小出吉親の生涯を理解する上で、まず彼の出自である小出家と豊臣政権との密接な関係を把握することが不可欠である。小出氏の源流は信濃国伊那郡に遡るとされるが、近世大名としての地位を確立したのは、吉親の祖父・小出秀政が豊臣秀吉の母である大政所の妹、栄松院を正室に迎えたことに端を発する 1 。これにより秀政は秀吉の義理の叔父という極めて近い姻戚関係となり、豊臣政権下で重用される基盤を築いた 3 。
吉親の父、小出吉政は秀吉の従兄弟にあたり、早くから秀吉に仕え、文禄4年(1595年)には但馬国出石城主として6万石を領する大名となった 7 。吉親は、このような豊臣家との深い縁故を背景に、天正18年(1590年)、豊臣政権の中枢であった大坂において、吉政の次男として生を受けた 9 。彼の誕生そのものが、豊臣家の権勢と分かちがたく結びついていたのである。
吉親の青年期は、豊臣から徳川へと日本の権力構造が劇的に移行する、まさに時代の転換期と重なる。慶長3年(1598年)、吉親はわずか9歳にして、時の最高権力者である太閤秀吉の直接の命により、従五位下・加賀守に叙任された 9 。これは豊臣一門および縁者に対する恩典であり、彼の公的なキャリアが豊臣の権威の下で始まったことを明確に示している。
しかし、秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下の趨勢は徳川家康へと大きく傾く。この変化を的確に捉えた小出家は、巧みな政治的判断を下す。慶長8年(1603年)、吉親は江戸へ赴き、新たな天下人となった徳川家康に拝謁した 9 。この行動は、旧豊臣系大名であった小出家が、徳川の治世に順応し、臣従する意思を明確に示した重要な一歩であった。
その後、慶長10年(1605年)には二代将軍・徳川秀忠の上洛に随行し、慶長15年(1610年)には上野国甘楽郡において2,000石の知行を与えられた 9 。これは、吉親が徳川幕府の家臣として正式に認知され、その体制下に組み込まれたことを意味する。豊臣の縁者としてキャリアを開始した吉親が、徳川の臣下として新たな一歩を踏み出したこの過程は、多くの大名が経験したであろう権力構造の変化への適応を具体的に示す好例と言える。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、豊臣恩顧の大名であった小出家にとって、その存亡を賭けた極めて困難な局面であった。この天下分け目の戦いにおいて、小出家は一族が東西両軍に分かれるという、リスク分散の戦略をとった。父・吉政と兄・吉英は西軍に属し、細川幽斎が守る丹後国田辺城の攻撃に参加した 8 。これは、豊臣家への旧恩や、畿内における西軍の圧倒的な情勢から鑑みて、当時の立場としては自然な選択であった。
一方で、吉政の弟(吉親の叔父)にあたる小出秀家は東軍に属し、関ヶ原の本戦で戦功を挙げた 3 。戦後、徳川家康による論功行賞が行われる中、西軍に与した吉政らは本来であれば改易などの厳しい処分を受ける可能性が高かった。しかし、東軍で功を挙げた秀家の働きが考慮され、小出家は所領を安堵され、家名を保つことが許されたのである 3 。この一族を挙げた巧みな立ち回りは、戦国の遺風が残る時代において、大名家が生き残るための絶妙な政治判断の成功例として評価される。
関ヶ原の戦いを乗り切った小出家にとって、徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣は、徳川家に対する忠誠を明確に証明し、一族の立場を盤石にするための絶好の機会であった。関ヶ原での西軍加担という経緯は、徳川方から見れば潜在的な不信の種となり得たからである。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、吉親は兄・吉英と共に徳川方として参陣し、激戦地の一つであった天王寺口の攻撃に参加した 9 。翌年の夏の陣では、その武功はさらに際立つものとなる。大坂城落城の混乱の中、豊臣方の武将であった薄田兼相の弟・大鍬兼保や、大野治長の一族など300余を討ち取るという目覚ましい戦果を挙げた 9 。さらに、兄と共に堺浦の警備を担当し、敗走する豊臣方の残党狩りも遂行している 9 。
『寛政重修諸家譜』によれば、冬の陣・夏の陣の両役を通じて、吉親個人が挙げた首級は67にも上ったと記録されている 9 。この数字は単なる武勇伝にとどまらない。それは、徳川家に対する疑念を払拭し、絶対的な忠誠を形で示した、極めて重要な政治的行動であった。この conspicuous な軍功は、後の但馬出石城主への就任、そして丹波園部藩の立藩へと繋がる直接的な要因となり、近世初期における軍事奉公と政治的地位の密接な因果関係を明確に示している。
大坂の陣での軍功に先立つ慶長18年(1613年)、父・吉政が死去した。家督を継いだ長男の吉英は、徳川幕府の命により、それまでの本拠であった但馬出石藩から、小出家宗家の領地である和泉岸和田藩へと移封された 15 。
この兄の国替えに伴い、次男であった吉親が兄の旧領である但馬出石城と、父の遺領の一部を合わせて継承することになった。その所領は但馬国の出石郡、気多郡、美含郡、養父郡の四郡にまたがる2万7700石余で、これに以前から領有していた上野国の知行2,000石を合わせ、合計で2万9700石、約3万石を領する大名となった 9 。これが、吉親にとって初めて一国一城の主として藩を治める経験の始まりであった。
吉親が出石城主であった期間は、元和5年(1619年)に丹波園部へ移封されるまでのわずか6年間であった。しかし、この短い期間は、彼が藩主としての実務能力を養う上で極めて重要な意味を持った。領国の検地や年貢収取、家臣団の統率、そして何よりも幕府との折衝や軍役の遂行など、近世大名に求められる多岐にわたる責務を、彼はこの出石で初めて主体的に経験したのである。大坂の陣への出陣も、出石城主という立場で行われた。
また、この時期に兄・吉英と共に、但馬出身の名僧であり、当代一流の文化人でもあった沢庵宗彭に参禅し、深い薫陶を受けたことも特筆される 11 。沢庵との交流は、吉親の人間形成や文化的素養に大きな影響を与えたと考えられる。
この6年間の出石統治は、吉親にとって藩主としての「実地研修」期間であったと言える。ここで得た統治の基本、家臣団の掌握、そして中央政権との関係構築といった経験と知識は、後に全く新しい土地で園部藩をゼロから創設するという大事業を成功させる上で、不可欠な土台となったのである。
元和元年(1615年)の大坂夏の陣終結は、長く続いた戦国の世の終わりを告げる「元和偃武」の到来を意味した 20 。徳川幕府は、この泰平の世を盤石なものとするため、全国的な大名の再配置を断行する。特に、旧豊臣政権の本拠地であった大坂、そして朝廷の座す京都を含む畿内近国は、幕府の威光を天下に示すための最重要戦略地域と位置づけられた。その結果、この地域に所領を持っていた豊臣恩顧の外様大名の多くが転封の対象となり、代わりに徳川一門の親藩や信頼の厚い譜代大名が配置されるという政策が進められた 7 。
元和5年(1619年)、この幕府の畿内支配体制強化という大きな政策的文脈の中で、小出家にも大きな転機が訪れる。兄・吉英が和泉岸和田から但馬出石へ再封されることになり、それに伴って出石城主であった吉親は、丹波国へ新たに所領を与えられ移封されることとなった 7 。これは単に小出家兄弟間の都合によるものではなく、徳川幕府の国家的戦略の一環として行われたものであった。
こうして吉親は、丹波国の船井郡、桑田郡、何鹿郡、そして飛び地として上野国甘楽郡の4郡にまたがる2万8000石(資料によっては2万9800石余とも)を領する、丹波園部藩の初代藩主となった 7 。
園部に入封した当初、吉親は在地土豪であった小畠氏の旧拠点、宍人(ししうど)城に仮の居館を構えていた 10 。その後、元和5年(1619年)から、園部川に面した戦略的要衝である小麦山(こむぎやま)の山麓に、藩庁と居館を兼ねた本格的な築城を開始し、2年後の元和7年(1621年)に完成させた 9 。しかし、幕府は京都に近いこの地に大規模な城郭が築かれることを警戒した。豊臣恩顧の外様大名であった吉親に対し、天守閣や大規模な櫓の建設は許可されず、その居城は公式には「園部陣屋」として扱われることになった 6 。これは、大名に一定の地位と領地を与えつつも、その軍事力を巧みに制限するという、徳川幕府の巧みな大名統制策(アメとムチ)の典型的な現れであった。
吉親は、園部陣屋の築城と並行して、藩政の礎を築くための諸政策に精力的に取り組んだ。具体的には、領内の石高を正確に把握し年貢収入を安定させるための「検地」、商業を振興し経済の基盤を作るための「城下町の建設」、そして農業生産の安定と民生の向上に不可欠な「治水事業」などが挙げられる 25 。これらの事業は、新たな領国を実質的に掌握し、藩経営を軌道に乗せるための根幹をなすものであり、初代藩主としての吉親の優れた行政手腕を物語っている。
表1:小出吉親の官位・役職・知行の変遷
年代(和暦・西暦) |
年齢 |
出来事・任官 |
官位・役職 |
知行(石高) |
典拠資料 |
天正18年 (1590) |
1歳 |
大坂にて誕生 |
- |
- |
9 |
慶長3年 (1598) |
9歳 |
豊臣秀吉の命により叙任 |
従五位下 加賀守 |
- |
9 |
慶長8年 (1603) |
14歳 |
信濃守に改め、徳川家康に拝謁 |
信濃守 |
- |
9 |
慶長15年 (1610) |
21歳 |
徳川幕府より知行を拝領 |
- |
上野国甘楽郡 2,000石 |
9 |
慶長18年 (1613) |
24歳 |
兄の移封に伴い出石城主となる |
- |
但馬国にて加増、計 29,700石 |
9 |
元和5年 (1619) |
30歳 |
丹波国園部へ移封、園部藩立藩 |
- |
丹波・上野にて計 28,000石 |
9 |
寛永3年 (1626) |
37歳 |
家光上洛に供奉、対馬守に改める |
対馬守 |
- |
9 |
寛永19年 (1642) |
53歳 |
上方郡奉行に就任、伊勢守に改める |
伊勢守 |
- |
9 |
寛文7年 (1667) |
78歳 |
隠居 |
- |
隠居料 5,000石 |
9 |
寛文8年 (1668) |
79歳 |
園部にて死去 |
- |
- |
9 |
丹波園部藩の初代藩主として藩政の基礎を固める一方で、吉親は徳川幕府から命じられる様々な公務(御用)を忠実にこなし、幕臣としての信頼を積み重ねていった。彼の経歴は、豊臣恩顧の外様大名が、いかにして軍事奉公と行政実務の両面で実績を上げ、徳川幕藩体制の中に確固たる地位を築いていったかを示す模範的な事例である。
吉親に課せられた公務は多岐にわたる。元和7年(1621年)、隣接する福知山藩主・有馬豊氏が久留米へ移封された際には、一時的に福知山城に入り、城を預かる城番を務めた 9 。これは、領地替えという重要な局面において、幕府が吉親の忠誠と統率能力を信頼していた証左である。
また、寛永元年(1624年)には、徳川の威光を天下に示す国家事業であった大坂城の再築城工事(天下普請)に参加した 9 。この普請は全国の大名に課せられた軍役の一種であり、これを着実にこなすことは大名の重要な義務であった。現在も大阪城に残る石垣には、園部藩小出氏の家紋に由来する刻印が確認されており、吉親がこの大事業の一翼を担った動かぬ証拠となっている 37 。
さらに、寛永3年(1626年)には、三代将軍・徳川家光の上洛に際し、後水尾天皇が二条城へ行幸する際の供奉の列に加わった 9 。これは大名としての格式を示すと共に、将軍への忠勤を公に示す重要な機会であった。
長年にわたるこれらの忠実な奉公が評価され、寛永19年(1642年)、吉親は「上方郡奉行」という要職に任命された 9 。これは、畿内における幕府直轄領(天領)の民政や訴訟を管轄する重要な役職であり、単なる儀礼的な名誉職ではない。高度な行政能力と公正な判断力が求められるこの役職に、外様大名である吉親が抜擢されたという事実は、彼が幕府から譜代大名に準ずるほどの厚い信頼を得ていたことを示している。
吉親は、一連の奉公を通じて、小出家の立場を「疑われる可能性のある旧豊臣系大名」から「幕府にとって信頼できる有能な臣下」へと完全に転換させることに成功した。それは、戦国の世が終わり、武勇だけでなく行政能力と忠誠心こそが家の安泰を保証する時代になったことを、彼自身が深く理解していたからに他ならない。
小出吉親は、有能な武人であり、堅実な行政官であったが、その人物像はそれだけにとどまらない。彼はまた、当代一流の文化人と交流し、戦略的な婚姻政策を駆使して家の安泰を図り、後世にその美意識を伝える文化財を残すなど、泰平の世の大名にふさわしい多面的な顔を持っていた。
吉親は兄・吉英と共に、但馬出身の禅僧であり、書画や茶道にも通じた文化人であった沢庵宗彭に深く帰依していた 11 。沢庵は、幕府の寺院法度に抗議して流罪に処される(紫衣事件)など、気骨ある人物として知られるが、後に赦免され、三代将軍・徳川家光からも深く帰依された 38 。
吉親の沢庵への崇敬の念は非常に深く、正保元年(1644年)には、家光が沢庵のために江戸品川に創建した東海寺の境内に、塔頭(大寺院の中にある小寺院)として「雲龍院」を建立し、寄進している 39 。これは、師への個人的な帰依の念を示すと同時に、将軍家光も尊崇する人物との強い繋がりを公に示すことで、自らの文化的権威と幕府内での立場を高めるという、高度な政治的配慮があったと考えられる。現在でも沢庵が吉親に宛てた書状の存在が確認されており、二人の間に密な師弟関係があったことを裏付けている 41 。
戦乱が終息し、武力よりも政略や家格が重要となった江戸時代において、有力大名家や幕閣との婚姻関係(閨閥)を築くことは、家の存続と繁栄に不可欠な戦略であった。吉親はこの点を深く理解し、巧みな婚姻政策を展開した。
正室には、徳川家譜代の重臣である本多正重の娘を迎えた 9 。さらに、多くの子女を周辺大名家や幕府の有力者と縁組させた。中でも特筆すべきは、四女を後に幕府の最高職である老中にまで昇進する板倉重矩の正室として嫁がせている点である 9 。この縁組は、小出家という比較的小さな外様大名にとって、幕政の中枢に繋がる強力なパイプとなり、計り知れない政治的価値を持つ「保険」となった。
表2:小出吉親の主要な婚姻関係と子女の縁組
関係 |
氏名 |
縁組先(人物名・家名) |
意義・特記事項 |
典拠資料 |
正室 |
- |
本多正重(譜代大名・岡崎藩主)の娘 |
徳川譜代の重臣との関係強化 |
9 |
長女 |
青龍院 |
一柳直頼(外様大名・伊予小松藩主)の継室 |
西国大名との連携 |
9 |
次女 |
- |
杉原重長(旗本)の正室 |
幕府旗本との関係構築 |
9 |
三女 |
- |
加藤直泰(外様大名・伊予大洲藩主)の正室 |
西国大名との連携 |
9 |
四女 |
- |
板倉重矩(譜代大名・後に老中)の正室 |
幕政中枢との極めて重要なパイプ形成 |
9 |
六女 |
- |
井上正義(譜代大名・下総高岡藩主)の正室 |
譜代大名との関係強化 |
9 |
八女 |
- |
井上正義(同上)の継室 |
正室没後の関係を再強化する二重の縁組 |
9 |
吉親の人物像や美意識を今に伝える貴重な文化財が、彼の菩提寺である京都府南丹市の徳雲寺に現存している。
これらの文化的活動や遺品は、吉親が単に幕府に忠勤を励むだけでなく、泰平の世の大名として、文化的な権威の構築や家の永続性を後世に伝えることを強く意識していたことを示している。
数々の公務と藩政に生涯を捧げた小出吉親は、寛文7年(1667年)、78歳という当時としては非常に高齢で家督を長男の英知に譲り、隠居した 9 。その際、藩の所領から5,000石を隠居料として与えられ、穏やかな晩年を送った 9 。
そして翌年の寛文8年(1668年)3月11日、自身がゼロから築き上げた丹波園部の地で、79年の波乱に富んだ生涯を閉じた 9 。法名は福源院松渓玄秀と贈られた 9 。その亡骸は、江戸下谷の広徳寺(現在は東京都練馬区に移転)と、園部領内の戸倉山山頂に設けられた小出氏廟所の二箇所に葬られた 9 。
小出吉親の最大の治績は、丹波園部藩を創設し、その後の約250年間にわたる安定した統治の盤石な基礎を築き上げたことにある。彼が創始した園部藩は、幕藩体制を通じて一度も国替えされることなく、彼の子孫が10代にわたって藩主を世襲し、幕末の廃藩置県まで存続した 2 。これは、小藩にとっては稀有な例であり、初代藩主である吉親の統治がいかに堅実で、先見性に富んでいたかを物語っている。
豊臣恩顧という、徳川の世では不安定になりかねない出自から出発しながらも、彼は時代の大きな流れを的確に読み、武功と忠勤、そして巧みな政略によって幕藩体制の中に確固たる地位を築き上げた。その生涯は、戦国の動乱から徳川の泰平へと移行する激動の時代を生きた、一人の大名の見事な処世術と統治能力の証左である。
小出吉親は、歴史の表舞台で華々しく活躍する英雄ではないかもしれない。しかし、彼は堅実な手腕で藩の礎を築き、一族の存続と繁栄を成し遂げた。その意味で、彼は近世初期における最も優れた「藩祖」の一人として、高く評価されるべき人物である。