大友氏は、鎌倉時代以来、九州に深く根を張った名門であり、室町時代には豊後国(現在の大分県)および筑後国(現在の福岡県南部)の守護職を世襲する有力な守護大名であった 1 。大友義鑑が生きた時代は、この大友氏が守護大名から戦国大名へと変貌を遂げ、九州北部、さらには九州全域へとその勢力を拡大しようとした激動の過渡期にあたる。義鑑の父である第19代当主・大友義長(よしなが)の治世において、長年続いた家中の内紛はようやく収拾され、比較的安定した国内基盤が次代の義鑑へと引き継がれた 2 。これにより、義鑑は父祖の代よりも積極的な領土拡大政策を推し進める余地を得たと言える。
しかしながら、当時の九州は一筋縄でいく情勢ではなかった。肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の少弐(しょうに)氏や龍造寺(りゅうぞうじ)氏、肥後国(現在の熊本県)の菊池(きくち)氏、そして南九州からは島津(しまづ)氏といった国人領主や戦国大名が各地で勢力を競い合い、複雑な合従連衡を繰り返していた 3 。さらに、中国地方からは周防国(現在の山口県東部)を本拠とする大内(おおうち)氏が、長年にわたり九州北部の覇権を狙って介入を続けており、義鑑の治世後半には毛利(もうり)氏もその影響力を及ぼし始める。義鑑の治世は、これらの内外の諸勢力との絶え間ない外交交渉、緊張関係、そして時には大規模な武力衝突によって彩られており、その巧みな舵取りと苦闘の連続であった。
本報告書は、大友氏第20代当主・大友義鑑の生涯と事績について、現存する史料と近年の研究成果に基づき、多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。特に、彼の推進した勢力拡大戦略、周辺諸国との外交政策、そして彼の人生を悲劇的に終焉させ、大友家の歴史における大きな転換点となった「二階崩れの変」の背景、経緯、そしてその影響を深く掘り下げる。これにより、戦国時代という激動の時代を生きた一人の大名の軌跡を明らかにし、九州地域史、さらには日本戦国史の理解に資することを目指す。
大友義鑑は、文亀2年(1502年)、豊後国府内(現在の 大分市)において、大友氏第19代当主・大友義長の嫡男として生を受けた 2 。大友氏は、初代・大友能直(よしなお)が源頼朝から豊後・筑後両国の守護職に任じられて以来、鎌倉・室町時代を通じて九州北部に広大な勢力圏を築き上げてきた名門武家である 5 。義鑑の父は義長、祖父は室町幕府とも深く結びつき、大友氏中興の祖とも称される大友親治(ちかはる)である。
永正12年(1515年)、父・義長が隠居したことに伴い、義鑑は数え14歳という若さで家督を相続し、大友氏第20代当主となった 2 。しかし、若年であったため、家督相続後もしばらくは実権を完全に掌握するには至らなかった。永正15年(1518年)に父・義長が死去するまではその補佐を受け、義長の死後も、大永4年(1524年)に祖父・親治が没するまでは、引き続き親治の後見と指導のもとで領国経営にあたった 2 。
若年の当主が父祖の後見を受けること自体は、戦国時代において決して珍しいことではない。むしろ、安定的な権力移譲と当主の育成のためには不可欠な過程であったと言える。しかし、義鑑の場合、成人してからも比較的長期間にわたり父祖の影響下に置かれたことは、彼自身の政治的独自性が発揮されるまでに時間を要した可能性、あるいは後見役である父や祖父との間に、政策や人事に関する潜在的な意見の相違や葛藤が生じた可能性も否定できない。特に、大友家のような大きな勢力を持つ大名家においては、当主の代替わりは家臣団の勢力図にも影響を及ぼすため、義鑑が真に自らの意思で家を率いるようになるまでには、内部的な調整や試行錯誤の期間が必要だったと考えられる。
義鑑が家督を相続した当時、大友家の国内状況は比較的安定していた。これは、父・義長の時代に家中の内紛が収拾され、領国経営の基盤がある程度固められていたためである 2 。この国内の安定は、義鑑がその後の治世において、積極的な対外政策、すなわち領土拡大へと乗り出すための重要な前提条件となった。
一方、国外に目を転じれば、状況は依然として複雑かつ緊張をはらんでいた。最大の脅威は、中国地方から北九州へと勢力を伸長し続けていた大内氏であった。大内氏は豊前国や筑前国(現在の福岡県北部・西部)において大友氏と勢力圏を接しており、両者の間では小規模な武力衝突が絶えなかった 6 。この大内氏との対立は、義鑑の治世を通じて一貫して続く主要な軍事・外交課題となる。
他方で、勢力拡大の好機も存在した。肥後国では、かつて九州にその名を轟かせた名族・菊池氏が、相次ぐ内紛によって著しく弱体化していた 2 。この状況は、隣接する豊後・筑後を支配する大友氏にとって、肥後への影響力を拡大し、さらには同国を自らの支配下に置く絶好の機会と映ったであろう。義鑑の初期の外交・軍事戦略は、この大内氏との対決と、肥後への進出という二つの大きな柱を中心に展開されることとなる。
大友義鑑は、豊後国の府内館(後の府内城、現在の大分市中心部)を本拠とし、その整備と機能強化に力を注いだ 4 。これは、単に当主の居館としての快適性を追求するものではなく、戦国大名としての政治的・軍事的中枢機能を高めることを目的としたものであった。具体的には、館の周囲に巡らされた土塁をより高く堅固にし、堀を広げ深くすることで防御力を向上させた。また、館内の要所には櫓(やぐら)を設け、敵の侵入を早期に察知し、効果的に迎撃できるような工夫も凝らされた 4 。
これらの改修は、府内館を単なる防衛拠点としてだけでなく、大友氏の権威を内外に示す象徴としての意味合いも持っていたと考えられる。義鑑は、軍事施設の拡充と並行して、他国からの使者や賓客を丁重にもてなすための接客施設、例えば書院造の建物を新設するなど、外交儀礼の場としての機能も重視した 4 。これは、彼が戦国大名としての地位を固め、中央政権である室町幕府や他の有力大名との外交交渉を有利に進めるための戦略的な布石であったと解釈できる。戦国時代の城館は、軍事拠点であると同時に、政治の中心であり、当主の権力の視覚的な象徴でもあった。義鑑が防備だけでなく接客施設にも意を用いたのは、軍事的な備えと並行して、外交や情報収集の重要性を深く認識していた証左と言えるだろう。
さらに、肥後や筑前などへの外征が増えるにつれて、本拠地である府内の防備体制は一層強化された。義鑑は「留守を狙う敵もあろう」との危機感を常に抱き、府内周辺の城砦群の機能強化にも努めた。土塁の嵩上げや堀の拡張に加え、周辺の戦略的要衝に支城を築くなど、多層的な防御網を構築しようとした 4 。これらの施策は、義鑑が単に武勇に優れた武将であっただけでなく、領国全体の安全保障を考慮し、計画的に防衛体制を整備する能力を持った統治者であったことを示している。彼が築いた府内とその周辺の防衛体制は、後の大友宗麟の時代に「府内城」として本格的な城郭へと発展する礎となった。
大友義鑑の治世において、最大の競合相手であり続けたのが、中国地方の雄・大内氏であった。大内義興(よしおき)、そしてその子・義隆(よしたか)の時代、大内氏は北九州への影響力を強め、豊前・筑前両国を巡って大友氏と激しい勢力争いを繰り広げていた 6 。
この長年にわたる対立が大規模な衝突へと発展したのが、天文3年(1534年)の 勢場ヶ原(せいばがはる)の戦い である。大内義隆は、重臣の陶興房(すえ おきふさ)を総大将とする3,000余の軍勢を豊後国へと侵攻させた。これに対し、義鑑は国東郡の吉弘城主であった吉弘氏直(よしひろ うじなお)や寒田親将(そうだ ちかまさ)らを将とする2,800余の兵を派遣し、豊前・豊後の国境地帯である勢場ヶ原(現在の大分県杵築市山香町付近)で迎え撃った 6 。
戦いは壮絶を極めた。緒戦において大友軍は、総大将の一人であった吉弘氏直が弱冠19歳で初陣ながら奮戦するも戦死し、寒田親将も討ち死にするなど、大きな損害を被った 6 。しかし、大友軍の残存部隊は、地元の地理を熟知した田北鑑生(たきた あきなり)らの活躍もあり、「弔い合戦」と称して奇襲攻撃を繰り返し、大内軍を翻弄した。緒戦の勝利に油断していた大内軍はこれに対応できず混乱し、総大将の陶興房も負傷するほどの敗北を喫し、周防へと撤退を余儀なくされた 6 。
結果として、大友氏は大内氏による豊後侵攻という最大の危機を阻止することに成功し、戦略的な目標は達成した。しかし、吉弘氏直をはじめとする多くの将兵を失ったことも事実であり、その代償は決して小さくなかった。このため、勢場ヶ原の戦いは戦術的には「引き分け」と評価されることが多い 6 。この戦いは、大内氏の強大さを示すと同時に、それに対抗するための大友氏の軍事力の限界、そして危機的状況において国人衆の奮戦がいかに重要であったかを浮き彫りにした。また、この戦いの後、天文7年(1538年)には室町幕府12代将軍・足利義晴の仲介によって大友・大内両氏は和睦を結んでいるが 2 、これは両者ともに全面戦争の継続が困難であったこと、あるいは他に優先すべき課題が存在したことなどを示唆している。
その後、天文12年(1544年)には、大内義隆が嫡男・晴持(はるもち)を事故で失ったことを受け、義鑑の次男である塩乙丸(しおおとまる、後の大友晴英(はるひで)、大内義長(よしなが))を猶子(養子の一種)として迎えるという出来事があった 9 。これは、両家の関係における一時的な緊張緩和策であり、外交的な駆け引きの一環であったが、後に大内家で陶晴賢(すえ はるかた、興房の子)による謀反(大寧寺の変)が起こった際、晴英が大内氏の当主として擁立される伏線となり、大友氏が大内領に影響力を行使する間接的な足がかりともなった。
大友義鑑は、父祖の代からの懸案であった肥後国への勢力拡大にも積極的に取り組んだ。当時の肥後では、かつて九州探題職も務めた名族・菊池氏が、度重なる内紛によって著しくその勢力を弱体化させていた 2 。義鑑はこの機を捉え、実弟である大友重治(しげはる)を菊池氏の養子として送り込み、菊池義武(よしたけ)と名乗らせることで、肥後を間接的に支配しようと試みた 2 。
しかし、義鑑のこの目論見は必ずしも順調には進まなかった。菊池義武は、兄である義鑑の意図に反し、大友氏からの独立を画策し、独自の勢力を築こうとしたのである 2 。これにより、義鑑と義武は実の兄弟でありながら、肥後の支配権を巡って長年にわたり骨肉の争いを繰り広げることとなった。この争いは、史料によれば天文2年(1533年)頃から始まり、義鑑の死後である天文23年(1554年)に義武が大友宗麟(義鑑の嫡男・義鎮)によって滅ぼされるまで、実に20年以上にわたって執拗に続いたとされる 12 。
菊池義武との長期にわたる抗争は、義鑑の勢力拡大政策が一筋縄ではいかなかったことを如実に示している。実弟を送り込んでもなお現地の勢力を完全に掌握できなかったという事実は、当時の肥後国人たちの独立志向の強さや、義鑑自身の求心力、あるいは外交・調略手腕に何らかの限界があった可能性を示唆する。この「身内との争い」は、大友氏の貴重な軍事力や経済力を消耗させただけでなく、後の二階崩れの変における家臣団の分裂とも通底する、大友家内部における統制の難しさを予兆していたとも考えられる。
筑前国や肥前国においては、少弐氏が依然として一定の勢力を保持しており、大友氏にとっては無視できない存在であった。義鑑は、少弐資元(すけもと)らが勢力を拡大しつつある状況に対し、表向きは書簡や使者を通じて友好関係を装いつつも、その裏では国境近くに複数の砦を戦略的に築かせ、いつでも北上して軍事行動を起こせる態勢を整えていた 4 。
また、この時期に肥前で急速に台頭してきたのが龍造寺氏である。龍造寺氏は当初、少弐氏の有力な家臣であったが、龍造寺家兼(いえかね)の代にその勢力を大きく伸長させ、やがて主家である少弐氏を凌駕する存在へと成長していく。大友氏も、この龍造寺氏の動向を常に注視していた 3 。例えば、天文14年(1545年)には、龍造寺一族が同族の馬場頼周(よりちか)の讒言によって少弐氏から粛清され、当主の龍造寺胤栄(たねひで)らが筑後国の蒲池鑑盛(かまち あきもり、大友氏と縁戚関係にあった)のもとへ亡命するという事件が起きている 13 。この事件の背後には、少弐氏内部の権力闘争だけでなく、大友氏や大内氏といった外部勢力の思惑も絡んでいたと考えられ、北部九州の情勢がいかに流動的であったかを示している。
義鑑は、これらの筑前・肥前の諸勢力に対し、直接的な軍事介入だけでなく、外交や調略、さらには国境線の要塞化といった多面的な戦略を駆使して、大友氏の勢力圏を維持・拡大しようと努めていた。親大友派の国人領主(例えば蒲池氏)を介した間接的な影響力行使も、彼の戦略の重要な一環であったと推察される。
義鑑の治世は、上記の大内氏、菊池氏、少弐氏、龍造寺氏といった有力勢力だけでなく、九州各地に割拠する中小の豪族との関係においても、絶え間ない緊張と交渉、そして時には武力衝突の連続であった。筑前国の秋月氏や肥後国の相良氏など、多くの豪族との間で合戦や和議、調停が頻発した記録が残されている 3 。義鑑は、これらの豪族との関係において、ある時は武力をもって制圧し、またある時は外交交渉によって懐柔するという、硬軟織り交ぜた巧みな策を用いて、大友氏の覇権確立を目指していたと考えられる。彼の治世において、府内の館には各地からの情報が絶えずもたらされ、大きな地図を広げて各勢力の動向を分析し、戦略を練る日々が続いたと伝えられている 4 。
戦国時代に入り、室町幕府の権威は著しく低下していたとはいえ、将軍家が持つ伝統的な権威は、依然として地方の戦国大名にとって利用価値のあるものであった。大友義鑑もまた、足利将軍家との緊密な関係を維持し、その権威を巧みに利用することで、自らの領国支配の正当性を高め、対外的にも有利な立場を築こうとした。
その具体的な例として、前述の天文7年(1538年)における大内義隆との和睦は、第12代将軍・足利義晴の仲介によって成立している 2 。また、天文12年(1543年)には、将軍家から肥後守護職に補任されており 2 、これは菊池氏との抗争を有利に進める上で大きな意味を持った。
義鑑は、大友氏を西国の諸大名の中でも、大内氏と並び称される最上級の家格であると強く認識していた。彼は、将軍からの偏諱(諱の一字を与えること)や任官の許諾権に関して、大友氏と大内氏が最上位にあり、それに島津氏、菊池氏、九州千葉氏、少弐氏が続き、それ以外の九州の国衆は大名の被官扱いで偏諱や任官は許されない、という独自の序列観を持っていたとされる 2 。これは、大友氏の「格」を高く保ち、他の九州諸大名に対する優位性を幕府の権威によって確立しようとする強い意志の表れであった。
このような将軍家との関係構築は、単に名誉や権威付けに留まるものではなく、実質的な領国支配の正当化(例:肥後守護職の獲得)や、対立する大名との紛争解決(例:大内氏との和睦仲介)において、具体的な利益をもたらすものであった。しかしながら、義鑑の抱く大友氏の「家格」に対する強い自負心は、時として他の勢力との間に新たな摩擦を生む可能性もはらんでいた。特に、大内氏は大友氏を自らよりも格下と見なしていたとの指摘もあり 2 、このような「格」意識の違いが、両家の長年にわたる紛争の一因となっていた可能性も考えられる。
大友義鑑の治世末期にあたる天文12年(1543年)、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来したという出来事は、日本の歴史における大きな転換点の一つである。この事件を契機として、次第にポルトガル商船が九州西岸に来航するようになり、いわゆる南蛮貿易が開始されることになる 14 。
義鑑自身が、この新たな海外との接触や貿易にどの程度積極的に関与したかを示す直接的な史料は乏しい。しかし、彼の嫡男である大友義鎮(後の宗麟)の時代には、府内が国際貿易港として繁栄し、キリスト教の布教も許可されるなど、南蛮文化が花開くことになる 1 。日明間の公式な勘合貿易は、この時期には実質的に大内氏が主導権を握っていたが 16 、ポルトガル商人の仲介による私貿易は、新たな富と情報をもたらす可能性を秘めていた。
天文12年(1543年)頃には、鉄砲伝来の噂も義鑑の耳に達していたとされ 4 、彼がこれらの新技術や海外からの情報に関心を持っていたことは想像に難くない。勢力拡大と領国富強を目指す戦国大名にとって、貿易による経済的利益や、鉄砲のような強力な新兵器の導入は、極めて魅力的な要素であったはずである。義鑑の治世において、本格的な南蛮貿易が展開されるまでには至らなかったものの、その萌芽とも言える海外との接触が始まり、次代の宗麟による積極的な対外政策への道筋が、かすかながらも開かれつつあった時期と位置づけられるかもしれない。
天文19年(1550年)2月、大友義鑑の生涯を悲劇的な形で終焉させ、大友家の歴史に大きな動揺をもたらした事件、「二階崩れの変」が勃発する。このお家騒動は、義鑑の後継者問題を巡る家中の深刻な対立が頂点に達した結果であった。
大友義鑑には、正室(公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘ともされる 5 )との間に、嫡男である五郎義鎮(後の大友宗麟、享禄3年/1530年生まれ 1 )と、次男の八郎晴英(後の大内義長、天文元年/1532年生まれ 5 )がいた。これに対し、三男の塩市丸は側室の所生であった 5 。当時の武家社会の慣習からすれば、嫡男である義鎮が家督を継承するのが順当であった。
しかし、義鑑は嫡男である義鎮の器量を疑問視し、「粗暴で人望も薄い」などと評して疎んじるようになったとされる 2 。その一方で、側室の子である三男・塩市丸を溺愛し、やがてはこの塩市丸に家督を譲ろうと画策し始めた 2 。この廃嫡計画には、塩市丸の生母である側室と、義鑑の寵臣であった入田丹後守親誠(いりた たんごのかみ ちかざね)が深く関与していたと言われている 2 。入田親誠は、奇しくも廃嫡対象である義鎮の傅役(もりやく、教育係)でもあった 17 。
義鑑が義鎮に対して抱いた「粗暴で人望薄」という評価が、客観的な事実に基づいたものであったのか、それとも塩市丸への寵愛を正当化するための口実として作り上げられたものであったのかは、慎重な検討を要する。また、義鎮の傅役という重要な立場にありながら、その廃嫡計画に加担した入田親誠の動機も複雑である。彼自身の野心や、義鑑への強い影響力を行使しようとする思惑、あるいは義鎮との間に何らかの深刻な確執が存在した可能性などが考えられる。史料の中には、親誠が当初は義鎮の素行を諌めたものの聞き入れられず、逆に義鑑の意を受けて廃嫡を画策するようになったという説や、さらには義鎮自身がこのお家騒動の黒幕であったという説まで存在しており 20 、真相の解明は容易ではない。
また、義鑑の廃嫡計画の動機として、単なる個人的な寵愛だけではない側面を指摘する説もある。例えば、義鎮の生母が大内氏の娘であったため、宿敵である大内氏の影響力を大友家から排除しようと考えた義鑑が、義鎮の廃嫡を望んだという説や、あるいは塩市丸自身が非常に聡明で、次期当主としての期待を抱かせる人物であったという説などである 21 。これらの説は、義鑑の行動が、単純な感情論だけでなく、何らかの政治的判断や合理性に基づいていた可能性を示唆しており、事件の背景をより多角的に理解する上で重要である。
義鑑による塩市丸擁立の動きが具体化するにつれ、大友家臣団内部の対立は先鋭化していった。義鑑と入田親誠らは、嫡男・義鎮を支持する派閥の家臣たちを排除するため、強硬手段に訴え始める。義鎮派の重臣であった小佐井大和守(おさい やまとのかみ、名は鎮直(しげなお)か)や、斎藤長実(さいとう ながざね、鎮実(しげざね)の父)らが、義鑑・入田派によって次々と暗殺されるという暴挙に至った 2 。
これにより、大友家臣団は、嫡男・義鎮を支持する派閥と、義鑑の意向を受けて塩市丸を擁立し、入田親誠らがその中心となる派閥とに明確に分裂し、両者の間には抜き差しならない深刻な対立状況が生まれた 2 。義鎮派の主な家臣としては、田口鑑親(たぐち あきちか、通称は新蔵人(しんくらんど)または蔵人佐(くらんどのすけ)と呼ばれ、加判衆(かはんしゅう、大友家の最高意思決定機関の構成員)の筆頭格であった)、津久見美作守(つくみ みまさかのかみ、実名不詳)らの名が挙げられる 2 。一方、塩市丸派の中心人物は入田親誠であり、その父である入田親廉(ちかかど)もまた加判衆の筆頭であったとされ 22 、入田一族が義鑑政権末期において強大な影響力を持っていたことがうかがえる。
義鑑による義鎮派家臣の連続殺害という事態は、単なる後継者争いを越えて、大友家の権力構造そのものを根底から揺るがす深刻なものであった。入田氏が親子で加判衆の筆頭格という重職を占めていたという事実は 22 、入田氏の影響力の突出ぶりと、このお家騒動が単なる義鑑の個人的な寵愛問題に起因するだけでなく、家中の有力な派閥間の権力闘争の側面を色濃く持っていたことを強く示唆している。義鑑が特定の一族である入田氏に過度に依存し、他の重臣層とのバランスを欠いた統治を行っていた可能性も考えられる。二階崩れの変の原因については、①義鑑の塩市丸母子への寵愛説、②義鎮謀略説、③家臣団の対立(大友一族と国人衆の対立)説などが挙げられているが 23 、特に③の家臣団の対立が、単に後継者選定への意見の相違というレベルを超え、家中の権力バランスの変動や、それに伴う国人層の動向と複雑に結びついていた可能性を考慮する必要があるだろう。
天文19年(1550年)2月10日、義鑑と入田親誠らによる義鎮派家臣の粛清が続く中、自らの身にも危険が迫っていることを察知した義鎮派の家臣たちが、ついに実力行使に打って出た。田口鑑親(新蔵人)や津久見美作守らを中心とする義鎮派の武士たちが、豊後府内にある義鑑の居館(大友館)を襲撃したのである 2 。
襲撃は義鑑の不意を突く形で行われた。この時、館の二階には、義鑑が溺愛していた三男・塩市丸とその生母である側室がいたが、彼らは襲撃者たちの手によって無残にも殺害されてしまった 2 。義鑑自身もこの襲撃によって斬りつけられ、瀕死の重傷を負った 2 。このお家騒動は、襲撃の主たる舞台が館の二階であったことから、後に「二階崩れの変」と呼ばれるようになった 22 。
襲撃によって深手を負った大友義鑑は、その傷がもとで、事件発生から2日後の天文19年(1550年)2月12日に死去した。享年49であった 2 。
義鑑は死の間際に、領国経営に関する指示や家臣への訓戒などを記した「置文(おきぶみ)」を残し、その中で最終的には嫡男である義鎮の家督相続を認めたとされている 2 。この置文の存在によって、義鎮の家督相続は形式的には義鑑の遺志に基づくものとされた。
しかし、この義鑑の置文については、いくつかの疑問点が指摘されている。特に、その内容は瀕死の重傷を負った人物が短時間で書き残したとは到底思えないほど詳細かつ丁寧に執筆されており、義鎮自身、あるいは義鎮派の家臣によって作成されたか、少なくとも大幅な加筆・修正が加えられたのではないかという疑いが持たれている 2 。
この「置文」の存在とそれに対する真贋論争は、二階崩れの変の直後における権力移行が、必ずしも円満なものではなく、義鎮側による積極的な正当化工作や情報操作が行われた可能性を強く示唆している。義鑑の「最終的な承認」が本当に彼の真意であったのか、あるいは義鎮派によって「作り出された」ものであったのかは、事件そのものの評価、そして義鎮の家督相続の正統性を左右する重要な論点となる。義鎮にとって、父殺し(あるいはその幇助)という汚名を回避し、自らの相続の正統性を内外に示すためには、父の「遺言」という形を取ることが極めて重要であったと考えられる。近年の研究では、二階崩れの変について、通説では義鎮は直接関与していないとされるものの、実際には義鎮も深く関与しており、2月10日の襲撃の時点で義鑑は既に討ち取られていた可能性が高いとする見方も有力になってきている 2 。この説に立てば、「置文」は義鎮派による事後工作の一環であった可能性が一層高まる。
父・義鑑の死後、家督を相続した大友義鎮は、直ちに事件の責任追及と反対派の粛清に乗り出した。義鑑の寵愛を受け、塩市丸擁立を画策した入田親誠らは、「義鑑暗殺」の首謀者として断罪され、徹底的に排除された 17 。入田親誠は居城である入田城(豊後国直入郡)に籠もり抵抗を試みたが、やがて追い詰められ自害したと伝えられている 18 。
義鎮が、入田親誠ただ一人を二階崩れの変の黒幕に仕立て上げ、全ての責任を負わせる形で事件の幕引きを図ったという見方もある 20 。このような処理は、短期的には義鎮の権力基盤を固め、家中の反対勢力を一掃する効果があったかもしれない。しかし、長期的な視点で見れば、入田氏のような有力な国人一族を徹底的に断罪したことは、家臣団内部に新たな亀裂や根深い不信感を生み、大友氏全体の結束力を弱める要因となった可能性が指摘されている。特に、入田親誠の子である入田義実(よしざね、後の鑑相(あきすけ))は、この事件を契機に大友氏に対して強い遺恨を抱き、後に反旗を翻すことになるが、これは義鎮による事件処理が後々まで禍根を残した一例と言えるだろう 20 。この有力家臣の離反は、結果として大友氏の支配体制の瓦解を招く遠因の一つになったとも考えられ、二階崩れの変とその後の処理が、大友氏の将来に暗い影を落としたことは否定できない。
表1:二階崩れの変 主要関係者一覧
人物名 |
所属派閥・立場 |
事件における役割・行動 |
結果・処遇 |
関連史料 |
大友義鑑 |
当主、塩市丸擁立を画策 |
義鎮派家臣を殺害、館襲撃により重傷 |
死亡 |
2 |
大友義鎮(宗麟) |
嫡男、廃嫡対象 |
事件への関与は諸説あり、家督相続 |
家督相続 |
2 |
塩市丸 |
義鑑の三男(側室の子)、後継者候補 |
義鑑に溺愛される |
殺害 |
2 |
塩市丸の母(側室) |
義鑑の側室 |
塩市丸擁立に関与 |
殺害 |
2 |
入田親誠 |
義鑑の寵臣、塩市丸派の中心、義鎮の傅役 |
塩市丸擁立を主導、義鎮派家臣殺害に関与 |
事件後、義鎮により粛清され自害 |
2 |
入田親廉 |
親誠の父、加判衆筆頭 |
塩市丸派として行動か(詳細は不明) |
不明( 22 では親誠と共に討たれた父とされる) |
22 |
小佐井大和守 |
義鎮派家臣 |
義鑑・入田派により殺害 |
殺害 |
2 |
斎藤長実 |
義鎮派家臣 |
義鑑・入田派により殺害 |
殺害 |
2 |
田口鑑親(新蔵人) |
義鎮派家臣、加判衆筆頭 |
義鑑の館襲撃を実行 |
事件後も義鎮に仕える |
2 |
津久見美作守 |
義鎮派家臣 |
義鑑の館襲撃を実行 |
事件後も義鎮に仕える |
2 |
大友義鑑の人物像は、史料の断片から多面的に浮かび上がってくる。まず、家庭内においては、嫡男である義鎮に対して「粗暴で人望も薄い」と断じ 2 、一方で側室の子である三男・塩市丸を溺愛するなど、情に流されやすく、公平な判断力を欠いていた可能性が示唆される。この偏愛が、最終的に自身の命運を左右するお家騒動を引き起こした最大の要因であったことは否定できない。
しかし、その一方で、領主としての義鑑は、決して無能な人物ではなかった。豊後府内館の戦略的な改修・強化 4 や、宿敵・大内氏との勢場ヶ原の戦いにおける粘り強い防衛戦の指揮 6 、さらには肥後への勢力拡大政策 2 などに見られるように、領国経営や対外的な勢力拡大に対する強い意志と、それを実現するための実行力を兼ね備えていた。約32年間にわたる治世の中で、大友氏の勢力基盤を固め、北九州における影響力を着実に伸長させたことは、彼の統治者としての能力を示すものである 3 。
また、義鑑が大友氏の「家格」に対して強い自負心を持っていたことも注目される 2 。これは、彼のプライドの高さを示すと同時に、室町幕府の権威を利用しつつ、他の九州諸大名に対する大友氏の優位性を確立しようとする戦略的な思考の表れでもあった。しかし、この過度な自負心は、時として現実的な外交交渉において摩擦を生む要因ともなった可能性が考えられる。
二階崩れの変に至る過程で、義鎮派の家臣を次々と殺害するという強硬手段に訴えたこと 2 は、彼の性格の別の側面を露呈している。これを、目的のためには手段を選ばない冷徹さと解釈することもできれば、あるいは後継者問題と家臣団の対立という袋小路に追い詰められた末の、冷静さを失った暴挙と見ることもできるだろう。
総じて、義鑑の人物像は一面的に捉えることは難しく、戦国大名としての有能さと、家庭問題に起因する判断の誤りや人間的な弱さが同居していたと考えられる。彼の統治能力は、対外的には一定の成果を収めたものの、家中の統制、特に後継者問題という最も重要な課題においては、致命的な欠陥を露呈したと言わざるを得ない。この二面性は、彼の人間的な弱さが政治的な判断に深刻な影響を与えた結果であるかもしれないし、あるいは当時の戦国大名が共通して抱えていた普遍的な課題(家督相続の難しさ、有力家臣のコントロールの困難さ)が、義鑑の場合、特に深刻な形で顕在化したとも言えるだろう。
大友義鑑の治世を支え、また時には揺るがした主要な家臣たちとの関係は、彼の人物像や統治のあり方を理解する上で重要である。
これらの主要家臣との関係は、義鑑の治世が、必ずしも当主の絶対的な権力によって運営されていたわけではなく、有力な家臣団との複雑な力学の中で成り立っていたことを示している。
大友義鑑の歴史的評価は、その功績と失策が明確に分かれるため、一概に論じることは難しい。
まず功績としては、約32年間にわたる治世の中で、父祖から受け継いだ領国を維持・発展させ、大友氏の勢力基盤を一層強固なものにした点が挙げられる 3 。特に、宿敵・大内氏の豊後侵攻を阻止し(勢場ヶ原の戦い)、肥後方面への勢力拡大を図るなど、北九州における大友氏のプレゼンスを高めたことは評価されるべきである。また、府内館の整備や足利将軍家との連携強化なども、次代の大友宗麟による大友氏の最盛期を準備する上で、一定の役割を果たしたと言えるだろう。
しかしながら、その一方で、晩年における後継者問題の処理の失敗は、彼の治世における最大の汚点であり、その評価を大きく左右する要因となっている。嫡男・義鎮を廃して三男・塩市丸を立てようとしたことは、家中に深刻な対立と混乱を引き起こし、最終的には「二階崩れの変」という悲劇的な形で自らの命と政権を失う結果を招いた 5 。このお家騒動は、義鑑自身の統治者としての判断の誤りであり、大友家中に癒やしがたい亀裂を残した。
義鑑の評価は、この「外向き」の勢力拡大という成果と、「内向き」の家政、特に家督相続という最重要課題における致命的な失敗という、二つの側面から光と影が当てられることになる。彼の治世は、戦国大名が常に直面する内外の課題の困難さと、一つの判断ミスがいかに破滅的な結果を招きうるかという、戦国時代の厳しさと危うさを象徴していると言えるかもしれない。彼の功績は次代に引き継がれたものの、その失策がもたらした混乱と不信感は、大友氏の将来に長く影響を及ぼすことになった。
大友義鑑の約32年間にわたる治世は、戦国時代における大友氏の発展にとって重要な時期であった。彼の功績としては、第一に、大友氏の勢力範囲を豊後・筑後からさらに北九州各地へと拡大し、その軍事的・政治的影響力を高めた点が挙げられる。宿敵・大内氏との間で一進一退の攻防を繰り広げつつも、巧みな外交と軍事行動によって領土を保全・拡大し、府内を中心とする領国経営の基盤を強化した。第二に、足利将軍家との連携を重視し、その権威を利用することで大友氏の政治的地位を向上させ、肥後守護職への補任など実質的な利益も得た。これらは、次代の大友宗麟がさらなる飛躍を遂げるための土台となった。
しかしながら、義鑑の治世には明確な限界も存在した。最大のものは、後継者問題の処理における致命的な失敗である。嫡男・義鎮を疎んじ、側室の子である塩市丸を溺愛して家督を譲ろうとしたことは、家中に深刻な対立と混乱を引き起こし、最終的には「二階崩れの変」という悲劇的な結末を迎えた。この内紛は、義鑑自身の判断の誤りであると同時に、特定の寵臣(入田氏)への過度な依存が統治全体のバランスを崩し、他の有力家臣層の不満を増大させた可能性を示唆している。彼の統治は、対外的には一定の成果を収めたものの、家中の結束を維持し、円滑な権力移譲を実現するという点においては、大きな課題を残した。
大友義鑑の死と、それに至る「二階崩れの変」という衝撃的な事件は、若き日に家督を相続することになった嫡男・大友宗麟(義鎮)にとって、計り知れない影響を与えたと考えられる。父が家臣によって襲撃され非業の最期を遂げ、自らも廃嫡の危機に晒されたという経験は、宗麟の人間形成やその後の政治手法に深く刻まれたであろう。権力闘争の非情さ、家臣団統制の難しさを身をもって体験したことは、宗麟が後に冷徹とも言える判断を下し、時には強引な手法で権力基盤を固めていく背景の一つとなったかもしれない。
義鑑は、宗麟に対して、拡大した勢力範囲と強化された政治的地位という「正の遺産」を残した。義鑑が固執した大友氏の「家格」意識や、足利将軍家との関係構築の重要性は、宗麟にも引き継がれ、彼の代における九州探題への補任 17 など、さらなる権威の獲得へと繋がった。しかし同時に、義鑑が解決できなかった家中の亀裂や、有力国人層の潜在的な不満という「負の遺産」もまた、宗麟は引き継がなければならなかった。二階崩れの変で露呈した家臣団の不和は、宗麟の治世においても常に注意を払わなければならない不安定要因として残り続け、後の家臣の離反や内部分裂の遠因となった可能性も否定できない。
大友義鑑の生涯は、戦国という時代の厳しさの中で、一人の大名が抱えた栄光と悲劇、そしてその功罪が次代にいかに影響を及ぼすかを示す、示唆に富んだ事例と言えるだろう。彼の苦闘と失敗は、大友宗麟という稀代の戦国大名を生み出すための一つの試練であったのかもしれない。