山下長就は豊後の大友氏重臣で、加判衆として義鑑・宗麟二代に仕えた。二階崩れの変を乗り越え、南蛮貿易による軍需物資調達や対毛利戦で活躍。その実務能力で大友氏の最盛期を支えた。
日本の戦国時代、九州北部に広大な版図を築き上げた豊後の大友氏。その最盛期を築いた21代当主・大友義鎮(宗麟)の栄光の陰には、彼の覇業を支えた数多の家臣たちの存在があった。本報告書が光を当てる「山下長就(やました ながなり)」も、そうした家臣の一人である。利用者様からご提示いただいた「豊後の国人衆の頭領」「1518年~1573年頃活躍」「軍馬や鉄砲を売買」といった情報は、この人物像の核心に迫るための重要な出発点となる。これらの断片的ながらも示唆に富む情報を手掛かりに、現存する史料を丹念に読み解くことで、これまで歴史の表舞台で語られることの少なかった一人の重臣の実像を浮かび上がらせることが可能となる。
一般の歴史書において、山下長就の名を見出すことは極めて困難である。しかし、九州大学附属図書館が所蔵する『大友氏年寄連署奉書』 1 や『大友氏年寄連署書状』 2 といった一次史料には、彼の名が、大友氏の国政を動かした最高幹部の一員として明確に記されている。これらの史料は、彼が単なる一介の国人領主ではなく、大友義鑑・義鎮(宗麟)という二代の当主の下で、国政の中枢を担った重臣「加判衆(かはんしゅう)」、あるいは「年寄(としより)」と呼ばれる最高意思決定機関の構成員であったことを示す、動かぬ証拠である 3 。
本報告書は、これらの断片的、しかし決定的な史料群を繋ぎ合わせ、分析することで、山下長就個人の生涯を追うに留まらず、彼を大友氏の精緻な統治システムという大きな枠組みの中に位置づけることを目的とする。情報の乏しさは、逆説的に、彼が属した組織の構造や、彼が果たしたであろう役割を周辺情報から丹念に再構築する知的な挑戦を促す。歴史の深層に埋もれた一人の実力者の姿を立体的に描き出すことを通じて、戦国期九州における権力構造の一端を解明する試みである。
山下長就という人物を理解する上で、まず彼がどのような出自を持ち、どのような政治的環境に身を置いていたのかを把握することが不可欠である。彼の姓である「山下」の起源と、彼が属したであろう「国衆」という階層について考察する。
「山下」という姓は、その名の通り「山の麓」「山の下」といった地形に由来する、日本全国に広く分布する姓である 6 。集落が水源や燃料の確保しやすい山際に形成されることが多かったため、この姓を持つ家系は各地に自然発生的に生まれたと考えられる 6 。そのルーツは、信濃国の清和源氏為義流、甲斐国の武田氏流、安房国の神余氏流、豊前国の宇都宮氏流など、多岐にわたることが知られている 6 。
しかし、戦国期の豊後国において、山下長就に直接繋がる有力な山下氏の系譜を、現存する史料から特定することは極めて難しい 9 。後世に編纂された『豊後国志』のような地誌にも、彼の一族に関する明確な記述は見当たらないのが現状である 12 。この事実は、彼の一族が、大友氏が鎌倉時代に豊後へ下向してくる以前からその地に根を張っていた古来の豪族(国衆)であった可能性、あるいは、初代当主・大友能直の入国に随行してきた家臣団の子孫が土着したものである可能性 12 の両方を示唆するが、いずれも決定的な証拠を欠いている。
山下長就の活動を理解するためには、当時の豊後国を支配していた戦国大名・大友氏と、在地領主である「国衆(くにしゅう)」の関係性を把握する必要がある。大友氏は、鎌倉時代初期に初代・能直が豊後守護に任じられて以来、一族の庶子を在地豪族の養子として送り込むなどして勢力を拡大し、現地の国衆たちを徐々に自身の家臣団(被官)に組み込むことで、その支配体制を盤石なものとしていった 14 。
これらの国衆は、大友氏の家臣団の中核を成す存在であったが、大友氏の血を引く一門「同紋衆(どうもんしゅう)」とは明確に区別される階層であった 17 。彼らは大友氏の統治を支える重要な戦力・行政単位であると同時に、一定の自立性を保持しており、時には大友氏の意向に反発し、対立することさえあった 19 。山下長就もまた、その出自から、この国衆の一員であったと考えるのが最も自然である。国衆の頭領が、大友氏の政権中枢である「加判衆」にまで登り詰めたという事実は、一見すると異例の抜擢に映るかもしれない。
しかし、この事実は、大友氏の統治システムが単なる血縁主義に凝り固まったものではなく、実力や政治的手腕を正当に評価する、比較的開かれた側面を持っていたことを強く示唆している。田北氏 20 や臼杵氏 21 のように、大友一族から分かれた家系はその出自が比較的明確に記録されているのに対し、山下長就の系譜が不明瞭であること自体が、彼が血縁者ではない「国衆」出身であったことの間接的な証拠と見なせる。広大な領国を維持し、さらに拡大していくためには、出自を問わず有能な人材を登用し、複雑な家臣団をまとめ上げる必要があった。山下長就の抜擢は、まさにそうした大友氏の現実的な政治判断の表れであり、その家臣団の多様性を象徴する事例であったと言えるだろう。
山下長就が「加判衆」の一員であったという事実は、彼の人物像を理解する上で最も重要な鍵である。この章では、戦国大名・大友氏が、いかにして広大な領国を支配したのか、その統治機構の中核であった「加判衆」制度の実態を解明する。
一般的に戦国大名には独裁者というイメージがつきまとうが、少なくとも大友氏の領国支配の実態は、当主の独断専行によってではなく、重臣たちによる合議制によって運営されていた 23 。特に、21代当主・大友義鎮(宗麟)の時代には、豊後、豊前、筑前、筑後、肥後、日向の北部九州六ヶ国に影響力を行使する、名実ともに九州最大の勢力へと飛躍を遂げた 14 。この急激な領土拡大と、それに伴う複雑な統治課題に対応するためには、高度に組織化された統治システムが不可欠であった。その根幹を成したのが、重臣たちによる合議機関「加判衆」である。
「加判衆」は、宿老(しゅくろう)や年寄(としより)とも呼ばれ、大友氏の直臣団の中で最上位に位置する、政権の中枢組織であった 17 。彼らの最も重要な役割は、大友当主が発給する命令書である奉書(ほうしょ)に、当主の花押(かおう、サイン)に加えて連署(加判)することにあった。この加判があって初めて、その命令は公式なものとして効力を発揮した 17 。これは、彼らが単なる当主の諮問機関ではなく、当主の権力を補完し、時には制約することさえ可能な、極めて強大な権限を有していたことを物語っている。
その構成は、大友一族である「同紋衆」から三名、そして在地領主である「国衆」や新参の家臣の中から三名、合計六名を基本としていたとされている 17 。この人選は、家臣団内の二大勢力である同紋衆と国衆のバランスを取り、家中の対立を未然に防ぎ、円滑な合議を促すための巧妙な仕組みであった。国衆出身と見られる山下長就がこの一員に加わっていたことは、この制度が実際に機能していた証左である。
加判衆は、ただ府内(大友氏の首都、現在の大分市)にあって合議を行うだけではなかった。彼らは、広大な領国を効率的に統治するため、国や郡ごとに担当地域を割り当てられていた。この職務分掌を「方分(ほうぶん)」と称した 26 。
加判衆は、それぞれが担当する「方分」の国や郡における政務について、主担当者として責任を負った。その下には「検使(けんし)」と呼ばれる代官が置かれ、闕所地(所有者のいなくなった土地)の調査、段銭(たんせん、臨時税)の徴収、公領の管理といった実務を担った 26 。このシステムにより、大友氏は中央での重要政策決定と、各地域における実務執行を両立させることができたのである。山下長就もまた、加判衆の一員として、いずれかの地域の「方分」を担当し、その統治に責任を負っていたと考えるのが自然である。
この加判衆制度は、単に家臣団の序列を示す儀礼的なものではなく、大友氏の領国拡大という巨大な「事業」を成功させるために生み出された、高度な統治技術そのものであった。それは、現代の企業における役員会や、政府における内閣のような機能を果たし、大友氏の急成長を支える屋台骨となっていた。山下長就の活動を正しく評価するためには、彼をこの先進的な統治システムを構成する、不可欠な「部品」として捉える視点が欠かせないのである。
大友氏の統治機構における加判衆の重要性を踏まえた上で、いよいよ山下長就自身の具体的な活動の痕跡を追う。断片的な史料から、彼がどのような政治的キャリアを歩んだのかを再構築する。
山下長就の名は、幸いにも複数の一次史料にその名を留めている。特に九州大学附属図書館が所蔵する『大友家文書』中の連署状は、彼の政治的地位を雄弁に物語る。
これらの史料は、山下長就が、大友氏の公式な意思決定に深く関与する最高幹部の一員であったことを疑いようもなく証明している。さらに、田尻氏から大友氏家臣団への贈答品リストを記録した別の史料では、入田親廉を筆頭に、「山下和泉守(いずみのかみ)」、斎藤播磨守、雄城若狭守、臼杵安房守といった、大友政権の最上位に位置した五名の年寄の名が挙げられている 4 。これは、長就が加判衆の中でも特に中心的な人物の一人と目されていたことを示唆している。
史料において、山下長就は「和泉守」 4 、また「治部少輔(じぶのしょうゆう)」 3 という官途名を名乗っていたことが確認できる。戦国時代において、武士が名乗る官途名は、朝廷から正式に叙任されたものばかりではなく、主君からの授与や、時には自称の場合もあったが、いずれにせよその人物の家格や政権内での序列を示す重要な指標であった。
「和泉守」は、畿内の一国である和泉国の長官名であり、守護大名クラスが名乗ることもある高い格式を持つ官名である。また、「治部少輔」は、朝廷の儀式典礼や外交、氏姓などを司る治部省の次官クラスの役職名である。この官途名は、山下長就が単なる武辺者ではなく、大友氏の政務、特に儀礼や外交交渉といった分野においても重要な役割を担っていた可能性を示唆している。
山下長就が加判衆として活動した期間は、大友氏の歴史における最大の激動期の一つと重なっている。すなわち、20代当主・大友義鑑 27 から、その子である21代・義鎮(宗麟) 24 へと家督が継承される時期である。天文19年(1550年)、義鑑が嫡男の義鎮を廃し、三男の塩市丸を後継者にしようと画策したことから、義鎮派の家臣が義鑑らを襲撃するというクーデターが発生した。世に言う「二階崩れの変」である 24 。
この政変において、山下長就は極めて難しい立場に置かれたはずである。なぜなら、彼が連署状に名を連ねた同僚の一人、入田親廉(史料によっては親誠)は、義鑑派の筆頭家老であり、この政変で義鎮(宗麟)と真っ向から対立し、最終的に粛清された中心人物だからである 1 。通常、このような血を伴う権力闘争が起これば、旧体制の重臣は失脚するか、命を落とすのが常である。
しかし、驚くべきことに、山下長就は粛清を免れた。それどころか、クーデターを成功させて当主となった宗麟の新体制下においても、引き続き加判衆として重用され、宗麟政権の中核を担う臼杵鑑続 21 や吉岡長増 25 といった重臣たちと共に連署状を発給しているのである 2 。
この事実は、山下長就が単に特定の派閥に属するだけの家臣ではなかったことを物語っている。彼がこの政変を乗り切ることができた理由として、いくつかの可能性が考えられる。第一に、彼が派閥争いから距離を置き、実務に徹する中立的なテクノクラートとしての立場を貫いていた可能性。第二に、義鑑派に近い立場にありながらも、その卓越した行政手腕や政治的バランス感覚が、新当主の宗麟にとっても統治上不可欠であると判断され、あえて政権内に留め置かれた可能性である。いずれのシナリオを採るにせよ、彼は激しい権力闘争の荒波を乗り越えるだけの高度な政治感覚と、それを敵方にさえ認めさせるほどの実務能力を兼ね備えた、傑出した人物であったと評価できる。彼の存在は、大友氏の政治が、単なる派閥の力学だけでなく、より高度な統治の論理によって動いていたことを示している。
表1:大友義鑑・義鎮(宗麟)期の主要加判衆(年寄)一覧(推定)
氏名 |
官途名 |
出自(推定) |
主な活動・特記事項 |
山下 長就 |
和泉守、治部少輔 |
国衆 |
義鑑・義鎮の二代に仕える。二階崩れの変を乗り越え、宗麟政権でも重用された稀有な政治家。 |
入田 親廉(親誠) |
弾正少弼 |
国衆 |
義鑑派の筆頭家老。二階崩れの変で宗麟と対立し、敗死・粛清される 24 。 |
臼杵 鑑続 |
安房守 |
同紋衆(戸次氏流) |
義鑑・義鎮期に活動。宗麟政権を支えた重鎮の一人。外交などで活躍 2 。 |
吉岡 長増 |
長門守 |
国衆 |
宗麟の傅役(教育係)を務め、宗麟政権の筆頭家老として絶大な信頼を得た 25 。 |
田北 親員(鑑生) |
式部少輔 |
同紋衆(大友氏流) |
義鑑・義鎮期に活動した勇将。勢場ヶ原の戦いなどで武功を挙げた 20 。 |
雄城 治景 |
若狭守 |
同紋衆(大友氏流) |
義鑑・義鎮期に活動。二階崩れの変後、宗麟を支えた重臣の一人 2 。 |
斎藤 長実 |
播磨守 |
国衆 |
義鑑・義鎮期に活動。山下長就らと共に年寄として連署状に名を連ねる 2 。 |
山下長就が、大友氏の最高幹部として政治の中枢にいたことは明らかになった。では、具体的にどのような分野でその手腕を発揮したのだろうか。利用者様からご提示のあった「軍馬や鉄砲の売買」という情報を手掛かりに、彼の経済・軍事面における役割を推定する。
「軍馬や鉄砲を売買する者もいた」という伝承は、文字通りに解釈すれば、山下長就が一個人の商人として商業活動に従事していたかのようにも受け取れる。しかし、大友氏の加判衆という最高位の重臣が、個人的な才覚で商取引を行っていたと考えるのは、当時の身分制度や職務内容からして不自然である。
この伝承は、むしろ彼の公式な職務内容を、後世の人々が分かりやすい形で語り伝えたものと再解釈すべきであろう。すなわち、彼は「商人」としてではなく、大友氏の「役人」として、軍需物資の調達・管理という国家的な事業に深く関与していたのではないだろうか。この視点に立つとき、伝承と史実との間に見事な整合性が見えてくる。
大友氏の強大さの源泉は、その経済力にあった。特に大友宗麟は、豊後の港に来航するポルトガル船との南蛮貿易を積極的に推進し、莫大な富を築いた 14 。この貿易の最大の目的は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲や、その火薬の主原料である硝石の大量輸入であった 31 。宗麟の先進性は、単に輸入に頼るだけでなく、自領内でフランキ砲(仏郎機砲)と呼ばれる大砲の鋳造に成功し、それを織田信長に贈呈したという記録が残るほどであった 32 。
このような大規模な軍需物資の調達、生産、そして管理は、到底個人の才覚で行えるものではない。それは、国家的な規模での計画的な兵站・財政管理を必要とする、極めて高度な事業であった。豊臣秀吉の天下統一事業において、石田三成が兵糧や弾薬の補給管理を担い、その巨大な軍事行動を後方から支えたように 33 、大友氏においても、同様の重要な役割を担う組織と人物が不可欠であった。
その責任を負っていたのが、まさしく加判衆であった。彼らは領国経営の最高責任者集団として、軍事作戦の決定のみならず、その遂行に不可欠な兵糧、武具、弾薬の調達と管理、そしてその原資となる財政の運営にまで責任を負っていたと考えるのが合理的である。南蛮貿易は莫大な利益をもたらす一方で、ポルトガル商人との高度な交渉や、輸入品の品質管理、価格査定、そして領内への分配など、専門的な実務能力を要する。山下長就が、外交にも関わる「治部少輔」という官途名を名乗り 3 、かつ政変を乗り越えるほどの実務能力を評価されていたことを考え合わせると、彼が加判衆の一員として、この軍事・経済の中核分野を担うテクノクラート(技術官僚)として活躍していた可能性は極めて高いと言える。
一方で、山下長就が文官的な役割のみを担っていたわけではない。彼は大友氏の重臣であると同時に、自身の所領と家臣団を持つ国衆の頭領でもあった。戦国時代の家臣は、主君から給与を得るのではなく、自身の領地から動員した兵力を率いて主君の軍役に服するのが基本であった 4 。
したがって、長就は府内での政務と並行して、自身の軍団を維持・強化し、大友氏が遂行する軍事作戦においては、一軍の将として出陣していたと考えられる。史料に見える「周防・大内氏との戦いに参加」 3 という記録は、まさに彼のこうした軍事指揮官としての一面を物語っている。大友氏は、弘治年間から永禄年間にかけて、北部九州の覇権を巡って毛利氏と激しい攻防を繰り広げており 35 、長就もまた、その重要な戦いの一翼を担っていたことは想像に難くない。彼は、政策を決定する閣僚であると同時に、その政策を前線で実行する将軍でもあったのである。
本報告書で検証してきたように、山下長就は、その生涯の多くが謎に包まれているものの、現存する断片的な一次史料を繋ぎ合わせることで、戦国大名・大友氏の最盛期を政権中枢で支えた極めて重要な人物であったことが明らかになった。彼は、豊後の在地領主である国衆の出身でありながら、その卓越した能力によって最高幹部である「加判衆」にまで登り詰め、大友家の家督を巡る「二階崩れの変」という激しい政変を乗り越え、義鑑・義鎮(宗麟)の二代にわたって重用され続けた。
彼の人物像は、単なる一武将の枠には収まらない。彼は、大友氏が誇った先進的な統治システムである「加判衆合議制」を体現する存在であった。その役割は、軍事指揮官として一軍を率いるに留まらず、外交交渉、そして何よりも、大友氏の強さの源泉であった南蛮貿易を基盤とする財政・兵站管理にまで及んだ可能性が極めて高い。彼は、血縁や派閥の論理に安住するのではなく、高度な実務能力と絶妙な政治的バランス感覚によって自らの地位を確立した、戦国時代の新たな官僚像、すなわちテクノクラートを先取りする人物であったと評価できる。
これほどの重要人物が、なぜ現代においてほぼ無名であるのか。その最大の理由は、彼個人に焦点を当てた伝記的な史料が乏しいことに加え、歴史叙述が、大友宗麟のような突出した「英雄」個人の物語に光を当てがちで、彼らの覇業を現実に支えた精緻な統治機構や、それを黙々と運営した実務家たちの重要性を見過ごしてきたためであろう。
本報告書は、山下長就という一人の人物に光を当てることを通じて、戦国大名の権力が、決して当主一人のカリスマや武勇のみによって成り立つのではなく、彼のような無名の実力者たちが担った組織的な統治能力によって支えられていたという、歴史の深層を提示するものである。彼の存在は、中央中心の歴史観では見えてこない、豊かで複雑な地方の歴史の真実を解き明かすことの重要性を示している。山下長就の研究は、まだ始まったばかりである。
表2:山下長就の活動年表(推定を含む)
西暦(和暦) |
大友氏および関連勢力の動向 |
山下長就の活動(史料に基づく事実と推定) |
1518年頃(永正15) |
大友義鑑、家督を相続 27 。 |
生誕したとされる年(利用者様情報より)。 |
1534年(天文3) |
大友氏、周防の大内氏と勢場ヶ原で戦う 25 。 |
この頃までに元服し、大友氏に出仕していた可能性が高い。「周防・大内氏との戦いに参加」との記録あり 3 。 |
1540年代 |
大友義鑑の下で、加判衆(年寄)として政務に参画。 |
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1550年(天文19) |
二階崩れの変。大友義鑑が死去し、義鎮(宗麟)が家督を相続 24 。 |
変以前に、義鑑派筆頭の入田親廉らと連署状を発給 1 。変後も失脚せず、宗麟政権下で重臣の地位を維持する。 |
1550年代 |
宗麟、肥後国や筑前国へ勢力を拡大。南蛮貿易が本格化する 24 。 |
加判衆として宗麟政権を支える。臼杵鑑続ら宗麟派の重臣とも連署状を発給 2 。南蛮貿易に関わる財政・軍事政策の立案・執行に深く関与したと推定される。 |
1557年(弘治3) |
大内義長が毛利元就に攻められ自害。大友氏と毛利氏の対立が本格化する 24 。 |
加判衆として、対毛利氏政策の決定に関与したと考えられる。 |
1560年代 |
大友氏、毛利氏と北部九州の覇権を巡り激しく争う 35 。 |
政権中枢の重臣として、また一軍を率いる将として、これらの軍事行動を支えたと見られる。 |
1573年頃(天正元) |
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この頃まで活動していたとされるが(利用者様情報より)、没年は不詳。 |
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