最終更新日 2025-06-13

大和田光盛

「大和田光盛」の画像

戦国期出羽の動乱と大和田光盛:平城の乱を中心に

1. はじめに

大和田光盛は、戦国時代の出羽国にその名を刻む武将である。小野寺氏の家臣として横手城主の地位にあったが、天文15年(1546年)、金沢金乗坊と結託して主君・小野寺稙道を討つという、いわゆる「平城の乱」を引き起こした 1 。この下克上は一時的な成功を収めたものの、後に稙道の嫡男・輝道によって攻め滅ぼされたと伝えられている 3

本報告書は、現存する史料に基づき、この大和田光盛の生涯、特に彼が深く関与した「平城の乱」の背景、経緯、そしてその後の末路について、関連する人物や当時の出羽国の情勢を交えながら、詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。また、光盛に関する主要史料である『奥羽永慶軍記』などの記述についても、その特性と限界を考慮しつつ検討を加える。

大和田光盛の生涯は、戦国時代という激動の時代における地方武士の生き様、下克上の実態、そして地域権力の形成と崩壊の様相を考察する上で、示唆に富む事例と言えよう。彼の行動は、単なる個人的な野心の発露としてのみならず、当時の小野寺氏内部の権力構造の力学や、周辺勢力との複雑な関係性の中で多角的に捉え直す必要がある。

以下に、大和田光盛の生涯と彼が生きた時代を概観するための関連年表を提示する。

表1:大和田光盛 関連年表

年代 (西暦)

主な出来事

関連人物・勢力

生年不詳

大和田光盛、生誕

大和田光盛

天文15年 (1546年)

5月27日、平城の乱勃発。大和田光盛・金沢金乗坊ら、主君・小野寺稙道を攻撃。稙道は湯沢城にて自害 1

大和田光盛、金沢金乗坊、小野寺稙道

天文15年 (1546年) 以降

小野寺輝道(稙道の子)、庄内地方や羽黒山に逃れる 3

小野寺輝道

天文18年 (1549年) 頃 (推定)

小野寺輝道、大宝寺氏・羽黒山衆徒・由利衆らの支援を得て勢力を回復し、大和田光盛・金沢金乗坊を討伐 2

大和田光盛、金沢金乗坊、小野寺輝道、大宝寺氏、羽黒山衆徒、由利衆

弘治2年 (1556年)

小野寺輝道、室町幕府第13代将軍足利義輝より偏諱(「輝」の字)と遠江守の官途を賜る 6

小野寺輝道、足利義輝(室町幕府)

没年不詳 (天文18年頃か)

大和田光盛、死去 (小野寺輝道による討伐)

大和田光盛

この年表は、光盛の生涯における主要な画期と、彼を取り巻く環境の変動を示すものである。彼の行動と運命は、これらの出来事と密接に連関していたと考えられる。

2. 大和田光盛の出自と背景

2.1. 生い立ちと家系(判明している範囲で)

大和田光盛の具体的な生年や、その詳細な出自、一族に関する確たる記録は、現存する史料からは残念ながら明確に確認することができない 3 。戦国時代の地方武士、特に中央の記録にその名が頻繁に登場するわけではない国人クラスの人物については、その出自や家系の詳細が不明であることは決して珍しいことではない。光盛もまた、そうした歴史の深淵に多くの謎を残す人物の一人と言えるであろう。

「大和田」という姓は、常陸国(現在の茨城県)や福島県など、関東から東北地方にかけて散見される苗字である 10 。例えば、茨城県日立市には大和田町という地名が存在し、桓武平氏の流れを汲む大和田氏の発祥地とされる説もある 10 。また、佐竹氏の家臣である小貫頼久の妻が、大和田重清の娘であったという記録も存在するが 11 、これらの大和田氏と、出羽国の小野寺家臣であった大和田光盛の系統が直接的に繋がるかどうかは、現時点では不明である。光盛が歴史の表舞台にその名を現すのは、あくまで小野寺氏の有力家臣として、そして後に「平城の乱」の首謀者としてであり、彼の出自よりも、いかにして小野寺家中で横手城主という重要な地位を築き上げたのか、その経緯と実力が注目されるべきであろう。

2.2. 小野寺家臣としての台頭と横手城主

大和田光盛は、出羽国仙北地方に勢力を張った小野寺氏の家臣であり、横手城(現在の秋田県横手市)の城主であったことが複数の史料で確認されている 1 。横手城は、雄物川と横手川の合流点に近い要衝に位置し、小野寺氏が稲庭(現在の秋田県湯沢市稲庭町)、沼館(現在の秋田県横手市増田町)、湯沢と本拠を移していく中で、戦略的に極めて重要な拠点であったと考えられる 6

光盛の主君であった小野寺稙道は、この横手城に本拠を移そうと計画していたとされる 1 。この計画が、結果として光盛を含む家臣団の権力闘争や深刻な対立を引き起こし、「平城の乱」へと繋がった可能性が強く示唆されている。横手は、小野寺氏が稲庭に本拠を置いていた頃から、家老の横手道前が居城していたと伝えられるなど、古くから小野寺氏にとって縁の深い土地であった 2 。光盛が横手城主となった具体的な経緯は明らかではないが、稙道の横手重視政策の中でその地位を得たのか、あるいはそれ以前から横手周辺に影響力を持つ在地領主としての側面を持っていたのか、様々な可能性が考えられる。いずれにせよ、横手城主という地位は、光盛が小野寺家中で単なる一武将ではなく、一定の兵力と軍事指揮権を持つ有力者であったことを物語っている。稙道の横手城への本拠地移転計画は、小野寺氏の権力構造の再編を意図したものであった可能性があり、これに反発する勢力が存在したことは想像に難くない。光盛がその反発勢力の中心となったのか、あるいはこの計画を逆手に取り自らの勢力拡大を図ったのか、その動機を探ることが「平城の乱」を理解する鍵となる。

2.3. 「佐渡守」の官途名について

大和田光盛は、史料において「横手佐渡守」あるいは単に「佐渡守」と称されることがある 2 。「佐渡守(さどのかみ)」は、本来、律令制における佐渡国(現在の新潟県佐渡市)の地方行政官である国司の長官を指す官職名である。しかし、戦国時代に至ると、朝廷や室町幕府による正式な叙任を経ずとも、武士が自らの権威や格式を示すために官途名を自称したり、あるいは主君から恩賞の一環として名乗ることを許されたりする事例が一般化した 15

光盛が「佐渡守」を名乗った経緯、すなわち朝廷や幕府からの正式な任官であったのか、自称であったのか、あるいは主君であった小野寺氏から授けられたものなのかは、現存する史料からは判然としない。しかし、戦国期の東北地方の国人領主が、中央の権威とは直接的な結びつきなしに官途名を自称する例は決して珍しいことではなかった 16 。光盛が実際に佐渡国を統治していたとは考え難く、また朝廷から正式に叙任されたという記録も(現時点では)見当たらないことから、この「佐渡守」という官途名は、彼の武将としての格や地域における影響力を内外に示すための称号であった可能性が高い。中央の権威が相対的に低下し、地方の自立性が高まった戦国時代において、このような官途名の自称や授与は、地方武士が自らの正当性や格を誇示するための有効な手段の一つであった。光盛の「佐渡守」という称も、そうした当時の武家社会の慣習に則ったものであったと推測される。これが自称であったとすれば彼の野心の一端を、主君からの授与(平城の乱以前であれば稙道から、乱後であれば自ら)であったとすれば彼の功績や期待の大きさを、それぞれ示唆するものと言えるかもしれない。

2.4. 当時の出羽国と小野寺氏

大和田光盛が活動した16世紀中頃の出羽国、特に小野寺氏の勢力圏であった仙北地方は、数多くの国人領主が割拠し、複雑な勢力関係が形成されていた。小野寺氏の周辺には、日本海沿岸の由利郡を拠点とする由利十二頭、北部の戸沢氏、湊安東氏(秋田氏)配下の国人と目される前田氏、本堂氏、六郷氏、そして山形方面に境を接する鮭延氏、さらに奥州方面の和賀氏、稗貫氏といった諸勢力がひしめき合っていた 6

小野寺氏は、鎌倉時代初頭の奥州合戦における功績により、源頼朝から出羽国雄勝郡などの地頭職を与えられたことに始まるとされ、南北朝時代には下野国から出羽国稲庭に移住し、次第に在地化を進めた 12 。戦国時代には、雄勝・平鹿・仙北のいわゆる仙北三郡に勢力を拡大し、出羽国内でも有数の有力な国人領主へと成長した。小野寺氏は室町幕府から「屋形」の称号を許され、京都御扶持衆にも列せられていたとされ 6 、これは中央の権威との結びつきを示すと共に、地域における小野寺氏の格式の高さを物語っている。

しかしながら、その一方で、小野寺氏は常に安泰であったわけではない。北からは日本海交易を掌握し勢力を拡大する安東氏、そして南からは山形を拠点に急速に台頭し、出羽国の覇権をうかがう最上氏といった、より強力な戦国大名からの圧迫に晒される立場でもあった 3 。このような群雄割拠と下克上が常態化した時代背景の中で、小野寺氏もまた、中央の権威(室町幕府)との繋がりを維持しつつ、周辺の国人領主や戦国大名との間で時には協調し、時には緊張関係を保ちながら、必死に勢力の維持・拡大を図っていたのである。こうした不安定な政治・軍事状況は、家中における権力闘争や、大和田光盛のような有力家臣による謀反を誘発しやすい土壌となっていた可能性は否定できない。小野寺稙道の横手城への本拠移転計画も、こうした内外の厳しい状況に対応するための権力集中策であったとも考えられるが、皮肉にもそれが家中の亀裂を深め、光盛の反乱を招く一因となったのかもしれない。

3. 平城の乱

天文15年(1546年)5月、小野寺氏の歴史において大きな汚点として、また一つの転換点として記録される「平城の乱」が勃発した。この乱は、横手城主大和田光盛と金沢八幡宮別当金乗坊が中心となり、主君である小野寺稙道を攻め滅ぼした事件である 1

3.1. 乱勃発の背景と要因

3.1.1. 小野寺稙道の政策と家中の動揺

乱の直接的な引き金になったとされるのが、小野寺稙道が進めようとした政策、特に本拠を横手城に移そうとした計画であった 1 。稙道は、六郷氏・本堂氏・戸沢氏といった周辺の国人領主に対して偏諱(自身の名前の一字を与えること)を行うなど、積極的な外交政策を展開し、小野寺氏の勢力拡大と安定化を図っていた 1 。本拠地の移転も、こうした政策の一環として、より戦略的に有利な横手盆地の中心部へ権力基盤を集中させようとする意図があったと考えられる。

しかし、この本拠地移転計画は、小野寺家中の勢力バランスに大きな影響を与えるものであった。既存の拠点を重視する勢力や、新たな権力集中によって自らの影響力が低下することを恐れる家臣団からの反発を招いた可能性が高い。「家臣団の権力闘争に巻き込まれ」 1 という史料の記述は、この計画が家中の複数の派閥間の対立を顕在化させ、深刻な亀裂を生じさせたことを示唆している。事実、稙道の治世下では、彼が上洛中に家臣の姉崎四郎左衛門が稙道の死を偽って当主交代を画策し、露見して誅殺されるという事件も起きており 2 、既に家中に不穏な空気が漂っていたことが窺える。稙道の政策が、一部の家臣にとっては現状維持を脅かすものと映り、結果として彼らが実力行使に踏み切る土壌を醸成したと言えるだろう。

3.1.2. 大和田光盛の動機(史料に基づく推測)

大和田光盛自身が、なぜ主君殺害という凶行に及んだのか、その具体的な動機を直接的に示す史料は現存していない。しかし、いくつかの状況証拠からその背景を推測することは可能である。

まず、光盛は横手城主という立場にあった。主君・稙道が横手城への本拠移転を計画していたことは、光盛にとって自らの権力基盤が強化される好機と映ったかもしれないし、逆に主君の直接支配下に置かれることで権限が縮小される危機感を抱いた可能性も考えられる。いずれにせよ、彼の立場は計画の成否によって大きく左右されるものであった。

また、戦国時代は下克上が横行した時代であり、実力のある者が旧主を排除して成り上がるという風潮が強かった。光盛もまた、そうした時代精神の影響を受け、小野寺宗家の支配を覆し、自らが地域の実権を掌握しようとする野心を抱いていたとしても不思議ではない。金沢金乗坊という有力な宗教勢力と結託できたことも、彼の野心を後押しした要因の一つであろう。

光盛の動機は、単一のものではなく、政策への反発、権力闘争における自己保身、そして戦国武将特有の野心といった複数の要素が複雑に絡み合っていたと推測される。彼が小野寺家中の他の不満分子を巧みに糾合し、反乱の主導的な役割を果たした可能性も十分に考えられる。

3.2. 金沢金乗坊との共謀

大和田光盛が「平城の乱」を引き起こす上で、極めて重要な役割を果たしたのが、金沢金乗坊との共謀であった 1 。金乗坊は、金沢(現在の秋田県横手市金沢中野周辺)に鎮座する金沢八幡宮の別当であったとされている 1 。別当とは、寺社の管理・運営を統括する長であり、金乗坊が単なる一介の僧侶ではなく、金沢地区において相当な宗教的権威と、それに伴う世俗的な影響力をも有していたことを示唆している。

当時の寺社勢力は、しばしば広大な寺社領を有し、経済力や人的ネットワーク、時には武装した僧兵を抱えるなど、地域の政治・軍事動向に大きな影響を与える存在であった。金乗坊もまた、そうした背景を持つ人物であった可能性が高い。彼がどのような動機で光盛に同心し、主君への謀反という危険な企てに加担したのかは史料からは明らかではない。しかし、小野寺宗家の支配体制や政策(例えば稙道の横手への権力集中策が、金沢地区の伝統的な権益と対立したなど)に対する何らかの不満や、地域における自律性の確保、あるいは勢力拡大といった野心があったのかもしれない。

『戸沢家譜』の信憑性には問題があるとしながらも、浅舞地域の領主であった浅舞内蔵之助が、天文21年(1552年)に勃発したとされる「天文小野寺の乱」(これが平城の乱と同一か、あるいは関連する別の事件かは要検討)において、横手(大和田)佐渡・金沢八幡別当金乗坊方に加担したという記録もあり 19 、このことは光盛と金乗坊の連合が、他の在地領主層にも影響を及ぼす広がりを持っていた可能性を示している。金沢地区は古くから武士が居住し、小野寺氏の旧臣も存在した土地であり 20 、金乗坊がこうした在地勢力をまとめ上げ、光盛の反乱に動員したことも考えられる。

3.3. 乱の経過と小野寺稙道の最期

天文15年5月27日(旧暦、1546年6月25日)、大和田光盛と金沢金乗坊を中心とする反乱軍は、ついに主君・小野寺稙道に対して兵を挙げた 1 。具体的な戦闘の経過については詳細な記録に乏しいが、結果として稙道は反乱軍に追い詰められ、湯沢城(現在の秋田県湯沢市古館山、あるいはその周辺と推定される)において自害に追い込まれたとされている 1

乱の勃発から当主である稙道の自害まで、比較的短期間で決着がついたように見える。これは、光盛と金乗坊らの計画が周到であり、かつ迅速に実行されたこと、あるいは稙道方が有効な対応策を講じる間もなく、不意を突かれた可能性を示唆している。湯沢城が稙道の最期の地となったことについては、彼が当時の本拠地(沼館城か稲庭城か)から逃れてきたのか、あるいは何らかの理由で湯沢城に滞在中に襲撃を受けたのか、複数の解釈が可能である。小野寺氏の居城の変遷を見ると、稲庭城から沼館城、そして湯沢城を経て横手城へと移ったとされており 6 、湯沢城が当時、一時的な本拠、あるいは重要な支城としての機能を有していた可能性も考えられる。いずれにせよ、一門の当主が自害に追い込まれるという事態は、光盛・金乗坊方の軍事力が、少なくともその時点においては稙道方を凌駕していたことを物語っている。

3.4. 「平城の乱」の呼称について

この小野寺稙道の横死に至る一連の事件は、一般に「平城の乱(ひらじょうのらん、へいじょうのらん)」として知られている 1 。横手市には現在も平城町(ひらじろまち)という地名が存在し、かつてこの地に「平城(ひらじろ)」と呼ばれる平地に築かれた城砦があったとされ、これが町名の由来であり、この戦いを「平城の乱」と呼ぶとの説明もなされている 5 。この場合、乱の呼称は「ひらじろのらん」と読む可能性も考慮されるべきである。

この「平城の乱」は、歴史上著名な他の事件、例えば平安時代初期の平城上皇と嵯峨天皇の対立である「薬子の変(平城太上天皇の変とも、810年)」 21 や、平安時代末期の源氏と平氏の争乱である「平治の乱(へいじのらん、1159年)」 22 とは、時代も内容も全く異なる事件である。呼称が類似しているため、混同しないよう注意が必要である。「平城の乱」という名称が、事件の舞台となった可能性のある「平城(ひらじろ)」という地名、あるいは城砦名に由来するのであれば、この乱が横手近辺の特定の場所(平城)を巡る攻防を含んでいた可能性も考えられる。しかし、史料において稙道の最期は湯沢城とされており、「平城」がこの乱において具体的にどのような役割を果たしたのかは、現時点では不明瞭な点が多い。呼称の由来や、事件当時からそう呼ばれていたのかについては、さらなる史料の検討が待たれる。

表2:平城の乱 主要関係者一覧

氏名

所属・役職など

乱における主な動向

結果・末路

大和田光盛 (横手佐渡守)

小野寺家臣、横手城主

金沢金乗坊と共に謀反を起こし、小野寺稙道を討つ。首謀者 1

後に小野寺輝道によって討伐される 3

金沢金乗坊

金沢八幡宮別当

大和田光盛に同心し、謀反に加担 1

後に小野寺輝道によって討伐される 3

小野寺稙道

小野寺氏第12代当主

平城の乱にて大和田光盛・金沢金乗坊らに攻められ、湯沢城で自害 1

死亡。

小野寺輝道 (景道)

小野寺稙道の四男(または三男) 1

父の仇である大和田光盛・金沢金乗坊を討ち、小野寺氏を再興 3

小野寺氏当主となる。

浅舞内蔵之助 (可能性)

在地領主(浅舞地方)

「天文小野寺の乱」で光盛・金乗坊方に加担したとの記録あり 19 。平城の乱への関与は不明確。

不明。

この表は、事件の構図を理解するための一助となるであろう。特に「浅舞内蔵之助」のように、直接的な関与が確定できないものの関連が示唆される人物の存在は、この乱が単なる小野寺家中の内紛に留まらず、周辺の在地勢力を巻き込む広がりを持っていた可能性を示している。

4. 平城の乱後の光盛と最期

4.1. 乱後の横手周辺における光盛の動静

平城の乱によって主君・小野寺稙道を排除した大和田光盛が、その後、横手周辺地域をどのように統治したのか、その具体的な動静を示す詳細な記録は、提供された史料からは乏しい。横手城主であった彼が、金沢金乗坊と共に一時的にせよ横手周辺地域の実権を掌握したことは想像に難くない。

しかし、主君殺害という強硬手段によって権力を奪取した光盛の支配は、決して安定したものではなかったと推測される。小野寺氏の旧臣や、稙道に恩義を感じる勢力、そして何よりも正当な後継者である輝道の存在は、光盛にとって常に脅威であったはずである。輝道による復讐を警戒し、領内の反対勢力を抑え込む必要に迫られるなど、彼の統治は常に軍事的な緊張感を伴うものであった可能性が高い。彼がどのような新たな支配体制を構築しようとしたのか、あるいは領民に対してどのような政策を布いたのかといった記録がほとんど見られないのは、その支配が短期間で終焉を迎えたためか、あるいは混乱と不安定さの中で具体的な施政を行う余裕がなかったためかもしれない。

4.2. 小野寺輝道の反攻と勢力回復

父・稙道を大和田光盛と金沢金乗坊によって討たれた小野寺輝道(史料によっては景道とも記される 1 。幼名は次郎であったともいう 6 )は、乱勃発時、まだ若年であったと推測され、難を逃れて庄内地方 3 や山形の羽黒山 5 へと落ち延びたと伝えられている。

しかし、輝道は父の非業の死に屈することなく、数年の歳月をかけて反攻の機会をうかがい、着実に勢力を回復していった。この勢力回復の過程で、彼は外部からの強力な支援を得ることに成功する。具体的には、出羽国庄内地方の有力な戦国大名であった大宝寺氏(武藤氏) 3 、修験道の聖地であり強大な宗教的・軍事的影響力を有していた羽黒山の衆徒 6 、そして日本海沿岸の由利郡に割拠していた国人領主たちの連合である由利衆 6 などが、輝道の支援勢力として名を連ねている。

さらに注目すべきは、輝道が中央の権威との結びつきを回復し、その正当性を高めようとした動きである。弘治2年(1556年)には、室町幕府の第13代将軍であった足利義輝から、その名の一字である「輝」の字を偏諱として賜り、同時に遠江守の官途を拝領したという記録がある 6 。これは、輝道が単に地方勢力の支援を得るだけでなく、幕府からも小野寺氏の正統な後継者としての認知を受け、その求心力を内外に示す上で極めて重要な意味を持った。父・稙道もかつて将軍足利義稙から偏諱を受けていたこと 1 を踏まえれば、輝道もまた父祖の例に倣い、中央の権威を後ろ盾とすることで、自らの立場を強化しようとしたものと考えられる。

4.2.1. 羽黒山・大宝寺氏等からの支援の背景

小野寺輝道が、大和田光盛・金沢金乗坊という強大な敵に対抗し、最終的に彼らを討ち果たすことができた背景には、羽黒山修験勢力や大宝寺氏、由利衆といった外部勢力の支援が不可欠であった。これらの勢力が輝道を支援した動機は、一様ではなかったと推測される。

羽黒山は出羽三山の一つとして古くから修験道の中心地であり、多くの衆徒(僧兵)を擁し、戦国時代においては独立した武装勢力としての性格も色濃く持っていた 23 。輝道が亡命先として羽黒山を選んだのは、単に安全な避難場所というだけでなく、父祖以来の何らかの関係や、反光盛勢力を結集するための拠点としての期待があったからかもしれない。

大宝寺氏(武藤氏)は、出羽国庄内地方に広大な勢力圏を持つ戦国大名であり、史料によれば羽黒山の別当職も務めるなど、羽黒山とは極めて深い関係にあった 23 。大宝寺氏が輝道を支援した背景には、小野寺氏との間に伝統的な友好関係や婚姻関係が存在した可能性、あるいは大和田光盛・金沢金乗坊という新興勢力が小野寺領を支配することによって、その影響が庄内地方にまで波及することを警戒した可能性などが考えられる。また、輝道を支援し、小野寺氏の再興に協力することで、将来的に小野寺氏に対する影響力を強めようとする戦略的な計算があったとしても不思議ではない。

由利衆は、由利郡に割拠していた中小国人領主の連合体であり、彼らもまた仙北地方の勢力図の変動には極めて敏感であった。輝道に味方することで、自らの勢力拡大や権益の確保といった実利的な目的があった可能性も否定できない。

このように、輝道の勢力回復と反攻は、単なる個人的な復讐心の発露というだけでなく、周辺の諸勢力の利害と思惑が複雑に絡み合った結果であったと言える。戦国期の権力闘争において、血縁や地縁だけでなく、宗教勢力や他の地域権力との巧みな連携がいかに重要であったかを示す好個の事例である。

4.3. 大和田光盛の最期

数年にわたる雌伏の時を経て、大宝寺氏や羽黒山衆徒、由利衆などの強力な支援勢力を結集することに成功した小野寺輝道は、ついに父・稙道の仇である大和田光盛及び金沢金乗坊を討伐するための兵を挙げた 2

この輝道による反攻作戦の具体的な時期や戦闘の場所、経過に関する詳細な記述は、残念ながら現存する史料からは多くを見出すことができない。しかし、複数の史料が一致して伝えているのは、結果として大和田光盛と金沢金乗坊は、輝道によって攻め滅ぼされたという事実である 2

『横手市史』に関連する現地の説明看板の内容として引用されている記述によれば、輝道は「その3年後、勢力を盛り返して平城にいた光盛らを討ち、父の仇を取った」とされており 5 、これが事実であれば、平城の乱が勃発した天文15年(1546年)から約3年後、すなわち天文18年(1549年)頃に光盛が討たれた可能性が示唆される。この「平城」が、前述の横手市平城町にあったとされる城砦を指すのであれば、光盛はそこを拠点としていたところを輝道軍に攻められたのかもしれない。

輝道は、父の仇敵である光盛と金乗坊を討ち果たした後、彼らが拠点としていた横手城を奪還し、自らの居城としたと伝えられている 4 。これにより、小野寺氏の正統な支配が回復され、輝道を中心とする新たな体制が仙北地方に築かれることとなった。

大和田光盛の最期は、主君を弑逆し一時的に権力を掌握した者が、やがて旧主の後継者による正義の報復によって滅ぼされるという、戦国時代の物語においてしばしば見られる典型的なパターンの一つと言えるだろう。輝道が、父の死からわずか3年程度という比較的短期間で反攻に成功し、仇敵を討ち果たし得たことは、大和田光盛・金沢金乗坊連合の支配基盤が決して強固なものではなかったこと、そして輝道が得た外部からの支援がいかに強力であったかを物語っている。

5. 大和田光盛に関する考察

5.1. 歴史的評価:下克上と地域権力

大和田光盛の生涯とその行動は、戦国時代という時代の特質を色濃く反映している。主君である小野寺稙道を攻め滅ぼし、一時的にせよその支配権を奪取しようとした行為は、まさに「下克上」の典型的な一例として評価することができる。

しかしながら、彼を単なる「謀反人」という一面的なレッテルで片付けてしまうことは、歴史の複雑な様相を見誤る危険性を孕んでいる。光盛が横手城主という重要な地位にあり、一定の地域的基盤を有していたこと、そして金沢金乗坊という有力な宗教勢力と結託して大規模な反乱を組織し得たという事実は、彼が単なる一介の武将ではなく、当時の出羽国仙北地方において無視できない影響力を持った地域権力者の一人であったことを示している。

彼の反乱は、当時の小野寺氏内部における権力構造の脆弱性や、戦国期に顕著に見られた国人領主層の自立志向の高まり、さらには宗教勢力が地域の政治・軍事動向に深く関与していた実態など、当時の社会状況を映し出す鏡のような出来事であったと言える。光盛のような存在が各地に出現し、旧来の秩序に挑戦したことが、結果として既存の支配体制を解体し、戦国大名によるより強固な一円支配体制へと移行していく大きな流れを形成する原動力の一つとなった側面も否定できない。光盛の試みは短期間で失敗に終わったものの、それは東北地方における戦国動乱の数々の一齣として、また、その時代を生きた武士の野心と悲劇を伝える事例として、歴史的な考察の対象となる価値を有している。

5.2. 関連史料の検討:『奥羽永慶軍記』を中心に

大和田光盛や彼が深く関わった平城の乱に関する記述の多くは、江戸時代に成立した軍記物である『奥羽永慶軍記』に見出すことができる 25 。この『奥羽永慶軍記』は、出羽国雄勝郡横堀村(現在の秋田県湯沢市)の医師であった戸部正直によって、元禄11年(1698年)に成立したとされ、天文3年(1534年)から元和8年(1622年)に至る約90年間の奥羽地方の群雄割拠と争乱の模様を詳細に記述している 25

この軍記物は、戦国期の小野寺氏や周辺地域の歴史を知る上で頻繁に利用される重要な史料の一つであることは間違いない。しかしながら、その利用に際しては、史料としての特性と限界を十分に理解しておく必要がある。秋田県立博物館の報告書などでも指摘されているように、『奥羽永慶軍記』には「記載された内容や年代に誤りのある部分もあり、細心の注意を払って利用する必要があるとされる」 26 のである。

軍記物は、歴史的事実を伝えることを主目的としながらも、物語としての面白さや教訓的な要素を盛り込むために、記述の取捨選択や脚色、時には創作的な要素が加えられることがある。また、事件から相当な時間が経過した後に編纂されるため、伝聞に基づく不正確な情報や、編者の主観的な解釈が混入する可能性も常に考慮しなければならない。特に、合戦の具体的な経緯や登場人物の言動、年代などについては、書状や日記といった一次史料や、考古学的な調査によって得られた知見など、他の史料群との比較検討を通じて、その記述の信憑性を慎重に吟味する必要がある。

大和田光盛に関する記述についても、彼を主君を裏切った「逆臣」として否定的に描き、一方で小野寺輝道を父の仇を討つ正義の英雄として描くなど、特定の価値観や物語的な構成に基づいて叙述されている可能性も念頭に置くべきである。したがって、『奥羽永慶軍記』の記述を鵜呑みにすることなく、横手市史をはじめとする地方史料 5 や、もし現存していれば小野寺氏関連の古文書などとの比較検討を通じて、より客観的で多角的な歴史像の再構築を目指す姿勢が求められる。

6. おわりに

6.1. 大和田光盛の生涯の総括

大和田光盛は、戦国時代の出羽国という、中央の政治的影響力が相対的に希薄な辺境の地において、自らの野心と実力をもって歴史の表舞台に登場した武将である。小野寺氏の家臣、横手城主という地位にありながら、主君・小野寺稙道を討つという大胆な下克上を敢行し、一時的にせよその目的を達したかのように見えた。しかし、その野望は長続きせず、旧主の子である小野寺輝道の反攻によって打ち砕かれ、その生涯を閉じた。

彼の生涯は、史料の制約から不明な点が多く、特に平城の乱以前の経歴や、乱後の具体的な統治の実態については、詳細を明らかにすることが難しい。しかし、断片的な記録を繋ぎ合わせることで浮かび上がるその姿は、戦国という時代が生み出した典型的な地域権力者の一つのタイプを示していると言えるだろう。彼の行動は、当時の東北地方における主従関係の流動性、国人領主層の自立志向、そして宗教勢力の政治的・軍事的影響力の大きさを象徴的に示している。

6.2. 歴史的意義と残された謎

大和田光盛が引き起こした平城の乱は、小野寺氏の歴史において大きな画期となる事件であった。この乱によって当主稙道が横死し、一時的にせよ小野寺宗家の支配体制は大きく揺らいだが、同時に、輝道による小野寺氏再興と、その後の仙北地方における勢力基盤の再構築へと繋がる契機ともなった。

光盛個人の歴史的意義を考えるとき、彼は成功しなかった下克上者として、あるいは戦国時代の数多の地域紛争の一つにおける当事者として記憶されるに過ぎないかもしれない。しかし、彼の存在と行動は、戦国時代の日本社会が経験した大きな構造変動、すなわち旧来の権威や秩序が解体され、実力主義が横行する中で新たな地域権力が形成されていく過程の一断面を、具体的に示しているという点で重要である。

一方で、大和田光盛に関しては、未だ多くの謎が残されている。彼の正確な出自や家系、金沢金乗坊とどのような具体的な経緯で連携し、謀反に至ったのか、そして平城の乱後の短期間であったと推測される統治の実態など、史料の不足から解明されていない点は少なくない。これらの謎の解明には、新たな史料の発見はもちろんのこと、既存史料のより精密な読解と比較検討、さらには考古学的なアプローチなど、多角的な研究の進展が期待される。大和田光盛のような、必ずしも歴史の主役とは言えない人物の生涯を丹念に追うことは、中央集権的な大名中心の歴史観を相対化し、より豊かで重層的な戦国時代像を構築する上で、欠くことのできない作業と言えるであろう。彼の物語は、東北地方の戦国史研究において、さらなる探求を促す興味深い素材を提供し続けている。

引用文献

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  21. 「薬子の変」が与えた影響とは? 関係者、起きた背景・流れについて総まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/485141
  22. 平治の乱(ヘイジノラン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1-128937
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  24. 大宝寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F
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