最終更新日 2025-06-13

岡本良勝

「岡本良勝」の画像

日本の戦国時代における武将・岡本良勝の生涯とその時代

1. はじめに

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将、岡本良勝(おかもと よしかつ)の生涯について、現存する史料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。

岡本良勝は、尾張国に生まれ、当初は織田信長の家臣としてそのキャリアを開始した。特に信長の三男である神戸信孝(織田信孝)の傅役(もりやく)に近い立場にあり、信孝の誕生の際には自らの屋敷を提供したと伝えられている。本能寺の変後、織田家内部の権力闘争とそれに続く激動の政治状況の中で、良勝は旧主信孝のもとを離れ、天下人へと駆け上がる豊臣秀吉に臣従する道を選ぶ。秀吉のもとでは、九州平定や小田原征伐といった主要な戦役に従軍し、その功績によって伊勢亀山2万2千石の城主に取り立てられ、豊臣政権下で大名としての地位を確立した。伊勢亀山においては城郭の大規模な改修を行い、近世城郭としての基礎を築いたとされる。しかし、豊臣秀吉の死後、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦では西軍に属し、奮戦も虚しく敗戦。戦後、降伏したものの許されず、自刃してその波乱に満ちた生涯を閉じた 1

本報告書では、岡本良勝の出自から、織田家臣時代、豊臣政権下での活動、そして関ヶ原の戦いにおける動向と最期に至るまでを、関連する史料を丹念に追いながら詳細に記述する。特に、主君の変遷における彼の決断の背景や、同時代における彼の位置づけ、さらには彼を取り巻く人間関係、とりわけ織田信孝の生母である坂氏との関係にも光を当て、その生涯を立体的に再構築することを試みる。良勝の生き様は、旧体制が崩壊し新たな秩序が形成される戦国時代から近世への移行期を生きた武士の一つの典型であり、その行動原理は、現代的な価値観のみでは測れない当時の武士社会の倫理観や現実的な生存戦略を反映している。主君を乗り換えるという行為も、家名存続が至上命題であった当時の武士にとっては、時に避けられない選択であった。本報告書は、こうした時代背景を踏まえつつ、岡本良勝という一人の武将の実像に迫るものである。

2. 岡本良勝の出自と初期の経歴

岡本良勝の生涯を理解する上で、まず彼の出自と初期の活動について見ていく必要がある。これらは、後の彼の人間関係やキャリア形成に大きな影響を与えたと考えられる。

2.1. 尾張岡本氏と熱田神宮

岡本良勝は、天文11年(1542年)または天文13年(1544年)に尾張国で生まれたとされる 1 。父は岡本定季(さだすえ)といい、良勝はその次男であった。『千秋系図』によれば、重国という兄がいたと伝えられている 1

特筆すべきは、岡本氏が尾張国において重要な宗教的・経済的拠点であった熱田神宮の神官家であったという点である 1 。神官家出身という背景は、良勝が単に武芸に秀でた武将というだけでなく、一定の教養や文化的素養を身につけていた可能性を示唆する。神社の祭祀や運営には、儀礼に関する知識はもとより、文書の読解や作成、さらには地域社会との折衝能力など、多岐にわたる能力が求められたからである。熱田神宮は多くの人々が集まる情報交換の場でもあり、神官家の一員として、良勝は若い頃からそうした環境の中で育ち、人脈形成や情報収集の術を自然と身につけていたのかもしれない。こうした素養は、後に彼が織田信孝の取次役や伊勢亀山城主として統治能力を発揮する上で、少なからず影響を与えたと考えられる。

また、岡本氏と鋳造業との関連を示唆する伝承も存在する。岡本・ナベヤグループの社史によれば、同社の創業者は岡本太郎右衛門尉(岡本良勝)であり、永禄3年(1560年)に鋳造業を興し、織田信長に青銅製の釣瓶を献上したという逸話が紹介されている 3 。この岡本太郎右衛門尉が本稿の岡本良勝と同一人物であるか、あるいは同族の別人物であるかについては慎重な検討を要する。戦国時代の武将が直接的に鋳造業を経営したという確実な記録は稀であり、後世の顕彰や混同の可能性も否定できない。しかしながら、熱田周辺は古くから鋳造業を含む手工業が盛んな地域であり、岡本家が神官家としての立場から、地域の有力者としてこれらの産業と何らかの形で関わっていた(例えば、パトロンとして支援したり、原料調達の便宜を図ったりするなど)としても不自然ではない。もし岡本家が鋳造業に関与していたとすれば、それは彼らの経済力や、武器・武具の調達能力にも影響を与え、武将としての活動基盤の一端を担っていた可能性も考えられる。

2.2. 生誕と名称

前述の通り、良勝の生年は天文11年(1542年)または天文13年(1544年)とされており、これにより慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで自刃した際の享年は58歳または59歳となる 1

諱(いみな)については、「良勝」が正しいとされているものの、他にも「重政(しげまさ)」や「宗憲(むねのり)」といった名も伝えられている 1 。通称としては、平吉郎(へいきちろう)、太郎右衛門尉(たろうえもんのじょう)があり、後には下野守(しもつけのかみ)を名乗った 1 。複数の諱や通称を持つことは当時の武将には一般的であり、時期や状況、あるいは相手によって使い分けられたと考えられる。下野守という官途名は、父である定季も名乗っていたとされる 1

これらの呼称の変遷は、良勝の生涯における立場や役割の変化を反映していると言える。例えば、「太郎右衛門尉」は比較的若い頃や織田家臣時代の初期の呼称であり、織田信孝が良勝の屋敷で誕生した際の記録にも「岡本良勝(太郎右衛門)」と見える 5 。一方、「下野守」はより高い地位、特に天正2年(1574年)に伊勢峯城城主となった頃から見られるようになり 1 、大名格としての公的な呼称であったと考えられる。そして、文禄4年(1595年)には従五位下下野守に正式に叙任されており 1 、豊臣政権下でその地位が公認されたことを示している。「宗憲」という諱は、特に豊臣政権下で伊勢亀山城主となった時期以降に用いられた可能性があり、亀山城の築城者として「岡本宗憲」と言及する史料 4 とも符合する。これは、豊臣政権から新たな知行と城を与えられた際に、心機一転の意味を込めて改名したか、あるいは公式な文書で用いられる諱として定着した可能性を示唆している。

以下に、岡本良勝の呼称と官位の変遷をまとめる。

表1:岡本良勝の呼称と官位の変遷

呼称(諱・通称・官位)

使用時期(推定含む)

関連史料・備考

平吉郎

幼名または若い頃の通称か(詳細不明)

1

太郎右衛門尉

織田家臣時代初期(信孝誕生頃~)

1 (信孝誕生時の記録に見える)

下野守

織田家臣時代中期(天正2年頃~)、豊臣政権下で正式官位に

1 (天正2年に峯城主として「岡本下野守」と記載。父・定季も称したとされる)

(諱)良勝

生涯を通じての正式な諱とされる

1 (「良勝」が正しいとされる)

(諱)重政

別の諱として伝わる

1

(諱)宗憲

別の諱として伝わる。特に亀山城主時代か

1 (亀山城の岡本宗憲入封の記述)

従五位下

文禄4年(1595年)

1 (豊臣政権下で正式に叙任)

2.3. 織田信長への出仕と織田信孝との関わり

岡本良勝のキャリアにおいて、織田信長の子・信孝との関係は極めて重要である。

2.3.1. 信孝の誕生と良勝の屋敷

織田信長の三男として知られる三七(さんしち、後の神戸信孝、織田信孝)は、永禄元年(1558年)4月4日に、熱田にあった岡本良勝(当時は太郎右衛門尉か)の邸で生まれたとされている 1 。この事実は、良勝が信長の家臣の中でも、信長の私的な側面に関わるほど信頼されていたか、あるいは信孝の母である坂氏との縁が深かったことを強く示唆している。

2.3.2. 信孝の母・坂氏との血縁関係

信孝誕生の背景には、良勝と信孝の母・坂(さか)氏との血縁関係があった。『勢州軍記』によれば、良勝は坂氏の叔父にあたるとされる 1 。この関係が、信孝誕生の場として良勝の屋敷が選ばれた直接的な理由と考えられる。坂氏は北伊勢の豪族・坂氏の娘とされているが、その詳細については不明な点が多い 2 。この坂氏と岡本氏の関係については、後の「6. 岡本良勝をめぐる重要人物:坂氏について」で詳述する。

2.3.3. 信孝の伊勢神戸家養子入りと良勝の補佐

永禄11年(1568年)、織田信長は伊勢国への勢力拡大策の一環として、三男の信孝を伊勢の有力国衆である神戸具盛(かんべ とももり)の養子として神戸城へ送り込んだ。この際、岡本良勝は信孝を補佐する老臣(傅役に近い立場)としてこれに従った 1 。これは、良勝が単に信孝の母方の縁者であるというだけでなく、信孝の後見役として信長からその能力と忠誠心を期待されていたことを示すものである。この傅役としての立場は、良勝にとって大きな出世の機会であったと同時に、信孝の運命と自身の運命を強く結びつけることになり、後の羽柴秀吉との対立において、良勝が難しい立場に置かれる伏線となった。

2.3.4. 伊勢峯城城主就任

天正2年(1574年)、伊勢峯(みね)城の城主であった峯盛祐(みね もりすけ)が、織田軍と激しく対立していた長島一向一揆との戦いで討死した。その後継者が幼少であったため、岡本下野守(良勝)が峯城の城主とされた 1 。これは、信孝の勢力範囲である北伊勢において、良勝が軍事的にも行政的にも重要な役割を担うようになったことを意味する。峯城主への就任は、単なる領地獲得以上の意味を持っていた。長島一向一揆は織田家にとって最大の脅威の一つであり、その鎮圧は伊勢支配における最重要課題であった。そのような背景の中で、一揆勢力と最前線で対峙する可能性のある峯城の城主に任命されたということは、良勝が信長(あるいは信孝を通じて)から軍事的能力も高く評価されていたことを示している。

3. 織田信孝の家臣として

岡本良勝は、織田信孝の側近として、その政治的・軍事的活動を支えた。しかし、本能寺の変後の激動は、彼らの運命を大きく揺るがすことになる。

3.1. 本能寺の変後の動静

天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生した。この時、織田信孝は四国攻めの副将として大坂に滞在しており、岡本良勝も信孝の取次衆(とりつぎしゅう)の一人としてこれに同行していたとされる 1 。取次衆とは、主君と他の武将や諸勢力との間の交渉・連絡役を担う重要な役職であり、良勝が信孝の側近として枢要な政治的役割を担っていたことを示している。

変報に接した信孝は、羽柴秀吉らと共に光秀討伐軍に参加し、山崎の戦いで光秀を破った。その後、織田家の後継者問題と遺領配分を決定するために清洲会議が開かれる。この会議において信孝は、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)の後見役の一人となるが、実質的な権力は羽柴秀吉に傾斜していく。この未曾有の危機において、信孝の側に取次衆としていたことは、良勝が信孝の政治行動に深く関与し、その意思決定プロセスにも影響を与えていた可能性を示唆する。清洲会議の過程で、良勝は信孝の立場を強化するために他の織田家臣や諸勢力との交渉、情報収集、根回しなどに奔走したと考えられるが、会議の結果は信孝にとって必ずしも満足のいくものではなく、これが後の秀吉との対立の萌芽となった。

3.2. 羽柴秀吉との対立と信孝からの離反

清洲会議後、織田家中で急速に台頭する羽柴秀吉と、織田信孝及び筆頭家老であった柴田勝家らは対立を深めていく。天正10年(1582年)10月18日付で、秀吉は信孝の非違を鳴らす弾劾状を、信孝の家老である岡本良勝と斎藤利堯(としたか)の両名に宛てて送っている 1 。これは、良勝が信孝方の中核的な人物として、秀吉からも認識されていたことの証左である。

同年12月、秀吉は信孝・勝家打倒の兵を挙げ、まず信孝の居城である美濃岐阜城を包囲した。戦力差は明らかであり、信孝は和議に応じざるを得なかった。その条件として、三法師の引き渡しに加え、信孝の母である坂氏、信孝の乳母であった幸田孝之の母、そして岡本良勝の母も人質として秀吉のもとに送られることになった 1

この母親を人質として差し出すという屈辱的な出来事を機に、岡本良勝は長年仕えた信孝に背き、秀吉方に通じたとされている 1 。同じく信孝に仕え、母を人質に出した幸田孝之が引き続き信孝に忠節を尽くしたのとは対照的な行動であった。良勝のこの決断は、単に母親の身柄を案じたという個人的な理由だけでなく、当時の政治情勢におけるパワーバランスの変化を敏感に察知した結果とも解釈できる。秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、清洲会議でも主導権を握りつつあり、その勢いは織田家旧臣の中でも突出していた。一方、信孝は柴田勝家との連携に依存していたが、地理的な隔たりや兵力差から、秀吉に対抗するのは困難な状況であった。良勝は、母親の安全確保という直接的な動機に加え、このようなマクロな政治情勢を冷静に分析し、将来性の乏しい信孝方に見切りをつけ、勝者となりつつある秀吉に与することで自らの生き残りを図ったと考えられる。これは、当時の武士の合理的な行動原理の一つであった。斎藤利堯も同じく弾劾状を受け取った信孝の家老であるが、その後の動向は良勝と異なる 11 。この差異は、それぞれの個人的な状況、価値観、あるいは秀吉方との交渉ルートの有無など、複数の要因によって生じた可能性がある。

3.3. 賤ヶ岳の戦いに関連する伊勢での動向

天正11年(1583年)、柴田勝家に呼応して信孝が再び岐阜城で蜂起すると、羽柴秀吉との間で賤ヶ岳の戦いが勃発する。この時、既に秀吉方に転じていた岡本良勝は、伊勢峯城にいたが、信孝方の勇将・滝川一益に攻められ、籠城戦を余儀なくされた。結果として峯城は落城した 1 。史料によれば、滝川一益は秀吉方の亀山城(城主・関盛信)と峯城(城主・岡本良勝)を占領したとある 10

峯城の攻防は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦とも言える伊勢方面での戦線の一部であった。良勝が秀吉方として籠城戦を戦ったことは、彼が信孝と完全に袂を分かち、秀吉への忠誠を行動で示したことを意味する。峯城はその後、秀吉勢の大軍によって奪回されるが、伊勢の国持大名となった織田信雄(のぶかつ)に与えられ、その配下の城となった 1 。峯城の落城は良勝にとって一時的な敗北であったが、秀吉方として戦ったという事実は、その後の豊臣政権下での彼の地位確保に繋がったと考えられる。敵方であった信孝に最後まで殉じるのではなく、時流を読んで秀吉に鞍替えし、そのために戦ったという実績は、秀吉からの評価を得る上で重要だったはずである。

4. 豊臣政権下での良勝

旧主・織田信孝を見限り、羽柴(豊臣)秀吉の麾下に加わった岡本良勝は、新たな主君のもとでその能力を発揮し、大名へと出世していく。

4.1. 豊臣秀吉への臣従と戦功

賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利し、信孝・柴田勝家陣営が壊滅した後、良勝は正式に秀吉の家臣となり、その後の主要な戦役に従軍する。天正15年(1587年)の九州平定、天正18年(1590年)の小田原征伐といった豊臣政権の天下統一事業において、良勝は着実に戦功を重ねていった 1

特に小田原征伐では、北条氏方の重要拠点の一つであった武蔵岩槻城攻めに参加し、その功績によって伊勢亀山に2万2千石という大領を与えられた 1 。このことは、彼が秀吉から一定の軍事的評価を得ていたことを明確に示している。2万2千石という石高は、当時の大名としては中堅規模であり、単なる従軍だけでは得られない規模である。岩槻城は小田原北条氏の重要な支城であり、その攻略は容易ではなかったと考えられる。良勝がこの攻略戦において、例えば先陣を切る、重要な攻略作戦を成功させる、あるいは兵站や調略で貢献するなど、目覚ましい働きをしたと推測されるが、その具体的な戦功の内容を伝える史料は現在のところ見当たらない。

4.2. 伊勢亀山城主就任と加増

小田原征伐の恩賞として伊勢亀山2万2千石を与えられた良勝は、翌天正19年(1591年)に現地に入国し、城主となった 1 。伊勢亀山は、元々伊勢の国人領主である関氏が治めていたが、関氏が美濃多良へ移封された後を受けて、岡本良勝(宗憲とも称される)が入封したのである 4 。伊勢亀山は、東海道の要衝であり、伊勢国支配の拠点の一つである。秀吉がこの戦略的に重要な地を良勝に与えたのは、彼に対する信頼の証であると同時に、この地を確実に掌握する意図があったと考えられる。

4.3. 亀山城の大改修とその意義

伊勢亀山城主となった岡本良勝は、関氏時代の城に大幅な改修を施した 1 。具体的には、本丸に加えて二の丸、三の丸を拡張し、天守などの重要な建造物も改築したとされ、これにより城の構えは大きく変わり、近世城郭としての体裁を整えた 14 。この良勝による大改修をもって、実質的な亀山城の築城(あるいは近世城郭としての成立)とし、良勝を最初の城主(近世亀山城の初代城主)とする説もある 14

この大規模な城郭改修は、単に軍事拠点としての強化だけでなく、城下町の整備や領国経営の拠点としての機能向上も意図していたと考えられる。これは良勝が武将としてだけでなく、領主としての行政手腕も有していたことを示唆する。豊臣秀吉は天下統一後、各地の城郭を整備・改修させ、自身の支配体制を強化した。良勝による亀山城改修も、この豊臣政権の地方支配戦略の一環として位置づけられる。幕末の伊勢亀山藩家老・近藤幸殖が詠んだ和歌「豊臣の きみの掛けにし 墨縄や たくみ妙なる 亀山の城」 14 は、秀吉が良勝に命じた築城を秀吉自ら設計したという伝承を詠んだものとされており、史実かどうかは別として、この城が豊臣政権にとって重要な拠点であったことを象徴的に示している。また、良勝が亀山において検地なども行ったとされ 15 、これは彼が豊臣政権の政策を忠実に実行し、近世的な領国支配の基礎を築いた人物として評価できる可能性を示している。

4.4. 文禄の役への従軍

文禄元年(1592年)に始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)では、岡本良勝も他の多くの大名と同様に従軍した。彼は船奉行(ふなぶぎょう)を担当し、兵500を率いて朝鮮へ渡海したと記録されている 1 。朝鮮では京城(漢城府、現在のソウル)に進出し、翌文禄2年(1593年)の第二次晋州城攻防戦にも参加した 1

船奉行という役職は、兵員や兵糧、武器弾薬といった物資の海上輸送、水軍との連携など、兵站面で極めて重要な任務であった。特に渡海を伴うこの戦争においては、その成否が作戦全体に大きな影響を及ぼす。良勝がこの役を担ったことは、彼が単なる戦闘指揮官ではなく、兵站管理や海事に関する知識も有していたか、あるいはそうした困難な任務を遂行できる柔軟性と調整能力を持っていたことを示唆する。文禄の役への参加は、豊臣政権下の大名にとって重要な「御公儀の奉公」であり、これを無事に務め上げることは、政権内での地位維持・向上のために不可欠であった。良勝が船奉行という困難な役職をこなし、実戦にも参加したことは、豊臣政権への忠誠と貢献を示すものであった。

4.5. 豊臣政権下でのさらなる活動と地位

朝鮮から帰朝した後も、良勝は豊臣政権下で活動を続ける。文禄3年(1594年)には、秀吉の新たな居城であり政庁でもあった伏見城の普請(建設工事)を分担した 1 。これは豊臣政権の中枢事業への参加を意味し、他の有力大名と肩を並べる機会でもあった。このような大規模な共同作業は、各大名が自らの財力や技術力を誇示する場であると同時に、他の大名や奉行衆と接触し、情報交換や人脈形成を行う機会でもあり、ここで築かれた人脈や情報は、その後の彼の政治的活動にも影響を与えた可能性がある。

同年9月には、これまでの功績が認められ、鈴鹿郡において1万5230石を加増された 1 。これにより、良勝の知行は先の伊勢亀山2万2千石と合わせて合計で3万7千石余りとなり、大名としての地位をより強固なものにした。

さらに文禄4年(1595年)、既にかねてより(小田原攻めの頃から)父と同じ下野守を称していたが、この年に従五位下下野守に正式に叙任された 1 。これは、豊臣政権における彼の公的な地位が確立されたことを示すものである。

そして慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去した際には、遺物として刀を受領している 1 。主君からの遺物拝領は、家臣にとって大変な名誉であり、主君との特別な関係性を示すものであった。これは、良勝が秀吉から特に目をかけられた大名の一人であったことを示唆し、この「御恩」が、秀吉死後の豊臣家(西軍)への忠誠心として発露し、関ヶ原の戦いでの彼の行動選択に影響を与えた可能性は高い。一連の加増、叙任、遺物拝領は、良勝が豊臣政権下で順調に地位を向上させ、秀吉からの信頼を得ていた「豊臣恩顧」の大名として確立されたことを明確に示している。

5. 関ヶ原の戦いと最期

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部では徳川家康の台頭が顕著となり、石田三成ら奉行衆との対立が先鋭化していく。この対立は、やがて天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。

5.1. 西軍への参加経緯と動向

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、岡本良勝は西軍に属して戦うことになった 1 。良勝が西軍に参加した明確な理由は史料からは断定しにくいものの、豊臣秀吉から厚遇を受け、3万7千石余の大名に取り立てられた「豊臣恩顧」の大名として、石田三成ら豊臣方(西軍)に与するのは、当時の武士の行動原理からすれば自然な流れであったと考えられる 14 。文禄の役において、良勝が石田三成らと共に朝鮮半島で活動したという記録 9 もあり、これが三成との個人的な繋がりを形成する一因となった可能性も否定できないが、詳細は不明である。

良勝は、決戦に際して居城である伊勢亀山城の守りを嫡男の岡本重義(当時12歳)と甥の三休(さんきゅう)に託し、自身は氏家行広(うじいえ ゆきひろ)が守る伊勢桑名城に入った 1 。桑名城は伊勢国の北東端に位置し、木曽三川の河口に面する交通・軍事の要衝である。良勝が桑名城に入ったのは、亀山城(自領)よりもさらに東、前線に近い拠点で東軍を迎え撃つ、あるいは他の西軍部隊と連携して伊勢路の防衛を固める意図があったと推測される。伊勢方面の西軍大名としては、他に長束正家などがおり、彼らと連携して東軍の東進を阻止する役割を期待されたものと考えられる。関ヶ原の戦いに先立ち、伊勢方面では安濃津城の戦いなどの前哨戦があったが、良勝がこれらの戦いに直接関与したかを示す具体的な史料は見当たらない 9

5.2. 戦後の降伏と自刃

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原で行われた本戦において西軍は壊滅的な敗北を喫した。この報は各地の西軍諸将にも伝えられ、戦局は一気に東軍有利へと傾いた。桑名城にいた岡本良勝も、西軍敗北の報に接し、翌9月16日、東軍の将・山岡景友(道阿弥)の説得に応じ、降伏して桑名城を明け渡した 1

しかし、良勝の降伏は受け入れられず、切腹を命じられて自刃した 1 。享年は58歳または59歳であった。関ヶ原の戦後処理において、西軍の主要大名の多くは改易(領地没収)や減封となったが、降伏後に切腹を命じられるケースは、特に積極的に敵対行動を取ったと見なされた場合や、徳川家康がその存在を許容しなかった場合に多い。良勝がなぜ赦されなかったのか、その具体的な理由は史料からは明確ではない。考えられる理由としては、彼が単なる従属的な大名ではなく、伊勢亀山という戦略的要地を抑え、豊臣政権下で3万7千石余の知行を得ていた「豊臣恩顧の有力大名」と見なされたため、徳川家康がその存在を将来的な不安要素と判断した可能性が挙げられる。また、同じく桑名城にいた氏家行広は改易で済んでいる 21 のに対し良勝が自刃を命じられたのは、良勝の方がより主体的に西軍に与したと見なされたか、あるいは伊勢における影響力が大きかったためかもしれない。山岡景友による説得は、必ずしも生命の保証を意味するものではなく、戦国時代の降伏勧告は、無益な抵抗を避けさせるための戦術的手段であり、降伏後の処遇は勝者側の判断に委ねられるのが常であった。

5.3. 嫡男・岡本重義の最期と岡本家のその後

父・良勝が桑名城で悲劇的な最期を遂げた一方、伊勢亀山城を守っていた嫡男の岡本重義もまた、過酷な運命を辿った。重義は父の敗死と西軍の壊滅を知り、亀山城を出た後、近江国水口(みなくち、現在の滋賀県甲賀市)で自刃した 1 。その享年はわずか12歳であった。12歳の少年までもが自刃するという結末は、関ヶ原の戦いがもたらした諸大名の運命の過酷さを象徴している。重義が亀山城を開城した後、なぜ近江水口を目指したのか、誰を頼ろうとしたのかは不明である。水口は東海道の要衝であり、京や大坂へ向かうルート上にある。あるいは、縁者を頼って落ち延びようとした途中で、逃れられないと悟り自刃したのかもしれない。

良勝の甥で、重義と共に亀山城の守備に就いていた三休は、敗戦後に逃亡したとされ、その後の消息は不明である 1 。これにより、伊勢亀山城主・岡本良勝の家系は、大名としては断絶したと考えられる。

6. 岡本良勝をめぐる重要人物:坂氏について

岡本良勝の生涯、特にその初期のキャリアにおいて極めて重要な役割を果たしたのが、織田信孝の生母である坂氏である。良勝と坂氏の関係は、彼の運命を大きく左右したと言っても過言ではない。

6.1. 坂氏の出自と岡本氏との関係

坂氏は、織田信長の側室であり、信長の三男・信孝(幼名・三七)の生母である 6 。名は不詳とされている。

その出自については、北伊勢の豪族・坂氏の娘であるとされる 6 。より詳細な伝承によれば、坂氏は元々関氏の一族で、伊勢国鈴鹿郡加太(かぶと、現在の三重県亀山市加太)に住んだ子孫が鹿伏兎(かぶと)氏を名乗り、その分家が同地の鍛冶ヶ坂に城を築いて坂氏を名乗り始めたという 7 。信孝の母は、この坂氏の一族、坂定住の子である可能性が指摘されている。

そして、岡本良勝はこの坂氏の叔父にあたると、『勢州軍記』は伝えている 1 。この縁戚関係が、信孝が良勝の熱田の屋敷で生まれた直接的な理由と考えられている 1 。また、別の考察では、坂氏の母親(つまり良勝の姉妹かそれに近い関係の女性)が岡本氏の娘であり、その娘(坂氏)が信長の側室になったという、より複雑な縁戚関係の可能性も示唆されている 2 。いずれにしても、坂氏と岡本氏の間の血縁的・姻戚的な繋がりは、岡本良勝が織田信長・信孝父子に接近し、その家臣団の中で一定の地位を築く上で、極めて重要な役割を果たしたことは間違いない。良勝のキャリアの出発点は、この関係にあったと言えるだろう。坂氏の出自が北伊勢の豪族であることは、信孝が後に伊勢神戸家の養子となる上で、地域的な繋がりとして有利に働いた可能性がある。信長が伊勢戦略を進める上で、坂氏との関係は単なる個人的なものではなく、伊勢方面への影響力拡大という政治的な意味合いも持っていたかもしれない。

6.2. 織田信孝の生母としての坂氏

坂氏は、永禄元年(1558年)に信孝を出産した 6 。興味深い説として、信孝は信長の次男・織田信雄よりも実際には20日早く生まれていたにもかかわらず、坂氏の身分が信雄の母である生駒氏(正室格の側室)よりも低かったため、信長への報告が遅らされ、結果として三男扱いされたというものがある 8 。これが事実であれば、当時の厳格な身分制度が出生順位という個人の運命を左右する要素にさえ影響を与えたことを示す事例と言える。もしこの説が正しければ、自らの正当な序列が歪められたという意識が、後の信孝の野心や、秀吉との対立における強硬な姿勢の一因となった可能性も否定できない。

信孝が伊勢神戸家の養子になると、坂氏もそれに同道したとされている 8 。母として、また後見役の一人として、若き日の信孝を支えたのであろう。

6.3. 坂氏の政治的活動と最期

坂氏は、単に信孝の生母という立場に留まらず、一定の政治力、あるいは少なくとも政治的な活動を行っていた可能性が示唆されている。天正8年(1580年)6月29日には、朝廷から杉原紙や練香などを下賜されているが、その理由は不明である 8 。さらに注目すべきは、天正11年(1583年)3月5日、秀吉の人質となっていた状況下で、禁裏(天皇の御所)に蚊帳を、東宮(皇太子)である誠仁親王に酒と美濃紙を献上するなど、秀吉や織田信雄に対する朝廷工作を秘密裏に試みていたとされる点である 8 。これは、彼女が息子の信孝の窮地を救うために、最後まで諦めずに活動していたことを示すものであり、戦国時代の女性が単に受動的な存在ではなく、時には政治の舞台裏で能動的に行動した例として注目される。

本能寺の変後、美濃岐阜城主となった信孝に従い美濃に移った坂氏は、信孝が羽柴秀吉と対立し、天正10年(1582年)12月に岐阜城を包囲され降伏した際に、信孝の娘(つまり坂氏の孫娘)と共に人質として秀吉のもとに送られた 1

そして天正11年(1583年)4月、信孝が柴田勝家と結んで再び秀吉に対して兵を挙げたため、秀吉は報復として坂氏と孫娘を磔(はりつけ)にして処刑したと伝えられている 8 。坂氏の処刑は、信孝にとって大きな精神的打撃であっただけでなく、秀吉の敵対者に対する非情さを示す出来事でもあった。これは、他の反秀吉勢力への威嚇効果も狙ったものと考えられる。当時、既に秀吉方に通じていた岡本良勝にとって、自らの姪(またはそれに近い関係の女性)とその子が、新たに従うことになった秀吉の手によって処刑されたという事実は、彼の豊臣政権への忠誠のあり方に複雑な影を落とした可能性があり、その心中は察するに余りある。

7. 総括

岡本良勝の生涯を概観すると、それはまさに戦国乱世の激動を体現したものであったと言える。尾張の熱田神宮の神官家の子として生まれ、織田信長の家臣となり、信長の三男・信孝の側近として活動を開始した。本能寺の変という未曾有の混乱期には、旧主信孝を見限り、天下人への道を歩む豊臣秀吉に臣従するという大きな決断を下す。秀吉のもとでは、九州平定、小田原征伐、文禄の役といった主要な戦役に従軍し、その功績によって伊勢亀山3万7千石余の大名へと成り上がった。城主としては亀山城の大改修を行い、近世城郭としての基礎を築くなど、領主としての行政手腕も発揮した。しかし、豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍に与した結果、敗北し、戦後処理において自刃を命じられ、その波乱に満ちた生涯を閉じた。嫡男・重義もまた幼くして自刃し、大名としての岡本家はここに断絶した。

岡本良勝の生涯におけるいくつかの重要な決断、特に織田信孝からの離反や関ヶ原の戦いでの西軍参加は、現代の価値観からすれば「裏切り」や「時流誤認」と映るかもしれない。しかし、これらの行動は、当時の武士社会における合理性、主君への「御恩と奉公」という独特の忠誠観、そして何よりも自らの一族と家臣団を守り、家名を存続させるという至上命題の中でなされたものとして理解する必要がある。信孝を見限った背景には、母が人質に取られるという極めて個人的かつ重大な要因があり、単純な裏切りとは言えない複雑な事情が存在した。関ヶ原での西軍参加は、豊臣秀吉から受けた多大な恩顧に対する、彼なりの「奉公」の形であったとも解釈できる。

良勝は、主君の栄枯盛衰に合わせて自らの立場を変えながらも、それぞれの局面で一定の能力を発揮し、大名にまで成り上がった人物である。これは、単に時流に乗っただけでなく、彼自身の武将としての力量や政治的判断力があったことを示している。しかし、最終的には関ヶ原の敗北により、その家は断絶に至る。これは、いかに個人の能力が高くとも、時代の大きなうねりの中で翻弄されざるを得なかった戦国武将の宿命を物語っている。

岡本良勝に関する史料は断片的であり、特に彼自身の内面や思想を直接示すものは少ない。しかし、その行動の軌跡を丹念に追うことで、戦国時代における「忠誠」の多面性と流動性、そして激動の時代を生きた一人の武将の生き様の一端を垣間見ることができる。彼の生涯は、成功と挫折、栄光と悲劇が常に隣り合わせであった時代の厳しさと、その中で必死に生き抜こうとした人々の姿を我々に伝えている。

以下に、岡本良勝の生涯における主要な出来事を時系列でまとめた略年表を提示する。

表2:岡本良勝 略年表

和暦

西暦

出来事

関連人物・場所

備考・出典 (主要なもの)

天文11or13年

1542or1544年

岡本良勝、尾張にて誕生(岡本定季の次男)

尾張国、岡本定季

1

永禄元年

1558年

織田信孝、良勝の屋敷にて誕生

熱田、織田信孝、坂氏

1

永禄11年

1568年

信孝の神戸家養子入りに際し、補佐として伊勢へ

伊勢神戸城、織田信孝

1

天正2年

1574年

伊勢峯城城主となる

伊勢峯城

1

天正10年

1582年

本能寺の変。信孝の取次衆。秀吉より信孝弾劾状を受領。母が人質となり秀吉方に通じる

岐阜城、羽柴秀吉

1

天正11年

1583年

賤ヶ岳の戦い。峯城で滝川一益に攻められ籠城、落城

伊勢峯城、滝川一益

1

天正18年

1590年

小田原征伐に従軍。武蔵岩槻城攻めの功で伊勢亀山2万2千石を与えられる

武蔵岩槻城、伊勢亀山城

1

天正19年

1591年

伊勢亀山城に入国、城の大改修を開始

伊勢亀山城

1

文禄元年

1592年

文禄の役に従軍。船奉行を務める

朝鮮半島

1

文禄3年

1594年

伏見城普請を分担。鈴鹿郡1万5230石加増

伏見城、鈴鹿郡

1

文禄4年

1595年

従五位下下野守に叙任

1

慶長3年

1598年

秀吉死去。遺物の刀を受領

1

慶長5年9月15日

1600年10月21日

関ヶ原の戦い(本戦)

関ヶ原

1

慶長5年9月16日

1600年10月22日

桑名城を開城後、自刃。嫡男重義も近江水口で自刃

桑名城、近江水口

1

引用文献

  1. 岡本良勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E8%89%AF%E5%8B%9D
  2. 織田三七郎信孝の母、坂氏娘の素性の考察 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸 ... https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16816700427273737319
  3. 革新を続けるモノづくりと育み続けるヒトづくり - 智慧の燈火オンライン https://chienotomoshibi.jp/okamotonabeya/
  4. 岡本宗憲(おかもとむねのり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%86%B2-1282256
  5. 神戸信孝とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BF%A1%E5%AD%9D
  6. 織田信孝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D
  7. 1559(永禄2)年、信長は初めての上洛の時、大和路を使ったのでは ... https://plus.chunichi.co.jp/blog/mizuno/article/233/10888/
  8. 坂氏_(織田信長側室)とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%9D%82%E6%B0%8F_%28%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%81%B4%E5%AE%A4%29
  9. 岡本良勝(おかもとよしかつ)の出身(しゅっしん) - 亀山市歴史博物館 https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/syukuba/joushu-adudhi/page001.html
  10. 1583年 賤ヶ岳の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1583/
  11. 斎藤利堯 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E5%A0%AF
  12. 2.斎藤利堯禁制 写 - 歴史資料館 - 岐阜県公式ホームページ https://www.pref.gifu.lg.jp/page/350352.html
  13. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  14. 亀山城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-castle/kameyama-castle/
  15. 伊勢亀山藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E4%BA%80%E5%B1%B1%E8%97%A9
  16. 亀山城 (伊勢国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%9B%BD)
  17. 三重県で唯一現存する城郭建造物としてたたずむ「亀山城」【三重県亀山市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21849
  18. 亀山市 - (かめやまし) - の歴史 - (れきし) - 亀山人物伝|日本の歴史の中の亀山|亀山こども歴史館 https://kameyamarekihaku.jp/kodomo/w_e_b/rekishi/jinbutu/page002.html
  19. 歌川国貞(二代) 作 「御上洛東海道亀山」/ホームメイト - 刀剣ワールド/浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/queue/art0021750/
  20. 戦国!室町時代・国巡り(3)伊勢・志摩編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n0d30d0b9bc2a
  21. 関が原の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%96%A2%E3%81%8C%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84