠重、美濃加賀井城主・加賀井重望と酒宴を催していた。宴席において、西軍への加担を画策していた加賀井重望が、東軍の中核である水野忠重(家康の従兄弟)に勧誘を仕掛け、拒否されると口論の末に忠重を刺殺した 10 。さらに加賀井は、その場に居合わせた吉晴にも襲いかかった。不意を突かれた吉晴は、全身に17箇所もの深手を負うが、絶体絶命の中でこれを返り討ちにする 7 。この事件は、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる、東西両派の対立が爆発した縮図であった。そして、調停者であるはずの吉晴がその渦中で重傷を負ったという事実は、もはや話し合いによる平和解決が不可能な段階に事態が至っていたことを象徴している。
この時に負った傷が原因で、吉晴は関ヶ原の本戦に参加することができなかった 8 。しかし、彼の不在は堀尾家の戦功を損なうものではなかった。息子の忠氏が東軍の一翼として本戦で武功を挙げ、吉晴自身も越前から北陸地方の情勢を逐一家康に報告するなど、後方支援で東軍の勝利に貢献したのである 8 。
関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わり、日本の統治体制は新たな時代へと移行した。堀尾吉晴にとって、それは戦乱の世の締めくくりであると同時に、彼の生涯最大の事業の始まりでもあった。
関ヶ原における忠氏の戦功と、吉晴自身の東軍への貢献が高く評価され、戦後の論功行賞において、堀尾氏は遠江浜松12万石から出雲・隠岐両国24万石へと大幅な加増移封を命じられた 2 。これは、彼らが徳川政権下で国持大名という最高位クラスの大名として認められたことを意味する。吉晴と忠氏親子は、まず戦国大名尼子氏の旧居城であった月山富田城に入城した 2 。
しかし、親子はすぐにこの地の限界を悟る。月山富田城は、峻険な山に築かれた中世の山城であり、防衛には優れるものの、鉄砲が主要兵器となった新たな時代の戦術には不向きであった 16 。さらに、山間部に位置するため水運の便が悪く、城下町を大規模に発展させて領国経済を振興させるには、地理的な制約が大きすぎた 33 。吉晴と忠氏は、軍事拠点としての城だけでなく、政治・経済の中心地として機能する近世的な領国経営の拠点を新たに築くことを決意する。この決断は、時代がもはや純粋な軍事力だけでなく、経済力と効率的な統治機構が藩の存続を決める「治の時代」に入ったことを、吉晴が深く理解していたことを示している。
新たな国造りを前に、堀尾家には不幸が立て続けに襲いかかった。かつて天正18年(1590年)の小田原征伐では、嫡男であった金助が陣中で病死(戦傷死説あり)するという悲劇に見舞われていた 8 。
そして慶長9年(1604年)、新城の候補地を選定するなど、出雲統治の将来を嘱望されていた藩主・忠氏が、わずか27歳(28歳説あり)の若さで急死してしまう 7 。死因は病死とされるが、領内視察の際にマムシに噛まれたためという説も伝わっている 35 。相次ぐ後継者の死は、吉晴にとって痛恨の極みであったに違いない。
家督は、忠氏の子で吉晴の孫にあたる、わずか6歳の忠晴が継承した。これにより、隠居の身であった吉晴は、幼い藩主の後見人として、再び藩政の表舞台に立ち、事実上の藩主として全ての采配を振るうことになった 7 。
逆境の中、吉晴は忠氏の遺志を継ぎ、最後の事業に全精力を傾けた。彼は、これまでの佐和山城や浜松城など、湖や水運を活かした城の統治経験に基づき 22 、宍道湖と中海に挟まれた水運の要衝である亀田山を新城の地に選定した 31 。
慶長12年(1607年)、松江城の築城と城下町の建設が開始された。吉晴の指揮のもと、工事は急ピッチで進められ、わずか5年後の慶長16年(1611年)には、壮大な五層六階の天守閣を頂く松江城と、武家地・町人地が機能的に配置された計画的な城下町が完成した 7 。松江城は、天守内に井戸を設けるなど、籠城戦を想定した実戦的な構造を持ちつつ 41 、その威容は新たな支配者の権威を内外に示した。
この大事業の完成を見届けた直後の慶長16年6月17日、堀尾吉晴は69年の波乱に満ちた生涯を閉じた 5 。彼は、自らの手で松江の未来の礎を築き上げ、その地で永遠の眠りについたのである。
堀尾吉晴が一代で築き上げた栄光は、しかし、彼の死後、あまりにも早く終焉を迎える。彼の生涯が戦国から江戸への移行期を象徴するものであったとすれば、その家の短命もまた、時代の不確実性を物語るものであった。
吉晴の死後、藩主となった孫の忠晴は、藩政を担うも後継者に恵まれなかった。そして寛永10年(1633年)、忠晴は嗣子のないまま33歳の若さで病死する 43 。家臣団は、養子縁組による家名存続を幕府に嘆願したが、その願いは認められなかった 45 。結果、出雲松江24万石を領した堀尾家は、吉晴、忠氏、忠晴の三代、わずか33年で無嗣改易となり、大名としての歴史に幕を下ろした。
残された家臣団は離散し、後に入封した京極氏や松平氏に再仕官する者、あるいは他藩に新たな仕官先を求める者など、それぞれの道を歩むこととなった 46 。
堀尾吉晴は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕え、激動の時代を巧みに生き抜いた卓越した処世術を持つ武将として評価される。その生涯を俯瞰すれば、彼が極めて多才な能力の持ち主であったことがわかる。「鬼」と称された戦場での武勇、「仏」と称された平時の仁愛、三中老として政権の中枢で機能した高度な調整能力、そして浜松や松江での築城・領国経営に見られる優れた行政手腕。これらを高いレベルで兼ね備えた、稀有なバランス感覚を持った人物であった。
彼の生涯は、戦国の「武」の論理が支配する時代から、江戸の「治」の秩序が確立される時代への、まさに移行期そのものを体現している。彼が一代で大名を築き上げた成功と、その家が三代で潰えた悲劇は、この時代のダイナミズムと、個人の力だけでは抗えない運命の厳しさを象徴している。
堀尾家の治世は短かったが、吉晴が後世に残した遺産は計り知れない。
その最大のものが、彼が最後に心血を注いで築いた松江城である。明治維新後の廃城令で多くの城が失われる中、地元の尽力で保存された天守は、現存十二天守の一つに数えられる。近年、築城年代を慶長16年と確定する祈祷札が再発見されたことが決め手となり、平成27年(2015年)7月、国宝に指定された 7 。この壮麗な天守は、吉晴の築城技術と美意識の結晶であり、彼の最大の物理的遺産として今に輝いている。
もう一つの遺産は、彼が計画した城下町・松江である。彼が描いた都市計画は、現在の松江市の骨格を形成し、宍道湖と堀川が織りなす「水の都」としての美しい景観と文化の礎となった 48 。「松江開府の祖」としての吉晴は、今なお松江市民に深く敬愛され、その功績は語り継がれている 1 。堀尾吉晴の遺産は、博物館の史料としてだけでなく、400年以上の時を超えて、城の石垣や堀、街の区画として、現代に生き続けているのである。