武田信玄麾下の将星を語る上で、武田二十四将や甲陽五名臣といった呼称は、その家臣団の厚みを象徴するものとして広く知られている 1 。その中にあって、小幡虎盛(おばた とらもり)という武将は、ひときわ異彩を放つ存在である。「鬼虎」の勇名を轟かせ、生涯に三十六度の合戦で三十六枚の感状を得たと伝えられる武勇 1 。その一方で、死に際して子孫に「よくみのほどをしれ」という内省的な言葉を遺したとされ、その人物像は勇猛さと冷静さを併せ持つ、複雑な奥行きを感じさせる 4 。
しかし、我々が知る虎盛の姿の多くは、江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』の記述に大きく依拠している 7 。この書は、虎盛の孫にあたる軍学者・小幡景憲が編纂に深く関わったとされ、その記述には編者の意図が色濃く反映されている可能性を否定できない 6 。それゆえ、虎盛の実像に迫るには、伝承の源泉である『甲陽軍鑑』の記述を慎重に吟味し、他の一次史料や信頼性の高い記録と照らし合わせる史料批判の視点が不可欠となる。
本報告書は、この小幡虎盛という一人の武将の生涯を、出自から武功、人物像、そして後世への影響に至るまで、多角的に検証するものである。伝承によって彩られた英雄像の向こう側に、史料から浮かび上がる生身の武将の姿を可能な限り描き出すことを目的とする。
小幡虎盛の一族の源流は、甲斐国ではなく、遠江国(現在の静岡県中西部)に求められる 1 。彼らはもともと遠江国榛原郡勝間田(現在の静岡県牧之原市勝間田)を拠点とした国人・勝間田氏の出身であった 1 。『寛政重修諸家譜』では平良文の流れを汲むとされるが、その詳細な系譜関係は不明な点が多い 11 。
勝間田氏は遠江の有力な国人であったが、応仁の乱に乗じて遠江への支配権回復を目指した駿河守護・今川義忠と対立。結果として義忠によって討伐され、一族は所領を失い離散するという憂き目に遭う 11 。この今川氏による遠江平定という地域紛争が、結果的に勝間田一族、すなわち後の小幡(小畠)一族の運命を大きく左右し、彼らを新たな活躍の地へと向かわせる直接的な原因となった。
この出来事は、戦国期における人材の流動性を示す典型的な事例と言える。一つの勢力が領国を拡大する過程で、敗れた側の有能な武士階級が浪人となり、新たな主君を求めて敵対する別の勢力へと流入する。今川氏と敵対関係にあった甲斐の武田氏にとって、こうした経緯で生じた軍事専門家たちは、自家の軍事力を強化するための格好の人材供給源となったのである。
今川氏に所領を追われた勝間田一族の中から、虎盛の父である小畠盛次(おばた もりつぐ)は、甲斐国へと活路を見出した。『甲陽軍鑑』によれば、盛次は明応9年(1500年)、息子の虎盛(当時の幼名は孫十郎)を伴って甲斐へ入り、当時、甲斐国内の統一事業を推し進めていた武田信虎に仕官したとされる 11 。この時、姓を「小畠」と改めた 11 。
盛次は信虎のもとで足軽大将という重職に任じられた 11 。これは、甲斐古来の国人領主層とは異なる、信虎直属の機動部隊を率いる指揮官であり、信虎が旧来の勢力を抑えて自身の権力を確立していく上で、盛のような外部から登用した実力主義の武将がいかに重要であったかを物語っている。
盛次は日蓮宗に深く帰依しており、「日浄(にちじょう)」という法名でも知られる 1 。その信仰は虎盛にも受け継がれた。しかし、盛次の武人としての生涯は、永正15年(1518年)、甲斐国内の国人・今井信是の反乱を鎮圧する戦いにおいて討死するという形で幕を閉じる 15 。これにより、虎盛は一説に14歳という若さで家督を継承し、父と同じく武田家に仕える道を選んだ 5 。父・日浄の菩提寺は甲府市元紺屋町にある日蓮宗の妙遠寺であり、その過去帳には彼の命日が2月10日と記されていることから、一族と甲斐の地との深い繋がりがうかがえる 19 。
虎盛とその一族を語る上で、姓の表記は注意を要する点である。彼らが甲斐に移住した当初に名乗っていたのは「小畠」であった 6 。今日広く知られる「小幡」の姓は、虎盛の息子である昌盛の代に、主君・信玄の許しを得て改姓したものである 15 。したがって、虎盛自身を「小幡虎盛」と記すのは、後世の視点から遡及的に当てはめた呼称であり、同時代的には「小畠虎盛」がより正確な表記となる。
この改姓の背景には、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)の有力な武家であった「小幡氏」の存在がある。上州小幡氏は桓武平氏の流れを汲む名門であり、武田氏が西上野へ進出した際にその支配下に組み込まれた 12 。虎盛の一族がこの名門「小幡」を名乗ることを許されたのは、武田家臣団内での彼らの功績と地位が認められた証左と言えよう。
虎盛の甲州小畠氏と、上州小幡氏が全くの別系統であるというのが通説である 1 。その傍証として、家紋の違いが挙げられる。甲州小幡氏の家紋が「五枚根笹」であるのに対し、上州小幡氏のそれは「軍配に七五三笹」であり、明らかに意匠が異なる 11 。しかしながら、一部の系図では両者を遠縁の同族とするものも存在しており 11 、戦国時代の武家が自らの権威を高めるために名門の系譜に繋げようとした、当時の流動的な家の意識を垣間見ることができる。
若くして家督を継いだ虎盛は、父の跡を継ぎ、武田信虎麾下の足軽大将として、甲斐統一戦や隣国の今川氏、後北条氏との戦いでめざましい活躍を見せた 16 。彼の武名を不動のものとしたのが、大永元年(1521年)の今川軍による甲斐侵攻であった。
この年、今川氏の重臣・福島正成(くしま まさなり)率いる大軍が甲斐に侵攻。武田軍はこれを迎え撃ち、飯田河原(現在の甲府市飯田町)および上条河原(現在の甲斐市)で激戦を繰り広げた 25 。この時、虎盛は同じく猛将として知られる原虎胤らと共に迎撃の最前線に立ち、敵陣を撹乱し、敵将の首級を挙げるという大功を立てたとされる 5 。この戦いは、信虎の嫡男・晴信(後の信玄)が誕生する直前の出来事であり、武田家にとってまさに国家存亡の危機であったが、虎盛らの奮戦により今川軍を撃退することに成功した 27 。
この目覚ましい戦功を信虎は高く評価し、自らの名の一字である「虎」を与え、虎盛は「虎盛」と名乗ることを許された 1 。主君からの偏諱(へんき)を賜ることは、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、遠江からの外様家臣であった虎盛が、武田家臣団の中核を担う存在として信虎から絶大な信頼を得ていたことを物語っている。信虎時代、虎盛は騎馬15騎、足軽75人を率いる部隊長として、その武勇から「鬼虎」と称され、敵に恐れられる存在となっていった 6 。
天文10年(1541年)、家臣団によるクーデターで信虎が駿河へ追放され、晴信(信玄)が新たな国主となると、虎盛は引き続き信玄に仕え、その信濃侵攻において重用された 5 。足軽大将として彼が率いる部隊の采配ぶりは高く評価され、主君信玄のみならず、軍師として名高い山本勘助からも称賛されたと『甲陽軍鑑』は記している 1 。
虎盛の信玄への忠誠心の深さを示す出来事が、天文20年(1551年)の信玄の出家である。信玄が剃髪して法名を名乗ると、虎盛もまた、原虎胤や真田幸隆といった重臣たちと共に剃髪し、「日意(にちい)」と号した 1 。これは、主君と運命を共にするという強い意志の表明であり、彼が信玄の側近として特別な地位にあったことを示唆している。
しかしながら、虎盛が信玄期の主要な合戦、例えば上田原の戦いや砥石崩れといった著名な戦いに参加したことを示す確実な一次史料は、現在のところ確認されていない 32 。『甲陽軍鑑』では数々の合戦に参加したと謳われているものの、信頼性の高いとされる『高白斎記』などには、これらの合戦における虎盛の名は見出せない 24 。
この史料上の「不在」は、いくつかの可能性を示唆する。一つは、記録には残らなかったものの実際には参加していた可能性。もう一つは、彼の役割が信玄本隊に常に付き従うのではなく、特定の戦線を維持したり、後方拠点を守備したりといった、より専門的な任務にあった可能性である。いずれにせよ、虎盛が歴戦の勇将であったことは多くの伝承が一致して語るところであるが、その武功の具体的な内容は『甲陽軍鑑』の記述に大きく依存しており、その評価には慎重な姿勢が求められる。
小幡虎盛の武勇を最も象徴的に物語るのが、「生涯で三十六度の合戦に参加し、三十六枚の感状を授かり、身体には四十一箇所の傷を受けた」という伝承である 1 。この数字は、彼の武将としての苛烈な生涯を鮮烈に印象付ける。
戦国時代において、主君から与えられる「感状」は、武士にとって最高の栄誉であった。それは単なる表彰状ではなく、自らの武功を客観的に証明する公的な文書であり、恩賞としての加増や、もし主家が滅んだ場合に他の大名家に再仕官する際の経歴書として、極めて重要な価値を持っていた 37 。
虎盛が受けた傷の数については、史料によって40数ヶ所、41ヶ所、47ヶ所と若干の揺れが見られるが、いずれも彼が常に戦場の最前線で戦い続けたことを示している 1 。
史料名 |
出陣回数 |
感状枚数 |
傷の数 |
出典 |
『甲陽軍鑑』およびそれに準ずる伝承 |
36回 |
36枚 |
41ヶ所 |
4 |
川中島合戦関連資料(長野市) |
30数度 |
36枚 |
40数カ所/47カ所 |
1 |
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 |
36回 |
(記載なし) |
41ヶ所 |
41 |
『高白斎記』関連の解説 |
36度 |
36枚 |
40以上 |
30 |
横田高松に関する記述(比較参考) |
34度 |
(記載なし) |
31ヶ所 |
3 |
原虎胤に関する記述(比較参考) |
38度 |
38通 |
53ヶ所 |
7 |
【表1:小幡虎盛らの武功に関する諸記録の比較】 |
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この表からもわかるように、「出陣36回、感状36枚」という数字の一致は、あまりに作為的であり、歴史的事実そのものというよりは、虎盛が「一戦一功」、すなわち出陣のたびに必ず手柄を立てる比類なき武将であったことを象徴的に示すための、文学的な修辞である可能性が極めて高い。この伝承の主要な出典である『甲陽軍鑑』を編纂した孫の景憲が、祖父の武功を後世に最も効果的に伝えるため、このような記憶に残りやすいフレーズを創造したと考えられる。これは、甲州流軍学の祖としての景憲自身の権威を高める上でも、巧みな演出であったと言えよう。
虎盛の晩年は、武田家の対上杉政策において極めて重要な役割を担うこととなる。永禄年間(1558年以降)、信玄は越後の上杉謙信との抗争の最前線拠点として、信濃川中島に海津城(かいづじょう、現在の長野市松代城)を築城 46 。その初代城代には重臣の高坂昌信(春日虎綱)が任じられ、虎盛はその副将(補佐役)として海津城に入った 1 。
この人事は、虎盛が単なる一介の猛将ではなく、方面軍の運営を任せられるだけの高い指揮能力、豊富な実戦経験、そして信玄からの絶大な信頼を得ていたことを明確に示している。最前線の城の守りを、譜代の重臣である高坂と、外様出身ながら歴戦の勇将である虎盛という二枚看板に託した信玄の戦略眼がうかがえる。
しかし、虎盛がその老練な手腕を存分に発揮するはずだった第四次川中島の戦いを目前にして、彼の武運は尽きる。永禄4年(1561年)6月2日、虎盛は決戦の地となる海津城内にて病のためこの世を去った 3 。享年は、延徳3年(1491年)生まれとする説に基づけば71歳であった 36 。
虎盛の人物像を語る上で欠かせないのが「鬼虎」という異名である 1 。同時期に活躍した同僚の足軽大将・原虎胤が「鬼美濃」と称されたことと併せ、この二人の「鬼」の存在は、信虎・信玄初期の武田軍団の精強さを象徴していた 7 。彼らは共に外様出身でありながら、その武勇によって武田家中で確固たる地位を築いた実力主義の体現者であった。
この二人の「鬼」の関係を象徴する逸話が『甲陽軍鑑』に記されている。信玄が、虎盛の子である昌盛と、虎胤の娘との婚姻を取り計らった際、「鬼の子には鬼の娘が相応しい」と評したというものである 47 。
この逸話は、単に信玄の洒落気を示すものではない。そこには、家臣団を巧みに統制する為政者としての計算が見て取れる。第一に、武勇に優れた家系同士を婚姻によって結びつけ、その能力を武田家のために継続的に確保しようとする意図。第二に、「鬼」という共通のイメージを持つ両家を信玄自らが結びつけることで、家臣団内に信玄を中心とした新たな人間関係のネットワークを構築し、求心力を高める狙い。そして第三に、主君が家臣の武勇を高く評価し、その子々孫々まで配慮するという「名君」としての姿を内外に示す効果である。信玄は、家臣の能力だけでなく、その評判までも巧みに利用して組織を強化する、卓越したマネジメント能力を有していたのである。
虎盛は、山本勘助、原虎胤、横田高松、多田満頼と共に「甲陽の五名臣」または「武田の五名臣」と称される 2 。この五名に共通する最大の特徴は、全員が甲斐国外の出身者であるという点である 2 。虎盛と原虎胤はそれぞれ遠江と下総、横田高松は近江、多田満頼は美濃、そして山本勘助は三河の出身とされる 4 。
彼らはいずれも、武田信虎・信玄の時代に浪人の身から仕官し、足軽大将として主君直属の兵力を率いて戦功を挙げた。これは、武田家が甲斐古来の譜代家臣や国人衆といった血縁・地縁に縛られることなく、外部から積極的に有能な人材を登用し、その実力に応じて重用したことを明確に示している。虎盛は、この武田家の先進的な人事政策を象徴する存在の一人であり、彼の活躍は、他の多くの外様家臣にとって立身出世の目標となったであろう。
「鬼虎」の異名からは、ただ猛々しいだけの猪武者を想像しがちだが、虎盛の人物像はそれほど単純ではない。彼の人柄を伝える逸話として、戦場で負傷した敵の老将を自ら担いで敵陣まで送り届け、「また元気な姿で戦場で相まみえよう」と声をかけた、という話が残されている 4 。
この種の逸話は、実は同僚の原虎胤にも同様のものが伝えられており 4 、『甲陽軍鑑』が理想の武将像を描く上での一つの典型であった可能性が高い。したがって、これが虎盛個人の具体的な行動であったかどうかの確証はない。しかし、少なくとも虎盛が、単なる勇猛さだけでなく、武士としての情誼や美学をわきまえた人物として、後世に記憶されるに足る器量の持ち主であったことは確かであろう。
小幡虎盛の名を不朽のものとしているのが、臨終に際して子らに遺したとされる「よくみのほどをしれ」という九文字の遺言である 3 。この短い言葉には、幾重にもわたる深い意味が込められていると解釈できる。
第一に、武士としての普遍的な心得である。自らの分をわきまえ、驕ることなく、常に謙虚な姿勢で主君に忠誠を尽くすべしという、武士道的な教えとして受け取れる。
第二に、虎盛自身の生涯を振り返っての述懐である。遠江の浪人の子という出自から、実力一つで武田家の重臣にまで上り詰めた虎盛であったが、彼は自らが甲斐譜代の家老衆とは立場が異なる「外様」であることを生涯忘れることはなかったであろう。その自らの「身の程」をわきまえ、分相応の働きに徹したからこそ大成できたのだという、彼の人生哲学がこの言葉には凝縮されている。
そして第三に、最も具体的かつ切実な解釈として、息子・昌盛の将来を案じての警告という側面が考えられる。虎盛の死後、家督を継いだ昌盛は、父と同様に海津城副将の任を命じられるが、これを不服とし、信玄の直属旗本になることを望んで訴訟を起こし、主君の逆鱗に触れて蟄居を命じられるという事件を起こしている 5 。老練な父・虎盛は、息子のこうした野心的な気性や、時に身の丈に合わない望みを抱きがちな性格を早くから見抜き、それを戒めるためにこの遺言を遺したのではないか。この文脈で捉えるとき、この言葉は単なる抽象的な教訓ではなく、父から子への、極めて個人的で愛情に満ちた最後のメッセージとしての深みを帯びてくる。
父・虎盛の死後、家督を継いだのは次男の小幡昌盛であった 5 。彼は「鬼の子」と称されるほどの武勇の持ち主であったが、その生涯は偉大な父を持つ二代目としての葛藤に満ちていた。
前述の通り、昌盛は父の死後、海津城副将の地位に留まることを良しとせず、信玄の直属旗本となることを望んだ 5 。これは、父が遺した「よくみのほどをしれ」という言葉とは対照的な行動であり、父とは異なる形で主君に認められたいという強い功名心、あるいは外様家臣としての立場から脱却したいという野心の表れであったかもしれない。この一件で信玄の怒りを買い、一時は切腹を命じられるが、若き日の武田勝頼らの取りなしによって赦免され、足軽大将の地位に留まったという 5 。
しかし、その武田家への忠誠心は揺るぎないものであった。天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻によって武田家が滅亡の淵に立たされた際(甲州征伐)、昌盛は重い病の床にあり、参戦することができなかった 6 。しかし、主君・勝頼が落ち延びていくと聞くと、病身を押して甲斐善光寺(現在の甲府市)まで駆けつけ、涙ながらに暇乞いをしたと伝えられる 6 。そして、勝頼が天目山で自害するわずか5日前に、主家の滅亡を見届けるかのように病死した 47 。その最期は、父から受け継いだ武田家への忠義を貫いたものとして、高く評価されている。
小幡虎盛の名を後世に最も大きく伝えたのは、孫の小幡景憲(かげのり)であった 6 。景憲は昌盛の三男として生まれ、武田家滅亡後は徳川家康、秀忠に仕えた 9 。関ヶ原の戦いや大坂の陣でも戦功を挙げ、その後は軍学者として身を立て、甲州流兵学を大成させた人物である 9 。
この景憲こそが、武田家の興亡を描いた軍学書『甲陽軍鑑』の編纂者、あるいは最終的な集大成者と考えられている 9 。『甲陽軍鑑』は、高坂昌信の口述を家臣らが書き留めたという体裁をとるが、その成立には景憲の編集が大きく関わっていることは疑いない。
ここに、虎盛の人物像を考察する上での重要な視点が生まれる。『甲陽軍鑑』は単なる歴史記録ではなく、甲州流軍学の正当性と権威を示すための「聖典」であり、江戸時代の武士が学ぶべき理想の主君(信玄)と家臣の姿を描いた「教科書」でもあった。その編者である景憲が、自らの祖父である虎盛を、理想的な武将の一人として、勇猛果敢かつ忠義に厚い人物として描き出すことは、ごく自然なことであった。
「鬼虎」の異名、三十六度の感状、数々の武勇伝や逸話は、歴史的事実を核としつつも、孫である景憲の編集理念によって、より英雄的に、より劇的に「創造」された側面がある。虎盛の物語は、景憲にとって個人的な祖父への敬愛の念の表れであると同時に、自らが創始した甲州流軍学の価値を高めるための、極めて効果的な装置としても機能したのである。
小幡虎盛とその一族の痕跡は、今も甲斐の地に残されている。甲府市大手には、虎盛と息子・昌盛が屋敷を構えたとされる場所があり、現在はその旨を記した説明板が建てられている 6 。この地は武田氏館(躑躅ヶ崎館)の北西に位置し、武田二十四将に数えられる他の重臣たちの屋敷跡も周辺に点在している。
一族の菩提寺は、甲府市元紺屋町にある日蓮宗の仏寿山妙遠寺である 19 。この寺は、虎盛の妹とされ、信玄の側室(局)として重用された小宰相(こざいしょう)が再興したと伝えられる 58 。妙遠寺の過去帳には、虎盛の父・日浄の命日が記されており、小幡一族とこの寺の深い関係を物語っている 19 。
しかしながら、虎盛自身の墓碑がこの妙遠寺、あるいは甲府市内に現存するという確実な記録は見当たらない 58 。彼は対上杉氏の最前線である信濃・海津城で病没しており、その地に葬られた可能性も考えられる。あるいは、武田家滅亡後の混乱の中で墓碑が失われたのかもしれない。その最期の地が明確でないこともまた、彼の生涯に一層の歴史の深みを与えている。
小幡虎盛の生涯は、戦国乱世における一人の武将の生き様を鮮やかに映し出している。遠江の地を追われた国人の子として生まれ、自らの武勇と才覚のみを頼りに、当時勃興しつつあった武田信虎に仕官。信虎、信玄という二代の英主のもとで数多の戦場を駆け抜け、その忠勤と武功によって「鬼虎」と恐れられるほどの武名と、家臣団における確固たる地位を築き上げた。彼の人生は、まさしく実力主義の時代を体現するものであった。
しかし、我々が知る小幡虎盛の姿は、二つの異なる側面から構成されている。一つは、史料から断片的にうかがえる、主君に忠実な「足軽大将・小畠虎盛」という実像。そしてもう一つは、孫である小幡景憲が、自らの創始した甲州流軍学の権威付けのために『甲陽軍鑑』を通じて後世に伝え、完成させた「伝説の猛将・鬼虎」という英雄像である。
「三十六度の感状」や「鬼の子には鬼の娘」といった劇的な逸話、「よくみのほどをしれ」という含蓄に富んだ遺言。これらは、歴史的事実を核としながらも、物語として巧みに磨き上げられ、虎盛を理想の武将へと昇華させた。彼の物語を紐解くことは、単に一人の武将の生涯を追うに留まらない。それは、戦国時代の記憶が、後の江戸時代にいかにして「歴史物語」として再構築され、武士の規範として受容されていったかという、より大きな歴史のダイナミズムを理解するための、絶好の窓口なのである。史実と伝承の狭間に立つ「鬼虎」小幡虎盛は、だからこそ今なお、我々の知的好奇心を強く惹きつけてやまない。