戦国時代の終焉期、関東の常総地方に一人の異彩を放つ武将がいた。その名は多賀谷重経(たがや しげつね)。彼は、旧来の主家であった結城氏から半ば独立した存在となり、常陸の雄・佐竹氏と固く結ぶことで勢力を急拡大させた。一時はその所領が20万石に達したともいわれ、地域に覇を唱える大名へと成長を遂げた 1 。しかし、豊臣秀吉による天下統一、そして徳川家康の台頭という時代の奔流に飲み込まれ、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことで全てを失い、流浪の果てにその生涯を閉じることとなる。
彼の生涯は、後世に成立した『多賀谷七代記』などの軍記物において、その武勇を認められつつも、「贅沢と驕慢」が没落を招いたと、個人の資質に起因する悲劇として描かれることが多い 3 。しかし、その実像はより複雑である。重経は、関東では佐竹氏に比肩する規模の1000挺もの鉄砲隊を組織し 3 、嫡男と養子を巧みに配置する複雑な婚姻・養子政策を駆使して家の存続を図った。本報告書では、こうした彼の行動を、戦国末期の激動の中で自家の存続を賭けた地域権力者のリアルな生存戦略として捉え直し、史料に基づきその栄光と没落の軌跡を多角的に分析することで、多賀谷重経という武将の実像に迫ることを目的とする。
多賀谷氏の歴史は、鎌倉時代に遡る。その出自は武蔵七党の一つである野与党に連なり、武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷(現在の埼玉県加須市)を本拠とした地頭であったと伝えられる 1 。『吾妻鏡』にも、源頼朝の上洛に随兵として仕えた「多加(賀)谷小三郎」の名が見え、鎌倉幕府の御家人として活動していたことが確認できる 2 。
室町時代に入り、小山義政の乱(1380年)の結果、多賀谷氏の本拠地であった騎西荘が結城氏の所領となったことを契機に、多賀谷氏は結城氏の家人となったとされる 2 。彼らの運命を大きく変えたのが、永享12年(1440年)に勃発した結城合戦である。この戦いで主君の結城氏朝が幕府軍に敗れ、結城城が落城する寸前、多賀谷氏家(うじいえ)は氏朝の末子・成朝を懐に抱いて脱出に成功し、佐竹氏を頼って落ち延びた 2 。この忠節により、後の結城氏再興に多大な功績を立てた。
続く享徳の乱では、再興された結城氏と共に古河公方・足利成氏方に与し、関東管領・上杉憲忠を討ち取る武功を挙げる。この功により、成氏から常陸国下妻三十三郷を与えられ、多賀谷氏は武蔵国から常陸国下妻へと拠点を移すことになった 1 。この時、討ち取った憲忠の首が三方に載せられた様子が瓜を横切りにしたように見えたことから、成氏が多賀谷氏の家紋を「瓜に一文字」と定めたという伝承も残っており、これは多賀谷氏の武功を象徴する重要な逸話として語り継がれている 7 。
下妻に根を下ろした多賀谷氏は、水谷氏、山川氏、岩上氏と共に「結城四天王」と称され、結城家中の重臣筆頭として重きをなした 1 。しかし、その実態は単純な忠臣ではなく、主家である結城氏との間には常に緊張関係が存在した。
結城氏が編纂した史料『結城家之記』などでは、多賀谷氏は「代々不忠」と厳しく断じられている 2 。この評価は、多賀谷氏が結城氏の統制から離れ、独自の勢力圏を形成する「独立大名化」を推し進めていたことへの、主家側の強い警戒感と不満の表れであった。その緊張関係は、いくつかの象徴的な事件として記録されている。氏家の弟である多賀谷高経が、主君である結城成朝を暗殺したという伝承はその最たるものである 2 。この伝承の真偽は定かではないが、主家との間に深刻な亀裂が存在したことを強く示唆している。また、後の結城政朝の時代には、権勢を振るい専横を極めた多賀谷和泉守が、政朝自身によって討伐される事件も起きている 9 。これは、強大化しすぎた家臣を主家が力で抑え込もうとしたものであり、両者の根深い対立構造を物語っている。
「結城四天王」という呼称は、結城氏にとって多賀谷氏が軍事的に不可欠な存在であったことを示す一方で、その実態は独立性の高い国人領主の連合体に近かった。多賀谷氏の「不忠」とは、主家の権威が相対的に低下し、家臣が実力で伸長していくという、戦国時代における必然的な力学の現れであった。この名目上の主従関係と実質的な独立志向という二重の関係性は、後に登場する多賀谷重経の複雑な行動を理解する上で極めて重要な背景となる。
多賀谷重経は、永禄元年(1558年)2月23日に多賀谷政経の子として誕生した 10 。そして天正4年(1576年)、父・政経の死に伴い、19歳の若さで家督を相続する 3 。
重経が家督を継いだ当時の常総地域は、西から相模の後北条氏、常陸から佐竹氏という二大勢力が覇を競う最前線であった。加えて、旧主家の結城氏、小田氏、岡見氏といった中小の国人領主がひしめき合い、合従連衡を繰り返す、極めて流動的かつ緊迫した情勢下にあった 3 。このような環境で生き残るためには、卓越した軍事力と巧みな外交戦略が不可欠であった。
重経は家督を継ぐと、父の代からの路線を継承し、北条氏の南下に対抗するため、常陸の佐竹義重との同盟関係を一層強化する。この強力な後ろ盾を得て、南方の小田氏や岡見氏の領地へ積極的に侵攻し、牛久地方にまで進出するなど、破竹の勢いで勢力を拡大した 3 。その過程で、かつて同じ「結城四天王」であった他の重臣たちの所領をも次々と支配下に収め、多賀谷氏の版図は最盛期には20万石に達したと伝えられている 1 。
この佐竹氏との関係は、単なる軍事同盟にとどまらなかった。重経は、自らの娘である大寿院を、佐竹氏の若き当主・佐竹義宣の継室として嫁がせたのである 3 。これにより、多賀谷氏と佐竹氏は単なる同盟者から、血縁で結ばれた強力な姻戚関係へと移行し、関東における反北条氏連合の中核を形成するに至った。この選択は、重経の政治戦略の根幹をなすものであり、後の彼の運命を決定づけることにもなる。
関係 |
氏名 |
役職・続柄 |
備考 |
典拠 |
父 |
多賀谷政経 |
下妻城主 |
天正4年(1576)没 |
10 |
本人 |
多賀谷重経 |
修理大夫、下妻城主 |
1558年 - 1618年 |
10 |
正室 |
不詳 |
|
|
3 |
嫡男 |
多賀谷三経 |
左近大夫 |
石田三成が烏帽子親。結城秀康に仕える。 |
15 |
娘 |
大寿院 |
佐竹義宣 継室 |
早世した男子2人を儲ける。 |
3 |
娘 |
珪台院 |
多賀谷宣家 正室 |
養子である宣家と結婚。 |
3 |
男子 |
多賀谷茂光 |
|
彦根藩井伊家に仕える。 |
3 |
男子 |
多賀谷忠経、菅谷経晃 |
|
|
3 |
養子 |
多賀谷宣家 |
佐竹義重の四男 |
重経の家督を継ぐ。後に岩城氏を相続。 |
1 |
この系譜は、重経の政治戦略が「血縁」を軸に、いかに周到に張り巡らされていたかを明確に示している。彼は、①娘を佐竹家の当主・義宣に嫁がせ、②その義宣の弟・宣家を養子に迎え、③さらに別の娘をその養子・宣家に嫁がせるという、二重三重の極めて濃密な姻戚関係を構築した 3 。このことから、重経が佐竹氏を単なる一時的な同盟相手ではなく、一蓮托生の運命共同体と見なしていたことがうかがえる。この強固すぎるほどの結びつきこそが、彼が関ヶ原の戦いにおいて徳川方につくという選択肢を事実上放棄し、佐竹氏と運命を共にする道を選んだ根本的な理由であった。彼の没落は、この深すぎた関係性の裏返しでもあったのである。
勢力の伸長に伴い、重経は本拠地である下妻城の大規模な拡張に着手した。その結果、城は南北1.5km、東西900mに及ぶ広大な城域を持つ、常陸国西部で最大級の城郭へと変貌を遂げた 18 。
この城は、大宝沼や鬼怒川の旧河道といった自然の要害を巧みに利用した平城であり、防御態勢、特に北方に対しては重点的に構築されていた。「常陸国下妻城図」によれば、北側には土塁や濠が七重にも巡らされていたという 19 。これは、北方に旧主家である結城氏やその同盟勢力が存在し、彼らを明確な脅威として認識していたことの物理的な証左である。
城郭の発展は、城下町の繁栄をもたらした。城下は、古くからの牛頭天王(現在の八坂神社)の門前町である大町を中心に、重経の時代には南の三道地、新地へと拡大していった 19 。飯田、石塚、片岡、渡辺といった多賀谷氏の主要な家臣団も、城郭の外縁部に位置する本宿、上宿といった町場に集住し、平時における経済活動の担い手であると同時に、有事には城郭を防衛する一部として機能した 19 。
さらに特筆すべきは、重経が保有した先進的な軍事力である。彼は関東では佐竹氏と並ぶ規模とされた、1000挺もの鉄砲隊を組織していた 3 。これは、彼の軍事に対する先進的な思想と、それを支えるだけの強固な経済力が領内に存在したことを示している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、関東の諸大名は豊臣方につくか、後北条氏と共に滅びるかの選択を迫られた。重経は時流を読み、豊臣方として参陣する。彼は後北条氏方の天神城を攻略し 3 、石田三成らが総大将を務めた忍城攻めにも加わるなど、戦功を挙げた 21 。
戦後、秀吉から下妻を中心とする6万石の所領は安堵された 1 。しかし、その地位は、彼が目指した独立大名としてのものではなかった。秀吉は、関東の諸勢力を既存の秩序の中に再編成する方針を採り、重経をかつての主家である結城氏の与力(家臣団に準ずる立場)として位置づけたのである 1 。これは、自力で勢力を拡大し、独立を志向してきた重経にとって、到底受け入れがたい大きな屈辱であった。
年代(出来事) |
所領規模(推定・公認) |
政治的地位 |
根拠史料 |
天正18年(1590)以前 |
最大20万石 |
独立性の高い地域権力者 |
1 |
天正18年(1590)小田原征伐後 |
6万石(公認) |
結城氏の与力(豊臣政権下) |
1 |
文禄元年(1592)文禄の役後 |
6万石(下妻城破却) |
結城氏の与力(監視強化) |
3 |
慶長6年(1601)関ヶ原合戦後 |
0石(改易) |
浪人 |
2 |
この表は、重経の生涯における浮沈を「石高」と「政治的地位」という客観的な指標で可視化したものである。自力で築き上げた最大20万石ともいわれる勢力が、中央政権の裁定一つで3分の1以下にされ、最終的には完全に没収されるという現実は、重経個人の悲劇であると同時に、戦国時代の終焉と、大名が中央権力に従属する近世的秩序への移行を象徴している。彼の運命は、彼個人の意思だけでなく、豊臣政権による「惣無事令」とそれに続く「大名配置」という、より大きな政治的枠組みによって決定づけられていったのである。
小田原征伐後、結城氏の家督は、当主・晴朝の養子として徳川家康の次男・秀康が継ぐことになった。これにより、重経は徳川家康の子の家臣となることを強いられ、その不満と反発は頂点に達した 3 。この屈辱的な状況を打開し、かつ激動の時代を乗り切るため、重経は一族の存亡を賭けた極めて大胆な策に打って出る。それは、多賀谷家そのものを二つに分けるというものであった。
一つは、 結城(徳川)ルート である。嫡男の三経(みつつね)を、秀吉の命令通り結城秀康に仕えさせる 3 。これにより、表向きは豊臣・徳川政権への恭順の意を示し、体制内での生き残りを図る。
もう一つは、 佐竹(反徳川)ルート である。長年の同盟相手であった佐竹義重の四男・宣家(のぶいえ)を養子に迎え、自身の娘である珪台院と娶せて家督を譲る 1 。これにより、反北条氏闘争以来の生命線であった佐竹氏との関係を維持・強化し、将来徳川と対立する可能性に賭ける。
この策は、天下の覇権がまだ完全に徳川に定まっていないと判断した重経による、究極のリスクヘッジ戦略であった。どちらの勢力が最終的に勝利を収めても、多賀谷の血脈と家名が存続できるように仕組んだ、冷徹かつ計算高い「両建て」戦略と評価できる。この決断は家中に深刻な対立を生んだ可能性が高いが 23 、重経にとっては個人の栄達よりも「家」の存続こそが最優先事項だったのである。
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)を命じると、重経は病と称してこれに従わなかった 1 。これは、結城氏の与力として出陣を命じられたことへの反発であり、中央政権への根強い反骨心の表れであった。
この態度は秀吉の逆鱗に触れ、重経は下妻城を没収され、城は徳川秀忠が率いる軍によって破却されるという、極めて厳しい処分を受けた 3 。領主にとって本拠地の城を破却されることは、軍事的・政治的基盤を根底から覆されるに等しい。この事件は、重経の反徳川、そして反中央政権の感情を決定的なものにしたと考えられる。
重経の反徳川への傾斜は、豊臣政権内部の力学とも連動していた。彼の嫡男・三経は、文禄2年(1593年)に元服した際、豊臣政権の中枢で吏僚派の筆頭であった石田三成を烏帽子親とし、その一字を拝領して「三経」と名乗った 15 。これは、多賀谷氏が豊臣政権内部、特に家康と対立する可能性のあった三成らと繋がりを持とうとしていたことを示唆している。
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速に台頭すると、重経は姻戚関係にある佐竹義宣と共に、反家康の旗頭である上杉景勝や石田三成が形成する西軍方へと明確に与していくことになった 3 。
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため、下野国小山に本陣を置いた。この時、重経の運命を決定づける事件が計画される。佐竹義宣と重経は密かに連携し、手薄になった家康の本陣に夜襲をかけ、家康を暗殺しようと企てたのである 2 。
この計画は、単なる思いつきの行動ではなかった。「石田三成陰謀の人数たることが露顕し」と史料に記されているように 25 、三成方と連携した組織的な反家康の軍事行動の一環であった可能性が極めて高い。しかし、この大胆な謀略は、佐竹家中の意見対立などにより実行に移される前に頓挫、あるいは露見した 27 。
家康にとって、本拠地である江戸の背後、関東地方の安定は政権の絶対条件であった。小山での暗殺計画は、その足元を揺るがす決して許されない重大な反逆行為と見なされた。戦後、計画の首謀者の一人であった佐竹義宣は54万石の大大名であり、簡単には取り潰すことができなかった。その結果、計画に同調した6万石の多賀谷重経が、見せしめとして最も厳しい処罰の対象とされた。重経の改易は、単に西軍に加担したことへの罰ではなく、関東の他の親豊臣・反徳川勢力に対する強烈な警告であり、徳川による新たな秩序構築のデモンストレーションとしての意味合いが強かったのである。
家康暗殺計画が失敗に終わった後も、重経は家康からの再三の出陣要請に応じず、在国して形勢を観望し、関ヶ原の本戦には参陣しなかった 2 。
慶長5年9月15日、関ヶ原で西軍がわずか一日で壊滅すると、重経の運命は決した。戦後処理において、慶長6年(1601年)2月、重経は上杉景勝への内通と家康暗殺計画への関与を厳しく問われ、下妻6万石の所領は完全に没収、改易処分となった 2 。これにより、氏家の代から七代、140年以上にわたって下妻の地に君臨した多賀谷氏は、ここに滅亡したのである。
主家が改易されると、多賀谷氏の家臣団は蜘蛛の子を散らすように離散した。その多くは、既に越前福井藩で3万石を超える大身として確固たる地位を築いていた嫡男・三経や、実家である佐竹氏に戻り秋田へ向かった養子・宣家を頼って去ってしまった 2 。かつて20万石を誇った大名の権勢は見る影もなく、重経は完全に孤立無援の身となった。
主を失った壮麗な下妻城もまた、悲惨な末路を辿った。慶長16年(1611年)の百姓による訴状によれば、城に残されていた武具や資材、果ては畳一枚に至るまで、近隣の土豪によって持ち去られ、城は見る影もなく荒廃したという 20 。
改易後、重経は潜伏生活を余儀なくされる。当初は武蔵国府中(現在の東京都府中市)などに身を隠していた 15 。慶長8年(1603年)には、密かに旧領である下妻へ戻ろうと試みたが、関東郡代の榊原康政に発見され、追われる身となる 3 。
その後、養子・宣家がいる秋田、さらには江戸、京都などを転々とした末 31 、最終的に末子である茂光が仕官していた近江彦根藩の井伊家を頼った。そして元和4年(1618年)11月9日、客死という形でその波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。享年61。その墓所は現在、旧領である茨城県下妻市の多宝院に存在する 3 。
重経自身は悲劇的な最期を遂げたが、彼が仕掛けた「家」の存続戦略は、皮肉にも実を結ぶこととなる。
嫡男の多賀谷三経は、主君・結城秀康が関ヶ原の戦功により越前北ノ庄68万石へ転封されるのに従い、越前へ移った。秀康からの信頼は厚く、その第一の重臣として、現在の福井県あわら市周辺に3万2千石という破格の知行を与えられ、加賀国境の守りを任されるという要職に就いた 2 。三経は慶長12年(1607年)に30歳で早世してしまうが 3 、その家系は途絶えることなく、一族は後に結城松平家(前橋藩など)の家老級の重臣として幕末まで存続した 2 。
一方、養子の多賀谷宣家は、関ヶ原合戦後に実家である佐竹氏に戻った。慶長7年(1602年)、兄・佐竹義宣が出羽秋田20万石へ減転封されるとそれに従い、檜山城主として1万石を与えられた 1 。
さらに宣家には大きな転機が訪れる。跡継ぎのいなかった出羽亀田藩2万石の岩城氏の名跡を継ぐことになり、「岩城宣隆」と名を改めて大名となったのである 2 。
重経自身は、西軍への加担という賭けに敗れ、全てを失った。彼の個人の生涯は紛れもない悲劇である。しかし、彼が仕掛けた「家の二分化」というリスクヘッジ戦略の結果を見ると、徳川方に置いた駒(三経)の家系は徳川一門の譜代大名の重臣として、そして反徳川方に置いた駒(宣家)の家系は外様大名として、二つの家系は形を変えながらも見事に近世武士社会で生き残った。この結果は、重経の戦略が、彼個人の栄達ではなく「多賀谷」という家の血脈と名前を後世に残すことを最優先していたと解釈すれば、皮肉にも大成功を収めたことを意味する。彼の没落は、家の存続のために払われた「犠牲」であったと見ることも可能であろう。
多賀谷重経という人物の評価は、どの立場から見るかによって大きく異なる。
後に佐竹藩に仕えた多賀谷氏縁者が著したとされる軍記物『多賀谷七代記』では、重経は「武勇に優れた」人物としながらも、その「贅沢と驕慢」が徳川家康の怒りを買い、滅亡を招いたと、その没落を多分に個人の資質に帰している 3 。これは、結果的に勝利者となった徳川方に配慮し、主君である佐竹氏の立場を正当化するための後世的な解釈が含まれている可能性を考慮する必要がある。
一方、旧主家である結城氏の史料『結城家之記』では、多賀谷氏は一貫して主家を脅かす「不忠の臣」として描かれており 2 、重経の独立志向もその文脈の中で否定的に捉えられている。これらの史料は、重経が立場によって全く異なる評価を受ける、毀誉褒貶の激しい人物であったことを示している。
多賀谷重経の行動は、単なる驕慢や不忠といった言葉で片付けられるものではなく、戦国末期の地域権力者が生き残りをかけて繰り広げた、極めて合理的かつ計算高い戦略であったと再評価できる。佐竹氏との強固な同盟、先進的な軍事力の整備、そして家の二分化によるリスクヘッジは、その代表例である。
彼の最大の誤算は、豊臣政権という巨大な中央権力の統制力と、その継承者である徳川家康の政治的力量を最終的に見誤った点にある。戦国の論理がまだ通用すると信じ、自らの実力と謀略に頼りすぎた。特に、家康暗殺計画という極端な手段に訴えたことは、自身の破滅を決定づけた致命的な判断ミスであった。
彼の生涯は、戦国的な「自力」による領土拡大の論理が、近世的な「公儀(中央政権)」による秩序の論理に取って代わられる時代の転換点を、一人の武将の栄光と没落を通して鮮やかに体現している。
多賀谷重経は、戦国乱世の終焉という歴史の大きな転換期において、自らの才覚と野心で一時代を築き上げながらも、新たな時代の潮流を読み切れずに淘汰されていった、数多の地域権力者たちの典型と言える。
彼の生涯は、旧来の価値観が崩壊し、新たな秩序が形成される過渡期を生きた人間の、成功と失敗、合理性と限界を映し出す、極めて魅力的な歴史研究の対象である。彼の試みは個人的には挫折に終わったが、その複雑な生存戦略と悲劇的な結末は、戦国という時代の厳しさと、その時代に生きた人々の苦悩と選択の奥深さを、我々に雄弁に語りかけてくれる。