本報告書は、常陸国(現在の茨城県)の戦国大名、小田政治(おだ まさはる)の生涯と、彼が生きた時代を多角的に検証し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。政治の出自にまつわる謎、内紛を克服して家督を継承した経緯、周辺勢力との合従連衡を駆使して勢力を拡大した「中興の祖」としての活躍、そして彼の晩年に忍び寄る衰退の影までを、時系列に沿って詳細に解明する。さらに、彼の権力を支えた城郭、経済基盤、家臣団といった要素を分析し、小田政治という一人の武将を通じて、16世紀前半の関東地方における権力構造の変容を浮き彫りにする。
小田政治は、内紛と周辺勢力の圧迫によって衰退していた名門・小田氏の勢力を一時的に回復させ、戦国大名としての最盛期を築いたことから「中興の祖」と称される 1 。この評価は、彼の死後、嫡子・氏治の代で小田氏が再び苦難の道を歩み、最終的に所領を失うという歴史的展開と対比することで、より一層その意味合いが明確になる。
政治が活動した16世紀前半の関東地方は、室町時代以来の権威であった古河公方足利家と、それを補佐する関東管領上杉家の体制が形骸化し、実力主義が横行する動乱の時代であった。古河公方家は足利政氏・高基父子の内紛に代表されるように内部対立を繰り返し、その権威は著しく低下していた 6 。一方で、相模国からは新興勢力である後北条氏が伊豆・相模を平定して武蔵国へと進出し、関東の覇権をめぐる争いは新たな局面を迎えていた 2 。小田政治は、この複雑怪奇な権力闘争の渦中で、自家の存続と発展をかけて絶え間ない軍事・外交活動を展開したのである。
年代(西暦) |
出来事(小田政治・小田氏関連) |
関連する関東の動向 |
典拠 |
延徳2年(1490) |
政治の兄・小田治孝が、次兄・顕家により殺害される。小田家で内紛が勃発。 |
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1 |
延徳3年(1491) |
堀越公方・足利政知が死去。 |
足利茶々丸が跡を継ぐが、伊豆国内で混乱が生じる。 |
1 |
明応2年(1493) |
小田政治、生誕 (通説)。幼名は亀若丸。 |
明応の政変。室町幕府11代将軍に足利義澄(政知の子)が就任。 |
1 |
永正年間 |
政治、兄・顕家の攻撃を撃退。 |
古河公方家で足利政氏・高基父子の内紛(永正の乱)が激化。 |
1 |
永正11年(1514) |
父・小田成治が死去。政治が家督を継承し、小田氏第14代当主となる。 |
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1 |
永正年間末期 |
顕家を滅ぼし、家中の内紛を完全に終結させる。 |
足利高基が父・政氏に勝利し、古河公方の地位を確立。 |
1 |
大永年間 |
古河公方・足利政氏より偏諱を受け、 政治 と名乗る。 |
下野宇都宮氏で大永の内訌が勃発。 |
1 |
享禄元年(1528) |
大掾忠幹を支援し、南下する江戸通泰と対立。 |
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1 |
享禄4年(1531) |
石岡の戦い で江戸氏を破る。 |
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1 |
天文年間初期 |
下野の那須氏・宇都宮氏の内紛に介入。 |
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1 |
天文年間初期 |
後北条氏の勢力拡大を警戒し、妹を佐竹義篤に嫁がせ同盟を結ぶ。 |
後北条氏が関東南部で勢力を急拡大。 |
1 |
天文6年(1537) |
多賀谷氏と同盟し、結城政勝と戦うが敗北。 |
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1 |
天文14年(1545) |
河越夜戦 に古河公方・足利晴氏方として参陣。重臣・菅谷隠岐守を派遣。 |
後北条氏康に対し、両上杉氏・古河公方連合軍が河越城を包囲。 |
1 |
天文15年(1546) |
河越夜戦で連合軍が北条氏康に大敗。小田氏の勢威に陰りが見え始める。 |
北条氏康が関東での覇権を確立。関東管領・古河公方体制が事実上崩壊。 |
6 |
天文15年(1546) |
行方郡をめぐり大掾慶幹と争う(唐ヶ崎の戦い)が敗北。嫡子・氏治が初陣。 |
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1 |
天文17年2月22日(1548) |
小田政治、死去 。享年57(または56)。嫡子・小田氏治が家督を継承。 |
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1 |
小田政治の出自は、彼の人物像と小田氏の権威を考える上で極めて重要な論点である。その出自には大きく分けて二つの説が存在し、どちらの説を取るかによって、彼の生涯の解釈は大きく異なる。本章では、両説を比較検討し、その背後にある戦国時代の武家社会における「権威」の本質に迫る。
複数の系図や記録において、小田政治は堀越公方・足利政知の子であると示唆されている 1 。堀越公方とは、関東の支配をめぐる「享徳の乱」の最中、室町幕府が鎌倉公方・足利成氏を討伐するために伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に派遣した公的な足利一門である。足利政知は第8代将軍・足利義政の兄であり、この説が事実であれば、政治は第11代将軍・足利義澄の異母弟にあたり、足利将軍家に直結する極めて高貴な血筋を持つことになる 2 。
しかし、この高貴な出自説には、史実と照らし合わせると看過できない矛盾点が存在する。
第一に、年代的な不整合である。足利政知は延徳3年(1491年)に死去している 1。一方で、政治の生年は明応2年(1493年)とされており、政知の死後に生まれたことになり、生物学的な親子関係は成立し得ない 1。
第二に、政治的な対立関係である。小田氏は鎌倉時代以来の常陸の名門であり、関東の覇権をめぐる長期戦乱「享徳の乱」においては、一貫して古河公方・足利成氏方に属して戦ってきた 16。堀越公方は、その古河公方を討伐するために幕府が派遣した存在であり、両者は明確な敵対関係にあった 14。小田氏が、長年敵対してきた堀越公方家から養子を迎えるという行為は、当時の政治情勢を鑑みれば極めて不自然であり、考え難い 1。
もう一方の説は、政治を小田氏第13代当主・小田成治の実子とするものである。江戸時代に編纂された『小田事蹟』などの史料には、政治は成治の三男(末子)であったと明記されている 1 。成治には長男・治孝と次男・顕家がいたが、家督をめぐる内紛の末、治孝は顕家に殺害され、その顕家も後に政治によって討たれたとされる 1 。この説は、前節の足利政知子息説が抱える年代的・政治的な矛盾を解消するものであり、現在ではより有力な説として受け入れられている 1 。
この説を強力に裏付けるのが、政治の名前そのものである。彼の「政」の一字は、当時の古河公方・足利政氏から与えられたもの(偏諱)である 1 。主君が家臣に自らの名の一字を与える偏諱は、主従関係を示す重要な儀礼であった。小田氏が古河公方の権威のもとにあったことを示すこの事実は、敵対する堀越公方との縁戚関係を主張する説とは明確に矛盾する。
では、なぜ史実として成立し難い「堀越公方の子」説が生まれたのであろうか。これは、戦国時代の武家が自らの家格を高め、支配の正当性を補強するために、より高貴な血筋に自らを接続しようとする「権威付け」の一環であったと考えられる。
戦国時代は実力主義の世であると同時に、鎌倉・室町時代から続く「家格」や「血筋」といった伝統的権威が依然として大きな影響力を持つ時代でもあった。多くの戦国大名が、自らの出自を源氏や平家といった名門に結びつけ、系図を創作・改変したことはよく知られている 23 。小田氏の場合、たとえ敵対関係にあったとしても、「足利将軍家の血を引く」という出自は、周辺の国人領主に対して絶大な権威を示す効果があった。
この「堀越公方の子」説は、史実としてではなく、小田氏の権威を高めるために後世に作られた、あるいは政治自身が喧伝した「物語」であった可能性が高い。小田政治という人物の出自をめぐる議論は、単なる系譜上の問題に留まらない。それは、実力と伝統的権威が複雑に絡み合う戦国時代において、武家がいかにして自らの正統性を演出しようとしたかを示す、極めて興味深い事例なのである。
比較項目 |
堀越公方・足利政知の子とする説 |
小田成治の実子とする説 |
主な典拠 |
一部の系図、伝承 10 |
『小田事蹟』など後代の編纂史料 1 |
年代的整合性 |
不整合 。父・政知の死後に生誕したことになり、成立しない 1 。 |
整合 。父・成治の活動期間と矛盾しない。 |
政治的整合性 |
不整合 。敵対関係にある古河公方方の小田氏が、堀越公方から養子を迎えるのは不自然 1 。 |
整合 。古河公方・足利政氏から偏諱を受けており、主従関係と一致する 1 。 |
支持される理由 |
足利将軍家に連なるという、極めて高貴な血筋を主張できる。 |
年代的・政治的矛盾がなく、史実として合理的である。 |
問題点・批判 |
史実としての裏付けに乏しく、矛盾点が多い。 |
主な典拠が後代の編纂物である点。 |
総合的評価 |
小田氏の権威を高めるための「権威付け」として、後から創作された可能性が高い。 |
現在、より有力な説として支持されている。 |
小田政治が歴史の表舞台に登場する以前、常陸の名門・小田氏は深刻な内紛によってその力を大きく損なっていた。この混乱を収拾し、自らの権力基盤を確立する過程は、彼の政治家としての器量の大きさを示す最初の試金石であった。
延徳2年(1490年)、政治がまだ生まれる前、彼の長兄であり家督を継ぐはずであった小田治孝が、次兄の小田顕家によって殺害されるという悲劇が起こる 1 。この事件をきっかけに、顕家は土浦城を拠点として父・成治と公然と対立し、小田家は骨肉の争いに突入した 1 。この内乱は、ただでさえ周辺勢力との緊張関係にあった小田家の軍事力を著しく疲弊させ、佐竹氏や結城氏といったライバルからの介入を招きかねない、極めて危険な状況を生み出していた。
このような混乱の中、父・成治は北郡善光寺(現在の茨城県石岡市)へ隠居し、永正11年(1514年)にその地で死去した 1 。父の死を受けて家督を継承したのが、三男の政治であった。若き当主となった政治は、直ちに長年の懸案であった兄・顕家の討伐に乗り出す。彼は、真壁氏など周辺国人領主の協力を取り付けることに成功し、顕家を攻撃してこれを滅ぼした 1 。
この内紛の終結は、政治にとって大きな意味を持っていた。第一に、長年にわたる家中の分裂に終止符を打ち、当主としての権力を名実ともに確立したこと。第二に、外部勢力の協力を得て内乱を鎮圧したことで、彼の外交手腕と指導力が家臣や周辺勢力に示されたことである。内なる敵を打ち破った政治は、ここに初めて、その目を常陸国外のより大きな舞台へと向けることが可能となったのである。
家中の統制を成し遂げた政治は、次に関東の動乱に積極的に関与し、小田氏の勢力拡大に邁進する。彼の多彩な軍事・外交活動は、衰退していた小田氏の歴史に再び輝きをもたらし、後世「最盛期」と評価される時代を現出させた。
政治の戦略の特徴は、近隣勢力の内紛に巧みに介入し、自家の影響力を浸透させていく点にある。
天文年間に入ると、政治は下野国(現在の栃木県)の宇都宮氏や那須氏で発生した内紛に積極的に関与した 1 。宇都宮氏では、当主・宇都宮俊綱(後の尚綱)が宿老の芳賀高経と対立すると、政治は佐竹義篤と共に俊綱を支援し、芳賀氏を支援する結城氏と争った 1 。また、那須氏においては、当主・那須資房とその子・政資が家督をめぐり争うと、政治は父である資房を支援した 1 。
これらの介入は、単なる隣国への義理立てや場当たり的な軍事行動ではない。一見すると単なる勢力拡大策であるが、その多くは「正統な当主を支援し、家中の秩序を乱す者を討つ」という大義名分のもとに行われている。これは、彼自身が兄を討って内紛を収拾し家督を継いだ経験とも重なる。彼は、関東における「秩序の維持者」として振る舞うことで、自らの軍事行動を正当化し、周辺国人からの支持を集めようとしたのである。古河公方の権威が揺らぐ中で、小田氏が地域における新たな調停者・権威としての役割を担おうとする、野心的な試みであったと解釈できる。この戦略は、敵対勢力の弱体化と自勢力圏の拡大を同時に実現する、戦国大名らしい高度な政治戦略であった。
政治は内紛介入だけでなく、直接的な領土紛争においても積極的な軍事行動を展開した。
その代表例が、常陸中部に勢力を持つ江戸氏との戦いである。享禄元年(1528年)、江戸通泰が常陸府中に本拠を置く大掾忠幹と対立し南下を開始すると、政治は大掾氏と和睦を結び、これを支援した 1 。そして享禄4年(1531年)、政治は石岡(現在の茨城県石岡市)で江戸氏の軍勢を破った(石岡の戦い) 1 。この勝利は、江戸氏の南進を阻止し、常陸中部における小田氏の影響力を決定づける重要な戦果であった。
一方で、下総国(現在の千葉県北部など)の名門・結城氏とは、前述の宇都宮氏の内紛をめぐって敵対関係にあった。天文6年(1537年)には、下妻の多賀谷氏と同盟を結んで結城政勝と戦ったが、この時は敗北を喫している 1 。結城氏との関係は、良くも悪くも、その後の関東の勢力図を左右する重要な要素であり続けた。
政治の外交戦略の中で特に注目すべきは、長年の宿敵であった常陸北部の雄・佐竹氏との関係改善である。彼は妹を佐竹氏の当主・佐竹義篤に嫁がせ、婚姻同盟を成立させた 1 。
この大胆な外交政策の背景には、関東全体のパワーバランスの変化があった。古河公方家の内紛において足利高基が勝利を収めた後、関東南部では相模国の後北条氏が急速に勢力を拡大していた 1 。この新興勢力の台頭は、常陸の伝統的領主である小田氏と佐竹氏双方にとって、看過できない共通の脅威であった。政治は「敵の敵は味方」とする現実的な判断に基づき、佐竹氏との和睦を選択したのである。
この同盟は、小田氏にとって計り知れない戦略的価値をもたらした。北方の憂いを断ち切ることで、政治は南の江戸氏や西の結城氏に対する軍事行動を、後顧の憂いなく活発化させることが可能となった。彼の治世における小田氏の勢力拡大は、この巧みな外交戦略によって大きく支えられていたのである。
小田政治が築き上げた小田氏の栄光は、関東の勢力図を根底から覆す一大決戦によって、大きな、そして決定的な転換点を迎えることとなる。
天文14年(1545年)、相模の後北条氏康は、関東管領上杉氏の重要拠点である武蔵国・河越城(現在の埼玉県川越市)を攻撃し、包囲した。これに対し、関東管領の山内上杉憲政と扇谷上杉朝定は、長年の対立を一時中断して和解。さらに古河公方・足利晴氏を名目上の総大将として担ぎ出し、関東の諸大名に参陣を呼びかけた。こうして、北条氏の打倒を目指す8万ともいわれる大連合軍が結成された 3 。
小田政治もこの反北条連合の呼びかけに応じ、古河公方・足利晴氏を支持して参陣した 1 。これは、急速に勢力を拡大する後北条氏を警戒し、旧来の関東の秩序、すなわち古河公方と関東管領を中心とする体制を維持しようとする政治の基本的な戦略に沿った行動であった。彼は、重臣である菅谷隠岐守(すげのや おきのかみ)を部隊長とする一軍を河越へ派遣した 1 。菅谷率いる小田勢は、河越城内に立てこもる北条方の兵站線を断つため、城の南西に位置する砂窪(すなくぼ、現在の川越市砂久保)に布陣したと記録されている 12 。この地点は、城への補給路を遮断する上で極めて重要な戦略拠点であった。
半年にも及ぶ包囲戦の末、天文15年(1546年)4月20日、北条氏康はわずか8千の兵を率いて、油断していた8万の連合軍に夜襲を敢行した。この奇襲は完璧に成功し、連合軍は総崩れとなった。扇谷上杉朝定は戦死、山内上杉憲政と古河公方・足利晴氏はかろうじて戦場から敗走するという、歴史的な大敗北を喫した。これが「日本三大奇襲」の一つに数えられる河越夜戦である 3 。
この一戦の敗北は、小田氏にとって単なる一合戦の負け以上の、深刻かつ長期的な影響を及ぼした。それは、小田氏の権力基盤そのものを揺るがす構造的な変化の始まりであった。
第一に、政治がその権威の源泉として頼ってきた古河公方と関東管領の体制が、この一戦で事実上崩壊したことである 8 。権威の拠り所を失ったことは、小田氏が関東の政治秩序の中で占めていた地位そのものを不安定にした。
第二に、地政学的な状況が絶望的に悪化したことである。この勝利により、後北条氏は関東における覇権を確立し、小田氏はその領国の南から、強大化した北条氏の圧力を直接受けることになった。さらに北に目を向ければ、長年の宿敵であり、当時は同盟関係にあった佐竹氏が、北条氏に対抗するため、あるいは関東南部へ進出する好機と捉え、小田領への圧力を強めることは必至であった。
結果として、河越夜戦は小田氏を「北の佐竹、南の北条」という二大勢力に挟撃される、極めて脆弱な地政学的状況へと追い込む決定的な契機となった 2 。政治の晩年からその子・氏治の代にかけての小田氏の苦難に満ちた歴史は、すべてこの一戦の敗北にその源流を求めることができる。政治が築き上げた小田氏の最盛期は、関東全体のパワーバランスの変化という、一個人の才覚では抗いようのない、より大きな歴史の奔流によって終焉を迎える運命だったのである。
河越夜戦の敗北は、小田政治の治世に暗い影を落とし始めた。彼が築き上げた栄光は、関東の激動の中で徐々に色褪せていく。しかし、彼が遺したものは、良くも悪くも、その後の小田氏の歴史に大きな影響を与え続けることになった。
河越夜戦の敗北がもたらした影響は、すぐさま領国に波及した。天文15年(1546年)、政治は行方郡(現在の茨城県行方市周辺)の支配をめぐり、大掾慶幹と唐ヶ崎で戦ったが、この戦いで小田勢は敗北を喫した 1 。この戦いは、嫡男・氏治の初陣でもあったが、父子にとってほろ苦い船出となった 13 。かつては石岡の戦いで江戸氏を破るなど、常陸中部で優位を誇った小田氏であったが、その勢力拡大が限界に達し、守勢に転じつつあることを象徴する出来事であった。政治の晩年には、小田氏の先行きに暗雲が垂れ込めていたのである 2 。
天文17年2月22日(西暦1548年3月31日)、小田政治はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年57(一説に56歳)であった 1 。彼の亡骸は、小田氏の菩提寺である法雲寺(現在の茨城県土浦市)に葬られたと伝えられる。家督は、嫡男の小田氏治が継承した 1 。氏治は、父が築いた栄光と、そして父が残した困難な課題の両方を背負って、戦国乱世の荒波に乗り出すこととなる。
小田政治は、戦国乱世の常陸において、衰亡寸前であった名門・小田氏を再興させた傑出した当主であった。内紛で分裂した家中を再統一し、巧みな外交と積極的な軍事行動で勢力を拡大したその手腕は、まさしく「中興の祖」の名にふさわしい 1 。
しかし、彼の成功は、古河公方という旧来の権威構造の中で達成されたものであり、その構造自体が崩壊する時代の大きなうねりには抗しきれなかったという限界もまた事実である。彼が最後まで解決できなかった「北の佐竹、南の北条」という巨大勢力に挟まれた地政学的な課題は、そのまま息子・氏治に重くのしかかり、後の小田氏滅亡の遠因となった 27 。
彼が歴史に残した物的な遺産として、その肖像画が挙げられる。土浦市の法雲寺には、小田氏7代当主・治久、そして15代当主・氏治の肖像と共に、14代当主である政治の肖像画が大切に伝えられている 32 。これらはすべて室町時代から安土桃山時代にかけて制作された貴重なものであり、紙本著色小田政治肖像画は茨城県の指定有形文化財となっている 33 。この三代の肖像画が現存することは、政治が小田氏の歴史の中で、祖先と子孫をつなぐ重要な存在として、いかに記憶されていたかを示す動かぬ証拠と言えよう。
小田政治の「中興」を支えたのは、彼の個人的な才覚だけではなかった。鎌倉時代以来、小田氏が400年以上にわたって常陸南部に築き上げてきた、強固な政治的、経済的、そして人的な権力基盤が存在した。
小田氏の権力の中枢は、本拠である小田城(現在の茨城県つくば市)であった。この城は、小田氏の祖である八田知家が鎌倉時代に居館を構えて以来、戦国時代に至るまで、一貫して小田氏支配の中心であり続けた 10 。
築城当初は、本丸を中心とした単郭式の館であったと推測されるが、戦乱が激化するにつれて、その姿を大きく変えていった 35 。特に戦国期には、幾重にも巡らされた堀と土塁、敵の直進を防ぐための虎口(出入り口)や馬出(虎口の前に設けられた小規模な曲輪)などを備えた、総面積約40ヘクタールにも及ぶ大規模な平城へと改修・拡張された 35 。近年の発掘調査では、その変遷の過程や、戦国時代末期に石垣が用いられていたことなどが明らかになっている 36 。
小田城は、筑波山系の南麓に位置し、桜川の水利に恵まれた、軍事的にも経済的にも絶好の立地にあった 35 。さらに、政治の時代には、土浦城や片野城といった支城を領内の要所に配置し、領国全体を防衛するための城郭ネットワークを構築していた 1 。この堅固な城塞群が、彼の積極的な軍事行動を可能にする物理的な基盤となっていたのである。
小田政治の治世における勢力拡大を理解する上で、軍事・外交面だけでなく、経済的な側面を見過ごすことはできない。小田氏の領国は、日本第二の湖面積を誇る霞ヶ浦の西岸および北岸に広がっており、この広大な内海がもたらす経済的恩恵は計り知れないものであった。
中世から近世にかけて、霞ヶ浦は単なる漁場ではなく、関東各地を結ぶ水運の大動脈であった 40 。常陸・下野の内陸部で収穫された年貢米や特産品は、高瀬船などの舟運によって霞ヶ浦の「津」(港)に集められ、利根川水系を通じて江戸やさらに遠方へと輸送された 40 。人、物資、そして情報が絶えず行き交うこの水上交通網は、さながら「常総の内海世界」とも呼ぶべき独自の経済圏を形成していたのである 44 。
小田氏がこの水運の要衝を支配していたことは、大きな経済的利益をもたらしたと考えられる。湖岸の港に設けられた関所では、通行する船から通行税(津料・関銭)を徴収することができた。また、物流の結節点を押さえることは、商業活動そのものを掌握し、領内の経済を活性化させることにも繋がる。小田政治が展開した数々の軍事行動や、大規模な城郭の維持・改修には莫大な費用が必要であったはずであり、その財源の多くは、この霞ヶ浦水運からもたらされたものと推測される。彼の治世における「最盛期」は、この見えざる経済動脈を掌握・活用した結果であり、小田氏の領国経営を評価する上で、この地理的・経済的側面は不可欠な視点である。
小田氏の強さの源泉は、その人的な結束力にもあった。
政治の下には、菅谷氏、真壁氏、田伏氏など、鎌倉時代以来、代々にわたって小田家に仕える譜代の家臣団が存在した 1 。中でも菅谷氏は小田氏の重臣筆頭であり、政治の代には河越夜戦の部隊を率い、その子・氏治の代には主家が滅亡した後も、氏治と共に結城秀康に客分として仕えるなど、小田氏の浮沈と運命を共にした 12 。こうした忠誠心の厚い家臣団の存在が、度重なる戦乱の中でも小田氏の支配体制を強固に支えていた。
さらに、小田氏は領内の寺社を篤く保護することで、領民の支持を集めていた。菩提寺である法雲寺 32 や、小田氏からの寄進と伝わる「瑞花雙鳥八稜鏡」を神宝とする八坂神社(つくば市) 49 などは、領主の権威を示す象徴であると同時に、領民の信仰心を通じて間接的に支配を補強する重要な役割を果たしていた。後の氏治の代に、何度も居城を奪われながらもその都度復帰できた背景には、こうした領民レベルでの強い支持があったからだとされている 30 。その強固な地盤は、父・政治の時代までに着実に培われたものであった。
小田政治は、戦国乱世の常陸において、内紛と外圧によって衰亡寸前であった名門・小田氏を再興させた、疑いなく傑出した当主であった。家中の混乱を力と策略で鎮め、巧みな外交と積極的な軍事行動によって周辺に勢力を拡大したその手腕は、「中興の祖」の名にふさわしい。彼の治世下で、小田氏は戦国大名としてその存在感を最大限に高め、一時の栄光を掴んだのである。
しかし、彼の成功には明確な限界も存在した。その権力基盤は、古河公方という旧来の権威構造に依存する部分が大きく、その構造自体が崩壊していく時代の大きなうねりには、最終的に抗しきれなかった。河越夜戦での敗北は、彼の個人的な失敗というよりも、関東における権力パラダイムの転換点であり、小田氏のような伝統的勢力が、後北条氏に代表される新たな実力主義の大名の前では脆弱であることを露呈した。
この意味で、小田政治は、旧時代の秩序の中で最大限の成功を収めた「伝統的領主」の側面と、実力で領国を拡大する「戦国大名」の側面を併せ持つ、まさに関東の戦国史における過渡期の武将として位置づけられる。彼の生涯は、関東における室町幕府体制の終焉と、後北条氏に代表される新たな戦国大名時代の到来を象徴している。
政治が次代に残した最大の遺産は、一時的な栄光だけでなく、その後の小田氏の苦難の直接的な原因ともなった「北の佐竹、南の北条」という絶望的な地政学的課題であった。しかし同時に、彼が維持し、強化した家臣団や領民との固い結束は、息子・氏治が「戦国最弱」と揶揄されながらも、幾度となく不死鳥のごとく蘇るための原動力となったこともまた事実である。小田政治という「中興の祖」の栄光と苦悩を理解することなくして、その子・氏治の特異な戦国武将としての生涯を正しく評価することはできない。彼の存在は、常陸小田氏400年の歴史において、最も輝かしく、そして最も悲劇的な時代の幕開けを告げるものであった。