本報告書は、戦国時代の下野国那須郡(現在の栃木県北東部)に勢力を有した武将、大関宗増(おおぜき むねます)の生涯、那須家における彼の役割、そして宿敵であった大田原資清(おおたわら すけきよ)との確執と、それに伴う大関本家の変容について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に論じるものである。利用者より提供された情報、すなわち「那須家臣。福原資安とともに大田原資清を主君・資房に讒言、資清を追う。のちに復帰した資清に子・増次を討たれ、資清の子・高増に大関家を乗っ取られた」という概要を出発点とし、より深く多角的な分析を加えることを目的とする。
大関宗増の活動は、戦国期における那須氏内部の権力闘争の激しさ、ならびに「那須七騎」と称される有力家臣団の動向を理解する上で、極めて重要な事例を提供する。彼が一時的に築き上げた権勢とその後の失脚は、戦国期における地方国人領主の盛衰、家督相続の流動性、そして政略結婚や養子縁組が持つ戦略的意味合いを鮮明に浮き彫りにする。宗増の生涯を追うことは、下野国那須地方の戦国史の一断面を照らし出すことに他ならない。
大関氏は、下野国那須郡に勢力を張った那須氏の有力家臣団であり、「那須七騎」の一つに数えられる 1 。那須七騎は、主家である那須氏のほか、蘆野(あしの)氏、伊王野(いおうの)氏、千本(せんぼん)氏、福原(ふくはら)氏、そして大関氏、大田原氏によって構成されていた 3 。これらの家々は、主家である那須氏に対して強い独立性を有しており、時には主家の意向に背くこともあったとされる 4 。
大関氏の出自に関しては、複数の説が存在する。一般的には武蔵七党の一つである丹党(たんとう)の流れを汲むとされている 1 。しかしながら、この説には検討の余地がある。『大関家系図』には作為の痕跡が見られるとの指摘があり、特に大田原氏から大関高増(たかます)が養子として大関家に入った際に、大田原氏が伝えていた丹治姓の系図を大関氏の系図に繋ぎ合わせたとされる 5 。この背景には、戦国時代において家の権威を高めるために系図を飾る、あるいは有力な家系と結びつけるという当時の慣習が存在した可能性が考えられる。高増自身が、元は丹党を称する大田原氏の出自であるため、養子先の家系も同様に権威あるものとして再編しようとした動機がうかがえる。実際に、大関氏は本来、常陸国(現在の茨城県)の小栗(おぐり)氏から出た平姓であったとする説も有力である 5 。このように、戦国期の武家の系譜は、単なる血縁の記録に留まらず、家の威信や正統性を示すための政治的な意味合いを強く帯びていた。
大関宗増の父は、大関増雄(ますお)である 2 。増雄は小峯城主白川氏の娘を母とし、寛正2年(1461年)に関東公方足利成氏(あしかが しげうじ)の軍に属し、武蔵国での攻略戦などで軍功をあげたと伝えられている 6 。
宗増自身は、寛正3年(1462年)に増雄の子として誕生した 2 。官位は美作守(みまさかのかみ)を称したことが記録されている 2 。明応年間(1492年~1501年)頃、宗増はそれまでの居城であった黒羽(旧黒羽城、父祖伝来の地)から、堅田郷山田(現在の栃木県大田原市山田)にあった山田城に移ったとされる 6 。この山田城は平城であり、大関氏の本城であった白旗城(しらはたじょう)に対する出城としての機能も有していたと考えられる 6 。
大関宗増は、主君である那須資房(すけふさ)が進めた那須氏の再統一事業において、重要な功績を挙げたとされる 2 。これは、当時上那須家と下那須家に分裂していた那須氏の勢力を一本化しようとする資房の動きを支援したことを指すと考えられる。
具体的な活動としては、永正6年(1509年)、那須氏の当主(資房またはその父資親)が山田城(亀城とも呼ばれる)を修築し、実子である資久(すけひさ)を城主に据えた際、宗増は金丸肥前守(かなまる ひぜんのかみ)と共に資久の後見役を命じられている 6 。さらに永正17年(1520年)、白河城主であった結城義永(ゆうき よしなが)が山田城(亀城)を攻撃した際には、宗増は金丸氏、大田原氏、佐久山(さくやま)氏といった上那須の諸将と共に城を守り、奮戦した記録が残っている 6 。
これらの軍功や忠勤を通じて、大関宗増は那須家中で重臣としての地位を徐々に確立していった。彼の力は、単なる軍事的な貢献に留まらず、主家の信頼を得ることで政治的な影響力をも増していったことを示唆している。那須資房の子である政資(まさすけ)の代になると、宗増は大田原胤清(たねきよ、資清の父)らと共に政資を支持し、隣接する岩城氏や白河氏との戦いにおいても貢献した 8 。このように、忠実な奉公と戦場での活躍を積み重ねることで、宗増は那須家における自身の発言力を高めていった。これは、戦国時代の武将が勢力を伸長させる典型的な過程であり、主家への貢献が自身の地位向上に直結する時代の様相を反映している。
年(和暦/西暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
関連史料 (例) |
寛正3年 (1462) |
1歳 |
大関増雄の子として誕生 |
2 |
明応年間 (1492-1501) |
31-40歳 |
居城を黒羽より山田城に移す |
6 |
永正6年 (1509) |
48歳 |
那須資久の後見役を命じられる |
6 |
永正15年 (1518) |
57歳 |
大田原資清を讒言し追放 |
2 |
天文11年 (1542) |
81歳 |
大田原資清帰参。嫡男・増次、資清に討たれる。資清の子・高増を養子に迎える |
9 |
天文13年 (1544) |
83歳 |
死去 (通説) |
2 |
戦国時代の那須家は、一族内部や家臣間での勢力争いが絶えない、不安定な状況にあった 11 。上下那須家の分裂や、有力家臣同士の主導権争いは、那須氏の領国支配に常に影を落としていた。このような状況は、大関宗増のような野心と実力を兼ね備えた家臣にとって、自身の権力を拡大する好機ともなり得た。
永正15年(1518年)、大関宗増は、同じく那須七騎の一角を占める同僚、大田原資清の才能と台頭を妬み、主君である那須資房に対して資清を陥れるための讒言を行った 2 。この陰謀には、同じく那須七騎の一人である福原資安(福原五郎とも称される)が深く関与していたことが記録されている 13 。『大田原市史』には「福原五郎、大関弥五郎(宗増)那須家へ追従して永存(資清の法号)を讒す」とあり、両者が共謀して資清を失脚させようとした様子がうかがえる 13 。
讒言の具体的な内容については、残念ながら詳細な史料が乏しい。しかし、「資清の才を妬んで」という記述 2 から推測するに、資清の能力や家中での影響力の増大を恐れた宗増が、主君・資房の猜疑心を巧みに煽るような内容であったと考えられる。讒言は単なる個人的な嫉妬に留まらず、那須家中の権力バランスを自らに有利な形へ転換させようとする、計算された政治的策略であった。ライバルを排除することで、宗増と福原資安は那須家中における自らの発言力を一層強化しようとしたのである。
結果として、大田原資清は主君・那須資房によって追放されることとなり、一時は越前国(現在の福井県)へ逃れることを余儀なくされた 2 。『大田原市史』によれば、資清は武力衝突で利あらず居城の水口館を逃れ、実兄である麟道和尚が住職を務める塩谷邑館野川の長興寺にて出家し、永存(えいぞん)と号した。その後、さらなる修行と潜伏のためか、越前の永平寺へと赴いたとされている 14 。この追放劇は、戦国時代における権力闘争の非情さと、讒言という手段が時としていかに有効な武器となり得たかを示す事例と言える。
有力なライバルであった大田原資清を追放した後、大関宗増は那須家中でその権勢を一層強め、「専横を極めた」と評されるほどの力を振るうようになった 2 。那須政資が家督を継いだ後も、宗増の勢威は衰えることなく、むしろ増長し、「手のつけられない状態にあった」と伝えられている 15 。これは、主家内部における宗増の影響力が、他の家臣を圧倒するほど強大であったことを示している。
那須政資は、父・資房による上下那須の統一後、上那須の拠点であった山田城に入り、当初は大関宗増や大田原胤清(資清の父)らの支持を得て、岩城氏や白河氏といった外部勢力との戦いに臨んでいた 8 。宗増による政資への初期の支持は、政資の立場を安定させる上で重要であったと考えられる。しかし、資清追放後に宗増の権力が肥大化するにつれて、主君である政資との関係にも変化が生じた可能性が高い。
家臣の力が主君を凌駕する、いわゆる「下剋上」の風潮が蔓延した戦国時代において、宗増の「専横」は、那須氏の主家としての権威を相対的に低下させた危険性をはらんでいた。強力な家臣は主家にとって頼りになる存在であると同時に、一歩間違えれば主家の存立を脅かす存在にもなり得るという、戦国大名が抱える構造的なジレンマがここにも見て取れる。宗増の強大化した権力は、那須家内部の安定を損ない、後の大田原資清による復讐劇の土壌を醸成したとも言えるだろう。
永正15年(1518年)に大関宗増らの讒言によって追放された大田原資清は、天文11年(1542年)に那須領へ帰参するまでの約24年間、雌伏の時を過ごした。この長い潜伏期間中、資清は越前国の戦国大名である朝倉氏のもとに身を寄せ、その支援を受けていたとする説が有力である 1 。『大田原市史』には、資清が越前の永平寺において、当時の朝倉氏当主(史料により孝景、高弘、義景、隆景など複数の名が挙げられているが、時期的に朝倉孝景(宗淳孝景)の可能性が高い 14 )の知遇を得た経緯が記されている。兵法に関する議論を通じて朝倉氏当主との親交を深めた資清は、帰国に際して朝倉氏から兵(騎馬50騎、歩兵200名)を借り受けたとされる 14 。また、別の記録では、朝倉孝景が資清に250の兵を貸し与えたと具体的に述べられている 16 。
24年もの長きにわたる雌伏の末に、資清が那須の地に帰参し復讐を成し遂げることができた背景には、このような外部勢力からの支援が不可欠であったと考えられる。朝倉氏という有力な後ろ盾を得たことで、資清は単独では困難であったであろう大関宗増への挑戦を可能にした。この事実は、戦国時代の地方における権力闘争が、しばしば広域的な大名間の関係性と連動していたことを示している。追放された家臣であっても、外交手腕や人脈を駆使して外部の支援を取り付けることができれば、再び故郷の政治劇に影響力を行使する道が開かれることもあったのである。
天文11年(1542年)、那須領への帰参を果たした大田原資清は、積年の恨みを晴らすべく、復讐の最初の標的として大関宗増の嫡男である大関増次(ますつぐ)を狙った 2 。増次は弥五郎と称し、父・宗増の跡を継ぐべき立場にあり、当時は白旗城を改修して居城としていた 6 。彼は永正15年(1518年)の生まれと記録されている 10 。
同年12月20日(旧暦。西暦では1543年1月25日)、増次が少人数で鷹狩りに出た機会を捉え、資清は周到な計画のもとに奇襲を敢行した。増次は不意を突かれながらも石井沢(現在の栃木県大田原市付近か)で応戦したが、衆寡敵せず敗死した 10 。享年25歳という若さであった 10 。この増次の死は、大関宗増にとって後継者を失うという致命的な打撃であり、大関氏の宗増からの直接的な血筋は、事実上、この増次をもって途絶えたとされている 17 。
資清による増次の殺害は、戦国時代における復讐の苛烈さと、それがしばしば個人的な怨恨に留まらず、相手の一族の将来を根絶やしにすることを目的としていたことを示している。嫡男を排除することは、敵対する家を弱体化させ、その再興の芽を摘むための常套手段であった。鷹狩りという油断しやすい状況を狙った点からも、資清の周到な計画性と強い復讐心が見て取れる。
嫡男・増次を失い、後継者を欠いた大関宗増は、宿敵・大田原資清の長男である高増(たかます、後の大関高増)を養嗣子として迎え入れざるを得ないという、屈辱的な状況に追い込まれた 1 。高増は元来、大田原氏の血筋であり、父・資清の巧妙な政略によって大関宗増の養子となり、最終的に大関家の家督を継承することになったのである 18 。
この養子縁組は、単に後継者不在を補うという形式的なものではなく、実質的に大田原氏による大関家の乗っ取りを意味していた。資清は、宗増とその血統に対する復讐を遂げるだけでなく、大関氏の勢力基盤そのものを自らの影響下に置くことに成功した。
大田原高増の養子入りにより、大関宗増から続く直接の血統は大関家において途絶え、大田原氏の血を引く高増が新たな当主として大関家を率いることとなった 17 。これは、戦国時代における家の乗っ取りや勢力再編の一つの典型的な形態であり、血縁よりも実力が重視され、養子縁組が政略の道具として積極的に活用された時代の特徴を色濃く反映している。
高増は後に、それまでの居城であった白旗城から、新たに黒羽城(くろばねじょう)を築いて本拠を移し 1 、大関氏の新たな時代を切り開いた。皮肉なことに、宗増の失脚と高増の台頭は、結果として大関氏が近世大名として存続する礎を築くことにも繋がったのである 1 。この一連の出来事は、那須七騎内部の勢力図を大きく塗り替え、特に大田原氏が(福原氏への次男資孝の養子入りなども含め 9 )那須領内で支配的な影響力を持つに至る上で、決定的な転換点となった。戦国時代の権力闘争において、家系の存続や継承がいかに重要な戦略目標であったかを如実に物語っている。
大関宗増の没年については、複数の史料が存在し、一見すると混乱が見られる。しかし、詳細に検討することで、より確度の高い没年を特定することが可能である。
多くの主要な史料、例えば江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』 2 や、現代の編纂物であるWikipediaの記述 2 、そして『大田原市史』に収められた系図 6 などは、大関宗増の没年を天文13年(1544年)としている。特に『大田原市史』の系図では、享年82歳と具体的に記されている 6 。
一方で、『黒羽町誌』からの引用として、「慶長三年(一五九八)十一月十四日、病んで没した。齢七十三、両郷村寺宿の光厳寺に葬った」という記述が存在する 20 。この記事は「大関閑居未庵道松居士」に関するものとされている。しかし、この「未庵道松居士」という号は、大関宗増の養子である大関高増が用いたものであることが他の史料から確認できる 18 。高増は安碩斎道松(あんせきさいどうしょう)、または未庵(みあん)と号し、慶長3年(1598年)に72歳(数え年で73歳)で没している 18 。高増の生年は大永7年(1527年)であるため 18 、没年と享年が一致する。
以上の点を踏まえると、慶長3年に没した「道松居士」とは、大関宗増本人ではなく、その養子である大関高増を指す可能性が極めて高い。史料間の情報を照合し、関連する人物の号や生没年を比較検討することの重要性がここでも示される。記録の混同や誤伝は歴史研究において常に留意すべき点であり、多角的な検証が不可欠である。
したがって、 大関宗増本人の没年は、天文13年(1544年)、享年82歳とする説が最も妥当であると結論付けられる。
大関宗増は出家しており、その際の法号は沙弥道丹(しゃみ どうたん)と称したと記録されている 6 。前述の通り、「道松居士」という号は、養子である大関高増のものであり、宗増本人のものではないと考えられる。
記録された没年 |
史料 |
享年 |
関連する名・号など |
分析・考察 |
天文13年 (1544) |
『大田原市史』所収系図 6 , 『寛政重修諸家譜』 2 , Wikipedia 2 |
82歳 |
大関宗増、美作守、沙弥道丹 6 |
複数の史料で一致。生年(寛正3年/1462年)からの計算とも整合性が取れる。こちらが宗増本人の没年として最も有力である。 |
慶長3年 (1598) |
『黒羽町誌』 20 |
73歳 |
大関閑居未庵道松居士 20 |
大関高増(宗増養子)の没年・享年・号(未庵、道松)と酷似している 18 。高増は慶長3年に72歳(数え73歳)で死去。この記録は宗増ではなく、養子・高増に関するものである可能性が極めて高い。宗増本人の出家後の号は道丹である 6 。 |
大関宗増に対する歴史的評価は、彼の行動が那須家や大田原氏に与えた影響の大きさから、毀誉褒貶相半ばするものとなっている。大田原資清を讒言によって追放した後の宗増は、「専横を極めた」 2 、あるいは「手のつけられない状態にあった」 15 と評されており、那須家中で強大な権力を背景に、ある種独裁的な振る舞いをしていた様子がうかがえる。これは、彼の権力志向の強さと、目的のためには手段を選ばない非情な一面を示唆している。
一方で、那須資房による那須氏再統一への貢献 2 や、永正17年(1520年)の山田城防衛戦における奮戦 6 など、武将としての確かな功績も記録されている。これらの事実は、彼が単なる権謀術数に長けた人物であっただけでなく、軍事的な能力も有していたことを示している。
後世の創作物である歴史シミュレーションゲームなどにおける能力評価 22 は、あくまで参考程度に留めるべきであるが、戦国時代の武将として一定の能力を備えていた人物であったと推測することは可能である。
歴史上の人物評価の難しさについては、後の時代の大関増業(ますなり)に関する論評の中でも触れられており、「識者は増業の賢を称賛するあまり、藩情の真髄がわからず、一面のみの論評の向もある」とし、多角的な視点と史料批判の重要性が指摘されている 23 。大関宗増についても同様であり、単純に「讒言によって同僚を陥れた悪役」あるいは「復讐によって没落した悲劇の人物」といった一面的なレッテルを貼るのではなく、彼が生きた時代の価値観や、彼が置かれた複雑な権力闘争の状況を考慮に入れた、多面的な理解が求められる。
大関宗増の生涯は、才能ある同僚への嫉妬と策略、それによる一時的な権力掌握、そして長年の時を経ての宿敵による復讐と、それに伴う自家の血統の変容という、戦国時代においてしばしば見られた権力闘争の縮図と言えるだろう。彼の行動は、個人的な野心や保身の念だけでなく、一族の存続と勢力拡大という、当時の武士階級に共通する行動原理によっても強く動機づけられていたと考えられる。
戦国時代は、旧来の権威が揺らぎ、実力主義が台頭した時代である。そのような中で、宗増は自らの知略と武力を用いて那須家中に確固たる地位を築こうとした。しかし、その過程で用いた非情な手段は、結果として敵対勢力からの強い怨恨を招き、最終的には自身の血統による家督継承を断絶させるという皮肉な結末を迎えた。彼の生き様は、戦国武将の栄光と悲哀、そしてその時代の倫理観の複雑さを我々に伝えている。単純な善悪二元論では捉えきれない、人間的な葛藤や野望に満ちた一人の武将の姿がそこにはある。
大関宗増の生涯と活動を理解する上で、彼が拠点とした城郭は重要な意味を持つ。特に山田城と白旗城は、宗増とその一族の盛衰に深く関わっている。
大関宗増は、明応年間(1492年~1501年)に、それまでの居城であった八幡館から山田城(現在の栃木県大田原市片田下山田)に移ったとされている 6 。この城は、後に大関城とも呼ばれるようになった 7 。
山田城は、那珂川の東岸に広がる河岸段丘の平地に築かれた平城であった 7 。西側は那珂川に面し、天然の防御線として機能していたと考えられる。城の主要部分は、やや南北に長い長方形の主郭で構成され、その周囲は土塁と堀で固められていた。さらに、主郭の周囲には家臣団の屋敷が配置され、城全体としては複郭式の構造を有していたと推測される 7 。
しかし、永正17年(1520年)に白河城主結城義永の攻撃を受けた際、平城である大関氏の山田城は防御上の脆弱性を露呈したと記録されている 6 。この経験は、大関氏にとって城郭の立地や構造の重要性を再認識させる契機となった可能性があり、後に宗増の子・増次が山城である白旗城の改修に力を入れる一因となったとも考えられる。城郭の選択や改修は、当時の軍事技術や攻防の様相を反映するものであり、山田城での経験が後の大関氏の防衛戦略に影響を与えたことは想像に難くない。
白旗城(現在の栃木県大田原市黒羽町余瀬にあった白旗丘陵)は、元々応永年間(1394年~1428年)に大関氏の七代目当主である増清(ますきよ)が築城し、居城を移したと伝えられている 6 。
大関宗増の子である増次は、父・宗増の時代に経験した山田城の脆弱性を教訓としたのか、堅固な山城である白旗城の大規模な改修を行い、そこを自身の居城とした 6 。これは、平城よりも防御力に優れた山城を重視するという、戦国時代における城郭戦略の変化を反映しているとも言える。
大関家の家督を継いだ大田原高増も、後に黒羽城を新たに築いて本拠を移すまでは、この白旗城を居城としていた 18 。白旗城は、大関氏にとって山田城と並ぶ重要な拠点であり、特に宗増の時代から高増の初期にかけて、一族の浮沈を見守ってきた城と言えるだろう。
大関宗増の生涯を概観すると、それは戦国時代の地方武将が経験した栄光と挫折、権力闘争の激しさを象徴するものであったと言える。那須氏への貢献によって家中での地位を高め、同僚を策略によって排除し一時的に権勢を握るも、最終的にはその宿敵の周到な復讐によって嫡男を失い、自らの血統による家の継承を断たれるという結末は、当時の社会状況と武士の生き様を色濃く反映している。彼の人生は、個人の野心、一族の存続への執念、そして人間関係の複雑さが絡み合い、劇的な展開を見せた。
大関宗増の行動と、それに続く大田原資清による復讐、そして大田原高増による大関家の継承という一連の出来事は、那須七騎内部の勢力図を大きく塗り替える結果をもたらした。特に大田原氏の勢力伸長は著しく、これは後の黒羽藩大関氏が成立する遠因の一つとなったとも考えられる。宗増の時代における大関氏の動向は、単に一個人の成功と失敗の物語として捉えられるだけでなく、戦国期下野国における国衆のダイナミズム、家臣団のあり方、そして地域権力の変遷を考察する上で、極めて示唆に富む貴重な事例を提供している。彼の存在は、那須地方史において、権力闘争の厳しさと家の盛衰の儚さを示す一頁として記憶されるべきであろう。