本報告書は、戦国時代の武将、大道寺盛昌(だいどうじ もりまさ)の生涯と、後北条氏の関東支配体制確立におけるその役割を、一次史料と近年の学術的研究成果に基づいて徹底的に解明することを目的とする。一般に盛昌は、後北条氏の譜代の重臣であり、鎌倉代官や河越城代を歴任した人物として知られている 1 。しかし、その実像は単なる一武将にとどまらない。本報告書では、彼を後北条氏の領国経営の根幹を築いた卓越した行政官僚として再評価し、その多岐にわたる活動を通じて、後北条氏という戦国大名の統治の特質を浮き彫りにする。
大道寺盛昌という一人の重臣の生涯を深く掘り下げることには、大きな歴史的意義が存在する。彼の活動は、後北条氏が伊豆・相模の一勢力から、関東一円を支配する巨大な戦国大名へと飛躍する過程と密接に連動している。特に、鎌倉という旧来の権威の中心地をいかに掌握し、鶴岡八幡宮の再建という国家的事業を通じて新たな公権力としての地位を確立したか、そして河越城を拠点として武蔵国の支配をいかに安定させたかという、後北条氏の発展における重要な局面において、盛昌は常に中心的な役割を担っていた 1 。彼の生涯を追うことは、後北条氏の統治機構の実態、すなわち武力による征服と、行政・文化政策による支配の安定化という二つの側面がいかに巧みに組み合わされていたかを理解するための、またとない鍵となるのである。
以下に、盛昌の生涯と後北条氏の動向を一覧できる年表を掲げる。
西暦(和暦) |
盛昌の年齢(推定) |
大道寺盛昌の役職・活動 |
関連する後北条氏・国内外の出来事 |
典拠史料・文献 |
1489/1490年(延徳元/2年) |
0歳 |
誕生 |
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1 |
永正初年頃 |
10代前半 |
伊勢盛時(北条早雲)より偏諱を受け「盛昌」と名乗る |
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1 |
1510年(永正7年) |
21/22歳 |
鎌倉代官として活動を開始。鎌倉の寺社統制にあたる |
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1 |
年未詳(大永7年~天文9年) |
38~51歳 |
駿河石脇城在城時の知行地・江梨の不入権を承認 |
北条早雲、死去(1519年) |
4 |
1526年(大永6年) |
37/38歳 |
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里見義豊との戦いで鶴岡八幡宮が焼失 |
1 |
1532年(天文元年) |
43/44歳 |
鶴岡八幡宮の造営総奉行に任命される |
北条氏綱、鶴岡八幡宮の再建事業を開始 |
2 |
時期不明 |
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北条為昌の烏帽子親を務め、「昌」の一字を与える |
北条為昌、玉縄城主就任 |
1 |
1537年(天文6年) |
48/49歳 |
第一次河東一乱で、駿河吉原城の防衛に派遣される |
北条氏綱、河越城を攻略 |
1 |
1541年(天文10年) |
52/53歳 |
北条氏康が家督を継承し、家中の最長老格となる |
北条氏綱、死去。北条氏康が家督継承 |
1 |
1542年(天文11年) |
53/54歳 |
北条為昌の死後、河越領を継承し、河越城に在城 |
北条為昌、死去 |
1 |
1546年(天文15年) |
57/58歳 |
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河越夜戦。北条氏康が連合軍に大勝 |
3 |
1549年(天文18年) |
60/61歳 |
妻・蓮馨尼が河越に蓮馨寺を創建(伝承) |
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8 |
1550年(天文19年) |
61/62歳 |
閏5月、鎌倉浄智寺に寺領を寄進(史料上の終見) |
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1 |
1550/1551年(天文19/20年) |
62歳 |
7月12日、死去。法名は宗真(宗心) |
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1 |
大道寺盛昌の生涯を理解する上で、まず彼が属した大道寺氏そのものの出自と、後北条家臣団におけるその特殊な地位を把握することが不可欠である。
大道寺氏は、後北条氏の家臣団の中でも「御由緒六家(ごゆいしょろっけ)」と呼ばれる特別な家格に位置づけられていた 9 。これは、後北条氏の祖である北条早雲(伊勢宗瑞)がまだ一介の素浪人であった頃から彼に従い、その覇業を草創期から支えたとされる六つの家(大道寺氏、多目氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏)を指す呼称である 9 。『北条記』などの後代の軍記物によれば、若き日の早雲とこの六人が神水を酌み交わし、「誰か一人が大名になったならば、他の者は家臣となってこれを支えよう」と誓い合ったという伝説が語られている 9 。
この伝承の史実性は慎重に検討する必要があるが、大道寺氏がこの御由緒六家の筆頭格として常に挙げられていることは、彼らが後北条家臣団の中で別格の扱いを受けていたことを示している 10 。この特別な地位は、後北条氏が自らの支配の正統性を構築する上で、戦略的に用いられた側面が強い。関東に突如として現れ、実力で領国を拡大した後北条氏にとって、創業時からの固い絆で結ばれた譜代家臣の存在を内外に示すことは、支配を安定させるための重要なイデオロギーであった。その象徴として「御由緒家」という概念が形成され、その筆頭に大道寺氏が据えられたことは、彼らが単なる譜代家臣以上の、いわば後北条氏の「共同創業者」とも言うべき存在として認識されていたことを物語っている。
大道寺氏の具体的な出自については、藤原南家流や桓武平氏流など諸説あり、判然としない 14 。一説には、山城国(現在の京都府南部)の小栗栖(おぐるす)にあった大導寺という地名に由来するとも言われる 2 。
史料で確認できる最初の当主は、盛昌の父とされる大道寺重時(しげとき)である 1 。法名を「発専(ほっせん)」といい、早雲の従兄弟とも伝えられる 11 。早雲の駿河下向に従い、その後の伊豆平定を補佐したが、永正6年(1509年)の立河原の戦いで戦死したとされる 11 。しかし、これらの伝承も後代の記録に依る部分が大きく、そもそも早雲と共に駿河へ下向したのは父・重時ではなく盛昌自身であったとする異説も存在するなど 1 、大道寺氏の初期の動向には不明な点が多い。
大道寺盛昌は、延徳元年(1489年)または2年(1490年)に生まれたと推定される 1 。永正年間(1504年-1521年)の初め頃に元服し、主君である伊勢盛時(北条早雲)から「盛」の一字を偏諱として授かり、「盛昌」と名乗った 1 。主君から名の一字を与えられることは、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、盛昌が若くして早雲の側近くに仕え、その将来を嘱望されていたことを示している。
父・重時(発専)の戦死を受けて家督を継いだとみられる盛昌の具体的な活動を伝える最も早い時期の一次史料として、神奈川県立歴史博物館が所蔵する「大道寺盛昌書状」(江梨鈴木家文書)が挙げられる 4 。この文書は年未詳ながら、卯月(4月)2日付で鈴木入道という人物に宛てて出されたもので、その内容は盛昌の初期の役割を考える上で非常に示唆に富む。
書状によれば、鈴木入道は自身の知行地である伊豆の江梨(現在の静岡県沼津市)に人夫役が課せられたことに対して抗議した。これに対し盛昌は、「かの地は、拙者が早雲様に従って駿河の石脇城(現在の静岡県焼津市)に在城しておりました頃より、不入(ふにゅう、租税や公役の免除特権)の地であると承知しております」と述べ、鈴木氏の主張を全面的に認め、不入権を再確認している 4 。
この書状から二つの重要な事実が読み取れる。第一に、盛昌が早雲の駿河在城時代から、石脇城という軍事拠点で活動していたことである。これは彼が単なる戦闘員ではなく、兵站管理や拠点運営といった後方支援に関わる実務を担っていた可能性を示唆する。第二に、後北条氏が新たに支配下に置いた地域において、在地領主の既得権益や慣習を尊重し、対話によって問題を解決しようとしていたことである。盛昌は高圧的な態度を取らず、過去の経緯を認めることで鈴木氏との関係を円滑に保とうとしている。これは、後北条氏の巧みな領国経営術の一端であり、盛昌がその実務担当者として早くから行政手腕を発揮していたことを物語る。彼の役割は、武力による征服の「後始末」と「地固め」であり、後北条氏の領国拡大において不可欠な存在であったと言えよう。
北条氏の二代目当主・氏綱の時代、大道寺盛昌はその行政官としての能力を遺憾なく発揮し、後北条家臣団の中で不動の地位を築いていく。特に「鎌倉代官」としての統治と、「鶴岡八幡宮造営総奉行」としての大事業の遂行は、彼のキャリアにおける二大功績と言える。
盛昌は、史料上、永正7年(1510年)には既に「鎌倉代官」の職にあったことが確認されている 1 。鎌倉は源頼朝以来の武家の古都であり、その地を支配することは、関東における後北条氏の権威を象徴する上で極めて重要であった。盛昌は鎌倉代官として、現地の寺社勢力の統制など、複雑な統治実務を担っていた。
彼の鎌倉における役割は、北条氏綱の次男・為昌(ためまさ)が玉縄城(現在の神奈川県鎌倉市)の城主となると、さらに重要な意味を持つようになる。盛昌は若年の為昌の「後見役」に任じられ、その政務を補佐したのである 1 。この点について、歴史学者の佐藤博信氏は、盛昌が単に鎌倉の代官であっただけでなく、本来は玉縄城が管轄する鎌倉郡一帯を含む「相模国東部地域の代官」であり、為昌の後見役となったことで、特に「鎌倉代官」としての職務が前面に出るようになったと推定している 1 。
この人事は、後北条氏の巧みな統治システムを如実に示している。すなわち、玉縄城のような重要拠点には、一門の若年当主を名目的な支配者として配置し、その脇を経験豊富な譜代の宿老が「後見役」兼「代官」として固めるという体制である。これにより、一門による軍事的な権威の保持と、譜代家臣による安定した実務行政とを両立させることができた。盛昌の鎌倉代官としての役割は、単なる地方官吏ではなく、後北条氏の支城体制と領国統治システムの中核を担う、きわめて高度な政治的ポジションだったのである。
氏綱政権下における盛昌の最大の功績は、鶴岡八幡宮の再建事業を成し遂げたことであった。大永6年(1526年)、房総の里見義豊との戦火により、関東武士の精神的支柱であった鶴岡八幡宮の社殿が焼失した 1 。この荒廃した聖地を復興することは、後北条氏が関東の新たな支配者としての地位を確立する上で、避けては通れない課題であった。
氏綱はこの国家的プロジェクトの責任者である「造営総奉行(惣奉行)」に、大道寺盛昌と笠原信為(のぶため)を任命した 1 。この造営の様子は、八幡宮の供僧であった快元が記した日記『快元僧都記』に克明に記録されており、盛昌の具体的な活動を知る上で第一級の史料となっている 5 。
『快元僧都記』によれば、盛昌らの仕事は天文元年(1532年)の境内樹木の調査から始まった 17 。その職務は、建築用材の調達、全国から集める大工・塗師・絵師といった多様な職人の手配と管理、さらには敵対関係にあった房総の里見氏や北武蔵の国衆にまで協力を求める外交交渉など、極めて多岐にわたった 5 。この困難な事業を実務責任者として見事に遂行した盛昌の手腕は、後北条氏の統治能力の高さを具体的に示すものであった。
この事業は、単なる宗教施設の復興ではなかった。それは、後北条氏が旧来の関東の支配者であった鎌倉公方や関東管領に代わる新たな「公権力」であることを、関東全域に宣言する高度な政治的パフォーマンスであった。源氏の氏神であり、鎌倉幕府の象徴である八幡宮を自らの手で再建することで、氏綱は「自分こそが関東の平和と秩序を回復する者である」という強力なメッセージを発信したのである。盛昌は、この後北条氏の威信をかけた最重要プロジェクトを成功に導いた最大の功労者であり、その功績は軍事的なもの以上に、政治的・文化的な意味合いにおいて計り知れない価値を持つ。
また、この事業を通じて、盛昌は玉縄城主の為昌の烏帽子親を務め、自らの名から「昌」の一字を与えている 1 。これは、盛昌が単なる奉行職を超え、主君の子弟の教育係も任されるほど、氏綱から絶大な信頼を寄せられていたことの証左に他ならない。
天文10年(1541年)、氏綱が没し、その子・氏康が三代目当主となると、大道寺盛昌は家臣団の中で「最長老的な存在」として、引き続き重きをなした 1 。氏康の時代、後北条氏はその版図を最大に広げるが、盛昌はその安定した統治を支える重鎮として活躍する。
盛昌は卓越した行政官であったが、決して文官専門の人物ではなかった。天文6年(1537年)、今川氏との間で駿河東部の領有を巡って発生した「第一次河東一乱」においては、最前線である吉原城(現在の静岡県富士市)の防衛のために駿河へ派遣されている 1 。これは、彼が軍事指揮官としての能力と経験も兼ね備えており、重要な軍事作戦にも投入される信頼できる将であったことを示している。
盛昌のキャリアにおいて、しばしば誤解されているのが「河越夜戦」における役割である。
天文11年(1542年)、盛昌が後見役を務めていた玉縄城主・北条為昌が若くして死去すると、盛昌はその遺領である武蔵国の河越領を継承し、河越城(現在の埼玉県川越市)に在城することとなった 1 。北条一門の所領を譜代の家臣が継承するのは極めて異例のことであり、北条家中における盛昌の絶大な存在感と、主君からの厚い信頼を物語る出来事である 1 。
そして天文15年(1546年)、関東の覇権を決定づけた「河越夜戦」が起こる。『北条記』などの後代の軍記物では、盛昌がこの戦いで奮戦したかのように描かれることがあるが 7 、これは史実とは異なる。この戦いで、8万ともいわれる上杉・足利連合軍に包囲された河越城に籠城し、わずか3千の兵で半年間も持ちこたえたのは、北条一門の猛将・北条綱成(つなしげ)であった 7 。
盛昌の真の役割は、この河越夜戦の「後」にあった。氏康は、綱成の多大な軍功を賞賛しつつも、戦後の武蔵国統治という極めて重要な任務は、行政手腕に優れた宿老である盛昌に託したのである 3 。これは、氏康の極めて合理的で、適材適所の人事政策の表れであった。すなわち、合戦の功労者(綱成)と、その後の統治担当者(盛昌)を明確に使い分けることで、征服(軍事)と統治(民政)を車の両輪として機能させていたのである。盛昌の河越城代就任は、彼の武功によるものではなく、その卓越した統治能力が最大限に評価された結果であり、後北条氏の関東支配が新たな安定期に入ったことを象徴する人事であった。
盛昌は河越領を継承したものの、その権限は北条一門の当主である「御一家衆」とは異なり、あくまで宗家の代官である「郡代」に過ぎなかったとされる 1 。これは彼の支配が北条宗家の厳格な管理下にあり、独立した領主ではなかったことを意味する。
盛昌が河越城代として具体的にどのような統治政策を行ったかを示す直接的な史料は乏しい。しかし、彼の後継者である大道寺政繁が、河越城下において治水事業、金融商人の積極的な登用、掃除奉行や火元奉行の設置といった先進的な都市政策を展開し、城下を大いに繁栄させたことが知られている 25 。この政繁の辣腕の基礎は、盛昌の統治時代に築かれたと考えるのが自然であろう。
また、盛昌の人間性をうかがわせる逸話として、河越城下の蓮馨寺(れんけいじ)の創建伝承がある。天文18年(1549年)、盛昌の妻・蓮馨尼(れんけいに)が、河越夜戦で亡くなった敵味方の兵士たちの魂を弔うために、この寺を建立したと伝えられている 8 。この伝承が事実であれば、盛昌夫妻が新領地である河越の民心を掌握し、戦乱の傷跡を癒やすことに心を砕いていたことを示唆しており、彼の為政者としての一面を物語っている。
後北条氏三代にわたって重臣として仕え、その領国経営に多大な貢献をした大道寺盛昌も、やがてその生涯を終える時を迎える。彼の死と、その後の大道寺家の家督相続は、一族の研究における大きな論点となっている。
史料上で盛昌の活動が確認できる最後の記録は、天文19年(1550年)閏5月21日付で、鎌倉の浄智寺に寺領を寄進した際のものである 1 。これは、彼が晩年まで鎌倉の寺社と深い関係を保ち、その影響力を維持していたことを示すと同時に、彼の篤い信仰心の一端をうかがわせる。
その死については、天文19年(1550年)または翌20年(1551年)の7月12日に、62歳で没したと推測されている 1 。法名は宗真(または宗心)と伝えられる 2 。
盛昌の死後、小田原征伐時に活躍したことで著名な大道寺政繁(まさしげ)に至るまでの大道寺氏の系譜は、諸説が入り乱れ、非常に複雑である 1 。これは、後世に編纂された系図類が、事実関係を単純化、あるいは誤認したことに起因すると考えられる。
近年の研究、特に黒田基樹氏らの実証的な研究によって、その実像がかなり明らかになってきた。まず、盛昌の死後、家督は嫡男の周勝(かねかつ、通称は源六)が継承した 1 。周勝も父と同様に鎌倉代官と河越城代を兼務し、天文23年(1553年)には武田信玄の駿河侵攻に際して今川義元の救援軍として派遣されるなど、重臣としての活動が確認できる 6 。しかし、彼は永禄4年(1561年)の史料を最後に姿を消し、間もなく死去したとみられている 2 。
問題はその後である。周勝の嫡子・源六も早世したとみられ 2 、家督は周勝の弟と推定される資親(すけちか)が継いだ 2 。そして、この資親が元亀元年(1570年)に死去すると、その嫡子である政繁が家督を相続したのである 2 。
この系譜の混乱は、単なる記録の欠落ではなく、周勝とその子の早世という不測の事態によって、「兄から弟へ」、そして「叔父から甥へ」という変則的な家督相続が行われたことに起因する。後世の軍記物や家譜の編纂者は、偉大な盛昌と、同じく著名な政繁を直接結びつけようとして、「盛昌の子、政繁」あるいは「盛昌の孫、政繁」といった単純な系図を作成しがちであった 29 。しかし、史料を丹念に追うことで、より複雑だが現実に即した相続過程が浮かび上がってくる。この複雑な相続を乗り越えて宿老としての地位を維持し続けたこと自体が、大道寺家が後北条氏にとっていかに重要な一族であったかの証左と言えるだろう。
以下に、この錯綜する系譜に関する諸説を整理した比較表を示す。
系譜説 |
系譜図 |
主な典拠・提唱者 |
信憑性・問題点の考察 |
A. 盛昌-政繁(親子)説 |
盛昌 → 政繁 |
一部の軍記物、創作物 34 |
年代的に無理がある。盛昌(1490年頃生)と政繁(1533年生)では43歳差となり親子関係は可能だが、間に周勝・資親の存在が確認されるため、信憑性は低い。 |
B. 盛昌-周勝-政繁(祖父孫)説 |
盛昌 → 周勝 → 政繁 |
一部の軍記物、旧来の説 29 |
周勝と資親が同一人物であるか、資親の存在を無視した説。資親の活動が史料で確認されるため、正確ではない。 |
C. 盛昌-周勝-資親-政繁 説 |
盛昌 → 周勝(兄) 盛昌 → 資親(弟)→ 政繁 |
黒田基樹氏らの近年の研究に基づく説 2 |
最も史料と整合性が取れる説。周勝の早世後、弟の資親が家督を継ぎ、その子・政繁に継承されたとする。変則的だが、当時の家督相続としては十分にあり得る。 |
D. 盛昌-資親-政繁 説 |
盛昌 → 資親 → 政繁 |
一部の資料に見られる説 30 |
周勝の存在を省略している。周勝の活動は史料で確認できるため、この説も不正確である。 |
大道寺盛昌の生涯を、断片的な史料をつなぎ合わせ、多角的に検証してきた。その結果、浮かび上がってくるのは、単なる戦国武将のイメージを大きく超えた、卓越した行政官僚、そして宰相としての姿である。
第一に、盛昌は後北条氏の領国経営の根幹を築いた人物として評価されるべきである。鎌倉代官として武家の古都を掌握し、後北条氏の権威を確立した。鶴岡八幡宮の再建という国家的事業を総奉行として成功させ、後北条氏が関東の新たな公権力であることを内外に示した。そして、河越夜戦後の武蔵統治の要として河越城代に就任し、関東支配の安定化に大きく貢献した。これらの功績は、後北条氏が単なる軍事力に頼る大名ではなく、高度な統治能力と文化的権威を兼ね備えた存在へと飛躍する上で、不可欠なものであった。
第二に、彼の活動は、後北条氏の統治システムの特質を体現している。一門衆を軍事・政治の象徴として支城に置き、その実務を盛昌のような経験豊富な譜代の宿老が「後見役」や「代官」として支えるという体制は、後北条氏の強靭な組織力の源泉であった。盛昌は、早雲、氏綱、氏康という三代の当主から絶大な信頼を寄せられ、その期待に応え続けた。
最後に、彼の人物像は、冷徹な官僚というだけではない。江梨の鈴木氏とのやり取りに見られる旧来の慣習を尊重する公平さ 4 、そして妻・蓮馨尼による寺院建立の伝承に見られる戦乱の世に生きた人々への慰霊の心 8 など、人間的な深みも感じさせる。
大道寺盛昌は、戦場の華々しい武功によって名を馳せたわけではない。しかし、彼は後北条氏という巨大な組織の屋台骨を、その揺るぎない実務能力と忠誠心で支え続けた、まさに「縁の下の力持ち」であった。彼の歴史的功績は、後北条氏、ひいては戦国大名の統治を理解する上で、より高く評価されるべきである。