日本の戦国時代、列島各地で群雄が割拠し、下剋上の風が吹き荒れる中、東北地方の出羽国庄内地方にその勢力を張った一人の武将がいた。大宝寺氏第15代当主、大宝寺晴時(だいほうじ はるとき)である。彼の治世は、一族内の深刻な内紛と、周辺大国の動乱という内憂外患に終始した。しかし、その短い生涯は、中央の権威を巧みに利用し、経済的基盤を背景に領国の維持を図った戦国中期の地方領主の実像を、克明に映し出している。本報告書は、大宝寺晴時の生涯を多角的に検証し、彼が生きた時代の特質と、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
大宝寺氏の出自は、鎌倉幕府の草創期に遡る。本姓を藤原氏とし、鎮守府将軍・藤原秀郷を遠祖とする名門、武藤氏の流れを汲む 1 。九州の太宰少弐に任ぜられた少弐氏とは同族であり、武家としての高い家格を有していた 1 。
その歴史は、文治5年(1189年)の奥州合戦における功により、武藤頼平の子・氏平が出羽国大泉荘の地頭職に補任されたことに始まる 1 。当初、一族は地頭職の地名から「大泉氏」、あるいは本姓である「武藤氏」を称していた 1 。やがて5代当主・長盛の代に至り、荘園の中心地であった大宝寺(現在の山形県鶴岡市)に城郭を構え、地名に由来する「大宝寺」を名字とした 4 。
室町時代に入ると、大宝寺氏は大泉荘地頭であった上杉氏の在地代官としての側面を持ちながらも 1 、やがて室町幕府と直接結びつく「京都扶持衆」の地位を獲得し、出羽国における有力国人領主としての立場を確立するに至った 1 。
戦国時代初期、大宝寺氏は田川郡・櫛引郡・遊佐郡からなる庄内三郡を主たる支配領域としていた 9 。さらに、出羽三山の一つである羽黒山の別当職を代々兼務することで、その広大な寺社領から得られる経済的利益と、修験道を通じて広範囲に及ぶ宗教的権威をも掌握していた 1 。
しかし、その権力基盤は決して盤石ではなかった。一族の庶流であり、飽海郡の郡代を務めていた砂越氏が、宗家の支配からの独立を目指して反抗の機会を窺っていた 5 。加えて、来次氏や安保氏といった在地領主たちも大宝寺氏の支配に反発しており、領内には常に緊張が走っていた 14 。
地政学的に見ても、大宝寺氏は極めて厳しい環境に置かれていた。東には羽州探題として権威を誇る最上氏、北には日本海交易の要衝・土崎湊を支配する安東氏、そして南には国境を接する越後の長尾氏(後の上杉氏)という有力大名に囲まれており、常に複雑かつ巧みな外交政策を強いられる運命にあったのである 1 。大宝寺晴時は、まさにこのような内外に課題を山積した状況下で、歴史の表舞台に登場することになる。
大宝寺晴時は、永正9年(1512年)に生を受けた 13 。しかし、その出自、特に父親が誰であったかについては、史料によって記述が異なり、今日においても明確な結論を見ていない。一説には第13代当主・大宝寺澄氏の子、また一説には澄氏の弟である氏説の子とされている 13 。
澄氏には実子がおらず、その死後に弟の氏説が家督を継いだと記す系図も存在することから 19 、晴時は氏説の子として家督を継承した蓋然性が高いと考えられる。いずれにせよ、澄氏の死後に晴時が家督を継いだという点では、複数の資料で一致している 13 。この系図上の混乱そのものが、当時の大宝寺氏内部における家督相続が不安定であったことを示唆しており、晴時の治世が当初から困難な状況下で始まったことを物語っている。
家督を相続した晴時は、当初「時氏」と名乗っていた 13 。しかし、大永2年(1522年)頃、彼は大きな政治的行動に出る。室町幕府第12代将軍・足利義晴に接近し、その名の一字(偏諱)を賜り、「晴時」へと改名したのである 13 。
これは単なる改名に留まらない。戦国時代の地方領主にとって、将軍から偏諱を授かることは、中央の最高権威と直接的な主従関係を結び、自らの支配の正当性を内外に誇示する極めて重要な意味を持っていた。領内の敵対勢力や周辺の有力大名に対し、自らが将軍と結びついた「特別な存在」であることを示す、高度な政治戦略であった。
晴時の実名については、近年の研究で重要な指摘がなされている。当時の公家・山科言継によって記録された信頼性の高い一次史料『歴名土代』には、大永2年(1522年)10月9日付で、「従五位下大宝寺藤晴氏」が「左京大夫」に任官されたと明確に記されている 14 。
この記述に基づき、研究者の杉山一弥氏は、晴時の正しい諱は「晴時(はるとき)」ではなく「晴氏(はるうじ)」であり、「晴時」という名は後代に編纂された系図などによる誤伝ではないか、という説を提唱している 14 。本報告書においても、一般的に知られる「晴時」の呼称を用いつつ、その実名が「晴氏」であった可能性を重要な論点として認識する。このことは、彼が将軍・足利義晴から「晴」の字を賜ったという事実を、より確かなものとして裏付けている。
晴時の幕府への接近は、単なる名誉欲からではなく、不安定な家督継承の正当性を補強し、領内に渦巻く内紛や周辺大名からの圧力に対抗するための、極めて現実的な生存戦略であった。将軍の権威を借りることで、国内の反抗勢力には圧力をかけ、周辺大名には安易な介入を牽制する外交的効果を狙ったのである。彼の治世の最初期におけるこの一手は、その後の短い治世全体を貫く基本戦略の現れであり、彼の政治家としての資質を示す重要な一歩であったと評価できる。
西暦(和暦) |
大宝寺晴時・庄内の動向 |
越後の動向(長尾氏・上杉氏) |
南奥羽の動向(伊達氏・最上氏) |
中央の動向(幕府・畿内) |
1512(永正9) |
晴時、誕生。/砂越氏雄、大宝寺領に侵攻し敗北。 |
長尾為景、守護・上杉定実を擁立。 |
伊達稙宗、家督相続。 |
足利義澄、将軍職を追われる。 |
1522(大永2) |
晴時(晴氏)、将軍義晴より偏諱。従五位下・左京大夫に任官。 |
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伊達稙宗、陸奥守護職に補任。 |
足利義晴、将軍に就任。 |
1533(天文元) |
砂越氏維、大宝寺城を焼き討ち。晴時、尾浦城へ移る。 |
上条定憲、長尾為景に対し再挙兵(天文の乱の始まり)。 |
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細川晴元、三好元長を討つ。 |
1536(天文5) |
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長尾為景、上条定憲らの圧迫により隠居。長尾晴景が家督相続。 |
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1537(天文6) |
砂越氏との抗争、上条定憲の仲介で一旦終結。 |
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足利義晴、細川晴元と和睦し帰京。 |
1541(天文10) |
晴時、上洛後、帰国しまもなく早逝。土佐林禅棟、義増を擁立。 |
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1542(天文11) |
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伊達稙宗・晴宗父子が対立し「天文の乱」勃発。最上義守、稙宗方に与す。 |
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この年表が示すように、晴時の治世は、越後における長尾為景の権力確立期と、伊達氏における「天文の乱」という二大動乱の狭間に位置する。彼の行動は、これらの外部要因と密接に連動していたのであり、その生涯を理解するためには、地域全体の力学を視野に入れることが不可欠である。
大宝寺晴時の治世を最も揺るがしたのが、庶流である砂越氏との深刻な内紛であった。砂越氏は、大宝寺氏の一族でありながら出羽国飽海郡の郡代として独自の勢力を築いていた 5 。
宗家への挑戦は晴時の先代・澄氏の治世にまで遡る。永正10年(1513年)、砂越氏雄は田川郡に侵攻するも、澄氏に返り討ちにされ、父子ともに戦死。これにより砂越氏は一時的に断絶した 3 。しかし、永正15年(1518年)、大宝寺氏は一門から砂越氏維を「名代」として送り込み、砂越氏を再興させるという懐柔策をとる 13 。この策は裏目に出た。氏維は砂越の地を得ると、再び宗家からの独立を目指し、晴時の代に内紛を再燃させたのである 14 。この抗争には、かねてより大宝寺氏の支配に不満を抱いていた安保氏や来次氏といった在地国人衆も同調し、大宝寺氏の惣領制そのものが根底から揺らぐ事態へと発展した 14 。
天文元年(1532年)、事態は最悪の局面を迎える。砂越氏維の軍勢が大宝寺氏の居城である大宝寺城(現在の鶴岡城)を急襲し、城は炎上、焼失した 5 。これは単なる軍事的敗北に留まらず、大宝寺氏の権威を著しく失墜させる象徴的な出来事であった。
さらに、この時期には赤川の流路が変化し、大宝寺城は天然の要害としての機能を失い、度々洪水被害にも見舞われるようになっていた 13 。これらの複合的な要因から、晴時は本拠地を、より防御に優れ、日本海へのアクセスも良い尾浦城(現在の鶴岡市大山)へと移転せざるを得なくなった 4 。『庄内年代記』によれば、この戦乱は天文6年(1537年)まで6年間にも及び、大宝寺城下は焦土と化したと伝えられている 5 。
長期にわたる消耗戦の末、大宝寺氏と縁故のあった越後の上条定憲が両者の仲介に入り、ようやく停戦の合意が形成される 5 。しかし、この和睦は一時的なものに過ぎなかった。翌年には再び争いが再燃したと記録されており、両者の対立がいかに根深いものであったかを物語っている 13 。
この砂越氏との抗争は、単なる一族内の権力闘争と見るだけではその本質を見誤る。この争いの背後には、隣国・越後における大規模な政治動乱が深く関わっていた。仲介役として登場した上条定憲は、当時、越後の実権を掌握しつつあった守護代・長尾為景(上杉謙信の父)と激しく対立する反為景派の旗頭であった 28 。そして、その定憲の反乱には、出羽国の砂越氏が同盟者として加わっていたのである 28 。
この事実から浮かび上がるのは、「長尾為景 vs 上条定憲・砂越氏」という、越後と出羽をまたぐ広域的な対立の構図である。つまり、晴時が戦っていた砂越氏は、上条定憲という越後の有力者の支援を受けた存在であり、庄内における大宝寺氏と砂越氏の戦いは、実質的に越後の内乱の「代理戦争」という側面を色濃く帯びていた。定憲による「仲介」も、中立的な立場からの調停というよりは、同盟者である砂越氏に有利な状況を作り出すための政治的介入であった可能性が高い。晴時が直面していた困難は、単なる一族の反乱の鎮圧に留まらず、隣国の大規模な政治動乱の渦中に否応なく巻き込まれるという、より深刻なものであったのだ。
内紛によって軍事的に劣勢に立たされた晴時は、その状況を打開すべく、二つの「外部の力」を巧みに利用する戦略へと舵を切る。一つは中央の「権威」、もう一つは交易による「経済力」であった。
砂越氏との抗争が小康状態となった大永年間、晴時は室町幕府への働きかけを活発化させる。馬や鷹といった奥羽の特産品を積極的に貢納し、その功績によって従五位下・左京大夫という高い官位に任じられた 13 。
戦国時代において、官位は実質的な支配力とは別に、大名の「家格」を序列化する上で極めて重要な意味を持っていた。特に「左京大夫」は、本来、細川京兆家や一色氏といった幕府の重職を担う有力守護大名に限定される格式の高い官職であった 31 。しかし、幕府の権威が揺らぎ、朝廷が財政的に困窮する中で、献金の見返りとして地方の有力大名にも発給されるようになっていた 31 。それでもなお、左京大夫は箔付けのための人気の官位であり、これを拝領することは、周辺の最上氏や伊達氏、安東氏といったライバルに対し、自らが幕府公認の権威を持つ特別な存在であることを示す、極めて効果的な外交戦略であった 31 。
任官後、晴時はその権威を確固たるものにするため、実際に軍勢を率いて上洛し、将軍・足利義晴に謁見した 13 。戦国大名にとって上洛は、単なる将軍への挨拶に留まらない。中央政権との直接的な結びつきを再確認し、先進的な文化や情報を取り入れ、そして何よりも交易ルートの確保と拡大を図るための、重要な政治・経済活動であった 34 。
晴時の上洛が具体的にどのような政治的成果をもたらしたかについての詳細な記録は乏しい。しかし、将軍との直接対面という事実は、彼の「左京大夫」という官位に実質的な重みを与え、帰国後の領国支配において、反抗勢力に対する大きな権威的裏付けとなったことは想像に難くない。
晴時のこうした外交戦略を背後で支えていたのが、大宝寺氏の強固な経済基盤であった。その一つは、日本有数の穀倉地帯である庄内平野からもたらされる豊かな農業生産力である 37 。年貢として徴収される米は、兵を養うための兵糧であると同時に、交易品として莫大な富を生み出す源泉でもあった。
そしてもう一つの、より重要な基盤が、日本海交易の拠点であった酒田湊の支配である。中世の日本海航路は、瀬戸内海航路と並ぶ日本の大動脈であり、湊を支配することは、物流と情報を制し、ひいては経済力を手中に収めることを意味した 39 。酒田湊からは、庄内米のほか、特産品である紅花や青苧(あおそ、麻の原料)などが積み出され、畿内からは木綿や工芸品が、北からは蝦夷地の毛皮や海産物(鯨、アザラシ、昆布など)がもたらされた 37 。晴時が幕府への貢納や上洛の莫大な費用を捻出できたのは、この日本海交易によって得られた富があったからに他ならない。
晴時の治世における一連の行動は、一つの戦略的なサイクルとして理解できる。すなわち、「 交易で富を得る → その富で幕府に貢納し権威を得る → その権威を盾に国内の敵対勢力を牽制し、領国支配を安定させる → 安定した領国からさらに富を得る 」という好循環の創出である。軍事的な劣勢を政治的・経済的な優位で補おうとするこの戦略は、彼の政治家としての非凡さを示している。彼の上洛は、この戦略サイクルを完成させるための総仕上げであり、その直後の早逝は、大宝寺氏にとって計り知れない損失であった。
天文10年(1541年)、将軍への謁見という大役を果たし、意気揚々と庄内に帰国したはずの晴時は、まもなくこの世を去る 13 。享年30。まさにこれからという時の、あまりにも早い死であった。
その死因について、史料は「早逝」と記すのみで、具体的な病名などは伝わっていない。当時の衛生環境や医療水準、長旅による疲労などを考えれば、急な病に倒れた可能性が最も高い。一方で、大宝寺氏の歴史を鑑みると、暗殺の可能性も完全には否定できない。後の当主である義氏や義興は、いずれも家臣の謀反によって命を落としている 1 。晴時の権威確立の動きを快く思わない砂越氏や、その同調者による謀略があったとしても不思議ではない。しかし、これはあくまで状況証拠からの推測であり、晴時の死を暗殺とする直接的な史料は現存しない。
晴時には、跡を継ぐべき実子がいなかった 13 。当主の突然の死と後継者の不在は、砂越氏との内紛を抱える大宝寺家にとって、まさに存亡の危機であった。この未曾有の国難に際し、一人の重臣が立ち上がる。筆頭家老の土佐林禅棟である 11 。
土佐林氏は、かつて羽黒山の別当職を世襲し、大宝寺氏と庄内の覇権を争ったほどの有力豪族であった。しかし、文明9年(1477年)に大宝寺政氏との抗争に敗れ、その支配下に入っていた 11 。禅棟の時代には、大宝寺氏の「肱股の臣」として、その屋台骨を支える最も重要な家臣となっていたのである 12 。
禅棟は、大宝寺氏の断絶を防ぐべく奔走し、晴時の従兄弟にあたる一族の大宝寺義増(大宝寺九郎の子)を養子として迎え入れ、第16代当主として擁立することに成功した 13 。
こうして大宝寺家は辛うじて命脈を保ったが、義増は晴時ほどの統率力を持ち合わせていなかったとされ、彼の代になっても領内の内紛は絶えることがなかった 53 。晴時が心血を注いで築こうとした、中央の権威を背景とした領国の安定化という路線は、彼の死によって大きく後退する。晴時の死は、大宝寺氏が戦国大名としてさらなる飛躍を遂げる好機を永遠に失わせ、その後の長い衰退と、最終的な滅亡へと向かう、決定的な転換点となったのである。
大宝寺晴時の治世は、庄内という一地域に閉じたものではなく、周辺諸国の政治情勢と密接に連動していた。特に、南の越後と東の南奥羽における二つの大きな動乱は、晴時の政策決定に多大な影響を与えたと考えられる。
晴時が家督を継いだ時期は、隣国・越後において、守護代の長尾為景が実力で守護を凌駕し、戦国大名への道を突き進んでいた時代と完全に一致する。これに対し、守護・上杉定実や、その一門である上条定憲らは激しく抵抗し、「越後享禄・天文の乱」と呼ばれる長期の内乱が続いていた 17 。
この越後の動乱は、庄内にとって決して対岸の火事ではなかった。前述の通り、大宝寺氏と敵対する砂越氏は、反為景派の旗頭である上条定憲と軍事同盟を結んでいた 28 。このため、庄内の内紛は越後の政争の代理戦争という様相を呈していた。晴時は、この複雑な国際関係の中で、為景・定憲のどちらか一方に与するという危険な賭けを避け、より上位の権威である室町幕府に接近することで、両勢力からの直接的な圧力を回避し、自らの立場を保とうとした。彼の外交戦略は、この越後の動乱という外的要因を抜きにしては理解できない。
晴時の死の翌年、天文11年(1542年)には、南奥羽の覇者・伊達氏において、当主・稙宗とその嫡男・晴宗が家督をめぐって争う大規模な内乱「天文の乱」が勃発した 56 。この乱には、大宝寺氏の東隣に位置する最上氏をはじめ、南奥羽のほぼ全ての国人が稙宗派と晴宗派に分かれて参戦し、6年にもわたる泥沼の戦いが繰り広げられた 56 。
この大乱に、晴時の跡を継いだ大宝寺義増がどのように関与したかを示す直接的な史料は見当たらない。しかし、隣接する最上氏が稙宗方として深く関与していたことを考えれば、大宝寺氏が全くの蚊帳の外にいたとは考えにくい。地理的状況や、晴時以来の慎重な外交方針を鑑みれば、義増政権は特定の側に与することなく、慎重に中立を保ちながら乱の推移を固唾をのんで見守っていた可能性が高い。結果として、この大乱によって東方の伊達・最上両氏が庄内に介入する余力がなかったことが、家督相続直後で不安定だった義増政権にとって、幸運に作用した可能性は十分に考えられる。
北方に位置する安東氏は、土崎湊(現在の秋田港)を拠点とし、大宝寺氏と同様に日本海交易から大きな利益を得る、いわば競合相手であった 8 。晴時の時代には大きな衝突は記録されていないが、後の義氏の時代には由利郡の領有をめぐって激しく対立することになり、両者の間には常に潜在的な緊張関係が存在した 66 。
東の最上氏は、羽州探題という高い家格を誇り、常に庄内地方への進出を狙っていた 1 。大宝寺氏にとっては最大の脅威であり、晴時の治世においても、その動向は常に警戒の対象であったと推測される。
勢力 |
本拠地 |
当主(天文年間) |
対大宝寺氏関係 |
主要な関心事・動向 |
大宝寺氏 |
大宝寺→尾浦 |
大宝寺晴時 |
- |
砂越氏との内紛鎮圧、幕府との関係強化による権威確立。 |
砂越氏 |
砂越 |
砂越氏維 |
敵対 |
宗家からの独立。上条定憲と連携。 |
長尾氏 |
春日山 |
長尾為景→晴景 |
間接的対立 |
越後国内の統一。上条定憲派の打倒。 |
上条上杉氏 |
上条 |
上条定憲 |
間接的連携(砂越氏を通じて) |
長尾為景への対抗。守護権威の回復。 |
伊達氏 |
西山→米沢 |
伊達稙宗→晴宗 |
潜在的脅威 |
「天文の乱」による内紛。南奥羽の覇権。 |
最上氏 |
山形 |
最上義守 |
潜在的脅威 |
伊達氏内乱への介入。庄内への進出機会の窺視。 |
安東氏 |
檜山・湊 |
安東舜季 |
競合・潜在的脅威 |
日本海交易の利権。由利・仙北への勢力拡大。 |
小野寺氏 |
横手 |
小野寺稙道→景道 |
友好 |
家中の内紛。大宝寺氏との連携による勢力回復。 |
この表が示すように、晴時は極めて複雑な国際環境の中で領国の舵取りを迫られていた。彼の行動原理を理解するためには、砂越氏との内紛という国内問題が、いかに越後や南奥羽の情勢という国外要因と複雑に絡み合っていたかを認識することが不可欠である。この視点に立つとき、晴時は単に内紛に明け暮れた領主ではなく、広域的な政治力学の中で生き残りを図った、思慮深い戦略家として再評価されるべきであろう。
大宝寺晴時の治世は、わずか20年足らずと短く、その大半は内紛との戦いに費やされた。しかし、その短い生涯の中に、戦国時代中期を生きた地方領主の苦悩と戦略、そして限界が凝縮されている。
晴時が後世に与えた影響として第一に挙げられるのは、室町幕府との直接的な関係を構築し、左京大夫という高い官位を得たことである。これは一時的にせよ、大宝寺氏の家格を周辺の国人領主から一頭地を抜けた存在へと押し上げた。この中央とのパイプは、後の当主・義氏が織田信長と交渉し「屋形」の称号を得る際の、重要な布石となった可能性がある。また、砂越氏との抗争の末に本拠を伝統的な大宝寺城から、より軍事的・経済的に合理的な尾浦城へ移した決断は、守勢に立たされながらも、旧来の権威に固執せず、戦国大名としての実利を重視する姿勢への転換点と見ることができる。
彼の生涯は、中央の権威が失墜し、下剋上が横行する時代において、地方の伝統的領主が直面した典型的な困難を体現している。一族内の分裂という「内憂」と、周辺の有力大名からの圧力という「外患」という二重の脅威に常に晒されながら、彼は外交(幕府との連携)と経済(日本海交易)という二つの武器を駆使して、かろうじて領国の命脈を保とうと奮闘した。
しかし、その懸命な努力も、志半ばでの早逝という個人的な悲劇によって水泡に帰した。そして、後継者不在という形で家中に新たな混乱の種を残す結果となった。もし彼がもう少し長く生きていれば、彼が描いた国家戦略は結実し、大宝寺氏の、ひいては出羽国の歴史は大きく異なる様相を呈していたかもしれない。大宝寺晴時は、戦国という時代の荒波に翻弄されながらも、確かな戦略眼をもってそれに抗おうとした、悲運の武将として記憶されるべきである。