堀田作兵衛(ほった さくべえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であり、特に真田信繁(さなだ のぶしげ)、一般には幸村(ゆきむら)の名で知られる武将の物語において、欠かすことのできない脇役として認識されている。彼の存在は、2016年に放送されたNHK大河ドラマ『真田丸』によって飛躍的に知名度を高め、主君に忠義を尽くし、妹や姪を深く愛する信濃の地侍という、人間味あふれる特定のイメージが広く定着するに至った 1 。
しかし、その具体的な生涯に目を向けると、その多くは依然として謎に包まれている。彼の人生を物語る史料は断片的であり、歴史的事実と後世に形成された伝承が混在しているのが現状である 3 。信繁の義兄として、その娘を養育し、大坂の陣で共に討死するという劇的な生涯は、人々の想像力を掻き立て、様々な物語を生み出す土壌となった。
本報告書は、これらの断片的な史料や伝承を丹念に整理・分析し、史実として確認できる事実と、そこから導き出される学術的な推論を明確に区別して提示する。これにより、一人の武将、堀田作兵衛興重(ほった さくべえ おきしげ)の実像に可能な限り迫ることを目的とする。
関係性 |
人物名 |
備考 |
中心人物 |
堀田作兵衛(興重) |
本報告書の主題。真田家臣。 |
一族 |
父:堀田五兵衛 |
信繁の世話役であったとされる。作兵衛と同一視されることもある。 |
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妹:阿梅(仮称) |
真田信繁の側室(または最初の妻)。史料に名は見られない。 |
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嫡男:又兵衛(源内) |
父の死後、石合家に匿われる。 |
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娘 |
大坂の陣後、幕府の詮議により処刑されたとの伝承がある。 |
真田家 |
義弟:真田信繁(幸村) |
主君。妹の夫。 |
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姪(実子):すへ(阿菊) |
信繁の長女。作兵衛の養女となる。 |
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姪(実子):於市 |
信繁の次女。母は高梨内記の娘という説もある。 |
姻戚 |
養女:すへ(阿菊) |
実の姪。 |
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養女の夫:石合十蔵道定 |
信濃国長窪宿の本陣役を務めた郷士。 |
歴史上の人物を特定する上で、その姓名は最も基本的な情報である。堀田作兵衛として知られる彼の諱(いみな、実名)は「興重(おきしげ)」であったことが、複数の資料によって確認されている 3 。「作兵衛」は通称であり、戦国時代から江戸時代にかけて武士階級で広く用いられた呼称である。本報告書では、一般的に知られる「堀田作兵衛」という呼称を主として用いつつ、実名が重要となる文脈では「興重」を併記する。
作兵衛の出自をたどると、一つの混乱が見られる。一部の系譜資料において、彼の父は「堀田五兵衛(ごへえ)」であったと記されている 5 。この五兵衛は、真田昌幸が次男・信繁の世話役として付けたとされる人物であり、作兵衛の一族が古くから真田家に仕えていた可能性を示唆している 6 。
しかし、事態を複雑にしているのは、この五兵衛自身が「作兵衛ともいう」と併記されている資料や 6 、作兵衛の養女すへが嫁いだ長窪宿の西蓮寺に伝わる「すへのおじいちゃん(五兵衛)とお兄さん(興重)が、両方とも堀田作兵衛を名乗った」という口伝の存在である 7 。
これらの情報から、いくつかの可能性が考えられる。第一に、父子で同じ「作兵衛」という通称を用いた可能性。第二に、後世の記録や伝承が形成される過程で、父・五兵衛と子・興重(作兵衛)の人物像が混同された可能性である。現存する資料の大半は興重を「作兵衛」として記述していることから、本報告では「父・五兵衛、子・興重(通称・作兵衛)」という関係性を基本としつつも、伝承の過程で両者の名や通称に揺らぎが生じた点を指摘するに留める。この混同は、歴史記録が必ずしも単一ではなく、時代を経て変容していく過程を示す一例と言えよう。
「堀田」という姓から、江戸時代初期に幕府の中枢で権勢を誇った譜代大名・堀田氏との関連を想起する向きもある。特に、三代将軍徳川家光の老中であった堀田正盛は、寛永15年(1638年)から寛永19年(1642年)にかけて信濃松本藩10万石の藩主を務めており 8 、地理的な接点が存在する。
しかし、両者の出自と家系を詳細に検討すると、直接的な血縁関係を認めることは極めて困難である。譜代大名の堀田氏は、尾張国(現在の愛知県西部)の津島神社に仕えた社家をルーツとし 11 、織田氏、豊臣氏を経て徳川家康に仕え、近世大名へと発展した家系である 12 。一方で、堀田作兵衛は信濃国小県郡(おがたぐん)の土豪である真田氏に仕えた、在地性の強い武士であった 3 。
両者の仕えた主君(徳川氏と真田氏)、社会的地位(譜代大名と地侍)、そして活動の拠点とした時期が全く異なる。堀田正盛が松本藩主であったのは、作兵衛が討死した20年以上も後のことである。したがって、両者が同姓であるのは偶然の一致であり、血縁関係はなかったと結論付けるのが最も妥当である。この「関係の不在」を明確にすることは、作兵衛が中央の権力構造とは無縁の、信濃の地に深く根を下ろした地方武士であったという人物像を、より一層鮮明にする上で重要な意味を持つ。
堀田作兵衛は真田家の家臣として知られるが、その家中における具体的な地位は判然としない。『真田家分限帳』のような家臣団の名簿に彼の名は見られない 15 。しかし、妹が主君・信繁の側室となるという極めて密接な関係性を考慮すれば、彼が単なる一兵卒でなかったことは明らかである。
複数の資料で彼の身分は「地侍」と表現されており 3 、これは真田氏の領国である上田周辺に自身の土地や生活基盤を持つ、半農半士の在地領主であったことを強く示唆している。この点は、彼の生涯における重要な決断を理解する上で鍵となる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、主君である信繁が九度山へ配流された際、作兵衛はこれに同行せず上田に残ったという事実が記録されている 3 。もし彼が主君から俸禄を得て生活する譜代の家臣であれば、主君と運命を共にし、配流に付き従うのが自然な選択であっただろう。彼が上田に残ったという事実は、彼が信濃の地に守るべき家族や土地、つまり自立した生活基盤を持っていたことの強力な証左である。このことから、作兵衛の立場は、真田氏と主従関係を結びつつも、完全な従属ではなく一定の独立性を保持した「国衆」あるいは有力な「地侍」であったと推測できる。この自立性こそが、後に姪を養育し、地域の有力者へ嫁がせるといった行動を可能にした基盤であったと考えられる。
堀田作兵衛と真田信繁を結びつけた最も重要な絆は、作兵衛の妹を介した姻戚関係である。作兵衛の妹(史料に名は伝わらないが、大河ドラマ『真田丸』では「梅」という名が与えられた)は、信繁が父・昌幸と共に上田を拠点としていた時期に、彼の側室となった 1 。一部には、彼女が信繁の最初の妻であったとする見方もある 5 。
この婚姻により、作兵衛は信繁の義理の兄という、家臣団の中でも極めて近しい立場となった 16 。二人の間には、長女「すへ」(別名、阿菊)、そして次女「於市」が生まれたと伝えられている 3 。ただし、次女の於市に関しては、母を高梨内記の娘とする異説も存在し、確定的ではない 4 。この血縁関係が、作兵衛のその後の人生を大きく規定していくことになる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した真田昌幸・信繁父子は、戦後処理により高野山、のちに九度山へと配流されることとなった 3 。この真田家にとって最大の危機に際し、堀田作兵衛は重大な決断を下す。彼は昌幸・信繁父子には同行せず、信濃国上田に残留した。そして、義弟・信繁の長女であり、自らの姪にあたる「すへ」を養女として引き取り、その手元で養育したのである 4 。
この行動は、単なる親族間の情愛と見るだけでは本質を見誤る。当時の社会において、関ヶ原の敗者、特に徳川家に敵対した信繁は「罪人」であった。その娘を公然と養育することは、新たな領主となった信繁の兄・信之や、その背後にいる徳川幕府の監視下において、決して平穏な行為ではなかったはずである。それは、自らの立場を危うくしかねない、政治的リスクを伴う忠義の表明であった。作兵衛がこのリスクを冒してまで姪を庇護した背景には、信繁個人への強い忠誠心と、主家の血筋を絶やしてはならないという武士としての強い使命感があったと考えられる。この決断は、彼の後の大坂参陣へと繋がる、一貫した行動原理の根幹をなすものであった。
作兵衛は、養女として育てた「すへ」が婚姻適齢期を迎えると、彼女の将来の安泰を願い、嫁ぎ先を探した。その相手として選ばれたのが、信濃国小県郡長窪宿(現在の長野県長和町)で本陣役を務めていた郷士、石合十蔵道定(いしあい じゅうぞう みちさだ)であった 4 。
石合家は、中山道長久保宿において代々本陣と問屋を兼ねる有力な家柄であったが、その身分は武士ではなく、地域の有力な商人、あるいは郷士であった 3 。罪人である信繁の娘が、武家に嫁ぐことは極めて困難であり、仮に嫁げたとしても政争に巻き込まれる危険性が高かった。作兵衛は、すへを武士の身分から切り離し、宿場町の有力者という安定した社会基盤を持つ石合家と結びつけることで、幕府の直接的な監視の目から遠ざけ、彼女の生活の安定を図ったのである。
この婚姻は、作兵衛が単に情に厚いだけの人物ではなく、当時の社会構造を冷静に分析し、姪の幸福を最大化するための極めて現実的かつ戦略的な判断を下せる人物であったことを示している。在地社会における自らのネットワークを駆使したこの庇護策は、彼の優れた生活感覚と交渉能力を物語るものである。
慶長19年(1614年)、豊臣秀頼からの招きに応じた真田信繁は、14年に及ぶ九度山での蟄居生活に終止符を打ち、大坂城へと入城する 3 。天下分け目の戦いの再燃を告げるこの報せは、信濃国上田で雌伏していた堀田作兵衛の運命を再び動かした。
彼は、上田での安定した生活を捨て、義弟であり主君である信繁の下へ駆けつけることを決意する。そして、志を同じくする者たちを率いて、信濃から大坂へと馳せ参じた 3 。この行動は、彼の生涯におけるクライマックスであり、その忠義のあり方を最も象徴するものである。前述の通り、作兵衛は生活に困窮した浪人ではなかった。兄・信之が治める上田藩領内で地侍として暮らしていれば、その後の人生は安泰であったはずである。徳川の支配体制が盤石となりつつある中で、豊臣方の勝利の公算が低いことは誰の目にも明らかであった。大坂への参陣は、死地へ赴くに等しい選択であった。
それでもなお彼が参陣したのは、損得勘定を超えた武士としての価値観の発露であった。信繁との義兄弟としての固い絆、そして「罪人」の汚名を着せられた主家の名誉を回復したいという純粋な動機が、彼を突き動かしたと考えられる。この行動は、安定よりも名誉を、生命よりも忠義を重んじる戦国武士の精神性を体現しており、後世の講談や物語で彼が「忠臣」として称揚される大きな要因となった。
大坂城に入った作兵衛は、慶長19年(1614年)の冬の陣、そして翌慶長20年(1615年)の夏の陣を通じて、信繁と共に徳川の大軍と戦った 4 。しかし、彼の具体的な戦闘における役割や武功を詳細に記した一次史料は乏しく、その活躍の多くは想像に委ねられている 3 。
ただ、冬の陣と夏の陣の間の束の間の和睦期間中に、彼の人柄と信繁との絆をうかがわせる逸話が残されている。信濃に残った娘婿の石合十蔵が、妻すへの父である信繁の安否を気遣い、作兵衛宛に書状を送った。その返書は、作兵衛ではなく信繁自らが筆をとり、自らの決死の覚悟と、後に残される娘のことを十蔵に託すという内容であったと伝えられている 3 。この逸話は、作兵衛が信繁と常に共に行動し、信濃との連絡役を担っていた可能性を示唆している。
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山の戦いにおいて、堀田作兵衛は主君・真田信繁と共に討死を遂げた 4 。信繁が徳川家康の本陣へ決死の突撃を敢行し、壮絶な最期を遂げたこの日、作兵衛もまた、主君と運命を共にしたのである。
その死の具体的な状況を伝える史料はない。大河ドラマ『真田丸』では、信繁を庇って敵の刃を受けるという、彼の忠義を凝縮したかのような劇的な最期が描かれた 3 。これはあくまでフィクションであるが、彼の生涯の行動原理からすれば、あり得たかもしれない最期として、多くの人々の心に深く刻まれている。
大坂の陣が徳川方の勝利で終結すると、豊臣方に与した者たちへの厳しい追及が始まった。徳川方についた信繁の兄・真田信之は、上田藩主として、弟に味方した堀田作兵衛の残された妻子や関係者に対し、詮議を行う立場に立たされた。記録によれば、信之は彼らの身柄を上田へと連行している 3 。
この信之の行動は、二つの側面から解釈できる。一つは、徳川家臣としての公的な義務である。逆賊に与した者の家族を詮議することは、幕府への忠誠を示す上で不可欠な処置であった。しかし、もう一つの側面として、彼らを自らの管理下に置くことで、幕府の直接的で過酷な追及から保護しようとする意図があったと推測される。信之の立場は、徳川への忠誠と、弟の縁者、ひいては真田一族への情という、二律背反の狭間での極めて苦しいものであった。
その苦渋の選択を物語るように、悲劇的な伝承も残されている。作兵衛の娘の一人は、信之の庇護も及ばず、幕府の厳しい詮議の末に大坂(あるいは京都)で処刑されたというのである 3 。この伝承が事実であれば、信之は一族の全てを救うことはできず、最小限の犠牲で大半を守り抜くという、痛みを伴う政治的判断を下したことになる。
作兵衛の死後、その血脈は絶えなかった。彼の嫡男であった又兵衛(ようみょう、幼名:源内)は、姉である「すへ」が嫁いだ長窪宿の石合家に匿われ、密かに養育された 4 。石合家は、逆賊の子を匿うという、発覚すれば家門の断絶にも繋がりかねない極めて危険な選択をしたのである。
そして寛永16年(1639年)、大坂の陣から24年もの歳月が流れた後、ついにすへと又兵衛の存在が幕府の知るところとなり、石合家は詮議を受けるという最大の危機を迎える 4 。しかし、結果として石合家と又兵衛は共に処罰を免れた 4 。落城から長い年月が経過していたことが、その一因であったとされる。
石合十蔵道定の行動は、特筆に値する。彼は、亡き義父・作兵衛への恩義と、その主君・信繁から書状で託された信頼に応え、命がけで彼らの血筋を守り抜いたのである 23 。これは、武士社会における「忠義」とはまた異なる、在地社会に根差した「信義」や「仁義」の篤い発露であった。堀田作兵衛の物語は、彼一人の忠義で完結するのではなく、その遺志を継いだ石合家の人々の義侠心によって、戦国の世が終わった後も長く紡がれていったのである。
石合家には、信繁が大坂の陣の最中に、娘婿である十蔵に宛てて書いたとされる書状が伝来している 21 。この書状には、決戦を前にして娘すへの将来を案じ、その身柄を頼むという、信繁の父親としての切実な情愛が綴られていたと伝えられている 3 。
この書状の存在は、信繁が作兵衛個人だけでなく、その縁者である石合家をも深く信頼していたことの何よりの証左である。また、この書状において娘の名は「すへ」と記されていたが、嫁ぎ先の石合家では「阿菊(おきく)」という名で呼ばれ、その名で弔われたという伝承も残っており、彼女が両家から大切にされていた様子がうかがえる 24 。
堀田作兵衛の墓は、養女すへが嫁いだ石合家の菩提寺である、長野県長和町の西蓮寺にあると伝えられている 3 。すへ(阿菊)自身の墓も同寺にあり、その法名は「松屋寿貞大姉」という 17 。彼女は寛永19年(1642年)10月28日にその生涯を閉じた 17 。作兵衛とその養女は、死後も彼らが守り抜いた信濃の地で共に眠っているのである。
江戸時代中期以降に成立した『真田三代記』などの軍記物語や、それらを下敷きにした講談は、真田信繁を徳川家康に立ち向かう悲劇の英雄として描き、その人気を不動のものにした 25 。これらの物語では、英雄・幸村(信繁)を支える魅力的な家臣団が不可欠であった。その過程で、猿飛佐助や霧隠才蔵に代表される、忍術などの超人的な能力を持つ「真田十勇士」という架空のキャラクターが創出され、大衆の人気を博した 27 。
このような創作の潮流の中で、堀田作兵衛のような実在の家臣は、十勇士とは異なる役割を担うことになった。彼は大坂の陣で討死したという動かしがたい史実を持つため、十勇士のように忍術を駆使して自在に活躍させるような脚色が難しかった。その結果、作兵衛は超人的な活躍ではなく、主君への「忠義」や「自己犠牲」といった、より人間的で共感を呼びやすい武士の美徳を体現する存在として位置づけられた。彼は、フィクションが生んだ「スーパーヒーロー」ではなく、史実に基づいた「忠臣」の典型として、物語の中で重要な役割を果たしてきたのである。
堀田作兵衛の人物像が現代において広く知られる最大の契機となったのは、2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』である。俳優の藤本隆宏によって演じられた作兵衛は、多くの視聴者から支持を集めた 1 。
作中での彼は、信濃の土地を深く愛する実直な地侍であり、農民たちの信頼を集めるリーダーとして描かれた。また、妹の梅(創作上の名)や姪のすへを何よりも大切にする、家族思いの心優しい人物としての側面が強調された 1 。彼の戦い方は、洗練された武芸者ではなく、泥臭く、不格好ながらも必死に主君を守ろうとするものであり 1 、その最期は信繁を庇って討死するという、彼の忠義を象徴する劇的な場面で締めくくられた 3 。
この人物像は、史料が乏しい中で、残された事実(妹が側室、姪を養育、大坂で討死)という骨格を基に、脚本家・三谷幸喜がその行間を想像力で埋めて創造したものである 1 。史実の断片を「家族愛」と「主君への個人的な信愛」という一貫した動機で巧みに繋ぎ合わせ、支配者層ではない「等身大の英雄」として再構築した。このアプローチは、歴史上の脇役であった堀田作兵衛を、物語に深みを与える重要な登場人物へと昇華させることに成功した、優れた歴史創作の事例と言える。
本報告書を通じて、堀田作兵衛(興重)の生涯を多角的に検証してきた。彼は信濃の地に深く根を下ろした地侍であり、主君・真田信繁との個人的な、そして血縁を通じた強い絆から、歴史の激動に身を投じた人物であった。
彼の行動は一貫している。関ヶ原合戦後、逆賊の汚名を着せられた主家の血脈(姪・すへ)を、政治的リスクを冒してまで守り抜いた。そして、その養女の将来を確かなものにするため、在地社会の有力者である石合家との縁組を成功させた。これらの責任を果たした後、彼は自らの安泰な生活を捨て、滅びゆく豊臣方についた主君の下へと馳せ参じ、その忠義を死をもって全うした。
彼の物語は、彼一人のものではない。その遺志は、娘婿である石合十蔵道定に引き継がれた。石合家は、武士の「忠義」とは異なる、人間としての「信義」に基づき、作兵衛の遺児・又兵衛を命がけで庇護し、その血筋を未来へと繋いだ。
堀田作兵衛の生き様は、戦国乱世の終焉期において、武士が拠り所とした「忠義」という価値観が、いかに多様な形で発露したかを示す、極めて貴重な事例である。彼の物語が、史実の枠を超えて現代人の心を打つのは、そこに損得を超えた人間としての誠実さと、守るべき者のために自らを犠牲にするという、時代を超えた普遍的な感動が内包されているからに他ならない。
年代 |
出来事 |
典拠 |
生年不詳 |
堀田興重(作兵衛)、生まれる。 |
4 |
天正12年(1584年)頃 |
妹が真田信繁の側室となり、長女・すへ(阿菊)が生まれる。 |
6 |
慶長5年(1600年) |
第二次上田合戦。戦後、昌幸・信繁父子は九度山へ配流。作兵衛は上田に残り、姪すへを養女とする。 |
3 |
慶長年間(〜1614年) |
養女すへを、信濃国長窪宿の本陣役・石合十蔵道定に嫁がせる。 |
4 |
慶長19年(1614年) |
大坂冬の陣。信繁の挙兵を知り、上田から大坂城へ馳せ参じる。 |
3 |
慶長20年(1615年)5月7日 |
大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いにて、主君・信繁と共に討死。 |
4 |
大坂の陣終結後 |
妻子が真田信之により上田へ移される。娘の一人が処刑されたとの伝承が残る。 |
3 |
寛永16年(1639年) |
石合家に匿われていた嫡男・又兵衛と、養女すへの存在が露見し詮議を受けるが、赦免される。 |
4 |
寛永19年(1642年)10月28日 |
養女すへ(阿菊)、死去。法名は松屋寿貞大姉。 |
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