最終更新日 2025-06-13

大村純忠

「大村純忠」の画像

肥前の一戦国領主、大村純忠の生涯と時代

序章:大村純忠とは

本報告書は、戦国時代に肥前国(現在の長崎県の一部)を治めた大村純忠(おおむらすみただ)という人物の多岐にわたる側面、すなわち日本初のキリシタン大名、南蛮貿易を推進した貿易港経営者、そして激動の時代を生き抜いた戦国武将としての実像を明らかにし、その生涯と歴史的意義を深く考察することを目的とする。

大村純忠が生きた時代は、日本各地で群雄が割拠し、下剋上が常態化した戦国時代の真っ只中であった。特に彼が活動した肥前国は、龍造寺氏、有馬氏、松浦氏といった有力な戦国大名や国人領主が勢力を争う複雑な政治情勢下にあり、弱小領主であった大村氏がその中で存続していくことは極めて困難であった。このような状況に加え、16世紀半ばにはキリスト教が日本に伝来し、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易が開始されるという、日本史における大きな転換期と重なる。純忠は、この新たな宗教と経済の波にいち早く対応し、日本初のキリシタン大名として洗礼を受け、長崎を開港して南蛮貿易の拠点とした 1 。これらの決断は、当時の日本において前例のないものであり、その後の日本の歴史、特にキリスト教の受容と対外関係のあり方に大きな影響を与えた。

純忠の生涯を俯瞰するとき、そこには弱小領主が激動の時代を生き抜くための、絶え間ない苦悩と必死の選択の連続が見て取れる。彼の行動は、個人的な信仰心のみならず、領国の経済的繁栄への期待、そして何よりも周辺の強大な勢力から領土と家名を保全するという、複数の動機が複雑に絡み合って形成されたものと考えられる。本報告書では、純忠の出自から晩年に至るまでの具体的な事績を丹念に追いながら、その背景にある政治的、経済的、宗教的要因を多角的に分析し、大村純忠という人物の歴史的実像に迫ることを試みる。

純忠の生涯と彼を取り巻く環境を理解するため、まず以下の二つの表を提示する。

表1:大村純忠 略年表

西暦

和暦

主な出来事

典拠例

1533年

天文2年

有馬晴純の次男として誕生

4

1538年

天文7年

大村純前の養嗣子となる

5

1550年

天文19年

大村家の家督を相続

1

1562年

永禄5年

横瀬浦を開港、南蛮貿易を開始

3

1563年

永禄6年

コスメ・デ・トーレス神父より受洗、日本初のキリシタン大名となる(洗礼名ドン・バルトロメウ)

1

1564年

永禄7年

三城城を築城

4

1565年

永禄8年

福田浦を開港

4

1571年

元亀2年

長崎を開港

4

1572年

元亀3年

三城七騎籠り(後藤貴明らによる三城城攻撃を撃退)

4

1574年

天正2年

領内の社寺を破壊

4

1577年

天正5年

菅無田の戦い(龍造寺隆信軍の侵攻)

10

1580年

天正8年

長崎・茂木をイエズス会に寄進

4

1582年

天正10年

天正遣欧少年使節をローマへ派遣(大友宗麟、有馬晴信と共同)

2

1587年

天正15年

豊臣秀吉、伴天連追放令を発布。純忠、坂口館にて死去(享年55)

4

表2:大村純忠関連 主要人物一覧

人物名

純忠との続柄・関係

主要な関わり・意義

典拠例

有馬晴純(ありまはるずみ)

実父、肥前高来郡の領主

純忠の出自。晴純自身はキリスト教を弾圧した 13

5

大村純前(おおむらすみさき)

養父、大村氏当主

男子がいなかったため純忠を養子に迎えるが、後に実子・又八郎(後藤貴明)が誕生 14

5

後藤貴明(ごとうたかあきら)

純前の実子(又八郎)、武雄後藤氏養子

純忠の家督相続により養子に出され、純忠を生涯にわたり敵視し攻撃を繰り返した 6

14

龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

肥前の大大名、純忠の脅威

大村領を狙い圧力を加え、純忠は一時従属を余儀なくされる。長崎寄進の大きな要因 10

10

コスメ・デ・トーレス

イエズス会宣教師

純忠に洗礼を授け、ドン・バルトロメウの洗礼名を与えた 18

18

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会巡察師

天正遣欧少年使節の派遣を純忠らに強く勧めた 20

20

大村喜前(おおむらよしあき)

純忠の嫡男、大村氏後継者

純忠の死後、家督を継承。父の信仰を受け継ぐが、後に棄教。玖島城を築城し移る 4

4

千々石ミゲル(ちぢわみげる)

純忠の甥、天正遣欧少年使節の一員

純忠の名代としてローマへ派遣される。純忠の庇護下で育ち、その影響で受洗したとされる 23

22

これらの表は、純忠の生涯における重要な出来事と人間関係の概要を示しており、本報告書を通じて詳述される各章の内容を理解する上での一助となるであろう。

第一章:誕生と大村家相続

大村純忠は、天文2年(1533年)、肥前国高来郡(現在の長崎県島原市周辺)を本拠とする戦国領主・有馬晴純の次男としてその生を受けた 4 。母は、同じく肥前の領主である大村純伊(おおむらすみこれ)の娘であった 5 。この出自は、後の純忠の運命を大きく左右することになる。実父である有馬晴純は、当時肥前国において強大な勢力を誇り、「高来の屋形」と称されるほどの威勢を誇っていた 13 。興味深いことに、晴純は領内でのキリスト教の流行を好まず、これを弾圧する立場をとっており、後に日本初のキリシタン大名となる純忠の信仰とは対照的な姿勢を示している 13

純忠が5歳となった天文7年(1538年)、彼は母方の叔父にあたる大村純前の養嗣子として迎えられることとなった 5 。この養子縁組の背景には、当時の大村氏が男子に恵まれなかったこと、そして強大な有馬氏との縁戚関係を強化し、その影響力を背景に家名を保とうとする大村氏側の事情があったと考えられる 14 。しかし、純忠が養子に入った後、養父純前には側室との間に実子・又八郎(または松千代とも)が誕生するという、事態を複雑化させる出来事が起こる 6

天文19年(1550年)、純忠は17歳の若さで大村家の家督を相続する 1 。この家督相続は、純忠自身の資質や希望というよりも、有馬氏の勢力拡大戦略と大村家の内部事情が複雑に絡み合った結果であったと言える。そして、この相続劇は、純忠の生涯に暗い影を落とすことになる後藤貴明との宿命的な確執の萌芽を孕んでいた。

純忠の家督相続に伴い、養父純前の実子であった又八郎は、その存在が政治的に微妙な立場に置かれることとなった。結果として又八郎は、肥前国武雄(現在の佐賀県武雄市)に本拠を置く国人領主・後藤氏のもとへ養子に出され、名を後藤貴明と改める 6 。貴明から見れば、本来ならば自分が継ぐべきであった大村家の家督を、有馬氏から来た養子の純忠に奪われた形となる。この屈辱と不運が、貴明の純忠に対する生涯にわたる深い遺恨となり、彼は執拗に純忠を攻撃し、大村領の奪還を目指すことになるのである 6 。純忠の治世は、この義理の兄弟とも言える後藤貴明との絶え間ない戦いに明け暮れることとなり、彼の領国経営に大きな困難をもたらした。

大村純前が実子・又八郎(後藤貴明)がいるにも関わらず、有馬氏の次男である純忠を養子に迎え、家督を継がせた背景には、強大な有馬氏の圧力を憚ったという側面 14 に加え、又八郎が正室の子ではない庶子であった可能性 6 も指摘されている。もし又八郎が庶子であったならば、正統な後継者としての立場は弱く、純前にとっても、有馬氏の意向を受け入れやすい状況があったのかもしれない。しかし、いずれにせよ、この家督相続の経緯が、後藤貴明の個人的な怨恨と政治的野心を燃え上がらせ、純忠の治世における最大の不安定要因の一つとなったことは疑いようがない。純忠の人生は、この複雑な出自と家督相続の経緯によって、初めから波乱に満ちたものとなる宿命を背負っていたと言えよう。

第二章:キリシタン大名への道

大村純忠の名を歴史に刻む最大の要因は、彼が日本で最初にキリスト教の洗礼を受けた大名、すなわち「日本初のキリシタン大名」となったことである。彼のキリスト教への傾倒は、単なる個人的信仰に留まらず、その後の領国経営や外交政策に極めて大きな影響を及ぼした。

純忠とキリスト教との本格的な接触は、永禄5年(1562年)、彼が領内の一港であった横瀬浦(現在の長崎県西海市)をポルトガル船の来航のために開港したことに始まる 1 。当時、ポルトガル商人は平戸を拠点としていたが、領主の松浦氏との間に不和が生じ、新たな貿易港を模索していた 3 。この機を捉えた純忠は、宣教師ルイス・デ・アルメイダらの交渉に応じ、横瀬浦の開港を快諾、さらには免税といった破格の条件を提示したとされる 27 。この時点での純忠の主たる動機は、南蛮貿易がもたらす莫大な経済的利益にあったと考えられている 28 。弱小領主であった純忠にとって、貿易による富は領国を強化し、周辺の強大な勢力に対抗するための重要な手段となり得たのである。

しかし、純忠の関心は経済的利益だけに留まらなかった。宣教師たちとの接触を通じてキリスト教の教義に触れる中で、次第にその教えに心惹かれていった可能性も指摘されている 27 。そして永禄6年(1563年)、純忠はイエズス会の日本布教長であったコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、ドン・バルトロメウという洗礼名を授かり、名実ともに日本初のキリシタン大名となった 1

受洗後の純忠は、領内におけるキリスト教の保護と布教に熱心に取り組んだ。自らの家臣や領民に対しても改宗を奨励し、時には強権的な手段を用いたとも伝えられている 6 。その結果、大村領内には次々と教会が建設され(例えば、1568年には大村に御宿りの聖母教会が建てられた 4 )、信者の数は急速に増加した。イエズス会士ルイス・フロイスの記録によれば、最盛期には大村領内のキリシタンは約6万人に達し、これは当時の日本全国のキリシタン人口(約15万人)の実に40%を占める規模であったという 29 。純忠の夫人や嫡男の喜前(よしあき)も1570年に受洗しており 4 、大村家を挙げてのキリスト教への帰依が進んだ。

しかし、純忠のキリスト教への傾倒は、時として過激な側面を露呈した。特に深刻な影響を及ぼしたのが、領内の伝統的な神社仏閣に対する徹底的な破壊行為である。1574年頃から、純忠は領内の社寺を次々と破壊し、仏像や経典を焼き捨て、さらには先祖代々の墓所までも打ち壊したと記録されている 4 。『大村郷村記』などの史料によれば、大村領内で破壊されたのは神社13社、寺院28ヶ寺に及んだとされ、その中には三城城に隣接していた宝生寺のように、後に教会として転用されたものも存在した 29 。この寺社破壊の目的は、領民の間に深く根付いていた神仏信仰を根絶し、全領民をキリスト教に改宗させることにあった 30 。フロイスは、この徹底した破壊の様子を目の当たりにし、「今まで日本にいた間、最も大いなる楽しみを味わった」と、その著書『日本史』に記している 30

純忠のこのような強硬な宗教政策は、当然ながら領内の仏教徒や伝統的価値観を持つ家臣、領民からの激しい反発を招いた。特に、家督相続の経緯から純忠を恨んでいた後藤貴明は、この状況を好機と捉え、反純忠派の家臣団と結託して謀反を企てた 6 。この謀反の混乱は、開港間もない横瀬浦にも飛び火し、港は焼き討ちにあって壊滅的な被害を受け、開港からわずか1年余りで廃港へと追い込まれてしまう 3

純忠のキリスト教への改宗とそれに続く一連の政策は、純粋な信仰心の発露であったのか、それとも南蛮貿易の利益を独占し、ポルトガルとの結びつきを強化するための高度な政治的計算であったのか、あるいはその両者が複雑に絡み合っていたのか、歴史家の間でも議論が分かれるところである。寺社破壊という徹底した行動は、単なる政治的ポーズを超えた熱烈な信仰心を示唆する一方で、それが引き起こした領内の混乱と反発は、彼の政策の急進性と、当時の日本の社会における宗教的価値観の変革の困難さを浮き彫りにしている。また、寺社破壊に関する記録の多くが、フロイスをはじめとする宣教師側の史料に依拠している点も考慮しなければならない。彼らの記述には、異教の撲滅を正当化し、キリスト教布教の成果を強調しようとする視点が色濃く反映されている可能性がある。一方で、破壊された寺社の具体的な数が伝えられていることは、その行為が大規模かつ組織的に行われたことを物語っており、「文化破壊者」としての側面からの批判は免れないであろう。純忠のキリシタン大名としての道は、輝かしい信仰の光と、深刻な対立と破壊の影が交錯する、複雑なものであったと言える。

第三章:南蛮貿易の推進と長崎開港

大村純忠の治世において、キリスト教への改宗と並んで特筆すべきは、南蛮貿易の積極的な推進と、その拠点としての長崎開港である。これらは純忠の先見の明を示すと同時に、彼の領国経営における生命線ともなった。

純忠が最初に南蛮貿易の拠点として開いたのは、永禄5年(1562年)の横瀬浦であった 1 。前述の通り、ポルトガル商人は平戸領主であった松浦氏との関係が悪化し、新たな貿易港を求めていた。純忠はこの機会を捉え、彼らの要求を受け入れて横瀬浦を開港し、キリスト教の布教も許可したのである 3 。しかし、この横瀬浦の繁栄は長くは続かなかった。純忠のキリスト教政策に反発した後藤貴明らによる襲撃を受け、港は炎上し、開港からわずか1年余りでその機能を失ってしまった 3

横瀬浦の挫折の後、純忠は永禄8年(1565年)に福田浦(現在の長崎市福田本町)を開港する 4 。しかし、福田浦もまた、大型のポルトガル船が停泊するには水深が浅いなどの地理的制約があり、恒久的な貿易港としては十分ではなかったと推察される。ポルトガル人たちは、より安全で良質な港を求め続け、キリスト教に寛容な大村領内での貿易継続を強く望んでいた。

このような状況の中、純忠とポルトガル人たちの探索の末に見出されたのが、天然の良港としての条件を備えた長崎であった。そして元亀2年(1571年)、純忠は長崎(現在の長崎市中心部)を新たな貿易港として開くことを決断する 3 。この長崎開港は、その後の日本の歴史において極めて重要な意味を持つことになる。純忠の指導のもと、長崎の岬の先端部分には計画的に町が造成され、島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町、外浦町、文知町の六つの町が新たに誕生した 8 。これにより、長崎は単なる寄港地ではなく、国際貿易都市としての第一歩を踏み出したのである。南蛮船がもたらす生糸や絹織物といった商品だけでなく、鉄砲や火薬といった軍事物資、さらには医学、天文学、印刷術、音楽、美術といったヨーロッパの進んだ技術や文化も長崎を通じて日本にもたらされ、日本の社会や文化に大きな影響を与えた 3

長崎開港から9年後の天正8年(1580年)、純忠はさらに大胆な一手を打つ。長崎とその近隣の茂木(もぎ、現在の長崎市茂木町)の地を、イエズス会に教会領として寄進したのである 3 。この異例とも言える寄進の背景には、純忠が置かれていた極めて厳しい政治的・軍事的状況があった。当時、肥前国で急速に勢力を拡大していた龍造寺隆信は、純忠にとって最大の脅威であり、大村領は常にその圧迫に晒されていた。純忠は龍造寺氏に人質を差し出し、事実上の従属関係に近い状態に追い込まれていた時期もあった 16 。このような状況下で、純忠は、長崎という重要な貿易利権を龍造寺氏の侵攻から守り、南蛮貿易を安定的に継続させるために、イエズス会という国際的な宗教組織の権威と、その背後にあるポルトガルの影響力を頼ろうとしたのである 3 。イエズス会側は、当初その会の方針として所領の受領を禁じていたため、この申し出に苦慮したが、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノとの協議の末、最終的にこれを受け入れた 11 。イエズス会の統治下に入った長崎は、一種の治外法権的な区域となり、防衛体制も強化され、龍造寺隆信の直接的な介入を牽制する役割を果たしたと考えられている 16

長崎のイエズス会への寄進は、信仰心の篤さを示す行為であると同時に、弱小領主であった純忠が、強大な敵対勢力から自領の最も重要な経済基盤を守り抜くための、苦渋に満ちた戦略的決断であったと言える。これは事実上の領土割譲にも等しい行為であり、戦国時代の大名としては極めて異例の策であった。しかし、この策によって長崎は一時的な安定を得て、南蛮貿易の拠点としてさらなる発展を遂げることになった。一方で、南蛮貿易への過度な依存は、大村領の経済構造を外部要因に左右されやすい脆弱なものにした可能性も否定できない。ポルトガル船の来航状況や、平戸など他の港との競合、そして中央政権の対外政策の変化など、純忠のコントロールが及ばない要素が、彼の領国経営に常に影響を与え続けたのである。純忠の貿易港戦略の試行錯誤と、長崎が中心的な役割を担うに至った過程は、以下の表のようにまとめることができる。

表3:大村純忠による開港と南蛮貿易の変遷

港湾名

開港年

主な出来事・特徴

閉港または状況変化年

典拠例

横瀬浦

1562年

日本初の本格的南蛮貿易港。純忠のキリスト教政策への反発から後藤貴明らにより焼き討ちされ、短期間で機能を喪失。

1563年頃

3

福田浦

1565年

横瀬浦の代替港として開港。地理的制約などから一時的な寄港地としての性格が強かったと推察される。

(長崎開港まで)

4

長崎

1571年

天然の良港。計画的な都市建設が行われ、南蛮貿易の中心地として発展。1580年にイエズス会へ寄進。

1587年 (秀吉により没収)

3

純忠による一連の開港政策、特に長崎の開港とイエズス会への寄進は、彼の置かれた困難な状況下での生き残りをかけた大胆な選択であり、その後の長崎、ひいては日本の歴史に大きな影響を残したと言えるだろう。

第四章:戦国乱世を生き抜く

大村純忠の治世は、信仰や貿易といった新たな要素を取り込みつつも、戦国時代の常として、絶え間ない軍事的脅威と外交的緊張の中にあった。特に、出自に起因する宿敵・後藤貴明からの執拗な攻撃と、肥前の大大名・龍造寺隆信からの強大な圧力が、彼の領国経営における二大困難であった。

後藤貴明は、前述の通り、大村純前の実子でありながら、純忠の家督相続によって後藤家へ養子に出された経緯から、純忠に対して深い恨みを抱いていた 6 。この個人的な怨恨と、大村領回復という野望が結びつき、貴明は生涯を通じて純忠の領地へ侵攻を繰り返した 15 。永禄6年(1563年)の横瀬浦焼き討ちはその代表的な事例であり、純忠が開いたばかりの貿易港を灰燼に帰せしめた 3

しかし、純忠とその後援者たちは、貴明の攻撃に対して常に屈していたわけではない。元亀3年(1572年)、後藤貴明は平戸の松浦氏や諫早の西郷氏らの援軍を得て、純忠の居城である三城城(さんじょうじょう)を急襲した。この時、城内の兵力は後藤勢の1500名に対して、純忠配下の武士はわずか7騎を含む70~80名程度であったと伝えられている 4 。絶体絶命の状況であったが、城兵は奮戦し、援軍が到着するまでの間、見事に城を守り抜き、攻撃勢を撤退させることに成功した。この戦いは「三城七騎籠り(さんじょうななきごもり)」として後世に語り継がれ、大村武士の勇猛さと忠誠心を示す逸話となっている 9 。この戦いは、兵力で劣る純忠方が局地的な勝利を収めた例であるが、彼の家臣団の結束力がいかに高かったか、また絶望的な状況でも諦めない精神力がいかに重要であったかを示している。

一方、後藤貴明とは比較にならないほど強大な勢力を誇ったのが、龍造寺隆信であった。当時、九州北部で急速に台頭し、「肥前の熊」と恐れられた隆信は、肥前国統一の野望を抱き、純忠が治める大村領の併呑を虎視眈々と狙っていた 10 。天正5年(1577年)12月、隆信は8000と号する大軍を率いて大村領の萱瀬(かやぜ)方面へ侵攻した。これに対し、大村方は今富城に兵を集めて防衛しようとしたが、萱瀬の武士たちは自らの村が蹂躙されることを潔しとせず、約300名が菅無田(すがむた)城に立てこもり抵抗した(菅無田の戦い) 10 。数に劣る菅無田勢は奮戦空しく全滅したが、この戦いで龍造寺軍も大きな損害を被り、結果として大村領全体の占領を諦めて引き返したと『大村郷村記』などは伝えている 10 。しかしながら、龍造寺側の史料である『藤龍家譜』などによれば、この戦いで純忠軍は敗北し、龍造寺氏と和睦を結んだともされており、記録によって記述に差異が見られる 35 。いずれにせよ、この後、純忠は龍造寺氏の圧力に屈し、二人の子供を人質として佐賀に送り、一時的に従属を余儀なくされるなど、苦しい立場に立たされた 16 。この龍造寺氏からの絶え間ない圧迫こそが、前章で述べた長崎・茂木のイエズス会への寄進という大胆な策に純忠を走らせた最大の要因であった。

純忠はまた、実家である有馬氏や、南蛮貿易を巡って競合関係にもあった平戸の松浦氏など、周辺の諸勢力とも複雑な関係を築いていた。有馬氏とは、同じくキリシタン大名であった甥の有馬晴信(後のドン・プロタジオ)と共に天正遣欧少年使節を派遣するなど 22 、協調する場面も見られた。松浦氏との関係では、当初ポルトガル船が平戸に寄港していたが、松浦氏とポルトガル人との間に不和が生じたことが、純忠が横瀬浦を開港するきっかけの一つとなった 3 。さらに、純忠の五女メンシアは松浦鎮信(法印)の嫡男・久信に嫁いでおり、その子が後の平戸藩主・松浦隆信(宗陽)である。この松浦隆信は、自身も洗礼を受けたキリシタンであったが、江戸幕府による禁教令が発布されると棄教し、逆に領内のキリシタンを厳しく弾圧するという悲劇的な道を辿った 39 。純忠の血を引く者が、キリシタン弾圧の先頭に立つという皮肉な運命は、戦国から江戸初期にかけての時代の激変を象徴している。

純忠の治世は、まさに内憂外患の連続であった。出自に起因する後藤貴明からの個人的な怨恨に基づく攻撃と、大大名龍造寺隆信からの領土的野心に基づく侵攻という、二重の脅威に常に晒され続けた。これを乗り切るために、純忠は南蛮貿易による経済力を背景とした軍事力の増強、イエズス会やポルトガル勢力との連携といった外交努力、そして時には屈辱的な和睦や従属も辞さない現実的な判断を下し、さらには家臣団の結束と奮戦によって、かろうじて大村家の存続を図ったのである。菅無田合戦の勝敗に関する史料記述の差異 35 は、歴史を多角的に検証する必要性を示唆しており、一方の記録のみに依拠することの危険性を物語っている。純忠の戦国武将としての評価は、こうした絶え間ない軍事的圧力の中で、いかにして領国を守り抜こうとしたかという点からもなされるべきであろう。

第五章:天正遣欧少年使節の派遣

大村純忠の業績の中で、長崎開港と並んで国際的な注目を集めるのが、天正遣欧少年使節の派遣である。これは、日本の歴史上初めてヨーロッパへ公式に派遣された使節団であり、純忠がその主要な推進者の一人であった。

天正10年(1582年)、純忠は、豊後の大友宗麟(ドン・フランシスコ)、島原の有馬晴信(ドン・プロタジオ)という二人のキリシタン大名と共に、イエズス会の東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの強い勧めに応じ、四人の少年からなる使節団をローマ教皇のもとへ派遣することを決定した 2 。この使節団は、正使として伊東マンショ(大友宗麟の名代)、千々石ミゲル(大村純忠・有馬晴信の名代)、副使として中浦ジュリアン、原マルチノという、いずれも10代前半の少年たちで構成されていた 2

ヴァリニャーノがこの使節派遣を企画した目的は、大きく二つあったとされる。第一は、ローマ教皇およびカトリック国の君主であるスペイン国王やポルトガル国王に対し、日本におけるキリスト教布教活動への経済的・精神的な援助を直接要請すること。第二は、日本の若者たちにヨーロッパのキリスト教世界の偉大さ、壮麗さ、そしてその文明の高さを自らの目で見聞・体験させ、帰国後に彼らがその栄光を日本の人々に語り伝えることで、キリスト教の布教をより効果的に進めることであった 20

大村純忠がこの壮大な計画に賛同し、積極的に関与した背景には、いくつかの期待があったと考えられる。まず、純忠は自身の甥にあたる千々石ミゲルを使節の一員として送り出している 22 。千々石ミゲルは、父・千々石直員が戦死した後、戦火を逃れて純忠のもとに身を寄せ、純忠の強い影響を受けてキリスト教の洗礼を受けたと伝えられており 24 、純忠にとっては信頼できる近親者であった。純忠は、この使節派遣を通じて、ローマ教皇やヨーロッパの強大な王権との直接的な結びつきを確立し、自らのキリシタン大名としての権威を高めるとともに、ポルトガルとの南蛮貿易をより一層有利に進め、ひいては国内における大村氏の政治的立場を強化することを期待したであろう。

使節団は、1582年に長崎を出帆し、インドのゴア、喜望峰、リスボン、マドリードなどを経て、1585年にローマに到着。そこでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、盛大な歓迎を受けた。その後、次代教皇シクストゥス5世にも謁見し、スペイン国王フェリペ2世とも会見するなど、ヨーロッパ各地で大きな注目を集めた 2 。この天正遣欧少年使節の派遣は、ヨーロッパの人々に日本の存在と文化を初めて具体的に伝え、日本に対する関心を高めるという、文化交流史上極めて大きな意義を持った。また、彼らが帰国する際には、グーテンベルク式の活版印刷機がもたらされ、これによって日本で初めてラテン文字や日本語の書物(キリシタン版)が印刷されることになるなど 20 、日本の文化史にも具体的な影響を与えた。

天正遣欧少年使節の派遣は、単に宗教的な熱意の発露として片付けられるべきものではない。特に純忠のような、常に強大な周辺勢力の脅威に晒されていた弱小領主にとっては、ヨーロッパの最高権威であるローマ教皇や、当時世界を席巻していたスペイン・ポルトガルの国王との直接的なパイプを築くことは、自らの国際的な地位を飛躍的に高め、国内における政治的立場を有利にするための、高度な外交戦略であったと解釈できる。この事業は、多大な費用と長い年月を要するものであり、その成果がすぐさま領国経営に反映されるわけではなかった。にもかかわらず、純忠らがこれを断行したことは、彼らが短期的な軍事的・経済的利益のみならず、キリスト教信仰と領国の将来を見据えた長期的かつ広大な視野を持っていたことを示唆している。千々石ミゲルが使節に選ばれた背景には、単なる血縁関係による信頼だけでなく、戦乱の中で純忠に保護され、その庇護のもとで信仰を育んだというミゲル自身の経歴が、純忠の大きな期待を託すに足る人物と見なされたからかもしれない 24 。この壮大な試みは、戦国日本の地方領主が、世界という新たな舞台に目を向けた画期的な出来事であったと言えるだろう。

第六章:豊臣政権下での純忠と晩年

天正遣欧少年使節がヨーロッパで歓迎を受けていた頃、日本では大きな権力変動が進行していた。織田信長が本能寺の変で倒れた後、豊臣秀吉が急速に台頭し、天下統一事業を推し進めていた。この新たな時代の潮流は、大村純忠の晩年と大村氏の将来にも大きな影響を及ぼすことになる。

天正14年(1586年)、豊臣秀吉は島津氏を討伐するため、自ら大軍を率いて九州平定を開始した 17 。九州の諸大名が秀吉の強大な軍事力の前に次々と恭順していく中、大村純忠は比較的早い段階で秀吉に臣従の意を示したとされている 17 。これは、新たな天下人である秀吉に逆らうことは大村家の存亡に関わると判断した、戦国武将としての現実的な対応であった。この恭順により、純忠は大村領の所領を安堵され、ひとまずは家名を保つことに成功した。

しかし、秀吉の九州平定は、純忠が心血を注いで築き上げてきた体制に大きな変化をもたらした。九州を平定し終えた秀吉は、天正15年(1587年)、純忠がイエズス会に寄進していた長崎と茂木を没収し、豊臣氏の直轄地(天領)としてしまったのである 3 。これは、純忠が龍造寺氏の圧力から長崎の権益を守るために講じた策が、結果として中央政権によって否定されたことを意味し、純忠にとっては大きな痛手であったろう。

さらに同年、秀吉は「バテレン追放令」を発布する 4 。これは、キリスト教宣教師の国外退去を命じ、キリスト教の布教を厳しく制限するものであり、日本のキリスト教史における大きな転換点となった。この法令は、キリシタン大名であった純忠の立場を根本から揺るがすものであったが、皮肉なことに、純忠自身がこの追放令の直接的な影響を受けることはなかった。なぜなら、彼はこの法令が発布されるわずか1ヶ月ほど前に、その波乱に満ちた生涯を閉じていたからである 4

純忠の晩年は、必ずしも平穏なものではなかった。一説には、龍造寺隆信からの圧迫が強まる中で領主としての実権を退き、大村市荒瀬町にあった重臣・庄頼甫(しょうよりすけ)の屋敷であった坂口館(さかぐちのやかた)に隠棲したと伝えられている 4 。彼は喉と肺の病を患っていたが、その信仰心は衰えることなく、坂口館では宣教師らと共に過ごし、ひたすらキリスト教の信仰に明け暮れる日々を送ったという 4 。そして天正15年(1587年)4月14日(旧暦)、天正遣欧少年使節の輝かしい帰国を見届けることなく、55歳でこの世を去った 4 。その亡骸は、三城城下にあった菩提寺の宝生寺に埋葬された後、改葬を経て本経寺に葬られたと伝えられているが、現在、その正確な墓の所在は不明となっている 29

純忠の豊臣政権への対応は、戦国武将としての現実的な判断力を示すものであった。新たな覇者である秀吉に迅速に恭順することで、大村家の存続という最大の目的を果たそうとした。しかし、長崎の没収や伴天連追放令といった秀吉の政策は、純忠が築き上げてきたキリスト教と南蛮貿易を基盤とする領国経営の根幹を揺るがすものであり、時代の大きな変化の奔流には抗しきれなかった側面も示している。彼が伴天連追放令発布の直前に亡くなったことは、棄教か、あるいは領地没収と追放かという過酷な選択を迫られずに済んだという点では、ある種の幸運であったのかもしれない。しかし、彼の死は、彼が心血を注いだキリシタン信仰と長崎の繁栄が、まさに風前の灯火となる危機的なタイミングと重なったのであった。坂口館での隠棲生活が「ひたすらキリシタンの信仰に明けくれる余生」 4 であったという記述は、彼の信仰の篤実さを強調するものであるが、政治的影響力を失い、病に苦しんでいた彼の晩年の姿であり、ある種の理想化されたイメージが含まれている可能性も考慮に入れる必要があるだろう。

第七章:大村純忠の歴史的評価

大村純忠の歴史的評価は、その多岐にわたる活動と、彼が生きた時代の複雑さゆえに、一面的に語ることは難しい。キリシタン大名としての側面、戦国武将としての側面、そして文化や宗教に対する影響など、様々な角度からの検討が必要である。

まず、日本初のキリシタン大名としての評価は、純忠の名を最も広く知らしめている点である 1 。彼がキリスト教を受容し、保護したことは、日本における初期キリスト教の拡大に大きく貢献した。長崎を開港し、南蛮貿易を推進したこと、そして天正遣欧少年使節を派遣したことなど、彼の主要な業績の多くはキリスト教信仰と深く結びついており、これらは日本の対外交流史において無視できない足跡を残した。しかし、その信仰のあり方は、領内の神社仏閣を徹底的に破壊し、領民に改宗を強いるといった過激な側面も持ち合わせていた 6 。これにより領内に対立と混乱を引き起こし、伝統文化に対する不寛容さを示した点は、負の側面として厳しく評価されなければならない。一部の研究者からは、純忠が「日本初のキリシタン大名」という側面ばかりが強調され、戦国大名としての多面的な評価、特に領国経営や軍事指揮官としての実績が十分に語られていないとの指摘もある 26

戦国武将としての純忠は、幾多の合戦を戦い抜き、弱小ながらも大村領を守り、時には領土を拡大しようと試みた側面も評価されるべきである 26 。特に、宿敵・後藤貴明や強大な龍造寺隆信といった勢力に囲まれながらも、巧みな外交戦略と軍事行動を駆使して生き残りを図った。南蛮貿易による経済的利益を追求し、それを領国経営や軍事力強化に活かそうとした点は、当時の地方領主としては先見の明があったと言えるだろう 4 。長崎のイエズス会への寄進という大胆な策は、軍事力で劣る弱小勢力が、宗教的権威や国際関係を利用して強大な敵対勢力から自領の核心的利益を守ろうとした、戦国時代ならではの生存戦略であったと評価できる 11

寺社破壊という行為は、純忠のキリスト教への熱烈な信仰心の現れと解釈できる一方で、日本の伝統文化や既存の宗教に対する破壊行為であり、それによって領民の間に深い亀裂を生んだ「文化破壊者」としての一面も否定できない 6 。この行為は、宣教師ルイス・フロイスによって「最も大いなる楽しみ」と肯定的に記録されているが 30 、その記述自体が宣教師側のキリスト教中心主義的なバイアスを色濃く反映していることを考慮に入れる必要がある。興味深いことに、同じくキリシタン大名であった大友宗麟も同様に寺社破壊を行っており 42 、当時のキリシタン大名の中には、既存の宗教勢力を排除することで新興のキリスト教の地盤を固めようとする共通の動きがあったことが窺える。しかし、イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが著した『日本巡察記』によれば、有馬晴信や大村純忠は「神社仏閣の破壊は司祭たちがキリスト教の教義に反するというから不本意に行ったにすぎない」と語ったともされており 43 、寺社破壊の真意や、その実行における純忠の主体性については、より慎重かつ多角的な検討が求められる。

純忠の政策が後世に与えた影響としては、長崎開港が最も大きい。彼が築いた長崎は、その後の鎖国時代においても日本唯一の西洋との窓口として機能し続け、日本の近代化に繋がる海外の知識や技術を導入する上で重要な役割を果たした 3 。江戸時代の禁教政策下では、キリシタン大名であった純忠の評価は当然ながら低く抑えられがちであったが(他のキリシタン大名であった大友宗麟なども同様に、江戸時代以降に悪評が立ったとされる 44 )、明治維新以降のキリスト教解禁や近代化の流れの中で、再評価の動きも見られるようになった。現代においては、純忠ゆかりの地である大村市を中心に、大村純忠史跡公園の整備 2 や、天正遣欧少年使節顕彰会といった顕彰活動 46 が行われている。

純忠の評価は、このように「キリシタン大名」「貿易の先駆者」「文化破壊者」「戦国期の小領主」といった複数の側面から成り立ち、どの側面に光を当てるかによってその姿は大きく異なる。また、彼が生きた戦国時代、その後の江戸時代の禁教期、明治以降の近代化とキリスト教解禁、そして現代という、それぞれの時代背景によっても、その評価は揺れ動いてきた。純忠に関する一次史料の多くが、イエズス会側の記録、特にルイス・フロイスの『日本史』に大きく依存しているという事実は、これらの史料が持つキリスト教中心主義や布教の正当化といったバイアスを批判的に検討することの重要性を示している 47 。敵対勢力側の記録(例えば龍造寺側の記録)や、後世に編纂された郷土史料(『大村郷村記』など 29 )との比較検討を通じて、より客観的で多角的な純忠像に迫る努力が今後も求められる。大村純忠を単に「日本初のキリシタン大名」というレッテルのみで記憶することは、彼の戦国武将としての苦闘、領国経営の巧拙、そして一人の人間としての葛藤や苦悩を見過ごすことになる。彼の信仰が、彼の政治的・軍事的判断にどのような影響を与え、また逆に彼を取り巻く厳しい政治的状況が、彼の信仰のあり方をどのように規定したのか、その複雑な相互作用を深く分析することこそが、大村純忠という歴史上の人物を真に理解する道筋であろう。

終章:大村純忠が日本史に残した足跡

大村純忠の生涯は、戦国時代という未曾有の激動期において、信仰という新たな価値観、南蛮貿易という新たな経済システム、そして領土保全という伝統的な課題の間で、常に困難な選択を迫られながら、時には大胆かつ革新的な決断を下し、必死に生き抜いた一人の領主の軌跡であった。彼の選択と行動は、彼自身の運命だけでなく、その後の日本の歴史、特に長崎の発展と日本の対外関係、そしてキリスト教の受容と変容の歴史に、消すことのできない大きな足跡を残した。

純忠が日本初のキリシタン大名となり、長崎を開港して南蛮貿易の拠点とし、さらには天正遣欧少年使節を派遣したことは、当時の日本社会に大きな衝撃を与えただけでなく、世界史的にも意義のある出来事であった。これらの行動は、日本が初めて本格的に西洋世界と接触し、その文化や技術を導入するきっかけを作った。長崎は、純忠の意志によって開かれた港であり、その後、鎖国体制下においても唯一西洋に開かれた窓口として、日本の近代化に不可欠な役割を果たし続けることになる。その礎を築いたのが大村純忠であったことは、紛れもない歴史的事実である。

一方で、彼の過激な寺社破壊や強引な改宗政策は、文化的な損失と社会的な亀裂をもたらした負の側面として記憶されなければならない。これは、異文化や異なる価値観との接触がもたらす摩擦や対立の先鋭的な現れであり、現代社会においても示唆に富む事例と言えるだろう。

グローバル化が急速に進展し、異文化理解や宗教的寛容性がますます重要視される現代において、大村純忠の生涯は我々に多くの問いを投げかける。異質な文化や価値観とどのように向き合い、受容し、あるいは対峙していくべきか。経済的利益の追求と伝統文化の保護という、時に相反する課題にいかにして調和を見出すか。困難な状況下におけるリーダーシップのあり方、先見性とそれに伴うリスクテイクの重要性、そして時に過激な手段も辞さない信念の力と危うさ。これらは、純忠が生きた戦国時代から数百年を経た現代においても、我々が直面し続ける普遍的なテーマである。

純忠の生涯はまた、歴史における個人の意志と、それを超えた時代の大きな潮流、すなわち偶然と必然の交錯を鮮やかに示している。もし彼が有馬氏の次男として生まれなければ、もしキリスト教が彼の時代に日本に伝来しなければ、もしポルトガル商人が新たな貿易港を求めて彼の領地を訪れなければ、そしてもし龍造寺隆信という強大な隣人が存在しなければ、彼の運命は全く異なったものになっていたであろう。彼の決断は、これらの外的要因に対する応答であり、その結果がまた新たな歴史の局面を創り出していった。

大村純忠に関する研究は、近年進展を見せているものの、未だ解明されていない点も多く残されている。例えば、彼の信仰の深層心理、寺社破壊における具体的な指示系統やその動機、領民のキリスト教受容の具体的な実態やその多様性、そして彼の内政に関するより詳細な記録などである。特に、イエズス会側の史料に大きく依存している現状から、日本側の史料、特に敵対勢力や一般民衆の視点からの記録の発掘と分析は、今後の重要な研究課題となるだろう 51 。これらの課題に取り組むことを通じて、大村純忠という複雑で魅力的な歴史上の人物に対する我々の理解は、さらに深まっていくに違いない。彼の生涯は、戦国という時代の特異性と、人間という存在の普遍性を同時に映し出す鏡として、今後も多くの研究者や歴史を愛する人々の関心を引きつけ続けるであろう。

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