最終更新日 2025-08-04

山名宗全

山名宗全は室町時代の守護大名。嘉吉の乱で功を挙げ「六分一殿」の勢力を再興。細川勝元と対立し応仁の乱の西軍総大将となる。乱の終結を見ず70歳で病没した。

山名宗全 ― 室町幕府の黄昏を体現した巨星の生涯

序章:乱世の巨星、山名宗全

室町時代中期、将軍の権威は地に堕ち、守護大名間の熾烈な権力闘争が繰り広げられる動乱の時代に、一人の傑物がその名を歴史に刻んだ。山名宗全(やまな そうぜん)、俗名を持豊(もちとよ)という。彼は、かつて「六分一殿」と称された名門山名氏の再興という宿願を背負い、その生涯を権力闘争の渦中で燃焼させた。嘉吉の乱において幕府の秩序回復に貢献し、衰亡の淵にあった一族を再興させる武功を挙げながら、その野心は留まることを知らず、ついには自らの婿である管領・細川勝元と国家を二分する大乱「応仁の乱」を引き起こすに至る。

宗全の生涯は、一個人の栄達の物語に留まらない。それは、守護大名という旧来の権力構造の頂点を目指しながら、結果としてその体制そのものを根底から揺るがし、「戦国」という新たな時代の扉を自ら開いてしまったという、巨大な矛盾を内包している。彼は旧秩序の体現者でありながら、その行動原理は「下剋上」の精神を先取りしていた。本報告書は、山名宗全という人物の生涯を、その出自から応仁の乱に至るまでの軌跡、そして複雑な人物像に至るまで、あらゆる側面から徹底的に分析し、彼が室町という時代にいかなる存在であったかを明らかにすることを目的とする。


表1:山名宗全 生涯年表

年代(西暦)

元号・年

年齢

主要な出来事と官位

1404年

応永11年

1歳

5月29日、山名時熙の三男として但馬国に生まれる。幼名は小次郎 1

1413年

応永20年

10歳

元服。4代将軍足利義持より偏諱を賜り「持豊」と名乗る 2

1421年

応永28年

18歳

備後国人の討伐戦で初陣を飾る 2

1433年

永享5年

30歳

複雑な経緯を経て山名家の家督を相続。但馬・備後・安芸・伊賀4か国の守護となる 2

1437年

永享9年

34歳

家督相続に不満を抱き挙兵した兄・持熙を討伐し、地位を固める 1

1439年

永享11年

36歳

正四位下左衛門佐に叙任される 2

1440年

永享12年

37歳

幕府の侍所頭人(所司)兼山城守護に就任 2

1441年

嘉吉元年

38歳

6月、嘉吉の乱勃発。将軍足利義教暗殺の場に居合わせるも脱出。7月、赤松満祐討伐軍の将として出陣 2

1442年

嘉吉2年

39歳

討伐の功により播磨守護職などを獲得。出家し「宗峯」と号す(後に「宗全」と改める) 2

1443年

嘉吉3年

40歳

但馬に竹田城の築城を完了させたとされる 5

1447年

文安4年

44歳

養女を細川勝元に嫁がせ、同盟関係を強化する 2

1450年

宝徳2年

47歳

家督を嫡男・教豊に譲るが、実権は保持し続ける 1

1454年

享徳3年

51歳

赤松氏への強硬姿勢が将軍義政の不興を買い、幕府から追討を受け蟄居。後に勝元の仲介で復帰 7

1458年

長禄2年

55歳

細川勝元が赤松政則の家名再興を後押ししたことで、両者の対立が深刻化する 7

1467年

応仁元年

64歳

1月、御霊合戦で畠山義就に加勢。5月、応仁の乱が本格化し、西軍の総大将となる 4

1472年

文明4年

69歳

勝元との和平交渉が決裂。責任を感じて切腹未遂を図ったとの逸話が残る 1

1473年

文明5年

70歳

3月18日、乱の終結を見ることなく陣中で病没。享年70 1


第一章:名門の再興を担う者 ― 持豊の出自と家督相続

1.1 「六分一殿」の栄光と没落

山名宗全の行動原理を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史的背景を深く考察する必要がある。山名氏は清和源氏の名門、新田氏の支流として上野国山名郷に発祥した武家である 9 。南北朝時代の動乱期、当主であった山名時氏は足利尊氏に従って各地を転戦し、その功績によって山陰地方を中心に勢力を拡大した 3 。室町幕府成立後、山名氏はその勢力をさらに伸長させ、時氏の子らの代には、一族で山城、丹波、和泉、紀伊、但馬、播磨、美作、備後、因幡、伯耆、丹後の計11か国の守護職を独占するに至った 11 。これは当時の日本の総国数66か国のうち6分の1に相当することから、山名氏は畏敬の念を込めて「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と称されるほどの絶大な権勢を誇った 6

しかし、この強大すぎる力は、将軍権力の確立を目指す3代将軍・足利義満にとって看過できない脅威であった。義満は巧みな政治工作によって山名一族の内紛を誘発し、明徳2年(1391年)、山名氏清・満幸らが幕府に反旗を翻す「明徳の乱」へと追い込んだ 12 。幕府軍の圧倒的な兵力の前に山名軍は敗北し、戦後処理は過酷を極めた。乱の結果、山名氏が安堵された守護国は但馬、伯耆、因幡のわずか3か国にまで激減させられ、かつての栄華は見る影もなく、一族は深刻な衰退期に入ったのである 11

山名宗全、すなわち持豊が生まれたのは、この「失われた栄光」の記憶が生々しく残る時代であった。彼の生涯にわたる執拗なまでの権力と領土への渇望は、単なる個人的な野心の発露としてのみ解釈することはできない。それは、明徳の乱によって地に堕ちた「六分一殿」としての誇りと権勢を、自らの手で回復するという、一族全体の悲願を一身に背負った使命感に根差すものであった。この強烈な動機こそが、後の宿敵・赤松氏に対する非情なまでの執着や、幕府の権威さえも利用し、時には無視する彼の行動を読み解く鍵となる。

1.2 複雑な家督相続

応永11年(1404年)、持豊は明徳の乱後の山名氏惣領であった山名時熙の三男として生を受けた 2 。長兄・満時が早くに亡くなったため、家督相続者は次兄・持熙と三男・持豊に絞られていた 3 。応永35年(1428年)、父・時熙が重病に倒れた際、時熙自身は持豊を後継者として望んだとされる 2 。しかし、この時、幕府政治に強権を振るっていた6代将軍・足利義教が介入する。義教は自らの側近であった次兄・持熙を後継に立てるよう、山名氏に命じたのである 2

この将軍の意向は、山名家中に深刻な動揺をもたらした。時熙の病状が回復したため、家督相続問題は一時的に先送りされたものの、持豊の立場は極めて不安定なものとなった 2 。ところが、永享3年(1431年)、事態は急転する。兄・持熙が義教の勘気を被り、突如として廃嫡されたのである 2 。これにより、持豊は永享5年(1433年)に正式に家督を相続し、但馬、備後、安芸、伊賀の4か国を領する守護大名となった 2

しかし、この相続は平穏には終わらなかった。家督を巡る一連の経緯に不満を抱いた兄・持熙は、永享9年(1437年)に備後国で反乱の兵を挙げた 2 。持豊は直ちに討伐軍を率いてこれを鎮圧し、兄を討ち取ることで、名実ともに山名氏の惣領としての地位を確立した 1

この一連の家督相続の過程は、持豊の人格形成に決定的な影響を与えたと考えられる。将軍の気まぐれな意向一つで自らの運命が左右されかねない幕府権力の理不尽さと、有力守護大名の家督相続にさえ容易に介入するその本質を、彼は青年期に骨身に染みて学んだはずである。そして最終的に、自らの地位を確固たるものにしたのは、将軍の寵愛や政治的な正当性ではなく、兄の反乱を鎮圧した自らの「武力」であった。この経験は、彼の中に「最終的に頼りになるのは自らの実力である」という、冷徹な実力主義的思想を深く刻み込んだ。後に見られる、幕府の命令を軽視する大胆な行動や、政敵との対立を武力で解決することも辞さない姿勢は、この原体験にその源流を見出すことができるのである。

第二章:嘉吉の変 ― 権力への階梯

2.1 将軍暗殺と持豊の動向

永享12年(1440年)、持豊は幕府の侍所頭人(所司)に任じられ、幕政の中枢にその地位を占めるに至った 2 。その翌年の嘉吉元年(1441年)6月24日、日本の歴史を震撼させる事件が発生する。播磨・備前・美作の守護大名であった赤松満祐が、京都の自邸に6代将軍・足利義教を招き、宴の最中にこれを殺害したのである 2 。世に言う「嘉吉の乱(嘉吉の変)」である。

この暗殺の現場には、侍所頭人として将軍に随行していた山名持豊も同席していた。前代未聞の凶行を目の当たりにした持豊は、しかし、その場で満祐に抵抗することなく、混乱に乗じて屋敷から脱出した 2 。この行動は、一見すると将軍を守るべき重臣としての職務を放棄した臆病な振る舞いと映るかもしれない。しかし、周到に準備された計画殺人の場において、無謀な抵抗が死を意味することを瞬時に判断し、再起を図るために脱出を選択したとすれば、それは彼の冷静な判断力と現実的な思考の発露であったと分析することも可能である。

2.2 赤松討伐と権勢の確立

将軍を弑逆した赤松満祐は、領国である播磨に下り、幕府に対する反乱の意思を明確にした。将軍を失い混乱する幕府であったが、管領・細川持之を中心に満祐討伐の体制を整える。この時、赤松氏とは領国が隣接し、かねてより播磨の領有を渇望していた山名持豊は、討伐軍の総大将の一人として中心的な役割を担うこととなった 5

持豊は侍所頭人を辞任した後、同族の山名教清、山名教之ら一族郎党を率いて、本国の但馬から播磨へと侵攻した 2 。山名軍は赤松方の城を次々と攻略し、満祐が籠もる城山城を包囲する 4 。山名一族の猛攻の前に播磨の国人たちは次々と赤松氏を見限り、追い詰められた満祐は自刃。ここに嘉吉の乱は鎮圧された 17

この赤松討伐における持豊の功績は絶大であった。戦後の論功行賞において、彼は宿願であった播磨の守護職を獲得 2 。さらに一族の教清が美作、教之が備前を与えられるなど、山名氏は赤松氏の旧領国の多くを手中に収めた 6 。これにより、持豊が惣領を務める山名一族の守護国は、合計で8か国から9か国に及び、かつて失われた「六分一殿」の権勢に迫る、幕府内でも屈指の勢力を一代で回復させることに成功したのである 4

2.3 権力者の二つの顔 ― 秩序の回復者と破壊者

嘉吉の乱における山名持豊の活躍は、将軍殺害という幕府の秩序を根底から揺るがす大罪人を討伐したという点で、まさしく「秩序の回復者」としての側面を持つ。しかし、その行動を詳細に見ていくと、全く異なる顔が浮かび上がってくる。

公家の万里小路時房が記した日記『建内記』によれば、持豊の軍勢は、赤松討伐の幕命が下る以前から播磨国内に侵入し、寺社領などを勝手に横領していたという 2 。さらに、討伐軍として京都に駐留していた際には、「陣立」と称して洛中の土倉(金融業者)や質屋を襲撃して財物を強奪し、管領・細川持之の軍兵に対しても押し買いを行うなど、その傍若無人な振る舞いは目に余るものがあった 2 。時房は「近日の無道・濫吹(らんすい、無法な振る舞いの意)ただ山名にあるなり」と激しく非難し、もし持豊が播磨守護になれば「一国滅亡」するだろうとまで嘆いている 2

これらの記録は、持豊が幕府の権威や秩序の回復に貢献する一方で、自らの利益のためにはその権威や秩序を平然と踏みにじることも厭わない、二面性を持った人物であったことを如実に示している。彼にとって「秩序」とは、絶対的に守るべきものではなく、自らの権勢拡大のために利用し、時には破壊する対象ですらあった。この価値観は、後の応仁の乱へと繋がる彼の行動を理解する上で極めて重要である。

2.4 領国経営の拠点 ― 竹田城の築城

嘉吉の乱を経て、山名氏の勢力圏は大きく拡大した。持豊(この頃に出家し宗全と号す)は、この拡大した領国を維持し、統治するための戦略的な拠点整備にも着手している。その代表例が、現在「天空の城」として知られる竹田城(兵庫県朝来市)の築城である 5

伝承によれば、竹田城の築城は永享3年(1431年)に始まり、嘉吉3年(1443年)に完成したとされる 5 。この城は、本国・但馬と新たに獲得した播磨を結ぶ要衝に位置し、赤松氏の残党勢力や、隣国・丹波を領する細川氏への備えという、明確な軍事戦略上の意図を持って築かれたと考えられる 5 。宗全は配下の太田垣氏を城主として配置し、この地を山名氏の西播磨支配の拠点とした 23 。彼の権力伸長が、単なる領土の獲得に留まらず、それを実効支配するための具体的な軍事・行政基盤の整備と一体であったことが、この竹田城の存在からうかがえる。

第三章:二人の巨頭 ― 細川勝元との協調と対立

3.1 蜜月時代 ― 協調と婚姻同盟

嘉吉の乱を経て、山名宗全は幕政における最大の実力者の一人としてその名を轟かせた。時を同じくして、幕府の管領職を世襲する名門・細川家の当主であり、宗全に匹敵する力を持つ細川勝元が台頭する。当初、この二人の巨頭の関係は、対立ではなく協調から始まった 25 。彼らには、当時幕府で大きな影響力を持っていた畠山持国という共通の政敵がおり、その勢力を削ぐために協力関係を築いたのである 2

宗全はこの協力関係をより強固なものにするため、巧みな婚姻政策を展開した。文安4年(1447年)、嘉吉の乱で戦死した一族の山名熙貴の娘を養女とし、細川勝元に嫁がせた 2 。さらに後には、自らの実子である豊久を勝元の養子に入れるなど 4 、幾重にもわたる縁戚関係を結び、両家の同盟を盤石なものにしようと努めた 4 。この協力関係は、文正元年(1466年)に8代将軍・足利義政の側近であった伊勢貞親らを失脚させた「文正の政変」において、両者が共闘する形で結実する 20 。この時点では、宗全と勝元は幕府政治を左右する二大巨頭として、互いに連携し合うパートナーであった。

3.2 関係破綻の序曲 ― 赤松氏再興問題

盤石に見えた宗全と勝元の同盟関係に、最初の、そして決定的な亀裂を生じさせたのが、他ならぬ「赤松氏の再興問題」であった。

長禄2年(1458年)、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣たちが、南朝方が保持していた皇位の象徴である神璽(三種の神器)を奪回するという大功を立てる事件が起こった(長禄の変)。これを好機と見た細川勝元は、赤松満祐の大甥にあたる赤松政則の家名再興と加賀半国の守護職への補任を強力に後押しした 7 。勝元にとってこの動きは、宗全の強大化する勢力に楔を打ち込むための戦略的な一手であった。

しかし、宗全にとってこれは到底容認できるものではなかった。赤松氏は、自らが中心となって討伐した宿敵であり、その旧領である播磨は、今や山名氏の権勢の根幹をなす重要な領国であった 30 。その宿敵一族の再興を、同盟者であるはずの婿・勝元が主導しているという事実は、宗全にとって裏切り以外の何物でもなく、自らの戦功と権益を根底から否定する行為に他ならなかった 5

この一点において、両者の利害は完全に、そして非和解的に衝突した。他の政治問題が権力バランスの駆け引きで妥協の余地があったのに対し、赤松氏再興問題は、宗全の過去の功績と現在の支配の正当性そのものに関わる、感情的にも実利的にも譲ることのできない一線であった。ここから、二人の巨頭は協調から対立の時代へと大きく舵を切ることになる。

3.3 代理戦争の激化 ― 斯波・畠山両氏の家督争い

赤松氏再興問題で顕在化した宗全と勝元の対立は、幕府の屋台骨を支える三管領家のうち、斯波氏と畠山氏で相次いで発生した家督相続争いに両者が介入することで、さながら全国規模の代理戦争の様相を呈していく。

まず、畠山氏において、当主・畠山持国の子である義就と、持国の甥にあたる政長との間で家督を巡る深刻な対立が生じた 4 。この争いにおいて、宗全は武勇に優れた畠山義就を支援し、一方の勝元は将軍側近の伊勢貞親らと結んで畠山政長を支持した 4

時を同じくして、斯波氏でも当主・斯波義健の養子である義敏と、新たにもう一人の養子となった義廉との間で家督争いが勃発 32 。ここでも宗全は義廉を、勝元は義敏をそれぞれ支持し、対立は先鋭化した 33

これらの家督争いは、もはや個々の家の内紛という次元を遥かに超えていた。それは、宗全派と勝元派という二大派閥が、自陣営の勢力を拡大し、幕政の主導権を握るための覇権争いの舞台そのものであった。全国の守護大名たちは、自らの利害や縁故に基づき、宗全派か勝元派かのいずれかに与することを余儀なくされ、日本中が二つの陣営に色分けされていく状況が形成された。

3.4 対立の頂点 ― 将軍家後継者問題

数々の対立要因が複雑に絡み合う中、両者の関係を最終的に破局へと導き、武力衝突を不可避にしたのが、室町幕府の根幹を揺るがす「将軍家後継者問題」であった。

8代将軍・足利義政は、長らく実子に恵まれなかったため、出家していた弟の義視を還俗させ、次期将軍として後継者に定めていた 27 。この時、細川勝元が義視の後見人となっている 20 。ところがその直後、義政の正室である日野富子が男子・義尚を出産した 20 。富子は我が子である義尚を溺愛し、なんとしても将軍の座に就けたいと画策。その実現のため、幕府内で勝元に対抗しうる唯一の実力者であった山名宗全に接近し、義尚の後見を依頼したのである 34

これにより、将軍家の家督争いは、義視を擁立する細川勝元派と、義尚を担ぐ山名宗全派との対立構造に完全に集約された 35 。幕府の最高権力である将軍家そのものが二つに割れ、それを支える二大実力者がそれぞれ一方の当事者となった今、もはや政治的な妥協や駆け引きで事態を収拾することは不可能であった。日本中を巻き込む大乱の火種は、まさに投じられようとしていた。

第四章:応仁・文明の大乱 ― 天下を揺るがす十年

4.1 開戦 ― 御霊合戦

応仁元年(1467年)正月、山名宗全の呼びかけに応じた畠山義就が大軍を率いて上洛し、京都の情勢は一気に緊迫した 8 。将軍・足利義政は畠山政長の管領職を罷免し、義就を畠山氏の家督と認める姿勢を示す 37 。これに反発した政長は、自邸に火を放つと上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き、徹底抗戦の構えを見せた 8

義政は諸大名に対し、これは畠山家の私闘であり、どちらにも加勢することを固く禁じた 37 。細川勝元はこの将軍命令に従い、盟友である政長に援軍を送らなかった。しかし、宗全はこの命令を公然と無視。斯波義廉らと共に義就に加勢し、御霊社に籠る政長軍を攻撃した 8 。これが「御霊合戦」である。将軍命令を遵守した結果、盟友を見殺しにする形となった勝元の面目は丸潰れとなり、「武士の風上にも置けない」と世の非難を浴びた 39 。この屈辱は、勝元から政治的解決の選択肢を奪い、武力による報復以外の道を残さなかった。ここに、応仁の乱の実質的な戦端が開かれたのである。

4.2 西軍総帥と西陣

御霊合戦から約4か月後の同年5月、勝元は雪辱を果たすべく全国の与党に動員をかけ、京都で本格的な戦闘が開始された。山名宗全は、堀川通り五辻(現在の上京区山名町)にあった自らの広大な邸宅に本陣を構えた 35 。一方、細川勝元の本陣は室町幕府(花の御所)の東側に位置した。この地理的な位置関係から、宗全が率いる軍勢は「西軍」、勝元が率いる軍勢は「東軍」と呼称されるようになった 8 。『応仁記』などの軍記物によれば、東軍16万、西軍11万ともいわれる大軍が都に集結し、京都を舞台とした未曾有の内乱が始まった 4 。後に、西軍の本陣が置かれたこの一帯は「西の陣」から転じて「西陣」と呼ばれるようになり、乱後に織物産業の中心地として復興したことで、その名が今日まで受け継がれている 40

4.3 泥沼化する戦乱と京都の荒廃

当初、両陣営が想定していた短期決戦の目論見は、脆くも崩れ去った。戦況は一進一退を繰り返し、同年8月には周防の有力大名・大内政弘が数万の大軍を率いて上洛し西軍に加わったことで、西軍は勢いを盛り返す 38 。戦いは京都のみならず、各守護大名の領国にも飛び火し、全国規模の内乱へと発展していった 8

主戦場となった京都では、市街戦の様相がそれまでの合戦と大きく異なっていた。両軍はそれぞれの陣地の周囲に深い堀や土塁を巡らせた「御構(おんかまえ)」と呼ばれる要塞を築き、市街地全体が城塞化した 45 。これにより、大規模な突撃による決戦は困難となり、弓矢や投石機による遠距離攻撃が主体の、さながら攻城戦あるいは塹壕戦のような膠着状態が続いた 46

11年にも及ぶこの大乱によって、栄華を誇った都は文字通り焦土と化した。相国寺、天龍寺、清水寺、仁和寺といった名だたる寺社仏閣、そして数多の公家屋敷や町家が兵火に焼かれ、貴重な文化財や書物も灰燼に帰した 40 。京都の街は壊滅的な被害を受け、幕府の権威失墜と相まって、その復興には長い年月を要することになる。

4.4 陣中での死

果てしなく続く戦乱に、両軍ともに疲弊の色は濃くなっていった。厭戦気分が蔓延する中、文明4年(1472年)には宗全と勝元の間で和平交渉が試みられたが、もはや両大将の意向だけでは戦争を止められないほど、配下の武将たちの利害が複雑に絡み合っており、交渉は決裂に終わった 1 。一説には、宗全はこの和平交渉失敗の責任を感じ、切腹を図ったが未遂に終わったとも伝えられている 4

この頃の宗全は、年齢による衰えも著しく、重い中風を患っていたともいう 2 。そして文明5年(1473年)3月18日、西軍総大将・山名宗全は、ついに乱の終結を見ることなく、陣中にて70年の波乱の生涯を閉じた 1 。その死因は病死とされるが、切腹未遂の際の傷が悪化したためという説もある 1 。奇しくも、彼の終生のライバルであった細川勝元も、その約2か月後に後を追うようにこの世を去った 4 。両雄の相次ぐ死は、大乱の求心力を失わせ、終息へと向かう大きな転機となったのである。


表2:応仁の乱における東西両軍の主要構成

陣営

総大将

将軍家・後継者

主要な構成大名・勢力

東軍

細川勝元

足利義政(8代将軍)、足利義尚(当初)、後に足利義視(一時)

細川氏一門、畠山政長、斯波義敏、京極氏、赤松政則、武田信賢、今川義忠

西軍

山名宗全

足利義視(当初)、後に足利義尚を擁立

山名氏一門、大内政弘、畠山義就、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、六角高頼

注:乱の長期化に伴い、一部勢力の離反や寝返りがあったため、これは開戦当初の基本的な対立構造を示す。特に足利義視は当初東軍に擁立されたが、後に西軍に奔るなど、立場が流動的であった 4


第五章:人物像の多面性 ― 「赤入道」の実像

5.1 異名「赤入道」の由来

山名宗全を象徴する異名として、「赤入道(あかにゅうどう)」が広く知られている。これは彼が生来赤ら顔であったことに由来するもので 4 、「入道」とは出家した武士を指す言葉である。宗全は嘉吉2年(1442年)に出家しており 2 、その風貌と立場が相まって、この異名が定着したと考えられる。この呼び名には、単なる身体的特徴の描写を超えて、彼の短気で激情的な性格や、戦場における勇猛果敢な姿に対する人々の畏怖の念が込められていた 4 。同時代を生きた禅僧・一休宗純は、宗全を「鞍馬の毘沙門天の化身」と評したとも伝えられており 20 、その威圧的な存在感がうかがえる。

5.2 激情と温情の二面性

宗全の性格は、短気で傲慢、自らの意見を押し通す強引さゆえに敵が多かったと評される 4 。嘉吉の乱の際の傍若無人な振る舞いや、応仁の乱において将軍の停戦命令を無視した行動は、その性格を物語っている。しかし、その一方で、彼は身内や家臣に対しては深い情愛を示す人物でもあった。家臣が病に罹った際にはその回復を熱心に祈願し、戦死した家臣を悼んで供養会を丁重に開いたという記録も残されている 4

この激情と温情という二面性は、一見矛盾しているように見えるが、敵には容赦なく、味方には慈悲深いという、乱世を生きる武将の典型的な気質を示すものと解釈できる。彼にとって、忠誠を誓う者は家族同然に庇護する一方で、敵対する者や自らの道を阻む者は徹底的に排除する対象であった。この親分肌な気質は、多くの武将を惹きつけ、西軍という巨大な軍事連合を率いる求心力の一因ともなったであろう 41

5.3 旧弊を打破する価値観 ― 「例」よりも「時」

山名宗全の人物像と思想を最も象徴的に示す逸話が、『塵塚物語』などに伝えられている。応仁の乱の最中、宗全がある公家の大臣と乱世について語り合った際、その大臣が過去の先例ばかりを引用して持論を展開した。これに苛立った宗全は、次のように喝破したという。

「いちいち過去の事例を挙げるのはよろしくない。これからは『例』という文字を『時』という文字に替えて心得るべきである。昔のやり方にとらわれて時代の変化を知らなかったからこそ、あなた方(公家)は我々武家に天下を奪われたのだ。私のような武士があなたのような高貴な方と対等に話すこと自体、過去に『例』のないことだ。これが『時』というものである」 20

この「例よりも時」という言葉は、宗全の価値観の核心を突いている。「例」とは、家格や血筋、伝統、先例といった、公家社会や旧来の幕府体制を支える伝統的権威を象徴する。対して「時」とは、その時々の力関係、軍事バランス、時流といった、現実の力を象arctする。宗全のこの発言は、伝統や権威よりも、現実的な状況判断と実力を重視する、彼の徹底した実用主義・現実主義の思想を端的に示している。

この思想は、単に宗全個人の気質に留まるものではない。それは、まさに「下剋上」の時代の到来を告げる、思想的な狼煙であった。身分や家格といった「例」の権威が失墜し、実力という「時」の論理が全てを支配する戦国時代の価値観を、彼は先取りしていたのである。宗全自身は守護大名という旧体制側の人間でありながら、その精神性は来るべき戦国武将のそれに極めて近かった。彼は、自らが属する世界の価値観を、自らの行動原理によって乗り越えようとした、時代の巨大な転換点を体現する人物であったと言えよう。

5.4 武辺一辺倒ではない文化的素養

「赤入道」の異名や数々の武勇伝から、宗全は武辺一辺倒の猛将というイメージが強い。しかし、彼には当時の武家社会における高い文化的素養も備わっていた。例えば、室町時代に活躍した連歌師の七賢人の一人に数えられる高山宗砌は、山名氏の家臣筋の出身であり、宗全とも親しい関係にあった 20 。宗全が但馬に下向した際には、宗砌もそれに従ったという。

また、公家の日記には、宗全が自邸に細川勝元を招き、犬追物(いぬおうもの、武士の騎射訓練の一つ)や猿楽(能楽)でもてなしたという記録が残っている 20 。これらは、彼が単なる戦人ではなく、当時の上流武士階級の必須教養であった芸能や遊興にも深く通じていたことを示している。このような文化的側面は、彼の人物像に深みを与え、単なる破壊者ではない、室町時代の守護大名としての複合的な姿を浮かび上がらせる。

終章:宗全が遺したもの ― 幕府権威の崩壊と戦国乱世の到来

6.1 宗全の功罪 ― 秩序破壊と時代の創造

山名宗全の生涯を評価する時、その功罪は表裏一体である。彼は、明徳の乱で没落した山名氏を、その卓越した武略と政治力によって一代で再興させた、疑いようもなく優れた武将であった 7 。しかし、その権勢拡大の過程で彼が取った行動、とりわけ宿敵・赤松氏への執拗なまでの敵意と、終生のライバル・細川勝元との対立を、最終的に武力で解決しようとした決断は、京都を11年間にわたって戦火に晒し、室町幕府の権威を決定的に失墜させる応仁の乱を招いた 5

彼は、守護大名という室町幕府の秩序を支えるべき立場にありながら、その行動は常に自らの、そして一族の利益を最優先するものであった。結果として、彼が引き起こした大乱は幕府の統治能力を麻痺させ、全国各地で守護大名の権威が揺らぎ、守護代や国人といった下位の者が上位の者を実力で凌駕する「下剋上」の風潮を決定的なものにした 56 。宗全は、旧秩序の中で名門の栄光を取り戻そうとしながら、結果的にその旧秩序そのものを破壊し、誰もが予期しなかった「戦国」という新たな時代の到来を準備した。その意味で、彼は室町幕府体制の最大の受益者の一人でありながら、同時にその最大の破壊者でもあったと言える。

6.2 山名一族のその後

皮肉なことに、宗全が命を懸けて再興した山名氏の権勢は、彼自身が引き起こした応仁の乱によって大きく疲弊し、その後の衰退を運命づけられた。乱の長期化は山名氏の国力を著しく消耗させた。乱後、宗全の子・政豊の代になると、獲得した領国では国人の離反や有力家臣の自立が相次ぎ、特に播磨、備前、美作は宿敵・赤松政則に奪回されてしまう 9

その後、山名氏は但馬・因幡の2か国を保持する山陰の地方勢力へと縮小し、戦国時代には毛利氏や尼子氏といった新興勢力の狭間で苦慮することになる 9 。天正8年(1580年)、宗全から数えて5代後の山名祐豊の代に、羽柴秀吉の但馬侵攻の前に降伏し、守護大名としての山名氏は事実上滅亡した 11

一族の血脈は、その後、豊臣、徳川の世を生き抜き、江戸時代には但馬村岡の交代寄合や旗本として存続した 9 。鎌倉・室町・江戸という三つの幕府に仕え、武家政治の始まりから終わりまでを見届けた稀有な一族として歴史に名を残したが 9 、宗全が一代で築き上げた栄光が再び訪れることはなかった。

6.3 歴史的評価の総括

山名宗全は、室町幕府体制の黄昏と、来るべき戦国乱世の黎明を一身に体現した巨魁である。彼の70年の生涯は、伝統的権威(例)がその力を失い、個人の実力と時流(時)が全てを決定していく時代の大きな転換点そのものであった。彼は、旧時代の価値観の中で「六分一殿」という名門の再興を夢見ながら、その行動と思想は、結果として全く新しい時代の論理を社会に浸透させた。

応仁の乱の西軍総大将として、京都を破壊した張本人という否定的な評価が一般的である一方で、旧弊を打破し、時代の変化を鋭敏に捉えた革新者としての一面もまた、彼の本質である 7 。この巨大な矛盾と、時代を動かした圧倒的なエネルギーこそが、山名宗全という人物を日本史上、極めて重要かつ魅力的な存在たらしめている。彼は、自らが望んだか否かにかかわらず、一つの時代を終わらせ、新たな時代の扉を開いた、紛れもない歴史の巨人であった。

引用文献

  1. 山名宗全- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8
  2. 山名宗全 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8
  3. 山名宗全(1/2)応仁の乱の西軍大将 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/613/
  4. 山名宗全 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/yamanasozen/
  5. 山名宗全(山名宗全と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/72/
  6. 山名宗全 http://kotatu.jp/hyo/itiran/itiran/yamana.htm
  7. 勇将・山名宗全が犯した失策 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20840
  8. 応仁の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
  9. 山名氏について - 但馬村岡 法雲寺 http://www.houun.jp/w/?page_id=252
  10. 武家家伝_山名氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamana.html
  11. 山名氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
  12. 明徳の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/59185/
  13. 明徳の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
  14. 守護大名山名家伝来の太刀 伯耆国宗/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65674/
  15. 中央の情勢 - 東郷町誌 https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/2syo/03010400.htm
  16. 県史編さん室のスタッフ紹介/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/999529.htm
  17. 嘉吉の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
  18. 第114回県史だより/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/247068.htm
  19. 山名持豊 - 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%8C%81%E8%B1%8A/
  20. 山名会歴史講演会「応仁の乱と山名宗全」 http://www.yamana1zoku.org/uploads/photos/1215.pdf
  21. 戦国時代を呼んだ「山名宗全・細川政元」、実力主義へ社会を変革した武将の正体 https://diamond.jp/articles/-/316644
  22. 竹田城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/takeda-castle/
  23. 竹田城の歴史 - 竹田城跡公式ホームページ - 朝来市 https://www.city.asago.hyogo.jp/site/takeda/3092.html
  24. 竹田城について | 【公式】竹田城 城下町 ホテルEN|竹田城跡に最も近く歴史の詰まったホテル https://www.takedacastle.jp/takedacastle
  25. 細川勝元邸跡山名宗全邸跡 https://www1.doshisha.ac.jp/~prj-0604/keitai/round2.htm
  26. 細川勝元と山名宗全ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する https://sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/2022/01/19/185350
  27. 山名宗全(2/2)応仁の乱の西軍大将 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/613/2/
  28. 細川勝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E5%85%83
  29. 細川勝元と山名宗全 応仁の乱の東西両軍の総帥のこと - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2017/04/30/185708
  30. 有馬温泉歴史人物帖 ~其の弐拾参~ 山名 宗全 (やまな そうぜん) 1404~1473 | 神戸っ子 https://kobecco.hpg.co.jp/97262/
  31. 応仁の乱 なぜ起こってしまったのか? - 京都観光旅行ガイド https://blog.kanko.jp/kyoto-history/onin-war/ounin-war-summary
  32. 応仁の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7077/
  33. [書評]『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』|木元隆雄 - note https://note.com/takao_tanq/n/na2fd45b7fc4d
  34. 日野富子(1/2)将軍の御台所と母親になった女性 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/637/
  35. KA074 山名宗全旧蹟 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka074.html
  36. 日野富子 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/HumanHinoTomiko.html
  37. 足利義政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF
  38. 『複雑で難解な応仁の乱を読み解く』 https://itami-bunbora.main.jp/freestudy/photo/201812ounin1-36.pdf
  39. 応仁の乱(1/2)戦国時代のきっかけとなった11年の内乱 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/634/
  40. 都市史14 応仁・文明の乱 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi14.html
  41. 山名宗全って何をした人?歴史が動いた応仁の乱! - WAM ブログ https://www.k-wam.jp/blogs/2024/11/post137505/
  42. 山名宗全邸跡 [東陣] 山名一族を率いた山名持豊(1404~1473 年)は https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001557546.pdf
  43. まるっとわかる応仁の乱 後編 ~結局、応仁の乱とは何だったのか?~ - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000457/
  44. 第32回 応仁の乱と衰退する室町幕府 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp32.html
  45. なんだかなあ……とやるせなくなる 『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』読書感想文 - note https://note.com/bright_borage399/n/n9c3d60c27fca
  46. 泥沼か!応仁の乱を膠着させた3つの軍事イノベーションとは【応仁の乱を読む 第2回】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/191973
  47. 応仁の乱はどうして起きたの? 長い戦の原因は?【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/159331
  48. ドナルド・キーン『足利義政と銀閣寺』 中公文庫 2008・11 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/shohyou/ashikaga.html
  49. 山名宗全は、応仁・文明の乱の終わりを見ずに隠居?【戦国武将の話】 - ラブすぽ https://love-spo.com/article/busyo02/
  50. 教科書ではわからない"応仁の乱"の面白さ いちばん大事なところが"説明不足" (2ページ目) https://president.jp/articles/-/27758?page=2
  51. ja.kyoto.travel https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=99#:~:text=%E5%B1%B1%E5%90%8D%E5%AE%97%E5%85%A8%E3%81%AF%E5%BF%9C%E6%B0%B8,%E8%B5%A4%E5%85%A5%E9%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82
  52. 山名宗全 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/HumanYamanaSouzen.html
  53. 山名宗全邸宅跡 - 京都観光 https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=99
  54. カードリスト/電影武将・宴/宴062山名宗全 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/1398.html
  55. adeac.jp https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030370#:~:text=%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%98%8E%E3%81%91,%E3%82%92%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82
  56. 【応仁・文明の乱】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030370
  57. 戦国時代の幕開けを告げ、中世社会を崩壊に至らしめた応仁・文明の乱は、近江国を含め全国に大きな影響を与えた。全国各地に起きた守護大名の反乱に加えて、室町幕府のたび重なる失敗や腐敗 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302010100.html