本報告は、日本の戦国時代、特に伊予国(現在の愛媛県)において活動した武将、宇都宮房綱(うつのみや ふさつな)に焦点を当て、現存する諸史料に基づき、その出自、事績、そして彼が生きた時代の歴史的背景を詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。宇都宮房綱は、関東地方に広大な勢力を有した下野宇都宮氏とは区別されるべき、伊予国に根を下ろした伊予宇都宮氏の一族である。本報告を通じて、一地方武将の生涯を丹念に追うことで、戦国時代の伊予国の複雑な政治状況や、そこに生きた人々の動態を具体的に描き出すことを目指す。
本報告を作成するにあたり、依頼者からは宇都宮房綱に関する貴重な情報として、彼が西園寺氏の家臣であり、萩森城(はぎもりじょう)の城主であったこと、伊予宇都宮家の一族とされ、近隣の元城(もとじょう)城主・摂津親宣(せっつ ちかのぶ)と領地問題で度々争ったこと、そして西園寺十五将(さいおんじじゅうごしょう)の一人に数えられ、「萩森殿(はぎもりどの)」と称されたことなどが示された。これらの情報は、房綱を理解する上での重要な出発点となる。
本報告では、これらの情報を基軸としつつ、さらに以下の諸点について深掘りを行うことで、宇都宮房綱の実像により迫りたい。
これらの点を明らかにすることにより、宇都宮房綱という一武将の生涯を通じて、戦国時代の伊予国の地域史の一断面を照らし出すことを試みる。
宇都宮房綱の生涯と彼を取り巻く歴史的状況の理解を助けるため、主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に提示する。この年表は、房綱個人の事績のみならず、関連する人物や勢力の動向、さらには伊予国や四国全体の大きな歴史的変遷を視野に入れることで、彼の活動をより立体的に捉えるための一助となることを意図している。
表1:宇都宮房綱 関連年表
年代(西暦) |
主な出来事 |
宇都宮房綱の動向 |
関連人物・勢力の動向 |
典拠例 |
天文年間 (1532-1555) |
伊予宇都宮氏7代・清綱、嫡男・豊綱に大洲城を譲り、房綱を伴い萩森城へ移る。萩森城築城か。 |
父・清綱と共に萩森城へ移る。 |
宇都宮清綱:隠居。宇都宮豊綱:大洲城主となる。 |
1 |
清綱没後 |
房綱、萩森城主を継承。「萩森殿」と称される。保内郷二十五村七千八百石を領有。 |
萩森城主となる。 |
|
1 |
時期不詳 |
近隣の元城主・摂津親宣らと領地問題で度々抗争。摂津実親(親安の父)が房綱との戦いで討死したとの伝承あり。 |
摂津氏と抗争。 |
摂津親宣・親興:房綱と交戦。南方親安(元城主):父・実親が房綱との戦で戦死か。 |
3 |
天正2年 (1574) |
大野直之、萩森城を攻略。 |
萩森城を追われ、豊後国の大友宗麟を頼り亡命。 |
大野直之:長宗我部氏に通じ、宇都宮豊綱を追放し地蔵ヶ嶽城を奪取。その後、萩森城も攻略。 |
1 |
天正7年 (1579) |
房綱の旧臣・梶谷景雄、景晴、良景兄弟が萩森城及び高森城を奪還。 |
豊後より呼び戻され、萩森城主に復帰。 |
梶谷景雄ら:萩森城を奪還し、房綱を迎え入れる。大野直之:支配権を失う。 |
1 |
天正年間 (1573-1592) |
長宗我部元親、伊予への侵攻を本格化。 |
(直接的な影響は史料に明記されていないが、周辺状況は緊迫) |
長宗我部元親:四国統一を目指し勢力拡大。西園寺氏:長宗我部氏の圧力により天正12年(1584年)に講和、黒瀬城を明け渡す。 |
5 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀吉による四国平定。小早川隆景軍が伊予へ進攻。 |
小早川隆景の進攻を受け萩森城を開城。その後、萩森城は廃城となる。城主としての地位を失う。 |
豊臣秀吉:四国平定を断行。小早川隆景:秀吉軍の指揮官として伊予を制圧。西園寺氏:豊臣政権下で宇和郡の支配権を失う。 |
2 |
天正15年 (1587) |
|
|
房綱の元家臣・井上善兵衛尉重房が死去したとされる。 |
7 |
慶長15年 (1610) |
|
|
房綱の元家臣・梶谷景雄が死去したとされる。 |
8 |
この年表は、宇都宮房綱の生涯における重要な転換点と、彼が活動した時代の大きな歴史的文脈を概観するものである。各出来事の詳細については、本報告の本文中で詳述していく。
宇都宮房綱の人物像を理解するためには、まず彼が属した伊予宇都宮氏の歴史的背景と、その中での房綱の位置づけを把握する必要がある。伊予宇都宮氏は、下野国(現在の栃木県)に本拠を置いた名門宇都宮氏の分流であり、伊予国において独自の歴史を刻んだ一族である。
伊予宇都宮氏の起源は、鎌倉時代に遡る。本家である下野宇都宮氏は、藤原北家道兼流を称し、古くから下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)を拠点とした豪族であった 9 。鎌倉幕府の有力御家人として、伊予国をはじめとする各地の守護職を与えられたことが、一族の勢力拡大の契機となった 10 。
伊予宇都宮氏の直接的な祖とされるのは、宇都宮豊房(とよふさ)である。彼は伊予守に任じられたことを機に伊予国に下向したと伝えられる 11 。豊房には子がいなかったため、下野宇都宮氏本宗家9代当主宇都宮公綱(きんつな)の弟である宇都宮冬綱(ふゆつな、城井冬綱)の、さらに弟であった豊房の跡は、宇都宮貞泰(さだやす)の四男・宗泰(むねやす)が継承した 11 。これにより、伊予宇都宮氏の家系が確立された。
伊予国に土着した宇都宮氏は、主に喜多郡(現在の愛媛県大洲市周辺)を勢力基盤とし、大洲城(戦国期には地蔵ヶ嶽城とも呼ばれた)などを拠点として活動した 2 。時代が下り戦国時代に入ると、伊予国内は河野氏(こうのし)や西園寺氏(さいおんじし)といった有力な国人領主が割拠し、互いに勢力を競い合う状況にあった。その中で伊予宇都宮氏は、特に南予地方において西園寺氏と並ぶ有力な国人領主としての地位を占めていた 12 。
伊予宇都宮氏の成立と発展の過程は、中央の有力武家が守護職などの公的な役職を足がかりとして地方に下向し、在地勢力として根付いていくという、中世から戦国時代にかけての武士の移動と勢力形成の典型的なパターンを示している。鎌倉幕府という中央権力との結びつきによって伊予国に地歩を築いた伊予宇都宮氏は、その後の時代の変遷の中で、次第に在地化し、戦国時代には伊予国内の政治勢力図の中で独自の役割を果たす存在へと変貌を遂げたのである。この在地化の過程で、本家である下野宇都宮氏との関係性がどのように変化していったのか、また伊予の地でどのような独自の発展を遂げたのかは、房綱の活動背景を理解する上で重要な視点となる。
宇都宮房綱の直接的な系譜を辿ると、父とされる宇都宮清綱の存在が浮かび上がる。清綱は伊予宇都宮氏の第7代当主とされ 1 、戦国時代の伊予における宇都宮氏の重要な指導者の一人であった。
史料によれば、宇都宮清綱は天文年間(1532年から1539年の間、あるいは1532年から1555年の間)に、それまでの居城であった大洲の地蔵ヶ嶽城を嫡男の豊綱に譲り、自身は房綱を伴って萩森城に移ったとされている 1 。この時、房綱は清綱の三男であったとする記述 1 と、次男であったとする記述 14 (『伊豫温故録』による)が存在し、正確な兄弟順については史料間で若干の差異が見られる。例えば、『伊豫温故録』には「萩ノ森城 八幡浜町にあり 城主は宇都宮彦右衛門尉藤原房綱といふ 房綱は喜多郡大洲城主宇都宮総州二男なり 嫡男豊綱に大洲屋形の城を譲り父子共に当城に移住せり」と記されている 14 。ここでいう「宇都宮総州」が清綱個人を指すのか、あるいは伊予宇都宮氏の当主が用いた通称や官途名(下総守など)に由来する尊称なのかは判然としないが、文脈からは清綱を指している可能性が高い。いずれにせよ、房綱が清綱の子であり、父と共に萩森城へ移ったという点は複数の史料で共通している。
房綱の兄とされる宇都宮豊綱は、清綱の嫡男として地蔵ヶ嶽城主の地位を継いだ 1 。豊綱は、伊予の有力国人である西園寺実充(さねみつ)と対立し、弘治二年(1556年)の合戦では実充の子である公高(きんたか)を討ち取るなど、武勇の士であったことが伝えられている 1 。しかし、その後の豊綱は、家臣であった大野直之の裏切りに遭い、地蔵ヶ嶽城を追われるという悲運に見舞われている 3 。
このような家族構成の中で、宇都宮房綱は伊予宇都宮氏の系譜においてどのような位置を占めていたのであろうか。複数の史料が房綱を清綱の子、豊綱の弟としている一方で 1 、伊予宇都宮氏全体の歴代当主やその子孫を網羅的に記したとされる系図史料(例えば、 11 で言及されているWikipediaの記事で参照されている系図)には、房綱の名前が直接的には見られないという指摘がある。この事実は、房綱が伊予宇都宮氏の本流の家督を継承する立場にはなく、父・清綱と共に萩森城へ移り、その地を拠点とする分家的な立場にあったことを示唆している。戦国時代においては、嫡男が本家を継ぎ、次男以下の男子が別の城を与えられて分家を立てる、あるいは隠居する父に従ってその所領を継承するという事例は決して珍しいことではなかった。清綱が房綱を伴って萩森城に移ったという行動は、まさにこのような当時の武家における家督相続や所領配分、そして一族の勢力維持・拡大戦略の一環であったと考えられる。清綱が数いる子の中から房綱を選んで萩森城に帯同させた背景には、房綱の器量を見込んでいたのか、あるいは他の兄弟との関係性や政治的な配慮があったのか、その具体的な理由は史料からは明らかにし難いが、この移徙が房綱のその後の人生を決定づける重要な出来事であったことは間違いない。彼が本家の家督相続の系譜から外れたこと、あるいは萩森宇都宮氏が比較的早期に歴史の表舞台から姿を消したことなどが、後世の系図編纂において彼の名が記載されなかった理由として推測される。
宇都宮房綱の武将としてのキャリアは、萩森城と不可分に結びついている。父・清綱と共にこの城に移り住み、やがてその城主として「萩森殿」と称されるに至った房綱の統治と勢力について、以下に詳述する。
萩森城は、現在の愛媛県八幡浜市にその跡を残す山城である 1 。城跡は八幡浜の市街地に臨む標高202メートルの山頂に位置し 1 、戦略的に重要な地点を占めていたことが窺える。この立地は、眼下の平野部や、場合によっては海路を監視し、防衛拠点としての機能を果たす上で有利であったと考えられる。
築城者については、房綱の父である宇都宮清綱とされており、彼が嫡男の豊綱に大洲の地蔵ヶ嶽城を譲った後、天文年間(1532年~1555年)に房綱らを伴ってこの萩森城に移り住んだ際に築かれた、あるいは既存の城を改修したと伝えられている 1 。したがって、萩森城は当初、清綱の隠居城としての性格も有していた可能性があるが、同時に房綱が将来的に拠点とするための準備でもあったと解釈できる。
城の構造については、山城としての典型的な特徴を備えていたと考えられ、現存する遺構からは曲輪(くるわ)、土塁(どるい)、石塁(せきるい)、堀(ほり)などが確認されている 1 。これらの防御施設は、戦国時代の緊迫した状況下で、城の防衛力を高めるために不可欠なものであった。また、萩森城には高森城(たかもりじょう)、城高城(じょうこうじょう)、飯森城(いいもりじょう)といった支城が存在したとの記録もあり 2 、これらの支城群は萩森城を中心とした防衛ネットワークを形成し、より広範囲な領域支配を支えていた可能性を示唆している。萩森城が単なる孤立した城ではなく、周辺地域に影響力を行使するための拠点として機能していたことを物語る。
父・宇都宮清綱が没すると、宇都宮房綱は萩森城主の地位を継承したとみられ、その地の領主として「萩森殿」と称されるようになった 1 。この「萩森殿」という呼称は、彼が単に城の所有者であるだけでなく、その周辺地域において一定の権威と支配力を持つ領主として認識されていたことを示している。
房綱の所領規模については、伊予国保内郷(ほないごう)の二十五村、都合七千八百石を知行したと記録されている 1 。戦国時代の石高は、その領主の経済力や動員可能な兵力を示す指標となる。七千八百石という規模は、全国区の大名には遠く及ばないものの、伊予国内の有力な国人領主としては決して小さくない勢力であったと言える。この石高を背景に、房綱は自身の家臣団を組織し、領地経営を行っていたと考えられる。
房綱の家臣団に関する具体的な記録としては、『宇和旧記(うわきゅうき)』という後代の編纂史料に、房綱には八十三人もの直参の侍がいたとの記述が見られる 16 。この人数は、房綱が独立した軍事指揮官として、ある程度の規模の戦闘部隊を編成・維持する能力を持っていたことを示唆する。さらに、得能主善(とくのう しゅぜん)という人物が、房綱配下の豪族として九町長崎城(くちょうながさきじょう)を拠点とし、二百四十一石余りの所領を安堵されていたという記録もある 17 。これは、房綱の支配体制が、直属の家臣だけでなく、さらにその下に位置する在地豪族を従えるという重層的な構造を持っていた可能性を示している。このような支配形態は、戦国時代の国人領主が、より小さな豪族を自身の勢力下に組み込むことで、領内の安定を図り、自らの軍事力を強化していた一般的な姿を反映している。
「萩森殿」としての宇都宮房綱は、萩森城という拠点を中心に、一定の経済力と軍事力を有し、伊予国西部の保内地方にその勢力を確立していた武将であったと評価できる。彼の統治の実態は、限られた史料から断片的にしか窺い知ることはできないが、その存在は地域史において無視できないものであったと言えよう。
宇都宮房綱の生涯を語る上で欠かせないのが、伊予国の有力大名であった西園寺氏との関係である。房綱は西園寺氏の被官であり、「西園寺十五将」の一人に数えられたとされている。この事実は、房綱の政治的立場や伊予国内における勢力図を理解する上で極めて重要である。
西園寺氏は、元来京都の公家であったが、鎌倉時代に当時の当主西園寺公経(きんつね)が伊予国最大の荘園であった宇和荘(うわのしょう)を手に入れたことを契機に、伊予国と深い関わりを持つようになった 5 。その後、南北朝時代には西園寺氏の分流が宇和に下向し、在地領主としての性格を強めていった 5 。
戦国時代に至ると、西園寺氏は伊予国宇和郡(現在の愛媛県西予市、宇和島市などを含む地域)を中心に勢力を確立し、黒瀬城(くろせじょう)や松葉城(まつばじょう)などを居城として、南予地方に大きな影響力を持つ戦国大名へと成長した 5 。しかし、その支配は決して安泰なものではなく、北の河野氏や、同じく南予に勢力を持つ伊予宇都宮氏とは対立・抗争を繰り返していた 12 。さらに、国外からも、九州の雄である大友氏や、土佐国から勢力を伸張してきた一条氏、そして後に四国統一を目前にする長宗我部氏など、強力な外部勢力による侵攻や干渉をたびたび受け、常に不安定な情勢下に置かれていた 5 。
このような内外の脅威にさらされる中で、西園寺氏は自らの勢力を維持・拡大するために、宇都宮房綱のような伊予国内の有力な国人領主や武将を被官として取り込み、その軍事力を頼みとする必要があった。西園寺氏が伊予南部における中心的な勢力であったことは疑いないが、その支配基盤は必ずしも強固なものではなく、在地領主たちの動向に大きく左右される側面も持っていたのである。
「西園寺十五将」とは、戦国時代の伊予国宇和地方を治めた大名・西園寺公広(きんひろ)に仕えた、代表的な十五人の武将を指す呼称であるとされている 19 。この呼称は、主に江戸時代に編纂された『宇和旧記』などの軍記物や地誌類に見られ 17 、当時の西園寺氏の勢威や、それを支えた家臣団の勇壮さを伝えるものとして後世に語り継がれた。
宇都宮房綱は、この西園寺十五将の一人としてその名を連ねており、「萩之森城主」として記載されている 1 。彼が十五将に数えられているという事実は、房綱が西園寺氏にとって重要な戦力であり、信頼の置ける被官の一人と見なされていたことを示唆している。
表2:西園寺十五将 一覧
武将名 |
居城 |
備考 |
典拠例 |
西園寺公広 |
黒瀬城 |
西園寺氏当主 |
19 |
西園寺宣久 |
丸串城 |
|
19 |
観修寺基栓 |
常盤城 |
|
19 |
津島通顕 |
天ヶ森城 |
|
19 |
法華津前延 |
法華津本城 |
|
19 |
今城能定 |
金山城 |
|
19 |
土居清良 |
大森城 |
|
19 |
河野通賢 |
高森城 |
|
19 |
竹林院実親 |
一之森城 |
|
19 |
渡辺教忠 |
河後森城 |
|
19 |
北之川通安 |
三滝城 |
|
19 |
魚成親能 |
竜ヶ森城 |
|
19 |
宇都宮乗綱 |
白木城 |
|
19 |
宇都宮房綱 |
萩之森城 |
本報告の対象人物 |
19 |
南方親安 |
元城 |
房綱と領地争いをした摂津氏の後継者か |
19 |
この一覧に名を連ねる武将たちは、それぞれが伊予国内の要衝に城を構え、一定の勢力を持つ国人領主や有力な地侍であったと考えられる。西園寺氏は、これらの武将たちを「十五将」という形で組織化、あるいは象徴的に位置づけることで、自らの軍事力を強化し、領国支配の安定を図ろうとしたのであろう。
しかし、ここで注目すべきは、房綱の兄である宇都宮豊綱が、西園寺氏の当主・西園寺実充と争い、その子公高を討ち取ったという記録がある点である 1 。つまり、伊予宇都宮氏の本家筋は西園寺氏と敵対関係にあったにもかかわらず、分家筋にあたる房綱は西園寺氏の有力被官として十五将に名を連ねているのである。この事実は、いくつかの可能性を示唆している。一つは、房綱が兄・豊綱とは異なる独自の政治的判断に基づき、西園寺氏に臣従する道を選んだ可能性。もう一つは、西園寺氏が伊予宇都宮氏の勢力を分断し、一部を取り込むために、房綱を戦略的に優遇した可能性である。戦国時代においては、一族が異なる勢力に属することで家の存続を図る「両属」の戦略や、兄弟間での深刻な路線対立は決して珍しいことではなかった。房綱と豊綱の関係も、このような戦国時代特有の複雑な状況を反映していたのかもしれない。
「西園寺十五将」という呼称自体は、後世の編纂物に見られるものであり、必ずしも当時の西園寺氏によって公式に定められた固定的な職制ではなかった可能性も考慮する必要がある。むしろ、西園寺氏の勢威を後世に伝えるために、その時代に活躍した代表的な武将たちを列挙し、顕彰したものである可能性が高い。それでもなお、このリストに房綱の名が含まれていることは、彼が西園寺氏の勢力圏において重要な役割を担い、その武名が記憶されるに値する人物であったことを物語っている。彼が「萩森殿」として西園寺氏の軍事組織の一翼を担っていたことは、伊予国内の複雑な勢力バランスの中で、房綱が巧みに立ち回り、自らの地位を確保していた証左と言えるかもしれない。
宇都宮房綱が生きた戦国時代は、伊予国においても激しい勢力争いが繰り広げられた動乱の時代であった。房綱は、萩森城主として、また西園寺氏の被官として、この時代の荒波に否応なく巻き込まれていく。近隣領主との絶え間ない抗争、有力家臣の裏切り、そして四国全土を揺るがす大勢力の侵攻と、彼の生涯はまさに波乱に満ちたものであった。
戦国時代の国人領主にとって、隣接する領主との境界紛争や領地争いは日常的な出来事であった。宇都宮房綱もまた、その例外ではなかった。依頼者からの情報にもある通り、房綱は近隣の元城(もとじょう)城主であった摂津親宣(せっつ ちかのぶ)と領地問題を巡って何度も激しく争ったとされている。
史料によれば、房綱の萩森城と摂津氏の拠点であった元城は、千丈川(せんじょうがわ)を挟んで南北に位置していたとされ、その地理的な近接性が両者の紛争の直接的な原因となった可能性が高い 4 。具体的な抗争の記録としては、宇都宮豊綱・房綱(兄弟)と摂津親興(ちかおき)・親宣(兄弟)との間で戦闘があり、宇都宮側が一時、本拠地である地蔵ヶ嶽城(大洲城)まで後退を余儀なくされたという記述が見られる 3 。この記録は、両者の争いが萩森城周辺に限定されず、より広範囲に及ぶ激しいものであったことを示唆している。
さらに深刻なのは、元城主であり西園寺十五将の一人にも数えられる南方親安(みなかた ちかやす)の父・実親(さねちか、摂津実親か)が、房綱との戦いで討ち死にしたという伝承の存在である 4 。これが事実であるとすれば、宇都宮氏と摂津氏(あるいはその後継である南方氏)との対立は、単なる領地の奪い合いを超えて、一族の長の死という遺恨を伴う、極めて根深いものであった可能性が高い。このような状況下では、両家の和解は極めて困難であり、房綱の治世を通じて、摂津氏(南方氏)との緊張関係は常に存在し続けたと推測される。
この摂津氏との絶え間ない抗争は、房綱にとって大きな負担であったと同時に、彼の領主としての力量を試すものであったと言えよう。限られた兵力の中で、いかにして自領を防衛し、あるいは勢力を拡大していくか、房綱は常に難しい舵取りを迫られていたのである。また、南方親安が西園寺十五将の一人であることから 19 、西園寺氏が家臣間の紛争にどのように関与し、調停を試みたのか、あるいは一方を支援したのかといった点も、当時の伊予国の政治状況を理解する上で興味深い論点となる。
宇都宮房綱の生涯において、萩森城は彼の栄光と挫折の双方を象徴する場所であった。彼はこの城を拠点として勢力を築いたが、戦国時代の激しい攻防の中で、城を追われ、そして再び奪還するという劇的な運命を辿ることになる。
房綱にとって最初の大きな試練は、天正二年(1574年)に訪れた。この年、大野直之(おおの なおゆき)の攻撃によって萩森城は陥落し、房綱は城を追われる身となった 1 。大野直之という人物は、元々は房綱の兄である宇都宮豊綱の家老であったが、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)に通じ、主君であった豊綱を裏切って地蔵ヶ嶽城を奪い取ったという、戦国時代の下剋上を体現するような武将である 15 。地蔵ヶ嶽城を手中に収めた大野直之は、その勢いを駆って房綱の萩森城にも侵攻してきたのであった。
城を失った房綱は、海を渡り、豊後国(現在の大分県)の大名であった大友宗麟(おおとも そうりん)を頼って落ち延びたと伝えられている 1 。当時、大友氏は九州北部で広大な勢力を誇っており、伊予国の諸勢力とも一定の関係を有していた(例えば、土佐一条氏を介した間接的な関与など 21 )。房綱が大友宗麟を亡命先として選んだ背景には、このような大友氏の勢力や、宇都宮氏が有していた広域的な人的ネットワーク、あるいは何らかの縁故が存在した可能性が考えられる。失領した武将が、再起を期して他の有力大名を頼るというのは、戦国時代においては一般的な行動パターンであった。
この萩森城の落城と房綱の亡命は、彼の人生における最初の大きな転機であった。それは、房綱自身の勢力が盤石ではなかったこと、そして長宗我部氏の勢力拡大という伊予国外からの大きな波が、房綱のような在地領主の運命をも左右し始めていたことを示している。大野直之の行動は、より大きな勢力に取り入ることで自らの地位を向上させようとする、戦国武将の現実的な処世術の一端を垣間見せるものであった。
しかし、宇都宮房綱の物語はここで終わりではなかった。萩森城を失ってから5年後の天正七年(1579年)、房綱の運命は再び大きく動く。彼の旧臣であった梶谷景雄(かじや かげかつ)、景晴(かげはる)、良景(よしかげ)の兄弟たちが、大野直之の勢力から萩森城とその支城であった高森城を奪還することに成功したのである 1 。この知らせを受けて、房綱は亡命先の豊後国から呼び戻され、再び萩森城主として返り咲くことができた。
この奪還劇の立役者である梶谷景雄は、伊予宇都宮氏の老臣であった梶谷景則(かげのり)の子で、自身も高森城主を務めていた人物である 8 。彼は、大野直之によって居城を奪われた後、一時的に伊予の有力大名である河野通直(こうの みちなお)を頼ったが、父・景則が息を引き取る際に「城を奪還することが最大の供養である」と言い残した言葉を胸に、旧領回復の機会を窺っていたと伝えられている 8 。
忠臣たちの活躍によって旧領を回復するという話は、戦国時代の美談としてしばしば語られる。しかし、現実には、旧領主に対する家臣たちの深い忠誠心や人望、そして奪還後の領地を再び統治し得るだけの指導力がなければ、このような再起は不可能であった。房綱が5年もの亡命生活を経てもなお、梶谷景雄らのような家臣たちに見捨てられることなく、彼らの命がけの働きによって城主の座に復帰できたという事実は、房綱自身が一定の人望と統率力を有していたことを強く示唆している。
一方で、梶谷景雄らの行動の動機は、単なる主君への忠誠心だけではなかったかもしれない。大野直之の支配に対する不満や、房綱を復帰させることによって自らの地位を回復・向上させたいという現実的な計算も含まれていた可能性は否定できない。いずれにせよ、この萩森城奪還は、戦国時代の領主と家臣の間に見られる忠誠、利害、そして旧怨といった複雑な関係性を色濃く反映した出来事であったと言える。また、一度失った城を奪い返すという軍事行動は、相応の武力、策略、そして好機を捉える能力が不可欠であり、梶谷氏らの優れた能力もこの成功の大きな要因であったと考えられる。
この一連の出来事をまとめたものが以下の表である。
表3:萩森城攻防 関係者
年月 |
主要な出来事 |
攻勢側(指揮官等) |
守勢側(指揮官等) |
房綱の状況・結果 |
関与した主要家臣 |
典拠例 |
天文年間 |
清綱・房綱、萩森城へ移る |
- |
宇都宮清綱・房綱 |
萩森城を拠点とする |
- |
1 |
(清綱没後) |
房綱、萩森城主を継承 |
- |
宇都宮房綱 |
「萩森殿」と呼ばれる |
- |
1 |
時期不詳 |
摂津氏と領地問題で抗争 |
宇都宮房綱 / 摂津親宣 |
摂津親宣 / 宇都宮房綱 |
繰り返し戦闘 |
(摂津実親戦死) |
3 |
天正二年(1574) |
萩森城落城 |
大野直之(長宗我部氏に通じる) |
宇都宮房綱 |
豊後国の大友宗麟を頼り亡命 |
- |
1 |
天正七年(1579) |
萩森城奪還 |
梶谷景雄・景晴・良景(房綱方) |
大野直之勢力 |
萩森城主に復帰 |
梶谷景雄・景晴・良景 |
1 |
天正十三年(1585) |
四国の役、萩森城開城 |
小早川隆景(豊臣秀吉軍) |
宇都宮房綱 |
開城後、廃城となる。城主の地位を失う |
- |
2 |
この表は、萩森城を巡る攻防の複雑な経緯と、その中で宇都宮房綱が経験した目まぐるしい運命の変転を概観するものである。
宇都宮房綱の失脚と復帰というドラマの背景には、土佐国から急速に勢力を拡大してきた長宗我部元親の伊予侵攻という、より大きな歴史的変動が存在した。長宗我部元親は、「土佐の出来人」と称されるほどの英傑であり、四国統一という壮大な目標を掲げて、周辺諸国への侵略を積極的に推し進めていた 6 。
伊予国もまた、長宗我部氏の主要な攻略目標の一つであった。天正年間(1573年~1592年)に入ると、長宗我部軍の伊予への侵攻は本格化し、各地で激しい戦闘が繰り広げられた。特に、宇都宮房綱が仕えていた西園寺氏の領する南予地方は、長宗我部氏の強い圧力を受けることになった。史料によれば、長宗我部氏の侵攻によって、西園寺氏領内の主要な山城が次々と陥落し 5 、西園寺氏の勢力は次第に追い詰められていった。そして天正十二年(1584年)、ついに西園寺氏は長宗我部氏と講和を結び、本拠地の一つであった黒瀬城を明け渡すという屈辱的な条件を呑まざるを得なくなった 5 。これは、事実上、西園寺氏が長宗我部氏の支配下に組み込まれたことを意味していた。
宇都宮房綱の運命も、この長宗我部氏の伊予侵攻という大きな流れと無関係ではなかった。前述の通り、房綱の萩森城を攻略した大野直之は、長宗我部氏に通じていた人物である 2 。つまり、房綱の最初の失脚は、単に大野直之という一個人の裏切りによるものだけでなく、その背後にあった長宗我部氏の伊予における勢力拡大戦略の一環として起こった出来事と理解することができる。
長宗我部氏の台頭は、伊予国内の在地領主たちにとって、自らの生き残りを賭けた重大な選択を迫るものであった。長宗我部氏の軍門に降るか、あるいは既存の主家(西園寺氏や河野氏など)と共に抵抗を続けるか、さらには毛利氏や大友氏といった他の外部勢力と結びついて対抗しようとするか、それぞれの領主が置かれた状況や力量に応じて、様々な対応が見られた。大野直之が長宗我部氏に与することで自らの勢力拡大を図ったのに対し、宇都宮房綱は一度は城を追われたものの、旧臣の力によって奇跡的な復帰を果たした。しかし、その房綱もまた、長宗我部氏の圧倒的な軍事力の前に、いずれ何らかの決断を迫られる状況にあったことは想像に難くない。彼の個人的な武勇や人望だけでは抗しきれない、巨大な時代のうねりが伊予国を覆い尽くそうとしていたのである。
長宗我部元親による四国統一が目前に迫る中、日本の政治状況は新たな局面を迎えていた。織田信長の後継者として急速に台頭した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、天下統一事業を本格化させたのである。そして天正十三年(1585年)、秀吉は長宗我部氏の勢力を屈服させるため、大規模な四国討伐軍を派遣した。これは「四国の役」または「四国平定」と呼ばれる戦いであり、伊予国の諸勢力にとっても、その運命を決定づける一大転換点となった。
秀吉は、弟の羽柴秀長を総大将とし、毛利氏の小早川隆景(こばやかわ たかかげ)や吉川元長(きっかわ もとなが)、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)といった有力大名を動員して、四国の各方面から長宗我部領へと侵攻させた。伊予方面には、小早川隆景を主力とする軍勢が派遣された。圧倒的な物量と兵力を擁する豊臣軍の前に、長宗我部軍は各地で敗退を重ね、元親はついに降伏を決断する。
この豊臣秀吉による四国平定の嵐は、宇都宮房綱の萩森城にも容赦なく吹き付けた。史料によれば、房綱の萩森城は、小早川隆景の進攻を受け、抵抗することなく開城したとされている 2 。そして、この開城の後、萩森城は廃城となったと伝えられている 2 。これは、房綱が萩森城主としての地位を完全に失ったことを意味する。
萩森城の開城と廃城は、宇都宮房綱個人の武将としてのキャリアの終焉であると同時に、戦国時代を通じて伊予国に割拠してきた在地領主たちによる群雄割拠の時代の終わりを象徴する出来事の一つでもあった。秀吉による天下統一事業は、地方の自立的な勢力を解体し、中央集権的な支配体制の下に再編していくプロセスであった。この過程で、多くの国人領主たちは、所領を安堵されて豊臣政権下の大名や家臣として組み込まれるか、あるいは改易されて所領を没収されるか、といった選択を迫られた。萩森城が「廃城」とされたという事実は、豊臣政権にとって、この城が戦略的に重要視されなかったか、あるいは宇都宮房綱の勢力が、取り立てて温存するほどの価値を見出されなかった可能性を示唆している。
一度は忠臣の働きによって奇跡的な復帰を果たした宇都宮房綱であったが、長宗我部氏の台頭、そして豊臣秀吉による天下統一という、より大きな歴史の奔流の前には、一地方領主としての彼の力は及ばず、その歴史の舞台からの退場を余儀なくされたのである。
天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による四国平定と、それに伴う萩森城の開城・廃城は、宇都宮房綱の萩森城主としてのキャリアに終止符を打った。では、その後の房綱はどのような運命を辿ったのであろうか。そして、限られた史料の中から、彼の人物像や歴史的評価をどのように捉えることができるだろうか。
残念ながら、提供された調査資料の中には、天正十三年(1585年)の萩森城開城後の宇都宮房綱自身の具体的な消息を直接的に伝えるものは見当たらない。彼がいつ、どこで、どのように生涯を終えたのか、その詳細は不明のままである。戦国時代の終焉と共に歴史の表舞台から姿を消していった多くの小領主たちと同様に、房綱の晩年もまた、記録の彼方に埋もれてしまった可能性が高い。
しかし、房綱自身の消息は不明ながらも、彼に仕えた家臣たちのその後の動向については、いくつかの手がかりが残されている。これらの家臣たちの足跡を辿ることは、主家が没落した後の戦国武士たちが辿った多様な生き様を垣間見せると同時に、間接的にではあるが、房綱が生きた時代の余韻を感じさせてくれる。
房綱に忠義を尽くし、萩森城奪還の立役者となった梶谷景雄は、四国の役において小早川隆景の軍門に降り、開城した。その後、伊予国に入部してきた豊臣系大名の一人である戸田勝隆(とだ かつたか)に一時仕えたが、やがて下城し、旧領に近い平地村(現在の愛媛県大洲市平野町平地)で庄屋として余生を送ったと伝えられている 8 。そして、慶長十五年(1610年)に七十歳で病没したとされる 8 。愛媛県歴史文化博物館には、この梶谷氏に関連すると考えられる「谷家文書(たにけもんじょ)」が所蔵されており 24 、その後の子孫が宇和島藩に出仕したり、引き続き平地村に居住したりしたことが記録から窺える。武士としての道を断たれた後も、地域社会に根を下ろし、新たな役割を見出して生き抜いた梶谷氏の姿は、戦国末期から近世初頭にかけての社会変動期における武士の一つの典型的な生き方を示している。
また、八幡浜の萩森城主であった宇都宮房綱の家臣として、井上善兵衛尉重房(いのうえ ぜんべえのじょう しげふさ)という人物の名も伝えられている。彼は天正十五年(1587年)に死去し、その墓碑が現在の八幡浜市長養寺(ちょうようじ)の横にあるとされている 7 。この記述が正確であれば、房綱が萩森城を失ってからわずか2年後のことであり、主家の没落と自身の死が近接していたことになる。
これらの家臣たちの動向から推測すると、宇都宮房綱自身もまた、萩森城を失った後は、伊予国内のどこかで隠棲生活を送ったか、あるいは縁故を頼って伊予国を離れたといった可能性が考えられる。しかし、いずれも確証はなく、彼の最期は依然として謎に包まれたままである。
宇都宮房綱は、全国的な知名度を持つ武将ではないかもしれない。しかし、限られた史料を丹念に読み解くことで、戦国時代の伊予という特定の地域において、時代の荒波に翻弄されながらも懸命に生き抜いた一人の国人領主としての実像が浮かび上がってくる。
まず、彼の出自と勢力基盤について見ると、房綱は伊予喜多郡に勢力を持った伊予宇都宮氏の一族として、父・清綱と共に萩森城に移り、やがてその城主として「萩森殿」と称される存在となった 1 。彼が領有したとされる保内郷二十五村、七千八百石の所領 1 、そして『宇和旧記』に記された八十三人の直参の侍 16 や、配下の豪族・得能主善の存在 17 は、房綱が小規模ながらも独立した領主としての確固たる実力を持っていたことを示している。
次に、彼が置かれた政治的環境に目を向けると、房綱は伊予南部の有力大名である西園寺氏の被官であり、「西園寺十五将」の一人に数えられていた 1 。これは、彼が西園寺氏の軍事組織の中で重要な役割を担っていたことを意味する。しかし一方で、彼の兄である宇都宮豊綱は西園寺氏と敵対関係にあったとされ 1 、宇都宮一族内でも複雑な立場に置かれていた可能性が窺える。このような状況は、戦国時代の武家において、一族の存続のために異なる勢力に属するという戦略や、あるいは単純な兄弟間の路線対立など、様々な要因が絡み合って生じたものと考えられる。
房綱の武将としての生涯は、まさに浮沈の連続であった。近隣の元城主・摂津氏とは、父・実親が戦死するほど激しい領地争いを繰り広げた 3 。そして、長宗我部氏の勢力拡大の波に乗じた大野直之の裏切りによって、一度は萩森城を追われ、豊後への亡命を余儀なくされた 1 。しかし、その後、忠臣である梶谷景雄らの決死の働きによって奇跡的に城主の座に復帰するという劇的な経験もしている 1 。これらの出来事は、房綱が困難な状況下にあっても家臣からの人望を失わず、また彼自身も再起にかける強い意志を持っていたことを示唆している。
しかし、最終的には、豊臣秀吉による天下統一という、一個人の力では抗いようのない巨大な歴史のうねりの中で、房綱の地域的勢力は終焉を迎えることになった 2 。彼の生涯は、戦国時代という過酷な時代を象徴するような、裏切り、亡命、そして忠臣による再起といったエピソードに彩られている。それは、彼が一定の武略や統率力を有していた一方で、より大きな勢力の動向に翻弄された悲運の武将であったという側面も否定できないことを物語っている。
宇都宮房綱の名は、江戸時代に編纂された『宇和旧記』 16 , 26 ] や『伊豫温故録』 14 といった地誌や軍記物に記録されている。これは、彼が活躍した時代から数百年を経てもなお、地域史において記憶され、語り継がれるべき存在であったことを示している。彼の生涯は、戦国時代が単に有名な大名たちの華々しい物語だけで構成されていたのではなく、全国各地に存在した無数の地域領主たちの興亡と、彼らが織りなした人間ドラマによって成り立っていたことを改めて教えてくれる。宇都宮房綱は、そのような戦国期の地方武士の生き様、中央の動乱と地方の連動、そして天下統一へと向かう時代の大きな変革を、その身をもって体現した人物として評価することができるだろう。
本報告では、戦国時代の伊予国に活動した武将・宇都宮房綱について、現存する史料に基づき、その出自、事績、そして歴史的背景を詳細に調査した。その結果、以下の点が明らかになった。
宇都宮房綱は、下野宇都宮氏の分流である伊予宇都宮氏の一族であり、父・宇都宮清綱と共に萩森城へ移り、後にその城主となって「萩森殿」と称された。彼は七千八百石を領し、八十人を超える直参家臣を抱えるなど、伊予国保内地方に一定の勢力を有する国人領主であった。
房綱は、伊予南部の有力大名・西園寺氏の被官であり、「西園寺十五将」の一人に数えられていたが、一方で兄・豊綱は西園寺氏と敵対するなど、一族内でも複雑な立場にあった。彼の治世は、近隣の摂津氏との激しい領地争いや、家臣であった大野直之の裏切りによる萩森城失陥と豊後への亡命、そして忠臣・梶谷景雄らの活躍による劇的な城主復帰など、まさに戦国武将らしい波乱に満ちたものであった。
しかし、長宗我部元親の伊予侵攻という外部勢力の強大な圧力、そして最終的には豊臣秀吉による四国平定という天下統一の大きな歴史的潮流の中で、房綱の地域的勢力は終焉を迎え、萩森城は廃城となった。その後の房綱自身の具体的な消息は不明であるが、彼に仕えた家臣たちの動向からは、主家没落後の武士の多様な生き様が窺える。
宇都宮房綱は、全国的な知名度こそ低いものの、戦国時代の伊予国という特定の地域において、激動の時代を懸命に生き抜いた典型的な国人領主の一人として評価できる。彼の生涯は、戦国期における地方武士の興亡、中央の政治動向と地方の連動性、そして天下統一へと向かう時代の大きな変革を具体的に示す好個の事例と言える。
房綱は、困難な状況下でも忠臣に支えられて再起を果たすなど、一定の人望や統率力を有していたと推察される。しかし、同時に、より大きな勢力の戦略や時代の趨勢に翻弄された悲運の武将という側面も持ち合わせていた。彼の物語は、戦国時代が一部の英雄や大名だけの歴史ではなく、無数の名もなき(あるいは地域的にしか知られていない)武将たちの苦闘と葛藤によって織りなされていたことを我々に教えてくれる。
限定された史料の中からではあるが、宇都宮房綱の活動の軌跡を辿ることは、伊予国の戦国史、ひいては日本の戦国時代そのものを多角的に理解する上で、貴重な示唆を与えてくれると言えよう。
本報告では、現存する史料に基づいて宇都宮房綱について可能な限りの情報を収集し、分析を試みた。しかしながら、依然として不明な点も少なくない。特に、以下の点については、今後のさらなる史料の発見や研究の進展が期待される。
これらの課題の解明は容易ではないが、今後の地道な研究によって、宇都宮房綱という一武将の生涯が、より鮮明に歴史の中に位置づけられることを期待したい。