最終更新日 2025-06-15

小浜景隆

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戦国を渡った海の将、小浜景隆 ― その生涯と実像

序章:乱世の海に生きた水軍大将

日本の戦国時代は、陸上の攻防のみならず、海を舞台としたもう一つの戦史が紡がれた時代でもあった。その激動の海を渡り、自らの操船術と海戦術を武器に、伊勢の北畠家、甲斐の武田家、そして天下人となる徳川家という三つの大大名に仕えた稀有な武将がいる。その名を小浜景隆(おはま かげたか、1540年 - 1597年)という 1

彼は、伊勢湾に覇を唱える海賊衆の頭目として歴史の表舞台に登場し、宿敵・九鬼嘉隆との争いに敗れて故郷を追われるも、その卓越した能力を請われて武田信玄の水軍創設に参画。武田家滅亡後は徳川家康の船手頭(ふなてがしら)として重用され、江戸幕府の水軍の礎を築くに至った 2

景隆の生涯は、特定の主家への忠誠が絶対ではなかった戦国乱世において、自らの専門技術をいかにして生き抜く力に変えたかを示す好例である。それはまた、地方の在地勢力であった水軍が、天下統一の過程でいかにして中央の軍事戦略に組み込まれていったかを体現するものでもあった。本報告書は、断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせ、この知られざる海の将・小浜景隆の生涯と、その歴史的意義を徹底的に解明するものである。

第一章:小浜氏の出自と志摩の海の世界

小浜氏のルーツと家系

小浜景隆を輩出した小浜氏は、単なる海上の武装集団ではなく、その出自を桓武平氏に遡る由緒ある家系であったとされる 4 。諸系の記録によれば、鎌倉幕府の有力御家人であった和田義盛の一族、平尾盛氏を遠祖に持つという 4

当初は平尾姓を名乗り、南北朝時代、佐兵衛少尉盛継の代に南朝方の伊勢国司・北畠顕能に仕え、その功績により伊勢国三重郡兼松の地を領した 4 。その後、一族は志摩国答志郡小浜村(現在の三重県鳥羽市小浜町)に移り住み、地名をとって「小浜」を称するようになった 4 。史料における小浜氏の初見は、貞治三年(1364年)の「小浜新五郎」の名であり、南北朝の動乱期には既に志摩の海に確固たる勢力を築いていたことがうかがえる 4

景隆の直接の祖先としては、『寛永諸家系図伝』などの江戸時代の系譜資料に、応仁二年(1468年)に三重郡兼松を領していた「弾正」某の名が見える 4 。このように、小浜氏は伊勢・志摩に深く根を張った在地領主(国人)としての側面を持っており、これが後に大大名から「船大将」という将帥の格で迎えられる背景となった。彼らは無法の海賊ではなく、領地と家格を持つ武士団としてのアイデンティティを確立していたのである。

本拠地・志摩国小浜と海賊衆の実態

小浜氏の本拠地は、その名の通り志摩国答志郡小浜村であった 2 。リアス式海岸が複雑に入り組む志摩半島は、天然の良港に恵まれ、古くから海上交通の要衝であり、同時に海を生きる者たち、すなわち「海賊衆」の拠点でもあった。小浜氏は、この地に小浜城(または小浜砦)と呼ばれる城郭を構えていた 6

この城は、天文年間(1532年 - 1555年)に景隆の祖父か父にあたる小浜真宗が築いたとされ、景隆に至るまで5代にわたる一族の拠点であったと伝わる 7 。現在、その跡地にはホテルが建設されているが、「城山」という地名が残り、往時の面影をわずかに留めている 7 。城郭を構えていたという事実は、小浜氏が単なる船の集団ではなく、土地に根差した支配権を持つ領主であったことを物理的に証明している。

彼らは「志摩十三地頭」と総称される地域の有力国人の一角を占め、伊勢国司である北畠家の権威のもとで伊勢湾の制海権を掌握していた 9 。この時代の「海賊衆」とは、単に略奪行為を行う集団を指すのではなく、水上における軍事活動、海上警備、水運、漁業権の支配などを通じて自立的な勢力を形成した武装集団であった。小浜氏は、その中でも屈指の実力を持つ存在だったのである。

第二章:北畠水軍の中核、そして宿敵の出現

北畠家臣としての栄光

戦国時代中期、小浜景隆は伊勢国司・北畠家の家臣として、その水軍の中核を担う存在であった 2 。彼の率いる小浜衆は、当時最新鋭の大型軍船であった「安宅船(あたけぶね)」を擁し、その軍事力は志摩の海において群を抜いていた 2 。安宅船は、多数の兵員と武装を搭載可能な、いわば「浮城」とも言うべき存在であり、これを保有することは水軍の戦闘能力を飛躍的に向上させるものであった。

景隆は、北畠家の麾下で志摩の海賊衆を束ねる頭目として、その武威を示していた。永禄三年(1560年)、主君である北畠具教の意向を受け、当時志摩で勢力を伸ばしつつあった九鬼嘉隆の本拠地・田城を、他の志摩国人衆と共に攻撃した。この戦いで小浜氏らは勝利を収め、九鬼嘉隆を一時的に志摩から追放することに成功している 11 。この時点では、旧来の権威である北畠家の支援を受けた小浜氏が、地域の覇権争いにおいて優位に立っていたのである。

宿敵・九鬼嘉隆の台頭と敗北

しかし、この勝利が小浜景隆の運命を大きく変える転換点となる。志摩を追われた九鬼嘉隆は、尾張で天下布武を掲げる織田信長の家臣・滝川一益を介して、信長その人に仕える道を見出した 12 。これは、地方レベルの勢力争いに、中央の巨大な政治・軍事力を引き込むという、当時としては画期的な戦略であった。

永禄十二年(1569年)、信長が伊勢国に大軍を率いて侵攻し、北畠具教を大河内城に包囲する(大河内城の戦い)と、九鬼嘉隆は織田方水軍の将として参陣。水上から北畠方の城を攻略するなど、目覚ましい活躍を見せた 14 。主家である北畠家が織田信長の次男・信雄を養子に迎える形で事実上降伏し、その権威が失墜すると、小浜景隆の後ろ盾は完全に失われた 10

信長という絶大な後ろ盾を得た九鬼嘉隆は、志摩国の統一に乗り出す。かつて自らを追放した小浜景隆ら「志摩十三地頭」は、今や逆賊を討つという大義名分を得た嘉隆の猛攻の前に、なすすべもなかった 9 。景隆は奮戦するもついに敗れ、代々の本拠地であった小浜城を放棄し、手勢を率いて海路三河方面へと敗走を余儀なくされた 2

この一連の争いは、単なる地域の覇権争いではなかった。それは、織田信長による中央集権化の波が、地方の旧来の権力構造を根底から覆していく過程の縮図であった。景隆の敗北は、国司・北畠家という古い秩序の敗北であり、嘉隆の勝利は、天下人・織田家という新しい中央権力の勝利を象徴していた。景隆は純粋な軍事力のみならず、時代の大きな政治力学の変化によって故郷を追われたのである。この痛烈な経験は、彼が後に武田、徳川という巨大な権力に仕える道を選ぶ上で、重要な教訓となったに違いない。

第三章:武田水軍への参画と駿河湾の攻防

「海なき大名」武田信玄からの招聘

故郷を追われた小浜景隆であったが、その卓越した水軍指揮官としての能力が、新たな活躍の場を彼にもたらすことになる。元亀二年(1571年)、甲斐を本拠とし「海なき大名」として知られた武田信玄が、景隆に白羽の矢を立てた 1

永禄十一年(1568年)の駿河侵攻によって今川氏を駆逐し、初めて海(駿河湾)に面した領土を手に入れた信玄にとって、水軍の創設は喫緊の課題であった 10 。東に境を接する後北条氏、そして徳川家康に対抗するためには、陸軍だけでなく、海からの脅威に対処し、また海を利用して敵を攻撃する能力が不可欠だったのである 10

信玄は、今川家の旧臣で水軍の事情に詳しかった土屋貞綱(元の名を岡部忠兵衛)に命じ、有能な海の将を探索させた 17 。そこで見出されたのが、九鬼嘉隆との争いに敗れ、浪々の身となっていた小浜景隆であった。信玄は景隆を「破格の加増を条件として」招聘し、武田家の船大将として迎えた 1 。敗軍の将でありながら、これほどの厚遇で迎えられたことは、景隆の持つ海戦技術と、彼が率いる安宅船というハードウェアがいかに高く評価されていたかを物語っている。

武田水軍(海賊衆)の中核として

武田家に仕官した景隆は、安宅船1艘と小舟15艘を持ち込み、一躍、武田水軍の中核戦力となった 2 。武田水軍は、今川旧臣の土屋貞綱や伊丹康直、後北条家から寝返った間宮兄弟、そして伊勢から景隆と共に招かれた向井正重ら、多士済々な経歴を持つ海の猛者たちで構成されていた 17 。軍記物である『甲陽軍鑑』では、彼らは「武田海賊衆」と記されている 20 。景隆は、これらの将と共に船大将として名を連ね、武田家の駿河湾支配を支えた。

彼の役割は、単なる戦闘指揮官にとどまらなかった。天正二年(1574年)6月1日付で、景隆が遠江国榛原郡の能満寺に対して発給した判物(はんもつ)が現存している 22 。これは、武田方の支配地域において、寺社の所領を安堵する内容の公的な文書であり、景隆が軍事のみならず、占領地の民政にも関与するほどの高い地位と権限を与えられていたことを示している。

駿河湾海戦の激闘

信玄の死後も、その子・勝頼に仕えた景隆の武名は、駿河湾を舞台とした後北条氏との海戦で一層高まることとなる。天正八年(1580年)頃、武田水軍と北条水軍は、駿河湾の制海権を巡って複数回にわたり激しい海戦を繰り広げた。これは「駿河湾海戦」として知られている 23

この戦いの詳細な記録は、武田方の『甲陽軍鑑』と北条方の『北条五代記』とで、それぞれ自軍の勝利を記しており、勝敗の帰趨は明確ではない 25 。しかし、双方の記録に戦いの様子が描かれていることから、大規模な海戦が実際にあったことは確実である。『甲陽軍鑑』によれば、天正八年三月、武田水軍は小浜景隆、向井兵庫(正綱)、間宮兄弟らが率いて出撃し、北条方の梶原景宗が率いる水軍と千本浜沖で激突したとされる 25

この戦いで景隆は、安宅船を持たない武田水軍に強力な打撃力をもたらし、大型船を主力とする北条水軍と互角以上に渡り合ったと考えられている。志摩という一地方の海から、大大名同士が国家の命運を賭けて激突する駿河湾という大舞台へ。景隆は、この新たな戦場で自らの専門技術者としての価値を改めて証明し、その名を関東・東海に轟かせたのである。この実績こそが、武田家滅亡という次の危機を乗り越え、さらなる飛躍を遂げるための最大の礎となった。

第四章:徳川家康の船手頭 ― 天下人の海を預かる

徳川家への帰順

天正十年(1582年)三月、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐によって、名門武田家は滅亡する。主家を失った小浜景隆であったが、彼の武将としてのキャリアはここで終わらなかった。武田家の旧臣たちの多くが徳川家康に召し抱えられる中、景隆もまた、その卓越した水軍指揮能力を高く評価され、家康の麾下に加わることになった 2

家康は景隆を船大将として迎え、駿河国内に1500石の知行を与えた 2 。彼は、徳川家の重臣である本多重次の指揮下に入り、同じく武田水軍から徳川家に移った向井正綱や間宮高則らと共に、徳川水軍の中核を形成していくこととなる 2

小牧・長久手の戦い ― 宿敵・九鬼嘉隆との再戦

景隆が徳川家でその真価を発揮する機会は、すぐに訪れた。天正十二年(1584年)、織田信長の跡目争いをきっかけに、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が激突する「小牧・長久手の戦い」が勃発した 28

戦いは尾張・伊勢を主戦場とし、陸上での戦闘と並行して、伊勢湾岸では両軍の水軍による激しい攻防が繰り広げられた。徳川方水軍の中核を担った景隆は、伊勢から尾張にかけての沿岸部を転戦。そして、伊勢国の村松・大淀(史料では「生津」とも記される)の沖合で、羽柴方水軍を率いる宿敵・九鬼嘉隆と再び相見えることとなった 9

かつて故郷・志摩を追われる原因となった相手との、まさに因縁の対決であった。この海戦において、小浜景隆と間宮信高らが率いる徳川水軍は、九鬼水軍を打ち破るという目覚ましい戦功を挙げた 9 。この勝利は、かつて「日本一の水軍の将」と信長に称えられた九鬼嘉隆 31 に対する雪辱を果たす、景隆にとって個人的にも大きな意味を持つものであった。

この戦功に対し、徳川家康は同年五月五日付で自ら感状(書状)を景隆と間宮信高に宛てて送り、その働きを激賞している 28 。この書状は、この戦役における海戦の重要性と、景隆の功績の大きさを物語る第一級の史料である。この一戦を通じて、景隆は徳川家康の絶対的な信頼を勝ち取り、徳川水軍における不動の地位を確立したのである。

関東移封と三崎船手衆筆頭

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は東海地方から関東への移封を命じられる。これに伴い、小浜景隆も主君に従って関東へ移り、相模・上総国内において3000石へと知行を加増された 2

家康は、新たな本拠地・江戸の防衛と、江戸湾の海上交通路の安全確保を最重要課題と位置づけた。そして、その玄関口にあたる軍事・経済の要衝、相模国三浦郡三崎(現在の神奈川県三浦市)の守りを、最も信頼する水軍の将に委ねた。その筆頭として白羽の矢が立ったのが、小浜景隆であった 2

景隆は、向井正綱、間宮高則、千賀重親と共に「三崎四人衆」あるいは「船手四人衆」と呼ばれる徳川水軍の最高幹部を形成し、その「筆頭」に任じられた 2 。景隆の知行3000石は、同じく船手頭として重きをなした向井正綱の2000石を上回っており、彼が徳川水軍の事実上のトップとして遇されていたことを明確に示している 2

景隆が三崎に構えた邸宅は、かつてこの地を治めた後北条氏の城主・北条氏規の家臣であった南条昌治の屋敷跡とされ、現在の曹洞宗本瑞寺の地であると伝えられている 2 。家康によるこの配置は、単なる論功行賞ではなく、来るべき新時代(江戸幕府)を見据えた、江戸の海洋安全保障体制を構築するという国家戦略の一環であった。小浜景隆は、その礎を築くという極めて重要な役割を担う、新時代の秩序の設計者の一人となったのである。

第五章:景隆の死と旗本小浜家の系譜

関ヶ原を前にしての最期

徳川家康のもとで水軍の将として最高の栄誉を得た小浜景隆であったが、天下分け目の大戦を見ることなく、その生涯を閉じる。慶長二年(1597年)九月七日、景隆は三崎の地で死去した。享年58であった 1 。三崎四人衆の中では最も早い死であり、豊臣秀吉の死の前年、そして関ヶ原の戦いの三年前のことであった 2

景隆の墓所の所在を直接示す史料は見当たらないが、終焉の地である三崎の本瑞寺や、向井氏ゆかりの見桃寺など、徳川船手衆に関連する寺院にその痕跡が求められる可能性がある 3

家督を継いだ子・小浜光隆の武功

景隆の死後、家督は子の小浜光隆(みつたか、通称・久太郎)が継承した 2 。父が築いた徳川家からの厚い信頼と水軍の将としての地位は、そのまま光隆に引き継がれた。

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、運命の悪戯か、父の代からの宿敵であった九鬼嘉隆が石田三成方の西軍に与した。これに対し、嘉隆の子・守隆と、小浜光隆は徳川家康方の東軍として戦うという、親子・宿敵が入り乱れる複雑な構図が生まれた。光隆は、弟の守隆と共に伊勢国安乗浦(あのりうら)において九鬼嘉隆の軍勢と海戦に及び、敵の軍船「日本丸」を鹵獲(ろかく)するという大功を挙げた 33

さらに、慶長十九年(1614年)からの大坂の陣においても、光隆は徳川方水軍の将として参陣。九鬼守隆や向井忠勝らと共に、大坂城西方の伝法口などで豊臣方の水軍と戦い、勝利に貢献した 33

旗本・小浜家としての存続

父・景隆の武功と、自らの戦働きによって、小浜光隆とその子孫は、江戸時代を通じて将軍直属の家臣である旗本として存続することに成功した 39 。光隆の弟・守隆もまた船手奉行として活躍し、伊勢国白子に所領を与えられている 36

光隆の子孫である小浜行隆の代には、知行地が摂津国から越後国蒲原郡内に移され、6000石を領して沢海(そうみ)に知行所を置いた 39 。その後、知行は4000石となったが、小浜家は幕末に至るまで旗本として家名を保ち続けた 39

小浜景隆が北畠家と共に滅びる道を選ばず、武田家で自らの価値を証明し、徳川家という将来性のある主君を選んで武功を重ねたキャリアは、最終的に一族の安泰と繁栄という形で結実した。彼の生涯は、戦国武将が目指した最大の目標である「家の存続」を成し遂げた、見事な成功譚として評価することができるのである。


表1:小浜景隆 関連年表

西暦 (和暦)

景隆の年齢 (推定)

小浜景隆の動向と関連事項

日本史の主要動向

1540 (天文9)

0歳

誕生 1

1560 (永禄3)

20歳

北畠具教の命で、九鬼嘉隆を田城から追放する 11

桶狭間の戦い

1569 (永禄12)

29歳

(この頃) 織田信長の後援を得た九鬼嘉隆に敗れ、志摩を追われる 2

織田信長、伊勢国司・北畠家を攻撃(大河内城の戦い)

1571 (元亀2)

31歳

武田信玄に招聘され、安宅船1艘・小舟15艘持の船大将となる 1

武田信玄、武田水軍を創設

1573 (天正1)

33歳

武田信玄、死去。武田勝頼が家督継承

1574 (天正2)

34歳

遠江国・能満寺に対し、所領安堵の判物を発給する 22

伊勢長島一向一揆、壊滅

1580 (天正8)

40歳

武田水軍の将として、後北条水軍と駿河湾で交戦(駿河湾海戦) 23

1582 (天正10)

42歳

武田家滅亡。徳川家康に仕え、駿河国内で1500石を与えられる 2

本能寺の変。天正壬午の乱

1584 (天正12)

44歳

小牧・長久手の戦いで、伊勢湾岸にて九鬼嘉隆の水軍を撃破する 9

小牧・長久手の戦い

1590 (天正18)

50歳

家康の関東移封に従い、相模国三崎へ。3000石に加増され、船手衆筆頭となる 2

豊臣秀吉、小田原征伐。天下統一

1597 (慶長2)

58歳

三崎にて死去 1

1600 (慶長5)

(没後)

子・光隆が関ヶ原の戦いで東軍に属し、西軍の九鬼嘉隆と戦い武功を挙げる 33

関ヶ原の戦い

1614 (慶長19)

(没後)

子・光隆が大坂冬の陣に徳川方水軍として参陣する 33

大坂冬の陣


結論:小浜景隆の再評価

小浜景隆の生涯を詳細に追跡した結果、彼が単なる「敗れて主家を変えた海賊」という一面的な評価に収まらない、極めて戦略的かつ有能な武将であったことが明らかになった。

第一に、景隆は伊勢・志摩に根を張る在地領主(国人)としての出自を持ち、その上で安宅船を運用する高度な海戦技術を保持していた。彼は、自らの「海軍力」という専門技術を、乱世における最大の資産として自覚し、それを最も高く評価する権力者に提供することで、自らと一族の活路を開いた「海のテクノクラート」であったと言える。北畠家という旧来の権威が失墜した際には、新たな活躍の場を武田家に求め、その能力を証明することで自らの市場価値を高めた。そして武田家滅亡という危機に際しては、将来性を見極めて徳川家康に仕えるという的確な判断を下した。

第二に、九鬼嘉隆との生涯にわたるライバル関係は、戦国時代における水軍の戦略的価値の変遷そのものを象徴している。当初の地域的な覇権争いは、やがて織田、羽柴(豊臣)、徳川という中央権力の代理戦争の様相を呈した。景隆が小牧・長久手の戦いで嘉隆を破ったことは、徳川家康に水軍力の重要性を再認識させ、景隆自身の評価を決定づける上で極めて重要な意味を持った。

最終的に、景隆は徳川家康のもとで江戸湾防衛の要である三崎船手衆の筆頭という、水軍の将として最高の地位に上り詰めた。彼の功績は、子の光隆の代に引き継がれ、江戸幕府の旗本として一族の安泰を確固たるものにした。

小浜景隆の生涯は、戦国乱世において「力」とは何かを我々に問い直させる。それは、領地や兵の数といった物理的な力だけではない。他者が持ち得ない専門的な「技術」と、時代の潮流を読み解く「戦略眼」もまた、天下を動かし、自らの運命を切り開く強力な武器となり得たことの、何よりの証左なのである。

引用文献

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  10. 旅行先で目を覚ましたら武田勝頼になっていた私。どうやら自分が当主らしい。そこまでわかって不安に覚える事が1つ。それは今私が居るのは天正何年? - 小浜景隆 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n1152id/212/
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  35. 篠の戦を経て、天正九年(一五八一)には高天神城攻略を最後に遠江 https://komajo.repo.nii.ac.jp/record/12/files/KJ00004009927.pdf
  36. 小浜守隆筆書状 | Keio Object Hub: 慶應義塾のアート&カルチャーを発信するポータルサイト https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/345
  37. 小浜光隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E5%85%89%E9%9A%86
  38. 第39話 木津川口砦の陥落 - 豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー(木村長門) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054884619343/episodes/1177354054887016381
  39. 小浜行隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E8%A1%8C%E9%9A%86
  40. 歴史 | 豪農の館「北方文化博物館」 http://hoppou-bunka.com/history/