宇喜多忠家は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。兄である宇喜多直家の「謀将」としての名声の陰に隠れがちであるが、その実、宇喜多家の軍事力を実質的に支え、特に直家死後、幼い宇喜多秀家が家督を継いだ際には、その後見役として宇喜多家の存続に不可欠な役割を果たした人物である。本稿では、宇喜多忠家の生涯を、その出自、兄・直家との関係、軍事的功績、人物像、そして晩年に至るまで詳細に追い、彼が宇喜多家、ひいては戦国史において果たした意義を明らかにする。彼の生涯は、下克上が常であった戦国武将の生き様、一族内での複雑な人間関係、そして激動の時代を生き抜くための知勇を如実に示している。
年代 |
出来事 |
出典 |
天文2年(1533年)頃 |
誕生 |
1 |
天文5年(1536年)? |
誕生(別説) |
2 |
天文18年(1549年) |
兄・直家より乙子城を預かる |
2 |
天正6年(1578年) |
上月城の戦いで宇喜多軍総大将を務める |
1 |
天正8年(1580年) |
辛川崩れで小早川隆景軍を破る |
1 |
天正10年(1582年) |
直家死去、秀家の後見役となる。備中高松城の戦いに参加 |
1 |
天正14年(1586年) |
大友宗麟の豊臣秀吉謁見に同席。大坂にて文化的活動を開始 |
1 |
文禄元年(1592年) |
文禄の役に従軍 |
1 |
文禄2年(1593年) |
碧蹄館の戦いで先駆け。幸州山城の戦いで負傷 |
1 |
慶長4年(1599年) |
宇喜多騒動発生。大坂に隠居 |
1 |
慶長9年(1604年) |
曲直瀬玄朔の診察を受ける(『医学天正記』) |
1 |
慶長14年2月15日(1609年3月20日) |
死去 |
1 |
宇喜多忠家は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である 1 。その生年については諸説あり、天文2年(1533年)とする説は、岡山県和気町の本久寺にある墓碑に基づくとされる 1 。一方で、天文5年(1536年)頃ではないかとする資料も存在する 2 。死没は慶長14年2月15日(西暦1609年3月20日)とされている 1 。
父は宇喜多興家、母は阿部善定の娘、あるいは阿部善定の下女であったと伝えられている 1 。しかし、父とされる宇喜多興家の名が史料に現れるのは後世の軍記物であり、それ以前の軍記物語では「父某」と記されているなど、一次資料が存在しないという指摘もある 5 。同様に、母が阿部善定の娘であるという説についても確証はなく、疑問符が付けられている 5 。こうした忠家の出自に関する記録の不確かさは、宇喜多氏の初期の立場が必ずしも安定したものではなく、兄・直家が実力でのし上がっていく過程で、一族の系譜に関する情報が錯綜した可能性を示唆している。直家が勢力を拡大する中で、自身の血統や一族の物語が後付けで形成されたり、あるいは混乱したりしたことは十分に考えられ、忠家の出自に関する情報の揺らぎもその一環と見ることができるかもしれない。
兄弟には、異母兄とされる宇喜多直家、同母弟とされる宇喜多春家がいるが、この春家については忠家と同一人物であるという説も存在する(詳細は後述) 1 。また、妹が二人おり、それぞれ伊賀久隆と牧国信に嫁いでいる 1 。忠家の乳母は、後に宇喜多家の重臣となる戸川秀安の母であった 1 。この事実は、後の宇喜多家中における戸川氏の地位や、忠家と戸川秀安(あるいはその一族)との間に個人的な繋がりがあった可能性をうかがわせる。乳母という関係は血縁こそないものの、非常に近しい個人的な絆を生むことが多く、この繋がりが、後に起こる宇喜多騒動における戸川氏の動向を理解する上で、間接的な伏線となっている可能性も否定できない。
忠家の通称は七郎兵衛といい 1 、官位は従五位下、出羽守、土佐守、式部卿法印を称した 1 。号は閑斎、法名は安津、または安心である 1 。
宇喜多忠家は、策謀家として知られる兄・宇喜多直家を古くから補佐し、宇喜多家の勢力拡大に貢献した 1 。天文18年(1549年)、直家が主君であった浦上宗景から備前国上道郡奈良部城(新庄山城)を与えられて本拠を移すと、忠家はそれまで直家の本拠であった邑久郡乙子城を預けられている 2 。これは、忠家が比較的早い段階から直家の信頼を得て、宇喜多家にとって重要な拠点の守備を任されていたことを示している。その後、忠家は備前富山城を居城とした 1 。
しかし、忠家と直家の関係は、単なる兄弟や主従といった言葉だけでは語り尽くせない複雑なものであった。直家はその智謀で知られる一方、猜疑心の強い人物でもあったとされる。軍記物である『陰徳記』には、忠家が直家の前に出る際には、常に着衣の下に鎖帷子を着込んでいたという逸話が記されている 1 。この逸話は、直家の猜疑心の深さ、あるいは兄弟間に常に緊張感があったことを物語るものとしてしばしば引用される。
一方で、歴史研究者の大西泰正氏は、この鎖帷子の逸話について、むしろ実兄から命を狙われかねないような忠家自身の行状や、彼が抱いていた猜疑心を示すものではないかという見解を示している 1 。実際に忠家は、直家の近習や「家老分」と称された小野田四郎右衛門を斬り殺すなど、「度々無理なる人斬」を行ったと記録されており(『戸川家譜』『浦上宇喜多両家記』)、直家から預かっていた備前富山城に一時立て籠もるなど、短慮ともいえる行動に出ることがしばしばあった 1 。これらの行動は、忠家の気性の激しさを示すと同時に、直家との間に潜在的な軋轢や緊張関係が存在したことをうかがわせる。
直家自身が謀略を駆使して成り上がった人物であることを考えれば、身内であっても警戒を怠らなかった可能性は高い。しかし同時に、忠家の「短慮な行動」は、兄の厳格な統制や家中でのストレスに対する反発の現れであったと解釈することもできるかもしれない。直家は家中統制に厳しかったと想像され、忠家は軍事面で多大な功績を挙げながらも、兄の絶対的な権力の下に置かれていた。そうした状況下で、忠家の不満や衝動性が「家老分」の斬殺や富山城立て籠もりといった事件として爆発した可能性も考えられる。これらの逸話は、単に忠家の個人的な性格の問題として片付けられるものではなく、下克上が常であった戦国時代の武家における人間関係の厳しさ、そして宇喜多家中の複雑な力学を反映していると言えるだろう。
関係 |
人物名 |
備考 |
出典 |
父 |
宇喜多興家 (うきた おきいえ) |
諸説あり |
1 |
母 |
阿部善定の娘 (あべ ぜんじょう の むすめ) |
または下女、諸説あり |
1 |
異母兄 |
宇喜多直家 (うきた なおいえ) |
備前国の戦国大名 |
1 |
弟 |
宇喜多春家 (うきた はるいえ) |
忠家との同一人物説あり |
1 |
甥 |
宇喜多秀家 (うきた ひでいえ) |
直家の子、豊臣政権五大老 |
1 |
乳母の子 |
戸川秀安 (とがわ ひでやす) |
宇喜多家重臣 |
1 |
子 |
与太郎 (よたろう) |
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1 |
子 |
知家 (ともいえ) / 詮家 (あきいえ) |
後の坂崎直盛 (さかざき なおもり) |
1 |
娘 |
富田信高継室 (とだ のぶたか けいしつ) |
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1 |
娘 |
高橋元種室 (たかはし もとたね しつ) |
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1 |
主君・協力者 |
豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) |
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1 |
ライバル |
小早川隆景 (こばやかわ たかかげ) |
辛川崩れで対峙 |
1 |
天正10年(1582年)、兄・宇喜多直家が病没すると、その嫡男である秀家がわずか10歳で家督を相続した 1 。この幼い当主を支えるべく、叔父である忠家が後見役として宇喜多家中の実権を掌握し、軍事・政治の両面にわたって秀家を補佐した 1 。直家の死は宇喜多家にとって大きな危機であったが、忠家の存在がその動揺を最小限に抑え、内外に対する安定化装置として機能したと言える。秀家からは1万石の所領を与えられており、これは後見役としての忠家の宇喜多家中における高い地位と影響力を示すものである 1 。
忠家の後見は、単に家中の安定に留まらず、中央政権との関係構築においても重要な役割を果たした。天正14年(1586年)4月6日には、豊後の大名である大友宗麟が大坂城に登城し、豊臣秀吉に拝謁した際、秀家と共に忠家もその場に同席したと記録されている 1 。これは、忠家が宇喜多家を代表する一人として中央政権にも認識され、秀吉との関係においても、直家時代からの重臣である忠家の存在が宇喜多家の継続性と信頼性を担保する上で重要であったことを示唆している。彼の豊富な軍事経験と一門の長老としての立場は、織田・豊臣政権との交渉や家臣団の統率において不可欠だったのである。
宇喜多忠家は合戦に長けており、兄・直家の時代から、そして甥・秀家の陣代としても、数々の戦場で大将を務めた 1 。彼の軍歴は、宇喜多氏が備前の一勢力から織田・豊臣政権下の大大名へと成長していく過程と密接に結びついている。
上月城の戦い(天正6年・1578年):
この年、病に倒れた兄・直家に代わり、忠家は宇喜多軍の総大将として播磨国上月城の攻略を指揮した 1。上月城は播磨・備前・美作の国境に位置する戦略的要衝であり、この戦いは、当初毛利氏に属していた宇喜多氏が織田信長の勢力圏へと接近し、やがてその傘下に入る大きな転換点の一部であった 8。忠家はその重要な局面で軍を率い、宇喜多氏の将来を左右する戦いに臨んだのである。
辛川崩れ(天正8年・1580年):
宇喜多氏が織田方へ離反し、毛利氏と本格的に対峙する中で起こったのが辛川の戦いである。忠家は、毛利方の名将・小早川隆景が率いる1万5千の軍勢を辛川(現在の岡山市南区)で迎え撃ち、これを打ち破るという一方的な勝利を収めた 1。この「辛川崩れ」と呼ばれる戦いは、戦上手とされた隆景を破ったという点で忠家の軍事的才能を証明するものであり、毛利軍の備前への攻勢を頓挫させ、織田方についた宇喜多氏の軍事力を毛利氏に示し、備前における宇喜多氏の地位を固める上で決定的な意味を持った。
備中高松城の戦い(天正10年・1582年):
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による中国攻めのクライマックスの一つである備中高松城の戦いにおいても、忠家は重要な役割を果たした。秀吉方の黒田孝高(官兵衛)らと共に堤防を築き、城を水攻めにする作戦を遂行し、毛利方の清水宗治が守る高松城を陥落させるのに貢献した 1。この戦いの結果、毛利氏との和睦が成立し、宇喜多氏の所領が画定された。本能寺の変の直前という極めて重要な時期におけるこの戦功は、その後の豊臣政権下での宇喜多家の立場を有利にする上で大きな意義を持った。
文禄・慶長の役(文禄元年~慶長3年・1592年~1598年):
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、宇喜多秀家が軍の総帥の一人として大軍を率いることになったが、忠家もその後見役として朝鮮半島へ渡海した 1。文禄2年(1593年)1月の碧蹄館の戦いでは、諸将による軍議が長引いたことに業を煮やした忠家が、しびれを切らして先駆けを行ったという逸話が残っている 1。これは彼の勇猛さを示すと同時に、やや猪突猛進な性格をうかがわせる。同年2月の幸州山城の戦いでは負傷したが、その際に送った書状の中では傷が全く痛まないと強がって見せたとも伝えられている 1。文禄の役当時、忠家は既に60歳前後であり老境に差し掛かっていたが、若い総大将である秀家(当時20代前半)を補佐する立場として、自ら範を示す必要性を感じていたのかもしれない。これらの逸話は、単なる武勇伝としてだけでなく、老将としての意地や、若い秀家を支えようとする責任感の現れとも解釈できるだろう。
宇喜多忠家は、その生涯を通じて数々の合戦に参加し、特に甥である秀家の時代には陣代として軍を率いることが多かったことからも、優れた武将であったことは間違いない 1 。辛川崩れで小早川隆景を破ったことや、碧蹄館の戦いで先駆けをしたことなどは、彼の武勇と指揮能力を物語っている。
しかしその一方で、忠家には短慮で激情家な側面もあったと伝えられている。「度々無理なる人斬」を行ったとされ、兄・直家の近習や「家老分」とまで言われた小野田四郎右衛門を斬殺するという事件を起こしている 1 。さらに、直家から守備を任されていた備前富山城に一時的に立て籠もるという行動も記録されており(『戸川家譜』『浦上宇喜多両家記』)、これらは彼の気性の激しさや、時には自制心を欠き、衝動的な行動に出やすい性格を示している 1 。これらの行動は、彼の武人としての勇猛さとは裏腹の、人間関係における不器用さや感情の起伏の激しさを示唆している。
前述の通り、忠家は兄・直家に対して深い警戒心を抱いており、直家の前に出る際には常に鎖帷子を身に着けていたという逸話が『陰徳記』に記されている 1 。これは、直家の猜疑心の強さや、兄弟間の緊張関係を示すものとして解釈されることが多い。
しかし、歴史研究者の大西泰正氏はこの逸話に対し、直家の危うさよりもむしろ、実兄から命を狙われかねないような忠家自身の行状や、彼が抱いていた猜疑心に原因があったのではないかという、異なる視点からの解釈を提示している 1 。忠家が「無理なる人斬」を度々行い、家中でも問題行動を起こしていたことを考慮すれば、この解釈にも一理あると言えるだろう。忠家の性格に見られる勇猛果敢な武人としての側面と、激情家で時に短慮な行動に走る側面が同居していたことが、彼の生涯における様々な逸話や評価に繋がっていると考えられる。
宇喜多忠家は、武勇一辺倒の武将ではなく、当時の支配階級としての教養や風流を解する文化的側面も持ち合わせていた。天正14年(1586年)から天正19年(1591年)にかけて、忠家は大坂に滞在しており、その間に豊臣秀吉の側近であった大村由己や楠木正虎といった文化人たちと交流し、連歌会に参加するなど、風雅な生活を送っていたことが記録されている 1 。
特に天正14年(1586年)10月25日には、公家の九条兼孝を自邸に招き、源氏物語の講釈を受けている 1 。また、茶の湯にも親しんでおり、千利休から茶杓を贈られたのもこの頃と推定されている 1 。これらの文化的活動は、単に個人の趣味に留まらず、豊臣政権下における有力武将としての嗜みであり、また中央政界との繋がりを維持するための重要な社交術としての一面も持っていたと考えられる。秀吉自身が文化を奨励し、大名たちもそれに倣った時代背景の中で、大村由己や楠木正虎といった秀吉側近との交流は政治的な意味合いも帯びていたであろう。連歌や源氏物語の講釈、茶の湯は、当時の武将にとって重要なコミュニケーションツールであり、ステータスシンボルでもあった。忠家がこれらに親しんだことは、彼が中央の動向に敏感であり、洗練された文化にも通じた武将であったことを示している。
慶長4年(1599年)、豊臣秀吉の死後、宇喜多家は深刻な内訌に見舞われる。これは「宇喜多騒動」と呼ばれ、当主である宇喜多秀家と、家老の戸川達安、そして忠家の子である宇喜多知家(後の坂崎直盛)、さらには古参の重臣である花房職秀などが対立した事件である 1 。
この騒動の原因については諸説あるが、秀家が重用した側近の中村次郎兵衛の専横に対する譜代重臣たちの不満、秀吉死後の秀家の求心力の低下、中村らが行ったとされる惣国検地が領内にもたらした混乱などが複合的に絡み合っていたとされる 10 。この結果、戸川達安や花房正成(職秀の子か)、そして忠家の子・知家を含む多くの家臣が宇喜多家を出奔し、宇喜多家の軍事的・政治的衰退に繋がった 7 。
このような家中最大の危機に際して、宇喜多家の長老的存在であった忠家は、騒動が起こると大坂で隠居したと記録されている 1 。彼の息子である知家が反秀家派の中心人物の一人であったことを考えると、忠家の隠居は非常に難しい立場に置かれた結果の選択であった可能性が高い。騒動の複雑な状況、自身の息子が一方の当事者であることへの配慮、あるいは騒動そのものへの失望感など、複数の要因が絡み合っていたと推測される。忠家がどちらかの派閥に積極的に加担したという記録はなく、「隠居」という形で騒動から距離を置いたことは、両者の板挟みになった結果か、あるいは騒動の解決に自身の無力さを感じたためかもしれない。彼の引退は、宇喜多家における旧世代の影響力の終焉を象徴する出来事であり、宇喜多家内の世代交代と、直家以来の重臣層の影響力低下を加速させた可能性がある。
宇喜多忠家には、与太郎、知家(宇喜多詮家、後に坂崎出羽守直盛と改名)、そして富田信高の継室となった娘、高橋元種の室となった娘がいた 1 。
特に息子の知家(坂崎直盛)は、波乱に満ちた生涯を送ったことで知られる。前述の宇喜多騒動においては、戸川達安らと共に宇喜多家を出奔し、主君・秀家と袂を分かった 7 。その後、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げた 7 。その功により、石見国津和野三万石(後に四万石)の藩主となり、坂崎姓を名乗った 12 。父・忠家が宇喜多家と共に歩んだ道とは対照的に、直盛は宇喜多家を離れることで新たな道を切り開いたのである。
坂崎直盛は、キリスト教に帰依していたことでも知られる。文禄3年(1594年)頃、大坂城下でキリスト教の講話を聞いたことがきっかけでその教義に傾倒し、洗礼を受けて「パウロ」の洗礼名を名乗った 13 。当時の豊臣政権はバテレン追放令を発布しており、キリスト教の信仰は制限されていたが、直盛は備前国に帰国すると入信を公言し、布教のような活動を始めたと伝えられている 13 。これは、当時の武将の一部に見られた新しい価値観への関心を示すものである。
しかし、直盛の最期は悲劇的なものであった。大坂夏の陣において、徳川家康の孫娘である千姫を大坂城から救出した功により、千姫との結婚を約束されたとされる。ところが、後に千姫が本多忠刻に再嫁することが決まると、これに激しく反発。千姫の輿入れの行列を襲撃して奪取しようと計画したが、事前に露見し、家臣の裏切りもあって失敗。元和2年(1616年)、幕府の命により自刃、あるいは家臣によって殺害され、坂崎家は改易となった 12 。この千姫事件での最期は、彼の激しい気性や一度結んだ約束への固執が招いた結果とも考えられ、父・忠家の「短慮な行動」と通じる部分があったのかもしれない。
宇喜多騒動の後、忠家は大坂で隠居生活を送った 1 。その晩年の健康状態については、具体的な記録が残されている。慶長9年(1604年)1月3日、当時名医として知られた曲直瀬玄朔の診察を受けており、玄朔の診療録である『医学天正記』には、忠家について「久しく下血を患い今脱肛す」と記されている 1 。これは、忠家が長年にわたり消化器系の疾患に苦しみ、晩年には脱肛の症状も現れていたことを示しており、戦国武将の人間的な側面を伝える貴重な記録である。彼が当時最高レベルの医療を受けていた可能性を示唆すると同時に、具体的な健康問題を知る手がかりとなる。
そして、慶長14年2月15日(西暦1609年3月20日)、宇喜多忠家はその生涯を閉じた 1 。宇喜多家の激動を見届けた後、比較的静かに大坂で余生を送り、その生涯を終えたと考えられる。
宇喜多忠家の墓所については、岡山県和気郡和気町佐伯にある本久寺の墓碑がそれであるとされている 1 。本久寺は宇喜多氏ゆかりの寺院であり、忠家が故郷に近い備前国の地に葬られたことを意味し、彼の生涯の終着点としてふさわしい場所と言えるだろう。なお、東京都八丈島にある墓は、関ヶ原の戦いで敗れ流罪となった甥の宇喜多秀家のものであり、忠家の墓ではない 15 。
宇喜多忠家を考察する上で興味深い点の一つに、彼の弟とされる宇喜多春家と同一人物ではないかという説が存在することである 1 。この説は、複数の根拠に基づいて提唱されている。
第一に、父とされる宇喜多興家が備前福岡の阿部善定のもとに逃れた2年後に病死したとされているにもかかわらず、その阿部善定の娘との間に春家と忠家という二人の男子を儲けたとする点について、時間的な整合性に疑問が呈されている 1 。第二に、春家が守備したとされる砥石城、金山城、沼城といった拠点が、ことごとく忠家の活動記録と重複していることが指摘されている 1 。第三に、春家と忠家、二人の功績や合戦への参加記録が、参照する資料によって入れ替わって記載されている場合があり、業績が重なっている点も挙げられる 1 。第四に、春家の通称とされる「六郎兵衛」はごく一部の資料にしか見られず、古い資料の多くでは忠家と同じ「七郎兵衛」とされていること 1 。そして第五に、忠家の子とされ、後に直家の養子となったとされる宇喜多基家が、春家の子であるとする資料も多く存在することなどが根拠として挙げられている 1 。
この春家・忠家同一人物説は、戦国期の史料が断片的であったり、後世の編纂物によって情報が混乱したりする例の一つと言えるかもしれない。もしこの説が正しいとすれば、宇喜多直家を支えた主要な弟は一人であり、その人物が一貫して宇喜多家の軍事面で重要な役割を担ったという、よりシンプルな構図で理解することが可能になる。特に、活動拠点や通称の一致は、同一人物説を支持する有力な状況証拠となり得る。戦国時代の記録は、特に宇喜多氏のような新興勢力の場合、初期の家臣団の構成や一族の系譜、個々の人物関係が後世に正確に伝わらないことは決して珍しいことではない。
宇喜多忠家は、兄・宇喜多直家とその子・秀家の二代にわたり、宇喜多家の重鎮として活躍した人物である。特に、直家の死後、幼少の秀家が家督を継いだ際には後見役として家政を支え、宇喜多家の存続に大きく貢献した。彼の軍事指揮官としての能力は高く評価されるべきであり、上月城の戦い、辛川崩れ、備中高松城の戦い、そして文禄・慶長の役など、数々の重要な合戦において宇喜多軍を率い、その勝利に貢献した。これらの軍功がなければ、宇喜多家の版図拡大や豊臣政権下での高い地位の確立は困難であった可能性が高い。
その一方で、忠家は短慮な行動を起こしたり、兄・直家に対して常に警戒心を抱いていたとされるなど、複雑な人間性を持った人物でもあった。宇喜多騒動の際には、息子・知家が反秀家派の中心人物であったこともあり、自身は大坂に隠居するという道を選んだ。この隠居は、結果として宇喜多家の衰退の一因ともなった家臣団の分裂を象徴する出来事であり、関ヶ原の戦いを前に宇喜多家の結束を弱める要因の一つとなったとも考えられる。
忠家の存在は、豊臣政権下で大大名へと急成長を遂げた宇喜多家が、その内部に依然として戦国期以来の家臣団構成の複雑さや、一門・譜代衆と新興勢力との間の緊張関係を抱えていたことを示している。忠家は直系の一門衆であり、譜代の重臣としての側面も持っていた。宇喜多騒動は、秀家が登用した中村次郎兵衛のような新興の側近勢力と、忠家やその子・知家、あるいは戸川氏のような旧来の重臣層との間に生じた対立という側面が顕著であった。忠家の隠居や知家の出奔は、この内部対立が表面化した結果であり、宇喜多家の将来に暗い影を落とすことになった。
宇喜多忠家の生涯は、宇喜多家の勃興期から最盛期、そして混乱期に至るまで、常にその中心近くに位置し、宇喜多家の盛衰と不可分のものであった。彼の生涯を通じて、我々は戦国武将の生き様、一族内での葛藤、そして時代の大きな変化に翻弄されながらも対応しようとした一人の人間の姿を垣間見ることができる。
宇喜多忠家は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生き抜き、宇喜多家の発展と存続に大きく貢献した武将である。兄・宇喜多直家の「謀将」としての輝かしい名声の陰に隠れがちではあるが、忠家自身もまた、優れた軍事指揮官として数々の戦功を挙げ、特に甥である宇喜多秀家が幼くして家督を継いだ際には、その後見役として内外の困難に対処し、宇喜多家を支え続けた。
彼の生涯は、単なる武功や政治的役割に留まらない。兄・直家への複雑な感情、時に見せる短慮な行動、そして文化的素養といった人間的な側面は、彼という人物をより深く理解する上で重要である。宇喜多騒動における彼の隠居という選択は、一族の長老としての苦悩と、時代の変化の波に抗しきれなかった宇喜多家の内部事情を象徴しているようにも見える。
宇喜多忠家という一人の武将の生涯を丹念に追うことは、宇喜多家の盛衰の軌跡を辿ることであり、同時に、戦国乱世の厳しさ、その中で生きる武士たちの葛藤、そして近世へと移行していく時代の胎動を感じ取ることでもある。彼の名は、宇喜多直家や秀家ほど華々しく語られることは少ないかもしれないが、宇喜多家の歴史を語る上で、そして戦国時代という時代を理解する上で、決して忘れてはならない重要な存在であると言えよう。