最終更新日 2025-06-21

宇都宮豊綱

「宇都宮豊綱」の画像

宇都宮豊綱:伊予国に散った戦国武将の生涯と伊予宇都宮氏の興亡

1. 序論:伊予の戦国武将、宇都宮豊綱

宇都宮豊綱は、日本の戦国時代、伊予国(現在の愛媛県)にその名を刻んだ武将です。彼が生きた時代は、日本各地で群雄が割拠し、下剋上が常態化する激動の時代でした。伊予国もその例外ではなく、守護であった河野氏、宇和郡に勢力を持つ伊予西園寺氏、そして宇都宮豊綱が率いた喜多郡の伊予宇都宮氏といった在地勢力が互いに覇を競い合っていました。さらに、地理的に畿内、中国地方、九州、そして土佐国からの影響を受けやすい位置にあった伊予国は、これらの外部勢力の介入も絶えず、その勢力図は極めて複雑な様相を呈していました。

宇都宮豊綱は、伊予宇都宮氏最後の当主として、この混乱の時代を生き抜き、一時は勢力を拡大するものの、やがて強大な外部勢力の波に呑まれ、その生涯を終えることになります。本報告書は、宇都宮豊綱という一人の武将の生涯と、彼が率いた伊予宇都宮氏の興亡を、現存する史料に基づいて詳細に追跡し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とします。具体的には、豊綱の出自と伊予宇都宮氏の成り立ち、本拠地であった地蔵嶽城、主要な合戦における動向、周辺勢力との関係、そして伊予宇都宮氏の終焉と後世への影響について、多角的に検証を進めてまいります。

以下に、宇都宮豊綱に関連する主要な出来事をまとめた略年表を提示します。

表1:宇都宮豊綱 関連略年表

年代(西暦)

和暦

主要な出来事

典拠例

1519年

永正16年

宇都宮清綱の子として誕生

1

1555年または1556年

弘治元年または2年

飛鳥城の戦い。西園寺実充の子・公高を討ち取る

2

1563年頃

永禄6年頃

朝廷に直奏し、遠江守に任官

1

1567年

永禄10年

長宗我部元親の伊予侵攻。地蔵嶽城が落城し、宇都宮氏は長宗我部氏に従属

4

1568年

永禄11年

鳥坂峠合戦。土佐一条氏と結び河野・毛利連合軍と戦うも大敗。毛利軍に捕らえられる

1

1577年

天正5年

毛利氏により地蔵嶽城・八幡城が落城。豊綱は備後国三原へ配流

4

1579年

天正7年

地蔵嶽城へ帰城(一時的か)

4

1580年頃

天正8年頃

家臣の大野直之に地蔵嶽城を追われたとの説あり

5

1585年

天正13年

備後国にて病死。伊予宇都宮氏、大名としては滅亡

1

2. 伊予宇都宮氏の系譜と豊綱

伊予宇都宮氏の出自と伊予への土着

伊予宇都宮氏は、その名の通り、下野国(現在の栃木県)を本拠とした名門武家である宇都宮氏の庶流にあたります 7 。鎌倉時代、宇都宮氏の一族が伊予国の守護職に任じられたことが、伊予国との関わりの始まりとされています 7 。伊予宇都宮氏の初代については諸説ありますが、宇都宮頼房の三男である宇都宮豊房が伊予守護職として大洲に入り、地蔵嶽城(後の大洲城)を築いたという伝承が広く知られています 4 。豊房は、本家のある下野国の宇都宮二荒山神社から分霊を勧請し、伊予国にも宇都宮神社を創建したとされ、これは伊予における宇都宮氏の勢力基盤確立と、本家との繋がりを精神的な拠り所としていたことを示すものと考えられます 8 。名門の血筋を引くという事実は、在地での権威を高め、領国支配を円滑に進める上で重要な要素であったと推察されます。

豊房には嗣子がなく、宇都宮泰宗(下野宇都宮氏第8代当主貞綱の弟)の子で、伊予国喜多郡にいた貞泰の四男・宗泰が養子となり家督を継いだとされています 8 。ただし、近年の研究では、宇都宮泰宗自身を伊予宇都宮氏の祖とし、その嫡男・貞宗が伊予守護に任じられたものの鎌倉幕府滅亡により地位を失い、弟の貞泰が台頭したとする見方も提示されています 8 。いずれにせよ、伊予宇都宮氏は大洲を中心として勢力を扶植し、戦国時代を迎えることになります。

宇都宮豊綱の生い立ちと家督相続

宇都宮豊綱は、永正16年(1519年)に伊予宇都宮氏7代当主・宇都宮清綱の子として誕生しました 1 。通称を弥三郎と称し 1 、後に遠江守の官途を得ています 1 。この遠江守への任官は、永禄6年(1563年)頃、伊予国内のライバルであった河野氏の妨害により室町幕府を通じての正式な手続きが難航したため、豊綱が幕府を通さずに公家に働きかけ、朝廷へ直接奏請することで実現したと伝えられています 1 。これは、戦国時代における室町幕府の中央権威の低下と、地方領主が幕府以外の権威(この場合は朝廷)を利用してでも自らの地位や正当性を高めようとした当時の状況を如実に示す事例と言えるでしょう。豊綱自身の主体的な行動力と、家格向上への強い意志が窺えます。

豊綱は伊予宇都宮氏の第8代当主であり、結果的に最後の当主となりました 1 。家督相続の具体的な時期や経緯に関する詳細な史料は確認されていませんが、父・清綱から順当に家督を継いだものと考えられています。彼には、笠間正綱や萩森城主となった宇都宮房綱といった兄弟がいたことが記録されています 1

以下に、宇都宮豊綱を中心とした伊予宇都宮氏の略系図を示します。

表2:伊予宇都宮氏略系図(豊綱中心)

Mermaid関係図

graph TD U1[宇都宮清綱(父)] --> U2[宇都宮豊綱]; U1 --> U3[笠間正綱(兄弟)]; U1 --> U4[宇都宮房綱(萩森城主・兄弟)]; U2 --> U5[宇都宮豊治(子・後、萩野与右衛門)]; U2 --> U6[女子(子・一条兼定正室)]; U2 --> U7[女子(子・大野直之室)];

この系図からもわかるように、豊綱の子女の婚姻関係は、土佐一条氏との同盟や、後の家中の混乱要因となる家臣・大野直之との関係に繋がっており、彼の生涯を理解する上で重要な要素となります。

3. 宇都宮豊綱の拠点:地蔵嶽城

地蔵嶽城(大洲城)の概要と歴史的変遷

宇都宮豊綱の本拠地であった地蔵嶽城は、現在の愛媛県大洲市大洲に位置し、大洲城とも呼ばれます。また、比志城、大津城といった別名も伝えられています 10 。この城は、伊予国を南北に結ぶ大洲街道と宇和島街道の結節点にあり、さらに東には四国山脈を越えて土佐国へ至る街道が通じるなど、交通の要衝に築かれた戦略的に極めて重要な拠点でした 10

築城に関しては、元弘元年(1331年)に伊予宇都宮氏の祖とされる宇都宮豊房によるものという伝承があります 4 。以後、地蔵嶽城は宇都宮氏累代の居城として、200年以上、8代にわたってその支配が続いたとされています 2 。しかし、豊綱の時代以降、城主は目まぐるしく変わり、豊臣秀吉による四国平定後は小早川氏、戸田氏、藤堂高虎、脇坂安治といった武将が入城し、江戸時代に入ると加藤貞泰が大洲藩初代藩主となり、以後加藤氏による統治が幕末まで続きました 4 。この過程で、地蔵嶽城は中世の山城から近世城郭へと姿を変えていくことになります。

豊綱時代の地蔵嶽城の状況

宇都宮豊綱の時代、地蔵嶽城は伊予国内の勢力争いや外部勢力の侵攻の最前線となり、度重なる合戦の舞台となりました。その歴史は、まさに攻防の連続であったと言えます。

  • 天文9年(1540年)には、摂津親興・親宣との戦いで、宇都宮軍は地蔵嶽城まで後退を余儀なくされています 4
  • 弘治2年(1556年)には、豊綱が西園寺公高を討ち取ったものの(飛鳥城の戦い)、その報復として西園寺軍の反撃に遭い、地蔵嶽城まで攻め込まれるという危機に瀕しました 4
  • 永禄10年(1567年)には、土佐国の長宗我部元親による伊予侵攻を受け、地蔵嶽城は落城。宇都宮氏は長宗我部氏への従属を余儀なくされ、城には長宗我部氏の兵1,500騎が守備として配置されたと記録されています 4 。この事実は、地蔵嶽城の戦略的重要性が周辺の有力大名からも認識されていたことを示しています。
  • 天正5年(1577年)には、中国地方の雄・毛利氏の伊予出兵により、地蔵嶽城と八幡城が落城し、豊綱は備後国三原へ配流されるという事態に至ります 4
  • 天正7年(1579年)に豊綱は一時的に地蔵嶽城へ帰城したとの記録も見られますが 4 、その後の城を巡る状況は依然として不安定でした。
  • 天正8年(1580年)以降は、豊綱の娘婿でもある家臣の大野直之が台頭し、豊綱を追放して城を奪ったとも 5 、河野氏によって攻略されたとも伝えられるなど、情報が錯綜しており、宇都宮氏の支配力が著しく低下していたことが窺えます 4

近年の大洲城本丸跡の発掘調査では、15世紀後半から16世紀中頃にかけての土師器や国内外の陶磁器、そして多数の炭化物と共に焼けた土の塊(建物の壁土の可能性)などが、石積み遺構と共に発見されました 4 。これらの遺物や遺構は、宇都宮氏が城主であった時期、すなわち豊綱の時代の地蔵嶽城のものである可能性が高いと指摘されています。特に焼失した建物の痕跡は、文献記録に残る数々の合戦の激しさを物語る物証となり得るものであり、文献史料だけでは不明瞭だった中世の地蔵嶽城の実態を明らかにする上で、考古学的な成果は極めて重要です。これまでの大洲城内の調査では中世段階の明確な城郭遺構は発見されていなかったため、この発見は地蔵嶽城の存在を具体的に示すものとして注目されています 4

4. 勢力拡大と周辺勢力との攻防

飛鳥城の戦いと西園寺氏との確執

伊予国において、喜多郡を本拠とする宇都宮氏と、宇和郡に勢力を張る伊予西園寺氏とは、長年にわたり領土を巡って対立関係にありました 3 。宇都宮豊綱の時代にもこの確執は続き、その象徴的な出来事が飛鳥城の戦いです。

弘治元年(1555年) 2 、あるいは弘治2年(1556年) 3 のこと、豊綱は西園寺氏の支城であった飛鳥城(現在の愛媛県西予市宇和町東多田)を攻撃しました。この戦いで豊綱は、西園寺氏の当主・西園寺実充の嫡男であった公高を討ち取るという武功を挙げ、一時的にその武威を高めました 2 。この勝利は、宇都宮氏の勢力拡大の一つの現れと見ることができます。

しかし、この勝利は西園寺氏の激しい怒りを招き、即座に報復攻撃を受けることになります。西園寺軍の反撃は激しく、宇都宮軍は敗走を重ね、本拠地である地蔵嶽城まで攻め込まれるという苦境に陥りました 4 。この危機的状況は、伊予国守護であった河野氏の当主・河野通宣の仲介によって、ようやく和睦が成立し、宇都宮氏は滅亡を免れました 3 。飛鳥城での戦術的な勝利は、結果として西園寺氏との対立を決定的なものとし、さらには河野氏の介入を招くなど、宇都宮氏を取り巻く戦略的環境を必ずしも好転させるものではありませんでした。短期的な武功が、長期的な視点で見ると必ずしも有利に働かないという、戦国時代の複雑な力学の一端を示しています。

土佐一条氏との連携

西園寺氏や河野氏といった伊予国内の有力勢力に対抗するため、宇都宮豊綱は国外の勢力との連携を模索しました。その最も重要な同盟相手が、土佐国(現在の高知県)の国司であった土佐一条氏です。

この同盟は、豊綱の娘が一条氏の当主・一条兼定の正室として嫁ぐという婚姻関係によって強化されました 1 。一条兼定と豊綱の娘の間には、後に一条氏を継ぐことになる一条内政をはじめとする子女が生まれており 17 、両家の結びつきは単なる名目的なものではなかったことが窺えます。当時、土佐一条氏は伊予国南部への勢力拡大を狙っており、一方の宇都宮氏にとっては、西園寺氏や河野氏という共通の敵に対抗するための強力な後ろ盾を得るという点で、両者の利害が一致したことによる軍事同盟であったと考えられます 1

しかし、この同盟関係も盤石なものではありませんでした。後年、一条兼定は九州の大友宗麟との関係を強化するため、豊後国の大名である大友宗麟の娘を新たに正室として迎えることになり、それに伴い豊綱の娘とは離縁したと伝えられています 15 。この離縁後も、宇都宮氏と一条氏の間の同盟関係は(少なくとも表向きには)継続されたとされていますが 18 、この出来事は戦国時代の婚姻同盟が、より大きな政治的判断や勢力関係の変化によって容易に反故にされうる、実利優先の脆いものであったことを示唆しています。宇都宮氏にとって、一条氏との同盟は重要な外交カードでしたが、その関係は必ずしも対等ではなく、一条氏側の都合によって左右される不安定な側面を内包していたと言えるでしょう。

河野氏との対立

伊予国の守護大名であった河野氏とは、伊予国内の覇権を巡り、宇都宮豊綱の代に至るまで長らく対立関係が続いていました 1 。河野氏は道後(現在の松山市周辺)を拠点とし、古くからの権威を背景に伊予国に影響力を行使していましたが、喜多郡に勢力を築いた宇都宮氏とは、その領土や権益を巡って衝突を繰り返していました。

前述したように、豊綱が遠江守の官位を得ようとした際に、河野氏が幕府に対して妨害工作を行ったという逸話も 1 、両者の根深い対立を物語る一例です。この対立関係は、後に宇都宮氏の運命を大きく左右する鳥坂峠合戦において、河野氏が中国地方の大勢力である毛利氏に援軍を要請する直接的な動機となりました。

5. 鳥坂峠合戦と伊予宇都宮氏の衰退

合戦の背景:毛利氏の伊予介入

宇都宮豊綱と土佐一条兼定の同盟は、伊予国内の勢力バランスを大きく揺るがすものでした。これに対し、長年のライバルであった河野氏は、単独ではこの連合に対抗できないと判断し、中国地方に一大勢力を築き上げていた毛利元就・輝元親子に援軍を要請しました 1 。毛利氏にとって、この伊予への出兵は、単に河野氏を支援するという戦術的な意味合いに留まらず、四国への影響力を拡大し、さらには九州の大友宗麟との広域的な覇権争いの一環としての戦略的な意味も持っていました 20

永禄11年(1568年)1月(一部史料では天正元年(1573年)とするものもありますが 4 、本報告ではより多くの史料が支持する永禄11年説を採ります)、一条兼定は宇都宮氏を支援するため、また土佐一条氏自身の勢力拡大のため、兵を率いて伊予国高島(現在の大洲市梅川地区、高島山)に進出しました 20 。これに先立ち、一条軍は宇和郡の西園寺氏にも圧力をかけ、従属させていたとされます 20 。こうして、伊予国南部は一触即発の緊張状態に包まれました。

鳥坂峠合戦の経過と敗因

永禄11年(1568年)2月頃、伊予国の鳥坂峠(現在の愛媛県西予市と大洲市の境付近に位置する交通の要衝)において、宇都宮豊綱・一条兼定連合軍と、河野通宣・毛利輝元(実質的な指揮は小早川隆景などの重臣)連合軍が激突しました。これが鳥坂峠合戦です 1

河野軍は、一条軍の北上を阻止するため、鳥坂峠に城砦(鳥坂城)を築き、防備を固めました 20 。一条軍は果敢にこの鳥坂城を攻撃しますが、河野方の将兵、特に来島村上水軍を率いた村上吉継らの奮戦により、攻めあぐねます 19 。村上吉継の武功に対しては、河野通宣から感状が与えられており 19 、これは戦功を顕彰し士気を高めるだけでなく、戦況が河野方に有利に進んでいることを内外に示す効果も狙ったものと考えられます。

戦況が膠着する中、小早川隆景が率いる毛利軍の主力が伊予に上陸し、戦線に加わったことが、合戦の帰趨を決定づけました 19 。毛利軍の組織力と圧倒的な軍事力の前に、宇都宮・一条連合軍は支えきれず、総崩れとなり大敗を喫しました 1

この敗北の要因としては、第一に毛利氏という強大な外部勢力の軍事力が挙げられます。宇都宮氏も一条氏も、伊予・土佐においては有力な勢力でしたが、中国地方の大部分を支配する毛利氏の動員力には遠く及びませんでした。加えて、河野方が地の利を得て堅固な防御態勢を敷いたこと、そして宇都宮・一条連合軍内部の連携が必ずしも十分でなかった可能性なども考えられます。地方勢力が単独では、あるいは地方勢力同士の連合だけでは、中央集権化しつつあった広域大名の力には抗しきれないという、戦国後期の現実を示す戦いであったと言えるでしょう。

長宗我部氏の台頭と宇都宮氏の従属

鳥坂峠合戦に至る以前の状況として、宇都宮氏が置かれていた複雑な立場にも注目する必要があります。実は、鳥坂峠合戦の前年である永禄10年(1567年)、土佐国で急速に勢力を拡大していた長宗我部元親が伊予国に侵攻し、宇都宮豊綱はその攻撃を受けて降伏。本拠地の地蔵嶽城も一時的に長宗我部氏の支配下に置かれ、宇都宮氏は長宗我部氏に従属する状態にあったとされています 4

この長宗我部氏への従属という事実は、鳥坂峠合戦における宇都宮氏の戦略や兵力動員に少なからぬ影響を与えた可能性があります。一条氏との同盟関係を維持しつつも、長宗我部氏の意向を無視できないという、いわば二重の従属関係に近い状況にあったのかもしれません。もし長宗我部氏が、毛利氏との直接的な大規模衝突を望んでいなかったとすれば、宇都宮氏への支援は限定的なものに留まったか、あるいは宇都宮氏自身が長宗我部氏の意向を忖度し、兵力を十分に投入できなかったという可能性も考えられます。このような複雑な外交関係は、宇都宮氏の戦略的選択肢を狭め、鳥坂峠での敗北の一因となったとも推測されます。

6. 伊予宇都宮氏の終焉

毛利氏による捕縛と豊綱の最期

鳥坂峠合戦での決定的な敗北の後、宇都宮豊綱の運命は暗転します。彼は毛利軍に捕らえられ、その勢力は急速に失われていきました 1 。天正5年(1577年)には、毛利氏による追撃を受け、本拠地であった地蔵嶽城および八幡城が落城。豊綱は備後国三原(現在の広島県三原市)へ配流されたと記録されています 4 。これは、毛利氏が伊予における宇都宮氏の勢力を完全に解体し、自らの影響力を確立するための措置であったと考えられます。

その後、天正7年(1579年)に豊綱が一時的に地蔵嶽城へ帰城したという記録も存在しますが 4 、これがどのような経緯によるものであったか、またどの程度の期間であったかは不明です。いずれにせよ、往時の勢力を回復することはできず、実質的には毛利氏の監視下に置かれた虜囚に近い状態であったと推測されます。そして天正13年(1585年)、宇都宮豊綱は失意のうちに配流先の備後国で病死しました 1 。享年67歳でした。

伊予宇都宮氏のその後

宇都宮豊綱の死をもって、戦国大名としての伊予宇都宮氏は事実上滅亡しました 5 。その後の伊予宇都宮氏一族の動向は、必ずしも一様ではありませんでした。

豊綱の嫡子であった宇都宮豊治は、萩野与右衛門と改名し、毛利氏の一門である小早川隆景、次いでその養子である小早川秀包に仕官したと伝えられています 1 。これは、敗戦した大名の子弟が、新たな主君を見つけて家名を細々と繋いでいくという、戦国時代には比較的よく見られた生き残り方の一つです。

一方で、一族の中には、伊予を離れて他の地域へ落ち延びた者もいたようです。阿波国(現在の徳島県)へ逃れ、さらに紀伊国和歌山へ移り住み、そこで存続したという伝承も残されています 21 。また、伊予国内においても、宇和郡皆田村(現在の西予市宇和町皆田)で江戸時代に庄屋を務めた「皆田宇都宮家」のように、武士としての地位は失いながらも、在地に根を下ろして家系を維持した分家も存在したことが、「皆田宇都宮家文書」などの史料から示唆されています 22

家臣・大野直之の動向

宇都宮豊綱の家臣であり、娘婿という関係でもあった大野直之は、主家である宇都宮氏の没落期において、非常に複雑かつ注目すべき動きを見せています。

一部の史料によれば、天正8年(1580年)頃、大野直之は主君である豊綱(あるいはその勢力)を地蔵嶽城から追放し、城を奪い取ったとも伝えられています 5 。これが事実であれば、豊綱が三原からの帰城を果たした後の出来事である可能性があり、主家の権威が失墜した中での下剋上的な行動と言えます。

その後、大野直之は長宗我部元親と結んで勢力を拡大しようとしたり 23 、河野氏と和睦を結んだりするなど 4 、目まぐるしく立場を変えながら、地蔵嶽城主として一時的に伊予南部に影響力を保ちました。しかし、彼のこうした動きも長続きはせず、やがて豊臣秀吉による四国平定の大きな波に呑み込まれていくことになります。大野直之の行動は、主家が没落した後の有力家臣が、自らの生き残りと勢力維持をかけて繰り広げる、戦国時代特有の権力闘争の一つの典型例と見ることができるでしょう。

7. 宇都宮豊綱の遺産と評価

墓所:清源寺について

宇都宮豊綱の死後、その位牌は愛媛県大洲市柚木に所在する臨済宗の寺院、清源寺に祀られています 1 。豊綱の戒名は「清源寺殿前遠州大守蓮翁華公大居士」と伝えられています 1

特筆すべきは、この清源寺が宇都宮豊綱自身によって開創されたという伝承があることです 24 。これが事実であれば、豊綱は単に武勇に優れた武将であっただけでなく、信仰心を持ち、地域の宗教文化にも一定の関与をしていた可能性を示唆します。戦国武将が寺社を建立・保護する行為は、自身の権威付け、領民の慰撫、一族の繁栄や死後の冥福を祈るなど、多様な動機に基づくものであり、豊綱が清源寺を開いたとすれば、彼の人物像に奥行きを与える重要な手がかりとなります。

伊予の戦国史における宇都宮豊綱の歴史的意義

宇都宮豊綱は、伊予宇都宮氏最後の当主として、伊予国内の複雑な勢力争いや、毛利氏や長宗我部氏といった強大な外部勢力の侵攻という厳しい現実に直面し、翻弄されながらも最後まで抵抗を試みた武将として評価することができます。

飛鳥城の戦いにおける西園寺公高討伐は、彼の武勇を一時的に伊予国内に示しましたが、その後の鳥坂峠合戦での決定的な敗北は、伊予宇都宮氏の衰退を決定づけました。彼の生涯は、戦国時代において地方の在地勢力が、より広域を支配する巨大勢力の波に飲み込まれていく過程の縮図とも言えるでしょう。

豊綱の敗北と伊予宇都宮氏の滅亡は、その後の伊予国の勢力図が大きく塗り替わる一つの転換点となりました。在地領主の力が後退し、毛利氏、長宗我部氏、そして最終的には豊臣政権による中央集権的な支配体制へと再編されていく流れを加速させる一因となったと考えられます。

戦国大名としては滅亡したものの、宇都宮豊綱の名は、墓所である清源寺の存在や、愛媛県に比較的「宇都宮」姓が多いこと 8 、そして一部に残る子孫の伝承などを通じて、地域史の中に記憶されています。これは、宇都宮氏が長年にわたり伊予国、特に喜多郡を中心とした地域社会に与えた影響の深さを示唆していると言えるでしょう。

8. 結論

宇都宮豊綱の生涯の総括

本報告書では、伊予国の戦国武将・宇都宮豊綱の生涯と、彼が率いた伊予宇都宮氏の興亡について、現存する史料に基づいて詳細に検証を行いました。

宇都宮豊綱は、下野国の名門宇都宮氏の血を引き、伊予国喜多郡に勢力を築いた伊予宇都宮氏の最後の当主として、戦国乱世を生き抜こうとしました。彼は、宿敵であった西園寺氏との間で飛鳥城の戦いを演じ、一時的に武威を示すなど、勢力拡大を試みました。また、土佐一条氏との婚姻同盟を通じて国外勢力との連携を図り、伊予国内での地位を固めようとしました。しかし、その一方で、伊予国守護であった河野氏との対立は解消されず、さらには土佐の長宗我部氏の侵攻を受けるなど、常に複雑で不安定な情勢の中にありました。

彼の運命を決定づけたのは、永禄11年(1568年)の鳥坂峠合戦でした。河野氏の要請に応じて伊予に出兵した毛利氏の強大な軍事力の前に、宇都宮・一条連合軍は敗北。豊綱は捕らえられ、伊予宇都宮氏の勢力は急速に衰退し、天正13年(1585年)、豊綱の死とともに戦国大名としての伊予宇都宮氏は終焉を迎えました。

宇都宮豊綱の行動は、戦国時代という弱肉強食の時代において、限られた領土と兵力しか持たない地方領主が、いかにして生き残りを図ろうとしたかを示す一つの事例と言えます。同盟、婚姻、武力行使といったあらゆる手段を駆使しましたが、最終的にはより大きな力の奔流に抗うことはできませんでした。

伊予戦国史における位置づけ

宇都宮豊綱の存在と彼の時代の伊予宇都宮氏の活動は、伊予国の戦国時代の展開、特に南予地域における勢力図の変化に大きな影響を与えました。彼の没落は、伊予における在地勢力の力が相対的に低下し、毛利氏や長宗我部氏といった外部の広域権力による影響が強まり、最終的には豊臣政権による全国統一へと繋がる四国平定によって、伊予の政治体制が大きく再編されていく画期であったと位置づけることができます。

宇都宮豊綱に関する史料は、断片的なものも多く、その生涯の全てを詳細に解明するには限界もあります。しかし、近年の大洲城跡の発掘調査による考古学的成果や、各地に残る関連文書の研究が進むことで、今後さらに新たな事実が明らかになる可能性も残されています。宇都宮豊綱という一人の武将を通じて、戦国時代の伊予国の歴史、そしてそこに生きた人々の姿をより深く理解するためには、今後の継続的な研究が期待されます。

引用文献

  1. 宇都宮豊綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%B1%8A%E7%B6%B1
  2. 大洲城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/shikoku/ohzu.j/ohzu.j.html
  3. 西園寺家伝来の日本刀 刀 無銘 伝安綱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/14757/
  4. 大洲城跡(本丸) https://www.city.ozu.ehime.jp/uploaded/attachment/24519.pdf
  5. 宇都宮豊綱(うつのみや とよつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E8%B1%8A%E7%B6%B1-1058088
  6. 伊予 大洲城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/ohzu-jyo/
  7. 宇都宮氏(うつのみやうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F-34924
  8. 伊予宇都宮氏とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F
  9. 愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行) - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7496
  10. 大洲城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%B2%E5%9F%8E
  11. 大洲城 | 大洲市公式観光情報【VisitOzu】愛媛県大洲市 https://jp.visitozu.com/archives/highlight/209
  12. 自分ルーツ調べ⑥ 伊予宇都宮氏 完 https://ameblo.jp/yukaponponguchi-sol/entry-12598240261.html
  13. 二 南予の戦雲 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7858
  14. 西園寺 公広(さいおんじきんひろ) | ぬるま湯に浸かった状態 https://ameblo.jp/syunpaturyoku/entry-11329083236.html
  15. 「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 1 - じゅんのつぶやき http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1536.html
  16. 歴史の目的をめぐって 一条兼定 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-ichijo-kanesada.html
  17. 一条内政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%85%E6%94%BF
  18. 伊予合戦② 鳥坂峠の戦い - 六芒星が頂に〜星天に掲げよ!二つ剣ノ銀杏紋〜(嶋森航) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054897753837/episodes/1177354054935780040
  19. 永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察 - 愛媛大学教育学部 https://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf
  20. 毛利氏の伊予出兵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%87%BA%E5%85%B5
  21. 「 「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 1」のコメント一覧 - じゅんのつぶやき http://2103center.blog112.fc2.com/?m2=res&no=1536&sp=1&page=1
  22. Untitled - 愛媛県歴史文化博物館 https://www.i-rekihaku.jp/research/siryo/detail/18-1.pdf
  23. 「南予史探訪」・「大洲地蔵ヶ嶽城を巡って」 2 - じゅんのつぶやき - FC2 http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1537.html
  24. 八 河野氏と戦国領主の寺院 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/54/view/7301