最終更新日 2025-06-12

大熊朝秀

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戦国武将 大熊朝秀の生涯:越後から甲斐へ、忠節と叛逆の軌跡

1. はじめに

本報告書は、戦国時代に越後国の長尾氏(後の上杉氏)の重臣として活動し、後に甲斐国の武田氏に仕えた武将、大熊朝秀(おおくま ともひで)の生涯について、詳細かつ多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とします。

大熊朝秀は、越後国中頸城郡箕冠城主として知られ、主君である長尾景虎(後の上杉謙信)の側近として政務にも深く関与しました。しかし、景虎の出家騒動という主家の混乱に乗じて謀叛を起こし、武田信玄のもとへ奔ります。その後は武田家臣として重用され、最期は武田勝頼と運命を共にし、天目山で討死を遂げたと伝えられています。

このように、朝秀の生涯は、主家を変えるという戦国時代特有の流動性の中で、忠誠と叛逆、栄達と没落が交錯する複雑なものでした。本報告書では、ユーザーが既に把握されているこれらの基本的な情報に加え、彼の出自、長尾家臣としての具体的な役割、謀叛に至る背景、武田家での待遇と活動、そしてその最期と後世の評価、さらには子孫たちの動向に至るまで、現存する史料や研究成果を基に、可能な限り詳細に掘り下げていきます。特に、彼の行動を単なる個人の資質の問題として捉えるのではなく、当時の政治情勢や主君との関係、家臣団内部の力学といった外的要因との関わりの中で理解することを試みます。朝秀の生き様を通して、戦国という時代の「忠義」のあり方や、武将たちが自らの家と身分をいかにして守り、あるいは向上させようとしたのかという、より広範なテーマについても光を当てることを目指します。

2. 大熊氏の出自と朝秀の登場

大熊氏の出自については、元々関東管領山内上杉氏の家臣であったとされ、大熊朝徳(ともなる)の代に越後国へ下向し、越後守護上杉氏に仕えるようになったと伝えられています 1 。このことから、大熊氏は越後における譜代の国人領主ではなく、守護上杉氏の被官として越後に入った比較的新しい家臣団であった可能性が考えられます。

大熊朝秀の父は政秀(まさひで)といい、この政秀の代から、大熊氏は越後守護上杉氏のもとで段銭(たんせん)収納、すなわち財政担当の重臣として活動していました 2 。段銭は、臨時の軍事費や朝廷・幕府への献金などを目的として課された税であり、その徴収・管理は高度な実務能力と主君からの信頼を必要とする重要な役職でした。大熊氏がこの役職を世襲的に務めていたことは、彼らが単なる武勇の士としてだけでなく、経済・財務に関する専門知識と実務能力を備えた官僚的側面も有していたことを示唆しています。これは、戦国大名が領国経営を安定させる上で不可欠な能力であり、大熊氏が守護上杉家中で重きをなした理由の一つと考えられます。

父・政秀の活動が史料上確認できるのは享禄年間(1528年~1532年)頃までであり、この時期に朝秀への家督継承があったと推測されています 3 。朝秀も父同様に、上杉家中において段銭方などの要職を務め、その専門性を発揮しました。彼が後に長尾景虎(上杉謙信)の側近として政務に深く関与できた背景には、こうした父祖伝来の財政・行政に関する専門知識と経験が大きな役割を果たしたことは想像に難くありません。彼のキャリアの初期段階で、既に後の活躍を支える基盤が形成されていたと言えるでしょう。

3. 長尾家臣時代

3.1. 箕冠城主として

長尾景虎(後の上杉謙信)が越後の実権を掌握した後、大熊朝秀は財務担当の奉行職に任じられると共に、越後国中頸城郡箕冠(みかぶり)城の城主となりました 2 。箕冠城は、現在の新潟県上越市板倉区山部に位置し、標高237メートルの中世の典型的な山城です 2

この城は、東西北の三方が切り立った独立峰の上に築かれ、東側には大熊川、西側には小熊川が流れるという、天然の要害を巧みに利用した構造を持っていました 2 。城の遺構は現在も比較的良好な状態で保存されており、本丸跡、二の丸跡、帯曲輪、物見台、土塁、堀切、そして今日でも水をたたえていると伝えられる鎧井戸などが確認できます 4

箕冠城の戦略的重要性は極めて高く、春日山城を守る支城群の一つとして、信濃国との国境を警備するという重大な任務を担っていました 4 。本丸跡からは、西に春日山城跡、眼下に高田平野、そして遠く日本海や信越国境の山々まで一望できたといい 4 、この優れた眺望は、特に南方の武田氏の侵攻を早期に察知し、本城である春日山城へ伝達する上で非常に有利な条件でした。朝秀がこの戦略的要衝である箕冠城を任されたことは、景虎からの信頼の厚さを示すと同時に、彼に大きな軍事的責任が課せられていたことを物語っています。

興味深いことに、箕冠城の東を流れる川は「大熊川」、西を流れる川は「小熊川」と称されており 2 、城主である大熊氏の姓との関連性がうかがえます。これが地名に由来するのか、あるいは大熊氏の勢力基盤であったことを示すのかは定かではありませんが、地勢と人名・城名が結びつく当時の慣習の一端を示している可能性があります。城の維持管理や防衛体制の構築は、城主である朝秀の行政能力と軍事指揮能力を総合的に示すものであったと言えるでしょう。

3.2. 長尾景虎(上杉謙信)政権における役割

大熊朝秀は、父・政秀から受け継いだ財政・行政に関する専門知識を活かし、長尾景虎政権において段銭方などの要職を務め、景虎の側近として政権運営に深く関与しました 2 。彼は単なる武将としてだけでなく、景虎政権の財政基盤を支えるテクノクラートとしての一面も持っていたのです。

天文17年(1548年)、景虎が兄・晴景から家督を譲られ、越後守護代に就任した際、その儀式の場において、本庄実乃、直江実綱、長尾政景といった他の重臣たちと共に国衆の最前列に座し、景虎への支持を表明したことが記録されています 7 。この事実は、朝秀が景虎政権発足当初からの中心的な支持者であり、長尾家中で高い地位と発言力を有していたことを明確に示しています。

さらに、景虎の家督継承の背景には、当時の越後守護であった上杉定実の重臣であった朝秀が、景虎擁立に積極的に奔走したという説もあります 8 。これが事実であれば、朝秀は守護上杉家と守護代長尾家という二つの権力の狭間で、越後の安定と将来を見据えた高度な政治的判断を下せる人物であったと言えます。景虎の家督継承後、栖吉長尾家の家臣筆頭であった本庄実乃と共に、越後上杉家の家臣筆頭であった大熊朝秀が、若き景虎を支え、越後の実権を握る中心人物の一人となったとされています 9

小説『天と地と』などにも描かれるように、景虎が関東出兵などの軍事行動を計画する際、朝秀が戦費の観点から意見具申する場面が想像されますが、これは彼の財務官僚としての職責と影響力の大きさを物語るものです 10 。主君の軍事行動に対しても、財政的裏付けという現実的な側面から意見を述べることができる立場にあったことは、彼が景虎政権にとって不可欠な存在であったことを示しています。しかしながら、このような重臣の離反は、単に一武将が敵方に寝返ったという以上の、政権運営上の深刻な機能不全や機密情報漏洩のリスクをもたらすものであり、後の謀叛が長尾家にとって大きな打撃となった要因の一つと考えられます。

4. 謀反と武田家への仕官

4.1. 長尾景虎の出家騒動と朝秀の謀反

弘治2年(1556年)、長尾家中を揺るがす大きな事件が発生します。家中における上野家成と下平吉長との間の領地争いが激化し、これに嫌気がさした長尾景虎は、突如として高野山へ出奔し、出家しようとしました 3 。この「出家騒動」は、長尾家にとってまさに指導者不在という最大の危機的状況でした。

この混乱に乗じる形で、大熊朝秀は積年の不満を爆発させたのか、あるいはかねてより内通していた甲斐国の武田信玄の誘いに応じたのか、景虎に対して反旗を翻します 3 。朝秀の謀反の直接的な動機については諸説ありますが、家中の深刻な派閥対立に巻き込まれたこと 6 、そして武田信玄による周到な調略があったことが大きな要因として挙げられています 3 。主君が政務を放棄するような事態は、家臣にとっては将来への不安を掻き立て、自己の家や立場を守るための行動を促す十分な理由となり得ます 15 。武田信玄は、こうした越後内部の不安定な状況を巧みに利用し、長尾政権の中枢にいた朝秀の切り崩しに成功したと考えられます。

同年8月23日、朝秀は会津の蘆名盛氏と連携し、さらに越中一向一揆勢を味方につけて越中国から越後へと侵攻しました 3 。これは、朝秀が単独で反乱を起こしたのではなく、外部勢力(武田、蘆名、一向一揆)と広範なネットワークを形成していたか、あるいは信玄の調略によってそのような大きな戦略の中に組み込まれたことを示唆しています。

しかし、家臣たちの説得により出家を断念して越後に帰国した景虎は、直ちに鎮圧軍を派遣します。朝秀軍は頸城郡駒帰(現在の新潟県糸魚川市周辺)において、景虎方の将である上野家成・庄田定賢らの軍勢と激突し、敗北を喫しました(駒帰の戦い) 3 。皮肉なことに、この時朝秀を打ち破った上野家成は、景虎出家騒動の原因ともなった家中の領地争いの当事者の一人であり、この事実は長尾家中の対立構造の根深さと、それが朝秀の運命に直接的な影響を与えたことを象徴していると言えるでしょう 17 。敗れた朝秀は、越中方面へと逃亡しました。

4.2. 武田信玄への帰順とその後の待遇

越後を追われた大熊朝秀ですが、その後の数年間の動向は必ずしも明確ではありません。しかし、永禄6年(1563年)、すなわち謀反から約7年後、武田信玄の招聘を受けて甲斐国へ赴き、武田氏に仕えることになります 3

武田家に仕官した当初、朝秀は譜代家老である山県昌景の与力(同心)として配属されました 3 。これは、敵方からの降将に対する一般的な処遇であり、まずはその能力や忠誠心を見極める期間であったと考えられます。

しかし、朝秀は単なる降将に終わりませんでした。やがて信玄の直臣として取り立てられ、足軽大将として騎馬30騎、足軽75人持ちという、外様家臣としては破格とも言える待遇を受けるに至ります 3 。武田家の家臣団を記したリストにも、「大熊備前守長秀(朝秀のことか) 騎馬30 足軽75 遠江小山城代 元上杉氏家臣」といった記述が見られ 18 、彼が武田家中で一定の軍事力を預かる重要な立場にあったことが確認できます。

信玄が、かつての宿敵・上杉謙信の重臣であった朝秀をこれほどまでに厚遇した背景には、いくつかの理由が考えられます。まず、朝秀が長尾家で培った軍事・行政の経験、特に財務に関する専門知識や、越後の内情に関する詳細な情報が、信玄にとって極めて価値の高いものであったことは間違いありません。特に対上杉戦略を練る上で、彼の知識と経験は貴重な情報源となったはずです。また、有能な人材であれば出自を問わず登用するという信玄の実力主義的な側面と、敵であった上杉家の元重臣を味方に引き入れることによる政治的・戦略的効果(上杉家臣団への揺さぶりや、武田家の威信向上など)の両方を狙った人事であった可能性も指摘できます。

4.3. 武田家臣としての活動

武田信玄のもとでその才能を認められた大熊朝秀は、信玄の子・勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、引き続き武田家臣として重要な役割を担い続けました。

特筆すべきは、遠江国小山城(現在の静岡県榛原郡吉田町)の城代に任じられたことです 3 。小山城は、武田氏の遠江支配における重要拠点であり、特に徳川家康との勢力争いの最前線に位置していました。このような戦略的要衝の城代を任されるということは、朝秀の軍事指揮官としての能力と、武田家に対する忠誠心が高く評価されていたことを示しています。

さらに、天正7年(1579年)には、主家である武田氏と、かつての主家である上杉氏との間で締結された軍事同盟、いわゆる甲越同盟の成立に貢献したと伝えられています 3 。これは、朝秀が元上杉家臣であったという経歴を活かし、両家の間を取り持つ外交交渉の一翼を担った可能性を示唆しています。敵対関係にあった両家が同盟を結ぶという複雑な外交交渉において、彼の存在が何らかの形で役立ったことは想像に難くありません。

また、『甲陽軍鑑』には、信玄の命により上野国(現在の群馬県)の長野業盛を攻めた際、当代随一の剣豪として名高い上泉信綱と一騎討ちを演じ、無傷で引き分けたという武勇伝が記されています 3 。『甲陽軍鑑』の記述は、その史実性について慎重な検討が必要とされるものの、このような逸話が生まれること自体が、朝秀がある程度武勇に優れた武将として認識されていた可能性を示唆しています。

武田家という実力主義の家中で、外様出身でありながら城代を任され、外交にも関与し、さらには武勇伝まで残るというのは、彼が軍事、行政、外交といった多方面で卓越した能力を発揮し、武田家にとって不可欠な存在となっていたことを物語っていると言えるでしょう。

5. 最期と評価

5.1. 天目山の戦いと討死

栄華を誇った武田氏も、長篠の戦いでの大敗以降、その勢力に陰りが見え始めます。そして天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による大規模な甲州征伐が開始されると、武田家の屋台骨は急速に崩壊していきます。多くの譜代家臣までもが次々と武田勝頼を見限り、織田・徳川方に寝返るという絶望的な状況の中で、大熊朝秀は最期まで勝頼と運命を共にしました 2

勝頼主従は、最後の抵抗拠点として目指した岩殿城主・小山田信茂の裏切りにも遭い、天目山(現在の山梨県甲州市)へと追い詰められます。そして、同年3月11日、天目山の戦いにおいて、朝秀は勝頼に付き従い、壮絶な討死を遂げたと伝えられています 2 。この彼の最期は、かつて長尾家を裏切った経歴を持つにもかかわらず、新たな主家である武田家に対して最後まで忠節を尽くした行動として、特に武田氏の旧領である甲斐国では高く評価されています 2 。彼の法名は道秀(どうしゅう)であったと記録されています 2

武田家滅亡という土壇場において、多くの家臣が離反する中で、元は外様であった朝秀が最後まで勝頼に付き従ったという事実は、彼の武士としての義理堅さや、武田信玄・勝頼親子から受けた恩義に対する強い意識の表れと解釈できます。これは、戦国武将の「忠義」のあり方が一様ではなく、個人の価値観や主君との関係性によって多様な形を取り得ることを示す好例と言えるでしょう。

5.2. 人物像と後世の評価

大熊朝秀は、その生涯を通じて多才な能力を発揮した武将であったと考えられます。前述の通り、長尾家では段銭方として財務・行政能力を、武田家では小山城代として軍事指揮能力を、そして甲越同盟締結時には外交交渉能力の一端を示しました。

武勇に関しても、剣豪・上泉信綱との一騎討ちの逸話が『甲陽軍鑑』に記されていることは 3 、彼が単なる吏僚ではなく、武人としての側面も評価されていたことを示唆します。ただし、『甲陽軍鑑』は江戸時代に成立した軍学書であり、武田家の武功を称揚する傾向があるため、その記述の史実性については慎重な吟味が必要です。

彼の人物像を伝える史料としては、武田側の視点が多く反映された『甲陽軍鑑』の他に、上杉側の記録である『上杉家御年譜』などがあります。『上杉家御年譜』では、朝秀の謀反や駒帰の戦い、そして武田氏への亡命について触れられており 17 、彼が長尾家を裏切った事実が記されています。これらの異なる立場から書かれた史料を比較検討することで、彼の行動に対する多角的な理解が深まります。例えば、『甲陽軍鑑』が朝秀の武勇伝を記すのは、武田家に降った有能な武将として彼を称揚する意図があったかもしれません。

一次史料に近い古文書としては、「大熊朝秀連署起請文」の存在が確認されており 22 、このような史料は彼の具体的な活動や当時の立場を直接的に示す貴重な証拠となります。

後世の評価としては、特に武田家に対する最期の忠節が高く評価されており、甲府ではその精忠がいまなお称えられていると伝えられています 2 。一方で、長尾家(上杉家)から見れば裏切り者であるという評価も免れません。近年のゲームなどの創作物においては、攻撃力やクリティカル率が高いアタッカーとして設定されるなど、武勇に優れた猛将としてのイメージで描かれることもあるようです 23

大熊朝秀の多面的な能力と複雑な経歴は、戦国時代という流動的な社会で武将がいかにして生き残り、評価を確立していったかを示す興味深い事例と言えるでしょう。

6. 子孫たちのその後

6.1. 子・大熊長秀について

大熊朝秀には、長秀(ながひで)という息子がいたことが確認されています 3 。長秀は新左衛門尉、備前守といった官途名を名乗ったとされます。

史料によれば、長秀は父・朝秀と共に武田信玄に仕え、当初は山県昌景の同心(与力)となりました。永禄8年(1565年)の上州箕輪城攻めにおいては武功を挙げ、信玄から感状を授けられ、馬上30騎と足軽75人を預かる足軽大将に昇進したといいます。この時に備前守を名乗るようになったとされています 14

さらに、元亀2年(1571年)には、信玄の命により遠江小山城の城主(または城代)に任じられ、その屋敷跡も残っていると伝えられています 14 。ただし、父である朝秀も小山城代に任じられたという記録があり 3 、役職や時期が近いため、父子の事績が一部混同されている可能性も否定できません。例えば、武田家の家臣団リストに「大熊備前守長秀」という名が見られますが 18 、これが父・朝秀を指すのか、子・長秀を指すのか、あるいは同一人物の異なる呼称なのかについては慎重な吟味が求められます。一般的に「大熊備前守」は朝秀の官途名として知られていますが、 14 の記述の具体性を考慮すると、子の長秀も同様の官途名や役職を得ていた可能性も考えられます。

父・朝秀が武田家滅亡の際に勝頼に殉じたのとは対照的に、子・長秀の最期は大きく異なります。天正10年(1582年)の甲州征伐の際、長秀は武田勝頼を裏切り、織田方に捕縛された後、信濃国で処刑されたとされています 14 。『甲乱記』には、甘利信頼(信頼か)や秋山昌成と共に勝頼から離反したと記され、『三河物語』では、娘婿であった甘利信頼と共に勝頼から離反し、あろうことか勝頼に対して弓矢鉄砲を撃ちかけた、とまで記述されています 25

長秀が処刑された理由については、主君である勝頼を裏切った行為そのものを織田方から咎められたためである可能性が高いと見られています 14 。父が忠死を遂げた同じ年に、息子が裏切りによって処刑されるという事実は、戦国末期の混乱期における武士の生き残り戦略の多様性と、個人の価値観や置かれた状況によって行動が大きく左右されることを示しています。

6.2. 真田家に仕えた子孫

父・朝秀が武田家に忠節を尽くし、子・長秀が裏切りによって非業の最期を遂げる一方で、大熊朝秀の血筋は別の形で後世に繋がったと伝えられています。

複数の記録によれば、大熊朝秀の子孫は、武田家滅亡後、同じく武田家の旧臣であった真田氏に仕え、武田家遺臣として家老を務めるなどして家名を存続させたとされています 1

武田家滅亡後、当主であった真田昌幸は多くの武田遺臣を積極的に登用し、自らの家臣団を強化しました。大熊朝秀の子孫が真田家に仕えたのも、こうした武田家遺臣のネットワークの中で行われた可能性が高いと考えられます。武田家で重臣として活躍し、最後まで忠節を貫いた朝秀の家系であれば、真田家においても一定の評価と待遇をもって迎えられたことは想像に難くありません。

具体的にどのような経緯で真田家に仕えたのか、また真田家でどのような役割を果たしたのかについての詳細な情報は、現時点では限定的です。江戸時代に松代藩主となった真田家の家臣名簿には「大熊」姓が見られることが確認できますが 27 、これが朝秀の直接の子孫であるかまでは明確に断定できません。しかし、複数の史料が子孫の真田家仕官を伝えていることから、その信憑性は比較的高いと考えられます。

子・長秀が裏切りによって処刑された一方で、別の子孫が真田家という新たな主君のもとで家名を保ったという事実は、一族存続のための多様な方策が取られた可能性を示唆します。あるいは、長秀とは別の系統の子孫(例えば 3 に名が見える常光など)が真田家に仕えたのかもしれません。戦国時代から江戸時代へと移行する激動の時代の中で、多くの武家が断絶の危機に瀕しながらも、様々な形で家名を繋いでいった歴史の一端を、大熊氏の事例からも垣間見ることができます。

7. おわりに

大熊朝秀の生涯は、越後上杉氏の重臣から武田氏家臣へと大きくその立場を変えながらも、それぞれの時代と場所で重要な役割を果たした、まさに戦国乱世を象徴するような武将の一人であったと言えます。

長尾家(上杉家)においては、父祖伝来の財政・行政能力を活かして主君・長尾景虎(上杉謙信)を支え、箕冠城主として国境防衛の重責を担いました。しかし、家中の深刻な対立と主君の出家騒動という混乱の中で武田信玄の調略に応じ、謀反を起こして越後を追われます。この行動は、当時の武士が自己の家と立場を守るために下した、苦渋に満ちた現実的な選択であったのかもしれません。

その後、武田家に仕官してからは、信玄・勝頼父子から厚遇され、軍事指揮官として遠江小山城代を務め、さらには甲越同盟の締結にも関与するなど、多方面での活躍を見せました。そして最期は、多くの家臣が離反する中で武田勝頼と運命を共にし、天目山に散るという壮絶な忠死を遂げました。この行動は、彼が武田家から受けた恩義に対する強い意識と、武士としての矜持を示すものであったと解釈できます。

大熊朝秀の生涯は、能力主義が重んじられ、主家の盛衰が激しく、家臣団内部の対立が絶えなかった戦国時代という時代背景、そして個人の忠義と生存戦略といった、この時代を特徴づける複数の要素が凝縮されたものであったと言えます。彼の物語は、裏切りと忠誠という単純な二元論では到底割り切ることのでない、戦国武将の複雑な生き様を私たちに示してくれます。

大熊朝秀のような、歴史の表舞台で常に主役であったわけではない武将の生涯を詳細に追うことは、上杉氏や武田氏といった大大名の歴史を、彼らを支えた家臣団の視点からより深く、そして立体的に理解することに繋がります。また、彼の経験は、戦国時代における人材の流動性や、大名家による人材登用の実態、そして「忠義」という概念が持つ多層性を示す貴重な事例として、戦国時代史研究に少なからず貢献し得るものと考えられます。彼の生涯は、単なる一個人の歴史に留まらず、戦国という時代の複雑性と多様性を理解するための一つの窓となるのではないでしょうか。

大熊朝秀 略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

出来事

典拠例

生年不詳

不詳

大熊政秀の子として生まれる

3

享禄年間頃

1528-1532頃

父・政秀の活動が途絶え、家督を継承したと推定

3

天文年間

1532-1555

長尾景虎(上杉謙信)に仕え、箕冠城主となる。段銭方など財務担当の奉行職を務める

2

天文17年

1548年

長尾景虎の守護代就任を支持

7

弘治2年

1556年

長尾景虎の出家騒動に乗じ、武田信玄に内通して謀反。会津の蘆名盛氏、越中一向一揆と呼応して越後に侵攻

3

弘治2年8月23日

1556年

駒帰の戦いで上野家成らに敗れ、越中へ逃亡

3

永禄6年

1563年

武田信玄に招聘され、武田氏に仕官。当初は山県昌景の与力となる

3

永禄6年以降

1563年以降

信玄の直臣となり、足軽大将(騎馬30騎、足軽75人持)となる。遠江小山城代に任じられる

3

天正7年

1579年

武田氏と上杉氏の間の甲越同盟締結に貢献

3

天正10年3月11日

1582年4月3日

甲州征伐において、天目山の戦いで武田勝頼に殉じて討死。法名・道秀

2

大熊朝秀 関係人物一覧

分類

人物名

大熊朝秀との関係・概要

典拠例

主君(長尾・上杉家)

長尾景虎(上杉謙信)

越後時代の主君。側近として政務・財務を担当。後に出家騒動の際に謀反を起こされる。

2

主君(武田家)

武田信玄

謀反後、朝秀を招聘し家臣とする。その能力を高く評価し、直臣として重用した。

3

武田勝頼

信玄の子。朝秀は勝頼の代にも引き続き重用され、最期は天目山で勝頼と運命を共にした。

2

同僚等(長尾家)

本庄実乃

景虎の重臣。景虎守護代就任時に朝秀らと共に支持。

7

直江実綱

景虎の重臣。景虎守護代就任時に朝秀らと共に支持。

7

上野家成

長尾家臣。領地争いが景虎出家騒動の一因。駒帰の戦いで朝秀を破る。

3

同僚等(武田家)

山県昌景

武田四名臣の一人。朝秀が武田家仕官当初、その与力として配属された。

3

上泉信綱

剣聖と称される剣豪。『甲陽軍鑑』に、朝秀と一騎討ちをして引き分けたという逸話が残る。

3

家族

大熊政秀

朝秀の父。越後守護上杉氏の段銭方を務めた。

2

大熊長秀

朝秀の子。父と共に武田氏に仕えるが、武田家滅亡時に勝頼を裏切り、処刑されたとされる。

14

常光

朝秀の子として名が見える。

3

小畠日浄の娘・小宰相の局

朝秀の妻とされる。

2

関連勢力

蘆名盛氏

会津の戦国大名。朝秀の謀反に呼応して越後に侵攻。

3

越中一向一揆

朝秀の謀反に際し、彼に率いられて越後に侵攻。

3

引用文献

  1. 大熊氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%86%8A%E6%B0%8F
  2. 大熊朝秀 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/toti/jinbutu/ookuma.html
  3. 大熊朝秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%86%8A%E6%9C%9D%E7%A7%80
  4. 箕冠城跡 - 新潟観光ナビ https://niigata-kankou.or.jp/spot/8431
  5. 箕冠城跡 | 【公式】上越観光Navi - 歴史と自然に出会うまち、新潟県上越市公式観光情報サイト https://joetsukankonavi.jp/spot/detail.php?id=33
  6. 箕冠城の見所と写真・100人城主の評価(新潟県上越市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1164/
  7. 第28話 越後守護代長尾景虎 - 越後の龍 再び!(大寿見真鳳) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16818093085133845457/episodes/16818093087162162406
  8. 長尾景虎(上杉謙信)のクーデター -謎めいた家督相続劇の実像- https://sightsinfo.com/sengoku/uesugi_kenshin-03
  9. 長尾景虎の越後統一(2) -家督継承直後の政略- https://sightsinfo.com/sengoku/uesugi_kenshin-04_02
  10. 第十三話 川中島への道(後) - 天と地と姫と 織田信奈の野望 外伝/春日みかげ(ファンタジア文庫) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/4852201425154954562/episodes/4852201425155017874
  11. 上杉謙信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
  12. 上杉謙信は何をした人?「最強・無敗の毘沙門天の化身は正義の ... https://busho.fun/person/kenshin-uesugi
  13. 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
  14. 大熊備前守屋敷 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/touen/ookumabizen.y/ookumabizen.y.html
  15. 戦国武将の失敗学② 明智光秀が予期できなかった「人心の離れ」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-085.html
  16. それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い) - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2022/11/14/100349
  17. 国史跡 春日山城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/kasugayamajyo.htm
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