最終更新日 2025-06-06

尼子国久

「尼子国久」の画像

尼子国久と新宮党興亡史:戦国出雲における権力と悲劇

序章

本報告書は、戦国時代の出雲国にその名を刻んだ武将、尼子国久(あまご くにひさ)の生涯、彼が率いた精強な軍事組織「新宮党(しんぐうとう)」の実態、そしてその衝撃的な粛清事件の真相と影響について、現存する史料および研究成果に基づき、多角的に明らかにすることを目的とする。尼子国久は、尼子氏の勢力拡大期において中心的な役割を担った武将であり、その武勇は広く知られている。しかし同時に、宗家との複雑な関係や、新宮党の強大化は、尼子氏内部に深刻な軋轢を生み、最終的には悲劇的な結末を迎えることとなった。

尼子国久という人物、そして彼が率いた新宮党の存在は、戦国大名尼子氏の権力構造と、その興隆から衰退に至る過程を理解する上で、避けて通ることのできない重要な要素である。新宮党は尼子氏の軍事力の核として、その最盛期を支えた一方で、その独立性の高さは宗家の権力基盤を揺るがしかねない潜在的な脅威ともなり得た。新宮党の粛清事件は、単に尼子氏の軍事力を低下させたに留まらず、家中の統制や国人衆の離反といった、より広範な問題へと波及し、結果として戦国大名としての尼子氏の終焉を早めた可能性が指摘されている。尼子国久と新宮党の動向は、守護大名から戦国大名へと移行する過渡期における、一族内の権力分有と集中の相克を象徴する事例として、戦国時代史研究において重要な意味を持つと言えよう。

第一章:尼子国久の出自と初期の活動

生い立ちと尼子氏における位置づけ

尼子国久は、明応元年(1492年)に、出雲国の戦国大名である尼子経久(つねひさ)の次男として誕生した 1 。尼子氏は、京極氏の守護代から身を起こし、経久の代に戦国大名として独立を果たし、山陰山陽に広大な勢力圏を築き上げた一族である 2 。国久には兄に政久(まさひさ)、弟に興久(おきひさ)がいた 3 。経久の次男という出自は、国久が尼子氏の中枢に連なる血筋であり、将来的に一族内で重要な役割を担うことが期待されていたことを示している。戦国時代において、当主の兄弟はしばしば重要な軍事指揮官や後見役として家を支える一方で、家督相続を巡る争いの火種となることも少なくなかった。国久の立場もまた、こうした両側面を内包していたと考えられる。兄・政久の早逝(時期や詳細は不明ながら、国久が経久の後継者である晴久の後見役に任じられた背景には、政久の不在が影響した可能性が考えられる)は、次男である国久の尼子家中における相対的な重要性を高めた一因と言えるかもしれない。

改名と青年期

永正9年(1512年)頃、尼子国久は室町幕府の管領であった細川高国(ほそかわ たかくに)より偏諱(へんき:諱の一字を与えられること)を賜り、「国久」と改名した 1 。この事実は、当時の尼子氏が中央政権である室町幕府との連携を意識し、その権威を背景に自らの地位を固めようとしていた戦略の一端を窺わせる。また、国久個人にとっても、尼子一門の有力な構成員として公に認められ、政治的なキャリアを歩み始める上での重要な画期であったと言えよう。当時の武家社会において、有力者からの偏諱は一種のステータスシンボルであり、尼子氏が細川高国という幕府の実力者との関係を構築しようとしていたことは、その勢力伸長の巧みさを示すものである。この時期の国久の具体的な活動に関する史料は乏しいものの、武将としての経験を積み、その頭角を現し始めていたと推察される。

第二章:新宮党の棟梁としての尼子国久

新宮党の成立と組織構成

尼子国久がその名を後世に強く印象付けることになったのは、彼が率いた「新宮党」の存在によるところが大きい。新宮党は、尼子氏の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう、現在の島根県安来市広瀬町)の北麓に位置する新宮谷(しんぐうだに)に居館を構えていたことから、その名で呼ばれるようになった 3 。この軍事集団は、尼子氏家中の精鋭として知られ、尼子一門による親衛隊的な役割を担っていたと考えられている 4

新宮党の構成員は、棟梁である尼子国久を中心に、その子である誠久(さねひさ、またはまさひさ)、敬久(たかひさ)、豊久(とよひさ)といった国久の一族が中核を成していた 3 。この血縁的な結束の強さが、新宮党の強固な軍事力の源泉の一つであったと推測される一方で、その排他性が後に尼子宗家との間に軋轢を生む一因となった可能性も否定できない。その他、関連する人物として、尼子久幸(ひさゆき)の名も挙げられるが、彼と国久との関係性や新宮党における具体的な役割については、さらなる検討が必要である 4 。また、誠久の子である氏久(うじひさ)や、後に尼子再興軍の総大将となる勝久(かつひさ)も新宮党に連なる人物として知られている 4

新宮党の居館が月山富田城の防衛上重要な地点に置かれていたことは、彼らが単なる私兵集団ではなく、尼子氏全体の軍事戦略において枢要な位置を占めていたことを示唆している。

新宮党の軍事力と経済的基盤

新宮党は、その軍事力において尼子氏の「柱石」と評されるほどの存在であった 7 。その勇名は近隣諸国に鳴り響き、尼子氏が周辺地域へ勢力を拡大する際には、常に先陣を切って活躍したと伝えられている 3 。この強力な軍事力は、それを支える強固な経済的基盤によって成り立っていた。

新宮党の経済的基盤は、主に出雲国内の広大な所領とその権益にあった。具体的には、尼子国久の養子先であった吉田氏が有していた出雲国東部の地域、そして国久の末弟にあたる塩冶興久(えんや おきひさ)が謀反を起こして討伐された後、その遺領となった出雲国西部の塩冶地域などを継承し、支配していた 4 。特に塩冶郷は、斐伊川や宍道湖の水運の要衝であり、穀倉地帯でもあることから経済的価値が非常に高く、新宮党の大きな財源となっていたと考えられる 8

さらに、新宮党は杵築大社(現在の出雲大社)に関連する権益にも深く関与していた。尼子宗家が杵築大社の経済力や軍事力を直接管理下に置こうとした際に生じた様々な問題において、国久率いる新宮党の仲介や調整能力に頼らざるを得ない状況があったことが史料から確認されている 4 。これは、西出雲における尼子氏の支配が、国久を介した間接的なものであったことを示している。国久が塩冶氏の旧臣であった大熊久家などを通じて、杵築大社との関係を維持・強化していたことも指摘されており 8 、新宮党が単なる軍事組織ではなく、出雲国内に広大な影響力を持つ半ば独立した政治経済主体であったことを物語っている。

所領・権益の名称

所在地(推定)

経済的特徴・獲得経緯など

関連史料・記録

吉田氏旧領

出雲国東部

国久の養子先であった吉田氏より継承。詳細な範囲や石高は不明だが、新宮党の経済基盤の一つ。

4

塩冶郷(塩冶興久遺領)

出雲国西部

国久の弟・塩冶興久の旧領を継承。斐伊川・宍道湖水運の要衝であり、穀倉地帯。杵築大社への影響力も保持。国久が薗村の権益を安堵した書状(天文10年)が存在。

4

杵築大社(出雲大社)関連権益

出雲国西部(大社周辺)

尼子宗家と杵築大社間の調整役。大社支配下の勢力との関係構築。国久発給文書に大社関連のものが多い。

4

吉田荘

現・安来市上吉田町・下吉田町

奉公衆吉田氏のかつての本領であり、永正年間以来、国久の直接的基盤。

8

表1:新宮党の推定される所領と経済基盤

この広範な経済基盤が、新宮党の強力な軍事力を維持し、尼子宗家に対しても一定の発言力を持つことを可能にした要因であったと言えるだろう。

主要な戦歴と武功

尼子国久率いる新宮党は、尼子氏の勢力拡大において数々の戦功を挙げた。その中でも特筆すべきは、伯耆国への進出と、宿敵である毛利氏や大内氏との戦いである。

大永4年(1524年)5月には、伯耆国の尾高城(おだかじょう)、不動城(ふどうのじょう)、羽衣石城(うえしじょう、はごろもいしじょう)などを攻略したとされている 1 。この一連の軍事行動は、俗に「大永の五月崩れ」として知られているが、近年の研究では、この呼称や電撃的な侵攻であったとする従来の説に対して、史料的な裏付けの乏しさや、永正年間から段階的に尼子氏が伯耆へ進出していた可能性が指摘されており、その史実性については慎重な検討が求められている 10 。いずれにせよ、この時期に尼子氏が伯耆国へ勢力を拡大し、国久がその中心的な役割を担ったことは確かであり、特に羽衣石城においては国久自身が城主となったとも伝えられている 12 。国久は羽衣石城を拠点に東伯耆三郡を管轄し、その子である誠久は河口城を任されたという記録も残っている 12

天文9年(1540年)には、主君である尼子晴久(はるひさ、経久の孫で国久の甥にあたる)の命令を受け、安芸国の毛利元就(もうり もとなり)討伐のため、三千の兵を率いて備後国へ遠征し、偵察行動を行った。しかし、この吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の戦いは尼子軍の敗北に終わり、晴久の本隊も撤退を余儀なくされた 1 。この敗戦は尼子氏の勢いに一時的な陰りを見せるものであったが、その後の天文11年(1542年)から翌年にかけて行われた大内義隆(おおうち よしたか)による出雲侵攻(第一次月山富田城の戦い)においては、国久率いる新宮党が奮戦し、大内軍を撃退する上で極めて重要な役割を果たした 1

これらの主要な合戦以外にも、国久と新宮党は備後や伯耆の諸国へ度々遠征し、尼子氏のために多くの戦功を立てたと記録されている 1 。彼らの武勇は、尼子氏の勢力圏拡大に不可欠な力であったと言える。

年月(和暦)

合戦名・出来事

対戦相手・関連勢力

尼子国久(新宮党)の役割・結果

主な関連史料・記録

大永4年(1524年)

伯耆国侵攻(尾高城、不動城、羽衣石城など攻略)

伯耆国人衆(山名氏方など)

諸城を攻略。国久は羽衣石城主となる。ただし「大永の五月崩れ」の史実性には議論あり。

1

天文9年(1540年)

吉田郡山城の戦い

毛利元就

晴久の命で3千の兵を率い備後へ遠征、偵察。尼子軍本隊敗北。

1

天文11-12年(1542-43年)

第一次月山富田城の戦い(対大内義隆)

大内義隆

新宮党を率いて奮戦。大内軍の撃退に大きく貢献。

1

時期不明

備後・伯耆諸国への遠征

各地勢力

多くの戦功を立てる。

1

表2:尼子国久の主要戦歴

第三章:尼子国久の人物像と尼子宗家との関係

武勇と統率力

尼子国久の人物像を語る上で、その卓越した武勇と軍事指揮官としての能力は欠かすことができない。父であり、戦国初期の梟雄として知られる尼子経久は、国久について「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神のごとき」と評したと伝えられている(『雲陽軍実記』より) 9 。この評価は、国久が政治的な駆け引きや内政手腕よりも、戦場における勇猛さや部隊の統率力に長けた、典型的な武人であったことを示唆している。

実際に、国久が新宮党を率いて尼子氏の数々の合戦で先鋒を務め、多くの武功を挙げた事実は、彼の武勇と統率力が並外れたものであったことを雄弁に物語っている 3 。新宮党が尼子氏の「軍事力の柱石」とまで称されたのも、ひとえに国久のリーダーシップと、彼に率いられた兵たちの精強さによるものであったろう。

ただし、経久による評価は、国久の能力が一面に偏っていた可能性も示唆している。軍事における「鬼神のごとき」強さが、平時における政務や、複雑な人間関係が絡む家中での立ち振る舞いにおいては、必ずしも肯定的に作用しなかった可能性があり、これが後の尼子宗家との関係悪化に繋がる遠因となったとも考えられる。

「傍若無人」と評される行動とその背景

尼子国久とその子・誠久を中心とする新宮党は、その武功を背景に、尼子家中で「傍若無人」とも評される振る舞いが多かったと記録されている 1 。彼らは自らの武勇を恃みとし、時に他の尼子家重臣たちとの間に深刻な意見の衝突や軋轢を生じさせた 1 。新宮党が尼子軍の精鋭部隊として勢力拡大に多大な貢献をしたという自負が、彼らを傲慢な態度へと傾かせたのであろう 2

具体的な逸話として、いくつかの記録が残っている。例えば、尼子誠久が自らの前を馬で通り過ぎる者に対して下馬を強要し、これに反発した熊谷新右衛門という武将が、あえて牛にまたがってその前を通り過ぎることで誠久の権威を嘲弄したという話がある 4 。また、中井平蔵兵衛尉という武将が、自慢の髭を誠久に咎められた際、翌日、主君である尼子晴久への配慮から、片方の髭だけを剃って出仕したという逸話も伝えられている 4 。これらの逸話は、新宮党と他の家臣団、そして尼子宗家との間に、無視できない緊張関係が存在したことを示唆している。

このような「傍若無人」な行動の背景には、新宮党が有していた強大な軍事力と広大な経済基盤、そしてそれに伴う彼らの強い自負心があったと考えられる。彼らの行動は、尼子家中における既存の秩序を乱し、当主である尼子晴久の権威を脅かすものとして、宗家や他の重臣たちから警戒の目で見られていた可能性が高い。ただし、これらの逸話の多くは後世の軍記物に依拠するものであり、その史実性については慎重な検討が必要である。新宮党の行動が、単なる驕りから来るものだったのか、あるいは宗家の統制強化に対する反発の現れであったのか、多角的な視点からの解釈が求められる。

尼子晴久との関係:後見役から対立へ

尼子国久と、兄・政久の子であり尼子宗家の当主となった尼子晴久との関係は、当初の協力関係から次第に対立へと変質していった。国久は、父・経久から晴久の「後見役」に指名されており 1 、若年の当主を補佐し、尼子家の屋台骨を支える重要な役割を期待されていた。実際に、天文12年(1543年)頃の杵築大社国造職に関する問題や、日御崎社への寄進といった場面では、国久が晴久の発給した安堵状に副状を発給するなど、晴久の権威を補強し、その統治を助ける働きをしていたことが史料から確認されている 8

しかし、時を経るにつれて、国久と晴久の間には方針を巡る意見の相違が目立ち始め、両者の関係は次第に冷却化していく 1 。新宮党が、かつて吉田氏や塩冶氏が領有していた広大な所領を直接支配し、出雲国内で強大な勢力基盤を築いたことは、結果として晴久の出雲国における影響力を相対的に弱めることになった 1 。さらに、新宮党は宗家の裁判権に対しても度々介入を行うなど、その独立性を顕示する行動が見られた 4 。例えば、佐木浦と宇道浦の間で起こった山論においては、国久が一方の当事者からの取り成し依頼を受けて影響力を行使しようとし、晴久とその直臣たちがこれを制しようとする動きがあったことが記録されている 8

晴久は、国久の持つ強大な軍事力や政治力を利用しつつも、彼を自らの権力構造の一部分として完全に組み込み、その独自の影響力を限定しようと試みていたと考えられる 8 。しかし、新宮党の独立性は根強く、晴久の目指す中央集権的な支配体制の構築にとって、国久の存在は次第に大きな障害となっていった。この宗家の統制強化と、それに抵抗する有力一門衆という構図は、戦国時代の大名家においてしばしば見られた内部矛盾であり、尼子氏もまた、この深刻な問題を抱え込むことになったのである。国久と晴久の関係は、単なる叔父と甥という血縁関係だけでは説明できない、複雑な権力闘争の様相を呈していたと言えよう。

第四章:新宮党粛清事件

粛清に至る背景:宗家の権力強化と新宮党の勢力

尼子晴久による新宮党の粛清は、突発的な事件ではなく、長年にわたる宗家と新宮党との間の緊張関係が頂点に達した結果であった。前章で述べたように、新宮党、特に尼子国久・誠久父子の「傍若無人」とも評される振る舞いや、宗家の権限への公然とした介入は、晴久にとって看過できない問題となっていた 1 。晴久は、父祖から受け継いだ尼子氏の勢力をさらに拡大し、出雲国における自身の直接統治権を確立することを目指しており、その過程において、国内に強大な独立勢力を形成していた新宮党は、次第に障害として認識されるようになったのである 8

晴久は、国久の持つ軍事力や影響力を利用しつつも、最終的にはその力を削ぎ、自らを中心とする直臣団による支配体制を強化しようと企図していた 8 。この宗家の権力集中化の動きに対し、新宮党の独立性は大きな抵抗要因となっていた。

さらに、新宮党内部にも不協和音が生じていたことが、晴久にとって粛清を決行する上で有利に働いた可能性がある。尼子久幸(国久の叔父、あるいは新宮党の先代指導者か)の嫡子である尼子詮幸(あきゆき)と国久の間には対立があり、また、国久の子である誠久と敬久の兄弟間でも意見の相違が多く、誠久の嫡子である氏久は叔父の敬久と家督を巡って不仲であったと伝えられている 4 。特に軍記物である『陰徳太平記』によれば、国久が氏久ではなく、その叔父にあたる敬久を偏愛し、新宮党の家督を譲ろうとしたため、これに不満を抱いた氏久が晴久にその不当を訴え出たことが、粛清の直接的な引き金になったとも記されている 15 。これらの内部対立は、晴久が新宮党に介入し、その勢力を分断・弱体化させる絶好の口実を与えたと考えられる。

このように、新宮党粛清の背景には、晴久の目指す戦国大名としての権力確立と、それに抵抗する新宮党の強大な勢力、そして新宮党自身の内部矛盾が複雑に絡み合っていたのである。

事件の経緯と詳細

天文23年(1554年)11月1日(いくつかの史料では日付に若干の異同が見られるが、この日付が有力とされる) 3 、尼子晴久は新宮党に対する粛清を断行した。この直前、晴久の正室であり、尼子国久の娘でもあった女性が亡くなっており、これが事件実行の「契機」となったと多くの記録は伝えている 1 。しかし、これは直接的な原因というよりも、晴久が行動を起こすための口実、あるいは好機として捉えられたと解釈するのが妥当であろう。

晴久は周到な計画のもと、兵を派遣して国久とその長子・誠久ら新宮党の主要メンバーを襲撃した。国久は月山富田城へ登城する途中で闇討ちに遭い、殺害されたとされている 3 。一方、誠久は新宮谷の居館で抵抗したものの、衆寡敵せず自害し、国久の他の子弟や一族の多くも討死、あるいは逃亡を余儀なくされ、ここに尼子氏最強の軍団と謳われた新宮党は壊滅した 3 。この時、尼子国久は享年63であった 1

この粛清の嵐の中、難を逃れた者もいた。誠久の五男で、当時はまだ幼児であった孫四郎(後の尼子勝久)は密かに城外へ逃れ、後に山中鹿介(やまなか しかのすけ)らに擁立され、尼子家再興の旗頭となる 2 。また、『陰徳太平記』などの軍記物によれば、誠久の嫡男である氏久もこの粛清を生き延びたとされている 15

粛清の実行方法が闇討ちや急襲であったことは、晴久側が新宮党の強力な抵抗を警戒し、それを最小限に抑えようとした意図の表れと考えられる。この事件は、尼子氏内部の権力闘争が一つの頂点に達し、血腥い結末を迎えたことを示している。

毛利元就の謀略説の検討

新宮党粛清事件に関しては、長らく毛利元就の謀略によって引き起こされたとする説が広く語られてきた。その内容は、尼子晴久と国久の不和を知った元就が、巧妙な離間の計を用いたというものである。具体的には、元就は自国の罪人に偽の手紙(国久が晴久を暗殺し毛利に内通する旨が記されたもの)を持たせ、その罪人を月山富田城の門前でわざと尼子方の目に触れるように殺害させた。翌日、尼子方がこの死体と手紙を発見し、手紙を読んだ晴久が国久の裏切りを信じ込み、新宮党の粛清に至った、という筋書きである 3

この謀略説は、毛利元就が権謀術数に長けた武将であるという一般的なイメージや、同時期に元就が同様の謀略を用いて大内氏の重臣であった陶隆房(すえ はるかた、後の晴賢)の家臣・江良房栄(えら ふさひで)を陥れたとされる事件との類似性から、後世の軍記物などを通じて広く浸透した 4

しかし、近年の歴史研究においては、この毛利元就謀略説の史実性については懐疑的な見方が強まっている。一次史料による裏付けが乏しいこと、そして尼子氏内部に元々存在した深刻な対立要因を考慮すると、外部からの謀略がなくとも粛清が起こりうる状況であったと考えられるからである 4 。むしろ、新宮党の粛清は、尼子晴久自身の強固な意志に基づき、家中統制と権力集中を断行するために行われたと解釈するのが、より史実に近いと考えられている 9 。元就の謀略説は、事件の драмати性を高めるための後世の創作、あるいは類似の事件からの類推によって生まれた可能性が高いと言えよう。

粛清が尼子氏に与えた影響と歴史的評価

新宮党の粛清は、尼子氏の歴史において極めて重大な転換点となった。その影響は多岐にわたり、短期的な側面と長期的な側面から評価する必要がある。

短期的に見れば、この粛清は尼子晴久にとって大きな成功をもたらしたと言える。長年の懸案であった新宮党という強大な内圧勢力を排除したことにより、晴久は名実ともに尼子家中の権力を掌握し、出雲国における直接統治体制をほぼ完成させた 9 。これまで国久を通じて間接的にしか影響力を行使できなかった杵築大社以下の西出雲地域に対しても、宗家が本格的に介入することが可能となり、晴久の目指した中央集権化は大きく前進した。

しかし、長期的な視点で見ると、新宮党の粛清は尼子氏にとって致命的な打撃となった。まず、尼子氏の軍事力の精髄であり、「柱石」とまで称された新宮党を一挙に失ったことで、尼子氏全体の軍事力は著しく低下した 2 。これは、宿敵である毛利氏や、その他の周辺勢力との競争において、尼子氏を著しく不利な立場に追い込んだ。

さらに深刻だったのは、この粛清が尼子家中や傘下の国人衆に与えた動揺と不信感である。新宮党という有力な一門衆を容赦なく粛清した晴久の強硬な姿勢は、他の家臣や国人衆に恐怖心と反感を抱かせた可能性がある。実際に、この事件を境に、尼子氏から離反する国人が現れ始め、晴久の死後、その子・義久(よしひさ)の代になると、これらの国人衆の離反や反乱が頻発し、尼子氏の領国支配は急速に瓦解していくことになる 4

歴史的評価として、「この事件以後、尼子は急速に衰退の途をたどったのである」 3 という見解が一般的である。ただし、一部には、粛清直後からただちに衰退が始まったわけではなく、晴久の存命中は一定の勢力を保っていたが、彼の死後に問題が顕在化したとする見方もある 9 。いずれにせよ、新宮党の粛清が尼子氏の弱体化を招き、最終的な滅亡へと繋がる大きな要因の一つとなったことは疑いようがない。晴久にとっては権力集中のための苦渋の決断であったかもしれないが、その代償はあまりにも大きかったと言えるだろう。

第五章:尼子国久に関する史跡と伝承

新宮党館跡と関連墓所

尼子国久と彼が率いた新宮党の主要な活動拠点であり、そしてその終焉の地となったのが、新宮党館跡である。この館跡は、現在の島根県安来市広瀬町新宮に位置し、尼子氏の本拠地であった月山富田城の北東、新宮谷と呼ばれる地域にあった 5

現在、新宮党館跡とされる場所には太夫神社(たゆうじんじゃ)が鎮座しており、その入口付近には往時の居館跡を偲ばせる地形的な名残が見られる 5 。この地は島根県の指定史跡となっており、歴史的にも重要な場所として認識されている 5

館跡の敷地内には、尼子国久、その子である誠久、そして敬久(一部資料では豊久の名も見える 5 )の墓と伝えられる五輪塔などの石塔群が存在する 4 。これらは、新宮党の主要メンバーがこの地で活動し、そして非業の最期を遂げたことを物語る貴重な遺構である。

訪問する際の注意点として、現地には専用の駐車場が整備されておらず、館跡へ至る道は細い農道であること、また神社より奥の区域は湧水により地面がぬかるんでいる場合があることなどが報告されている 5 。これらの史跡は、尼子国久と新宮党の栄華と悲劇を今に伝える、静かな証人と言えるだろう。

伯耆国羽衣石城など、その他の関連史跡と伝承

尼子国久の活動範囲は出雲国内に留まらず、隣国の伯耆国(現在の鳥取県中西部)にも及んでいた。その関与を示す代表的な史跡として、羽衣石城が挙げられる。この城は現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町にあり、国久が大永年間に攻略し、一時期城主となっていたと伝えられている 12 。現在、城跡には模擬天守が再建されており、鳥取県の史跡に指定されている 16 。羽衣石城自体には、尼子国久個人に直接関わる具体的な伝承は多く残されていないようであるが、尼子氏による伯耆支配と、在地勢力である南条氏との間で繰り広げられた攻防の歴史を物語る重要な城郭である 17

また、国久の子である誠久は、伯耆国の河口城を居城としていた時期があり 12 、これも新宮党の伯耆における活動拠点の一つであったと考えられる。さらに、大永4年(1524年)の伯耆侵攻の際には、尾高城や不動城なども国久らによって攻略されたとされており 1 、これらの城跡も国久の軍事行動を偲ぶ手がかりとなる。尾高城は後に国史跡に指定され、発掘調査によって尼子方の武将である吉田光倫が在番していたことを示す遺構などが確認されている 18

これらの史跡は、尼子国久と新宮党が、出雲国という枠を超えて広範囲に軍事活動を展開していたことを具体的に示しており、彼らの勢力と影響力の大きさを物語っている。

終章

尼子国久の生涯と新宮党の意義の総括

尼子国久は、戦国時代の出雲国において、尼子氏の興隆と衰退という激動の歴史に深く関わった武将であった。彼は尼子経久の次男として生まれ、その卓越した武勇をもって数々の戦功を挙げ、父祖の築いた尼子氏の勢力拡大に大きく貢献した。特に、彼が率いた新宮党は、尼子氏の軍事力の精髄として、その名を山陰山陽に轟かせた。

しかし、新宮党の強大さと独立性の高さは、やがて尼子宗家との間に深刻な軋轢を生むことになる。当主である尼子晴久との権力闘争は避けられず、最終的に国久は一族もろとも粛清されるという悲劇的な最期を遂げた。彼の生涯は、戦国時代における一門衆のあり方、すなわち宗家を支える柱石としての役割と、潜在的な対抗勢力としての危険性という二面性を象徴している。

新宮党の存在は、尼子氏にとって諸刃の剣であったと言える。その強力な軍事力は対外的な勢力拡大に不可欠であったが、その強大さが故に内部の不安定要因ともなり、その解体は尼子氏の国力を著しく低下させた。結果として、宿敵毛利氏による出雲侵攻を容易にし、戦国大名尼子氏の滅亡を早める一因となった可能性は否定できない。

尼子国久と新宮党の興亡は、戦国時代における権力集中の難しさ、そして大名家内部における血族間の愛憎と権力闘争の悲劇を如実に示している。彼の武勇と悲運の物語は、戦国史の一断面として、後世に多くの教訓を残していると言えよう。

今後の研究への展望

尼子国久および新宮党に関する研究は、今後も進展の余地を残している。特に、新宮党の具体的な経済基盤や所領経営の実態、そして「傍若無人」と評される国久父子の行動の史実性については、さらなる一次史料の発見と詳細な分析が期待される。

また、『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』といった後世の軍記物に描かれた国久像・新宮党像と、客観的な史料との比較検討を深めることにより、より実像に近い人物像の再構築が可能となるであろう。新宮党粛清事件の背景や影響についても、尼子氏内部の権力構造の変化や、周辺国人衆の動向といった多角的な視点からの研究が一層深められることが望まれる。これらの研究を通じて、尼子国久という武将、そして新宮党という組織が、戦国時代の歴史の中で果たした役割と意義が、より明確に理解されるようになることを期待したい。

巻末資料

表2:尼子国久 関連年表

年月(和暦)

西暦

国久の年齢(推定)

出来事

関連人物

主な関連史料・記録

明応元年

1492年

1歳

誕生(尼子経久の次男として)

尼子経久

1

永正9年頃

1512年頃

21歳頃

室町幕府管領・細川高国より偏諱を受け「国久」と改名

細川高国

1

大永4年(5月)

1524年

33歳

伯耆国侵攻。尾高城、不動城、羽衣石城などを攻略。羽衣石城主となる(「大永の五月崩れ」については史実性に議論あり)

(伯耆国人衆)

1

天文9年

1540年

49歳

吉田郡山城の戦いに従軍。3千の兵を率い備後へ遠征、偵察。

尼子晴久、毛利元就

1

天文10年(11月)

1541年

50歳

杵築大社大工神門国清に対し、塩冶郷内の給分を安堵する書状を発給。

神門国清

8

天文11年~12年

1542年~1543年

51歳~52歳

第一次月山富田城の戦い(対大内義隆)。新宮党を率いて奮戦し、大内軍撃退に貢献。

尼子晴久、大内義隆

1

天文12年(6月、7月)

1543年

52歳

杵築大社国造職問題や日御崎社への寄進に関し、尼子晴久の安堵状に副状を発給。

尼子晴久、千家直勝、東彦十郎慶勝

8

天文16年頃

1547年頃

56歳頃

佐木浦・宇道浦間の山論に関与。

尼子晴久、下笠重秀

8

天文23年(11月1日)

1554年

63歳

新宮党粛清事件。尼子晴久により、子・誠久らと共に誅殺される。新宮党壊滅。

尼子晴久、尼子誠久

1

参考文献一覧

(本報告書作成にあたり参照した主要な史料群、研究書、論文、ウェブサイトなどを記載。以下は例示であり、実際の参考文献リストは、使用した全資料を網羅する必要がある。)

  • 『雲陽軍実記』
  • 『陰徳太平記』
  • 「佐々木文書」(東京大学史料編纂所影写本)
  • 米原正義『出雲尼子一族』(新人物往来社、後に吉川弘文館より新装版)
  • 長谷川博史「戦国大名尼子氏権力の形成過程―国久「新宮党」の歴史的位置を中心として―」(『史林』76巻3号、2003年)
  • 今岡典子「戦国大名尼子氏の権力形成と家臣団編成」(『史林』66巻4号、1983年)
  • 岡村吉彦「「大永の五月崩れ」再考―伯耆民談記の記述を中心に―」(鳥取県教育委員会『鳥取県史研究』、2008年)
  • 各自治体史(安来市史、湯梨浜町誌など)
  • 関連するウェブサイト資料(各スニペット出典元URLに準ずる)

引用文献

  1. 尼子国久- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9C%8B%E4%B9%85
  2. 尼子一族盛衰記 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagoitizokuseisuiki/
  3. 新宮党館跡 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト https://www.kankou-shimane.com/destination/21549
  4. 新宮党 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%85%9A
  5. 新宮党館の見所と写真・全国の城好き達による評価(島根県安来市 ... https://kojodan.jp/castle/3914/
  6. 新宮党館跡~尼子国久・誠久・敬久墓所~-戦国探求 https://sengokutan9.com/sengokusiseki/shimane/shingutouyakataato.html
  7. 尼子国久 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/AmagoKunihisa.html
  8. 戦国大名尼子氏権力の形成 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239222/1/shirin_076_3_346.pdf
  9. 尼子国久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9B%BD%E4%B9%85
  10. 「大永の五月崩れ」再考/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/275836.htm
  11. 大永の五月崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%B4%A9%E3%82%8C
  12. 【伯耆国人物列伝】 尼子誠久|伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ ... https://shiro-tan.jp/history-a-amago-sanehisa.html
  13. PowerPoint プレゼンテーション - 湯梨浜町 https://www.yurihama.jp/uploaded/attachment/12394.pdf
  14. 尼子國久- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9C%8B%E4%B9%85
  15. 尼子氏久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F%E4%B9%85
  16. 羽衣石城跡(県指定史跡) - 湯梨浜町(生涯学習・人権推進課) https://www.yurihama.jp/soshiki/20/13380.html
  17. 羽衣石城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E7%9F%B3%E5%9F%8E
  18. 国指定史跡 おだかじょうあと 鳥取県 米子市 https://www.city.yonago.lg.jp/secure/16791/odaka_R6.pdf