最終更新日 2025-06-09

岩上朝堅

「岩上朝堅」の画像

戦国期結城氏の重臣、岩上朝堅の実像と歴史的役割

1. はじめに

本報告書は、戦国時代の武将、岩上朝堅(いわかみ ともかた)の生涯と事績について、現存する史料と研究成果に基づき、多角的に光を当てることを目的とする。朝堅は、下総国の名族・結城氏の重臣であり、特に「結城四天王」の一人としてその名を知られ、外交面での顕著な活躍が伝えられている 1 。しかしながら、その出自や具体的な活動内容、一族のその後については、未だ十分に解明されていない点も少なくない。本報告では、朝堅の出自から結城家臣としての立身、主君・結城晴朝の下での具体的な活動、特に外交における役割、そして彼の一族が辿った道筋までを詳細に追跡する。これにより、戦国期における関東地方の地域権力の動態と、それを支えた家臣団の様相を理解する上での一助とすることを目指す。朝堅のような、大名中心の歴史叙述では光が当たりにくい中級から上級家臣層の人物研究は、戦国社会の重層的な構造を明らかにする上で重要な意義を持つと考えられる。

以下に、岩上朝堅の生涯における主要な出来事と、関連する結城氏及び周辺勢力の動向をまとめた年表を提示する。

表1:岩上朝堅 関連年表

年代(西暦)

岩上朝堅の動向

結城氏・周辺勢力の動向

生年不詳

三浦義堅として生まれると推定される。

天文年間~永禄年間

結城晴朝に仕官し、功績を重ねる。

結城氏は、北条氏、佐竹氏、上杉氏など関東の諸勢力と複雑な関係(同盟・対立)を展開。

時期不詳

結城晴朝より「岩上」姓と「朝」の字を賜り、岩上朝堅と名乗る。結城四天王の一人に数えられる。常陸国方面の結城領を管轄。

永禄年間

佐竹義重や田村清顕との間で外交交渉を行う [ユーザー提供情報]。

永禄年間(1558-1570年)は関東における戦乱が激化。結城氏は佐竹氏や北条氏との間で揺れ動く外交関係を維持 2

永禄12年(1569年)

死没 3

天正18年(1590年)

(朝堅死後)豊臣秀吉の小田原征伐。結城氏は豊臣方に参陣。この頃、徳川秀康の結城氏への養子縁組が画策され、朝堅が関与したとの説あり 4

結城晴朝、秀吉に謁見。徳川家康の次男・秀康が結城氏の養子となる(結城秀康)。

慶長5年(1600年)

(朝堅死後)関ヶ原の戦い。

結城秀康、上杉景勝の抑えとして関東に留まる。

慶長6年(1601年)

(朝堅死後)岩上氏一族(子・持家ら)、結城秀康の越前移封に従う 1

結城秀康、越前北ノ庄68万石に加増移封(福井藩初代藩主)。

この年表は、朝堅個人の事績を追うだけでなく、彼が生きた時代の関東地方の複雑な政治・軍事状況を背景として理解するための一助となるであろう。

2. 岩上朝堅の出自 – 三浦氏からの興隆

岩上朝堅の出自を辿ると、その旧姓は三浦義堅(みうら よしかた)であったことが記録されている 1 。三浦氏は、相模国(現在の神奈川県)を本拠とした桓武平氏の流れを汲む名門武家であり、鎌倉幕府創設にも貢献した有力御家人であった。特に相模三浦氏は、鎌倉時代には執権北条氏と勢力を二分するほどの力を持っていたが、宝治合戦(1247年)で北条時頼に敗れて宗家が滅亡するなど、波乱の歴史を刻んできた一族である 6

戦国時代に入ると、三浦氏の庶流が各地で活動を続けるものの、かつての勢いを失っていた家も少なくない。特に、相模国新井城を拠点とした三浦道寸(義同)・義意親子は、伊勢宗瑞(北条早雲)の侵攻を受け、永正13年(1516年)に激戦の末に滅亡した 8 。この戦いは、三浦氏にとって大きな打撃となり、多くの一族が離散し、あるいは他の大名家に仕官の道を求めることとなった。岩上朝堅の祖先が、具体的にどの系統の三浦氏に連なるのかは史料上明確ではない。しかし、一部の資料では岩上氏の祖である三浦氏を「北条氏と争って滅亡」した三浦氏と関連付けており 10 、これは後北条氏によって滅ぼされた相模三浦氏の系統を想起させる。

このような背景を考慮すると、三浦義堅(後の岩上朝堅)の祖先もまた、後北条氏の台頭によって所領を失うか、あるいはその勢力下から離脱し、新たな活躍の場を求めて流浪した武士であった可能性が考えられる。結城氏は下総国結城(現在の茨城県結城市)を本拠とし、関東において後北条氏としばしば対立関係にあった。あるいは、少なくとも後北条氏の圧力を受けつつも独立性を保とうと努めていた大名であった 2 。したがって、後北条氏によって勢力を奪われた三浦氏の一族が、反北条の気風を持つ、あるいは独立性を志向する結城氏に仕官を求めたというのは、戦国時代の武士の動向として自然な流れと言える。

三浦義堅が具体的にどのような経緯で結城氏に仕えるようになったのか、詳細な記録は現存していない。しかし、戦国時代は主家を失った武士が、自身の武勇や才覚を頼りに新たな主君を求めて各地を遍歴することが一般的であった。下総結城氏は関東の名族であり、常に有能な人材を家臣団に迎え入れ、勢力の維持・拡大を図っていたと考えられる。義堅もまた、その武勇や何らかの才覚によって結城氏当主、特に関東の動乱期に家勢の維持に腐心した結城晴朝に見出され、家臣団の一員として迎えられたと推測される。これは単に個人的な仕官というだけでなく、戦国時代の武士の流動性、そして実力主義的な登用のあり方を示す一例とも言えるだろう。名門の出自であっても、その名跡だけでは安泰ではなく、新たな環境で具体的な功績を上げることが、武士としての立身出世に不可欠であったのである。

3. 結城氏の重臣としての岩上朝堅

三浦義堅は、結城氏の家臣となった後、主君である結城晴朝(ゆうき はるとも)の下で数々の功績を重ね、その忠勤と能力を高く評価された 1 。その功績と信頼の証として、晴朝は義堅に新たな姓と自身の諱(いみな)の一字を与えるという、当時の武家社会における最大級の栄誉を授けた。義堅は「岩上(いわかみ)」の姓と、晴朝の「朝」の一字を賜り、「岩上朝堅(いわかみ ともかた)」と名乗ることになったのである 1

「岩上」という姓は、結城氏の重臣が名乗った家格の高い姓であったとされ 1 、あるいは朝堅の功績に対して新たに創設された可能性も考えられる。一部の系図資料では、岩上氏を小山氏(結城氏の同族)の庶流としており 12 、もしこの名跡を継いだのであれば、それは大変な名誉であったと言える。主君から姓や諱の一字を賜ることは、単なる名前の変更以上の意味を持っていた。それは、主君がその家臣を高く評価し、一門に準じるような特別な存在として認めたことを示すものであり、家臣団内部における序列を明確化する効果もあった。これにより、朝堅は単なる三浦氏出身の客将から、結城家の中核を担う譜代の重臣へとその地位を確固たるものにしたのである。これは、朝堅自身の能力の高さはもちろんのこと、晴朝の家臣団掌握術や、出自にとらわれない能力主義的な登用方針の現れとも解釈できる。

岩上朝堅は、その功績と主君からの信任を背景に、多賀谷重経(たがや しげつね)、水谷正村(みずのや まさむら、政村とも)、山川朝信(やまかわ とものぶ)と共に「結城四天王」の一人に数えられた 1 。この「四天王」という呼称は、主君を支える特に優れた武将たちを指すものであり、仏法を守護する四天王になぞらえたもので、朝堅が結城家中で極めて重要な地位を占めていたことを物語っている 13

しかし、「結城四天王」と称された家臣たちの間でも、その勢力や役割には差異が見られる。ある資料によれば、結城氏の譜代重臣の石高として、多賀谷左近(重経か)が3万2千石、山川讃岐守(朝信か)が1万7千石であったのに対し、岩上左京(朝堅か)は4千石、水谷刑部・兵部は合わせて1千石程度であったと記されている 10 。この石高の差は、彼らの主家への貢献の仕方が多様であったことを示唆している。多賀谷氏や山川氏が高い石高を有し、半ば独立した領主としての性格も持っていたのに対し、岩上朝堅の石高はそれに比べると低い。これは、朝堅の価値が、広大な所領支配よりも、外交交渉や特定地域の統治といった専門的な技能や、主君の側近としての吏僚的な能力に依っていた可能性を示している。石高の多寡だけが家臣の重要性を決定するのではなく、特定の能力や役割が主君にとって不可欠であると評価されていた証左と言えるだろう。

岩上朝堅は、常陸国方面(現在の茨城県の一部)の結城領を管轄したと伝えられている 1 。この地域は、常陸の佐竹氏や下野の那須氏など、他の戦国大名との勢力圏が接する国境地帯であり、軍事的にも政治的にも常に緊張を強いられる最前線であった。朝堅の具体的な領地経営や軍事行動に関する詳細な記録は乏しいものの、この方面の責任者として、国境の防衛、領内の治安維持、そして佐竹氏など外部勢力との折衝窓口としての役割を担っていたと考えられる。このような戦略的に重要な地域を任されたということは、朝堅が軍事指揮官としても、また地域の有力者との交渉能力においても、主君晴朝から厚い信頼を寄せられていたことを示している。彼の働きが、結城氏の東方における勢力圏の安定に大きく寄与したことは想像に難くない。

4. 外交官としての手腕

岩上朝堅の功績の中でも特に注目されるのが、外交官としての卓越した手腕である。戦国時代の外交は、単に使者を交換するだけでなく、高度な情報収集能力、相手の真意を見抜く洞察力、そして自家の国益を最大限に守りつつ合意形成を図る交渉術が求められる、極めて複雑かつ重要な任務であった。朝堅は、この分野で顕著な活躍を見せ、主家である結城氏の存続と発展に大きく貢献した。

まず、常陸国(現在の茨城県)の太守であった佐竹義重との交渉が挙げられる。ユーザーから提供された情報によれば、朝堅は佐竹義重と文書のやり取りを行うなど、外交の第一線で活動していた。佐竹氏は関東の有力大名であり、結城氏とは同盟、対立、和睦を繰り返す、まさに「呉越同舟」とも言える複雑な関係にあった 2 。特に永禄年間は、北条氏康・氏政親子、上杉謙信、武田信玄といった強大な戦国大名が関東の覇権を巡って激しく争った時代であり、結城氏のような中小規模の大名にとっては、周辺勢力との外交関係の巧拙が家の存亡に直結した。朝堅が佐竹氏との外交交渉を担ったとすれば、それは結城氏の外交政策の根幹に関わる極めて重要な任務であったと言える。具体的な書状の内容や交渉の詳細は現時点では不明であるが、両家の勢力均衡の維持、軍事同盟の締結や更新、あるいは領土問題の解決や緊張緩和のための折衝が行われたと推測される。ある資料では、朝堅が結城家の中核として佐竹家などへ赴き、外交役として活躍したと明確に記されている 4 。このような困難な状況下で朝堅が継続的に外交の任を務めたということは、彼が佐竹氏側の事情にも通暁し、かつ結城氏の国益を最大限に守る交渉術に長けていた人物であったことを強く示唆している。

次に、陸奥国(現在の福島県中通り地方)の有力大名であった田村清顕との交渉も、朝堅の外交活動として伝えられている [ユーザー提供情報]。田村氏は、伊達氏や芦名氏といった奥州の強豪と境を接し、その勢力圏を維持するために複雑な外交関係を展開していた。結城氏とは地理的にやや離れているものの、関東と奥州を結ぶ外交ルートにおいて、田村氏との連携は戦略的に重要な意味を持っていた可能性がある。例えば、共通の敵対勢力(例えば北条氏や、状況によっては佐竹氏)に対する共同戦線の構築、あるいは情報交換や相互の牽制といった目的が考えられる。田村清顕の娘・愛姫が伊達政宗に嫁いでいることはよく知られており、田村氏が奥州の政局において重要な位置を占めていたことを示している。結城氏が田村氏と外交チャンネルを保持していたことは、結城氏の外交戦略が関東内部に留まらず、より広域な政治情勢にも目を配っていた証左であり、朝堅はそのような広域外交の一翼を担っていた可能性が考えられる。

そして、岩上朝堅の外交における最大の功績として特筆すべきは、結城秀康の養子縁組における役割である。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、結城氏は豊臣政権下での生き残りを図る必要に迫られた。この時期、結城晴朝には実子がおらず、後継者問題は喫緊の課題であった。そのような中、徳川家康の次男である於義伊(後の徳川秀康、結城秀康)を結城氏の養子として迎えるという案が浮上する。この養子縁組は、豊臣政権下で強大な力を持つ徳川家康との間に強力なパイプを築き、結城氏の家名存続、さらには後の越前松平家へと繋がる道を開く、まさに結城氏の歴史における一大転機であった。ある資料によれば、岩上朝堅は、結城家が小田原の役に参加した際に豊臣秀吉に謁見し、この徳川秀康の結城家への婿入り(養子入り)を取りまとめるなど、結城家を政治の面で支えたとされている 4 。この交渉を成功させたことは、朝堅が主君晴朝の深謀遠慮を正確に理解し、中央政権の動向も見据えた上で、結城氏の将来を左右するほどの重要な外交交渉をまとめ上げたことを意味する。彼の外交手腕と政治的洞察力が、この困難な交渉を成功に導いたと言えるだろう。この功績は、単なる一介の家臣の働きを超え、主家の運命を左右するほどの政治的決断に深く関与したことを示すものであり、岩上朝堅の評価を一層高めるものである。

5. 岩上朝堅の最期と岩上氏のその後

結城氏の重臣として、特に外交面で多大な功績を残した岩上朝堅であったが、その生涯は永禄12年(1569年)に終わりを告げたと記録されている 3 。この時期の関東地方は、小田原の北条氏、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして常陸の佐竹氏といった諸大名が、互いに勢力拡大を目指して激しい合戦を繰り返していた動乱の時代であった。結城氏もまた、これらの強大な勢力に囲まれ、常に緊張を強いられる中で家名の維持に努めていた。

朝堅の死は、このような厳しい情勢下にあった結城氏にとって、大きな痛手であったと考えられる。特に、佐竹氏や田村氏といった周辺勢力との複雑な外交交渉を一手に担っていた朝堅の不在は、結城氏の対外政策に少なからぬ影響を与えた可能性が否定できない。彼が築き上げた外交ルートや、彼個人の信頼関係によって維持されていた均衡が、その死によって揺らいだこともあったかもしれない。朝堅の死後、誰がその重要な役割を引き継いだのか、そして結城氏の外交戦略がどのように変化したのかは、さらなる研究が待たれる点である。

岩上朝堅の死後も、彼の一族は結城氏に仕え続けた。朝堅の子とされる岩上持家(いわかみ もちいえ)をはじめとする岩上氏の一族は、主家への忠誠を貫いた 1 。戦国時代から江戸時代初期にかけての主従関係は、主家の変遷や本拠地の移動にもかかわらず、家臣が代々仕え続ける例も多く見られる。岩上氏もまた、その例に漏れなかった。

結城氏の歴史における大きな転換点は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に訪れる。結城晴朝の養子となっていた結城秀康(徳川家康の次男)は、関ヶ原の戦いの功績により、慶長6年(1601年)、下総結城10万1千石から越前国北ノ庄(現在の福井県福井市)68万石へと大幅に加増移封された 5 。これに伴い、結城氏の家臣団の多くも秀康に従って越前へ移住することになった。岩上氏もこの主家の移動に従い、越前松平家(福井藩)の家臣として新たな道を歩むこととなったのである 1 。福井藩の家臣団の名簿には「岩上」の名が見え、藩士として家名を存続させたことが確認できる 16 。ある資料では、岩上左京(朝堅の子孫か)が4千石の知行を得て越前に入国したと記されている 10

岩上氏が、主家の大きな変遷(結城氏から徳川一門の越前松平氏へ)や、本拠地の大規模な移動(下総から越前へ)にもかかわらず、継続して仕え続けたという事実は、岩上朝堅が築き上げた主家からの信頼と、その一族が示した奉公の精神が高く評価され続けた結果と言えるだろう。それはまた、朝堅の功績が単に一代のものではなく、その子孫にも恩恵をもたらし、家としての存続を可能にしたことを物語っている。

6. 結城四天王の他のメンバーとその動向

岩上朝堅がその一翼を担った「結城四天王」は、彼の他に多賀谷氏、水谷氏、山川氏の三家によって構成されていた 10 。これらの家々は、いずれも結城氏の重臣として重要な役割を果たしたが、その出自や性格、そして戦国末期から近世初頭にかけての動向は、それぞれに異なっていた。彼らの事績を概観することは、岩上朝堅の結城家臣団における位置づけをより明確にする上で有益である。

表2:結城四天王一覧と比較

氏名(代表的人物)

読み

本拠地(主な城)

推定石高

結城宗家との関係・特徴

主な事績・動向

関ヶ原後・越前移封

岩上 朝堅

いわかみ ともかた

(常陸方面管轄)

4千石 10

元三浦氏。晴朝より偏諱と岩上姓を賜る。外交・特定地域統治で重用。

佐竹氏・田村氏との外交。結城秀康養子縁組に関与か 4 。永禄12年(1569年)没。

子・持家らが結城秀康に従い越前へ移封。福井藩士となる 1

多賀谷 重経

たがや しげつね

常陸国下妻城

3万2千石 10

四天王筆頭格。結城氏からの独立志向強く、佐竹氏らと連携し勢力拡大を図る 17

小田原征伐では豊臣方。関ヶ原の戦いでは家康の出陣要請に応じず、会津征伐に向かう家康本陣への夜襲計画が露見し改易 17

改易。ただし一族の一部は結城秀康に従い越前へ移ったとの記録もある 5

水谷 正村(政村)

みずのや まさむら

常陸国下館城、久下田城

1千石(分家か) 10

通称蟠龍斎。結城政勝の娘婿。武勇に優れる 19

宇都宮氏と度々交戦。小田原征伐後、豊臣政権により結城氏から独立した大名として認められ、下館藩の基礎を築く 19 。慶長3年(1598年)没。

本家は独立大名。ただし、分家か一部家臣が結城秀康に従い越前へ移住した可能性あり 5

山川 朝信

やまかわ とものぶ

下野国山川城

1万7千石~2万石 10

結城氏一族。結城晴朝に仕える。

小田原征伐後、秀吉から所領安堵。関ヶ原では東軍として結城秀康に従うも、慶長6年(1601年)上杉氏との内通が発覚し改易。後に嫡男・朝貞が秀康に許され越前で再興 21

一時改易も、後に子孫が結城秀康に仕え越前へ。福井藩士となる 5

多賀谷氏(多賀谷重経)

多賀谷氏は、結城四天王の中でも筆頭格とされ、その石高も3万2千石と突出していた 10。本拠地は常陸国下妻城(現在の茨城県下妻市)であった。多賀谷氏は結城氏の重臣でありながら、その勢力は強大で、しばしば結城宗家からの独立を志向する動きを見せた。多賀谷重経の代には、上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏や岡見氏を攻撃するなど、独自の勢力拡大を図った 17。天正18年(1590年)の小田原征伐においては豊臣方に属して戦功を挙げ、所領を安堵された。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、徳川家康からの再三の出陣要請に応じなかったばかりか、会津征伐に向かう家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした計画が露見し、結果として改易処分となった 17。その後の多賀谷氏の動向は複雑であるが、一部の一族は結城秀康に従って越前へ移ったとも伝えられている 5。

水谷氏(水谷正村/政村)

水谷正村(政村とも記される)は、通称を蟠龍斎(はんりゅうさい)といい、常陸国下館城(現在の茨城県筑西市)及び久下田城(同県真岡市)の城主であった。結城氏17代当主・結城政勝の娘婿となり、その武勇に優れたことから結城四天王の一人に数えられた 19。特に北に領地を接する下野宇都宮氏との間には幾多の戦いを繰り広げた。豊臣秀吉の小田原征伐後は、その実力を認められ、豊臣政権によって結城氏から独立した大名として扱われるようになり、後の下館藩の基礎を築いた 19。慶長3年(1598年)に死去した。水谷氏本家は独立大名となったが、10の資料では水谷刑部・兵部が1千石で越前に入国したとあり、また5でも水谷家が秀康に従って移住した大身四家の一つとして挙げられていることから、本家とは別に結城秀康に仕えた分家や家臣が存在し、越前へ移った可能性が示唆される。

山川氏(山川朝信)

山川朝信は、下野国山川(現在の栃木県足利市山川町、あるいは小山市付近)の領主であった。山川氏は結城氏の一族ともされ、代々結城氏の重臣として仕えた。朝信は結城晴朝に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐後、豊臣秀吉から2万石(一説には1万7千石 10)の所領を安堵されている 21。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、主君である結城秀康に従って上杉景勝の南下に備えた。しかし、戦後の慶長6年(1601年)8月、西軍方の上杉氏と内通していたことが発覚し、改易処分となった。だが、その後、嫡男の山川朝貞が秀康に許され、再び越前で仕えることとなり、家名を再興した 21。山川氏もまた、一族は結城秀康に従って越前へ移り、福井藩士として続いた 5。

これらの結城四天王と称された家々の動向は、戦国末期から近世初頭にかけての主家と有力家臣の関係性の複雑さ、そして時代の大きな変動期における武家の生き残りを賭けた多様な選択を示している。必ずしも一枚岩ではなく、それぞれの家の規模や結城宗家との関係性、政治的立場には濃淡があった。多賀谷氏や水谷氏のように、強大な勢力を背景に半ば独立した領主としての性格が強い家もあれば、岩上氏のように、石高では劣るものの、宗家の運営に深く関与し、外交や特定地域の統治といった専門的能力で主君を支える吏僚的な側面が強い家もあったと考えられる。岩上朝堅の相対的に低い石高と、主家への忠実な奉公ぶり、そして一族の越前への随行は、他の四天王の動向と比較することで、彼の家臣としての性格や、結城氏内での特異な位置づけをより鮮明に浮かび上がらせる。

7. 結論

岩上朝堅は、戦国時代の関東地方において、下総の名族・結城氏の重臣としてその名を刻んだ武将である。その出自は相模の名門・三浦氏に遡るが、一族の没落という逆境を乗り越え、自身の能力と功績によって主君・結城晴朝の厚い信頼を勝ち取り、「結城四天王」の一人にまで登り詰めた。この立身出世の過程は、戦国時代における実力主義と人材登用の一端を示すものと言える。

朝堅の功績は多岐にわたるが、特に顕著なのは外交面での活躍である。佐竹氏や田村氏といった周辺の有力大名との間で繰り広げられた複雑な交渉は、結城氏の勢力維持と安定に不可欠であった。さらに、結城氏の将来を左右する極めて重要な案件であった徳川秀康(後の結城秀康)の養子縁組を取りまとめたとされる点は 4 、朝堅の政治的手腕と先見性を示す最大の功績として評価されるべきである。また、常陸国方面の結城領の管轄を任されたことは、彼が統治能力においても信頼されていたことを物語っている。

永禄12年(1569年)にその生涯を閉じた後も、朝堅が築いた主家への奉公の基盤は揺らがなかった。その子・持家をはじめとする岩上氏一族は、結城秀康に忠実に仕え続け、主家の越前移封にも従って福井藩士として家名を保った。これは、朝堅の功績と忠誠が、子孫の代にまで影響を与え、家の存続を可能にしたことを示している。

一方で、岩上朝堅に関する研究は、史料的制約から未だ多くの課題を残している。彼が発給または受信した具体的な書状の内容、常陸国における統治の実態、三浦氏としての具体的な系譜や結城氏に仕えるに至った詳細な経緯など、解明が待たれる点は少なくない。また、結城四天王の他のメンバーとの具体的な連携や、四天王内での役割分担についても、より詳細な分析が望まれる。

総じて、岩上朝堅は、戦国時代の激動期において、一人の武将として、また外交官・統治者として、主家である結城氏の存続と発展に大きく貢献した重要人物であったと言える。彼の生涯は、戦国期における地域権力の様相と、それを支えた家臣団の動態を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。今後の更なる史料の発見と研究の進展により、岩上朝堅という人物の全体像がより鮮明になることが期待される。

引用文献

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  5. 結城と福井~ 秀康の越前入国 - 北陸風土記 https://www.indefatigable.online/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E3%81%A8%E7%A6%8F%E4%BA%95%EF%BD%9E%E3%80%80%E7%A7%80%E5%BA%B7%E3%81%AE%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%85%A5%E5%9B%BD/
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  7. 我が世の春を謳歌した「三浦義村のその後」。やっぱり、三浦一族の末路まで見てみたい!【鎌倉殿の13人満喫リポート】後夜祭2 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1106056/2
  8. 三浦一族の歴史 - 横須賀市 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/culture_info/miura_ichizoku/history.html
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  18. 多賀谷氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E8%B0%B7%E6%B0%8F
  19. 水谷正村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E6%9D%91
  20. 水谷正村(みずのや まさむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E6%9D%91-1112455
  21. 山川朝信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%9C%9D%E4%BF%A1
  22. 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/227749/3