宇佐美定満の実像と虚像 ―史料と伝説の狭間から―
1. はじめに
本稿は、戦国時代の越後国にその名が見える武将、宇佐美定満(うさみ さだみつ)について、史実に基づく実像と、後世の軍記物や創作によって形成された虚像を比較検討し、その人物像の多層性を明らかにすることを目的とする。宇佐美定満は、上杉謙信の軍師として、あるいは上杉家譜代の重臣として語られることが多い。しかし、その具体的な活動や最期、特に長尾政景との野尻湖における謎の死については不明な点が多く、研究者の間でも見解が分かれている。
さらに問題を複雑にしているのは、実在した宇佐美定満と、彼をモデルにしたとされる伝説的な軍師「宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみ さだゆき)」の存在である 1 。この宇佐美駿河守定行は、軍記物の中で謙信の知恵袋として華々しい活躍を見せるが、その事績の多くは史実の定満の記録とは合致しない。この「実像」と「虚像」の混同は、宇佐美定満という人物を理解する上で大きな障害となっており、本稿ではこの二者を明確に区別し、それぞれの人物像がどのように形成され、受容されてきたのかを追求する。史料の丹念な読解と、伝説成立の背景への考察を通じて、宇佐美定満という一人の武将の多面的な姿に迫りたい。
2. 宇佐美定満の実像:史料に基づく生涯
2.1. 出自と越後宇佐美氏
宇佐美氏は、その発祥を伊豆国宇佐美荘(現在の静岡県伊東市宇佐美)に持つとされ、古くから武家として活動していた一族である 3 。越後においては、守護上杉家の重臣として仕えた家柄と伝えられている。
宇佐美定満の父とされるのは宇佐美房忠(ふさただ)である。房忠は越後守護であった上杉定実に味方し、守護代の長尾為景(ながお ためかげ、上杉謙信の父)と対立した。この争乱の中で、房忠は永正11年(1514年)に岩手城(現在の新潟県長岡市)で敗死したと記録されている 1 。この岩手城落城の際、城から逃れた「弥七郎息(やしちろうそく)」という人物がおり、歴史研究家の新沢佳大氏はこれを後の宇佐美定満に比定している。さらに新沢氏は、従来定満の祖父とされてきた宇佐美孝忠(たかただ)と父房忠は同一人物であり、房忠は孝忠の晩年の名であったという説を提唱しているが、この説については異論も存在し、確定的なものとは言えない。この出自に関する不確かさが、定満の初期の経歴を曖昧にする一因となっている。
宇佐美氏と琵琶島城(現在の新潟県柏崎市)との関係については、房忠の代には琵琶島に在城していた可能性が、万里集九の詩文集『梅花無尽蔵』の記述から示唆されている。しかし、定満の時代に宇佐美氏が継続して琵琶島城を領有していたかについては史料上明確ではなく、諸説が存在する 3 。例えば、永禄2年(1559年)作成の『侍衆御太刀之次第』に見える「びわ島殿」、あるいは『上杉家軍役帳』に記載のある「弥七郎殿」が宇佐美定満を指すのかどうかについては、研究者の間でも意見が分かれている。井上鋭夫氏は「びわ島殿」を定満と解釈するが、新沢氏は「宇佐美殿」「宇佐美駿河守殿」といった直接的な呼称でない点に疑問を呈している。一方で、矢田俊文氏は、16世紀前半の史料から宇佐美氏の在所が小野要害(現在の新潟県上越市柿崎区にあったとされる小野城)であることや、柿崎氏が宇佐美一族であったことなどから、宇佐美氏の本拠地は現在の柿崎区域であったと推定している。このように、一般的に宇佐美定満=琵琶島城主というイメージがあるものの、史料的な裏付けは十分とは言えず、彼の実際の拠点や勢力範囲については慎重な検討が必要である。
また、越後で起こった享禄・天文の乱(1530年代)において、上条定憲(じょうじょう さだのり)方として活動した「宇佐美四郎右衛門尉(うさみ しろうえもんのじょう)」という人物の存在が史料で確認されている 3 。この宇佐美四郎右衛門尉が定満と同一人物なのか、あるいは別人なのかについては、研究者の間で見解が分かれている 5 。新沢氏は同一人物説を採るが、『越佐史料』や『上越市史資料編3古代・中世』などでは別人として扱っている 3 。もし同一人物であれば、定満の若い頃の武功や立場がより具体的に浮かび上がってくるが、別人であれば、彼の初期のキャリアはさらに不明瞭なものとなる。この論争は、定満の人物像を再構築する上で重要な分岐点と言えるだろう。
2.2. 長尾為景・晴景の時代における活動
宇佐美房忠の死後、定満は長尾為景とその子・晴景(はるかげ)の時代を生きた。この時期の越後は、守護上杉氏の権威が失墜し、守護代の長尾氏が国内の実権を掌握しつつあったが、その過程で国内の諸勢力との間で激しい抗争が繰り返されていた。
越後享禄・天文の乱において、宇佐美定満は父・房忠と同様に反為景方の立場をとったとされる。当初は為景側であったが、後に離反し、守護上杉家の一門である上条定憲の勢力に加わったと見られている。
天文5年(1536年)には、上条定憲方と長尾為景方が激突した三分一原(さんぶいちはら)の戦いが起こる。この戦いで、宇佐美・柿崎勢は為景勢に敗北を喫したものの、一時は為景の本陣に迫り、為景を討死寸前まで追い詰めたとも伝えられている 6 。結果的にこの戦いの後、為景は隠居しており、定満らの奮戦がその一因となった可能性も否定できない。ただし、この時期の定満の具体的な活動については、前述の「宇佐美四郎右衛門尉」が定満と同一人物であるか否かによって、その解釈が大きく左右される点に留意が必要である。
2.3. 長尾景虎(上杉謙信)への臣従と具体的な活動
天文17年(1548年)、長尾晴景の弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を相続すると、宇佐美定満は景虎に臣従した。しかし、その後の定満の立場は必ずしも安泰ではなかったようである。
景虎の家督相続に不満を抱いた一族の長尾政景(ながお まさかげ、上田長尾家当主)が天文19年(1550年)頃から反乱を起こすと(長尾政景の乱)、定満はこの争乱に巻き込まれていく。天文18年(1549年)6月に定満が景虎の家臣である平子孫太郎(ひらこ まごたろう)に宛てたとされる書状からは、政景側の計略や脅迫を受けて苦境に立たされていた様子がうかがえる。この書状の中で定満は、自身の力が弱く、家臣の士気も低下している窮状を訴え、「我々だけに(政景への)備えを任せれば後悔することになるだろう」と警告しており、伝説上の万能軍師像とは異なる、生身の人間の姿が垣間見える。
その後、定満は景虎方として政景の鎮圧に貢献し、その功績によって景虎と政景は講和に至ったとされている 7 。しかし、一部の資料では、政景の盟友であった宇佐美定満が「裏切り」、政景が投降する一因となったと記述されており 9 、また別の資料では、定満が上田長尾家(政景方)から府内長尾家(景虎方)に鞍替えしたことが「宇賀地の戦い」の直接的なきっかけとなったともされている 10 。これらの記述を総合的に勘案すると、定満の立場は単純な「景虎への忠臣」というわけではなく、当初は政景側との関係性の中で揺れ動き、その後の「鞍替え」や「裏切り」と表現される行動の背景には、複雑な政治的判断や自己保身があった可能性も考えられる。
さらに、天文20年(1551年)夏頃に、定満が平子孫太郎や大熊朝秀(おおくま ともひで)、直江実綱(なおえ さねつな)、本庄実乃(ほんじょう さねより)といった景虎の奉行人たちに宛てたとされる書状が存在する。この書状では、多劫小三郎(たこう こさぶろう)の遺領を巡って平子孫太郎と対立していることへの不満や、知行の加増がないことへの不満、そして家臣の戦意が喪失していることへの嘆きが綴られている。この書状の内容は、定満が景虎政権内で必ずしも厚遇されていたわけではなく、所領問題などで他の家臣と対立することもあったことを示唆している。これは、歴史研究家の高橋修氏が指摘するように、定満が景虎に重用されず宇佐美家が没落していった可能性を示唆するものであり、後の野尻湖事件の解釈にも影響を与えうる重要な点である。
長尾政景との抗争が終結した後、宇佐美定満の名は確実な史料の上からは姿を消してしまう。高橋修氏は、定満は景虎に重用されず宇佐美家は没落したと指摘しているが、宇佐美家そのものが完全に断絶したわけではなく、永禄10年(1567年)の史料には、武田信玄の信濃侵攻への防備強化に携わった者の中に「宇佐美平八郎」という名が見えることから、一族は存続していたようである 3 。
3. 軍師「宇佐美駿河守定行」の創出:伝説と虚構
宇佐美定満の名が広く知られるようになった背景には、彼自身の実績以上に、彼をモデルとしたとされる伝説的な軍師「宇佐美駿河守定行」の存在が大きい。この宇佐美駿河守定行は、江戸時代以降の軍記物や講談、さらには現代の創作物に至るまで、上杉謙信の片腕として数々の武功を立てた名軍師として描かれている。しかし、その姿は史実の宇佐美定満とは大きくかけ離れたものである。
3.1. 『北越軍談』等における宇佐美定行像
宇佐美駿河守定行は、上杉謙信の軍師として、また上杉二十五将の一人に数えられ、越後流軍学の祖ともされる人物である 1 。しかし、これらの肩書や事績の多くは、実在の宇佐美定満をモデルとしながらも、後世に創作された架空の人物像であると考えられている 1 。
軍記物、特に『北越軍談』などにおいて語られる宇佐美定行の活躍は目覚ましい。例えば、若き日の謙信(当時は長尾景虎)が兄・晴景との家督争いの際に命を狙われ、栃尾城に逃げ込んだ際、定行は軍師として招かれ、敵対を躊躇する謙信を説得して兄への挙兵を決意させたとされる。そして、米山合戦での活躍によって晴景を敗死させ、天文17年(1548年)に謙信を上杉家の当主の座に就かせたと描かれている。しかし、史実では長尾晴景は謙信との争いで敗死しておらず、この時点で既に史実との齟齬が見られる。
その他にも、定行は謙信に宇佐美家に伝わる兵法の奥義を授け、越後に鉄砲を伝えた張本人であり、さらには伊賀や甲賀といった忍者たちを配下として諜報活動を行わせていたともされる 1 。
特に有名なのは、武田信玄との間で繰り広げられた川中島の戦いにおける活躍であろう。第四次川中島の戦い(永禄4年/1561年)では、武田軍の軍師・山本勘助が考案したとされる「啄木鳥(きつつき)戦法」をいち早く見破り、謙信に進言して上杉軍を勝利に導いたと語られている 2 。川中島の合戦を描いた屏風にもその姿が描かれているとされるが 2 、これも伝説の域を出ない。また、永禄3年(1560年)の小田原城攻めの際には、敵の攻撃をいち早く見抜いて謙信に進言したとも伝えられている 1 。
これらの華々しい軍功や逸話は、史実の宇佐美定満の記録には見られないものであり、そのほとんどが後世の創作である可能性が極めて高い。特に、謙信の軍師として具体的な戦略指導を行ったことを示す一次史料は乏しく、そのイメージは多分に脚色されたものであると言わざるを得ない。
3.2. 宇佐美定祐による人物像の脚色
この伝説的な軍師「宇佐美駿河守定行」像を創り上げた中心人物として指摘されているのが、江戸時代初期に紀州藩に仕えた軍学者・宇佐美定祐(うさみ さだすけ)である 1 。定祐は、自身が著したとされる軍記物(一般的には『北越軍談』の作者、あるいは編者の一人とされる 11 )の中で、自身の先祖として宇佐美駿河守を登場させ、その活躍を大いに描いたとされている 1 。
定祐がこのような創作を行った意図については、当時の軍学界の状況が背景にあると考えられる。江戸時代初期には、武田信玄の兵法とされる甲州流軍学が隆盛を極めていた。これに対抗する形で、定祐は、甲州流軍学の祖とされる山本勘助をも凌ぐほどの知謀を持ち、軍神・上杉謙信に軍学を教えたとされる人物を、自身の軍学流派(宇佐美流、あるいは神徳流、越後流軍学とも称される)の祖として設定することで、その権威を高めようとしたのではないかと推測されている 1 。つまり、宇佐美駿河守という「名軍師」の誕生は、個人の顕彰欲や自身の流派の宣伝といった、戦国時代そのものとは異なる江戸時代の社会的事情が大きく影響しているのである。
3.3. 越後流軍学との関連
宇佐美駿河守(定行)は、越後流軍学の創始者としても知られている 1 。しかし、これもまた宇佐美定祐による創作の一環である可能性が高い。前述の通り、定祐は自身の軍学の権威付けのために、輝かしい祖先像を必要としていた。
宇佐美定祐自身は、宇佐美流(あるいは宇佐美神徳流とも)という軍学を興したとされている 1 。その系譜は、宇佐美良勝(うさみ よしかつ、定満の別名とされることもあるが、主に軍記物上の人物として扱われる)から始まり、その孫である良賢(よしかた、神徳左馬助とも称す)が家伝の兵法を伝えたとされる 17 。良賢は寛永年間(1624年~1645年)頃に尾張で神徳流を称し、その後江戸に出て宇佐美造酒正(うさみ みきのじょう)と名乗り兵法を講じ、水戸藩主徳川頼房に仕え、謙信三徳流として同藩にその教えを残したという 17 。
「越後流軍学」という呼称自体が、軍神・上杉謙信の威光と結びつけられ、武田信玄の甲州流軍学に対抗するためのブランド戦略として、後世に創出された概念であった可能性も否定できない。
4. 野尻湖の謎:宇佐美定満と長尾政景の最期
宇佐美定満の生涯において、最も謎に包まれ、かつドラマチックに語られるのが、長尾政景と共に迎えた最期である。この事件は、単なる事故なのか、あるいは何らかの陰謀が隠されているのか、様々な憶測を呼んでいる。
4.1. 事件の概要
永禄7年7月5日(1564年8月11日)、宇佐美定満は、上杉謙信の義兄(姉婿)であり、上杉景勝の実父でもある長尾政景を伴い、信濃国の野尻湖(のじりこ)で舟遊びに興じていた 7 。その最中に二人は湖に転落し、共に溺死したとされている。この時、宇佐美定満は76歳、長尾政景は39歳であったと伝えられる 7 。なお、事件の場所については、野尻湖の他に、野尻池 19 、あるいは坂戸城(長尾政景の居城)近くを流れる魚野川の淵である「銭淵(ぜにがふち)」とする説もある 21 。多くの記録では、定満が政景を船遊びに誘ったとされている 1 。
4.2. 諸説の検討
この不可解な死については、古くから様々な説が唱えられてきた。
これらの説は、いずれも確たる一次史料に乏しく、特に暗殺説や謙信関与説は、状況証拠や後世の軍記物の記述、あるいは伝承に依拠するところが大きい。しかしながら、『国分威胤見聞録』の記述の信憑性いかんによっては、事件の様相が大きく変わる可能性も秘めている。
4.3. 『国分威胤見聞録』の記述と信憑性
長尾政景の死の真相を探る上で、しばしば注目されるのが『国分威胤見聞録』という記録である。この史料には、溺死した政景の肩の下に刀で斬られた傷跡があったと記されている 22 。この記録の信憑性について、同書には、事件に同船していた国分彦五郎という人物の母が、現場に駆けつけて政景の遺体を直接見ており、その証言に基づいているため信頼性が高い、とする見解も示されている 22 。
もしこの刀傷の記述が事実であるとすれば、単なる事故死であった可能性はほぼ否定され、何らかの殺害事件、あるいはそれに準ずる激しい争いが舟上で起こった可能性が濃厚となる。しかし、この『国分威胤見聞録』という史料自体の成立時期や背景、他の信頼できる史料との整合性などについては、より詳細な史料批判が必要である。現時点では、この記録のみをもって直ちに暗殺説を断定することはできない。仮に刀傷が事実であったとしても、それが宇佐美定満によるものなのか、あるいは政景が何者かに襲われ、定満も巻き添えになったのか、さらには別の状況(例えば、舟が転覆する際の混乱で負った傷など)も考慮に入れる必要があり、真相の解明は依然として困難である。この事件の真相が不明であること自体が、宇佐美定満のミステリアスなイメージを一層強めている要因の一つと言えるだろう。
表1:野尻湖事件に関する諸説比較表
説の名称 |
主な論者・典拠 |
説の概要 |
根拠とされる点 |
疑問点・反論 |
事故死説 |
花ヶ前盛明氏など |
酒酔いや遊泳中の心臓麻痺、舟の転覆など、不慮の事故による溺死。 |
当時の状況からの推測、泥酔の可能性。 |
刀傷の記録(『国分威胤見聞録』)との矛盾の可能性。単なる事故で重臣二人が同時に死亡する不自然さ。 |
定満による政景暗殺・心中説 |
『北越軍記』など軍記物、『国分威胤見聞録』の解釈 |
定満が、謙信への叛意を持つ政景を排除するため、舟遊びに誘い出し、道連れに殺害。 |
政景の過去の行動(反乱)、政景の死体に刀傷があったという記録、定満の忠義心からの行動という解釈。 |
定満の明確な動機を示す一次史料の欠如。刀傷記録の信憑性。 |
謙信による政景暗殺命令説 |
一部の研究者、伝承 |
謙信が、潜在的な政敵である政景を危険視し、定満に命じて殺害させた。 |
政景の過去の行動、謙信にとって政景排除のメリット、定満と謙信が相談したという伝承。 |
謙信の直接的な関与を示す一次史料の欠如。定満がそのような危険な任務を引き受けるか。 |
その他(第三者による犯行など) |
― |
何者かが政景(あるいは定満)を襲撃し、結果的に両名が死亡した可能性など。 |
― |
具体的な証拠や状況証拠が皆無。 |
5. 宇佐美定満に関する史料
宇佐美定満という人物の実像に迫るためには、彼に関する史料を慎重に検討する必要がある。史料は、その性質によって一次史料と二次史料に大別され、それぞれ史料的価値や取り扱いに注意が必要となる。
5.1. 一次史料と二次史料の区分と評価
一次史料とは、対象となる時代に作成された、当事者による記録やそれに準ずるものを指す。宇佐美定満に関する一次史料としては、彼自身が発給した、あるいは彼が受信した書状が挙げられる。本稿でも触れた、天文18年(1549年)や天文20年(1551年)に書かれたとされる書状は、定満自身の言葉や当時の彼の置かれた状況を直接的に伝える貴重な史料である。これらの書状からは、彼の苦悩や不満、他の武将との関係性などが読み取れる。
一方、二次史料とは、後世になってから編纂された記録や著作物を指す。宇佐美定満に関しては、『北越軍談』や『謙信軍記』といった軍記物が代表的な二次史料として挙げられる 1 。これらの軍記物は、江戸時代以降に成立したものが多く、史実だけでなく、作者の創作や脚色、あるいは当時の人々の願望や理想が反映された伝説的な記述が多く含まれている。そのため、二次史料を利用する際には、その成立背景や作者の意図などを考慮した上で、慎重な史料批判を行うことが不可欠である。宇佐美定満の「軍師」としての華々しい活躍の多くは、これらの二次史料によって形作られたものである。
その他、宇佐美氏や関連する出来事に関する記述が含まれる可能性のある史料としては、『柏崎市史』 4 、『上杉家文書』、『越佐史料』などが挙げられる。これらの史料も、断片的ではあるが、定満の実像を補完する上で参考になる場合がある。
重要なのは、宇佐美定満が軍師として具体的な戦略指導を行ったことを示す一次史料が極めて限定的であるという点である。彼の「軍師」としての名声は、主に二次史料によって形成されたものであり、一次史料に見る彼の姿とは大きな隔たりがあることを認識する必要がある。
5.2. 著作とされる『武経要略巻』
宇佐美定満(あるいは別名とされる良勝)の著作として、しばしば『武経要略巻(ぶきょうようりゃくかん)』という書物の名が挙げられることがある 7 。彼は宇佐美流軍学の祖ともされており 7 、この書物もその軍学思想を伝えるものと期待される。ある資料によれば、宇佐美良勝(定満の初名または別名とされる)が天文7年(1538年、 24 では1536年)に『武経要略巻』および『武経要略巻内集』を著したとされている 24 。
しかし、この『武経要略巻』が現存するのか、またその具体的な内容がどのようなものであったのかについては、不明な点が多い。もしこれが本当に宇佐美定満本人の著作であり、彼の兵法思想や戦略観が記されているのであれば、彼の「軍師」としての一面を明らかにする上で極めて重要な史料となる。だが、その一方で、後世の宇佐美流軍学の権威付けのために、宇佐美定満の名が仮託された可能性も否定できない。現時点では、この書物の真贋や成立経緯についてはさらなる研究が待たれる状況であり、その存在自体が、宇佐美定満の「軍師」としての側面を補強する要素として後世に求められた可能性も考慮に入れるべきであろう。
6. 宇佐美定満の評価:歴史的意義と後世への影響
宇佐美定満という人物を評価する際には、史実の武将としての側面と、伝説上の軍師としての側面を明確に区別し、それぞれが歴史や文化に与えた影響を考察する必要がある。
6.1. 史実の武将としての宇佐美定満の再評価
史実の宇佐美定満は、上杉謙信の政権下でどのような役割を果たしたのだろうか。長尾政景の乱の鎮圧に貢献したことは一定の評価ができるものの、その後の史料から彼の名が途絶えることや、彼が発給したとされる書状に見られる不満の内容などから判断すると、謙信政権内で必ずしも継続的に重用され、中心的な役割を担い続けたとは言えない可能性がある。特に、「軍師」として謙信の戦略・戦術に深く関与し、具体的な助言を行ったことを示す一次史料は乏しい。
地域領主としては、越後国内の複雑な政治的動向の中で、一定の影響力を持った一武将であったと考えられる。彼が琵琶島城主であったかについては議論の余地があるものの、何らかの形で越後の国人領主として活動していたことは確かであろう。
人物像としては、残された書状から、理想化された軍師像とは異なり、所領問題や人間関係に悩み、時には不満を漏らすといった、より人間的な側面も垣間見える。史実の宇佐美定満は、伝説的な「軍神の軍師」というよりも、戦国時代の激動の中で、自らの家と立場を守るために苦闘した一地方武将としての側面が強いと言える。その評価は、過度な期待や後世のイメージから離れ、現存する限られた史料に基づいて慎重に行われるべきである。
6.2. 伝説上の軍師「宇佐美駿河守」が後世に与えた影響
史実の宇佐美定満とは別に、彼をモデルとして創出された軍師「宇佐美駿河守定行」の物語は、後世の文化や歴史観に大きな影響を与えた。
江戸時代以降の講談や軍記読み物、さらには現代の歴史小説や漫画、歴史シミュレーションゲームといった様々なメディアにおいて、宇佐美駿河守は上杉謙信の知恵袋、あるいは忠義の軍師として頻繁に登場し、そのイメージは広く大衆に定着した 8 。ゲームなどでは、高い知略を持つ軍師キャラクターとして描かれることが多い 16 。
「軍神」と称される上杉謙信を、知謀の面で支えた「名軍師」という分かりやすい主従の構図は、上杉謙信の英雄譚をより魅力的なものとして補強し、大衆的な人気を獲得する一助となった。また、宇佐美定祐の戦略通り、宇佐美駿河守という架空の祖師像は、特定の軍学流派(宇佐美流、越後流軍学)の価値を高め、その権威付けに貢献した側面も無視できない。
このように、宇佐美駿河守の伝説は、史実とは異なる経緯で生まれながらも、それ自体が一つの文化現象としての価値を持ち、人々の歴史認識や戦国武将に対するイメージ形成に少なからぬ影響を与え続けていると言えるだろう。
表2:宇佐美定満(史実)と宇佐美駿河守定行(伝説)の主な事績比較表
比較項目 |
宇佐美定満(史実に基づく記述) |
宇佐美駿河守定行(軍記物・伝説に基づく記述) |
呼称 |
宇佐美定満、宇駿、宇佐美駿河守定満など |
宇佐美駿河守定行、宇佐美定行、宇佐美良勝など 1 |
主な活動時期 |
永正年間~永禄7年(1504年頃~1564年) |
天文年間~永禄7年(1532年頃~1564年) |
上杉謙信との関係 |
長尾景虎(謙信)に臣従。長尾政景の乱鎮圧に貢献。後に不遇であった可能性も示唆される書状が存在。軍師としての具体的な活動を示す一次史料は乏しい。 |
謙信が家督を継ぐ以前からの軍師。謙信に兵法を授け、数々の合戦で軍略を献策し勝利に貢献 1 。絶対的な信頼関係。 |
軍事的才能・実績 |
越後国内の争乱(享禄・天文の乱、長尾政景の乱)での活動。三分一原の戦いでの奮戦など 6 。書状では自身の力の弱さを嘆く記述も。 |
川中島の戦いで山本勘助の啄木鳥戦法を見破る 2 。小田原城攻めでの進言 1 。鉄砲の導入、忍者の活用など、卓越した軍略家 1 。 |
最期 |
永禄7年(1564年)、長尾政景と共に野尻湖で溺死。事故死説、定満による政景暗殺説、謙信関与説など諸説あり、真相は不明 7 。 |
永禄7年(1564年)、謙信への叛意を抱く長尾政景を誅殺するため、野尻湖で舟底の栓を抜き、政景もろとも自沈(殉死)したとされる 23 。主君への忠義を貫いた壮絶な最期として描かれる。 |
関連する軍学 |
著作とされる『武経要略巻』の存在が伝えられるが、真贋や内容は不明な点が多い 7 。 |
越後流軍学の祖とされる 1 。宇佐美流、神徳流とも。宇佐美定祐が自流の権威付けのために創作した可能性が高い 1 。 |
7. おわりに
本報告では、戦国武将・宇佐美定満について、史実に基づく実像と、後世に創出された伝説上の軍師「宇佐美駿河守定行」という虚像を比較検討してきた。
一次史料から浮かび上がる宇佐美定満の実像は、越後の複雑な政治状況の中で活動した一武将であり、長尾景虎(上杉謙信)の家臣として一定の役割を果たしつつも、必ずしも順風満帆な生涯ではなかったことが示唆される。特に、彼が謙信の「軍師」として具体的にどのような戦略・戦術を指導したのかを示す確実な史料は乏しく、その人物像は、後世に形成された華々しいイメージとは異なる、より現実的で人間味のあるものであったと考えられる。
一方で、宇佐美駿河守定行という伝説上の軍師像は、江戸時代初期の軍学者・宇佐美定祐の特定の意図のもとに創出され、軍記物や講談、さらには現代の創作物を通じて広く受容され、定着した。この虚像は、史実とはかけ離れているものの、それ自体が人々の歴史観や文化的想像力に影響を与える一つの物語として存在価値を持っている。
宇佐美定満という人物を歴史的に理解するためには、現存する史料に基づいた実証的な研究を積み重ねるとともに、なぜそのような伝説が生まれ、どのように受容されてきたのかという、伝説形成の背景に対する深い洞察が不可欠である。
今後の課題としては、依然として未解明な点が多い宇佐美定満の生涯について、さらなる史料の発掘と研究が望まれる。特に、彼が著したとされる『武経要略巻』の真贋や具体的な内容の解明、長尾政景と共に迎えた野尻湖での最期の真相、そして宇佐美四郎右衛門尉との関係など、残された謎の解明は、宇佐美定満の実像をより明確にする上で重要な鍵となるであろう。史実と伝説を丹念に峻別し、多角的な視点からアプローチすることによって、宇佐美定満という戦国武将の歴史的意義は、より深く理解されるに違いない。