最終更新日 2025-07-12

堀田正吉

堀田正吉の生涯 ― 泰平の礎となった旗本の栄光と悲劇

序章:歴史の狭間に生きた武将、堀田正吉

本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初期という激動の時代を生きた武将、堀田正吉(ほった まさよし)の生涯を、江戸幕府の公式系譜集である『寛政重修諸家譜』をはじめとする信頼性の高い史料に基づき、包括的かつ詳細に解明することを目的とする 1 。彼の出自、戦国の世を渡り歩いた流転の経歴、徳川幕府旗本としての後半生、そして何よりも、嫡男・堀田正盛の異例の栄達の影で下された悲劇的な決断の真相に迫る。これにより、堀田正吉という一個人の生涯を超え、江戸時代初期における武家社会の力学と、そこに生きた人々の価値観を浮き彫りにする。

堀田正吉は、織田、浅野、小早川、そして徳川と、時代の変転を象徴するかのように主君を転々とした武将である 3 。彼の生涯は、個人の武功が物を言う戦国の実力主義から、家格と血縁が絶対的な価値を持つ近世の身分制社会への移行期そのものを体現している。特に、彼の人生を歴史上稀有なものとしているのは、知行高500石の旗本に過ぎなかった父(正吉)と、将軍の寵愛を一身に受け、最終的に11万石の大名にまで昇り詰めた息子(正盛)という、父子の身分が劇的に「逆転」した点にある 6 。この一点において、彼の人生は特異な光を放ち、江戸初期という時代の構造を理解するための絶好の事例を提供するのである。

第一章:堀田一族の源流 ― 尾張津島からの勃興

1.1 紀姓堀田氏の出自と『寛政重修諸家譜』

堀田氏の起源を辿ると、尾張国津島(現在の愛知県津島市)にその源流を見出すことができる。この地は、古くから津島神社(旧・津島牛頭天王社)の門前町として栄え、堀田一族は代々その社家を務めるか、あるいは地域の有力な土豪として勢力を有していた 8 。一族が用いた家紋「堀田木瓜(ほったもっこう)」は、この氏族を象徴するものとして知られている 8

江戸時代に入り、大名家として確立した堀田家は、自らの家系の権威付けを図る。幕府が編纂した公式系譜集『寛政重修諸家譜』において、堀田氏は平安時代の学者・政治家である紀長谷雄(きの はせお)を遠祖とする紀姓(きせい)の名門として記載された 8 。これは、古代の皇族に連なる武内宿禰(たけのうちのすくね)を祖とする紀氏の末裔であると主張するものであり、武家としての高い家格を意識したものであった 14 。後に佐倉藩主となった堀田家は、藩の事業として『紀氏雑録』といった系譜書を編纂し、この紀姓としての出自をさらに補強している 16

1.2 堀田正吉に至る系譜 ― 豊臣政権下での動向

『寛政重修諸家譜』によれば、堀田正吉に直接繋がる家系は、堀田正重(ほった まさしげ)から始まるとされる 8 。その子・正貞(まささだ)、そして正貞の子が正吉の父である正秀(まさひで)である 8 。父・正秀は、豊臣政権下で前田利家に仕えたと記録されている 8

この一族の中で、正吉の伯父にあたる堀田盛重(もりしげ)は特筆すべき存在である。彼は『寛政重修諸家譜』では正高(まさたか)、法名を道空(どうくう)として記されている人物で、豊臣秀吉の直属の親衛隊である馬廻衆から身を起こし、1万石の知行を得て大名となった 8 。盛重は豊臣家の譜代家臣として重用され、大坂城の守備を担う精鋭部隊「大坂七手組」の一人に数えられるほどの信頼を得ていた 8 。彼は関ヶ原の戦いでは西軍に与し、豊臣家が滅亡する大坂夏の陣において、主君・豊臣秀頼に殉じて自刃を遂げた 8

一方で、その甥である正吉は、後述するように最終的に徳川家に仕え、その家系が近世大名として存続することになる。豊臣家に忠節を尽くし滅亡と運命を共にした伯父・盛重と、徳川の世で旗本となり一族繁栄の礎を築いた甥・正吉。この対照的な二人の生き様は、堀田一族が戦国から江戸への激しい権力移行期を乗り越えるために、巧みな生存戦略を採っていた可能性を示唆している。一族の一部を豊臣方、他方を徳川方に置くことで、どちらが天下の覇権を握ったとしても家名を存続させるという、リスクを分散させる戦略は、この時代の多くの武家に見られた。徳川の治世が確立した後に編纂された『寛政重修諸家譜』において、豊臣家に殉じた盛重の記述が抑制的であるのに対し、徳川家に仕えた正吉の系統が本流として強調されているのは、新たな支配者への政治的配慮が働いた結果と見るのが自然であろう 18 。堀田正吉の家系は、天下分け目の動乱を乗り切った、一族ぐるみの巧みな生存戦略の成功例として捉えることができる。


表1:堀田正吉 略系図

世代

氏名(通称・法名)

関係性

備考

祖父

堀田正貞(道悦)

-

豊臣秀吉に仕える。

伯父

堀田盛重(図書、道空)

正貞の長男

豊臣家譜代の大名(1万石)。大坂七手組の一人。大坂の陣で自刃。

堀田正秀

正貞の子、盛重の弟

前田利家に仕える。

-

浅野長一の娘

-

本人

堀田正吉(勘左衛門)

正秀の長男

本報告書の主題。

正室

まん

稲葉正成の娘

継母が春日局。これにより正吉は春日局の義理の娘の夫となる。

長男

堀田正盛

正吉の長男

春日局の義理の孫。徳川家光の寵愛を受け、老中・佐倉藩11万石の大名となる。

次男

脇坂安利

正吉の次男

信濃飯田藩主・脇坂安元の養子となるが早世。

複数

正吉の娘

大草高正、喜多見重勝、水谷勝俊など有力旗本・大名に嫁ぐ。

(出典:

8 に基づき作成)

第二章:流転の武将 ― 織田、浅野、小早川への仕官

2.1 戦国の世を渡る

堀田正吉は、織田信長が天下布武を推し進めていた元亀2年(1571年)に生を受けた 3 。彼の武将としてのキャリアは、特定の主家への絶対的な忠誠というよりは、自らの才覚と縁故を頼りに、激動の時代を渡り歩く、当時の典型的な中級武士の姿を映し出している。

最初に仕えたのは織田家であった。信長本人に仕えたとの記録もあるが 6 、年代を考えると、実際には信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えた可能性が高い 3 。その後、豊臣政権の五奉行の一人として権勢を誇った浅野長政の家臣となっている 3 。この仕官の背景には、正吉の母が浅野一族である浅野長一の娘であったという血縁関係が存在した 17 。このように、縁故を頼りにして仕官先を確保することは、当時の武士にとって極めて現実的かつ重要な生存術であった。

2.2 小早川家臣時代と関ヶ原

次なる転機は、文禄元年(1592年)、豊臣政権の最高実力者の一人であった宿老・小早川隆景に仕えたことである 5 。これは、豊臣政権の中枢へとより近づくことを意味し、正吉の上昇志向の表れと解釈することもできる。隆景の死後は、その養子である小早川秀秋の家臣となった。

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。正吉の主君・秀秋は、当初西軍に属しながら、本戦の最中に東軍へ寝返るという劇的な行動を取り、徳川家康方の勝利に決定的な貢献を果たした。この歴史的転換点において、正吉が具体的にどのような役割を果たしたかを記す史料は見当たらない。しかし、秀秋の家臣として、彼は間違いなくこの歴史の渦中に身を置いていた 6

2.3 主家の断絶と浪人

関ヶ原での功績により、秀秋は備前岡山51万石の大名となるが、その栄華は長くは続かなかった。慶長7年(1602年)、秀秋はわずか21歳で嗣子なく急死する。これにより、名門・小早川家は改易、すなわち家が取り潰されることとなった 6 。主家を失った正吉は、多くの同輩たちと共に「浪人」の身となった 3 。これは、戦国の終焉期において、個人の能力や忠誠心だけではどうにもならない、主家の運命に翻弄される武士の不安定な立場を象徴する出来事であった。

正吉の青年期から壮年期にかけての経歴は、特定の英雄の物語ではない。それは、織田から豊臣、そして徳川へと天下の覇権が移り変わる時代を、自らの力と縁故を頼りに必死に生き抜いた、ごく一般的な、しかしそれ故にリアルな武士の姿そのものであった。

第三章:徳川の臣へ ― 旗本としての再出発

3.1 徳川幕府への出仕

数年間の浪人生活を経て、慶長10年(1605年)、堀田正吉は新たな天下人となった徳川家康に見出され、江戸幕府に出仕する機会を得る 3 。この仕官の背景には、後述する妻・まんを介した春日局との縁が、既に何らかの影響を及ぼし始めていた可能性も考えられるが、それを直接示す記録はない。

この時、正吉は500石の知行を与えられ、将軍直属の家臣である「旗本」の身分を得た 6 。旗本とは、石高1万石未満で将軍への謁見(御目見)が許される上級家臣団を指し、大名ではないものの、幕府の軍事・行政の中枢を担う重要な階層であった 28 。戦国を渡り歩いた一人の武将が、新たな安定した地位を確保した瞬間であった。

3.2 旗本としての職務

旗本としての正吉の具体的な役職について、詳細な記録は残されていない。しかし、旗本の多くが就いた番方(ばんかた)と呼ばれる軍事・警備職のいずれかに属していたと推測される 29 。彼の経歴の中で特筆すべきは、寛永元年(1624年)に命じられた任務である。この年、かつて豊臣恩顧の大名であったが改易され、信濃国高井野に配流されていた旧広島藩主・福島正則が死去した。その際、正吉は幕府から検視役として現地に派遣されている 6

検視役とは、単に遺体を確認するだけでなく、幕府の権威を代行し、大名の死に際して不審な点がないか、あるいは遺領や家臣団に不穏な動きがないかを監視する、極めて重要な役目であった。このような任務を任されたという事実は、正吉が幕府から一定の信頼を得ていたことを明確に示している。それは、合戦での武功とは全く異質の、吏僚としての忠実さと実務能力が問われる仕事であった。正吉がこの役目を滞りなく果たしたことは、彼が戦国時代の武将から、泰平の世における「官僚的武士」へと、自己の役割認識を巧みに転換・適応させていたことの証左と言える。

3.3 江戸における堀田家の基盤

500石の旗本として、正吉は江戸に屋敷を構えていたはずである。当時の江戸切絵図には、大名や数千石クラスの高禄旗本の屋敷は名前入りで記載されているが、500石クラスの旗本の屋敷を個別に特定することは困難である 31 。しかし、当時の旗本の生活水準からその暮らしぶりを推察することは可能であり、数十人の家臣や使用人を抱える、一定の規模を持つ武家屋敷であったと考えられる 28 。この江戸に築かれた基盤が、後に息子・正盛が飛躍するための舞台となったのである。徳川家への仕官は、正吉にとって単なる再就職ではなかった。それは、時代の変化を的確に読み、新たな武士のあり方へと自己を変革させた、彼の人生における重要な転換点であった。

第四章:春日局との縁と嫡男・正盛の栄達

堀田正吉自身のキャリアは500石の旗本として堅実なものであったが、彼と堀田家の運命を劇的に変えたのは、戦場での武功ではなく、一つの縁組であった。この縁が、彼の嫡男・堀田正盛を、当代随一の出世頭へと押し上げることになる。

4.1 決定的な姻戚関係

正吉の正室は、「まん」という名の女性であった 17 。彼女は、美濃の武将・稲葉正成(いなば まさなり)が最初の妻との間にもうけた娘である 23 。そして、この稲葉正成が後妻として迎えたのが、3代将軍・徳川家光の乳母として権勢をほしいままにし、大奥の支配者として幕政にも絶大な影響力を持った春日局(かすがのつぼね)であった 7

この関係により、堀田正吉は春日局の「女婿(じょせい)」(義理の娘の夫)となり、その息子である堀田正盛は春日局の「義理の孫」という、極めて強力な政治的資産を持つことになった 3 。近世初期の幕政が、法や制度以上に、将軍個人の意思や大奥を含めた属人的な関係性によって大きく左右されていた時代において、この繋がりは計り知れない価値を持っていた。

4.2 嫡男・堀田正盛の異例の出世

この春日局との縁を最大限に活用し、嫡男・正盛(慶長13年、1608年生)は、幼少の頃から家光の小姓のさらに身近に仕える近習として取り立てられた 7 。正盛は家光から並々ならぬ寵愛を受け、その昇進は驚異的な速度で進んでいく 7

  • 元和6年(1620年) :13歳で家光に近侍。
  • 元和9年(1623年) :16歳で700石の知行を与えられ、旗本となる。
  • 寛永3年(1626年) :19歳で加増され、合計1万石となり大名に列する。この時点で、父・正吉(500石)の20倍の禄高となった。
  • 寛永10年(1633年) :26歳で、後の若年寄に相当する「六人衆」に抜擢され、幕政に参画。
  • 寛永12年(1635年) :28歳で老中に昇進。武蔵川越藩3万5千石の藩主となる。
  • 寛永19年(1642年) :35歳で下総佐倉藩11万石の藩主となる 7

旗本の子が、わずか20年足らずで10万石を超える大名、そして幕政の最高意思決定機関である老中にまで上り詰めるというこのキャリアは、春日局の権勢を考慮に入れても「異例」と評されるものであった 3 。このあまりに急激な出世の背景には、家光と正盛との間に衆道(男色)の関係があったとする説も根強く存在する 39

堀田正吉の人生の後半は、彼自身の功績よりも、妻を介した縁故がもたらした「息子の栄達」によって規定されていく。これは、個人の武功が重視された戦国時代から、血縁や家格、そして将軍との個人的な繋がりといった「縁故」が、武士のキャリアを決定づける近世社会へと時代が完全に移行したことを、何よりも雄弁に物語っている。


表2:堀田正吉・正盛父子 対比年表

西暦(和暦)

堀田正吉

堀田正盛

父子の状況

1605 (慶長10)

35歳、500石の旗本として徳川家に出仕。

-

-

1608 (慶長13)

38歳、旗本。

1歳、誕生。

-

1623 (元和9)

53歳、旗本(500石)。

16歳、700石の旗本となる。

息子の石高が父を上回る。

1624 (寛永元)

54歳、福島正則の検視役を務める。

17歳、旗本(700石)。

-

1626 (寛永3)

56歳、旗本(500石)。

19歳、1万石の大名となる。

父は旗本、息子は大名という身分逆転が確定。

1629 (寛永6)

59歳、自害。

22歳、大名(1万石)。

正吉の死。

1633 (寛永10)

-

26歳、六人衆(若年寄格)に就任。

-

1635 (寛永12)

-

28歳、老中に就任。川越藩3万5千石。

-

1642 (寛永19)

-

35歳、佐倉藩11万石に加増転封。

-

1651 (慶安4)

-

44歳、主君・家光に殉死。

正盛の死。

(出典:

3 に基づき作成)

第五章:父子の絆と悲劇的決断 ― 自害の真相

5.1 寛永6年の悲劇

寛永6年(1629年)2月17日、堀田正吉は江戸の屋敷において自らの命を絶った。享年59 3 。彼の死は病死や討死ではなく、自害であった。その理由は、当時の記録から現代に至るまで、諸資料においてほぼ一貫して次のように伝えられている。「身分の低い自分が生きていることが、異例の出世を遂げる息子・正盛の輝かしい未来の足手まといになることを憂慮したため」であると 3

5.2 自害の背景にある社会力学

この悲劇的な決断の背景には、近世初期の武家社会が内包する、複雑かつ非情な力学が存在した。

第一に、 父子の身分の逆転 がもたらす心理的・社会的軋轢である。正吉が自害した寛永6年の時点で、父・正吉は500石の旗本、一方の息子・正盛は既に1万石の大名であった。主君に仕える「家臣」である旗本の父と、自らが領地と家臣を持つ「殿様」である大名の息子という関係は、主従関係と親子関係が複雑に絡み合い、儒教的な秩序を重んじる武家社会において極めて異質な状況であった 34 。公式の場では、父が息子に臣下の礼をとらねばならない場面すら想定され、その心理的負担は計り知れないものがあっただろう。

第二に、 嫉妬と政争の激化 である。正盛のあまりに急激な出世は、当然ながら、徳川家に古くから仕える譜代大名たちの間に、強い嫉妬と反感を呼び起こしていた 38 。政敵たちは、正盛本人を直接攻撃することが難しくとも、その出自を格好の攻撃材料とすることができた。「あの若造は、もとは卑しい家柄の出のくせに」といった誹謗中傷が、幕閣内で囁かれていたことは想像に難くない 38 。このような状況下で、500石の旗本である父・正吉の存在そのものが、息子・正盛にとって最大の政治的弱点、すなわちアキレス腱となっていたのである。

5.3 武士道の発露としての解釈

これらの背景を鑑みると、堀田正吉の自害は、単なる絶望や自己憐憫によるものではない、より能動的な意味合いを持つ行為として解釈することができる。それは、息子の未来、ひいては堀田一族の永続的な安泰のために、自らの存在という「障害」を、自らの手で取り除くという、究極の親心の発露であった。

この行為は、受動的な悲劇ではなく、極めて能動的かつ戦略的な政治判断であったと分析できる。正吉は、自らが「消える」ことによって、息子から最大の政治的弱点を取り除き、政敵の攻撃の矛先を失わせた。これは、息子の政権内での地歩を盤石にするための、最も効果的で、かつ最終的な手段であった。

さらに、この「子のために命を絶った父」という物語は、武家の「忠孝」の倫理観とも合致し、一種の美談として語られることで、結果的に堀田家の家格と評判を高めるという副次的な効果ももたらした。彼の死は、単なる一個人の「死」ではなく、一族の「政治的資産」へと昇華されたのである。この冷徹なまでの現実認識と、家を存続させるための非情な判断力は、まさしく戦国の修羅場を生き抜いてきた武将ならではのものであったと言えよう。堀田正吉の自害は、個人的な苦悩の末の選択であると同時に、息子と一族の未来を盤石にするための、計算され尽くした「戦略的自己消去」であった。それは、近世武家社会の厳格な論理と、親子の情愛が交錯する、類稀な悲劇なのである。

第六章:堀田正吉の血脈 ― 子孫たちのその後

堀田正吉の自己犠牲的な死は、結果として、彼が最も望んだであろう一族の繁栄という形で実を結ぶ。彼の一つの命と引き換えに、堀田家は江戸時代を通じての安泰と名誉を確保したのであった。彼の決断は、近世大名家「堀田家」の真の創業者としての行為であったと評価できる。

6.1 嫡男・正盛の家系(佐倉藩主堀田家)

父の死後、正盛の栄達はとどまることを知らず、老中として幕政の中枢を担い、最終的には下総佐倉11万石の大藩の藩主となった 7 。そして慶安4年(1651年)、敬愛する主君・徳川家光がこの世を去ると、正盛は同じく家光の側近であった阿部重次と共に、後を追って殉死した 7 。享年44。息子の輝かしい未来のために自らの命を絶った父・正吉と、その息子が主君への絶対的な忠誠の証として殉死したという物語は、堀田家の徳川家に対する忠節を象徴するものとして完結した。

正盛の跡を継いだ長男・正信は、後に幕政を批判して領地を没収される(改易)という事件を起こし、家は一時断絶の危機に瀕した 3 。しかし、正盛の三男であった堀田正俊が、父と同じく幕閣で頭角を現し、4代将軍・綱吉の時代に最高職である大老にまで上り詰める 43 。この正俊の功績により堀田家は再興され、その子孫が再び佐倉藩主として返り咲き、譜代の名門として幕末まで続くこととなる 23 。堀田正吉の血脈は、大名家として確固たる地位を築き上げたのである。

6.2 次男・脇坂安利の系統

正吉の次男であった安利(やすとし、初名は正幸、正茂)は、実子のいなかった信濃飯田藩主・脇坂安元(わきざか やすもと)の養子として迎えられた 17 。これは、堀田家が他の大名家との結びつきを強めるための戦略的な縁組であった。しかし、安利は家督を継ぐことなく、寛永13年(1636年)に19歳の若さで早世してしまう 24

脇坂家との縁を繋ぎとめるため、今度は安利の甥(兄・正盛の次男)にあたる脇坂安政が、代わって養子に入った。安政は無事に脇坂家の家督を継ぎ、この家系は後に播磨龍野藩(現在の兵庫県たつの市)に移封され、譜代大名として明治維新まで存続した 23 。これにより、正吉の血は二つの大名家へと分かれ、その繁栄を確かなものにした。

6.3 娘たちの嫁ぎ先と姻戚ネットワーク

堀田正吉には記録に残るだけで7人もの娘がおり、彼女たちは幕府の有力な旗本や大名家へと嫁いでいった 6

  • 大草高正室(後に佐久間実勝室)
  • 花房職利室
  • 喜多見重勝室(法名:勝境院):夫の重勝は後に目付や大坂目代といった要職を歴任する有力旗本であった 25
  • 水谷勝俊室:夫の勝俊は常陸下館藩(現在の茨城県筑西市)の藩主であった 26
  • その他、高井源左衛門、亀井経矩、堀直上といった旗本・大名家にも嫁いでいる 17

これらの婚姻関係は、単なる家族の縁組に留まらない。旗本の家から急成長を遂げた新興の堀田家が、幕府内で安定した地位を築くために、譜代の家々と幾重にも張り巡らせた広範な姻戚ネットワークの形成を意味していた。正吉の死によって盤石となった嫡男・正盛の地位を、このネットワークがさらに強固に支えたのである。

終章:堀田正吉という生き方の歴史的評価

堀田正吉は、歴史の教科書にその名が大きく記されるような英雄ではない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、戦国から江戸へという日本の歴史上最も大きな社会変革期を、一人の武士がどのように生き、そして次代に何を遺したかを理解する上で、極めて重要な示唆を与える。

第一に、 歴史の転換点を生きた武将として 、彼のキャリアは、旧来の価値観が通用しなくなった新しい時代に、武士がいかにして生き残りを図ったかの一つの典型例を示している。彼は、主君を渡り歩くことで戦国の動乱を生き抜き、最終的には徳川幕府という巨大な官僚機構に適応することで、一族存続の確かな道筋をつけた。その姿は、変化に対応できた者だけが生き残るという、時代の普遍的な法則を体現している。

第二に、 息子の未来を拓いた父として 、彼の人生のクライマックスは、戦場での華々しい武功ではなく、息子のために自らの命を絶つという、静かな、しかし壮絶な決断であった。この自己犠牲は、近世武家社会の厳格な身分秩序と、その中で家の名を高め、子孫の繁栄を願う人間の強い意志が交錯した末に生まれた、特異な事件として記憶されるべきである。それは、父性の最も悲劇的で、かつ最も純粋な発露であったかもしれない。

最後に、 近世大名家成立史における意義 として、堀田正吉の存在は再評価されなければならない。老中・大老を輩出し、幕政に重きをなした名門・佐倉堀田家の輝かしい歴史は、彼の存在なくしてはあり得なかった。彼は、自らの死をもって一族繁栄の礎を築いた「陰の創業者」であり、彼の生涯を深く考察することは、近世大名家がいかにして形成され、その地位を固めていったかという、より大きな歴史の力学を解き明かす上で、不可欠な視点を提供するものである。堀田正吉の物語は、歴史の主役ではない人物の人生の中にこそ、時代を読み解く鍵が隠されていることを我々に教えてくれる。

引用文献

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  4. 堀田正吉(ほったまさよし)『信長の野望・創造PK』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=E505
  5. 堀田正俊 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/hotta.html
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  43. 堀田正俊とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A
  44. 脇坂安利とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E5%88%A9