本報告書は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて、美濃国を舞台に活躍した武将、妻木頼忠(つまき よりただ)の生涯を、その出自から死、そして一族のその後に至るまで、包括的かつ深く掘り下げて論じるものである。単に彼の戦歴を追跡することに留まらず、その時々の決断の背景にある政治的、地政学的な要因を分析し、激動の時代を生き抜いた生存戦略家としての側面を明らかにすることを目的とする。
妻木頼忠は、永禄8年(1565年)に生まれ、元和9年(1623年)に没した武将である 1 。美濃国妻木(現在の岐阜県土岐市)を本拠とし、明智光秀との深い縁故により、本能寺の変後、一族が存亡の危機に瀕する中で家督を継承した。その後、織田信長の旧臣である森長可への一時的な服属、豊臣政権下での巧みな自立、そして天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて徳川家康方として目覚ましい功績を挙げ、最終的には7,500石の交代寄合旗本として家名を再興した 1 。彼の生涯は、戦国から江戸へと移行する時代の大きなうねりの中で、一地方領主がいかにして巧みに立ち回り、家の存続と発展を成し遂げたかを示す、極めて興味深い研究対象と言える。
年号(西暦) |
頼忠の年齢 |
出来事 |
永禄8年(1565年) |
1歳 |
美濃国妻木にて、妻木貞徳の子として生誕 1 。 |
天正10年(1582年) |
18歳 |
本能寺の変、山崎の戦いで一族の多くが殉死。父・貞徳の隠居により家督を相続 4 。 |
天正11年(1583年)頃 |
19歳 |
金山城主・森長可の東濃侵攻を受け、奮戦の末に降伏。その麾下に入る 2 。 |
天正12年(1584年) |
20歳 |
小牧・長久手の戦いに森長可の配下として従軍。長可は討死 2 。 |
慶長5年(1600年) |
36歳 |
森忠政の信濃転封に同行せず独立。関ヶ原の戦いで東軍に属し、東濃の戦いで西軍の田丸直昌勢を破る 1 。 |
慶長6年(1601年) |
37歳 |
戦功により徳川家康から美濃国内7,500石を安堵され、交代寄合の格式を与えられる 3 。 |
慶長年間 |
37歳以降 |
妻木城を廃し、麓に妻木陣屋を構築。佐和山城、加納城の普請奉行を務める 1 。 |
慶長20年(1615年) |
51歳 |
大坂夏の陣に松平乗寿隊の一員として参陣し、戦功を挙げる 1 。 |
元和9年(1623年) |
59歳 |
10月2日、死去。享年59 1 。 |
妻木氏のルーツは、鎌倉時代から室町時代にかけて美濃国の守護大名として権勢を誇った清和源氏土岐氏に遡る 3 。『寛永重修諸家譜』などの系図によれば、土岐氏の祖である土岐光定から9代目の子孫にあたる彦九郎弘定が、本拠地とした美濃国土岐郡妻木郷(現在の岐阜県土岐市妻木町)の地名から「妻木」を名乗ったのが始まりとされる 10 。また、別の伝承では、14世紀に土岐氏の惣領であった土岐頼貞の孫、土岐明智彦九郎頼重が妻木城を築いたとされており、いずれにせよ妻木氏が古くから土岐氏一門としてこの地に根差した有力な一族であったことを示している 12 。
妻木氏の歴史を語る上で不可欠なのが、同じく土岐氏の庶流である明智氏との極めて密接な関係である。『美濃国諸旧記』においては、妻木氏が「明智の一家」と明記されており、明智氏から分かれた一族、あるいは同根の一族と強く認識されていたことがわかる 15 。土岐頼重が明智郷に居住した際には明智を、妻木郷に移った際には妻木を名乗ったという説も存在し、両家が単なる同族という以上に、運命共同体ともいえる強い結びつきを持っていたことがうかがえる 10 。
Mermaidによる関係図
この両家の密接な関係を象徴する最も著名な事実が、織田信長の重臣・明智光秀の正室である熙子(ひろこ)が妻木氏の出身であったことである 10 。熙子の父については、妻木勘解由左衛門範煕(のりひろ)とする説 15 と、妻木城主であった妻木広忠とする説 19 が存在するが、いずれにせよ妻木氏の直系から光秀に嫁いだことは、両家の強固な同盟関係を物語っている。
そして、本報告書の主題である妻木頼忠の父・妻木貞徳は、この熙子の従兄弟にあたると『寛永諸家系図伝』には記されている 8 。これにより、頼忠は明智光秀の妻の族子(一族の子)という、極めて近しい姻戚関係にあった。この「明智の縁」は、頼忠の生涯にわたって栄光と苦難の両方をもたらす、決定的な要因となる。光秀が織田家中で飛躍的な出世を遂げるにつれて、姻戚である妻木氏の地位も相対的に向上したことは想像に難くない。しかし、その強固な結びつきは、光秀が本能寺の変という天下の大事を引き起こした瞬間、一族を破滅の淵に突き落としかねない最大の弱点、すなわち「負の遺産」へと反転する運命にあった。
頼忠の父・妻木貞徳(さだのり)は、織田信長に直接仕える馬廻役を勤めていた 3 。これは、妻木氏が単に明智光秀の与力という立場に留まらず、信長の直臣団の一員として、織田政権の中枢に組み込まれていたことを示している。このような状況下、妻木頼忠は永禄8年(1565年)、貞徳の嫡男として生を受けた 1 。彼の母は、土岐三兵(延友信光)の娘であったと記録されている 2 。頼忠が生まれたこの時代、明智氏との縁は一族の将来を明るく照らす強みであったはずだが、彼が青年期を迎える頃、その同じ縁が彼の人生に最大の試練をもたらすことになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
天正10年(1582年)に至るまで、妻木氏は織田政権の一員として確固たる地位を築いていた。前章で述べたように、頼忠の父・貞徳が信長の馬廻衆であったことに加え、一族の重鎮である妻木広忠も明智光秀の与力として丹波平定戦などで軍功を挙げており、一族は光秀の指揮下で織田家の勢力拡大に貢献していた 5 。この時期は、妻木氏にとって最も安定し、栄光に浴した時代であったと言えるだろう。
しかし、天正10年(1582年)6月2日、主筋である明智光秀が本能寺で主君・織田信長を討つという未曾有の事変を引き起こしたことで、妻木氏の運命は暗転する。一族は光秀と運命を共にせざるを得ず、羽柴秀吉との山崎の戦いに臨んだ。しかし明智軍は敗北し、光秀は落命。その後の坂本城の攻防戦で、妻木城主であった妻木広忠は、明智一族の菩提を弔うために近江の西教寺に一族の墓を建立した後、その墓前で潔く自刃して果てた 3 。この一連の戦乱で、広忠の兄弟3名を含む一族郎党の多くが討死したと伝えられており、妻木氏は主だった人材のほとんどを失い、壊滅的な打撃を受けた 21 。
この一族存亡の危機に際し、頼忠の父・貞徳は重大な決断を下す。『寛政重修諸家譜』によれば、貞徳は本能寺の変の後、「采地を頼忠にゆづり,その身は美濃国妻木村に閑居」したと記されている 4 。当時18歳であった頼忠への家督相続は、通常の状況下で行われるような、家の安泰と発展を期したものではなかった。むしろ、これは「逆賊」明智氏との関係が極めて深い貞徳自身が表舞台から退き、まだ若年で旧体制とのしがらみが薄い頼忠を当主として前面に押し出すことで、新しい支配者からの追及をかわし、何とか家の存続を図ろうとした、苦渋に満ちた政治的判断であったと解釈できる。それは、旧体制との関係を清算し、新しい時代に対応するための「家のリセット」であり、一種の「損切り」にも似た悲壮な決意であった。
強力な後援者であった明智氏の滅亡は、妻木氏の政治的・軍事的な立場を根底から覆した。一族の主力が戦死し、家督を継いだばかりの頼忠は、後ろ盾を完全に失った状態で、信長亡き後の混乱を極める東濃地方の厳しい情勢に、たった一人で向き合わなければならなくなった。彼の武将としてのキャリアは、栄光の継承ではなく、滅亡の淵にある家をいかにして再建するかという、絶望的な状況を乗り越えるためのサバイバルから始まったのである。この経験は、彼のその後の慎重かつ大胆な政治判断、そして何よりも生き残りへの執着を形成した根源となったに違いない。頼忠の生涯は、この「マイナス」からのスタートをいかにして克服し、新たな活路を見出すかの闘いであったと言える。
本能寺の変による織田信長・信忠父子の死は、織田家の支配体制に巨大な権力の真空を生み出した。特に、妻木氏の所領がある東濃地方は、旧武田領との国境に位置する戦略的要衝でありながら、統治者が不在の状況となり、周辺勢力の草刈り場と化していた。明智氏という後ろ盾を失い、一族が疲弊していた妻木氏にとって、この状況は極めて危険なものであった。
この機を捉え、美濃金山城主であった森長可が東濃地方の平定に乗り出した 22 。長可は「鬼武蔵」の異名を持つ猛将であり、その軍事行動は迅速かつ苛烈を極めた。彼は東濃の国人衆に次々と服属を迫り、抵抗する久々利氏は滅ぼされ、明知遠山氏や小里氏などは城を捨てて徳川家康のもとへ逃走した 6 。
妻木城にも長可からの服属勧告の使者が送られたが、頼忠はこれを拒否。独立領主としての気概を示し、籠城して戦う道を選んだ。森軍は豊前市之丞を総大将として妻木城に攻め寄せ、頼忠は城兵を率いて奮戦したと伝えられる 2 。これは、単なる無謀な抵抗ではなく、武士としての意地と、先祖代々の土地を守るという強い意志の表れであった。
しかし、森長可の圧倒的な軍事力の前に、長期的な抵抗は不可能であった。勝ち目がないと悟った頼忠は、一族を無駄死にさせる愚を避け、和議という現実的な選択を下す 2 。彼は森長可の軍門に降り、その家臣となることを受け入れた。
この服従の証として、頼忠は2人の弟を含む一族を人質として金山城下へ送ることを余儀なくされた 2 。さらに、妻木城には一時的に森家の家臣である林為忠が城代として入るなど、妻木氏は事実上、森氏の完全な支配下に置かれることになった。これは、独立領主であった妻木氏にとって、最大の屈辱であったに違いない。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が激突した小牧・長久手の戦いが勃発すると、主君である森長可は羽柴方に与したため、頼忠もその配下として従軍することになった。彼は森軍の一翼を担い、尾張と美濃の国境に位置する内津峠に布陣した 2 。この戦いで森長可は徳川方の奇襲を受けて討死するが、頼忠は生き延び、その後は長可の跡を継いだ弟の森忠政に仕えることとなる 2 。
頼忠にとって、森氏への降伏は単なる敗北ではなかった。それは、家の存続を最優先した冷徹な戦略的判断であり、この雌伏の期間は、彼が中央の政治・軍事動向、特に羽柴(豊臣)政権の強大な軍事力や最先端の戦術を間近で学ぶための、極めて重要な「学習期間」として機能した。人質を出し、城を明け渡すという屈辱に耐えながら、彼は来るべき自立の機会を虎視眈々と窺っていたのである。この耐える力と学ぶ姿勢こそが、後の飛躍への確かな布石となった。
小牧・長久手の戦いで森長可が戦死した後も、妻木頼忠は引き続き森氏に仕え、長可の跡を継いだ弟の忠政の家臣として活動を続けた 2 。この時点では、彼はまだ森氏の与力という立場であり、独立した領主ではなかった。しかし、彼はこの期間を通じて、森氏の家臣団の中で信頼を勝ち取り、徐々に妻木城の支配権を取り戻していったと考えられる。
頼忠の生涯における最初の大きな転機は、慶長5年(1600年)に訪れる。この年、主君である森忠政が、徳川家康の命により信濃国川中島へ13万7,500石で転封されることになった。この時、頼忠は忠政には同行せず、先祖代々の本拠地である美濃に留まるという、極めて重大な決断を下した 2 。
この決断は、森氏の支配からの事実上の独立を意味するものであった。他国で一介の家臣として生涯を終えるよりも、彼は故地である東濃に根差した独立領主としての道を選んだのである。この選択の背景には、彼が自らの力の源泉が、土地(妻木)と、そこに住む人々との長年の繋がりにあることを深く理解していたことがある。彼は移封されてきた「よそ者」の森氏とは異なり、その土地の歴史と不可分に結びついた在地領主(国衆)であった。この「在地性」こそが、彼の最大の武器であり、土地を離れればその価値は失われてしまう。土地に留まることで、彼は東濃という戦略的要衝のキーマンとしての価値を維持し、次なる時代の主導権争いにおいて重要な役割を果たすことが可能になったのである。
森氏が東濃を去った後、妻木氏は在地勢力として独自の地位を確立した。豊臣政権は、全国の大名間の私的な争いを禁じる「惣無事令」を発しており 23 、頼忠の領主としての地位も、豊臣政権によって公認されていたと考えられる。彼は、森氏という上位権力者の支配下から脱し、直接豊臣政権に連なる一領主として自立を果たしたのである。
天正18年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、天下の情勢は再び流動化し始める。この機を捉え、頼忠は次なる天下人として、五大老筆頭の徳川家康に急接近した。彼のこの動きは、関ヶ原の戦いが勃発するかなり以前からの、周到なものであった。
彼は弟の吉左衛門を関東の家康のもとへ使者として派遣し、東濃の情勢を詳細に報告させるとともに、全面的に味方する意思を明確に伝えた。さらに、忠誠の証として、自身の子である水主(みぬし)を人質として江戸へ送った 2 。『関ヶ原合戦前後の徳川家康文書』などによれば、頼忠は家康との間で度々書状を交わし、上方情勢の諜報活動を行うなど、家康の重要な情報源としても機能していたとされる 2 。さらに、家康から合戦に備えて居城を修築するよう指示する書状が届いていたという記録もあり 6 、両者の間に単なる主従関係を超えた、深い信頼関係が築かれていたことがうかがえる。
他の多くの大名が豊臣方と徳川方の間で日和見的な態度を取る中、頼忠が早期に家康への帰属を明確にしたことは、極めてリスクの高い「先行投資」であった。しかし、この賭けは単なる勘ではなく、森氏配下時代に観察した中央の力関係や、秀吉亡き後の家康の台頭という冷静な情勢分析に基づいた、計算され尽くした戦略であった。この戦略的判断こそが、彼のその後の運命を決定づけることになる。
慶長5年(1600年)8月、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かった隙を突いて石田三成らが挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。この時、妻木頼忠は事前の約束通り、一切の迷いなく徳川家康率いる東軍に与した。当時の東濃地方において、在地勢力の中で明確に東軍についたのは妻木氏が唯一であったとされ 24 、彼の存在は東軍にとって極めて重要な意味を持っていた。
当時、東濃の政治的・軍事的中心地であった岩村城は、西軍に属する田丸直昌が4万5,000石で領しており、城代の田丸主水(もんど)が守りを固めていた 1 。田丸方は岩村城だけでなく、土岐や高山にも砦を築き、周辺の庄屋や村々を味方に引き入れようと画策していた 2 。これは、東軍に与した頼忠にとって直接的な脅威であり、東濃地方は関ヶ原の本戦と並行して、もう一つの戦場と化すことになった。
この地域で繰り広げられた一連の戦闘は「東濃の戦い」として知られている。
田丸方が人質を取るために村々へ侵入してくることを察知した頼忠は、事前に領内の村々に「田丸方に味方すれば家康からの討伐は免れない」と警告する触れを出し、情報戦で先手を打った 25 。8月12日、曽木村に田丸勢が現れたとの注進を受けると、頼忠は即座に家臣の山神(日東)久右衛門惟定らを派遣。山神らは勇戦し、敵将2名の首を討ち取る勝利を収めた 2 。さらにその数日後、柿野村に侵入した田丸勢に対しても、那須作蔵らを大将として派遣し、これを撃退した 2 。これらの迅速な対応は、頼忠が地域に張り巡らせた情報網と、即応できる軍事体制を構築していたことを示している。
頼忠の戦略の巧みさは、単独で戦わなかった点にある。彼は、かつて森長可に追われて徳川家康を頼っていた旧領主、明知城の遠山利景や小里城の小里光親らと連携した 2 。家康や頼忠の支援を受けた彼らは、田丸方が支配していた旧領の奪還作戦を開始。9月初旬には明知城と小里城を相次いで奪回することに成功した 2 。これにより、東軍は東濃における重要な拠点を確保し、西軍の岩村城を孤立させることに成功した。これは、一国人領主の力を超えた「地域連合」を形成し、面で敵を圧迫する高度な戦略であった。
連携して足場を固めた頼忠は、父・貞徳と共に、田丸方が築いた高山城や土岐砦への本格的な攻撃を開始した 25 。追い詰められた田丸軍は高山城に自ら火を放って土岐砦へ退却するが、頼忠はこれを追撃し、9月3日には神篦城(こうのへじょう)も制圧した 25 。これにより、岩村城は完全に包囲され、田丸勢は城に封じ込められることになった。
9月15日、関ヶ原の本戦で東軍が勝利すると、岩村城主の田丸直昌は降伏し、城代の田丸主水は遠山利景らに城を明け渡した 2 。妻木頼忠と東濃の国衆たちの活躍は、西軍の田丸勢4万5,000石の兵力を岩村城に釘付けにし、関ヶ原の本戦へ一兵も送らせなかった点で、東軍の全体的な勝利に間接的かつ決定的に貢献したと言える。彼の功績は、単なる武勇によるものではなく、情報戦、外交・調整能力、そして地域ネットワークの掌握力といった、総合的な「智将」としての側面を明確に示している。彼の働きは、家康にとって計算通り、いや期待以上の成果であったに違いない。
関ヶ原の戦いにおける卓越した功績により、慶長6年(1601年)、妻木頼忠は徳川家康から改めて所領を安堵された。その内容は、妻木、下石、多治見、笠原など土岐郡内の8ヶ村にまたがる7,500石であり、これは森氏に従う以前の旧領を回復しただけでなく、それを大きく上回るものであった 2 。この恩賞は、彼の戦功、特に戦前から一貫して家康に忠誠を誓ったことへの高い評価を物語っている。
石高の上では1万石未満であるため大名ではないものの、頼忠は幕府から特別な家格を与えられた。それが、参勤交代を義務付けられる「交代寄合(こうたいよりあい)」である 8 。
交代寄合とは、旗本の中でも最上位に位置する家格の一つで、老中の支配下に置かれ、江戸城内での席次も大名に準じるなど、譜代大名並みの待遇を受ける別格の存在であった 28 。通常、旗本は江戸に常住するが、交代寄合は領地に居住し、隔年などで江戸へ参勤するという、まさに大名と同様の義務と格式を持っていた 31 。徳川幕府が頼忠に対し、このような破格の待遇を与えたことは、彼の功績がいかに重要であったかを如実に示している。
江戸幕府の成立により戦乱の世が終わりを迎えると、頼忠は防衛拠点としての山城であった妻木城を廃し、その北側山麓に政庁兼居館である「妻木陣屋(妻木城士屋敷)」を新たに構築した 4 。これは、時代が武力から行政へと移行したことを象徴する出来事であり、彼は領主として安定した統治体制の確立に努めた。また、妻木氏は代々、領内の陶器生産を奨励し、織部焼や志野焼に代表される美濃焼の発展に寄与した領主としても知られている 34 。
頼忠は武功だけでなく、その行政能力も幕府から高く評価されていた。関ヶ原合戦後、西軍の拠点であった近江佐和山城や、徳川の重要拠点である美濃加納城の普請奉行(建設・改修工事の総責任者)を歴任している 1 。これは、彼が単なる武人ではなく、大規模な土木事業を差配できる能吏としての側面も持っていたことを示している。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、松平乗寿の隊に属して参陣し、最後の奉公として戦功を挙げた 1 。これにより、彼は徳川の治世の確立に、武と文の両面から貢献した武将として、そのキャリアを完成させたのである。
時期 |
主君 |
石高 |
家格 |
本能寺の変直後 (1582年) |
なし(独立) |
不明(大幅に減少) |
滅亡寸前の国衆 |
森氏配下時代 (1583年以降) |
森 長可・忠政 |
森氏の与力として |
森氏の家臣 |
関ヶ原合戦後 (1601年以降) |
徳川 家康 |
7,500石 |
交代寄合旗本 |
この表は、頼忠一代の間に、妻木氏の地位がいかに劇的に変化したかを明確に示している。本能寺の変後の「マイナス」の状態から、関ヶ原の戦いを経て「交代寄合」という特別な地位へと至る彼の立身出世の軌跡は、戦国から江戸への移行期における成功物語の典型例と言えるだろう。
大坂の陣も終わり、徳川の世が盤石となった元和9年(1623年)10月2日、妻木頼忠は59歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の亡骸は、一族の菩提寺である崇禅寺に葬られた。家督は、長男の頼利(よりとし)が継承した 2 。頼忠には他に次男の頼遠、三男の康広らがいたが、康広は大坂の陣で戦死しており、頼利が宗家を継ぐことは既定路線であった 2 。
頼忠が一代で築き上げた栄光は、しかし、長くは続かなかった。頼利の跡を継いだ孫の頼次(よりつぐ)の代に、妻木宗家は悲劇的な結末を迎える。頼次は弟の幸広との間に家督や所領を巡る不和(妻木騒動)があり、その結果として幸広に500石を分知して、所領は7,000石となっていた 8 。
そして万治元年(1658年)、頼次が江戸への参勤交代の途中、箱根付近で嗣子(後継ぎ)のないまま39歳の若さで急死した 3 。当時の幕府の規定(末期養子の禁)は厳しく、頼忠が再興した妻木宗家は、彼の死からわずか35年で断絶、改易という厳しい処分を受けることになった 3 。7,500石の所領は幕府に没収され、頼忠が築いた妻木陣屋も廃されてしまった 36 。
この結末は、頼忠の生涯の成功譚に皮肉な影を落とす。それは、戦国武将の個人の努力や成功が、後継者問題という、時には個人の力ではどうにもならない要因によって水泡に帰すという、江戸時代の武家社会の非情さ、そして「家」を存続させることの困難さを物語っている。
しかし、妻木氏の血筋が完全に途絶えたわけではなかった。頼忠が築いた基盤は、宗家という枠を超えて一族全体に及んでいた。頼忠の次男・之徳(頼久)の家系(上総妻木家)、三男・重吉(頼通)の家系(下郷妻木家)、そして宗家断絶の際に分知されていた頼次の弟・幸広の家系(上郷妻木家)などが、それぞれ旗本として存続したのである 3 。
これらの分家は、幕府の様々な役職、例えば奈良奉行や浦賀奉行などを歴任し 39 、旗本として明治維新まで家名を繋いだ。これは、頼忠が宗家だけでなく、一族全体の繁栄の礎を築いていたことを示唆している。あるいは、複数の家系に血筋を分散させることで、万が一宗家が途絶えても「妻木氏」という大きな枠組みが生き残るように、無意識のうちにリスク分散を図っていたのかもしれない。
現在、妻木頼忠と一族が活躍した舞台は、貴重な史跡としてその面影を今に伝えている。頼忠が籠城して戦った妻木城跡と、彼が築いた妻木城士屋敷跡(陣屋跡)は、共に岐阜県の史跡に指定されており、曲輪や石垣、土塁などの遺構を見ることができる 12 。
また、一族の菩提寺である光雲山崇禅寺には、妻木氏歴代の墓所や位牌が安置されており 10 、妻木城の大手門を移築したと伝えられる荘厳な山門が現存している 41 。これらの史跡は、頼忠と妻木一族がこの地で繰り広げた歴史の物語を、静かに語り続けている。
妻木頼忠の生涯は、明智光秀との縁故という、本能寺の変後には「負の遺産」と化した宿命を背負いながらも、それを乗り越え、一族を再興させた卓越した生存戦略の軌跡であった。彼の行動は、常に冷静な状況判断と、大胆な政治的決断に貫かれている。森長可の圧倒的な軍事力の前には、無駄な抵抗をせずに降伏して家の存続を優先し(戦略的柔軟性)、主君の転封には同行せずに在地領主としての道を選び(アイデンティティの確立)、そして天下の趨勢を見極めていち早く徳川家康に忠誠を誓う(政治的先見性)。これら一連の選択によって、彼は一族を滅亡の淵から救い出し、幕府から大名に準じる待遇を受ける名門旗本へと押し上げた。
彼はまた、純粋な武力のみに頼る武将ではなかった。関ヶ原の戦いにおける彼の勝利は、地域に張り巡らせた情報網を駆使した「情報戦」と、同じ境遇にある在地領主たちとの「地域連合」の形成という、高度な戦略に裏打ちされたものであった。彼の生き様は、力が全てであった戦国の世から、秩序と忠誠が重視される江戸の世へと移り変わる時代の転換期を、一地方領主がいかにして生き抜いたかを示す、象徴的な事例と言える。
孫の代での宗家の断絶という悲劇は、彼の功績が無に帰したことを意味するのではない。それはむしろ、武家の「家」の存続というものが、一個人の英雄的な活躍だけでは保証されないという、歴史の冷徹な法則を示している。分家が旗本として明治まで存続した事実は、彼が築いた基盤がいかに強固であったかの証左である。妻木頼忠は、激動の時代を見事に乗りこなし、東濃の地で確かな武功を立て、徳川幕府の成立に貢献した「智将」として、歴史の中に確かな輝きを放っている。