本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、佐竹氏一門の重鎮として激動の時代を生きた武将、小場義成(おば よしなり、永禄12年 - 寛永11年、1569-1634)の生涯を、現存する史料に基づき、包括的かつ詳細に解明するものである 1 。義成は、主家である佐竹氏が関ヶ原の戦いにおける曖昧な態度を咎められ、常陸国54万石から出羽国秋田20万石へと減転封されるという存亡の危機に際し、その柱石として比類なき功績を挙げた。彼の活動は、一城主としての領地経営に留まらず、新領地における反乱の鎮撫、国防の要となる城郭の築城と城下町の建設、さらには幕府が命じる国家的な普請事業の監督にまで及んだ。
その生涯は、戦国時代の終焉から徳川幕藩体制が確立されるまでの、日本史における一大転換期と完全に重なる。本報告書では、単なる年譜の追跡に終わることなく、義成が佐竹一門の精鋭としていかに頭角を現し、主家の危難にいかにして立ち向かい、そして新たな泰平の世でいかなる役割を果たしたのかを、当時の政治的・社会的文脈の中に位置づけて分析する。これにより、一人の武将の生涯を通して、乱世から近世へと移行する時代のダイナミズムを立体的に描き出すことを目的とする。
小場義成が佐竹家中で重きをなした背景には、彼が属した佐竹西家という家門の由緒と、彼自身の若き日からの傑出した能力があった。常陸国における彼の活動は、既に関ヶ原の戦い以前から、主君・義宣の厚い信頼を物語っている。
小場義成の家系である佐竹西家は、清和源氏の名門・佐竹氏から分かれた、極めて格式の高い一門であった 3 。その歴史は室町時代に遡り、常陸国守護であった佐竹宗家9代当主・佐竹義篤が、庶長子であった義躬(よしつね)に常陸国小場の地を分与したことに始まる 3 。義躬は本拠地の名を取り「小場氏」を称し、ここに佐竹氏の有力な分家が誕生した。
この小場氏は、佐竹氏が秋田へ転封された後、新たな呼称を得ることになる。常陸時代、宗家の居城であった太田城から見て西の方角に小場城が位置していたことから、久保田藩では「佐竹西家」または敬意を込めて「お西様」と呼ばれるようになった 6 。地理的な位置関係がそのまま家門の通称となるこの事例は、一門内における各家の配置と役割意識を象徴しており、興味深い。
久保田藩(秋田藩)の家臣団階級において、藩主の一族は「一門」として最高の家格に位置づけられた。中でも、宗家から佐竹姓を名乗ることを特別に許された北家・南家・東家・西家の四家は「御苗字衆」と総称され、藩政において別格の存在であった 8 。佐竹西家は、藩の重臣である家老を輩出する家柄である「引渡二番座」という高い席次に列せられ、藩の重要政策の決定に深く関与する立場にあった 11 。義成は、このような由緒ある名家の嫡流として、その将来を嘱望される存在であった。
代 |
当主名 |
備考 |
初代 |
小場 義躬(おば よしつね) |
佐竹義篤の庶長子。佐竹西家の祖 5 。 |
2代 |
小場 惟義(おば これよし) |
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3代 |
小場 義信(おば よしのぶ) |
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4代 |
小場 義実(おば よしざね) |
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5代 |
小場 義忠(おば よしただ) |
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6代 |
小場 義宗(おば よしむね) |
佐竹義昭の三男(または四男)。義忠の婿養子 1 。 |
7代 |
小場 義成(おば よしなり) |
本報告書の主題。義宗の子。 |
出典: 1 等の史料を基に作成。
この系図が示すように、義成は佐竹西家の7代当主であり、単に一代で成り上がった武将ではなく、数代にわたる歴史と権威を持つ名家の後継者であった。この出自が、彼の行動の背景にある自負と責任感を理解する上で重要な鍵となる。
小場義成の出自を正確に理解する上で、まず彼の父である「佐竹義宗」について、史料上の混同を訂正し、その実像を明確にする必要がある。歴史上、「佐竹義宗」という名の人物は複数存在し、特に平安時代後期の佐竹昌義の子である同名人物としばしば混同されることがある 13 。この平安期の義宗は、下総国の相馬御厨を巡って千葉常胤と争ったことで知られるが、小場義成の父とは時代も活動内容も全く異なる 15 。
本報告書で対象とする義成の父・義宗は、戦国大名であった佐竹宗家17代当主・佐竹義昭の三男(一説に四男)として生まれた人物である 1 。彼は佐竹西家(小場家)6代当主・小場義忠の娘を娶り、婿養子としてその家督を継承した 1 。この婚姻は、戦国大名家において極めて一般的な戦略であり、宗家がその血を引く男子を有力な一門や国衆の家に入れることで、血縁による支配体制を強化し、内部結束を図るという明確な政治的意図があった。これにより、佐竹西家は宗家との結びつきを一層強固なものとし、一門内での発言力を高めた。義成は、このような宗家と西家の血を色濃く受け継ぐサラブレッドとして生を受けたのである。
小場義成は若くしてその才覚を現し、主君・佐竹義宣から絶大な信頼を寄せられていた。そのことを最も雄弁に物語るのが、関ヶ原の戦いが勃発する慶長5年(1600年)の人事である。この年、義成は義宣より常陸国の要衝・小田城を与えられ、5万石という破格の知行を給されている 1 。
この「5万石」という知行高が持つ意味は極めて大きい。当時の佐竹氏の総石高が54万石であったことを考慮すれば、その約1割に相当する領地であり、これは独立した小大名にも匹敵する規模である 21 。これを天下分け目の戦いを目前に控えた緊迫した時期に与えられたという事実は、平時の論功行賞とは全く次元の異なる、戦略的な意図に基づいた措置であったと解釈できる。すなわち、義宣は来るべき全国規模の動乱に備え、最も信頼篤く、かつ能力の高い一門の重臣を、敵対勢力との緩衝地帯となりうる戦略的要地に配置し、有事の際には独自の判断で大規模な軍事行動を起こせるだけの権限と兵力を与えようとしたのである。この人事は、義成が30代初頭にして、既に佐竹家中の軍事・政治の中核を担う、かけがえのない存在であったことを明確に示している。小田城主としての義成は、佐竹家の命運を左右する重要な駒の一つであった。
関ヶ原の戦いは、佐竹氏に過酷な運命を強いた。この未曾有の国難において、小場義成は一門の柱石として、新天地・秋田における藩政の基盤固めに決定的な役割を果たしていく。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、佐竹義宣の立場は極めて微妙であった。彼は豊臣政権下で石田三成と深い親交があり、心情的には西軍に与したいと考えていた 22 。しかし、関東の大勢は徳川家康率いる東軍に傾いており、地理的にも家康の勢力圏に隣接していた。この板挟みの中で義宣は旗幟を鮮明にできず、東軍への参陣を表明しながらも実際には水戸城から動かないという、日和見的な態度に終始した 23 。
この曖昧な行動は、戦後に天下の覇者となった家康の深い不興を買う結果となった。義宣は自身の不戦を詫びたものの許されず、慶長7年(1602年)、先祖代々の地である常陸国54万石から、出羽国秋田20万5800石へと、石高を半分以下に減らされた上での転封(国替え)を命じられた 24 。これは事実上の左遷であり、膨大な数の家臣団を抱える佐竹家にとっては、まさしく存亡の危機であった 27 。
この困難を極める国替えにおいて、小場義成は極めて重要な役割を担う。彼は佐竹東家の当主・佐竹義賢と共に、新領地へ先乗りする部隊の指揮官に任命されたのである 1 。先遣隊の任務は、新領地の中心となるべき城の接収、現地の情勢把握、そして旧領主の残党や在地勢力による抵抗の鎮圧など、危険と困難に満ちていた。主君・義宣が、この最も重要な先発任務を一門の東西両家の当主に託したことは、この事業の重要性を示すと同時に、義成が単なる血縁者ではなく、実務能力、交渉力、そして武勇を兼ね備えた武将として、絶対的な信頼を寄せられていたことの証左に他ならない。
義成が秋田で最初に取り組んだ大きな課題は、新領地における治安の確立であった。特に、藩の北部に位置する比内地方(現在の大館市周辺)では、旧領主であった浅利氏の遺臣や在地勢力が佐竹氏の入部に強く反発し、慶長8年(1603年)に大規模な一揆(浅利一揆)となって蜂起した 1 。
当初、佐竹側の先遣部隊はこの抵抗に遭い、鎮圧は難航した 31 。この事態に際し、義成は鎮撫の総責任者として現地へ赴く。ここで彼は、単に武力で一揆を殲滅するという強硬策を取らなかった。彼は、地元の民衆から信望の厚かった立杭村・浄応寺の住職、日来坊玄性(にちらいぼうげんしょう)の仲介を受け入れ、一揆勢との対話の道を選んだのである 28 。玄性の説得により、一揆勢は武装を解き、戦闘を回避して事態を収拾することに成功した 34 。この「無血解決」は、新領主に対する在地勢力の反感を和らげ、その後の円滑な統治の礎を築く上で、計り知れない価値を持つ功績であった。
この卓越した手腕と功績が評価され、慶長15年(1610年)、義成は正式に大館城の城代に任命された 1 。大館は、北に津軽氏(弘前藩)、東に南部氏(盛岡藩)という、潜在的な脅威となりうる大名と国境を接する、久保田藩の国防における最重要拠点であった 1 。義成には、この最前線の防衛という重責が託されたのである。
しかし、この重責とは裏腹に、彼に与えられた知行は5000石であった 1 。常陸時代の5万石から実に10分の1への激減である。この事実は、佐竹藩全体の財政的苦境を象徴すると同時に、義成という人物の本質を浮き彫りにする。通常、責任が重くなれば報酬も増えるのが道理であるが、ここでは全く逆の現象が起きている。これは、藩全体が困窮する中で、一門の筆頭格である義成が率先して減俸を受け入れ、なおかつ最も困難な任務を引き受けたことを意味する。彼の忠誠心と能力は、もはや経済的な報酬の多寡で測れるものではなく、彼は個人的な利得よりも、主家を支えるという一門の重鎮としての使命を最優先したのである。
大館城代に就任した義成は、直ちにこの地の恒久的な拠点化に着手する。彼の事業は、単なる軍事施設の強化に留まらず、新たな城下町を創造する壮大な都市計画であった。
まず、彼は大館城(別名・桂城)の大規模な改修・拡張を行った 34 。この城は、元和元年(1615年)に江戸幕府によって発布された一国一城令の対象外とされ、久保田藩の広大な領地を統治するために、横手城と共に支城としての存続が例外的に認められた 9 。これは、大館が軍事的に極めて重要な拠点であることを幕府自身が認識していた証拠であり、その城代である義成の役割の重要性を裏付けている。
城の整備と並行して、義成は本格的な城下町の形成、すなわち「町割り」に着手した 36 。彼は、城の周囲に武家屋敷が立ち並ぶ「内町」と、商人や職人が住む「外町」を明確に区画した。さらに、領内を縦断する羽州街道を城下に引き込み、経済の動脈とすると同時に、街道の要所に寺社を戦略的に配置することで、有事の際の防御拠点としての機能も持たせた。この時に形成された碁盤目状の道路区画や地名は、戊辰戦争や幾度かの大火による焼失を経ながらも、その骨格が400年後の現在の大館市中心市街地にまで色濃く受け継がれている 39 。
浅利一揆の鎮撫が統治における対話と交渉という「ソフト」面での手腕を示すとすれば、この城郭整備と町割りは、土木技術と都市構想という「ハード」面での能力を示すものである。義成は、軍事的な防御拠点としての城と、経済・生活の基盤としての町を一体的に構想し、実行に移すことができる、総合的なプロデューサーであった。彼の仕事は、単に命令を遂行する武人としてではなく、ゼロから新たな社会基盤を創造する、優れた領国経営者・都市計画家としての側面を明確に示している。
義成の活躍の舞台は、久保田藩領内だけに留まらなかった。彼は佐竹家の重臣筆頭として、幕府との折衝や国家的な事業において、藩の「顔」としての役割を担い、主家の評価を高めるために多大な貢献を果たした。
徳川幕府が確立して以降、全国の大名は幕府が命じる様々な公役、いわゆる「天下普請」への協力を義務付けられた。これは大名にとって大きな財政的負担であったが、同時に幕府への忠誠心と実務能力を示す絶好の機会でもあった。義成は、これらの重要な場面で藩を代表して活躍した。
この神田橋の普請事業を、義成は見事に成し遂げた。その功績は幕府に高く評価され、彼は江戸城に召し出されて、二代将軍・徳川秀忠に直接拝謁するという、家臣としては望みうる最高の栄誉に浴した。さらに秀忠は、その労を賞して自らが着用していた時服(じふく)と、虎の皮で装飾された鞘を持つ槍を義成に下賜した 1 。
この一連の出来事は、単なる個人的な名誉に留まらない。関ヶ原の戦いで評価を落とした外様大名である佐竹氏にとって、天下普請で功を挙げ、将軍から直接の褒賞を得たことは、幕府に対する忠誠を証明し、失われた信頼を回復する上で決定的な意味を持つ、大きな政治的成功であった。義成は、佐竹家の代表としてこの大役を完璧にこなし、藩の幕藩体制内における地位を安定させるという、極めて重要な役割を果たしたのである。
数々の功績を挙げ、主家の安泰に尽くした小場義成は、寛永11年(1634年)10月27日、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年66であった 1 。彼の亡骸は、彼自身が常陸国から大館の地に移転させた曹洞宗の寺院・松峰山宗福寺に葬られた。この宗福寺は、以降、大館佐竹家代々の菩提寺となり、現在も大館市内にその墓所が残されている 44 。また、同じく小場氏ゆかりの寺である一心院も、義成によって大館の地に移され、現存している 45 。
義成が築いた大館佐竹家(佐竹西家)は、彼の死後もその子孫によって受け継がれ、代々大館城代を務めて幕末まで存続した 6 。幕末の戊辰戦争では、当時の当主・佐竹義遵が、新政府軍に与した久保田藩を攻撃する南部藩の軍勢を前に、苦渋の決断の末に大館城を自ら焼き払い、その歴史に幕を閉じた 36 。
近代に入ると、佐竹西家は士族に列せられた。そして明治33年(1900年)、当主・佐竹義遵の戊辰戦争における功績などが認められ、男爵位を授けられて華族の一員となった 5 。これは、義成が築いた家門が、時代の大きな変化を乗り越えて名誉を保ち続けたことを示している。
現代において、義成の遺産は様々な形で生き続けている。彼が築城し、居城とした大館城跡は、現在「桂城公園」として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっている 36 。また、彼が創建や移転に関わった宗福寺、大館八幡神社 50 、蓮荘寺 33 といった寺社は、今もなお大館の地に根を下ろし、人々の信仰を集めている。義成の最大の功績は、単発の武功や事業ではなく、彼の死後250年以上にわたって存続し、秋田北部の地域の安定と発展に貢献した「大館佐竹家」という統治システムそのものを創り上げたことにある。彼が築いた軍事的、行政的、そして精神的な基盤が盤石であったからこそ、その家系と彼が治めた町は永続し得たのである。
小場義成は、主家・佐竹氏が存亡の危機に瀕した秋田転封という未曾有の事業において、先遣隊としての新領地接収、在地勢力一揆の巧みな鎮撫、対南部・津軽の最前線における防衛、そして大館城の築城と城下町の建設という、多岐にわたる困難な任務を一身に背負い、遂行した。彼の働きなくして、久保田藩初期の安定はあり得なかったと言っても過言ではない。
彼の人物像を再定義するならば、彼は単なる勇猛な「武将」ではなかった。在地勢力との対話を厭わない冷静な「交渉家」であり、400年後を見据えた「都市計画家」であり、さらには幕府の国家事業を差配する高度な「技術官僚」としての顔も併せ持つ、極めて多才でバランス感覚に優れた人物であった。
その生涯は、戦国時代的な個人の武勇が依然として価値を持つ一方で、新たな泰平の世を治めるための行政能力や政治的調整能力が不可欠となった、時代の大きな転換期そのものを象徴している。小場義成は、その両方を高いレベルで体現し、主家の危機を救い、自らの家を盤石なものとした、近世初期における理想的な「藩屏の臣(はんぺいのしん)」(主君を守る重臣)であったと結論づけることができる。彼の名は、佐竹氏の歴史、そして秋田県大館市の歴史において、不滅の輝きを放ち続けている。