戦国時代の出羽国は、京の中央政権から遠く離れた「辺境」の地であり、そこでは中央の権威が直接的に及ぶことは稀であった。結果として、安東(秋田)氏、戸沢氏、大宝寺(武藤)氏、そして最上氏といった在地の大名・国人領主たちが互いに領土を削り合い、まさに「群雄割拠」の様相を呈していた 1 。この複雑で流動的な情勢の中、出羽国南部の仙北三郡(雄勝、平鹿、仙北)に強大な勢力を築いたのが、本稿の主題である小野寺氏である。
小野寺氏の出自は、下野国(現在の栃木県)に遡る。藤原姓を称し、鎮守府将軍・藤原秀郷の流れを汲む名門、山内首藤氏の庶流とされ、鎌倉時代初期の文治5年(1189年)、奥州合戦における戦功により、源頼朝から出羽国雄勝郡などの地頭職を与えられ、この地に根を下ろした 3 。その後、南北朝の動乱を経て、室町時代には足利将軍家に直接仕える「京都御扶持衆」としての地位を確立する 3 。これは、周辺の国人領主たちが鎌倉府の管轄下に置かれる中で、小野寺氏が幕府と直接のパイプを持つことで、一段高い権威と格式を保持していたことを意味する。この伝統的な中央との繋がりは、後の輝道の時代における織田信長や豊臣秀吉といった天下人との交渉においても、重要な素地となった。
小野寺輝道(おのでら てるみち、景道とも)は、この仙北小野寺氏の第13代当主にあたる人物である。彼の生涯は、まさに波乱に満ちたものであった。幼少期に家臣の謀反によって父を非業の死で失い、自身は隣国への亡命を余儀なくされるという悲劇からその物語は始まる。しかし、彼は不屈の精神で雌伏の時を耐え、やがて支援者を得て故郷に帰還。父の仇を討ち、分裂した家中を再興するという劇的な復活を遂げる。
輝道は、旧来の山城である稲庭から、横手盆地の中心に位置する交通の要衝・横手へと本拠を移し、そこを拠点に勢力を拡大。平鹿・雄勝両郡を完全に掌握し、小野寺氏の歴史における最大版図を築き上げた 8 。この功績から、彼は小野寺氏「中興の祖」と称されるにふさわしい。
しかし、彼の治世は決して平穏ではなかった。北に勢力を伸張する山形の大名、宿敵・最上義光との絶え間ない抗争は、輝道とその子・義道の代を通じて小野寺氏の国力を消耗させ続けた。輝道が築き上げた全盛期は、同時に、彼の死後、一族が急速に衰退していく未来への伏線が張り巡らされた時代でもあった。本稿では、この出羽の驍将・小野寺輝道の生涯を、その出自から家の再興、全盛期の統治、そして衰亡の序曲に至るまで、詳細かつ徹底的に追跡・分析するものである。
年代 |
出来事 |
典拠 |
天文3年 (1534) |
小野寺稙道の四男として生誕。幼名は四郎丸。 |
9 |
天文15年 (1546) |
父・稙道、家臣の大和田光盛らの謀反により湯沢城で自害(平城の乱)。輝道は庄内の大宝寺氏を頼り亡命。 |
11 |
弘治元年 (1555) |
大宝寺氏の支援を受け、父の仇である大和田光盛・金沢金乗坊らを討伐し、横手城を奪還。 |
14 |
天文23年 (1554) |
横手城(朝倉城)を築城、あるいは大規模な改修を行う。本拠を稲庭から横手へ移す。 |
15 |
天正10年 (1582) |
織田信長への取次を、信長側近の千福遠江守に依頼する書状を送る。 |
18 |
天正14年 (1586) |
有屋峠にて最上義光の軍勢と激突(有屋峠の戦い)。 |
12 |
天正18年 (1590) |
子の義道が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣。奥州仕置により所領を安堵される。 |
10 |
文禄4年 (1595) |
当主の義道、最上義光の謀略により、輝道の代からの忠臣・八柏道為を誅殺。 |
14 |
慶長2年 (1597) |
逝去。享年64。 |
10 |
輝道の父である小野寺氏第12代当主・稙道(たねみち)は、戦国前期の出羽において、先進的な領国経営を目指した意欲的な大名であった。彼は上洛して室町幕府に仕え、時の第10代将軍・足利義稙から偏諱(名前の一字を賜ること)を受けて「稙道」と名乗るなど、中央政権との強固な繋がりを背景に、自らの権威を高めていた 12 。
稙道は、湯沢城を拠点としつつ、稲庭、川連、西馬音内など雄勝郡・平鹿郡の要地に一族を配置する惣領制的な支配を強化し、小野寺氏の戦国大名化を加速させた 13 。その勢力は南は最上郡(現在の山形県最上地方)、北は豊島郡(現在の秋田県河辺郡)にまで及び、周辺の六郷氏や戸沢氏といった国人領主に対して偏諱を与えるなど、地域の盟主としての地位を固めつつあった。そして、最終的には横手盆地の中心である横手城に本拠を移すことを構想していたとされる 13 。
しかし、こうした稙道の急進的な権力集中と勢力拡大は、旧来からの権益を持つ家臣団や在地勢力との間に深刻な軋轢を生んでいた。特に、横手城主であった大和田光盛(通称、横手佐渡守)や、金沢(現在の横手市金沢)の鎮守である金沢八幡宮の別当・金乗坊といった勢力は、稙道の支配強化を自らの地位を脅かすものとして、強い警戒感と反発を抱いていた 12 。
天文15年(1546年)5月27日、燻っていた対立はついに爆発する。横手城主・大和田光盛と金沢金乗坊は共謀して兵を挙げ、主君である小野寺稙道を居城の湯沢城に急襲した 9 。この突然の謀反に稙道は抗しきれず、城内で自害に追い込まれた。享年60であったとされる。この主君殺しという下剋上は、横手城の南に位置した「平城」が関わっていたとの伝承から「平城の乱」とも呼ばれ、小野寺宗家の権威を根底から揺るがす大事件となった 14 。
この謀反の成功により、大和田光盛は仙北地方の実権を掌握し、小野寺氏の領国は簒奪者の手に落ちた。父を失った輝道は、この時まだ13歳の少年(四郎丸)に過ぎず、なすすべもなかった。
主家を滅ぼした謀反人たちが支配する故郷に、もはや輝道の居場所はなかった。彼はわずかな供回りと共に、西方の庄内地方(現在の山形県庄内地方)へと落ち延びる 10 。そして、当時庄内を支配していた戦国大名・大宝寺氏を頼った。
この亡命は、単なる避難以上の戦略的な意味合いを持っていた。大宝寺氏にとって、隣接する仙北小野寺氏の正統な後継者を庇護することは、将来的に小野寺家の内政に介入し、自らの影響力を拡大するための絶好の口実となり得た。一方、輝道にとって大宝寺氏は、生き延びるための最後の砦であると同時に、いつか故郷を奪還するための最も有力な後ろ盾であった。この亡命生活を通じて築かれた大宝寺氏との同盟関係は、輝道が復讐と再興の戦いを開始する上で、決定的に重要な基盤となるのである 11 。輝道は庄内の地で数年間を過ごし、武将として成長しながら、虎視眈々と反攻の機会を窺うこととなる。
人物名 |
読み |
続柄・役職 |
概要 |
典拠 |
小野寺 輝道 |
おのでら てるみち |
本稿の主人公 |
小野寺氏第13代当主。景道とも。父の仇を討ち、小野寺氏の全盛期を築く。 |
8 |
小野寺 稙道 |
おのでら たねみち |
輝道の父 |
小野寺氏第12代当主。家臣の大和田光盛らの謀反により横死。 |
12 |
小野寺 義道 |
おのでら よしみち |
輝道の次男・後継者 |
小野寺氏第14代当主。関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易される。 |
10 |
小野寺 茂道 |
おのでら しげみち |
輝道の庶長子 |
西馬音内城主。有能な武将であったが、後に最上氏に降る。 |
11 |
大和田 光盛 |
おおわだ みつもり |
輝道の仇敵 |
横手城主。横手佐渡守。稙道を殺害した謀反の中心人物。 |
9 |
大宝寺 義氏 |
だいほうじ よしうじ |
輝道の支援者 |
庄内の戦国大名。亡命中の輝道を庇護し、その復権を助けた。 |
11 |
最上 義光 |
もがみ よしあき |
輝道・義道の宿敵 |
山形城主。出羽の覇権を巡り、小野寺氏と激しく争った。 |
26 |
八柏 道為 |
やがしわ みちため |
小野寺家の重臣 |
輝道・義道の二代に仕えた智謀の将。最上氏の謀略により誅殺される。 |
14 |
庄内へ亡命した輝道は、大宝寺氏の庇護の下、単に身を潜めていたわけではなかった。彼はこの雌伏の期間に元服し、武将としての心身を鍛え上げると同時に、旧臣たちと密かに連絡を取り合い、故郷の情勢を注視し続けていた。父・稙道が築き上げた支配体制は謀反によって崩壊したものの、小野寺氏の旧領内には依然として宗家の復興を願う勢力が存在していた。輝道は彼らの期待を一身に背負い、復讐の戦いに勝利するための周到な準備を進めていたのである。
そして天文15年(1546年)の父の死から9年後(あるいは天文21年(1552年)の父の死から3年後という説もある 14 )、弘治元年(1555年)、ついにその時は訪れた。輝道は、盟友である大宝寺氏から強力な軍事支援を取り付けることに成功し、仙北の旧領奪還に向けて反攻の狼煙を上げたのである 14 。
輝道の帰還軍は、大宝寺勢を中核として、輝道に呼応した旧臣たちを加え、破竹の勢いで仙北へと進撃した。彼らがまず目指したのは、謀反人たちの本拠地であり、父・稙道が最後に目指した因縁の地、横手城であった。
輝道は、父の仇である大和田光盛(横手佐渡守)と金沢金乗坊の軍勢と激突。積年の恨みを晴らすかのような猛攻の末、見事にこれを打ち破り、両名を滅ぼした 9 。この勝利によって、輝道は父の無念を晴らすとともに、簒奪されていた小野寺家の本領を完全に回復した。この一連の戦いは、輝道の武将としての力量と、小野寺宗家の正統性を内外に強く印象付ける、華々しい凱旋劇となった。
故郷への帰還を果たした輝道は、単に父の時代の体制を復活させるだけでは満足しなかった。彼は、小野寺氏の将来を見据えた、より大胆な領国経営構想を抱いていた。その象徴が、本拠地の移転である。
小野寺氏は鎌倉時代以来、雄勝郡の稲庭城を代々の居城としてきた 28 。稲庭城は山間部に位置する典型的な山城であり、防御には優れているものの、領国全体を効率的に支配し、経済活動を活発化させるには不便な場所であった。一方、父・稙道が最後に目指し、そして輝道が奪還した横手城は、横手盆地の中心に位置し、羽州街道と秋田街道が交差する交通の要衝であった 17 。輝道はこの地こそが、新たな時代の小野寺氏の拠点にふさわしいと考えた。
この決断は、小野寺氏の戦略が、山に籠る防衛的な地方領主から、平野部を掌握し、交通と商業を支配する広域的な戦国大名へと転換したことを明確に示している。輝道は天文23年(1554年)頃、この横手城(別名、朝倉城、阿櫻城)を大規模に築城、あるいは改修したと伝えられる 15 。城の普請にあたっては、石垣を多用するのではなく、土を盛り固めた土塁や切り立った崖(切岸)を主とした。そして、その土塁が雨で崩れるのを防ぐ土留めと、敵兵が急斜面を這い登れないようにする滑り止めの目的を兼ねて、土手の一面に韮(にら)を植え付けたとされる。このユニークな築城法から、横手城は「韮城(にらじょう)」という別名でも呼ばれるようになった 16 。この逸話は、華美な装飾よりも実用性を重んじた、輝道の合理的で質実剛健な性格を物語っている。こうして、輝道の手によって生まれ変わった横手城は、以後、小野寺氏が滅亡するまで、その政治・軍事・経済の中心地として機能していくことになる。
横手城に新たな本拠を定めた輝道は、ここを核として領国支配体制の再構築に着手した。彼は、平鹿郡・雄勝郡にまたがる広大な領地の要所に、自らの一族や信頼の厚い重臣を城主として配置し、強力な支城網を形成した。これは、宗家である横手城を頂点とし、各支城が衛星のように連携して領国全体を防衛・統治する、戦国大名によく見られる惣領制的な支配体制であった 19 。
具体的な配置を見ると、旧本拠地である稲庭城には伝統的に嗣子が置かれ 13 、南の玄関口である湯沢城にも一族が配された 31 。西の由利郡方面への抑えとして重要な西馬音内城には、庶長子であった小野寺茂道が 11 、大森城には弟の小野寺康道が 25 、そして川連城には四男の小野寺道俊が入るなど 32 、血縁者を巧みに配置して支配の基盤を固めている。この支城ネットワークによって、輝道は横手盆地一帯に盤石な支配を確立し、小野寺氏の権勢は頂点を迎えることになった。
城郭名 |
読み |
所在地(推定) |
配置された人物 |
役割・備考 |
典拠 |
横手城 |
よこてじょう |
横手市城山町 |
小野寺輝道・義道 |
本拠。韮城とも。政治・軍事の中心。 |
16 |
稲庭城 |
いなにわじょう |
湯沢市稲庭町 |
小野寺氏嗣子 |
旧本拠。鎌倉時代以来の伝統的な居城。 |
13 |
湯沢城 |
ゆざわじょう |
湯沢市古館山 |
小野寺一族 |
領国南部の拠点。最上氏との境目。 |
13 |
西馬音内城 |
にしもないじょう |
羽後町西馬音内 |
小野寺茂道(輝道庶長子) |
領国西部の拠点。由利郡方面への抑え。 |
11 |
大森城 |
おおもりじょう |
横手市大森町 |
小野寺康道(輝道弟) |
平鹿郡内の重要支城。 |
25 |
川連城 |
かわつらじょう |
湯沢市川連町 |
小野寺道俊(輝道四男) |
雄勝郡内の重要支城。 |
32 |
沼館城 |
ぬまだてじょう |
横手市雄物川町 |
小野寺一族 |
平鹿郡における勢力拡大の足場。 |
13 |
増田城 |
ますだじょう |
横手市増田町 |
小野寺一族 |
雄勝郡東部の拠点。商業地として発展。 |
33 |
小野寺輝道が実施した具体的な経済政策、例えば鉱山開発や治水事業、楽市・楽座のような商業振興策に関する直接的な史料は、残念ながら乏しい 4 。しかし、断片的な記録や後世の伝承から、彼の治世下における領国経済の様相を推察することは可能である。
まず特筆すべきは、地場産業の萌芽である。秋田県南部の特産品として名高い 川連漆器 は、その起源が「稲庭城主小野寺氏が、家臣の内職として武具に漆を塗らせたこと」に始まると伝えられている 34 。これは、輝道、あるいはその父祖の代から、領主が地域の豊富な森林資源(漆の木)に着目し、それを活用した手工業を奨励していた可能性を示唆している。武具の生産という軍事的な必要性から始まった技術が、やがて日用の器へと応用され、地域の重要な産業へと発展していく素地が、この時代に作られたと考えられる。
また、輝道が本拠を横手という交通の要衝に移したこと自体が、経済を重視する姿勢の表れであった。街道と河川の整備は、物流を活発化させ、経済発展の基盤となる 35 。横手城下には商工業者が集住し、城下町が形成されていったことは想像に難くない。織田信長が行ったような革新的な「楽市・楽座」の記録こそないものの 36 、城下町の繁栄は領主にとって重要な歳入源であり、輝道もその発展に意を払っていたはずである。小野寺氏の支配下で、横手盆地は農業を基盤としつつ、商業活動が盛んに行われる地域へと成長していった 33 。
輝道の晩年から、家督を継いだ子の義道の時代にかけて、小野寺氏の領国経営は大きな転換点を迎える。天下を統一した豊臣秀吉による、全国的な支配政策の波が、遠い出羽国にまで及んできたからである。その象徴が「太閤検地」であった。
太閤検地は、全国の田畑を統一された基準で測量し、石高(米の生産量)を確定させることで、大名の軍役負担や農民の年貢を明確化する画期的な政策であった。しかし、それは同時に、大名が伝統的に有してきた領内の土地に対する支配権(検地権)を、豊臣政権が掌握することを意味した。
天正18年(1590年)から翌19年にかけて仙北地方で検地が実施されると、これに強く反発した在地領主や農民たちが大規模な一揆(仙北一揆)を引き起こした 19 。小野寺氏は、この一揆を十分に鎮圧できなかった責任を豊臣政権から厳しく問われることになった。その結果、小野寺氏は所領の3分の1にあたる雄勝郡の一部などを没収されるという、極めて大きな打撃を受けた 17 。
この出来事は、小野寺氏にとって二重の意味で深刻であった。一つは、単純な領土と経済基盤の喪失である。もう一つは、より根源的な問題、すなわち中央権力との関係性の変化である。かつて小野寺氏は、室町幕府という中央の権威を後ろ盾として、出羽における自らの地位を高めてきた 3 。輝道もまた、織田信長との関係構築を試みていた。しかし、秀吉の下で確立された強力な中央集権体制は、もはや地方大名が自らの権威付けに利用できるような生易しいものではなかった。それは、大名の領国支配に直接介入し、その生殺与奪の権すら握る、絶対的な上位権力であった。太閤検地とそれに伴う領地没収は、輝道が築き上げた小野寺氏の栄華が、時代の大きなうねりの前には盤石ではあり得ないことを、残酷なまでに突きつける出来事だったのである。
小野寺輝道・義道父子の治世は、隣国・山形の大名である最上義光との絶え間ない抗争の歴史であったと言っても過言ではない。最上氏は山形盆地を本拠とし、北進して庄内地方や仙北地方への勢力拡大を悲願としていた。一方、横手盆地を支配する小野寺氏にとって、最上氏の北進は自らの存立を脅かす最大の脅威であり、両者の衝突は領土的に見て不可避であった。
両者の対立が激化した象徴的な戦いが、天正14年(1586年)に起きた「有屋峠の戦い」である。有屋峠は、現在の秋田・山形県境に位置し、当時の羽州街道が通過する交通・軍事上の要衝であった 29 。この年、小野寺義道(輝道は隠居していたか、後方支援に回っていたと考えられる)は、最上領への進攻を企図、あるいは最上軍の侵攻を迎え撃つ形で、この峠に大軍を布陣した 19 。対する最上義光も、長男の義康を総大将とし、勇将・楯岡満茂を副将とする主力軍を派遣。両軍は峠を挟んで激しく衝突した。
この戦いの詳細な経過は軍記物に頼る部分が大きいが、『奥羽永慶軍記』などによれば、一進一退の激戦が繰り広げられた末、双方ともに大きな損害を出し、決着がつかないまま引き分けた「傷み分け」に終わったと伝えられる 12 。この戦いは、小野寺氏が最上氏の強大な軍事力と正面から渡り合い、その侵攻を食い止めるだけの力を持っていたことを示す一方で、これ以降、最上氏からの軍事的圧力が恒常化していく契機ともなった。
「羽州の狐」とも称される最上義光は、正面からの武力衝突だけでなく、謀略や調略を駆使した戦いを得意とした 41 。彼は、小野寺氏の支配体制が、宗家を中心としながらも、実際には独立性の高い国人領主たちの連合体であるという構造的な脆弱性を見抜いていた 19 。そして、その弱点を突き、内部から切り崩していくという執拗な謀略戦を仕掛けたのである。
義光の最初の標的となったのは、もともと小野寺氏の勢力下にあった鮭延城主・鮭延秀綱であった。義光は秀綱を巧みに懐柔して最上方に寝返らせ、彼を仙北攻略の案内役とした 19 。さらに、鮭延秀綱を通じて、関口氏、山田氏、柳田氏といった仙北西部の国人たちに内応を働きかけた。そして、輝道の庶長子であり、西馬音内城主として重きをなしていた小野寺茂道までもが、宗家との確執もあってか、一時は最上氏に降るという事態に至った 19 。こうした内部からの切り崩しは、小野寺氏の結束力を著しく削ぎ、領国を蚕食していく上で、正面からの合戦以上に効果的な戦略となった。
地方での熾烈な生存競争の渦中にありながら、輝道は中央の情勢にも鋭い視線を向けていた。彼の外交的視野の広さを示す貴重な史料が現存している。天正10年(1582年)8月1日付で、輝道が織田信長の側近であった千福長康(遠江守)に宛てた書状である 18 。この書状で輝道は、信長への御礼の進物を献上する際の取次を依頼している。注目すべきは、この書状が書かれた日付である。これは本能寺の変(同年6月2日)のわずか2ヶ月後であり、輝道のもとにはまだ信長の死という衝撃的な情報が届いていなかったことを示している。変がなければ、小野寺氏は信長との間に正式な主従関係に近いものを結んでいた可能性が高い。この一点からも、輝道が、旧来の足利将軍家から新たな天下人である織田信長へと、外交の軸足を移そうとしていた、その先見性が窺える。
信長の死後、天下統一事業を引き継いだのは豊臣秀吉であった。輝道の子・義道は、天正18年(1590年)、秀吉が北条氏を滅ぼした小田原征伐に参陣した 10 。この参陣により、戦後に行われた「奥州仕置」において、小野寺氏はその所領を安堵され、豊臣政権下の大名として正式に認知された 10 。
輝道が始めた中央との関係構築は、息子の代でひとまず結実し、小野寺家の存続を保障したかに見えた。しかし、それは同時に、地方の独立した勢力であった小野寺氏が、豊臣政権という巨大な中央集権体制のヒエラルキーの中に組み込まれることを意味していた。この新たな主従関係は、かつてのように自らの権威を高めるための道具ではなく、絶対的な服従を求めるものであった。輝道の外交的先見性は、一族を滅亡から救うための最善の策であったが、それはもはや、時代の大きな流れに抗うことができない、地方大名の限界をも示していたのである。
自らの手で小野寺家の全盛期を築き上げた輝道も、やがて老境に入り、次代への家督継承が大きな課題となった。史料によれば、輝道は家督を次男(嫡男と目される)の義道に譲り、自身は吉田城に隠居したとされる 10 。
しかし、この家督継承は、単純なものではなかった可能性がある。輝道には、義道の他に、西馬音内城主を務める庶長子の茂道がいた。茂道は由利郡方面の抑えを任されるなど、武将としての能力も高く、家中で一定の存在感を示していた 25 。兄弟間の力関係や、彼らを支持する家臣団の動向が、輝道の晩年から義道の治世初期にかけて、家中の不安定要因となっていたことは十分に考えられる。この潜在的な対立構造が、後に最上義光の謀略がつけ入る隙を与える一因となった。
輝道の晩年、そして小野寺家の衰退を決定づけた悲劇的な事件が、文禄4年(1595年)に起こる。当主となっていた義道が、輝道の代からの重臣であり、家中随一の智謀の将と謳われた八柏大和守道為(やがしわ やまとのかみ みちため)を、謀反の疑いにより誅殺したのである 12 。
この事件は、宿敵・最上義光が仕掛けた巧妙な謀略の集大成であった。義光は、小野寺家中の猜疑心と、若き当主・義道の経験不足を見抜き、そこに楔を打ち込んだ。『奥羽永慶軍記』などの記述によれば、最上方は「八柏道為が最上家に内通している」という内容の偽の密書を作成し、それをわざと宛先を間違えたかのように装って、義道の弟が守る城に届けさせた 14 。
この偽書を鵜呑みにした義道は、疑心暗鬼に駆られ、道為の忠誠を疑い始める。そして、弁明の機会も十分に与えぬまま、道為を本拠の横手城に呼び寄せると、城下の大手門前にある「中の橋」の上で、待ち伏せた兵に襲わせて暗殺した 14 。
この忠臣誅殺は、最上義光の謀略の成功であると同時に、小野寺家が内包していた弱さが露呈した結果であった。独立性の高い国人領主の連合体という構造は、もともと内部不和の火種を抱えやすい 19 。そこに、経験の浅い若き当主・義道の焦りや、道為の大きな影響力に対する嫉妬心のようなものがあったとしても不思議ではない。最上の偽書は、まさにこの燻っていた火薬庫に投じられた一本の松明であった。
輝道はこの時、隠居の身であったとはいえ存命であり、この愚挙を止められなかったものか、あるいは止める力がすでになかったのか、その心中は察するに余りある。智謀の将であった道為の死は、小野寺氏から最も有能な「頭脳」を奪い去っただけでなく、他の家臣たちに「次は我が身か」という恐怖と不信感を植え付け、家中の結束を崩壊させた 21 。輝道が心血を注いで再興した小野寺家は、彼の目の前で、後継者の手によって自壊への道を突き進み始めたのである。
慶長2年(1597年)、小野寺輝道はその波乱の生涯を閉じた 9 。享年64。父の横死という絶望の淵から立ち上がり、家を再興し、一族にかつてないほどの栄華をもたらした名将は、その最晩年に、自らが築き上げたものが内側から崩れ落ちていく様を、なすすべもなく見届けながらこの世を去った。彼の死は、小野寺家の全盛期の終わりと、その後の急速な衰亡を告げる鐘の音であった。
小野寺輝道の生涯を振り返るとき、その功績と限界は表裏一体のものとして浮かび上がってくる。
彼の最大の功績は、疑いなく、父の仇を討ち、分裂状態にあった家を再興したその不屈の精神と行動力にある。そして、本拠を横手に移し、横手盆地を中心とした広大な領域を掌握することで、小野寺氏の歴史上、最も輝かしい全盛期を築き上げた政治的・軍事的才覚は高く評価されるべきである。さらに、織田信長との接触に見られるように、中央の情勢を的確に把握し、自家の生き残りを図ろうとした外交的視野の広さも、当時の東北地方の武将としては傑出したものであった。
一方で、その限界もまた明らかである。輝道が築いた栄華は、常に宿敵・最上義光の執拗な攻勢と謀略の脅威に晒され続けた。彼は最上氏の侵攻を幾度となく食い止めたが、その勢いを完全に削ぐことはできず、結果として国力を消耗し続けた。そして、最大の失策は、後継者問題にあったと言わざるを得ない。彼が家督を譲った義道は、結果として最上の謀略に嵌り、家中を分裂させ、衰退を決定づける致命的な過ちを犯した。輝道がなぜこの悲劇を防げなかったのか、その晩年の指導力には疑問符が付く。彼の強固なリーダーシップによって成り立っていた小野寺家の支配体制は、彼の引退と共に、その脆弱性を露呈してしまったのである。
輝道の死からわずか3年後の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この国家的な動乱において、当主・小野寺義道は致命的な判断ミスを犯す。彼は、長年の宿敵である最上義光が徳川家康の東軍に与したことから、これと対立する上杉景勝の西軍に味方し、最上領への侵攻を開始したのである 27 。
しかし、関ヶ原の本戦はわずか一日で東軍の圧勝に終わり、西軍は敗北。後ろ盾を失った義道は、周辺の東軍方諸将の攻撃を受けて孤立し、降伏を余儀なくされた。戦後、徳川家康は西軍に与した大名に厳しい処分を下し、小野寺義道も例外ではなかった。慶長6年(1601年)、小野寺氏は所領をすべて没収され、義道自身は石見国津和野(現在の島根県津和野町)へと配流の身となった 3 。ここに、鎌倉時代から400年以上にわたって出羽国に君臨した戦国大名・小野寺氏は、歴史の表舞台からその姿を消したのである。
戦国大名としての小野寺氏は滅亡したが、輝道が遺したものは決して小さくない。彼が築城した横手城は、小野寺氏改易後、秋田に入封した佐竹氏の重要な支城として機能し続け、江戸時代を通じて地域の政治・経済の中心であり続けた 16 。その城跡は今も横手公園として市民に親しまれ、輝道の時代を偲ばせている。
また、川連漆器にその起源が伝えられるように 34 、小野寺氏の治世は地域の文化や産業の礎を築いた。輝道は、戦国末期の東北地方という動乱の時代にあって、一度は確かな光芒を放った「山北の雄」であった。彼の生涯は、中央の大きな権力から遠く離れた地にあって、一人の地方領主が、いかにして自らの力で勃興し、時代の大きなうねりに抗い、そしてやがて飲み込まれていったかを示す、極めて示唆に富んだドラマチックな一例として、後世に記憶されている。