最終更新日 2025-07-15

壬生義雄

壬生義雄は下野の戦国大名。父の仇を討ち家督を継ぎ、北条氏と同盟し宇都宮・佐竹連合と抗争。小田原征伐で北条氏と運命を共にし滅亡。
壬生義雄

戦国武将・壬生義雄の生涯:下野国における一国衆の興亡と悲劇

序章:戦国乱世に揺れる下野の名族・壬生氏

本報告書は、戦国時代の末期、下野国(現在の栃木県)にその勢力を築き、そして歴史の奔流の中に消えていった武将、壬生義雄(みぶ よしたけ)の生涯を、あらゆる角度から徹底的に考究するものである。彼の人生は、父の仇討ちという劇的な幕開けから、巨大勢力の狭間で家名の存続を賭けて戦い抜き、最後は天下統一という時代の大きなうねりの中で悲劇的な終焉を迎えるに至る。義雄は、壬生氏最後の当主として、一族の栄光と没落のすべてをその身に背負った人物であった 1

彼の生涯を理解するためには、まず彼が生きた時代の地政学的な背景を把握することが不可欠である。16世紀後半の下野国は、複数の大勢力がその覇権をめぐって激しく角逐する、関東における最前線の一つであった。古くからの名門であり、下野国の守護として君臨してきた宇都宮氏、常陸国(現在の茨城県)から北関東全域に影響力を拡大しようとする佐竹氏、そして相模国小田原を本拠地とし、圧倒的な軍事力で関東の統一支配を目論む新興勢力・後北条氏。これら三大勢力の思惑が複雑に交錯する地、それが当時の下野国であった 2

このような状況下で、壬生氏のような「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる在地領主たちは、常に極めて困難な選択を迫られていた。彼らは自らの領地と家名を保つため、時には旧来の主君に忠誠を誓い、時には新たな強者に従属し、またある時には独立を画策するなど、目まぐるしく変わる情勢の中で生き残りを賭けた巧みな外交と軍事行動を展開しなければならなかった。壬生氏の物語は、まさにこの国衆の典型的な軌跡を辿る。宇都宮氏の家臣として台頭し、一時は主家を凌駕するほどの勢力を誇ったが 6 、後北条氏の関東進出という外部環境の激変に直面し、一族内で深刻な内紛を経験する 8 。最終的に北条方につくという大きな賭けに出た壬生氏は、豊臣秀吉という、さらに巨大な中央権力の前に、その北条氏と運命を共にすることになる 2 。壬生義雄の生涯を追うことは、単なる一個人の伝記に留まらず、自らの意思だけでは抗うことのできない巨大な政治の潮流に翻弄され、滅びていった数多の国衆たちの栄光と悲哀、その構造的な悲劇を解き明かすことに繋がるのである。

第一章:壬生氏の出自と勢力拡大

1-1. 謎に包まれた出自:公家か武家か

下野壬生氏の出自については、大きく分けて二つの説が存在し、その起源は必ずしも明確ではない。

一つは、京都の公家を祖と仰ぐ「小槻氏後裔説」である。これは壬生氏の家伝に記されているもので、京都の下級公家であった小槻氏の一族、壬生胤業(みぶ たねなり)が、公家の身でありながら武芸を好み、寛正3年(1462年)に下野国都賀郡に下向して武家を興した、とする説である 6 。この説は、壬生氏に中央の権威との繋がりを与え、在地における支配の正当性を高める上で重要な役割を果たしたと考えられる。

もう一つは、より在地性に根差した「宇都宮氏一族説」である。これは近年の研究で有力視されている説で、下野国の伝統的領主である宇都宮氏の一族、特に横田氏から分かれた庶流ではないかとするものである 2 。この説は、壬生氏が宇都宮氏の家臣として重用され、勢力を拡大していった経緯と整合性が高い。

その他にも、古くから日光山の社家であり、宇都宮氏に従属していた在地勢力であった可能性も指摘されている 7 。また、古代にこの地を治めたとされる乳部(にゅうべ)氏が「壬生」の名の由来になったとする説もある 12 。興味深いことに、京都の公家である壬生官務家は、豊臣秀吉の小田原征伐後に下野に立ち寄った際に、同名を名乗る大名がこの地に存在し、北条方に味方して滅亡したことを初めて知ったという記録が残っている 12 。この事実は、下野壬生氏と京都の公家壬生家との間に直接的な関係がなかった可能性を強く示唆しており、公家後裔説は、戦国時代に勢力を拡大する過程で、自らの権威を高めるために創造された戦略的な「物語」であったと解釈することもできる。戦国武家にとって出自は、その正統性を担保する重要な要素であり、壬生氏が状況に応じて複数の出自の可能性を示唆していたとすれば、それは在地領主としてのしたたかな生存戦略の現れであったと言えよう。

1-2. 宇都宮家臣としての台頭と勢力基盤の確立

出自の謎はさておき、壬生氏が歴史の表舞台に明確に登場するのは、15世紀後半のことである。初代・胤業が壬生の地に館を構え 2 、その子である二代・綱重(つなしげ)の代に、壬生城を本格的に築城して拠点とした 2

綱重は宇都宮氏の家臣として頭角を現し、主君・宇都宮忠綱の命を受けて、近隣の豪族であった鹿沼氏を攻略した。この功績により、綱重は鹿沼の地の支配を任され、本拠を壬生城から鹿沼城へと移した 8 。これにより、壬生氏は壬生・鹿沼という二大拠点を押さえ、都賀郡における強固な地盤を確立した。

さらに壬生氏は、その勢力を聖地・日光山にまで及ぼした。綱重は日光山領の支配権を掌握し 15 、三代・綱房(つなふさ)は自らの次男・昌膳を日光山の事実上のトップである御留守職に就任させ、自身も広大な神領を支配する惣政所職を得た 11 。宗教的権威とそれに伴う経済力を背景に持つことは、壬生氏の勢力拡大に大きく寄与した。鹿沼市に現存する古文書群「高村文書」には、壬生氏が日光山を背景に鹿沼一帯を勢力圏としていたことを示す書状が含まれており、その支配の実態を物語る貴重な史料となっている 16

1-3. 下克上の体現:三代・綱房の野心

壬生氏の勢力が頂点に達したのは、三代・綱房の時代である。彼は「下野国および北関東における下克上武将の代表」と評されるほどの野心家であった 6

綱房は、主家である宇都宮家中の内紛、いわゆる「宇都宮錯乱」に乗じて巧みに立ち回った 17 。彼は策謀を駆使して、宇都宮家の重臣であった芳賀氏らを失脚させ、主家の中で絶大な権力を掌握するに至る 6

その野心の集大成ともいえるのが、天文18年(1549年)の宇都宮城簒奪である。この年、宇都宮氏当主・尚綱が喜連川での合戦(五月女坂の戦い)で討死するという事件が起こる。綱房はこの主家の混乱を見逃さず、ただちに軍勢を動かして宇都宮氏の本拠である宇都宮城を占拠した 7 。これは、家臣が主君の城を奪うという、まさに下克上を象徴する出来事であった。この時点で壬生氏は、もはや単なる宇都宮氏の有力家臣ではなく、主家を脅かし、取って代わることさえ可能な独立勢力としての性格を明確に帯びるようになったのである。

【表1:壬生氏五代当主の略歴】

当主名

生没年

主要拠点

主な事績

初代

壬生 胤業

不詳

壬生館

寛正3年(1462年)に下向し、壬生氏を創始したとされる 2

二代

壬生 綱重

不詳 - 1516年

壬生城、鹿沼城

壬生城を築城。宇都宮氏の命で鹿沼氏を攻略し、鹿沼城へ進出 2 。日光山領の支配権も掌握 15

三代

壬生 綱房

不詳 - 1555年

鹿沼城

宇都宮家の内紛に乗じて権力を掌握。主君・宇都宮尚綱の戦死後、宇都宮城を一時占拠する下克上を断行 6

四代

壬生 綱雄

不詳 - 1576年

鹿沼城

宇都宮城を奪還され鹿沼に後退後、後北条氏と結び独立を画策。叔父・周良との対立の末、暗殺される 8

五代

壬生 義雄

1552年 - 1590年

壬生城、鹿沼城

父の仇である叔父・周良を討ち家督を継承。北条方として宇都宮・佐竹連合と抗争。小田原征伐で滅亡 1

第二章:家督相続と一族の内訌

2-1. 父・綱雄の時代:独立への布石と亀裂

三代・綱房の死後、家督を継いだのは四代・綱雄(つなお)であった。しかし、綱房が一時的に占拠した宇都宮城は、弘治3年(1557年)に宇都宮氏によって奪還されてしまう。本拠の鹿沼城へ退いた綱雄は、この敗北を機に、もはや名目上の主従関係に過ぎなくなった宇都宮氏からの完全な独立を画策し始める 8

その独立を達成するための最も現実的な方策が、当時、破竹の勢いで関東における勢力圏を拡大していた後北条氏との連携であった。綱雄は、北条氏という強大な後ろ盾を得ることで、宇都宮氏の軛(くびき)から逃れようとしたのである 8 。この外交方針の転換は、壬生氏の運命を大きく左右する決定的な一歩であったが、同時に一族内に深刻な亀裂を生む原因ともなった。

2-2. 叔父・周良(周長)との路線対立

綱雄の「親北条・独立」路線に真っ向から反対したのが、彼の叔父(三代綱房の弟)にあたる壬生周良(ちかなが)、法号を徳節斎周長(とくせつさい ちょうちょう)という人物であった。周良は、かつて宇都宮氏の軍師としても活躍した経験を持つなど 21 、一貫して旧主・宇都宮氏への従属を維持すべきだと主張する、親宇都宮派の重鎮であった 1

当主・綱雄が推し進める親北条路線と、一族の長老である周良が固執する親宇都宮路線。この対立は、単なる政策論争に留まらず、壬生一族を二分する深刻な内紛へと発展していった。それは、関東の覇権を争う後北条氏と宇都宮氏の代理戦争の様相を呈していた。

2-3. 悲劇の連鎖:綱雄暗殺と義雄による仇討ち

そして天正4年(1576年)、この一族内の対立は最悪の結末を迎える。周良は、宇都宮氏の重臣である芳賀高定と共謀し、当主である甥の綱雄を鹿沼城内の天満宮において暗殺するという暴挙に出たのである 20 。これにより周良は鹿沼城主となり、壬生氏の実権を一時的に掌握した。

この時、綱雄の嫡男であった壬生義雄は25歳。父を殺され、本拠の鹿沼城まで奪われた彼は、壬生城に籠り、雌伏の時を過ごすことを余儀なくされた 1 。しかし、彼はただ時を待っていたわけではなかった。

父の死から3年後の天正7年(1579年)、義雄はついに挙兵する。叔父であり父の仇である周良との間で合戦が繰り広げられ、義雄はこの戦いに勝利。周良を討ち果たし、父の無念を晴らすと共に、名実ともに壬生氏第5代当主の座に就いた 1 。この勝利によって鹿沼城を奪還した義雄は、自らの手で一族内の親宇都宮派を一掃し、壬生氏の路線を父が目指した「親北条」で完全に統一したのである。

この一連の出来事は、単なる私怨による仇討ちという側面だけでは捉えきれない。綱雄の暗殺が、壬生氏の親北条化を阻止しようとする宇都宮氏の謀略、一種の内政干渉であったことを考えれば、義雄の挙兵と勝利は、その外部からの干渉を実力で排除し、壬生氏の外交方針を自らの手で決定づけるための政治的なクーデターとしての意味合いが極めて強い。若き当主・義雄は、この血塗られた家督相続を経て、戦国領主としての厳しい第一歩を踏み出したのであった。

第三章:北条方としての苦闘

3-1. 北条氏との同盟関係の実態

父の仇である叔父・周良を討ち、家督を相続した壬生義雄は、父・綱雄の遺志を継ぎ、後北条氏との同盟関係を基軸とした領国経営を展開した 8 。この同盟は、単なる名目上のものではなく、具体的な軍事協力として機能していた。

その好例が、天正15年(1587年)に起きた倉ヶ崎城をめぐる一件である。この年、宿敵である宇都宮氏が、壬生氏の勢力圏である鹿沼と、壬生氏が影響力を持つ日光山との連携を断ち切る目的で、交通の要衝である倉ヶ崎(現在の日光市)に城を築いた。これに強い軍事的脅威を感じた義雄は、直ちに同盟者である後北条氏に状況を報告し、援軍の派遣を要請した。これに対し、北条氏政の弟で、北関東方面の軍事を統括していた北条氏照は、迅速に軍勢を派遣することを約束している。このやり取りは、近年発見された義雄が奥州の長沼氏に宛てた書状から明らかになったものであり、壬生氏と北条氏の間に緊密な情報連携と軍事同盟が存在したことを示す一級の史料である 23

北条氏にとって、壬生氏は対宇都宮・佐竹連合の最前線を担う重要な国衆であった。記録によれば、壬生氏は壬生・鹿沼・日光山の兵力を合わせると1,500騎を動員できる能力があり、これは当時の関東において中堅規模の軍事力に相当した 7 。北条氏の関東支配戦略において、壬生氏のような国衆を自陣営に引き入れておくことは、極めて重要な意味を持っていたのである。

3-2. 宇都宮・佐竹連合との絶え間なき攻防

北条方についたことで、壬生氏は宇都宮氏、そしてその背後にいる常陸の佐竹氏という強大な敵と、常に最前線で対峙し続けることになった。その関係は複雑で、一時期、佐竹義重の勢力が下野に及んだ際には、義雄もその傘下に入って北条氏と戦ったこともある 26 。しかし、天正13年(1585年)には再び北条方へと復帰し、これ以降、佐竹・宇都宮連合軍による激しい攻撃に晒されることとなる 4

この時期、北関東の覇権をめぐって北条氏と佐竹・宇都宮連合軍が大規模な軍事衝突を起こした「沼尻の合戦」では、壬生義雄も北条方の一員として参陣していたことが確認されている 27 。また、前述の倉ヶ崎城 23 や、宇都宮方の小倉城 19 など、両勢力の国境地帯では、城の奪い合いや小競り合いが絶え間なく繰り広げられ、義雄の治世はまさに戦乱に明け暮れる日々であった。

3-3. 義雄の領国経営と家臣団

絶え間ない軍事的緊張の中にあっても、義雄は領主として領国経営に努めていた。彼の家臣団には、一色氏、青柳氏、大垣氏といった家老衆に加え、客将として迎えられた板橋将監など、多様な人材が含まれていた 19 。特に、家臣の一色家に伝わったとされる「上総介代々」という文書には、義雄時代の家老や、彼が特に信頼を置いていたであろう武将の名が記されており、その統治体制の一端を窺い知ることができる 19

義雄は、信賞必罰をもって家臣団を統率していた。天正7年(1579年)に叔父・周良を討伐した際には、戦功を挙げた早乙女藤三郎という武将に領地を与えてその働きに報いている 19 。また、宇都宮方の多気山城からの夜襲を見事に防いだ黒川某という家臣には、「丹波守」という受領名(官途)を与えて賞賛した記録も残っている 19

さらに、領内の人心掌握と支配の正当化のため、寺社への保護も行っていた。天正15年(1587年)には、鹿沼の今宮神社の修復事業を行っており、その際の奉行として家臣の渋江氏らの名が見える 19 。これは、地域の伝統的な信仰や権威を尊重し、それを通じて領民の求心力を高めようとする、戦国領主としてごく一般的な統治政策であった。

義雄の支配は、後北条氏という巨大な外部勢力への軍事的な依存と、家臣団への恩賞や寺社保護といった伝統的な権威を活用した内部の結束強化という、二本の柱によって成り立っていた。自領だけでは強大な敵に対抗できない国衆としての限界を、巧みな外交による安全保障で補い、内では領主としての務めを果たすことで求心力を維持する。この絶妙なバランスの上に、義雄の支配体制は築かれていた。しかし、そのバランスは、後ろ盾である北条氏の運命に完全に左右されるという、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていたこともまた、事実であった。

第四章:小田原征伐と壬生氏の終焉

4-1. 運命の選択:秀吉への恭順か、北条への忠義か

天正18年(1590年)、日本の政治情勢は大きな転換点を迎える。天下統一を目前にした関白・豊臣秀吉は、関東・奥羽の大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布した 28 。これに違反し、真田氏の領地である名胡桃城を奪取したことなどを口実に、秀吉は後北条氏の討伐を決定。20万を超えるともいわれる大軍を率いて、関東への侵攻を開始した(小田原征伐) 29

この未曾有の危機に際し、関東の国衆たちは究極の選択を迫られた。旧主である宇都宮氏や、長年のライバルであった佐竹氏など、北関東の多くの大名たちは、時流を読んでいち早く秀吉に恭順の意を示した。しかし、壬生義雄は異なる道を選んだ。彼は、長年の同盟関係にあった後北条氏への忠義を貫き、一族の命運を賭して、籠城する小田原城へ馳せ参じることを決意したのである 5

4-2. 小田原籠城と義雄の最期

義雄は手勢を率いて小田原城に入り、籠城軍の一翼を担った。城内での彼の持ち場は、義理の弟にあたる皆川広照と共に守備した「竹ノ鼻口」という場所であったと伝えられている 7

しかし、秀吉の大軍による鉄壁の包囲網の前には、難攻不落を誇った小田原城もなすすべがなかった。約3ヶ月にわたる籠城の末、兵糧は尽き、北条方の士気は低下。天正18年7月5日、ついに北条氏政・氏直父子は降伏し、小田原城は開城した。

壬生義雄の最期については、この小田原落城の直後に訪れたとされているが、その死因をめぐっては二つの説が存在する。

一つは「病死説」である。長期にわたる籠城戦の過酷な環境下で病を得て、開城直後、もしくは故郷の壬生へ帰る途上で病没したというもので、これが最も一般的な説として知られている 1。

もう一つは、より劇的な「毒殺説」である。一説によれば、秀吉は義雄のこれまでの奮闘を評価し、所領を安堵する内意を示していたという。しかし、同じく北条方から秀吉方に寝返った義弟の皆川広照が、その処遇を嫉妬し、義雄を毒殺したというものである 5。この説は確たる証拠に欠けるものの、義雄の死に悲劇的な陰謀の影を落とし、後述する広照との対照的な運命をより際立たせる物語として語り継がれている。

4-3. 対照的な義弟・皆川広照の処世術

壬生義雄の妹・鶴子を妻としていた皆川広照は 9 、義雄とは全く対照的な道を歩んだ。彼は、小田原征伐が始まる以前から、秀吉の背後にいる徳川家康と密かに誼を通じており、来るべき時代の変化を見越して、自家の生き残りのための周到な布石を打っていたのである 32

小田原城に籠城した広照であったが、彼は徳川家康からの内応工作に応じ、開城を待たずして手勢100余名を率いて城を脱出。秀吉に降伏するという、まさに離れ業をやってのけた 30

この結果は、両者の運命を大きく分けた。最後まで北条氏への忠義を貫いた義雄は、嗣子なくして没し、壬生氏は改易・滅亡という悲劇的な結末を迎えた。一方で、時流を読み、巧みな処世術で立ち回った広照は、秀吉から所領を安堵され、近世大名として家名を存続させることに成功したのである 5

4-4. 壬生氏の滅亡とその後

義雄には伊勢亀(いせかめ)という一人娘がいたのみで、家督を継ぐべき男子の跡継ぎがいなかった 9 。そのため、当主である義雄の死をもって、約130年にわたって下野国に栄えた壬生氏は、大名家としては完全に断絶し、その所領は没収された 8

主家を失った家臣たちの多くは、故郷に残り帰農したと伝えられている 39 。中には、客将であった板橋将監のように、戦後に家康に恭順して新たな道を歩んだ者もいた 19

しかし、壬生氏の物語はここで完全には終わらなかった。義雄の死後、一人娘の伊勢亀は、壬生家の家臣であった一色右兵衛尉(いっしき うひょうえのじょう)の妻となった 7 。壬生家が滅亡した後も、彼女は「後室様(こうしつさま)」と呼ばれ、壬生の地に残った旧臣たちから深く尊崇された。彼らは後室様を中心にまとまり、その精神的な支柱であり続けたという 5 。伊勢亀は、戦国乱世を生き抜き、江戸時代中期の寛文5年(1665年)、85歳の長寿を全うして鹿沼の地で没したと伝えられている 7 。彼女の存在は、滅び去った壬生氏の記憶を、ささやかながらも後世に繋ぐ最後の絆であったのかもしれない。

壬生義雄と皆川広照の対照的な結末は、戦国時代の終焉期における武士の価値観の衝突を象徴している。義雄の行動は、同盟相手への「義理」や「忠義」という、中世的な武士の美学に根差しているように見える。彼は勝ち目の薄い戦と知りながらも、その義理を貫き、盟主と運命を共にする道を選んだ。一方、広照の行動は、何よりもまず自家の存続という「実利」を最優先する、より近世的、あるいは現実的な価値観に基づいている。彼は旧来の義理よりも、新たな天下人である秀吉や、その有力者である家康との関係構築を重視し、時流に乗ることで家名を後世に残した。この二人の選択と結末は、時代が中世的な「義」の秩序から、近世的な「利」と権力への現実的な対応を求める時代へと移行する、まさにその過渡期であったことを鮮やかに示している。義雄の死は、ある意味で古い価値観の終焉を告げる悲劇であったと解釈できる。そして、まことしやかに囁かれる毒殺説は、この「利」が「義」を非情に打ち破る様を、より劇的に象徴する物語として、後世の人々の記憶に刻まれてきたのではないだろうか。

終章:壬生義雄の遺産

5-1. 現代に残る史跡と伝承

壬生義雄とその一族が駆け抜けた歴史の痕跡は、400年以上の時を経た今もなお、栃木県の各地に残されている。

  • 城跡: 壬生氏の揺籃の地であり、義雄が父を失った後に雌伏した 壬生城 は、現在、城址公園として整備されている 2 。また、綱重の代から一族の本拠地となり、義雄が叔父・周良を討って奪還した
    鹿沼城 も、城址としてその面影を留めている 44
  • 墓所: 義雄の墓所と伝えられる場所は、二箇所存在する。一つは、鹿沼市にある曹洞宗寺院・**雄山寺(ゆうざんじ)である。この寺は義雄が開基とされ、彼の菩提寺となっている。境内には、義雄の遺髪を納めたと伝わる宝篋印塔と、彼に殉じた家臣たちの供養塔が静かに佇んでいる 31 。寺号の「雄山」は、義雄の戒名「寒光院殿雄山文英」に由来するものである 26 。もう一つは、壬生町にある
    常楽寺(じょうらくじ)**である。ここは初代・胤業が創建した壬生氏ゆかりの寺院で、こちらにも義雄の墓と伝わるものが存在する 46 。本拠地であった壬生と、終焉の地である小田原に近く、最後の拠点であった鹿沼の両方で、旧臣や領民によって手厚く供養された結果、二つの墓所が伝えられることになったと考えられる。
  • ゆかりの神社と遺品: 壬生町の総鎮守である**雄琴神社(おごとじんじゃ)**には、義雄が所持していたとされる御守袋などの遺品が、今も神宝として大切に保管されている 19 。これらは、小田原の陣中で没した義雄の遺品を、家臣の黒川勝重が故郷に持ち帰り、壬生氏の守護神であるこの神社に奉納したものであると伝えられている 19

5-2. 歴史的評価:悲劇の忠臣か、時流を読み違えた領主か

壬生義雄の生涯を振り返るとき、その評価は多岐にわたる。父の仇を討ち、分裂した一族をまとめ上げた当主としての指導力。北条氏という後ろ盾を得て、宇都宮・佐竹連合という強大な敵と互角に渡り合った武将としての力量は、決して低いものではなかった。

しかし、彼の運命を決定づけたのは、豊臣秀吉による天下統一という、抗うことのできない歴史の大きな潮流であった。彼はその流れを読み切れなかったのか、あるいは読んでいながらも同盟者への忠義を優先したのか、北条氏と一蓮托生の道を選んだ。その結果、約130年続いた下野の名族・壬生氏は、彼の代をもって滅亡に至った。

壬生義雄の生き様は、戦国乱世の終焉期において、巨大な権力構造の変化の前に、自らが信じる「義」を貫こうとした一人の国衆の、壮絶にして悲劇的な生涯の記録である。彼の最後の選択は、単なる戦略的な判断ミスとして片付けることはできない。それは、武士としての美学と、一族を率いる領主としての現実の間で激しく葛藤した、一人の人間の苦悩に満ちた決断の表れであったのかもしれない。そしてその悲劇性こそが、壬生義雄という武将を、今なお私たちの記憶に留めさせる所以なのであろう。


巻末付録

【表2:壬生義雄 生涯詳細年表】

西暦/和暦

義雄の年齢

壬生義雄・壬生氏の動向

関連人物・勢力の動向

関東・日本の主な出来事

1552年(天文21)

1歳

壬生綱雄の子として誕生。幼名は氏勝 1

-

-

1555年(弘治元)

4歳

祖父・綱房が急死 8

芳賀高定により芳賀高照が謀殺される 8

川中島の戦い(第二次)

1557年(弘治3)

6歳

父・綱雄、宇都宮氏に宇都宮城を奪還され鹿沼城へ後退 8

宇都宮広綱が宇都宮城を奪還。

-

1576年(天正4)

25歳

父・綱雄が叔祖父・周良(周長)と芳賀高定により鹿沼城で暗殺される 20 。義雄は壬生城に籠る 1

周良が鹿沼城主となる。同年、義雄の壬生城を攻めるも敗北し、殺害される 1

-

1579年(天正7)

28歳

叔父・周良を討ち、父の仇を討つ。鹿沼城を奪還し、名実ともに当主となる 5

-

-

1582年(天正10)

31歳

-

皆川広照、徳川家康と初めて会見する 34

本能寺の変。天正壬午の乱。

1585年(天正13)

34歳

佐竹氏傘下から離反し、再び後北条氏に従属する 26

北条軍、宇都宮・多気山両城を攻撃 26

豊臣秀吉、関白に就任。

1587年(天正15)

36歳

鹿沼の今宮神社を修復 19 。宇都宮氏の倉ヶ崎城築城に対し、北条氏に援軍を要請 23

宇都宮国綱、倉ヶ崎城を築城 23

豊臣秀吉、九州平定。惣無事令を発布。

1590年(天正18)

39歳

【小田原征伐】 北条方に味方し、小田原城に籠城。竹ノ鼻口を守備 7 。7月、小田原城開城直後に病死(または毒殺説)。壬生氏滅亡 8

皆川広照、徳川家康の内応工作に応じ開城前に降伏、所領を安堵される 30 。宇都宮・佐竹氏、秀吉方として参陣し、壬生・鹿沼城を攻略 4

豊臣秀吉、小田原征伐を開始。北条氏滅亡。天下統一が成る。

1591年(天正19)

-

娘・伊勢亀が家臣・一色右兵衛尉の室となる 9

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-

1665年(寛文5)

-

娘・伊勢亀が鹿沼にて85歳で死去したと伝わる 7

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引用文献

  1. 壬生義雄 Mibu Yoshitake - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/mibu-yoshitake
  2. 壬生町-地域史料デジタルアーカイブ:壬生城郭・城下町解説書 - ADEAC https://adeac.jp/mibu-town/texthtml/d100090/mp020020-200020/ht000070
  3. 竹林の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 【栃木県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 宇都宮氏、那須氏 ... https://www.youtube.com/watch?v=tNvSzRpZFLc
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