島津久元(しまづ ひさもと、天正9年 - 寛永20年、1581年 - 1643年)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた薩摩藩の家老である 1 。彼の生涯は、日本の歴史が戦国の武断主義から徳川の泰平を基調とする文治主義へと大きく舵を切る、まさにその転換期と重なる。島津氏という、鎌倉時代以来南九州に君臨し、戦国期には九州統一を目前にした強大な一族が、徳川幕藩体制下でいかにしてその存続を図り、近世大名としての支配体制を確立していったのか。その激動の過程において、久元は藩政の中枢で極めて重要な役割を果たした。
彼は武勇で知られた父の血を引き、自らも合戦に参加する武人であった一方で、藩主の代理として幕府の公役を務め、藩の財政基盤を築く殖産興業を主導する能吏でもあった。本報告書は、島津久元という一人の武将の生涯を、その出自、養子としての経験、家督相続、そして薩摩藩家老としての功績に至るまで、あらゆる角度から徹底的に調査・分析するものである。特に、彼の人生における画期となった島原の乱での役割や、藩財政に絶大な影響を与えた山ヶ野金山の開発との関わりを深く掘り下げることで、戦国の遺風が色濃く残る薩摩藩が、近世的な支配体制を確立していく過程における久元の歴史的意義を明らかにすることを目的とする。
島津氏の歴史は、鎌倉時代の初代忠久に始まり、約700年にわたって南九州を治め続けた名門である 3 。戦国時代には、島津貴久とその四人の息子、義久、義弘、歳久、家久という傑出した兄弟の活躍により、九州統一の野望をほぼ手中に収めるほどの勢威を誇った 5 。しかし、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定の前に屈し、その版図は薩摩・大隅・日向の一部に限定されることとなった 7 。
秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦い(慶長5年、1600年)では西軍に与するという苦渋の選択をしたが、島津義弘の演じた壮絶な敵中突破「島津の退き口」は後世に語り継がれ、戦後の徳川家康との粘り強い交渉の末、外様大名としては異例の本領安堵を勝ち取った 8 。こうして薩摩藩は、初代藩主・島津忠恒(後の家久)のもとで江戸時代を迎える。しかし、その船出は平穏ではなかった。慶長4年(1599年)には、家老・伊集院忠棟の誅殺に端を発する内乱「庄内の乱」が勃発し、藩内の権力闘争の鎮圧に追われた 10 。さらに、慶長14年(1609年)には琉球へ侵攻し、その支配権を確立するなど、藩の支配体制を内外に固めるための重要な時期にあった 10 。島津久元は、まさにこの激動の時代に、藩政の中枢を担う家老としてその生涯を送ることになるのである。
年代(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
天正9年(1581) |
1歳 |
4月22日、島津忠長の次男として誕生。幼名は信竜丸。 |
1 |
不明 |
- |
新納四郎忠真の養子となり、新納近江守忠在と称する。 |
2 |
慶長4年(1599) |
19歳 |
庄内の乱に新納氏として従軍。 |
2 |
慶長5年(1600) |
20歳 |
関ヶ原の戦いに新納氏として従軍。 |
1 |
慶長9年(1604) |
24歳 |
嫡男・久通(後の4代当主)が誕生。 |
13 |
慶長14年(1609) |
29歳 |
兄・忠倍が32歳で死去。父・忠長の願いにより実家に戻り、家督を相続。島津下野守久元と称する。 |
2 |
慶長15年(1610) |
30歳 |
父・忠長が60歳で死去。宮之城島津家3代当主となる。居を馬越から宮之城へ移す。 |
8 |
元和4年(1618) |
38歳 |
薩摩藩主・島津家久(忠恒)の家老に就任。 |
2 |
元和7年(1621) |
41歳 |
家久の命により、正室(新納忠増の娘)と離縁し、家久の妹・御下を継室に迎える。 |
2 |
寛永元年(1624) |
44歳 |
家久の嫡子・光久の元服に際し、理髪役を務める。 |
2 |
寛永9年(1632) |
52歳 |
肥後熊本藩主・加藤忠広の改易に際し、国境警備のため460人を率いて出張する。 |
2 |
寛永14年(1637) |
57歳 |
島原の乱が勃発。病の家久に代わり出陣する世子・光久に軍大将として付き従う。 |
2 |
寛永15年(1638) |
58歳 |
2月、藩主・家久が死去。家督を継いだ光久の家老として引き続き仕える。 |
2 |
寛永17年(1640) |
60歳 |
息子・久通が山ヶ野金山を発見。家老として開発を主導。 |
18 |
寛永20年(1643) |
63歳 |
6月13日、死去。戒名は鉄心宗昆大居士。 |
1 |
島津久元の生涯を理解する上で、その父である島津忠長(ただたけ/ただなが、1551-1610)の存在は欠かすことができない。忠長は、島津家中興の祖・島津貴久の末弟である島津尚久の嫡男として生まれ、島津宗家とは極めて近い血縁関係にあった 8 。彼は単なる一族の者ではなく、島津氏が九州の覇権をかけて戦った数々の合戦で、その名を轟かせた稀代の猛将であった。
天正4年(1576年)の日向国高原城攻めを皮切りに、天正6年(1578年)の耳川の戦い、天正12年(1584年)に龍造寺隆信を討ち取った沖田畷の戦いなど、島津氏の九州平定戦において常に第一線で戦い、多大な武功を挙げた 8 。特に天正14年(1586年)、島津軍の筑前侵攻においては総大将を任され、高橋紹運がわずか800弱の兵で守る岩屋城を、900人以上の戦死者を出すという甚大な犠牲を払いながらも攻略した逸話は、彼の武将としての苛烈さと執念を物語っている 8 。
豊臣秀吉による九州平定後、文禄・慶長の役にも従軍し、泗川の戦いではわずか100の兵を率いて1万の明軍を撃破し、父・島津義弘の窮地を救うという神業的な戦功を立てた 8 。これらの功績により、彼は宮之城(現在の鹿児島県さつま町)の領主に任じられ、関ヶ原の戦いの後は、敗軍となった島津氏の代表として徳川家康との和議交渉の大役を担うなど、軍事のみならず政治・外交の面でも藩政に重きをなした人物であった 8 。
久元のキャリアは、この傑出した父が築き上げた武功と家格という、いわば「政治的・社会的遺産」の上に成り立っている。忠長が戦国武将として積み上げた功績と、宗家に近い血縁という政治的資産は、息子である久元が若くして有力庶家の養子に選ばれ、後には藩の最高幹部である家老へと至るための、極めて強力な基盤となったのである。
忠長が宮之城の領主となったことにより、後の「宮之城島津家」の礎が築かれた 8 。宮之城島津家は、薩摩藩独自の地方支配制度である外城制において、藩主から一郷を与えられた私領主「一所持」の中でも特に高い家格を誇った。薩摩藩の家格制度において「御三男家」に分類され、代々家老職を輩出する家柄として、藩政に大きな影響力を持つ存在となっていく 18 。
久元は、天正9年(1581年)4月22日、この偉大な父・忠長の次男として誕生した 1 。幼名は信竜丸と伝わる 2 。家督は本来、嫡男である兄の忠倍(ただます)が継ぐべきものであり、忠倍も父と共に国境警備の任に就くなど、武将として活動していた記録が残っている 8 。戦国時代の慣習として、次男以下の子は家の存続や他家との連携を目的として、しばしば他家へ養子に出される運命にあった。久元もまた、その慣例に従い、彼の人生の第一歩は、実家を離れ、養子として送られることから始まったのである。
久元の生涯を理解するためには、彼を取り巻く複雑な人間関係を把握することが不可欠である。以下の系図は、久元の血縁、主従、婚姻関係を視覚的に示したものである。
Mermaidによる関係図
宮之城島津家の次男として生まれた久元は、やがて島津氏の一門の中でも特に武勇で知られた有力庶家・新納(にいろ)氏の当主、新納四郎忠真の養子となった 1 。新納氏は島津氏の庶流でありながら、藩政において「御四男家」という高い家格を与えられ、戦国期には「鬼武蔵」の異名で恐れられた新納忠元のような傑出した武将を輩出するなど、島津家中で重きをなす一族であった 18 。この養子縁組により、久元は「新納近江守忠在(ただあり)」と名乗り、新納家の一員としてそのキャリアをスタートさせる 2 。
この養子入りは、単なる家督相続の問題に留まらない、より高度な戦略的意味合いを持っていた。関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制に組み込まれたとはいえ、薩摩藩内には依然として戦国時代の遺風が色濃く残り、庄内の乱のような内部抗争の火種も燻っていた。このような状況下で、藩主家が安定した支配を確立するためには、藩内の有力な一門や家臣団の結束を固めることが最重要課題であった。久元の養子縁組は、武功で名高い宮之城島津家と、同じく武勇の家として重んじられる新納家という、二大有力庶家を縁戚関係で結びつけることで、藩主を中心とした強固な支持基盤を形成し、家臣団の統制を強化しようとする政治的意図があったと考えられる。それは、近世大名家が家臣団を掌握し、藩の支配体制を磐石にするための高度な政治的手段の一環であった。
新納忠在となった久元は、養子先である新納氏の一員として、早速実践の場に身を投じる。慶長4年(1599年)、藩主・島津忠恒(家久)が絶大な権勢を誇った家老・伊集院忠棟を伏見屋敷で自ら手討ちにした事件に端を発し、忠棟の子・忠真が日向庄内で起こした反乱、すなわち「庄内の乱」に従軍した 2 。この戦いは、若き忠在にとって、藩内の熾烈な権力闘争の現実を目の当たりにする最初の経験となった。
翌慶長5年(1600年)には、天下分け目の関ヶ原の戦いに、父・忠長や島津義弘に従い、新納氏として参陣している 1 。これらの経験は、単なる武者修行という以上の意味を持っていた。藩の内乱と天下の趨勢を決する大戦という、島津家が直面した内外の危機に直接関わることで、彼は武将としての胆力と政治的な判断力を養っていったのである。
新納忠在として武功を重ねていた久元の運命は、慶長14年(1609年)に大きく転換する。実家の宮之城島津家で家督を継ぐはずであった兄・忠倍が、32歳の若さで急逝したのである 2 。これにより、父・忠長の後継者が不在となる事態に陥った。
このため、父・忠長の強い願いにより、久元は養子先の新納家を去り、実家である宮之城島津家へ復帰することが決まった 2 。この時より、彼は再び島津姓を名乗り、「島津下野守久元」として知られるようになる 2 。一度は他家の後継者となった人物が、実家の家督を継ぐために戻るという経緯は、彼の人生が個人の意思だけでなく、家の存続という大義によって動かされていたことを象徴している。
兄の死からわずか1年後の慶長15年(1610年)11月、父である島津忠長が60年の生涯を閉じた 8 。これを受け、久元は正式に宮之城島津家の家督を相続し、三代目の当主となった 8 。
家督相続後、久元はそれまでの地頭であった馬越(現在の鹿児島県伊佐市)から、父が領した宮之城へと拠点を移した。さらにその翌年には、父の在所であった鹿児島城下へと居を移している 2 。この一連の動きは、彼が単に宮之城という一私領の領主であるに留まらず、薩摩藩全体の政務を担う中枢の一員として、その役割を本格的に果たし始めたことを示している。
宮之城島津家の当主となった久元は、その能力と家格を認められ、元和4年(1618年)、主君である初代藩主・島津家久(忠恒)の家老に就任した 2 。これにより、彼は名実ともに薩摩藩の最高意思決定機関の一員となり、藩政の中枢を担うことになった。
久元の家老としての地位を決定的なものにしたのが、元和7年(1621年)の婚姻であった。この年、久元は藩主・家久の命令により、正室であった新納忠増の娘と離縁し、家久の実妹(島津義弘の次女)である御下(おした)を継室として迎えることになった 2 。
この婚姻は、単なる縁組ではなく、家久による極めて戦略的な権力集中策の一環であった。当時の家久は、父・義弘や伯父・義久といった重鎮の影響力が未だ残る中で、自らの権力基盤を確立する必要に迫られていた。彼は伊集院氏や平田氏といった旧来の重臣を粛清するなど、時に強権的な手法を用いて藩内の権力掌握を進めていた 10 。その家久にとって、武功著しい忠長の子であり、宮之城島津家という有力な分家を率いる久元の忠誠を絶対的なものにすることは、藩政安定の要であった。
家久は、久元の最初の妻が新納家の娘であることに着目した。この婚姻は宮之城家と新納家という有力庶家同士の連携を象徴するものであったが、家久はこれを一度断ち切らせ、代わりに自らの妹、すなわち島津宗家の血を引く女性を娶らせた。これにより、久元の忠誠のベクトルは、他の家臣団ではなく、藩主である家久自身に直接向けられることになった。久元は藩主の義理の弟という特別な地位を得たが、それは名誉であると同時に、藩主への絶対服従を義務付けられる強力な楔でもあった。この一件は、家久の冷徹な政治手腕と、それに応えて藩屏の重臣としての役割を受け入れた久元の姿を浮き彫りにしている。
藩主家との強固な信頼関係は、次代への継承においても重要な役割を果たした。寛永元年(1624年)、家久の嫡子である光久が元服する際には、その髪を結う「理髪役」という大役を久元が務めている 2 。理髪役は、元服する若君の後見役や傅役(もりやく)が務めるのが通例であり、この人選は、久元が次期藩主の後見人として家久から絶大な信頼を寄せられていたことを示す儀礼的な証左であった。
久元の役割は、儀礼的なものに留まらなかった。寛永9年(1632年)、薩摩藩の隣国である肥後熊本藩の藩主・加藤忠広(加藤清正の子)が幕府によって改易されるという大事件が起こった。この際、加藤家側の抵抗や領内の混乱が薩摩に波及する不測の事態に備え、久元は460人もの兵を率いて国境地帯へ出張している 2 。これは、家老としての久元が、単なる行政官僚ではなく、藩の軍事を統括し、隣国との緊張関係を管理する最高指揮官の一人として、具体的な軍事行動を指揮する立場にあったことを明確に示している。
寛永14年(1637年)10月、肥前島原半島と肥後天草諸島において、キリシタンや重税に苦しむ農民らによる大規模な一揆、いわゆる「島原の乱」が勃発した 26 。事態を重く見た江戸幕府は、九州の諸大名に対し、直ちに出兵して一揆を鎮圧するよう厳命を下した。薩摩藩もその対象となり、幕府の公役として軍勢を派遣する義務を負うことになった 27 。
しかし、この時、薩摩藩主の島津家久は重病の床にあり、自ら軍を率いて出陣することは不可能な状態であった 16 。そのため、家久の名代として、江戸にいた世子の島津光久(当時22歳)が薩摩軍を率いて参陣するよう命じられた。これが、後の二代藩主・光久にとっての初陣となった 17 。
若く、実戦経験のない光久の初陣を補佐するため、藩は最も信頼の置ける重臣を同行させる必要があった。その大役を担ったのが、家老である島津久元であった。『本藩人物誌』には、久元が「病の家久に代わり出征する光久の供をし」たと記されており 2 、薩摩藩の軍記『寛永軍徴』では、島津豊後守久賀と共に「軍大将」として出陣したことが明記されている 31 。
ここで注目すべきは、薩摩藩の指揮系統である。島原の現地で1,000名の兵を率いる実戦部隊の総大将は、同じく家老で出水地頭の山田有栄が務めていた 26 。このことから、島原における薩摩藩の陣容は、①名代総大将としての光久、②その後見役たる軍大将としての久元、③実戦部隊指揮官としての山田有栄、という三層構造になっていたことがわかる。久元の「軍大将」という役職は、前線で直接采配を振るうというよりも、若き次期藩主を後見し、幕府や他藩との折衝など、極めて政治的な判断を担う監督者としての役割が主であった。実際に、『旧記雑録』には、久元と山田有栄が連名で種子島氏に指示を出した書状が残されており、両者が密接に連携して軍を動かしていたことが窺える 33 。この指揮系統は、次期藩主に幕府の公役という重要な経験を積ませつつ、老練な家老が政治的判断を補佐し、実戦経験豊富な武将が現場を指揮するという、合理的かつ周到な役割分担であった。
光久と久元らの一行は九州に到着し、幕府軍の総大将(上使)である松平信綱と面会した。しかしその直後、国許の父・家久の病状が悪化したとの報が届く 34 。事態を重く見た信綱の指示により、光久は原城での総攻撃には参加せず、急ぎ鹿児島へ帰国することとなった。そしてその直後の寛永15年(1638年)2月23日、家久は息を引き取った 17 。
このため、光久、そして彼に付き従っていた久元は、結果的に島原の乱における大規模な戦闘にはほとんど関与することなく、その任務を終えた。薩摩藩の役割は、藩主の代替わりという国内の非常事態に対応するため、軍事行動から藩内の安定維持へと急遽移行したのであった。
階層 |
役職 |
氏名 |
役割と権限 |
1 |
名代総大将 |
島津光久 |
藩主家久の名代として薩摩藩を公式に代表。幕府の公役への初参加であり、象徴的な最高責任者。 |
2 |
軍大将(後見役) |
島津久元 |
家老。光久の傅役・後見人として全般を監督。幕府や他藩との折衝など、対外的・政治的な判断を担う。 |
3 |
総大将(実戦部隊指揮官) |
山田有栄 |
家老・出水地頭。兵1,000名を率いる実戦部隊の最高指揮官。現地の戦術的判断と部隊運用を担当。 |
島原の乱から帰還した久元は、家老として藩政の安定に努めるが、彼の治世における最大の功績は、薩摩藩の財政を根底から変えることになる一大事業にあった。寛永17年(1640年)、家老であった久元の監督下で、永野(山ヶ野)金山が発見され、本格的な開発が開始されたのである 35 。
この金山発見には、久元の嫡男である島津久通(ひさみち)が深く関与していたことが史料から確認されている 14 。後世には、久通が夢のお告げによって金鉱脈を発見したという伝説も生まれるほど、この父子の功績は大きなものであった 36 。発見当初の山ヶ野金山は「あたかも赤牛の伏せたるが如く」と伝えられるほど、金の塊が地表に露出しており、その産金量は凄まじかった。寛永17年からわずか2、3年の間に産出された金は、約26トンにも及んだと記録されている 36 。
この発見は、薩摩藩にとってまさに天恵であったが、同時に大きな政治的リスクを伴う「諸刃の剣」でもあった。この莫大な富の経済的価値を当時の貨幣に換算すると、その衝撃の大きさがわかる。江戸初期の慶長小判は、金1両あたり約15グラムの金を含有していた 41 。これに基づき計算すると、26トン(26,000,000グラム)の金は、約173万両に相当する。当時の薩摩藩の年間収入が12万両から14万両程度であったことを考慮すると 42 、わずか数年の産金額が、藩の年間収入の10倍以上にも達する、まさに国家財政を揺るがすほどの規模であった。
当然、この異常な産出量は徳川幕府の知るところとなり、幕府は外様大国である薩摩藩が強大な財力を得ることを極度に警戒した。寛永期は、加藤忠広の改易(1632年)に代表されるように、幕府が外様大名への統制を強化していた時代であり、薩摩藩も例外ではなかった 44 。その結果、寛永19年(1642年)頃、幕府は薩摩藩に対し山ヶ野金山の採掘中止を命じた 35 。金山開発の最高責任者であった家老・久元の役割は、この莫大な富を藩の借財返済やインフラ整備に充てる一方で、幕府の猜疑心を刺激しないよう、産出された金を幕府へ献上するなど 35 、慎重な政治的対応を迫られる、極めて高度な政務能力が求められるものであった。
山ヶ野金山から得られた莫大な資金と、鉱山開発で培われた土木技術は、藩内の他の殖産興業政策にも大きな影響を与えた。特に、久元の息子である久通が後に主導することになる天降川の治水工事や新田開発は、その財源と技術的端緒を父・久元の時代の金山開発に遡ることができる 36 。薩摩藩は江戸時代を通じて、櫨蝋(はぜろう)や樟脳、そして奄美の黒砂糖などの専売制によって財政を支えていくが 45 、その基礎となる殖産興業政策の巨大な原動力の一つが、島津久元の治世下における金山開発であったと位置づけることができるだろう。
藩主・家久の死後、久元は新たに藩主となった光久の家老として、引き続き藩政を支え続けた 2 。光久の治世初期は、分家である新城島津家の当主を自害に追い込む事件が起こるなど、家中に不安定な要素も存在したが、久元は筆頭家老の一人として、藩政の安定に大きく寄与したと考えられる 49 。彼は、戦国の動乱から徳川の泰平へと移行する時代の架け橋として、その生涯を藩への奉公に捧げた。
寛永20年(1643年)6月13日、島津久元は63年の生涯に幕を閉じた 1 。その戒名は「鉄心宗昆大居士(てっしんそうこんだいこじ)」とされ、彼の揺るぎない忠誠心と武人としての精神性を表しているかのようである。墓所は、宮之城島津家の菩提寺である宗功寺(創建時の名は大道寺)にあり、今も静かにその地で眠っている 2 。
久元の跡は、嫡男の島津久通が継承した 14 。久通は父の遺志を継ぎ、正保2年(1645年)に家老に就任すると、その卓越した行政手腕を発揮した。彼は父の代に始まった山ヶ野金山の再開と経営に尽力し、天降川の大規模な治水工事を成功させ、さらに藩の公式な歴史書である『島津世録』の編纂を主導するなど、父をも凌ぐほどの多大な功績を藩にもたらした 14 。その容貌から「髭図書殿(ひげずしょどの)」と呼ばれ、民衆からも親しまれたという 38 。
久元・久通父子が築いた盤石な基盤の上に、宮之城島津家は幕末に至るまで藩の家老職を代々務める名門として存続し、明治維新後にはその功績により男爵家(華族)に列せられた 7 。
薩摩藩の公式な人物評伝である『本藩人物誌』には、久元の生涯が詳細に記録されている 2 。特に、家老として産業育成や金山開発に関わった功績は、息子・久通と共に高く評価されており、藩財政の礎を築いた人物として認識されている 18 。また、藩主の代替わりという藩にとって最も重要な時期に、若き次期藩主を後見し、島原の乱という国の一大事を乗り切ったその手腕は、激動の時代を生き抜く上で不可欠なものであった。
島津久元の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武将が、時代の大きなうねりの中でその役割を巧みに変容させていく姿を目の当たりにする。彼は、関ヶ原の戦いを経験した最後の世代の武将でありながら、その後の徳川の泰平の世に巧みに適応し、藩政を担う優れた行政官僚(能吏)へと自己を変革させた。その生涯は、戦国から近世への移行期を体現する、まさに象徴的なものであったと言えよう。
彼の歴史的功績は、三つの大きな柱に集約される。第一に、島原の乱において、若き藩主・光久の後見役として幕府の公役を無事に果たし、藩主の代替わりという危機的状況を乗り切った政治的手腕。第二に、藩主・家久の妹を娶ることで藩主家との姻戚関係を深め、自らが藩屏の重臣となることで、藩主を中心とした近世的な権力基盤の強化に貢献したこと。そして第三に、山ヶ野金山の開発を主導し、薩摩藩に未曾有の富をもたらし、その後の藩財政と殖産興業の強力な基盤を築いたことである。
これらは全て、薩摩藩が徳川幕藩体制下で強大な外様大名として安定し、後の幕末維新期に雄飛するための礎を築く上で、決定的に重要な役割を果たした。島津久元は、島津義久や義弘のような戦国の英雄として語られることは少ない。しかし、彼は乱世の終焉を見届け、泰平の世の礎を築いた、近世薩摩藩における「静かなる創業者」の一人として、再評価されるべき人物である。彼の堅実な働きなくして、その後の薩摩藩の歴史は大きく異なっていたかもしれない。