最終更新日 2025-06-09

岩城親隆

「岩城親隆」の画像

戦国期南奥羽の動乱と岩城親隆:伊達と佐竹の狭間で

1. 序論:岩城親隆という人物

陸奥国の戦国時代における岩城親隆の位置づけと重要性

岩城親隆(いわきちかたか)は、戦国時代の陸奥国南部、現在の福島県浜通り地方を拠点とした戦国大名・岩城氏の第16代当主である 1 。彼の生きた時代は、北の伊達氏と南の佐竹氏という二大勢力が覇を競い、周辺の国衆はその間で複雑な合従連衡を繰り返していた激動期であった。親隆自身、伊達宗家からの養子でありながら、佐竹氏から正室を迎えるという、まさに両勢力の結節点に位置する存在であった。

しかし、親隆の治世は順風満帆とは言えず、特に彼を襲った「不例」(病気)は、岩城氏の権力構造に深刻な影響を及ぼし、結果として佐竹氏の強い介入を招くこととなった 1 。この出来事は、岩城氏が戦国大名としての自立性を大きく損ない、その後の運命を大きく左右する転換点となった。親隆の生涯は、戦国期における地方領主の存続がいかに当主個人の資質や健康状態、そして婚姻政策を含む外交戦略に深く依存していたかを示す事例として、南奥羽の戦国史を考察する上で重要な意味を持つ。

本報告書の目的と構成

本報告書は、岩城親隆の出自からその晩年に至るまでの生涯を、現存する史料に基づいて可能な限り詳細に追跡し、彼の事績と、彼が岩城氏および南奥羽の歴史に与えた影響を多角的に明らかにすることを目的とする。

具体的には、まず親隆の出自と岩城氏の家督を相続するに至った経緯を明らかにする。次に、岩城氏当主としての活動、特に伊達氏や佐竹氏といった周辺の有力大名との関係性について詳述する。続いて、親隆を襲った「不例」が岩城家の政治状況にどのような変容をもたらしたのか、特に佐竹氏の介入の実態について深く掘り下げる。そして、親隆の時代の終焉と、その後の岩城氏の動向、特に嫡男・常隆、そして佐竹氏から入った貞隆への家督継承の過程を追う。最後に、これらの分析を踏まえ、岩城親隆の生涯が持つ歴史的意義について結論を述べる。

2. 出自と家督相続の経緯

伊達氏からの出生と岩城氏への養子入り

父・伊達晴宗と母・久保姫(岩城重隆の娘)

岩城親隆は、天文6年(1537年)に、陸奥国の有力戦国大名である伊達氏第15代当主・伊達晴宗の長男として生を受けた 3 。幼名は鶴千代丸、初めは宣隆と名乗った 1 。母は、岩城氏第15代当主・岩城重隆の娘である久保姫(栽松院)である 1 。この血縁関係は、親隆が伊達・岩城両氏の血を引く重要な存在であり、両家の関係において特別な役割を期待されていたことを物語っている。

養父・岩城重隆との関係と養子縁組の背景(天文3年の約定)

親隆が岩城氏の家督を継承する道筋は、早くから定められていた。天文3年(1534年)、父・伊達晴宗と母方の祖父である岩城重隆との間で交わされた約定により、親隆は重隆の養嗣子として岩城氏の家督継承者となることが決定した 1 。この養子縁組の背景には、岩城重隆に男子がいなかった、あるいは男子に恵まれなかったという事情があったとされる 6

この約定は、単に後継者不在を補うというだけでなく、当時の伊達氏の勢力拡大戦略と深く関わっていたと考えられる。伊達氏にとって、隣接する有力国衆である岩城氏を実質的な影響下に置くことは、南奥羽における覇権確立のための重要な布石であった。長男である親隆を養子に出すことで、伊達氏は岩城氏への発言力を強め、将来的な同盟関係の強化、あるいは統合まで視野に入れていた可能性も否定できない。一方で、岩城氏側にとっても、強大な伊達氏との結びつきを強化することは、周辺勢力との角逐が激化する中で、自家の安泰を図る上で有効な手段であった。このように、親隆の養子入りは、伊達・岩城双方の戦略的利害が一致した結果であり、彼はその媒介としての役割を運命づけられたと言えるだろう。

岩城氏第16代当主としての家督継承(永禄12年)

永禄12年(1569年)、養父である岩城重隆が死去すると、岩城親隆は岩城氏の家督を継承し、第16代当主となった 1 。これにより、彼は名実ともにかつての陸奥国磐城郡、現在の福島県浜通り地方を治める戦国大名となった。

以下に、岩城親隆の基本的な人物情報を表としてまとめる。

表1:岩城親隆 人物概要表

項目

内容

出典

氏名

岩城 親隆(いわき ちかたか)

幼名

鶴千代丸

1

初名

宣隆

1

別名

孫次郎、孫四郎

1

生年

天文6年(1537年)

3

没年

文禄3年7月10日(1594年8月25日)

1

享年

58歳

3

戒名

光山本公

1

官位

従四位下・左京大夫

1

氏族

伊達氏 → 岩城氏

1

実父

伊達 晴宗(だて はるむね)

1

実母

久保姫(くぼひめ、岩城重隆の娘)

1

養父

岩城 重隆(いわき しげたか)

1

正室

桂樹院(けいじゅいん、佐竹義昭の娘)

1

岩城 常隆(いわき つねたか)

1

主な兄弟姉妹

伊達輝宗、阿南姫(二階堂盛義正室)、宝寿院(佐竹義重正室)、留守政景、石川昭光、国分盛重など

1

この人物概要表は、親隆が伊達氏、岩城氏、そして正室の実家である佐竹氏という、当時の南奥羽における主要な戦国大名家と密接な血縁・姻戚関係にあったことを明確に示している。これらの複雑な人間関係が、彼の治世における外交政策や、岩城氏の運命に大きな影響を与えることになる。

また、当時の主要人物との関係性をより深く理解するためには、系図が有効である。岩城親隆を中心とした略系図は、実父・伊達晴宗、弟で伊達家を継いだ伊達輝宗、そしてその子である伊達政宗へと続く伊達氏の系譜、養父・岩城重隆から親隆、そしてその子・岩城常隆、さらに常隆の養子となる佐竹義重の子・岩城貞隆へと続く岩城氏の系譜、そして親隆の正室・桂樹院の父・佐竹義昭とその子・佐竹義重、さらにその子で後に常陸国を統一する佐竹義宣へと続く佐竹氏の系譜を繋ぎ合わせることで、三者の関係性が視覚的に把握できる。この血縁の網の目が、戦国時代の南奥羽における勢力図を理解する上で不可欠な要素となる。

3. 岩城氏当主としての活動と周辺勢力との関係

治世初期の動向

岩城親隆が家督を継承した永禄12年(1569年)頃の岩城氏は、北に伊達氏、南に佐竹氏という二大勢力に挟まれ、西には田村氏、相馬氏といった国衆と境を接するという、常に緊張を強いられる地政学的状況にあった。そのため、親隆の治世初期における主要な課題は、これらの周辺勢力との外交関係を安定させ、自領の保全を図ることであったと推測される。

具体的な領国経営に関する史料は乏しいものの、彼の外交姿勢の一端をうかがわせるものとして、えさし郷土文化館が所蔵する永禄9年(1566年)2月23日付の「岩城親隆書状(三瓶某宛)」が存在する 7 。これは家督継承前の書状ではあるが、内容には「洞中」(どうちゅう:当主との族縁関係を中心とした武士団の共同体)や「筋目」(すじめ:領地の境界線)といった戦国時代特有の用語が見られ、親隆が既に家中統制や国境問題に関与していたことを示している 7 。この書状からは、彼が自家の勢力基盤を固め、外交交渉に臨むための準備を進めていた様子がうかがえる。

伊達氏との関係:実家との連携と緊張

岩城親隆にとって、実家である伊達氏との関係は極めて重要であった。父・伊達晴宗、そして晴宗の跡を継いだ弟・伊達輝宗との間では、基本的には協調的な関係が維持されていたと考えられる。親隆の母・久保姫が伊達・岩城両家の架け橋として機能し、また親隆自身も伊達氏の一族としての立場から、両家の連携に努めたであろうことは想像に難くない。

実際に、親隆は伊達家内部の対立、具体的には父・晴宗と弟・輝宗の間の不和を調停したという記録も残っており 6 、これは彼が伊達家中においても一定の発言力と影響力を有していたことを示唆している。しかし、伊達氏と岩城氏はそれぞれ独立した戦国大名であり、両家の利害が常に一致するわけではなかった。特に伊達氏が勢力拡大を志向する中で、岩城氏の領土や権益が脅かされる可能性も皆無ではなかった。親隆の伊達氏出身という出自は、岩城氏にとって伊達氏との外交交渉における強力なパイプとして機能した一方で、伊達氏側からの内政干渉や圧力を受けやすいという、いわば両刃の剣であった可能性も考慮する必要がある。親隆は、実家への配慮と岩城氏当主としての立場との間で、難しい舵取りを迫られる場面も少なくなかったであろう。

佐竹氏との関係:婚姻と同盟、そして対立

正室・桂樹院(佐竹義昭の娘)との婚姻

岩城親隆は、常陸国(現在の茨城県)の有力戦国大名である佐竹義昭の娘、桂樹院を正室として迎えている 1 。この婚姻は、当時勢力を拡大しつつあった佐竹氏との同盟関係を構築・強化することを目的とした典型的な政略結婚であったと考えられる。佐竹氏にとっても、陸奥方面への進出の足掛かりとして、また伊達氏への牽制として、岩城氏との連携は戦略的に重要であった。

佐竹氏との軍事衝突(永禄11年~元亀2年頃)

しかし、この婚姻政策は、必ずしも岩城氏と佐竹氏の間に恒久的な平和をもたらすものではなかった。佐竹氏は、佐竹義昭の代から陸奥国への進出意欲を強めており、それは岩城氏の勢力圏と直接的に衝突するものであった。先代の岩城重隆の時代から、両家の関係は徐々に悪化の兆しを見せていた 1

親隆が佐竹義昭の娘を妻に迎えていたにもかかわらず、両家の関係は改善しなかった。それどころか、永禄11年(1568年)から元亀2年(1571年)にかけて、岩城氏と佐竹氏は複数回にわたり軍事衝突を起こしている 1 。この事実は、戦国時代において婚姻による同盟がいかに脆いものであったか、そして大名家の領土拡大や勢力均衡といった現実的な利害が、血縁関係よりも優先される場合が多々あったことを如実に示している。佐竹氏の陸奥進出という野心が、岩城氏との伝統的な友好関係や婚姻関係を凌駕した結果と言えるだろう。佐竹氏にとって、岩城氏との婚姻はあくまで外交戦略の一環であり、最終的な目標である南奥羽への影響力拡大のためには、軍事力の行使も辞さないという姿勢であったことがうかがえる。

その他の周辺勢力(相馬氏、田村氏など)との関わり

岩城氏は、北方を相馬氏、西方を田村氏といった国衆と境を接しており、これらの勢力との関係もまた、岩城氏の外交政策において重要な要素であった 8

岩城重隆の時代には、伊達氏と連携して相馬氏と対立した経緯がある 8 。親隆の代においても、これらの勢力との間で、時には連携し、時には対立するという複雑な関係が続いたと考えられる。特に、伊達氏と佐竹氏という二大勢力の間で、岩城氏がどのような立ち位置を取るかによって、相馬氏や田村氏との関係も流動的に変化したであろう。

後の時代になるが、親隆の子である岩城常隆の治世において、伊達輝宗の子・政宗が田村清顕の娘である愛姫を正室に迎えると、岩城氏は伊達氏との関係よりも佐竹氏との連携を強める傾向を見せる 11 。これは、田村氏と所領を巡って対立関係にあった岩城氏にとって、伊達氏と田村氏の接近が脅威と映ったためと考えられる。このような外交判断は、親隆の時代からの周辺勢力との力関係や対立構造を背景として行われたものであり、南奥羽の複雑な国際関係の一端を示している。

4. 親隆の「不例」と岩城家の変容

親隆の病と統治への影響:「不例」(病気)、「狂乱説」に関する史料の検討

岩城親隆の治世において、岩城氏の運命を大きく左右する決定的な出来事が起こる。それは、親隆自身を襲った深刻な病であった。永禄11年(1568年)から元亀2年(1571年)頃、まさに佐竹氏との軍事衝突が激化していた最中に、親隆の動静が史料上から見えなくなる 1 。この時期に、親隆が「不例」(病気)に陥ったとみられている 2

この「不例」の具体的な内容は判然としない部分もあるが、『いわき市史』などでは、単なる身体的な疾病に留まらず、精神的な錯乱を伴うものであった可能性が示唆されている 2 。一部の記録では、「病のため狂乱し、当主としての活動が不可能になったためともいわれる」と記されており 1 、これが事実であれば、岩城氏の統治体制に深刻な混乱をもたらしたことは想像に難くない。

戦国時代において、当主の統率力や判断力は、その家の存亡に直結する極めて重要な要素であった。当主が「狂乱」状態に陥り、正常な政務執行が不可能となれば、家臣団は誰の指示に従うべきか混乱し、家中は分裂の危機に瀕する。さらに、このような内政の混乱は、外部勢力にとって介入の絶好の口実を与えることになる。特に、親隆の正室が佐竹氏出身であったという事実は、この後の展開において重要な意味を持つことになった。この「狂乱説」が、佐竹氏の介入を正当化するために、後世において誇張されたり、あるいは意図的に流布されたりした可能性も完全に否定することはできず、史料の解釈には慎重な検討が求められる。しかし、いずれにせよ親隆が統治能力を喪失したことが、岩城氏の権力構造に大きな変化を引き起こしたことは間違いない。

桂樹院(親隆夫人)と佐竹義重による岩城家中への介入

岩城親隆が統治不能の状態に陥ると、その空白を埋める形で、彼の正室であり佐竹義昭の娘である桂樹院が、事実上の当主代行として岩城家中の采配を振るうようになった 1 。そして、桂樹院の兄にあたる佐竹義重(佐竹義昭の子、後の常陸太田城主)が、妹を通じて岩城氏の家政に深く介入し始めるのである 1

これにより、岩城氏の実権は、事実上、佐竹氏によって掌握されることとなった 11 。桂樹院は、単に夫の代理を務めたというだけでなく、実家である佐竹氏の意向を岩城家中に浸透させるための重要な役割を担ったと考えられる。戦国時代の女性は、婚姻を通じて実家の外交政策や勢力拡大に貢献する駒となることも少なくなかったが、桂樹院のケースはその典型例と言えるかもしれない。彼女が岩城氏の安定よりも実家である佐竹氏の利益を優先したとしても、それは当時の状況下では十分にあり得ることだった。佐竹義重は、この機を逃さず、妹を介して岩城氏を間接的に支配下に置くことで、南奥羽における自らの影響力を飛躍的に拡大させることに成功した。これは、軍事力を用いることなく他家を実質的に支配下に収めるという、極めて巧妙な外交戦略であり、勢力拡大策であったと言えるだろう。

岩城氏における佐竹氏の影響力増大

佐竹義重の介入により、岩城氏は佐竹氏の極めて強い影響下に置かれることになった。外交政策はもちろんのこと、軍事行動においても佐竹氏の意向を無視することは不可能となり、岩城氏はあたかも佐竹氏の衛星国のような立場に追いやられたと考えられる。

かつては伊達氏と佐竹氏という二大勢力の間で、巧みな外交を展開し自立を保ってきた岩城氏であったが、当主親隆の「不例」という内的な要因と、それを利用した佐竹氏の巧みな戦略によって、その独立性は大きく損なわれた。岩城氏は、伊達氏に対する佐竹氏の防波堤、あるいは佐竹氏の南奥羽戦略の一翼を担う存在へと、その性格を変質させていったのである。この変化は、岩城氏自身の歴史だけでなく、南奥羽全体の勢力図にも大きな影響を与えることになった。

5. 親隆の時代の終焉と岩城氏のその後

嫡男・岩城常隆への家督委譲(天正6年頃)

岩城親隆が統治能力を喪失した後、しばらくは正室・桂樹院と佐竹義重による後見体制が続いたが、天正6年(1578年)頃になると、親隆の嫡男である岩城常隆が岩城氏の家督を継承し、名目上の当主となった 1 。この時、常隆はまだ若年であったため、引き続き母である桂樹院が後見役を務めた 1

しかし、常隆への家督継承は、あくまで形式的なものであった可能性が高い。岩城氏の実権は依然として桂樹院と、その背後にいる佐竹義重が掌握し続けており、佐竹氏の岩城家中に対する影響力は何ら変わらなかったとされている 11 。未熟な当主を名目的に立て、その後見人を通じて実権を握るという手法は、戦国時代において権力掌握のためによく用いられた手段である。佐竹氏は、岩城家臣団からの直接的な反発を抑えつつ、岩城氏への支配を継続するために、常隆を当主として擁立したと考えられる。

常隆の治世と早世(天正18年)

岩城常隆の治世は、佐竹氏の強い影響下で始まった。彼は佐竹義重の指揮下に入り、伊達政宗との戦い(例えば人取橋の戦いなど)にも参陣している 11 。しかし、常隆の当主としての期間は長くは続かなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に際して、常隆も秀吉のもとに参陣し、所領である磐城平12万石を安堵された 2 。これにより、岩城氏は豊臣政権下の大名として認められたものの、その直後、常隆は病に倒れ、小田原からの帰途、鎌倉において客死してしまう 11 。享年はわずか24歳であった 2

若き当主の突然の死は、岩城氏にとって大きな打撃であり、再び深刻な後継者問題が浮上することになった。

岩城貞隆(佐竹義重の子)による家督継承とその背景

岩城常隆には、政隆という実子がいた。しかし、政隆はまだ幼少であった 11 。加えて、当時の奥羽地方の情勢は、豊臣秀吉による「奥羽仕置」の真っ只中にあり、各大名の家督相続も秀吉の意向が強く反映される状況にあった。このような背景のもと、常隆の死後、岩城氏の家督を継いだのは、実子・政隆ではなく、佐竹義重の三男である貞隆(後の岩城吉隆)であった 2 。貞隆の母は伊達晴宗の娘・宝寿院であり、彼女は岩城親隆の妹にあたるため、貞隆は親隆の甥(姪の子)という血縁関係にあった 3 。貞隆は常隆の養嗣子という形で岩城氏に入嗣した。

この家督継承は、豊臣秀吉によっても承認され、岩城貞隆は磐城平12万石の所領を安堵された 13 。この一連の動きは、単に岩城氏の後継者問題というだけでなく、豊臣政権による奥羽地方の勢力再編という大きな文脈の中で理解する必要がある。当時、豊臣秀吉は急速に勢力を拡大する伊達政宗を強く警戒していた 2 。岩城氏の家督を、伊達氏と血縁的に近い(母方の祖父が伊達晴宗である)常隆の実子・政隆ではなく、佐竹氏出身の貞隆に継承させることは、岩城氏を確実に反伊達勢力として、また親豊臣勢力として位置づけるための秀吉の戦略であった可能性が高い。佐竹氏は秀吉に対して従順な大名であり、その子弟を岩城氏当主とすることで、伊達氏への牽制を強化しようとしたのである。

この結果、岩城氏は名実ともに佐竹氏の血統によって支配されることとなり、かつて伊達氏の血を引く親隆が当主であった頃とは異なり、独立した戦国大名としての性格はほぼ失われたと言える。常隆の実子・政隆は岩城領を追われ、祖父・親隆の実家である伊達氏のもとへ逃れたとされている 11 。これは、岩城家中に伊達派と佐竹派の対立が存在し、最終的に佐竹派が豊臣政権の後ろ盾を得て勝利した結果と解釈することもできるだろう。

親隆の晩年と死(文禄3年)

一方、実権を失い、歴史の表舞台から姿を消していた岩城親隆自身は、記録によれば文禄3年(1594年)7月10日まで存命していたとされる 1 。享年は58歳であった 3 。彼がどのような晩年を送ったのか、その具体的な様子を伝える史料は乏しい。しかし、既に息子の常隆も亡く、岩城家の実権が完全に佐竹氏に移った後であり、彼自身は静かに余生を送っていたものと推測される。

彼の死は、伊達氏の血を引く人物が岩城氏の当主であった時代の完全な終焉を象徴する出来事であったと言えるだろう。

6. 結論:岩城親隆の生涯とその歴史的意義

岩城親隆の生涯の総括

岩城親隆の生涯は、伊達氏の長男として生まれながら岩城氏の養子となり、二大勢力である伊達氏と佐竹氏の狭間で複雑な舵取りを迫られたものであった。正室に佐竹氏の娘を迎えるなど、巧みな婚姻政策によって家の安泰を図ろうとしたものの、自身の「不例」という個人的な不幸が、岩城氏という戦国大名家の運命に決定的な影響を与えた。

彼の統治期間は、岩城氏が戦国大名としての自立性を徐々に失い、佐竹氏の強い影響下に組み込まれていく過渡期と正確に重なっている。親隆の病がなければ、あるいはその後の佐竹氏の介入がなければ、岩城氏の歴史は異なる展開を見せていたかもしれない。しかし、歴史に「もしも」はない。親隆の生涯は、戦国という時代の厳しさ、そして個人の力が時にいかに無力であるかを示す一例と言えるだろう。

親隆の存在が岩城氏、および南奥羽の戦国史に与えた影響の評価

岩城親隆の「不例」は、岩城氏内部の権力バランスを崩壊させ、結果として佐竹義重による家政介入を招いた。これは、岩城氏が戦国大名としての自立性を喪失し、佐竹氏の勢力圏に組み込まれる直接的な原因となった。これにより、岩城氏は伊達氏と佐竹氏の間の緩衝地帯としての役割から、佐竹氏の対伊達戦略における重要な駒の一つへと、その性格を変貌させた。この変化は、南奥羽地方全体の勢力図にも少なからぬ影響を与え、後の豊臣政権による奥羽仕置や関ヶ原の戦いにおける各勢力の動向にも間接的な影響を及ぼしたと考えられる。

岩城親隆の生涯は、戦国時代における個人の運命と組織の盛衰がいかに密接に結びついているかを示す好例である。同時に、婚姻や養子縁組といった血縁戦略が、必ずしも安定や勢力拡大に繋がるとは限らないという、戦国外交の複雑な現実を浮き彫りにしている。彼の個人的な悲劇は、単に一人の武将の物語に留まらず、大勢力の狭間で翻弄される中小勢力の苦悩と、戦国という時代の非情さを象徴していると言えるだろう。彼の存在と彼にまつわる出来事は、南奥羽の戦国史を理解する上で、見過ごすことのできない重要な一齣なのである。

引用文献

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  9. 御春輩「田村庄司の乱」北関東騒乱 田村氏と小山氏 http://otarimanjyu.com/blog/index.php?c=52-120&PHPSESSID=b2faa71f810888b5bdd2b94a385feebd
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