奥州探題大崎氏最後の当主、大崎義隆の生涯と時代
序章:大崎義隆とその時代背景
-
本報告書の目的と概要
本報告書は、戦国時代末期から織豊期にかけての奥羽地方にその名を刻んだ武将、大崎義隆の生涯を、現時点で入手可能な史料に基づき多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。義隆は、奥州探題という名門の血筋を引く大崎氏の最後の当主として、激動の時代を生き抜こうとした人物である。その生涯は、伊達政宗の台頭、家中の内紛、豊臣秀吉による天下統一といった大きな歴史のうねりの中で翻弄され、最終的には大名としての地位を失うに至った。本報告書では、義隆の出自からその最期に至るまでの具体的な事績を追いながら、彼が直面した困難、下した決断、そしてその結果が何を意味するのかを考察する。戦国末期の奥羽という、中央政権の動向と深く結びつきながらも独自の地域秩序が存在した舞台における、一地方領主の興亡を通して、時代の特質を浮き彫りにすることを目指す。
-
戦国時代末期の奥羽地方の情勢概観
大崎義隆が生きた16世紀後半の奥羽地方は、群雄割拠の様相を呈し、絶え間ない勢力争いが繰り広げられていた。北からは南部氏、中央部から西部にかけては伊達氏、最上氏、蘆名氏といった有力大名が覇を競い、互いに同盟と抗争を繰り返していた。室町幕府によって任命された奥州探題や羽州探題といった役職は、かつては地域の秩序維持に一定の役割を果たしていたが、この時代に至っては実権を伴わない名目上の権威へと形骸化し、実力主義が支配する世となっていた 1。
このような状況下で、伊達氏の当主となった伊達政宗は、父輝宗の死を契機に急速に勢力を拡大し、周辺の諸大名との間に激しい軍事衝突を引き起こした。政宗の積極的な軍事行動は、南奥羽の既存の外交秩序を大きく揺るがし、多くの勢力が伊達氏から離反する事態を招いた 2。
一方、中央では織田信長に続き豊臣秀吉が天下統一事業を推進し、その影響力は次第に奥羽地方へも及びつつあった。天正13年(1585年)に関白に就任した秀吉は、全国の大名に対し、私的な戦闘を禁じる惣無事令を発布。さらに天正18年(1590年)の小田原征伐を経て、奥羽地方の諸大名に対しても服属を求め、検地や刀狩りを断行する奥州仕置を実施した。これにより、奥羽の勢力図は大きく塗り替えられることとなる。
大崎義隆の生涯は、まさにこのような地方勢力の自立性が失われ、中央集権的な統一権力へと移行していく過渡期に位置づけられる。奥州探題という伝統的な権威を背景に持つ大崎氏もまた、伊達氏のような地域内の新興勢力の台頭と、豊臣政権という中央からの強大な圧力という、抗いがたい二つの力に直面することになるのであった。この時代の大きな変革の波の中で、旧来の権威や価値観にしがみつくことは、すなわち没落を意味した。大崎義隆の苦難に満ちた道程は、この時代の変化に適応することの難しさ、あるいは変化の奔流に飲み込まれていった地方領主の典型的な姿を映し出していると言えるだろう。
第一章:名門大崎氏の血脈と義隆の登場
-
斯波氏からの系譜と奥州探題大崎氏の権威
大崎氏は、本姓を源氏とし、清和源氏の流れを汲む足利一門である斯波氏の支族である 3。その祖は、南北朝時代に室町幕府初代将軍足利尊氏に仕え、奥州管領として陸奥国に下向した斯波家兼に遡る 3。家兼の子孫は代々奥州管領職を世襲し、勢力を扶植した。大崎氏を称するようになったのは、家兼から四代目の当主である大崎満持の頃からとされている 5。
室町時代を通じて、大崎氏は奥州支配の頂点に立つ家格とされ、その居館は「斯波御所」とも呼ばれ、周辺の諸大名からも一定の敬意を払われる存在であった 6。その支配領域は、現在の宮城県北部に広がる大崎五郡(あるいは黒川、賀美、玉造、栗原、遠田、志田の六郡とも 7)を中心とし、肥沃な「大崎耕土」を擁する経済的にも豊かな地域であった 8。最盛期には35万石の大豪族であったとも伝えられ、その所領は後に伊達藩の重要な穀倉地帯となった 8。このように、大崎氏は単なる地方豪族ではなく、室町幕府の地方統治体制において枢要な地位を占めた名門であった。
-
義隆の生誕と父・義直の時代
大崎義隆は、天文17年(1548年)に、大崎氏第十二代当主・大崎義直の子として生まれた 7。父・義直の時代は、隣接する伊達氏との関係が比較的安定していた時期であった。特に、伊達氏内部で発生した大規模な内乱である天文の乱(1542年~1548年)においては、義直は伊達晴宗(政宗の祖父)方に味方しており、これが両家の友好関係を維持する一助となっていたと考えられる 10。
しかし、義隆が成長するにつれて、大崎氏を取り巻く環境は徐々に厳しさを増していく。伊達氏では晴宗から輝宗へ、そして輝宗から政宗へと代替わりが進む中で、その勢力は飛躍的に拡大し、周辺地域への圧力を強めていた。また、同じく斯波氏の血を引く出羽国の最上氏も勢力を伸張させており、大崎氏にとっては潜在的な脅威となりつつあった。
-
家督相続の経緯と当時の大崎氏の状況
大崎義隆が家督を相続した正確な時期については史料が乏しく判然としないが、永禄10年(1567年)には、家臣に対して所領を宛行う文書を発給しており、この頃には当主としての活動を開始していたことが確認できる 10。
義隆が家督を継いだ時点で、かつて奥州探題として誇った大崎氏の権威と実力には、既に陰りが見え始めていた可能性が高い。天正年間(1573年~1592年)に入ると、大崎家は衰えを見せ始めたと記録されており 9、家中の統制も盤石とは言えなかった。
奥州探題という高い家格と、かつての広大な所領を背景に持つ大崎氏の当主という立場は、義隆にとって大きな誇りであったに違いない。しかし、その一方で、一族の求心力や軍事力は徐々に低下し、周辺の有力大名との実力差は広がりつつあった。この「名門意識」と「実力の低下」というギャップは、義隆のその後の判断や行動に少なからず影響を与えたと考えられる。例えば、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、義隆が参陣しなかった理由の一つとして、「名門であるがゆえ秀吉に使われるのがいやだったのでしょうか」という推測がなされている 11。これは、大崎氏の高いプライドが、時流を的確に読み、現実的な対応をとることを妨げた可能性を示唆している。結果として、伊達氏や豊臣政権といった強大な勢力との間で、大崎氏の存続にとって致命的とも言える判断ミスを犯すことになったのかもしれない。この名門としての自負と、現実の勢力衰退という厳しい状況との間で、義隆は常に苦悩を抱えていたのではないだろうか。
表1:大崎氏略系図(義隆に至るまで)
代
|
当主名
|
続柄・備考
|
1
|
斯波家兼
|
足利一門、奥州管領として下向
|
2
|
(斯波)直持
|
家兼の子
|
3
|
(斯波)詮持
|
直持の子
|
4
|
大崎満持
|
詮持の子、この頃より大崎氏を称する
5
|
5
|
大崎満詮
|
満持の子
|
6
|
大崎持兼(持詮)
|
満詮の子
|
7
|
大崎教兼
|
持兼の子
|
8
|
大崎政兼
|
教兼の子、大崎陸奥守
|
9
|
大崎義兼
|
政兼の子
|
10
|
大崎高兼
|
義兼の子
|
11
|
大崎義宣
|
高兼の子(伊達稙宗の次男が養子として入嗣)
5
|
12
|
大崎義直
|
義宣の子
|
13
|
大崎義隆
|
義直の子
5
|
*出典:[5] などを基に作成。十一代義宣が伊達氏からの養子である点は、大崎氏と伊達氏の間に古くから複雑な関係があったことを示している。*
第二章:大崎氏の衰退と内憂外患
-
天正年間における大崎氏の勢力と周辺大名との関係
天正年間(1573年~1592年)、大崎義隆が当主であった時代の大崎氏は、陸奥国において黒川、賀美、玉造、栗原、遠田、志田のいわゆる大崎六郡(五郡とも)を領有していた 7。しかし、その勢力はかつての奥州探題としての威光を失い、周辺大名の台頭によって相対的に弱体化しつつあった。
特に深刻な脅威となったのは、隣接する伊達氏であった。伝統的には大崎氏が格上とされてきたが、伊達政宗が家督を継承すると、その力関係は完全に逆転する。政宗は積極的な領土拡大策を推し進め、大崎領に対しても強い圧力をかけるようになった 2。
一方、同じく斯波氏の後裔であり、大崎氏とは同族にあたる出羽国の最上氏とは、複雑な関係にあった 7。義隆の妹である釈妙英が最上義光に嫁いでおり 10(最上義光の妹・義姫が伊達輝宗の正室となったこと 8 とは別の婚姻関係)、姻戚関係を通じて連携することもあった。事実、後の大崎合戦では最上義光が大崎義隆を支援している 2。しかし、両家は常に友好関係にあったわけではなく、時には緊張をはらむこともあったと考えられる。
所領を接する葛西氏とも、しばしば領土を巡って抗争を繰り返した 7。元亀2年(1571年)、当時24歳であった義隆は、葛西晴信との間で領地争いを起こし、葛西領への進軍を試みたが、結果的に敗北を喫している 12。これは、義隆の治世初期における軍事的な挫折を示す事例である。
その他、会津の蘆名盛氏とは親交があったと伝えられている 10。このように、大崎義隆は伊達、最上、葛西といった有力大名に囲まれ、常に複雑な外交関係と軍事的緊張の中で領国経営を行わなければならなかった。
-
家中における寵臣を巡る対立と内紛の火種
外部からの圧力に加え、大崎氏の内部でも深刻な問題が進行していた。義隆の治世において、当主の寵愛をめぐる家臣間の対立が顕在化し、これが大規模な内紛へと発展する火種となった。
具体的には、義隆の寵臣であった新井田刑部と伊場野惣八郎という二人の家臣が、当主の寵を競って激しく対立した 9。この個人的な確執は、やがて家中を二分する派閥争いへとエスカレートし、天正15年(1587年)末頃から「大崎合戦」と呼ばれる内乱状態を引き起こすに至る 7。
ある史料によれば、この内紛の過程で、新井田刑部が当主である大崎義隆を半ば抑留する形で自派に取り込み、義隆は最上義光に救援を求める事態となったとされる 13。これにより、伊場野惣八郎ら反新井田派は苦境に立たされた。
このような家中の混乱は、大崎氏の統治機構がいかに脆弱であったかを物語っている。当主の個人的な寵愛が家中の勢力バランスを容易に崩し、深刻な内紛を引き起こす土壌が存在したことは明らかである。大崎氏には、執事職を務める氏家氏のような有力な重臣も存在していたが 13、こうした内紛を未然に防ぐ、あるいは早期に収拾することができなかった。それどころか、大崎氏の執事であり、玉造郡岩出山城主であった氏家吉継は、この内紛に乗じる形で、あるいは以前からの不満が爆発したのか、敵対する新井田隆景(刑部と同一人物か、あるいはその一派か)に対抗するため、伊達政宗に内通し、外部勢力の介入を招くという致命的な行動をとる 7。
この寵臣政治の横行と、それに伴う権力構造の機能不全は、大崎氏の弱体化を内部から加速させる要因となった。当主のリーダーシップの欠如、あるいは家臣団の不統一が露呈した結果、外部からの干渉を容易に許す状況を作り出してしまったのである。この内部の亀裂こそが、伊達政宗による本格的な介入、すなわち大崎合戦の直接的な引き金となったと言えるだろう。
第三章:大崎合戦の烽火:伊達政宗の介入と大崎氏の抵抗
-
内紛への伊達政宗の介入
天正15年(1587年)末頃より顕在化した大崎氏内部の対立は、伊達政宗にとって領土拡大の好機と映った。大崎氏の重臣であり、岩手沢城主(または玉造郡岩出山領主)であった氏家吉継が、対立する新井田氏らに対抗するため、伊達政宗に援軍の派遣を要請したのである 2。政宗はこの要請に応じ、天正16年(1588年)1月、大崎氏内紛の鎮圧を名目として、浜田景隆を陣代とし、留守政景、泉田重光、小山田頼定らに出兵を命じた 2。
仙台藩が後に編纂した『貞山公治家記録』によれば、内紛の経緯は異なって伝えられている。それによると、新井田刑部らが同じく家臣の氏家吉継を討ち、さらに主君である大崎義隆に切腹を強要しようと企てたため、義隆側(あるいは新井田刑部ら)が伊達政宗に加勢を求めたとされる 10。しかし、この記録は伊達側の視点から記述されたものであり、他の史料との比較検討が必要である。例えば、遠藤ゆり子氏の研究では、新井田刑部が大崎義隆を抑留して自派の味方につけ、義隆が最上義光を頼ったとされており 13、氏家吉継はむしろ反新井田派として伊達政宗と結んだ可能性が示唆される。また、氏家吉継が新井田隆景と対立し、政宗と内通したという記録もある 14。これらの情報を総合すると、大崎氏の内紛は単純な構図ではなく、複数の勢力が複雑に絡み合っていたと考えられる。いずれにせよ、伊達政宗がこの内紛を大崎領侵攻の絶好の口実としたことは間違いない。一部の研究者からは、これらの入り組んだ内紛の事情は伊達氏による後付けの正当化であり、実際は単純に伊達政宗が氏家吉継を寝返らせて大崎領を併呑しようとしたのだという説や、本質的には大崎氏当主と執事氏家氏との間の下克上を巡る対立であったとする説も提示されている 10。
-
中新田城の戦いをはじめとする主要な戦闘の経過と戦術
伊達政宗は約1万(一説には5千)の兵力を大崎領内に送り込んだ 2。これに対し、大崎義隆は中新田城(現在の宮城県加美郡加美町)を防衛拠点と定め、城代に南条隆信を配して籠城戦の構えをとった 2。
天正16年(1588年)2月2日、泉田重光が率いる伊達軍の先陣が中新田城に攻め寄せた。しかし、城の周囲は低湿地帯であり、折からの大雪もあって伊達軍は思うように進軍できず、身動きが取れなくなったところを城から打って出た大崎軍の反撃に遭い、撃破されて撤退を余儀なくされた 2。この緒戦における大崎方の勝利は、籠城側の士気を大いに高めたと考えられる。
さらに、伊達方として参陣していた留守政景の岳父であり、鶴楯城主であった黒川晴氏が、この戦闘の最中に突如として伊達方から大崎方へと寝返り、中新田城を攻める伊達軍の後方から襲いかかった 3。これにより、伊達勢は前後から挟撃される形となり潰走、新沼城(現在の宮城県遠田郡美里町)へと敗走した 2。
勢いに乗る大崎軍は新沼城を包囲。城内に閉じ込められた留守政景らは窮地に陥ったが、2月23日、寝返った黒川晴氏の斡旋により和議が結ばれた。和議の条件は、伊達方の泉田重光と長江勝景を人質として大崎方に引き渡す代わりに城の包囲を解くというものであった。これを受け、政景は2月29日に新沼城を開城し、敗残兵を収容しながら撤退した 2。
-
最上義光による援軍、黒川晴氏の動向とその影響
大崎氏の危機に際し、援軍として駆けつけたのが出羽国の最上義光であった。最上氏は大崎氏と同族であり、義光の正室は大崎氏の出身(あるいは義隆の妹が義光に嫁いでいた 7)という姻戚関係にもあった。最上義光は、伊達政宗によるあからさまな武力介入を座視できず、約5千の兵を率いて大崎軍に加勢した 2。最上軍は伊達領の黒川郡や志田郡に侵攻し、各地を攻略して伊達軍を後方から牽制した 2。
黒川晴氏の離反と大崎方への加勢も、伊達軍にとっては大きな打撃となった。黒川氏は大崎氏傘下の有力国人であり、その動向は戦局に少なからぬ影響を与えた 3。これにより、伊達政宗は北方の戦線だけでなく、自領内部に近い地域でも対応を迫られることになった。
伊達領の南方でも、2月12日には蘆名義広が大内定綱を派遣して苗代田城を攻略するなど、政宗は四方からの圧力にさらされる状況であった 2。
-
和議の成立(政宗の母・義姫の仲介)とその条件
戦局が膠着し、伊達方にとっても苦しい状況が続く中、天正16年(1588年)5月、事態打開のために動いたのが、伊達政宗の母であり、最上義光の妹でもある義姫(保春院)であった。義姫は自ら輿に乗って戦場に赴き、兄である義光と息子である政宗との間の和睦を仲介したのである 2。最上義光もまた、妹である義姫に対し、政宗を説得して和睦を実現するよう依頼する書状を送っていた 2。
同年7月、ついに和議が成立した。その条件の一つとして、大崎氏に人質として提出されていた泉田重光を、今度は最上氏の本拠である山形城に連行し、引き続き人質とすることが盛り込まれた(ただし、実際には重光は山形に送られた後、ほどなくして政宗のもとへ返還されたという)2。
和議成立後も、大崎氏の内紛の根本原因であった氏家吉継(伊達方についた)と黒川晴氏(大崎方に寝返った)の赦免問題を巡って交渉は継続された。義姫自らが山形城で兄・義光と協議を重ねるなど、大崎氏内部の調停にも尽力し、同年9月になってようやく当事者間の和解が成立した 2。
この大崎合戦は、単に大崎氏の内紛というだけでなく、伊達政宗の領土拡大の野心、それを阻止しようとする最上義光の思惑、そして周辺の国人領主たちの離合集散が複雑に絡み合った多層的な紛争であった。伊達政宗は、緒戦での軍事的な失敗や黒川晴氏の離反といった不利な状況に直面しながらも、最終的には母・義姫の仲介という政治的手段も巧みに活用して和議に持ち込んだ。この和議は、直ちに大崎氏の伊達氏への完全従属を意味するものではなかったが、政宗にとっては大崎氏への影響力を保持し、将来的な併合への布石を打つという意味で、決して敗北ではなかった。むしろ、軍事的な困難を外交交渉でカバーし、結果的に自らの戦略目標へと近づいた政宗の戦略的柔軟性と老獪さを示す一例と言えるだろう。一方で、最上義光の迅速な援軍派遣は、伊達氏の独走を許さないという奥羽地方におけるパワーバランスの一端を垣間見せるものであった。
表2:大崎合戦における主要関係勢力図(天正16年/1588年頃)
勢力区分
|
主な人物・勢力
|
対伊達政宗
|
備考
|
大崎方
|
大崎義隆(当主)
|
敵対
|
内紛を抱えつつ伊達軍と交戦
2
|
|
南条隆信(中新田城代)
|
敵対
|
中新田城で伊達軍を撃退
2
|
|
新井田刑部(義隆寵臣)
|
敵対(伊達側記録では伊達に加勢要請とも
10
)
|
内紛の中心人物の一人
9
|
|
最上義光(出羽国大名)
|
敵対(援軍派遣)
|
大崎氏と同族、義隆の妹婿(または義光正室が大崎氏)
2
。伊達氏の勢力拡大を警戒。
|
|
黒川晴氏(鶴楯城主)
|
当初伊達方→大崎方へ寝返り
|
留守政景の岳父。伊達軍後方を襲撃し打撃を与える
3
。
|
伊達方
|
伊達政宗(当主)
|
―
|
大崎氏内紛に介入し出兵
2
|
|
氏家吉継(大崎氏重臣、岩手沢城主)
|
伊達に内通・協力
|
新井田氏らと対立し政宗に援軍要請
7
。
|
|
留守政景(伊達一門)
|
従属
|
伊達軍の主要武将として参戦、新沼城で苦戦
2
|
|
泉田重光(伊達家臣)
|
従属
|
伊達軍先陣として中新田城攻撃、敗北後人質となる
2
|
仲介者
|
義姫(保春院)
|
中立(政宗の母、義光の妹)
|
戦場に赴き和睦を仲介
2
|
その他周辺勢力
|
蘆名義広(会津大名)
|
間接的に敵対(伊達領南方へ侵攻)
|
伊達氏の背後を脅かす
2
|
|
葛西晴信(陸奥国大名)
|
不明瞭(ただし大崎氏とは元々対立関係
7
)
|
この合戦における具体的な動きは史料上明らかでないが、江刺氏に参陣を求めた書状が存在する
15
。
|
*出典:[2, 3, 7, 10, 13, 15] などを基に作成。この図は、大崎合戦が単なる二者間の戦いではなく、多くの勢力の利害が複雑に絡み合っていたことを示している。*
第四章:伊達政宗への屈服と小田原不参
-
大崎合戦後の伊達氏との力関係の変化と従属への道
大崎合戦は、伊達政宗の母・義姫の仲介によって一応の和議が成立し、大崎義隆は一時的に伊達軍を退けることに成功した。しかし、この戦いを通じて大崎氏の内部的な脆弱性と軍事的な劣勢は明らかとなり、伊達氏との力関係が決定的に伊達優位へと傾いたことは否めなかった 7。
和議からわずか1年後の天正17年(1589年)4月、大崎義隆は伊達政宗との間で新たな講和を結ぶことを余儀なくされる。この講和において、大崎氏は長年の同盟関係にあった最上氏との縁を断ち、自領である大崎領を伊達政宗の「馬打ち同然」、すなわち軍事的な指揮下に置くことを認めさせられた 7。これは、大崎氏が独立した大名としての地位を事実上放棄し、伊達氏の保護国、あるいは属国のような立場に転落したことを意味するものであった。
同年、伊達政宗は摺上原の戦いで会津の蘆名氏を滅ぼし、南奥羽における覇権をさらに強固なものとした。この伊達氏の急激な勢力拡大も、大崎義隆が伊達氏への従属を深める要因となったと考えられている 2。もはや大崎氏単独の力では、強大化する伊達氏の圧力に抗することは不可能であった。
-
豊臣秀吉による小田原征伐と義隆の遅参、その理由と結果
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東の雄・北条氏直を討伐するため、全国の諸大名に小田原への参陣を命じた(小田原征伐)。この時、大崎義隆は秀吉の命令に応じず、小田原に参陣しなかった 7。
義隆が小田原に参陣しなかった理由については、いくつかの解釈が可能である。一つは、既に伊達政宗の強い影響下に置かれていたため、独自の判断で軍事行動を起こすことができず、政宗の動向に左右された結果、参陣の機会を逸したという見方である 16。政宗自身も小田原への参陣が遅れ、秀吉の不興を買っている。もう一つは、奥州探題という名門意識の高さから、新興の天下人である秀吉に臣従することを潔しとせず、あえて命令を無視したという推測である 11。あるいは、中央の情勢に対する認識が甘く、事態の深刻さを理解していなかった可能性も否定できない。
いずれの理由であったにせよ、大崎義隆の小田原不参は、豊臣秀吉の逆鱗に触れる結果となった。秀吉は、惣無事令違反と参陣命令無視を理由に、大崎義隆の所領をすべて没収し、改易処分とした 3。これにより、斯波氏の時代から数百年にわたり奥羽に君臨した名門・大崎氏は、大名としての歴史に終止符を打つことになったのである。
この大崎義隆の小田原不参とそれに続く改易は、戦国末期における地方領主の生き残りの厳しさを象徴する出来事であった。伊達氏への従属によって外交・軍事の自由を奪われていたという状況は、義隆にとって弁解の余地があったかもしれない。しかし、豊臣秀吉という新たな中央集権的権力者の絶対的な力を前にしては、そのような地方の複雑な事情はほとんど考慮されなかった。秀吉の天下統一事業においては、中央政権の意向に迅速かつ的確に従うことが、大名の存続にとって不可欠な条件となっていた。義隆がその現実を十分に認識できなかったのか、あるいは認識していても有効な手を打てなかったのかは定かではないが、結果として彼は時代の大きな転換点において、旧勢力として淘汰される運命を辿ったのである。この一件は、もはや個々の武力や家格だけでは生き残れず、中央政権との関係構築がいかに重要であったかを如実に示している。
第五章:葛西大崎一揆と義隆の再興への道
-
旧領回復を目指す動きと葛西大崎一揆への関与
小田原征伐において豊臣秀吉に所領を没収され改易となった大崎義隆であったが、名門再興への望みを完全に捨てたわけではなかった。旧大崎領を含む葛西・大崎三十万石の故地には、新たに木村吉清・清久父子が領主として入部した 11。しかし、木村氏による検地の強行や性急な統治は、旧葛西・大崎両氏の家臣団や在地領民の間に強い不満と反発を引き起こした 16。
こうした状況を背景に、天正18年(1590年)の冬、ついに旧葛西・大崎両氏の遺臣らを中心とする大規模な一揆(葛西大崎一揆)が勃発する 16。この一揆には、失領した大崎義隆自身も指導者の一人として関与していたと見られている 16。名門大崎氏の再興を願う旧家臣たちが、義隆を旗頭として蜂起したものであった 3。
-
石田三成を通じた豊臣秀吉への働きかけと朱印状獲得
一揆が起こる少し前、大崎義隆は旧領回復を目指して外交的な活動も行っていた。改易後、義隆は京に上り、豊臣政権内で大きな影響力を持っていた石田三成を介して、豊臣秀吉に所領の回復を願い出たのである 3。
この働きかけは一定の成果を収め、同年12月18日、義隆は秀吉から「本知行を検地の上、三分の一を宛行う」という内容の朱印状を得ることに成功していた 3。これは、大崎氏にとって再興への大きな足がかりとなる可能性を秘めたものであり、義隆の外交努力が実を結んだ瞬間であった。
-
一揆の展開と鎮圧、大崎氏再興の夢潰える
しかし、この朱印状による再興の道は、皮肉にも時を同じくして発生した葛西大崎一揆によって閉ざされることとなる。一揆は旧葛西・大崎領全域へと急速に拡大し、新領主の木村吉清・清久父子は居城の佐沼城で一揆勢に包囲されるなど、深刻な事態に陥った 16。
事態を重く見た豊臣秀吉は、蒲生氏郷を総大将とし、伊達政宗ら奥羽の諸大名に一揆の鎮圧を命じた 16。鎮圧軍の攻撃は熾烈を極め、特に佐沼城の攻防戦では「佐沼城のなで斬り」として知られる徹底的な掃討が行われ、城中の者数千人が殺害されたと記録されている 19。
この一揆鎮圧の過程で、伊達政宗が一揆を裏で扇動していたのではないかという疑惑が浮上した。政宗が一揆を利用して木村氏を失脚させ、旧葛西・大崎領における自らの影響力を拡大しようとしたというものである 20。この疑惑に対し、政宗は後に秀吉の前で弁明を強いられることになる。
結果として、葛西大崎一揆は豊臣軍によって完全に鎮圧され、大崎義隆が手にした朱印状も反故にされたのか、あるいは一揆への関与が問題視されたのか、大崎氏の家名再興の夢はここに潰えることとなった 3。
大崎義隆が一度は秀吉から所領の一部回復を認める朱印状を得ながらも、その機会を失った背景には、豊臣政権の地方統治における硬軟両様の戦略が見て取れる。一方で旧勢力への配慮や懐柔策を示しつつ(朱印状の発給)、他方では抵抗勢力に対しては徹底的な武力行使も辞さない(一揆の過酷な鎮圧 18)という二面性である。義隆の再興の試みは、まさにこの中央政権による支配確立のプロセスと、伊達政宗のような地方の有力大名の野心的な動きという、二つの大きな力の狭間で翻弄されたと言えるだろう。政宗が一揆の背後で暗躍したという疑惑が事実であれば、それは中央政権の支配が確立する過渡期において、地方の有力者がいかに巧妙に立ち回り、自らの勢力拡大の機会をうかがっていたかを示すものであり、義隆はその複雑な政治力学の中で最終的に切り捨てられた形となった。
第六章:流転の後半生:蒲生氏郷、そして上杉景勝へ
-
蒲生氏郷への仕官と文禄の役(晋州城の戦い)への参加
葛西大崎一揆が鎮圧され、大崎氏再興の望みが絶たれた後、大崎義隆は新たな道を模索することになる。史料によれば、義隆は蒲生氏郷に仕えたとされている 7。蒲生氏郷は、葛西大崎一揆の鎮圧において総大将を務めた武将であり、その後、会津に92万石(後に減封)という広大な領地を与えられていた 16。義隆がかつての敵将であった氏郷に仕えた経緯は必ずしも明らかではないが、氏郷が旧大崎領の事情に詳しい義隆の知見を評価したか、あるいは没落した名門の当主を客将として遇することで自らの威勢を示そうとした可能性などが考えられる。
蒲生氏郷に仕えていた時期、大崎義隆は文禄元年(1592年)から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)にも従軍し、文禄2年(1593年)の第二次晋州城の戦いに参加したという記録が残っている 7。これは、改易されたとはいえ、義隆が武将としての能力や経験を依然として有していたことを示唆している。
-
上杉景勝への臣従と慶長5年(1600年)の知行(2千7百石)
蒲生氏郷は慶長元年(1595年)に若くして死去する。氏郷の死後、あるいはその後の蒲生家の混乱(家督を継いだ秀行の宇都宮への減転封など)を経て、大崎義隆は越後の大名であった上杉景勝に仕えることになった 7。上杉景勝は慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により会津120万石へ移封されており、義隆は再び会津の地で活動することになった。
上杉家において、義隆は一定の待遇を受けていたようである。慶長5年(1600年)には、上杉景勝から2千7百石の知行を与えられていたという記録が残っている 7。これは、単なる食客ではなく、相応の禄を与えられた家臣としての扱いであり、義隆の旧奥州探題としての家格や、これまでの経験が評価された結果かもしれない。
同年、関ヶ原の戦いが勃発し、上杉景勝は西軍の主要な一角を占めた。この時期、上杉家の執政であった直江兼続が「大崎殿」を米沢(上杉領の重要拠点)に呼び寄せるよう指示した書状が残っており、この「大崎殿」は大崎義隆を指す可能性が高いと考えられている 10。これは、関ヶ原の戦いという国家的な大動乱の中で、義隆が上杉家中で何らかの役割を期待されていたことを示唆している。
-
会津における最期(慶長8年/1603年)と墓所に関する伝承
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した後、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減転封された(慶長6年/1601年)。大崎義隆の最期については、この上杉氏の動向と関連してやや複雑な情報が残っている。
一般的には、大崎義隆は慶長8年(1603年)、会津において56歳で没したとされている 7。法名は融峯広祝と伝えられる 10。しかし、この慶長8年当時、会津の領主は関ヶ原の戦いの論功行賞により、蒲生氏郷の子である蒲生秀行が再び返り咲いていた 10。上杉氏は既に米沢へ移った後である。この点について、義隆が上杉氏の米沢移封に同行せず、何らかの理由で会津に留まり、旧主であった蒲生氏に再度仕えたのか、あるいは単に会津の地で客死したのか、詳細は不明である。
一方で、天正16年(1588年)3月に自刃したという異説も存在するが 7、これは大崎合戦の時期にあたり、他の多くの史料と矛盾するため、信憑性は低いか、あるいは同名の別人の記録である可能性も考慮する必要がある。
大崎義隆の正式な墓所は不明であるが、江戸時代以降に彼を追善供養するために建てられたと伝えられる墓や碑が、かつての本拠地であった宮城県大崎市内に複数存在している 10。大崎義隆が居城とした名生城(なあじょう)も、現在は城跡としてその面影を留めている 11。
大名としての地位を失った後の大崎義隆が、蒲生氏郷、そして上杉景勝という有力大名に仕えたことは、戦国末期から江戸時代初期にかけての多くの没落大名に見られる一般的な生き残り戦略の一つであった。彼が仕えた蒲生氏も上杉氏も、伊達政宗とは対立または緊張関係にあった時期があり、義隆の旧領や伊達氏に関する知見、人脈が、新たな主君にとって何らかの利用価値を持つと判断された可能性は十分に考えられる。2千7百石という具体的な知行高は、彼が単なる飾りではなく、一定の役割と評価を与えられていたことを示唆している。最期の地に関する情報の錯綜は、彼の晩年の流転ぶりを象徴しているかのようであり、戦国乱世に翻弄された一人の武将の人生の終着点として、哀愁を漂わせている。
表3:大崎義隆関連略年表
西暦
|
和暦
|
主な出来事
|
典拠例
|
1548年
|
天文17年
|
大崎義隆、誕生(父は大崎義直)
|
7
|
1567年頃
|
永禄10年頃
|
この頃、家督を相続し当主として活動を開始
|
10
|
1571年
|
元亀2年
|
葛西晴信と領地を巡り争い敗北
|
12
|
1587年末
|
天正15年末
|
家中で新井田刑部と伊場野惣八郎が対立、内紛(大崎合戦)が表面化
|
7
|
1588年
|
天正16年
|
大崎合戦。伊達政宗が介入し出兵。中新田城の戦いで大崎・最上連合軍が伊達軍を一時撃退。義姫の仲介で和睦。
|
2
|
1589年
|
天正17年
|
伊達政宗に事実上従属。「馬打ち同然」となる。
|
7
|
1590年
|
天正18年
|
豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易される。
|
3
|
|
|
同年冬、葛西大崎一揆勃発。義隆も関与か。石田三成経由で秀吉から所領三分の一回復の朱印状を得る。
|
3
|
1591年
|
天正19年
|
葛西大崎一揆鎮圧。大崎氏再興ならず。
|
3
|
1592年~
|
文禄年間
|
蒲生氏郷に仕える。文禄の役に従軍し、晋州城の戦いに参加。
|
7
|
1598年頃
|
慶長3年頃
|
上杉景勝に仕える(景勝の会津移封後か)。
|
7
|
1600年
|
慶長5年
|
上杉景勝より2千7百石を与えられる。関ヶ原の戦い時、直江兼続が米沢へ招集を指示。
|
7
|
1603年
|
慶長8年
|
会津にて死去(享年56)。法名:融峯広祝。
|
9
|
*出典:各典拠を基に作成。*
終章:大崎義隆の歴史的評価と大崎氏の遺産
-
戦国末期の地域権力当主としての義隆の力量と限界
大崎義隆は、奥州探題という名門の血を引く当主として、激動の戦国末期を生き抜こうとしたが、その評価は多岐にわたる。彼は、かつての栄光とプライドを胸に抱きつつも、現実には衰退しつつある自家の勢力という厳しい状況に直面していた。この理想と現実のギャップが、彼の判断を時に誤らせ、あるいは苦悩を深めた要因となった可能性は否定できない。
家中の統制においては、寵臣を巡る争いを抑えきれず、結果として深刻な内紛を招き、伊達政宗のような外部勢力の介入を許してしまった点は、指導者としての力量に疑問を投げかける。若き日の葛西氏との戦いにおける敗北 12 も、彼の軍事的能力や戦略眼が必ずしも傑出していたわけではなかったことを示唆している。
しかし、一方で、大崎合戦においては、最上氏の援軍を得たとはいえ、一時的に伊達軍の侵攻を頓挫させるなど、一定の軍事的抵抗力と外交的手腕を示したことも事実である 2。改易後も、石田三成を通じて中央政権に働きかけ、一度は所領回復の朱印状を得るなど 3、局面打開に向けた粘り強い努力も見られる。これらの行動は、彼が単に無力な当主ではなく、困難な状況下でもがき、活路を見出そうとした人物であったことを物語っている。
それでもなお、伊達政宗という稀代の戦略家の台頭や、豊臣秀吉による強力な中央集権化という、時代の大きなうねりには抗しきれなかった。彼の悲劇は、個人の力量の限界というよりも、変化する時代の中で旧来の権威や秩序が急速に意味を失っていく過程に飲み込まれた結果と言えるかもしれない。
-
大崎氏滅亡の要因分析と歴史的意義
大崎氏が最終的に大名として滅亡した要因は、複合的である。内部要因としては、まず家中の不統一と当主の求心力の低下が挙げられる。寵臣間の対立に端を発する内紛は、大崎氏の国力を著しく消耗させ、外部からの干渉を容易にした。
外部要因としては、何よりも隣接する伊達政宗の急激な勢力拡大とその執拗な圧力が挙げられる。また、同族でありながらも複雑な関係にあった最上氏との連携が常に安定していたわけではなかった点も、大崎氏の立場を不安定にさせた。そして決定打となったのは、豊臣政権による中央集権化の波、すなわち奥州仕置であった。小田原不参という判断ミス(あるいは不可避の状況)は、秀吉による改易という厳しい結果を招き、大崎氏の命運を尽きさせた。
伊達晴宗が父・稙宗に代わって奥州探題に任じられた時点で、既に「大崎氏を頂点とする奥州のこれまでの室町幕府の時代的な秩序は崩壊」し始めていたという指摘もあり 1、大崎氏の権威失墜は義隆の代以前からの構造的な問題であったとも言える。
大崎氏の滅亡は、単に一つの大名家が歴史の舞台から姿を消したというだけでなく、奥羽地方における旧体制、すなわち室町幕府的な権威や秩序が終焉を迎え、豊臣政権、そしてその後の伊達藩を中心とする新たな支配秩序へと移行していく画期を象徴する出来事の一つとして歴史的に位置づけられる。
-
現代に残る大崎氏関連の史跡(名生城跡など)と「大崎市」の名称
大崎義隆とその一族が歴史の表舞台から去った後も、彼らが残した足跡は現代にまで伝えられている。義隆の居城であり、大崎氏代々の本拠地であった名生城(なあじょう)は、現在、宮城県大崎市古川に名生城跡として残り、往時を偲ばせている 11。
特筆すべきは、現在の宮城県北西部に広がる「大崎市」の名称が、かつてこの地を250年以上にわたって支配した豪族・大崎氏に由来している点である 8。大崎氏が滅亡してから約400年の歳月を経て、その名が広域自治体の名称として蘇ったことは、地域史における大崎氏の存在の大きさを物語っている。
また、大崎氏が支配した肥沃な土地は「大崎耕土」として知られ、後に伊達藩の重要な経済的基盤となった。この大崎耕土は、その豊かな農業景観と伝統的な水管理システムが評価され、平成29年(2017年)には国連食糧農業機関(FAO)によって世界農業遺産に認定された 8。
大崎義隆個人の評価は、最終的に大名としての地位を失った「敗者」としての側面が強いかもしれない。しかし、名門の最後の当主としての悲劇性、時代の激しい変化に翻弄されながらも生き抜こうとした苦悩、そして改易後も武士としての矜持を失わずに新たな主君に仕え続けた姿など、その生涯は多面的に捉えられるべきである。彼個人の功績とは別に、「大崎」という名が現代の市名として、また世界的に評価される農業遺産の名称として残っていることは、かつてこの地を治めた大崎氏という存在が、地域社会の歴史と記憶の中に深く刻まれ、継承されていることを示す興味深い事例と言えるだろう。それは、歴史の敗者が必ずしも忘却されるのではなく、異なる形でその「記憶」が生き続ける可能性を示唆している。
引用文献
-
斯波氏時代の歴史と遺産
http://gorounuma.jp/app/002gaiyoshibashi.pdf
-
大崎合戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%90%88%E6%88%A6
-
大崎氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E6%B0%8F
-
奥州探題大崎氏 | 大崎シンポジウム実行委員会, 小林 清治 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E9%A1%8C%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E6%B0%8F-%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A/dp/4906641636
-
郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・大崎一族編) - FC2
https://tm10074078.web.fc2.com/historyoosaki100.html
-
小助官兵衛の戦国史攻略
http://koskan.nobody.jp/sengokukouryaku.html
-
大崎義隆 - BIGLOBE
https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OosakiYoshitaka.html
-
大崎市(大崎氏)の由来 - 詩吟の宮城岳風会
http://www.m-gakufu.jp/posts/post8.html
-
大崎義隆(おおさき・よしたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E9%9A%86-1060180
-
大崎義隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E9%9A%86
-
古川市 名生城址&小野小町のお墓
http://www.senpoku.com/kankou/hurukawa3.htm
-
大崎・葛西一揆の奥州千葉氏
https://chibasi.net/oshu6.htm
-
執事の機能からみた戦国期地域権力
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/1513/files/AN0009972X_62-01_04.pdf
-
氏家吉継とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E5%90%89%E7%B6%99
-
解説之書
https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf
-
葛西大崎一揆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
-
大崎葛西一揆(おおさきかさいいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E8%91%9B%E8%A5%BF%E4%B8%80%E6%8F%86-1512324
-
無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp
https://serai.jp/tour/1019742
-
葛西・大崎一揆 - BIGLOBE
https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/KasaiOosakiIkki.html
-
大條実頼(着座大條家第一世)【中】 - note
https://note.com/oeda_date/n/n1b9ae068f593
-
伊達政宗の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/29927/
-
大崎義隆の新着記事|アメーバブログ(アメブロ)
https://blogtag.ameba.jp/news/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E9%9A%86