小山田茂誠(おやまだ しげまさ)という武将の名は、戦国時代史、特に真田一族の物語において、しばしば「真田信繁(幸村)の義兄」として、あるいは真田信之を支えた家老の一人として言及される。しかし、彼の生涯はそうした限定的な役割に収まるものではない。甲斐武田家の譜代国衆の家系に生まれながら、主家の滅亡、主君の変転という戦国末期の激動を、忠義と現実的な判断力、そして人間的な魅力によって生き抜き、近世大名真田家の礎を築いた重要な人物である。
彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代から江戸時代初期への移行期を生きた「国衆」と呼ばれる在地領主の、過酷なまでの生き残り戦略の実態を明らかにすることに繋がる。また、武田遺臣を多く抱え、複雑な人間関係で構成された真田家という組織の中で、姻戚家臣が果たした役割を考察する上でも、小山田茂誠は極めて重要な事例を提供する。本報告書は、断片的に語られがちな茂誠の生涯を、出自の謎から、武田家臣時代、主家滅亡後の流転、そして真田家における活躍と、義弟・信繁との深い絆に至るまで、あらゆる側面から徹底的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。
小山田茂誠の生涯を理解する上で、最初にして最大の難関が、その出自をめぐる問題である。彼が甲斐武田氏の重臣・小山田一族の出身であることは確かだが、その系譜には二つの異なる説が存在し、長らく議論の対象となってきた。この問題は単なる系図上の混乱ではなく、茂誠自身とその子孫が、自らの「家」の歴史をいかに構築しようとしたかを示す、重要な鍵を握っている。
甲斐武田氏の家臣団には、大きく分けて二つの系統の小山田氏が存在した 1 。
一つは、甲斐国都留郡(郡内地方)を本拠とし、谷村城を居城とした 郡内小山田氏 である 3 。桓武平氏秩父氏の流れを汲む名門で 3 、武田二十四将にも数えられる小山田信有・信茂親子に代表される、甲斐国東部における最大級の国衆であった 1 。
もう一つは、甲斐国巨摩郡石田郷(現在の甲府市上石田・下石田周辺)を本拠とした 石田小山田氏 である 3 。この系統からは、信濃侵攻で活躍し内山城代を務めた小山田昌辰(虎満)、そしてその子・昌成(昌行)が出ており、親子二代で「備中守」を称したことで知られる 1 。
この二つの小山田氏は、同じ武田家臣でありながら、その出自や根拠地は異なっており、両者の直接的な系譜上の関係については、研究上でも依然として不明な点が多い 6 。
小山田茂誠がどちらの系統に属するのかについては、大きく二つの説が提示されている。
第一の説は、茂誠が 石田小山田氏 の出身であるとするものである。具体的には、天正10年(1582年)の高遠城の戦いで討死した小山田昌行(上原昌行)の子であるとする見方で、複数の二次史料や伝承に見られる 1 。
第二の説は、茂誠が 郡内小山田氏の一門 であるとするものである。これは近年の研究で有力視されており、幕末期に松代の小山田家で編纂された家伝『郡内小山田家長老大長老の事』によれば、茂誠は郡内小山田氏の分家で、都留郡境村を領し、代々「平三」の仮名と「弾正」の官途名を称した 小山田弾正家 の出自であるとされる 8 。この説では、茂誠の父は小山田有誠(ありとも)となる 9 。
この弾正家説を強力に裏付けるのが、松代藩の小山田家に伝来した古文書群「小山田家文書」に含まれる一次史料の存在である。「松代小山田家文書」には、天正3年(1575年)12月付で、「小山田平三」が郡内小山田氏の当主であった小山田信茂から「茂」の一字(偏諱)を与えられたことを示す「一字書出」が現存する 3 。この「小山田平三」こそ、若き日の茂誠を指すと考えられており、彼が郡内小山田氏の当主・信茂と主従関係にあり、その一門に連なっていたことを示す動かぬ証拠となっている。
史料的には郡内小山田氏の出身である可能性が極めて高いにもかかわらず、なぜ石田小山田氏の系譜が語り継がれてきたのか。その背景には、茂誠自身、あるいは彼の子孫である松代藩小山田家による、意図的な「出自の選択」があったと考えられる。事実、松代藩の小山田家は、公式には石田小山田氏の小山田昌成の子孫を自称していた 3 。
この歴史の再構築が行われた動機は、天正10年(1582年)の武田家滅亡時における、二つの小山田氏の対照的な行動に求められる。
郡内小山田氏の当主・小山田信茂は、滅亡寸前の主君・武田勝頼が自領の岩殿城へ逃れてきた際に、城門を閉ざしてこれを拒絶した。この裏切り行為により、勝頼は天目山で自刃に追い込まれる 12 。信茂は自らの勢力保全を図ったものの、後に織田信長から「主君への不忠者」として厳しく断罪され、一族もろとも処刑された 12 。この一件は、武田家臣団の歴史において拭い去ることのできない汚名として記憶された。
一方で、石田小山田氏の小山田昌行(昌成)は、同じ甲州征伐において、仁科信盛が守る高遠城に籠城。織田信忠率いる大軍を相手に最後まで徹底抗戦し、城兵全員と共に壮絶な討死を遂げた 1 。彼の最期は、武田家への忠義を貫いた英雄的な行動として、信茂の裏切りとは好対照をなしている。
真田家の娘婿となり、江戸時代には松代藩の次席家老という名誉ある地位を確立した茂誠とその子孫にとって、自らの本家が「裏切り者」として処刑された郡内小山田氏の系譜であると公言することは、家の名誉(家名)に深く関わる問題であった。そこで、同じ小山田姓であり、かつ忠義の武将として華々しく討死した石田小山田氏の系譜を自称することで、「不忠者」の汚名から距離を置き、自家の由緒をより名誉あるものとして後世に伝えようとしたと考えられる。これは単なる記憶違いや誤伝ではなく、近世武家社会における「家」の存続と体面を重んじる価値観を色濃く反映した、意図的な歴史の再構築であった可能性が極めて高い。
茂誠の出自問題は、単なる系図上の混乱にとどまらない。それは、戦国武将が近世武士へと移行する過程で、いかにして自らの「家の物語」を構築し、社会的地位を維持しようとしたかを示す、生々しい歴史の証言なのである。
【表1:小山田茂誠の出自に関する諸説の比較】
項目 |
石田小山田氏説 |
郡内小山田氏・弾正家説(有力説) |
出自 |
石田小山田氏 |
郡内小山田氏の一門・弾正家 |
父とされる人物 |
小山田昌行(備中守) 1 |
小山田有誠(弾正) 9 |
根拠 |
『甲陽軍鑑』などの二次史料、松代小山田家の自称 5 |
『郡内小山田家長老大長老の事』、一次史料「松代小山田家文書」中の「一字書出」 3 |
武田滅亡時の父の動向 |
高遠城にて仁科信盛らと討死(忠死) 1 |
高遠城にて討死したとされるが、詳細は不明 |
近年の研究評価 |
茂誠とその子孫による、家の名誉を保つための意図的な自称であった可能性が高い |
史料的裏付けが強く、現在では最も有力な説と見なされている(丸島和洋氏らの研究による) 3 |
小山田茂誠の青年期は、甲斐武田氏が最も輝き、そして落日へと向かう時代と重なる。彼の父祖が仕えた武田家臣団の中での立場と、主家滅亡という歴史の転換点における一族の動向は、茂誠のその後の人生を決定づける原体験となった。
茂誠の父とされる小山田有誠は、郡内小山田氏の当主・信有(弥三郎)や信茂の時代に、一門衆として活動していたことが記録されている。特に『甲陽軍鑑』においては、信茂の「おぼへの衆」、すなわち信頼の厚い側近の一人としてその名が記されており、本家当主と密接な関係にあったことが窺える 3 。
有誠は単なる一門衆に留まらず、武田氏の軍事行動においても重要な役割を担っていた。元亀2年(1571年)には、対後北条氏の最前線であった駿河国の深沢城(静岡県御殿場市)の城番として派遣され、城代の駒井昌直の指揮下で防衛任務についている 3 。これは、武田信玄が推し進める駿河侵攻という国家戦略の重要な一翼を、小山田弾正家が担っていたことを示している。
栄華を誇った武田氏も、信玄の死後、その勢いにかげりが見え始める。そして天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による本格的な武田領侵攻(甲州征伐)が開始されると、武田方の支配体制は瞬く間に崩壊した 16 。
この未曾有の国難において、小山田一族は悲劇的な運命を辿る。茂誠の父・有誠(あるいは、石田小山田氏説における父・昌行)は、武田勝頼の弟・仁科信盛が守る信濃高遠城に籠城し、織田信忠率いる圧倒的な兵力の前に玉砕したと伝えられている 1 。この時、茂誠は21歳もしくは22歳であったとされ、父の忠死を目の当たりにしたか、あるいはその報に接したことであろう 9 。
一方で、郡内小山田氏の当主・信茂は、前述の通り、勝頼の亡命を拒否するという裏切り行為に及んだ。しかし、この選択が家名を保つことには繋がらず、信茂は織田信長に不忠を咎められ、甲斐善光寺にて一族もろとも処刑された 12 。
この主家滅亡という極限状況下で示された、一族内での「忠死」と「裏切り」という二つの対照的な行動は、若き茂誠の心に深く刻まれたに違いない。父が貫いた忠義は武士としての誇りの源泉となったであろうし、同時に本家当主の裏切りは「小山田」という姓そのものに暗い影を落とした。この二つの相反する出来事が、茂誠がその後の人生で自らの家のアイデンティティを模索し、最終的には「忠死した石田小山田氏」の系譜に自らを接続させるという、重大な決断に至る心理的動機となった可能性は極めて高い。武田家滅亡は、茂誠の生涯を貫くテーマの原点となったのである。
武田家という巨大な庇護者を失い、混乱の渦中にあった茂誠の運命を大きく転換させたのが、戦国の知将・真田昌幸との出会いと、その長女・村松殿との婚姻であった。この結びつきは、茂誠を新たな主君のもとへと導き、彼の後半生を決定づける礎となった。
小山田茂誠は、真田昌幸の長女である村松殿を正室に迎えた 9 。村松殿は、後に上田藩初代藩主となる真田信之(信幸)と、大坂の陣で「日本一の兵」と謳われる真田信繁(幸村)の実姉にあたる 10 。彼女の実名は「於国(おくに)」と伝わっている 10 。
この婚姻が成立した正確な時期は不明だが、天正10年(1582年)の武田家滅亡以前であったと考えられている 10 。その根拠として、武田氏滅亡の時点で、茂誠と村松殿の間には既に嫡男・之知(ゆきとも)が乳児として存在していたという伝承があるためである 10 。
この婚姻は、単なる家と家との政略的な結びつきに留まらなかった可能性が高い。後年、茂誠の子孫が語ったところによれば、真田昌幸が茂誠の人物を高く評価し、「うちの長女を嫁にやる」と自ら決めたことによるという 17 。武田家臣時代、同じ信濃先方衆として活動する中で、昌幸は茂誠の誠実さや能力を見抜き、将来有望な若者として自らの一門に迎え入れたいと考えたのであろう。この昌幸の慧眼が、結果的に茂誠の命運を救い、真田家の未来を支える人材を確保することに繋がったのである。
村松殿は、真田家の長姉として、弟である信之や信繁から深く敬愛されていたことが、残された史料から窺える 10 。特に信繁は、死を覚悟した大坂の陣の最中にも姉を気遣う手紙を送っており、その絆の深さが偲ばれる 10 。
彼女の生涯もまた、戦国の女性らしく波乱に満ちたものであったと伝えられている。江戸時代初期に成立した軍記物『加沢記』には、次のような逸話が記されている。天正10年(1582年)に武田家が滅亡し、父・昌幸が織田信長に臣従した際、村松殿は人質として安土城に送られた。しかし、直後に本能寺の変が起こると混乱の中で行方不明となり、2年後の天正12年(1584年)、伊勢国桑名で保護されて真田家に戻ったというのである 10 。
この逸話は、村松殿の苦難の人生を象徴する物語として語り継がれてきた。しかし、歴史学的な観点からは、その信憑性に疑問が呈されている。戦国史研究の第一人者である丸島和洋氏は、当時の政治的慣習として、昌幸のような国衆クラスの人質は、その地域を管轄する織田方の大将(この場合は上野国を任された滝川一益)の元に預けられるのが通例であり、主君・信長の居城である安土まで送られるのは極めて不自然であると指摘している 10 。
したがって、『加沢記』の記述は、真田家の苦難と再起をより劇的に描くために、後世に創作された物語である可能性が高い。だが、このような逸話が生まれること自体が、村松殿という女性が真田家においていかに重要な存在であり、彼女の生涯が波乱に満ちたものであったと広く認識されていたかを物語っている。事実と物語を区別しつつも、彼女が戦国の動乱を生き抜いた強い女性であったことは間違いないだろう。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変は、武田旧領を空白地帯へと変え、徳川・北条・上杉の三大大名がその覇権を争う「天正壬午の乱」を引き起こした。この激動の時代、父を失い、主家を失った小山田茂誠は、巧みな処世術によって生き残りを図り、やがて義父・真田昌幸の元へとたどり着く。
武田家滅亡後、茂誠はすぐには真田家を頼らなかった。彼は父・有誠と共に、地理的にも近く、当時関東に一大勢力を築いていた相模国の後北条氏に仕えた 9 。
この選択は、当時の状況を鑑みれば極めて現実的かつ合理的なものであった。義父である真田昌幸もまた、武田滅亡後は織田家の重臣・滝川一益の与力となり、本能寺の変後は徳川、上杉、そして最終的には豊臣と、目まぐるしく主君を変えながら自家の独立と領土の安堵を勝ち取っていった。主家を失った国衆や武士にとって、より強大な勢力に属して家名を存続させることは、最優先の課題であった。茂誠が、まずは関東の覇者であった北条氏を頼ったのは、当時の武士の典型的な生き残り戦略であったと言える。
茂誠が北条家臣として過ごした期間は約8年に及ぶ。彼の運命が再び大きく動くのは、天正18年(1590年)のことである。天下統一を目指す豊臣秀吉が、小田原征伐の軍を起こし、後北条氏は滅亡に追い込まれた。
新たな庇護者を失った茂誠は、ここでついに義父である真田昌幸の元へと身を寄せた 9 。この時、昌幸は既に豊臣政権下で独立した大名としての地位を確立しており、茂誠を受け入れるだけの力を持っていた。茂誠は、時勢を的確に読み、最も有利なタイミングで真田家への帰属を果たしたのである。
昌幸もまた、この娘婿を温かく迎え入れた。同年12月1日、昌幸は茂誠に対し、信濃国小県郡村松郷(現在の長野県青木村)を知行地として与える判物(公的な証明書)を発給している 9 。妻である村松殿の呼称が、この領地に由来することは既に述べた通りである 18 。
さらに慶長3年(1598年)3月には、昌幸は茂誠に「壱岐守(いきのかみ)」という受領名を与えると共に、「真田」の姓を名乗ることを公式に許可した 9 。これは、茂誠が単なる客将や姻戚家臣ではなく、真田一族の中核をなす一門として、名実ともに遇されたことを意味する。昌幸が茂誠に寄せた信頼の厚さが、この破格の待遇から窺い知れる。武田家滅亡から8年、流転の末に、茂誠は安住の地と新たな主君、そして一門としての確固たる地位を手に入れたのである。
真田家の一員となった小山田茂誠は、江戸時代初期の日本を揺るがした二つの大戦、関ヶ原の戦いと大坂の陣において、真田家の存続をかけた重要な局面で、その忠誠心と判断力を試されることとなる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、真田家は「犬伏の別れ」として知られる苦渋の決断を下す。当主・昌幸と次男・信繁は西軍(豊臣方)に、長男・信之は東軍(徳川方)に与し、家の存続をはかったのである。
この時、小山田茂誠がどちらの陣営に属したかについては、史料によって見解が分かれている。義父・昌幸との強い結びつきから、昌幸と共に上田城に籠城し、徳川秀忠軍を足止めしたとする説 11 がある一方で、義兄・信之に従い東軍に属したとする説 2 も存在する。
戦後、茂誠が信之の家臣として上田藩、そして松代藩で重臣として取り立てられている事実を考慮すると、彼は信之と行動を共にし、東軍に属したと考えるのが最も合理的である。上田城籠城説は、昌幸との個人的な信頼関係の深さから、後世に生まれた混同や伝承である可能性が高い。いずれにせよ、茂誠もまた、真田一族として苦しい選択を迫られた一人であった。
茂誠の真価が最も発揮されたのは、慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂の陣においてであった。この時、上田藩主となっていた真田信之は病のため、自ら出陣することができなかった 19 。
そこで信之の名代として、長男の信吉と次男の信政という、まだ若く経験の浅い兄弟が真田軍を率いて徳川方として参陣することになった。この重大な局面で、信之が兄弟の後見役、すなわち軍監(補佐役)として白羽の矢を立てたのが、小山田茂誠であった 19 。
この時の茂誠の立場は、極めて困難かつ繊細なものであった。一方では、主君の息子たちの命と真田家の名誉を守り、徳川方としての軍役を全うするという重責を担う。もし失敗すれば、真田家の存亡に関わる。そしてもう一方では、敵方である豊臣軍の中核を担っていたのは、他ならぬ義弟、真田信繁であった。戦場で槍を交える可能性すらあったのである 19 。
この公的な責任と個人的な葛藤が交錯する複雑な状況下で、信之が茂誠に補佐役という大任を託したという事実そのものが、茂誠に対する絶大な信頼を物語っている。信之は、茂誠の長年の忠誠心と冷静な判断力、そして信繁との特別な関係性を熟知した上で、この最も難しい役目を任せられるのは彼しかいないと考えたのであろう。茂誠は、この期待に見事に応え、信吉・信政を支えて大坂冬の陣・夏の陣を戦い抜き、真田家の徳川政権下における地位を不動のものとしたのである。
小山田茂誠の人物像を最も人間味豊かに、そして鮮やかに浮かび上がらせるのは、義理の弟である真田信繁(幸村)との深い交流である。英雄「幸村」の伝説の裏にある、一人の人間「信繁」の苦悩や弱さ、そして家族への想い。その素顔を最もよく知る人物こそ、小山田茂誠であった。二人の絆は、現代にまで残された数通の書状によって、時を超えて我々に語りかけてくる。
関ヶ原の戦いの結果、西軍に与した真田昌幸・信繁親子は死罪を免れたものの、高野山麓の九度山村での配流生活を余儀なくされた。この苦境にあった親子を物心両面で支えたのが、信之であり、その意を受けた小山田茂誠・村松殿夫妻であった。
信之は、妻の小松姫が徳川家康の養女であるという立場上、父や弟との直接的な連絡を憚らざるを得なかった 17 。そこで、茂誠やその子・之知を使者として、あるいは彼らを通じて、日用品や食料、金銭などを送り届け、父と弟の生活を支え続けたのである 2 。茂誠は、敵味方に分かれた真田家の絆を繋ぐ、重要なパイプ役を果たしていた。
茂誠とその一族が、信繁にとってどれほど心を許せる存在であったかは、小山田家に伝来した「小山田家文書」に含まれる信繁直筆の書状が何よりも雄弁に物語っている。これらの書状は現在、長野市の真田宝物館に所蔵され、市指定有形文化財となっている 20 。
九度山での配流生活中に茂誠に宛てて書かれた手紙には、英雄のイメージとはかけ離れた、信繁の率直な心情が綴られている。義兄からの便りを心から喜びつつも、「私なんぞは去年から急に老け込んで、ことのほか病気がちになりました。歯もぬけてしまい、髭も黒いところはあまりありません」と、寂しい配流生活の中で心身ともに衰えていく様を嘆き、「今一度、お目にかかりたく存じます」と、肉親への切なる想いを吐露している 2 。
信繁の想いは、大坂の陣という極限状況下でさらに深まる。冬の陣の和睦期に、大坂城内から姉・村松殿に宛てた手紙では、自らの籠城が真田本家に迷惑をかけることを心から詫びている 19 。
そして、夏の陣を目前に控えた慶長20年(1615年)3月10日付で、茂誠とその子・之知に宛てて送られた手紙は、信繁の「最期の手紙」としてあまりにも有名である。この中で信繁は、大坂城内での牢人衆をまとめる苦労を「よろず気づかいのみにて御座候」と愚痴めかして漏らしつつ 33 、自らの死を覚悟した、あの有名な一節を記す。
「さだめなき浮世に候へば、一日さきは知れず候、我々事などは浮世にあるものとはおぼしめし候まじく候」
(定めのないこの世ですから、明日のことすらわかりません。私のことなどは、もうこの世にいない者とお思いください) 19
これらの書状は、信繁が兄・信之に対しては真田家の将来を託す当主として公的な態度で接していたのに対し、義兄である茂誠には、老いへの嘆き、城内での人間関係の苦労、そして死への覚悟といった、極めて私的で弱さも含む内面を包み隠さず打ち明けていたことを示している。これは、茂誠が単なる姻戚関係を超え、信繁の精神的な支柱であり、心を許せる唯一無二の存在であったことの証左である。茂誠の温厚で誠実な人柄が、信繁にそこまでの信頼を抱かせたのであろう。
小山田家がこれらの手紙を家宝として大切に保管し、幕末の文久3年(1863年)には、失われることを恐れて木版に彫り、一門に配布したという事実もまた 17 、小山田家にとって信繁との絆が、何物にも代えがたい最大の誇りであったことを物語っている。
大坂の陣が終結し、世に太平が訪れると、小山田茂誠は戦乱の世を生き抜いた武将から、近世大名真田家の藩政を支える為政者へとその役割を変えていく。彼の後半生は、信濃松代藩の基礎を固める重要な時期と重なる。
元和8年(1622年)、真田信之は幕府の命により、長年本拠としてきた上田から、信濃国北部の松代へ10万石で移封された。小山田茂誠も主君に従い、一族を率いて松代へ移住した 9 。
新たな土地で藩体制を構築するにあたり、信之は茂誠を重用した。小山田家は、真田一門で筆頭家老の家柄であった矢沢氏に次ぐ、 次席家老 の家格を与えられ、代々藩政の中枢を担うことになった 9 。
江戸時代の家老職は、藩主を補佐し、藩の政治・経済・軍事のすべてを合議によって運営する最高の役職であった 38 。通常、複数の家老が月番制で政務を執り、重要事項は評定所で合議の上、決定された 38 。次席家老である茂誠は、筆頭家老と共に藩の最高意思決定に深く関与し、藩政の安定と発展に大きく貢献したのである 41 。
松代藩における小山田家の家格の高さは、その知行高にも表れている。茂誠の子・之知は、寛永5年(1628年)に家督を相続した際、主君・信之から969石の知行を与えられている 43 。これは茂誠の代に確立された家禄と考えられ、上級家臣の中でも破格の待遇であった。
信濃国では唯一、松代藩が幕末まで地方知行制(家臣に直接土地と百姓を給付する制度)を維持しており 44 、小山田家も知行主(地頭)として自らの領地を支配する、文字通りの「殿様」であった。松代城下には広大な武家屋敷を構え、その威風堂々とした冠木門は現在も「小山田家住宅」の一部として残り、長野市の景観賞を受賞するなど、往時の繁栄を今に伝えている 15 。
【表2:小山田茂誠の経歴と地位の変遷】
年代(西暦) |
所属勢力 |
役職・身分 |
受領名 |
主な出来事 |
永禄4/5年(1561/62) |
武田氏 |
小山田弾正家の子として誕生 |
六左衛門 |
- |
天正3年(1575) |
武田氏 |
郡内小山田氏一門 |
- |
小山田信茂より「茂」の字を拝領 3 |
天正10年(1582) |
(浪人)→後北条氏 |
武田家滅亡後、北条家臣となる |
- |
父・有誠(昌行)が高遠城で討死 1 |
天正18年(1590) |
真田氏 |
真田昌幸の家臣 |
- |
小田原合戦後、真田家に仕官。村松郷を拝領 9 |
慶長3年(1598) |
真田氏 |
真田一門 |
壱岐守 |
昌幸より「壱岐守」の受領名と真田姓を許される 9 |
慶長5年(1600) |
真田氏(東軍) |
真田信之の家臣 |
壱岐守 |
関ヶ原の戦いで信之に従う 2 |
慶長19-20年(1614-15) |
真田氏(上田藩) |
信之の家臣、軍監 |
壱岐守 |
大坂の陣で信吉・信政兄弟の補佐役を務める 19 |
元和8年(1622) |
真田氏(松代藩) |
松代藩次席家老 |
壱岐守 |
信之の松代移封に従う 9 |
寛永14年(1637) |
- |
- |
- |
享年76(または77)で死去 9 |
この表は、茂誠が武田家の一家臣から、主家滅亡の危機を乗り越え、最終的に近世大名家中で確固たる地位を築き上げるまでの軌跡を明確に示している。彼の処世術と能力、そして何よりも誠実な人柄が、この輝かしいキャリアパスを実現させたのである。
小山田茂誠の生涯は、彼の死後も、その血脈と彼をめぐる物語を通じて後世に語り継がれていく。彼の嫡男・之知への家督相続、そして真田信繁の娘・阿梅の保護をめぐる逸話は、茂誠という人物の遺産を考える上で欠かせない要素である。
茂誠の嫡男は、小山田之知(おやまだ ゆきとも)である 43 。彼は父と同様に真田信之に仕え、慶長19年(1614年)の大坂の陣では父・茂誠と共に、信之の名代である信吉・信政兄弟に従軍している 11 。
之知は、慶長7年(1602年)に主君・信之から偏諱を受け、「之」の字を与えられている 11 。また、叔父にあたる真田信繁とも親しい関係にあり、信繁から之知に宛てた書状も現存している 11 。これは、小山田家と真田宗家の絆が、世代を超えて受け継がれていたことを示している。
之知は寛永5年(1628年)頃までに家督を相続し、969石の知行を得たが、父に先立つ寛永13年(1636年)に死去した 43 。法名は落葉一歩 43 。その後の小山田家は、之知の子・之成が継ぎ、幕末に至るまで松代藩の次席家老として重きをなし続けた。
小山田茂誠にまつわる逸話の中で、最も広く知られているものの一つが、大坂夏の陣の後、孤児となった真田信繁の娘・阿梅(おうめ)を保護し、養女として伊達政宗の重臣・片倉重長に嫁がせたという物語である 23 。この美談は、茂誠の情誼の厚さと、敵味方に分かれても変わらぬ真田一族の絆を象徴する話として、多くの講談や小説で描かれてきた。
しかし、この逸話は史実とは異なる可能性が極めて高い。嫁ぎ先である片倉家の公式記録『片倉代々記』や、伊達家の史料『白川家留書』には、阿梅は大坂城が落城した際に、片倉家の兵によって**「乱取り」**されたと明確に記されている 46 。
「乱取り」とは、戦国時代の合戦において、勝利した側の兵士が敵地で人や物を略奪する行為であり、捕らえられた人々は身代金の対象となったり、下人として売買されたりすることもあった、ごく一般的な慣習であった 47 。つまり、阿梅は信繁から託されたのではなく、戦場の混乱の中で偶然捕虜になったというのが、史料から読み取れる実態なのである。
この問題について、歴史研究者の丸島和洋氏は論文「大坂の陣と『乱取り』―真田信繁娘阿梅の行方―」で詳細な考証を行っている 49 。敵将の娘を「戦利品」として得たという事実は、後に彼女を正室として正式に迎える片倉家にとっても、またその血縁である真田家にとっても、体面上好ましいものではなかった。そこで、信繁が片倉重長の武勇に感心して娘を託した、あるいは義兄である小山田茂誠が保護して正式に嫁がせた、という「美談」が後世に創作されたと考えられる。これは、武家の体面や家格を重んじる価値観が生み出した、歴史の物語化の典型的な一例と言えるだろう。茂誠の情の深さを伝える逸話ではあるが、史実として扱うには慎重な態度が求められる。
松代藩の重鎮として藩政を支え続けた小山田茂誠は、寛永14年(1637年)8月3日、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年は76歳、あるいは77歳であったと伝えられる 9 。
妻・村松殿は、それに先立つこと7年前の寛永7年(1630年)6月20日に亡くなっている 10 。彼女の法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉といい、その死を悼み、兄・信之と夫・茂誠が施主となって高野山蓮華定院で法要が営まれた記録も残っている 19 。
二人の墓は、松代藩真田家の菩提寺である真田山長国寺(長野県長野市松代町)に、今も仲良く寄り添うように並んで建てられている 10 。その墓石は、戦国の動乱を共に乗り越え、新たな時代を築いた夫婦の絆を、静かに後世へと伝えている。
小山田茂誠の生涯は、戦国時代に名を轟かせた他の武将たちのように、華々しい武功や劇的な逸話に彩られているわけではない。しかし、彼の人生の軌跡を丹念に追うことで、乱世から泰平の世へと移行する時代を生きた武士の、一つの理想的な姿が浮かび上がってくる。
彼は、武田家という絶対的な主家を失うという逆境からそのキャリアをスタートさせた。父の忠死と、本家当主の裏切りという、相反する一族の運命を背負いながら、彼は自らの拠るべき場所を求め、流転の末に真田家という新たな安住の地を見出した。
真田家に仕えてからの茂誠は、一貫して「忠」と「義」の人であった。主君・真田昌幸、そして信之に対しては、姻戚という立場に甘えることなく、家臣としての忠誠を尽くした。大坂の陣では、若き当主代理の補佐役という重責を全うし、真田家の存続に大きく貢献した。その一方で、敵方にありながらも義弟・信繁との人間的な「義」を最後まで貫き、その精神的な支えであり続けた。信繁が最期の覚悟を打ち明ける相手として選んだのが茂誠であったという事実は、彼の誠実で温厚な人柄を何よりも物語っている。
出自の謎、主君の変転、敵味方に分かれた一族。彼の生涯は、常に複雑で困難な選択の連続であった。しかし、茂誠はそのいずれの局面においても、冷静な判断力と人間的な誠実さをもって乗り越え、最終的に近世大名・真田家の次席家老という不動の地位を築き上げた。彼の存在なくして、真田家の近世における繁栄は語れない。
小山田茂誠は、戦国の世にあって「忠」と「義」を両立させ、激動の時代をしなやかに、そして誠実に生き抜いた稀有な武将として、高く評価されるべきである。彼の生涯は、乱世を生き抜くための知恵と、人間関係の機微、そして何よりも人としての誠実さの重要性を、現代の我々に静かに教えてくれるのである。