戦国時代から安土桃山時代にかけて、日本の歴史に特異な足跡を残した武将、小西行長。彼は商人出身という異色の経歴を持ちながら、豊臣秀吉に見出されて肥後半国の領主へと駆け上がり、さらにはキリシタン大名としてもその名を知られました。彼の生涯は、当時の日本の激しい社会変動、複雑な国際関係、そして異文化であるキリスト教の受容といった、多岐にわたる歴史的側面を鮮やかに映し出しています。
本報告書は、現存する多様な史料に基づき、小西行長の出自からその劇的な最期、さらには後世における歴史的評価の変遷に至るまでを多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とします。特に、宇喜多氏の家臣であった時代、豊臣政権下での多岐にわたる活動、文禄・慶長の役における軍事的・外交的役割、そして彼の人生に深く関わったキリスト教信仰が彼自身とその行動に与えた影響について、詳細に記述します。さらに、彼と深く関わった主要人物たちとの関係性や、時代と共に変遷してきた歴史的評価についても光を当てていきます。
小西行長の生年については、永禄元年(1558年)とする説が有力視されています 1 。この説の根拠は、朝鮮側の史料である『宣祖実録』に、宣祖二十八年(西暦1595年)の時点で「行長今年三十八」という記述が見られることであり、ここから数え年で逆算すると永禄元年に該当します 3 。
出身地に関しては、京都で生まれたというのが一般的な見解です 2 。彼の父は、和泉国堺で薬種などを商っていた小西隆佐(洗礼名はジョウチン、または立佐とも記される)とされ 1 、母はワクサ(洗礼名はマグダレーナ)と伝えられています 3 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡にも、「羽柴の海軍の司令官は、都生まれのキリシタンで、名をアゴスチニヨといひ」との記述があり、これが京都生まれ説を補強する材料の一つと考えられています 3 。
しかしながら、行長の生年に関しては異説も存在し、確実な一次史料に乏しいのが現状です 5 。行長の正確な生年や幼少期の詳細が不明確な点が多い背景には、いくつかの要因が考えられます。武士の家系であれば比較的詳細な記録が残されることが多いのに対し、商人出身である行長の場合、特に初期の記録は乏しかった可能性があります。戦国時代から安土桃山時代にかけては身分制度に流動性が見られたとはいえ、出自による記録の量や質には依然として差が存在したと推測されます。このような出自に関する情報の断片性は、当時の社会における商人階級の位置づけや、武家社会を中心とした記録の偏りを反映している可能性があります。これは、彼が実力でのし上がった側面を強調すると同時に、出自に起因する偏見や困難に直面した可能性も示唆しています。例えば、後年、加藤清正から「薬問屋の小倅」と侮蔑されたとされる逸話は、その一端を示すものかもしれません 2 。
小西行長は、堺の薬種商・小西隆佐の次男として生を受けました 2 。幼少期には、備前国岡山(あるいは福岡)の商家へ養子に出されたと伝えられています 2 。この養家が備前国の戦国大名・宇喜多氏に出入りしていたことが、行長が武将の道を歩むきっかけとなったようです 2 。
主君となった宇喜多直家は、謀略に長けた梟雄として知られる一方で、出自にとらわれず有能な人材を登用する柔軟性も持ち合わせていたと考えられます。行長は、その才覚を直家に見出され、商人の身分から武士へと取り立てられました 1 。中国の史料によれば、宇喜多直家が刺客に襲われた際、当時弥九郎と名乗っていた行長がこれを撃退し、その功績によって武士に取り立てられたという逸話も伝えられています 1 。宇喜多直家臣時代の具体的な功績に関する日本側の史料は乏しいものの 12 、この時期に武将としての基礎を培い、特に水軍の運用や火器に関する知識を学んだとされています 1 。
行長の商人から武士への転身は、単なる個人的な立身出世に留まらず、戦国末期から豊臣政権期にかけての社会における価値観の変化、すなわち実力主義の台頭や経済・情報戦略の重視といった時代の潮流を象徴する出来事であったと言えます。商人として培われた交渉術、情報収集能力、そして経済感覚は、後の彼の武将としてのキャリアにおいて独自の強みとなりました。特に外交、兵站管理、そして領国経営といった分野でその能力を遺憾なく発揮する基盤となったと考えられます。宇喜多直家や、後に仕えることになる豊臣秀吉といった実力主義の武将たちが、商人出身の行長を重用した背景には、彼が持つ商人由来のスキルセットが、当時の武家社会において新たな価値を持っていたことの証左と言えるでしょう。
小西行長が豊臣秀吉の家臣となる経緯は、宇喜多直家の使者として秀吉のもとへ赴いたことに始まります。天正8年(1580年)頃、播磨国三木城攻めの最中であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に対し、宇喜多直家の使者として遣わされた行長は、その才知を秀吉に高く評価され、父・隆佐と共に秀吉の直臣として迎え入れられました 6 。
秀吉の家臣としての初期の活動は、主に豊臣秀吉と諸大名との間を取り持つ「取次」としての役割が中心でした 7 。この「取次」という役職は、単に命令を伝達するだけではなく、秀吉の意図を正確に汲み取り、関係各所と調整を行うなど、高度な交渉力と判断力が求められるものであり、ある程度の裁量権も有していたとされています 7 。行長の商人としての経験で培われたコミュニケーション能力や情報収集能力が、この重要な任務を遂行する上で大いに役立ったと考えられます。
豊臣秀吉による小西行長の抜擢は、秀吉自身の実力主義的な人材登用方針と、統一政権が直面した新たな課題に対応できる多様な能力への需要が合致した結果と言えるでしょう。秀吉自身も低い身分からの成り上がりであり、出自よりも実力を重視する傾向がありました 14 。行長の商人出身という異色の経歴と、それに伴う実務能力や国際感覚(後のキリスト教入信とも関連する)は、従来の武士にはない新たな価値を秀吉に提供し得たのです。全国統一を進め、さらには海外へと目を向けていた秀吉にとって、行長のようなスキルセットを持つ人材の重要性は増すばかりであり、その期待に応える形で、行長は外交や水軍といった重要な任務を担っていくことになります 9 。
豊臣秀吉の家臣となった小西行長は、その才能を水軍の分野で開花させます。早くから舟奉行に任じられ、水軍の指揮官として数々の戦役で活躍しました 2 。イエズス会の宣教師からは「海の司令官」と称されるほど、その手腕は内外に認められていたようです 4 。
天正11年(1583年)頃には、瀬戸内海の塩飽から堺に至るまでの広範囲な海域における船舶の監督を任されました 8 。これは、当時の海上交通の要衝を掌握する重要な役割であり、行長の管理能力と海事に関する知識が高く評価されていたことを示しています。
特筆すべきは、天正13年(1585年)の四国征伐における活躍です。この戦役において、行長は海路を最大限に活用した兵站(補給)システムを構築・運用し、大規模な軍勢の輸送と物資補給を成功させました。これにより、豊臣軍の円滑な作戦遂行に大きく貢献し、秀吉から絶大な信頼を勝ち得たとされています 14 。同年の紀州征伐においても水軍を率い、太田城水攻めでは安宅船や大砲といった当時の最新兵器を効果的に運用し、城の開城に貢献したと伝えられています 6 。
小西行長の水軍指揮官としての成功は、彼の商人としての経験に裏打ちされた実務能力と、豊臣秀吉の先進的な軍事構想が結びついた結果と言えるでしょう。伝統的な水軍勢力が個々の戦闘能力に長けていたのに対し、行長は組織的な兵站管理や効率的な海上輸送といった、より戦略的な側面で新たな価値を提供しました。これは、単なる武勇だけでなく、計画性、管理能力、そして経済感覚といった要素が重視されるようになった、戦国末期から豊臣政権期にかけての軍事における「専門家」の台頭を示す一例とも考えられます。彼の水軍指揮は、秀吉の天下統一事業における重要な局面で、その戦略の幅を広げる上で不可欠な要素でした。
九州征伐やそれに続く肥後国人一揆の鎮圧における小西行長の功績は、豊臣秀吉から高く評価されました 8 。その結果、天正16年(1588年)、行長は加藤清正と共に肥後国を与えられ、南半国にあたる宇土・益城・八代・天草の四郡、約14万6千石(資料により12万石 8 、24万石 1 とも)の領主となりました 2 。これは商人出身の武将としては破格の出世であり、秀吉の行長に対する期待の大きさを物語っています 7 。
肥後の領主となった行長は、本拠地として宇土に新たな城を築きました。従来の宇土城(西岡台)が山城であったのに対し、行長はより支配と経済活動に適した平山城として、現在の城山公園の地に近世宇土城(小西城とも呼ばれる)を築城しました 4 。
この新しい宇土城の設計には、行長の「海の司令官」としての経験が色濃く反映されていました。特筆すべきは、城の本丸北側に運河を通し、有明海の船舶が直接城下へアクセスできるような構造にした点です 4 。これは、水運を利用した物資輸送や交易の利便性を最大限に高めることを意図したものであり、彼の商人としての合理的な思考と、水軍指揮官としての知見が融合した結果と言えるでしょう。
宇土城の規模は広大で、本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸が配置され、それぞれが幅20メートルから40メートルにも及ぶ大規模な水堀で囲まれていました。本丸北側には水路で囲まれた家臣屋敷群が整備され、城全体の範囲は東西約600メートル、南北約900メートルにも達したとされています 4 。
城下町の整備も宇土城の築城と一体的に進められました。本町筋や新町筋といった主要な通り沿いには商工業者が集められ、その東側には物流の拠点であったと考えられる船場川や、城下町を防衛するための石ノ瀬城が配置されました 4 。この城下町の区画割りは非常に規格性が高く、行長が宇土入封直前に町割り奉行の一人として再興にあたった博多の町割りと類似している点が指摘されています 4 。これは、行長が都市計画に関する先進的な知識と経験を有していたことを示唆しています。
小西行長は、商人としての経験を活かし、領国経営においても経済の発展を重視しました。検地を実施して領内の石高を把握し、年貢徴収システムを整備するとともに、前述の通り城下町を計画的に開発しました 17 。
彼の経済政策の特徴の一つに、キリスト教の教えを取り入れた点が挙げられます。貧民救済のための施しや、孤児院、病院(特にハンセン病患者のための施療院)の建設といった社会福祉事業を積極的に行いました 2 。これらの施設は、イエズス会を通じて医療知識を持つ者が配置され、運営されたと伝えられています 10 。こうした人道主義的な政策は、領民の生活安定と支持獲得に繋がり、結果として領国の安定と経済発展に寄与したと考えられます。
宇土城に設けられた運河は、有明海を通じた交易の活性化を明確に意図したものでした 4 。肥後の特産品を輸出し、海外からの物資を導入することで、領国経済の振興を図ったとされています 19 。これにより、当時の肥後経済は大いに発展したと言われています。ただし、具体的な貿易品目、相手国、そして経済規模に関する詳細な史料は限定的であり、今後の研究が待たれるところです 20 。
年貢制度に関しては、豊臣政権下で推進された太閤検地の影響を受け、田畑の等級に応じた石盛(見積収穫量)の設定や、検地竿の規格統一、年貢率の原則(例えば二公一民)などが適用されたと考えられます 34 。しかし、天草五人衆の一揆の背景には、行長による宇土城建設のための賦役負担要求や、それ以前からの検地による年貢増に対する不満があった可能性も指摘されており 7 、領国経営が常に順風満帆であったわけではないことも窺えます。
小西行長の宇土における領国経営は、彼の商人としての経験、水軍指揮官としての知見、そしてキリシタンとしての信仰が融合した、独自性の高いものであったと言えます。運河を擁する城郭と計画的な城下町の整備は、交易を中心とした経済的発展を目指す明確なビジョンを示しています。同時に、キリスト教施設の建設や社会福祉政策は、領民の教化や生活安定のみならず、イエズス会を通じた海外との繋がりを意識した戦略的な側面も持っていた可能性があります。これは、伝統的な農業基盤に依存する多くの大名とは異なる、より商業的・国際的な視野を持った領国経営モデルを志向していたことを示唆しており、行長の多面的な能力と先進性を物語っています。
小西行長のキリスト教への関わりは、彼の父・隆佐の代から始まります。隆佐は堺の商人として早くからキリスト教に触れ、永禄8年(1565年)頃に受洗したとされています 9 。行長自身の受洗時期については諸説あり、幼少期に父と共に受洗したという説 4 と、成人後の天正12年(1584年)に、同じくキリシタン大名であった高山右近の勧めやその教えに感銘を受けて受洗したという説 2 が存在します。彼の洗礼名は「アウグスティヌス」(アゴスチノ、アグスチノなどとも表記)でした 1 。いずれにしても、彼のキリスト教信仰は生涯を通じてその行動や思想に大きな影響を与えたとされています 7 。
入信時期の異説は、彼の信仰の質を考察する上で興味深い点です。幼少期の受洗であれば、家庭環境による自然な受容であった可能性が高いですが、成人後に高山右近の影響で受洗したのであれば、より主体的な信仰の選択であったと考えられます。一部の史料では、行長のキリスト教信仰は純粋な宗教的情熱というよりも、政治的・経済的な手段であったという見方も示されています。例えば、父・隆佐の入信理由がイエズス会との関係深化による経済活性化や権力への接近にあったとされ、行長も父の意向に従って洗礼を受けたに過ぎなかったという指摘もあります 9 。
しかし一方で、行長が「神の教えは、この乱世を生きる指針となる」と語ったとされる記録 17 や、高山右近の教えに「感銘を受け」て入信したという記述 2 は、彼の内面的な信仰の存在を示唆します。これらの記述は一見矛盾するように見えるかもしれませんが、初期の受容の動機と、その後の信仰の深化、あるいは信仰と実利の両立という形で解釈することも可能です。特に、関ヶ原の戦いに敗れた後の殉教的な最期 2 は、単なる政治的手段としての信仰では説明しきれない深層的なものがあったことを物語っています。彼の信仰は、初期には父の影響や政治的・経済的利点が動機の一部であった可能性は否定できないものの、高山右近との交流やその後の人生経験を通じて、彼の精神的な支柱へと昇華していった可能性が高いと考えられます。信仰と現実的な政治判断との間で葛藤しつつも、最終的には信仰に殉じた「したたかなキリシタン」 2 であったと評価できるかもしれません。
小西行長のキリスト教信仰は、彼の多岐にわたる活動に具体的な影響を及ぼしました。領国経営においては、その信仰が人道主義的な政策として表れました。彼は私財を投じて領内に孤児院や病院を建設するなど、社会的弱者の救済に尽力しました 2 。特に、大坂や故郷の堺、そして領地である宇土においてハンセン病患者のための施療院を設け、イエズス会を通じて医療の知識を持つ者を配置し、治療と療養に当たらせたとされています 10 。これは、彼の父・隆佐の篤志を受け継いだものとも言われています 10 。これらの社会福祉活動は、キリスト教の博愛精神の実践であると同時に、領民の生活安定と支持獲得、ひいては領国の富強に繋がるという現実的な統治戦略の一環でもあったと考えられます。
外交面においては、キリシタン大名としての立場が、イエズス会やポルトガル・スペインといった南蛮諸国との交渉において有利に働いた可能性があります 9 。彼自身が南蛮語を理解し、キリスト教の知識を有していたことは、異文化間のコミュニケーションを円滑にし、信頼関係を構築する上で重要な要素でした。
文禄・慶長の役においては、キリスト教の教えに反する武力侵攻に加担するという矛盾を抱えながらも、和平への道を模索し続けたとされています 17 。彼の心中は複雑であり、「戦は避けられぬとしても、不要な流血は避けたい」という思いがあったと推察されます 17 。
領内における宗教政策としては、宇土城下や天草地方などで教会の建設を進め、キリスト教の布教を積極的に支援しました 17 。これにより、彼の領内では多くの人々がキリスト教の洗礼を受けたと伝えられています。ただし、宇土城下における教会の具体的な位置や規模を示す考古学的な発見は現在のところ限定的です 4 。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は突如として「伴天連追放令」を発布し、キリスト教宣教師の国外追放と信者への改宗を迫りました。これは、九州平定の過程でキリシタン勢力の拡大や南蛮貿易の利権に警戒心を抱いた秀吉の政策転換を示すものでした 9 。この命令は、小西行長をはじめとするキリシタン大名たちに深刻な衝撃と葛藤をもたらしました。
行長自身も秀吉から棄教を迫られ、表向きはその要求を受け入れたとされています 9 。しかし、彼は信仰を完全に捨て去ったわけではありませんでした。裏では密かに宣教師たちに理解を示し、援助を続けました。その最も顕著な例が、信仰を理由に大名の地位を追われ改易となった高山右近を、自身の所領である小豆島に匿ったことです 3 。これは秀吉の命令に背く危険な行為であり、発覚すれば自身の立場をも危うくする可能性がありましたが、行長は右近への支援を続けました。
このような行長の対応は、彼の「したたかさ」と巧みな政治的バランス感覚を示すものです。秀吉の絶対的な権力と、自身の信仰やイエズス会との関係という、二つの相容れない要素の間で板挟みになりながらも、彼は両者の間で柔軟に立ち回り、双方との関係を維持することに成功しました 9 。表向きは秀吉の意向に従いつつも、信仰の灯を絶やさず、可能な範囲で宣教師やキリシタン仲間を保護したのです。これは、単なる自己保身を超えて、自身の政治的影響力を維持しながら信仰を守るための、極めて現実的かつ戦略的な行動であったと評価できます。実際、伴天連追放令の後も、行長は肥後南半国の領主に任命されるなど、秀吉からの信任を失ってはいませんでした 9 。この困難な状況を乗り切った柔軟性と政治的手腕こそが、彼が厳しい戦国の世で生き残り、一定の影響力を保持し得た要因の一つと言えるでしょう。
豊臣秀吉が大陸侵攻の野望を具体化させた文禄・慶長の役において、小西行長は加藤清正と共に先鋒部隊の主将という極めて重要な役割を命じられました 2 。
文禄元年(1592年)4月、行長率いる一番隊は対馬から朝鮮半島に渡海し、釜山鎮、東萊城などを次々と攻略、破竹の勢いで北進しました 7 。首都である漢城(現在のソウル)の攻略においては、二番隊を率いる加藤清正と先陣の功を激しく争い、行長が一日の差で清正を出し抜き、漢城を占領したと伝えられています 2 。その後も行長軍は進撃を続け、開城を経て平壌まで到達し、これを占領しました 3 。緒戦における日本軍の電撃的な勝利において、行長が果たした役割は非常に大きかったと言えます。
これらの戦功は、行長の軍事指揮官としての能力を示すものです。特に、兵站の維持が困難な異国での長距離進軍を成功させた点は、彼の水軍指揮官としての経験や商人時代に培った兵站管理能力が活かされた結果かもしれません。
しかし、この朝鮮出兵において行長が担った役割は、単なる軍事指揮官に留まりませんでした。彼は同時に、朝鮮や明との和平交渉の担当者という、一見すると相反する役割も担うことになります。先鋒として軍事的成功を収めつつ、外交による事態収拾も模索するという複雑な立場が、彼の行動に多くの葛藤と矛盾を生み、後の評価を一層多面的なものにしています。史料には「戦は避けられぬとしても、不要な流血は避けたい」という行長の心情が記されており 17 、武力行使と和平模索の間で苦悩していた様子がうかがえます。
文禄の役における日本軍の初期の快進撃は、朝鮮国王の避難と明からの援軍派遣という新たな局面を迎えます。戦線が膠着し、長期戦の様相を呈してくると、和平交渉の重要性が増してきました。小西行長は、石田三成らと共に、朝鮮および明との和平交渉において中心的な役割を担うことになります 3 。
しかし、和平交渉は困難を極めました。豊臣秀吉が提示する講和条件(明の皇女を日本の天皇の后とすること、朝鮮半島の割譲、勘合貿易の復活など)は、明・朝鮮側にとって到底受け入れられるものではなく、交渉は暗礁に乗り上げます。秀吉の強硬な姿勢と、現地の戦況および明・朝鮮側の断固たる抵抗との間には埋めがたい溝が存在しました。
この絶望的な状況下で、行長は事態を打開するため、あるいは戦争を終結させるため、極めて危険な手段に訴えます。それは、秀吉と明の双方を欺くという二重の欺瞞工作でした。具体的には、秀吉には「明が日本の要求を受け入れ、降伏した」と偽りの報告をし、一方で明側には「秀吉が明に降伏し、臣従を誓う」という内容の国書を偽造して交渉を進めようとしたのです 14 。この大胆かつ危険な策略は、一時的に和平交渉が進展しているかのような状況を作り出しました。
しかし、この偽りの和平は長くは続きませんでした。慶長元年(1596年)、明からの講和使節が秀吉に謁見した際、明皇帝の国書の内容(秀吉を「日本国王」に封じるという、秀吉の意図とは全く異なるもの)が明らかとなり、行長の欺瞞工作は露見してしまいます 7 。これに激怒した秀吉は行長に死罪を宣告しますが、前田利家や淀殿らの必死の嘆願によってかろうじて助命されたと伝えられています 7 。
小西行長がこのような危険な欺瞞工作に手を染めた動機については、様々な解釈が可能です。単なる自己保身や責任逃れであったという見方もありますが、一方で、これ以上の無益な戦争を避け、早期終結を実現したいという強い願いがあったのかもしれません 14 。しかし、結果として彼の行動は和平を破綻させ、慶長の役という再度の出兵を招き、彼自身の政治的立場を著しく悪化させました。この一件は、行長の外交における限界を示すと同時に、豊臣政権末期の外交政策の硬直性と、秀吉の絶対的な権力下における家臣たちの苦悩を象徴する出来事と言えるでしょう。
小西行長と加藤清正の対立は、肥後国を分割統治して以来、様々な局面で顕在化しました。両者の確執は、単なる個人的な感情のもつれに留まらず、その出自、宗教観、政治思想、さらには軍事戦略に至るまで、根源的な価値観の相違に起因するものであったと考えられます。
領国経営においては、隣接する領地の境界線を巡る争いや、特に緑川の水利を巡る問題が絶えなかったとされています 3 。宗教観においても、熱心なキリシタンであった行長に対し、清正は熱心な日蓮宗の信者であり、この信仰の違いも両者の溝を深める一因となりました 3 。天正17年(1589年)に発生した天草五人衆の乱では、行長がキリシタンの多い天草衆に対して穏便な解決を図ろうとしたのに対し、清正が強引に出兵・介入した結果、武力鎮圧に至ったという経緯があります 3 。
文禄・慶長の役では、この対立はさらに先鋭化します。清正は商人出身の行長を「薬問屋の小倅」と公然と侮蔑し 2 、行長もこれに反発して、自軍の船印として当時の薬袋を模した紋(紙の袋に朱の丸)を掲げたと伝えられています 2 。漢城攻略の際には、どちらが先に一番乗りを果たすかを激しく争い、結果的に行長が一日の差で清正を出し抜いたとされています 2 。さらに、行長が配下の要時羅(梯七太夫)を李氏朝鮮に派遣し、清正軍の上陸時期を密告して清正を討ち取らせようと画策したものの、朝鮮側の李舜臣がこれを罠と疑って攻撃を躊躇したために失敗に終わった、という衝撃的な逸話も残されています(柳成龍『懲毖録』による) 3 。
作戦方針や和平交渉の進め方を巡っても、両者の意見は常に対立しました 3 。行長が石田三成ら文治派と連携して和平を模索したのに対し、清正は武力による徹底的な制圧を主張する武断派の代表格であり、この路線対立が豊臣政権内部の亀裂を深める一因となったとも言われています 3 。
ただし、朝鮮における行長と清正の対立が深刻化したのは、文禄の役における漢城占領後、日本軍の占領地支配の方針として「八道国割」が策定され、行長と清正にそれぞれ異なる担当地域と方針が示された後であるという見方もあります。それ以前の日本国内外における両者の対立に関する逸話の多くは、後世の創作や誇張が含まれている可能性も指摘されています 3 。
いずれにせよ、商人出身で外交を重視するキリシタンの行長と、武士の家柄で武断的な戦略を志向する日蓮宗徒の清正という、あらゆる面で対照的な二人の対立は、文禄・慶長の役を通じて先鋭化し、豊臣政権内部の文治派と武断派の深刻な亀裂を象徴するものでした。そして、この対立は結果として政権の弱体化を招き、後の関ヶ原の戦いへと繋がる遠因の一つとなったと言えるでしょう。
小西行長の生涯と行動を理解する上で、彼を取り巻く主要人物との関係性は極めて重要です。これらの関係性は、彼の政治的立場、信仰、そして最終的な運命に大きな影響を与えました。
小西行長と石田三成は、豊臣政権下において特に親しい間柄であったとされています 51 。両者は共に豊臣秀吉の側近として政権中枢で活躍し、特に文禄・慶長の役においては、和平交渉の推進という共通の目標を持って協力しました 7 。行長が商人出身で実務能力に長けていたのに対し、三成もまた行政手腕に優れた文治派の代表格であり、互いの能力を認め合っていたと考えられます。
朝鮮出兵において、武力による強硬路線を主張する加藤清正ら武断派とは対照的に、行長と三成は外交による早期終結を目指しました。この共通の政治的立場や、合理主義・実務重視といった価値観が、両者を強く結びつけたと推測されます。この長年にわたる協力関係と信頼関係が、関ヶ原の戦いにおいて行長が西軍の主要武将として三成に与する決定的な要因となったと言えるでしょう 2 。
高山右近は、小西行長のキリスト教信仰に極めて大きな影響を与えた人物です。行長の受洗が高山右近の勧めによるものであったという説は有力であり 2 、右近の深い信仰と教えに行長が感銘を受けたとされています。
天正15年(1587年)の伴天連追放令によって高山右近が信仰を理由に大名の地位を追われ、改易となった際、行長は大きな政治的リスクを冒して右近を自身の領地である小豆島に匿いました 3 。この行為は、単なる友情や同情を超え、行長のキリスト教信仰の深さと、信仰共同体への強い帰属意識を示すものです。追放令下で右近を庇護し続けたことは、行長の信仰が単なる形式や政治的手段ではなく、彼の行動原理の重要な一部であったことを強く示唆しています。二人はキリシタン大名として、困難な状況下で互いに精神的な支えとなっていたと考えられます。
黒田官兵衛(孝高、後の如水)もまた、小西行長と同じく豊臣秀吉に仕えたキリシタン大名(洗礼名ドン・シメオン)でした 53 。官兵衛の入信には、小西行長、蒲生氏郷、高山右近らが関わったとされており 54 、初期のキリシタン大名間のネットワークの存在がうかがえます。また、一部史料では、行長が秀吉と交渉を持つきっかけを作ったのが黒田官兵衛の導きであった可能性も示唆されており 1 、行長のキャリア初期において官兵衛が一定の役割を果たしたかもしれません。
官兵衛は伴天連追放令後に棄教したとされていますが 54 、関ヶ原の戦いの後、小西行長の遺臣を保護したという逸話も残っています 54 。これは、表面的な棄教の裏で、個人的な信頼関係や旧交を重んじる姿勢が維持されていた可能性を示しており、単なる政治的関係を超えた結びつきがあったことをうかがわせます。両者は豊臣政権下で九州平定や朝鮮出兵など共通の戦役に参加しており 14 、戦略面での意見交換なども行われていた可能性があります。
小西行長の娘・マリアは、対馬の領主である宗義智に嫁いでおり、行長と義智は義理の親子という深い関係にありました 3 。この姻戚関係は、単なる個人的な結びつきに留まらず、豊臣秀吉の朝鮮出兵計画における日本の対朝鮮外交戦略において極めて重要な意味を持っていました。
対馬宗氏は、歴史的に朝鮮との外交・貿易の窓口としての役割を担ってきたため、その情報網、人脈、交渉ノウハウは、行長にとって不可欠な資源でした 56 。文禄・慶長の役において、宗義智は行長の指揮下で参戦するとともに、行長と共同で日本側の外交交渉を担当しました 3 。両者は協力して、秀吉の強硬な「征明嚮導」(明への道案内を朝鮮にさせる)という命令を、朝鮮側がいくらかでも受け入れやすい「仮途入明」(明へ行くために道を貸してほしい)という穏便な要求にすり替えて交渉するなど、破局を回避するための外交努力を重ねたとされています 57 。この連携は、行長の現実的な外交姿勢と、宗氏にとって死活問題であった対朝鮮関係の維持という、双方の利害が一致した結果と言えるでしょう。
以下の表は、小西行長と主要な関連人物との関係をまとめたものです。
表1:小西行長と主要関連人物
人物名 |
小西行長との関係 |
主要な関連出来事・備考 |
典拠例 |
豊臣秀吉 |
主君 |
行長の才能を見出し重用。舟奉行、肥後宇土城主などに任命。朝鮮出兵を命令。和平交渉の不手際で一時死罪を宣告するも助命。 |
2 |
宇喜多直家 |
初めの主君 |
商人であった行長を武士として取り立てる。行長は直家の使者として秀吉と面会し、後に秀吉に仕えるきっかけとなる。 |
1 |
加藤清正 |
肥後国を共同統治した大名、対立関係 |
領地境界、水利問題、宗教観(行長:キリシタン、清正:日蓮宗)を巡り常に対立。朝鮮出兵では先陣争いや作戦方針で衝突。「薬問屋の小倅」と行長を侮蔑。 |
2 |
石田三成 |
豊臣政権下の盟友(文治派) |
朝鮮出兵時の和平交渉で協力。親しい間柄であったとされる。関ヶ原の戦いでは行長は三成に呼応し西軍主力として参戦。 |
3 |
高山右近 |
キリシタン大名、信仰上の師友 |
行長のキリスト教入信に影響を与えたとされる。伴天連追放令で改易された右近を行長が小豆島に匿う。 |
2 |
黒田官兵衛(孝高) |
キリシタン大名、豊臣政権下の同僚 |
官兵衛の入信に行長らが関与した説あり。行長のキャリア初期に影響を与えた可能性。官兵衛は棄教後も行長の遺臣を保護したとの逸話あり。 |
1 |
宗義智 |
娘婿(行長の娘マリアが正室)、対馬領主 |
文禄・慶長の役では行長の軍に従軍し、共に対朝鮮・明外交の窓口となる。秀吉の強硬な命令を穏便な形に修正して朝鮮側と交渉。 |
3 |
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、豊臣政権内部の権力バランスを大きく揺るがしました。五大老筆頭であった徳川家康が急速に影響力を強める一方、これに危機感を抱いた石田三成ら反家康勢力との対立が先鋭化していきます。
慶長5年(1600年)、石田三成が徳川家康打倒の兵を挙げると(関ヶ原の戦い)、小西行長はためらうことなく西軍の主力としてこれに呼応しました 2 。行長が西軍に与した要因は複合的であり、石田三成との長年にわたる盟友関係、豊臣家への恩義、そしてキリシタンとしての立場から家康政権の将来に対する危惧などがあったと考えられます。特に三成との連携は、文禄・慶長の役以来の協力関係の延長線上にあったと見られます。
同年9月15日、関ヶ原の本戦において、小西行長は西軍の主要部隊の一つとして布陣し、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と激しく交戦しました 3 。奮戦したものの、かねてより内応の噂があった小早川秀秋の裏切りが戦局を決定づけ、大谷吉継隊が壊滅すると、それに続いて小西隊や宇喜多隊も総崩れとなりました 3 。
敗北を悟った行長は戦場から離脱し、伊吹山中に逃れました 3 。その後、9月19日、関ヶ原近くの庄屋・林蔵主に匿われましたが、最終的には自ら捕縛されることを選び、徳川家康のもとへ送られました 3 。この敗戦後の行動は、彼のキリスト教信仰と深く結びついています。
小西行長は熱心なキリシタンであったため、当時の武士の習わしであった切腹による自害を教義上禁じられていました 2 。そのため、捕縛された後、彼は自ら進んで斬首による処刑を選びました 2 。これは、武士としての名誉ある死に方とされる切腹を拒否し、信仰上の教義を優先した結果であり、彼の信仰の篤実さを示すものです。
慶長5年10月1日(西暦1600年11月6日)、小西行長は石田三成、安国寺恵瓊と共に京都の六条河原で斬首されました 2 。処刑に臨む際、浄土宗の僧侶が経文を差し出しましたが、行長はこれを拒否し、ポルトガル王妃から贈られたとされるキリストと聖母マリアのイコン(聖画像)を高く掲げ、静かに祈りを捧げた後に首を打たれたと伝えられています 2 。
その遺体は、イエズス会の記録によれば、彼の家臣(郎党)によって引き取られ、カトリックの作法に則って葬儀が執り行われたとも言われています 2 。この最期は、当時のイエズス会関係者から「日本人のキリシタン達の支柱」 9 と高く評価され、信仰に殉じた行為として受け止められました 2 。
小西行長の切腹を拒否し斬首を選んだ最期は、彼のキリスト教信仰が単なる表面的なものではなく、その死生観をも規定する絶対的なものであったことを示しています。武士としての名誉よりも信仰上の教義を優先したこの選択は、当時の日本のキリシタンたちにとっては殉教者としての模範となり、精神的な支柱として大きな影響を与えたと考えられます。しかし、伝統的な武士の価値観からは異端と見なされ、彼の評価を複雑にする一因ともなったでしょう。
小西行長の家臣団は、彼の多岐にわたる活動を支える上で重要な役割を果たしました。その構成は一族や譜代の者に加え、キリシタンや特定の技能を持つ者など、多様な人材が含まれていたと考えられ、これは商人出身で実務能力を重視する行長の統治スタイルを反映している可能性があります。
主要な家臣としては、まず家老格として一門の 小西行重 (本名:木戸作右衛門、洗礼名:ディエゴまたはヤコブ)が挙げられます。彼は麦島城代を務め、知行は2千石であったとされます 3 。同じく家老であった 内藤忠俊 (洗礼名:ジョアン)も行長の重臣でした 3 。また、 加藤吉成 (内匠、図書)も家老の一人として名が見えます 3 。
城代としては、志岐城代を務め、天草地方の統治を任された 日比屋了荷 (洗礼名:ヴィセンテ)が知られています。彼は堺の豪商・日比屋了珪の子であり、天草においてイエズス会の活動を保護しました 3 。愛藤寺城代には 結城弥平次 (洗礼名:ジョルジュ)や 太田市兵衛 が、木山城代には 伊藤与左衛門 が任じられていました 3 。宇土城の城代(中老とも)には 蘆塚忠右衛門 がおり、侍大将も兼ねていました 3 。
その他にも、名護屋城の普請で作事奉行を務めた 小西長貞 (若狭守) 3 、朝鮮出兵時に行長の命令で朝鮮側への工作活動を行ったとされる 梯七太夫 (朝鮮側の記録では要時羅) 3 、紀州攻めで武功を挙げ、後に麦島城代代理も務めたキリシタンの 竹内吉兵衛 (洗礼名:アンブロジオ) 3 、関ヶ原の戦いに際して行長の命を受け、有馬・大村・松浦ら九州の諸大名に西軍への参加を要請して回った供頭・侍大将の 千束善右衛門 1 など、軍事、外交、内政、諜報といった様々な分野で活躍した家臣たちの名が記録に残っています。
鉄砲頭兼奉行役であった 日比左近 は宇土城防衛戦で塩田口を守備し 3 、同じく宇土城防衛戦では 嶋津又助 や 藤井六弥太 (廻江橋を守備)らが奮戦しました 3 。
これらの家臣団の構成は、行長が単に武勇に優れた者だけでなく、外交交渉、築城技術、地域統治、そしてキリスト教信仰を共有できる者など、多方面にわたる能力を持つ人材を登用し、適材適所に配置していたことを示唆しています。特に、天草統治をキリシタンである日比屋了荷に委ねたことや、外交工作に専門の家臣を用いたことは、彼の合理的で効率的な統治・運営手法を反映していると言えるでしょう。この多様な家臣団の存在こそが、小西行長の多岐にわたる活動を支える基盤となっていたと考えられます。
小西行長に対する歴史的評価は、彼が生きた時代から現代に至るまで、日本国内と朝鮮半島、さらにはヨーロッパという異なる地域で、それぞれ独自の文脈の中で形成されてきました。
日本国内においては、江戸時代を通じて、行長の評価は必ずしも高いものではありませんでした。関ヶ原の戦いで西軍の主要武将として敗れたことは、徳川幕府の正当性を強調する史観の中で否定的に捉えられがちでした。特に、同じ肥後を領有し、関ヶ原では東軍に与して活躍した加藤清正が英雄として称えられる風潮の中で、行長はしばしばその対比で語られ、相対的に低い評価に甘んじることが多かったようです 2 。一部では「商人上がりの臆病な武将」といった固定観念も存在したとされています 18 。
一方、朝鮮半島における小西行長の評価は、文禄・慶長の役における侵略軍の主要な指揮官として、極めて否定的なものです。彼の軍勢によって多くの城が陥落し、国土が蹂린された記憶は深く刻まれており、一部では「悪魔の化身」のように語られるなど、侵略者としてのイメージが強く残っています 2 。
しかしながら、興味深い点として、朝鮮側の史料には小西行長の動向に関する記述が比較的多く残されているのに対し、同じく先鋒として侵攻した加藤清正の活躍については、日本国内ほど詳細には伝わっていないという側面も指摘されています 2 。これは、行長が和平交渉の主要な窓口であったため、交渉に関する記録が多く残った結果である可能性や、あるいは行長の行動(良くも悪くも)が朝鮮側にとってより印象的であったためかもしれません。日本国内での清正の評価が高い背景には、豊臣秀吉が清正ら武断派の報告を重視した結果であるという見方もあり 2 、情報源の偏りが評価に影響を与えた可能性も考えられます。
このように、小西行長に対する日本国内と朝鮮半島での評価の著しい差異は、それぞれの国が経験した歴史的背景と、後世における政治的・思想的な文脈に深く根差しています。日本では、江戸幕府の統治イデオロギー、加藤清正の英雄化、そしてキリスト教禁教政策といった要因が複雑に絡み合い、行長の評価は長らく抑圧されてきました。対照的に、朝鮮半島では侵略の直接的な被害者としての記憶が、行長を侵略軍の象徴として否定的に捉える評価を形成しています。同じ歴史上の人物であっても、立場や視点、そして利用可能な史料によって、その評価が大きく異なることを示す典型的な事例と言えるでしょう。
日本国内や朝鮮半島での評価とは対照的に、16世紀末から17世紀初頭のヨーロッパにおいて、小西行長は比較的肯定的に、あるいは少なくとも注目すべき人物として認識されていました。その主な情報源は、日本で活動していたイエズス会の宣教師たちが本国へ送った報告や書簡でした 4 。
宣教師たちは、日本のキリシタン大名、特に困難な状況下でも信仰を貫いた人物や、殉教的な最期を遂げた人物を英雄視し、その事績をヨーロッパに伝える傾向がありました。小西行長もその一人として、ヨーロッパに紹介されました。特に、彼のキリシタンとしての熱心な活動や、信仰に殉じたとされる最期は、ヨーロッパのキリスト教徒に感銘を与えたようです。ローマ教皇クレメンス8世が行長の死を悼んだという逸話も伝えられています 3 。
さらに、行長が領内で行ったとされる孤児院や施療院の建設といった人道的な社会福祉活動 10 は、キリスト教的な博愛精神の実践として高く評価されました。これらの活動は、彼を単なる武将ではなく、信仰心篤い領主としてヨーロッパに印象づけたと考えられます。
その結果、行長は「勇敢で優しくオペラにもなった人権派武将」と評されることもあったとされ 18 、実際に1756年にはオーストリアのザルツブルクで、行長(アウグスティヌス)を主人公としたラテン語の学園劇(オペラ形式の音楽劇)「Augustinus Tsunocamindono(アウグスティヌス ツノカミノ ドノ)」が上演されたという記録があります 18 。これは、彼の物語がヨーロッパにおいて一定の普遍性や劇的要素を持つものとして受け止められ、教育的な題材としても用いられたことを示しています。
小西行長が当時のヨーロッパでこのように注目され、肯定的に評価された背景には、いくつかの要因が考えられます。第一に、イエズス会宣教師による報告が、彼の信仰や人道的側面を強調して伝えたこと。第二に、彼の殉教的な最期が、当時のヨーロッパのキリスト教的価値観に合致し、共感を呼んだこと。そして第三に、当時のヨーロッパにおける異文化への関心の高まりや、海外でのキリスト教布教活動の成果を伝えるという宣教師側の意図も影響していた可能性があります。行長の物語は、遠い異国である日本のキリスト教徒の存在と、その信仰の篤さをヨーロッパに伝え、日本やキリスト教布教への関心を高める一助となったのかもしれません。
江戸時代、特に中期以降になると、小西行長の評価は日本国内で著しく低下する傾向を見せました。その背景には、いくつかの複合的な要因が考えられます。
第一に、関ヶ原の戦いで敗北し、徳川家康に敵対した西軍の主要武将であったという事実です。江戸幕府の支配体制が確立する中で、幕府の正当性を揺るがしかねない敗軍の将は、歴史叙述において否定的に描かれるか、あるいはその存在自体が希薄化される傾向にありました。
第二に、加藤清正の英雄化との対比です。同じ肥後を領有し、朝鮮出兵でも共に戦った清正は、江戸時代を通じて忠勇義烈の武将として民衆的な人気を獲得し、神格化されていきました。この清正の輝かしいイメージと対比される形で、行長の評価は相対的に低いものに留め置かれました 2 。
第三に、行長が熱心なキリシタン大名であったことです。江戸幕府はキリスト教を禁教とし、厳しく弾圧しました。このような時代状況において、キリシタン大名であった行長の存在は公に称揚されることはなく、むしろその信仰は否定的な評価の対象となりました 26 。
第四に、商人出身という出自です。武士の家柄を重んじる儒教的価値観が支配的であった江戸時代において、商人からの成り上がりである行長の経歴は、武士道徳の観点から必ずしも肯定的に評価されなかった可能性があります 67 。
こうした要因が絡み合い、小西行長は「商人上がりの臆病な武将」 18 といった歪んだイメージで語られることさえありました。彼の功績や複雑な人間性は覆い隠され、ある種の「抹殺」に近い状態で、歴史の表舞台から遠ざけられていたと言えるかもしれません。
しかし近年、このような従来の小西行長像を見直す動きが活発になっています。その大きなきっかけとなったのが、歴史学者・鳥津亮二氏による一連の研究、特にその著書『小西行長 : 「抹殺」されたキリシタン大名の実像 : 史料で読む戦国史』(八木書店、2010年)です 3 。
鳥津氏の研究は、行長が「抹殺」されたというよりも、関ヶ原の敗者として「つくられた行長」の虚像が後世に流布したという視点に立ち、現存する一次史料、特に行長自身が発給した書状などを丹念に読み解くことで、その実像に迫ろうとするものです 68 。これにより、従来見過ごされてきた行長の具体的な活動、例えば豊臣政権における彼の重要な役割(水軍の統括、外交交渉、領国経営など)、実務家としての高い能力、そしてキリシタンとしての信仰の篤実さなどが再評価されています。
このような学術的な再評価の動きと並行して、小西行長の居城があった熊本県宇土市などでは、行長の事績を顕彰し、その実像を広く伝えるための講演会やシンポジウムが継続的に開催されています 76 。
小西行長の歴史的評価の変遷は、歴史叙述がいかにその時代の支配的なイデオロギーや価値観、そして利用可能な史料によって影響を受けるかを示す顕著な例です。江戸時代の徳川幕府による統治イデオロギーや禁教政策、そして特定の人物の英雄化といった要因が、行長の評価を長らく不当に低いものに留め置いてきました。しかし、近年の実証的な研究は、一次史料の丹念な再検討を通じて、行長の商人出身ならではの実務能力、豊臣政権における重要な役割、そしてキリシタンとしての深い信仰といった多面的な側面を明らかにし、従来の「敗将」「卑劣な人物」といった虚像を覆す再評価の動きを加速させています。この評価の変遷は、歴史上の人物像が固定的なものではなく、新たな史料の発見や研究視点の転換によって、常に再構築されうることを示しています。
小西行長の生涯は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた戦国時代の激動、豊臣政権による天下統一とその後の朝鮮出兵という未曾有の対外戦争、そしてヨーロッパからもたらされたキリスト教という新たな価値観との出会いと葛藤を、一身に体現したものであったと言えます。
堺の商人という出自から身を起こし、宇喜多直家、そして豊臣秀吉という当代随一の権力者に見出されて武将となり、ついには肥後半国を領する大名にまで上り詰めた彼の経歴は、当時の社会における実力主義の台頭と身分制度の流動性を示す象徴的な事例です。商人として培った交渉術、経済感覚、そして国際的な視野は、水軍の指揮、兵站管理、外交交渉、さらには先進的な領国経営といった多岐にわたる分野で発揮され、豊臣政権を支える重要な柱の一つとなりました。
また、キリシタン大名としての彼の存在は、当時の日本における異文化受容の複雑な様相を映し出しています。個人的な信仰の深化と共に、領内での布教活動や社会福祉事業への取り組みは、彼の人間性の一端を示すものです。しかし、秀吉による伴天連追放令や、その後の関ヶ原の戦いにおける敗北は、彼の信仰と政治的立場との間に絶えざる緊張と葛藤をもたらしました。切腹を拒否し、信仰に殉じて斬首された最期は、その生涯を貫いた信仰の篤さを物語っています。
文禄・慶長の役においては、先鋒として軍功を挙げながらも、和平交渉の最前線に立ち、欺瞞工作という危険な手段を用いてまで戦争の終結を模索しました。その行動は、秀吉の強硬な意志と国際的な現実との狭間で苦悩する、一人の外交官としての姿を浮き彫りにします。
加藤清正との根深い対立は、単なる個人的な確執を超え、豊臣政権内部に存在した文治派と武断派の路線対立を象徴するものであり、政権の不安定化を招く一因ともなりました。
小西行長の生涯は、その異色の経歴、信仰、そして複雑な時代背景の中で下した数々の決断によって、多面的な評価を可能にします。関ヶ原の敗将として、あるいは朝鮮出兵の将として、長らく否定的なイメージで語られることもありましたが、近年の実証的な研究によって、その実務能力や外交手腕、そして信仰のあり方など、新たな側面からの再評価が進んでいます。
彼の生涯は、個人の能力と信仰がいかに時代の大きな奔流と複雑に絡み合い、歴史を形成していくかを示す貴重な事例です。その波乱に満ちた生涯と、そこに刻まれた苦悩と栄光は、現代の我々に対しても、歴史の多層性や人間理解の深さについて多くの示唆を与えてくれます。小西行長は、日本の戦国時代史を理解する上で欠くことのできない重要な人物の一人として、今後もさらなる研究と多角的な再評価が進むことが期待されます。
以下に、小西行長の生涯を理解する助けとなる略年表を示します。
表2:小西行長 略年表
年代(西暦) |
主な出来事 |
役職・身分など |
典拠例 |
永禄元年(1558年)頃 |
京都にて誕生(推定) |
小西隆佐の次男 |
1 |
時期不詳 |
備前岡山の商家へ養子に出る。宇喜多直家に見出され家臣となる。 |
商人、宇喜多氏家臣 |
1 |
天正8年(1580年)頃 |
宇喜多直家の使者として羽柴(豊臣)秀吉と面会し、その家臣となる。 |
豊臣秀吉家臣 |
4 |
天正11年(1583年)頃 |
舟奉行に任じられる。 |
舟奉行 |
7 |
天正12年(1584年) |
高山右近の勧めなどによりキリスト教の洗礼を受ける(洗礼名:アウグスティヌス)。 |
キリシタン |
2 |
天正13年(1585年) |
四国征伐に従軍し、兵站を担当。小豆島を与えられる。 |
摂津守 |
6 |
天正15年(1587年) |
九州征伐に従軍。伴天連追放令発布。高山右近を匿う。 |
日向守(一時) |
6 |
天正16年(1588年) |
肥後国南半を与えられ、宇土城主となる(約14万6千石)。 |
肥後宇土城主 |
7 |
天正17年(1589年) |
宇土城築城開始。天草五人衆一揆勃発、加藤清正と共に鎮圧。 |
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3 |
天正19年(1591年) |
宗義智と共に朝鮮使節を秀吉に偽って服属使と報告。 |
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14 |
文禄元年(1592年) |
文禄の役勃発。一番隊主将として朝鮮へ出兵。釜山、漢城、平壌などを攻略。 |
日本軍一番隊主将 |
2 |
文禄2年(1593年) |
明軍の反撃により平壌から撤退。明との和平交渉に関与、欺瞞工作を行う。 |
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14 |
慶長元年(1596年) |
明使の来日により和平交渉の欺瞞が露見。秀吉の怒りを買い死罪を宣告されるも助命。 |
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7 |
慶長2年(1597年) |
慶長の役勃発。再び朝鮮へ出兵。蔚山城の戦いなどに参加。 |
日本軍右軍一番隊 |
14 |
慶長3年(1598年) |
豊臣秀吉死去。日本軍、朝鮮より撤退開始。順天城などで防戦。 |
|
3 |
慶長5年(1600年) |
関ヶ原の戦い。西軍の主力として参戦するも敗北。伊吹山中に逃亡後、捕縛される。同年10月1日、京都六条河原にて石田三成、安国寺恵瓊と共に斬首される(享年43歳または46歳)。 |
西軍の将 |
2 |