島津久逸は宗家出身ながら伊作家を継ぎ、日向櫛間へ移封。宗家への反乱「久逸の乱」を起こし敗北。嫡男を失い、薩州家の内紛に介入し戦死。彼の血筋が島津忠良に繋がり、島津氏中興の祖となる。
島津久逸(しまづ ひさやす、1441年 - 1500年)は、戦国時代の九州史において、島津義久や義弘のような主役として語られることは稀な人物です。しかし、彼の波乱に満ちた生涯は、島津宗家の権威が揺らぎ、一門の分家や在地国人衆が自立を模索した15世紀後半の南九州、いわゆる「三州大乱」の時代を象徴しています。本稿では、この島津久逸を単なる「反逆者」という一面的な評価から解き放ち、その行動原理、挫折、そして意図せずして後の戦国大名島津氏の飛躍に繋がった血脈の重要性を、現存する史料に基づき多角的に論じるものです。
久逸が生きた時代は、応仁の乱(1467年 - 1477年)に前後し、全国的に室町幕府の権威が失墜した時期と重なります。南九州の薩摩・大隅・日向の三国においても、守護である島津宗家の統制力は著しく弱体化していました。一族内では有力な分家が台頭し、宗家の家督相続を巡る争いや領地を巡る対立が頻発します。これに在地国人衆の反乱が絡み合い、百年に及ぶとも言われる未曾有の混乱期「三州大乱」へと突入していました 1 。島津久逸の生涯は、まさにこの時代の混沌の縮図であったと言えるでしょう。
本稿は、久逸の出自と伊作家の継承に始まり、宗家への反乱である「久逸の乱」の全貌、悲劇的な晩年、そして歴史的評価に至るまでを時系列に沿って詳述します。これにより、彼の行動が持つ歴史的意義と、彼の孫である島津忠良(日新斎)の登場、ひいては戦国大名島津氏の黎明へと繋がる複雑な因果関係を解き明かすことを目的とします。
本報告書で詳述する久逸の生涯は、数多くの人物が登場し、複雑な出来事が連続します。この年表を冒頭に配置することで、読者は久逸の人生の全体像と主要な出来事の時系列を事前に把握でき、続く詳細な本文の理解を深めるための道標となります。
和暦(西暦) |
年齢 |
出来事 |
嘉吉元年(1441年) |
1歳 |
島津宗家9代当主・島津忠国の三男として誕生 3 。 |
長禄2年(1458年) |
18歳 |
伊作家7代当主・犬安丸の急死に伴い、養子として伊作家8代当主となる 3 。 |
応仁2年(1468年) |
28歳 |
嫡男・善久が誕生する 6 。 |
文明5年(1473年) |
33歳 |
兄である宗家10代当主・立久の命により、日向国櫛間へ移封される 3 。 |
文明16年(1484年) |
44歳 |
宗家当主・忠昌(甥)の転封命令に反発し、伊東氏らと結び挙兵(久逸の乱)。敗北後、降伏し旧領の伊作へ戻される 3 。 |
明応3年(1494年) |
54歳 |
嫡男・善久が下男によって殺害される 3 。 |
明応9年(1500年) |
60歳 |
薩州家の内紛に介入し、加勢した島津忠福が拠る加世田城にて、島津忠興軍に討ち取られ戦死 3 。 |
島津久逸は、嘉吉元年(1441年)、島津宗家(奥州家)の第9代当主である島津忠国の三男として生を受けました 3 。母は島津家の重臣であった新納忠臣の娘、心萃夫人とされています 3 。兄には、後に有力分家である相州家を興すことになる島津友久、そして宗家の家督を継承し第10代当主となる島津立久がおり、久逸は宗家の直系血族という、極めて高い身分と血統を誇る出自でした 3 。
しかし、彼が生まれ育った環境は決して安穏なものではありませんでした。父・忠国の治世は、実弟である島津用久(後の薩州家初代当主)との家督を巡る深刻な対立をはじめ、一族内の抗争が絶えませんでした 1 。宗家の権威は常に脅かされ、分家や国人衆が独自の動きを見せる、不安定な権力構造の中で、久逸は青年期までを過ごしたのです。この経験は、彼が後の人生で下す決断に、少なからぬ影響を与えたと考えられます。
久逸が養子に入った伊作島津家は、宗家3代当主・島津久経の次男である久長を祖とする、鎌倉時代以来の由緒ある分家でした 4 。薩摩国伊作荘(現在の鹿児島県日置市吹上地域)を本拠とし、中世には宗家と共に京で活動するなど、一門の中でも重きをなした存在でした 14 。しかし、時代が下るにつれて宗家との血縁は次第に遠のき、15世紀半ばには一族でありながらも家臣格の家柄と見なされるまでにその地位は低下していました 3 。
その伊作家を断絶の危機が襲います。長禄2年(1458年)、第7代当主であった伊作犬安丸が16歳という若さで急死し、家系が途絶える事態となったのです 3 。この危機に対し、島津宗家は当主・忠国の子である当時18歳の久逸を養子として送り込み、伊作家第8代当主として家督を継承させました 3 。
この養子縁組は、単に一つの分家の家名を存続させるという以上の、極めて高度な政治的意味合いを持っていました。犬安丸の死によって、鎌倉時代から続いた伊作家の血統は事実上途絶えました 5 。そこに、現宗家当主の直子である久逸が入ったことは、伊作家の「再創設」に他なりません。宗家はこの介入によって、血縁的に遠くなり半ば独立した存在となっていた分家を、現宗家の血を引く「直系分家」へと作り変えたのです。これが、後の時代に「久逸系伊作氏」と呼ばれる所以です 4 。この措置は、宗家による分家統制強化策の一環であり、伊作家の政治的位置づけを根本から変えるものでした。同時に、この出自は久逸自身に「自分は他の分家とは違う、宗家出身である」という強い自負心とプライドを植え付け、後の宗家との対立に至る精神的な土壌を形成したと考えられます。伊作家にとっては宗家との関係を再強化し家の安泰を図る機会でしたが、宗家にとっては戦略的要衝である伊作の地を、自らの血を引く者を通じて確実に掌握するための布石でした。この「宗家の血」と「分家の当主」という二重のアイデンティティが、結果として久逸の人生を大きく揺さぶる要因となっていくのです。
島津氏内部の権力闘争を理解するには、宗家と各分家との複雑な血縁関係の把握が不可欠です。以下の系図は、本稿に登場する主要な人物の関係性を視覚的に整理し、文章だけでは伝わりにくい人物相関を一目で理解できるようにするためのものです。
【島津宗家(奥州家)】
島津忠国(9代当主)
├── 島津友久(長男、相州家初代)
│ └── 島津運久(2代)
├── 島津立久(次男、10代当主)
│ └── 島津忠昌(11代当主)
└── ★島津久逸(三男、伊作家8代当主)
└── 伊作善久(9代当主)
└── 島津忠良(10代当主、後の日新斎)
【伊作家(旧)】
伊作教久(6代当主)
├── 伊作犬安丸(7代当主、早世)
└── 女(久逸の妻)
【薩州家】
島津用久(初代、忠国の弟)
└── 島津国久(2代)
└── 島津成久(3代)
└── 島津忠興(4代)
【新納氏】
新納忠治
├── 新納忠続(飫肥城主、忠国の娘婿)
└── 新納是久
└── 常盤(善久の妻、忠良の母)
伊作家を継いでから十数年後の文明5年(1473年)、久逸の人生に大きな転機が訪れます。兄である宗家10代当主・島津立久の命により、久逸は本領である薩摩伊作の地を離れ、日向国櫛間(現在の宮崎県串間市)へと移封されることになりました 3 。これは、長年にわたって島津氏と領地を争ってきた宿敵、日向の伊東氏の侵攻に備えるための、純然たる軍事・戦略的配置でした。
久逸が城主となった櫛間城は、日向南部の要衝であり、対伊東氏政策の最前線基地というべき重要な拠点でした 17 。この城は、南北朝時代に野辺氏によって築かれた古い城でしたが、戦国期には島津氏の支配下に入り、幾度となく伊東氏との攻防の舞台となっています 19 。さらに、櫛間が面する志布志湾は、古くから海上交易の拠点としても機能しており、経済的な重要性も帯びていた可能性が指摘されています 22 。久逸はこのように軍事的にも経済的にも重要な拠点の守りを任されたのです。
この時、宗家は久逸の櫛間配置と同時に、有力一門である新納忠続を近隣の飫肥城に配置しています 7 。これは、二つの城を連携させ、伊東氏の南下を防ぐ強固な防衛ラインを日向南部に構築しようという宗家の明確な戦略的意図の表れでした。しかし、この連携を意図した配置が、皮肉にも後に内乱の直接的な原因となるのです。
櫛間に移った久逸は、その地で着実に勢力を拡大させていきました。単に城を守るだけでなく、息子の善久を、新納一族でありながら在地で力を持つ新納是久(飫肥城主・忠続の弟)の娘である常盤と結婚させるなど、婚姻政策を通じて在地勢力との関係を巧みに構築し、日向南部における影響力を強めていきました 6 。
この久逸の台頭を快く思わなかったのが、隣の飫肥城主、新納忠続でした。新納氏は島津氏の分家の中でも特に古い歴史を持ち、代々日向の地で重きをなしてきたという強い自負がありました 23 。忠続自身も宗家9代当主・忠国の娘を妻としており、一門衆としての高い地位にありました 23 。彼からすれば、家格では下と見なしていた伊作家の久逸が、自らの勢力圏で「盟主のごとく振る舞う」ことは、到底容認できるものではなかったのです 16 。
両者の緊張関係が頂点に達したのは、宗家の代替わりがきっかけでした。久逸の兄・立久が亡くなり、その子で久逸の甥にあたる若き島津忠昌が宗家11代当主となると、新納忠続は忠昌に対し「久逸を櫛間から本来の領地である伊作へ戻してほしい」と強く嘆願します。まだ若く、有力一門である新納氏の意向を無視できなかった忠昌は、この要求を承認し、叔父である久逸に対して櫛間からの退去と伊作への帰還を命じてしまうのです 3 。
この対立の本質は、単なる領地争い以上に、個人のプライドと家の序列を巡る深刻なものでした。久逸のアイデンティティは、「宗家9代当主の直子」という血統の誇りと、「家臣格の分家当主」という家格の現実という二重構造の上に成り立っていました。その彼にとって、家格では同等かそれ以下と見なしていた新納氏の進言によって、主君とはいえ年下の甥である忠昌から一方的な転封命令が下されたことは、耐え難い屈辱でした。これは単なる軍事的な配置転換ではなく、久逸の「宗家出身」というプライEドを根底から踏みにじる仕打ちと受け取られたのです。彼の激昂は、この屈辱感に起因するものであり、命令に従うことは新納氏の下風に立つことを公に認めることに他なりませんでした。彼の誇りが、それを許さなかったのです。
文明16年(1484年)10月、宗家の命令に激昂した久逸は、ついに挙兵という実力行使に踏み切ります 9 。そして、彼は驚くべき行動に出ました。長年の島津氏の宿敵である日向の伊東祐堯や、同じく日向の国人である北原氏と手を結び、憎き新納忠続が守る飫肥城を攻撃したのです 7 。これは、当時の武士の行動原理が、一族への忠誠という抽象的な理念よりも、自己の家の存続と権益という現実的な利害をいかに優先したかを示す好例と言えます。
久逸の反乱は、単なる個人的な不満の爆発に留まりませんでした。宗家の支配に不満を抱いていた薩摩・大隅・日向の国人衆がこれに次々と呼応し、反乱は南九州全域を揺るがす大乱へと発展します 13 。その勢いは凄まじく、宗家当主・忠昌は居城である鹿児島の清水城から妻子を伊集院一宇治城へと避難させなければならないほどに追い詰められました 3 。
事態を重く見た宗家・忠昌は、相州家の当主である島津友久(久逸の実兄)、薩州家の当主である島津国久ら、一門の主力を総動員して大規模な討伐軍を編成します 3 。実の兄が討伐軍の将として、弟である久逸と対峙するという構図が、この内乱の根深さと悲劇性を物語っています。一門の総力を結集した宗家軍の前に、久逸と連合軍は次第に劣勢に追い込まれます。末吉での戦いに敗れた久逸は櫛間城へと退却し、籠城しますが、やがて薩州家・国久の降伏勧告を受け入れ、開城しました 3 。
乱後の処置において、久逸は死罪を免れ、当初の命令通り、旧領である薩摩伊作へ戻ることを許されました 9 。これは、彼が宗家当主の叔父という極めて近い血縁であったこと、そしてこれ以上の混乱を拡大させたくない宗家側の思惑が働いた結果と考えられます。しかし、この反乱の失敗は久逸の政治的生命に大きな傷を残し、彼の晩年をより一層悲劇的なものへと導いていくことになります。
「久逸の乱」から10年後の明応3年(1494年)、失意のうちに伊作へ戻っていた久逸を、更なる悲劇が襲います。伊作家の家督を継ぐはずだった唯一の嫡男・伊作善久が、馬飼いの下男との些細な口論の末に撲殺されるという、非業の死を遂げたのです 3 。この時、善久はまだ27歳という若さでした。
この事件は、表向きには偶発的な事故として記録されていますが、その背景には深い闇が感じられます。武家の当主嫡男が、身分の低い下男によって殺害されるというのは、極めて異例の事態です。久逸は先の反乱によって多くの敵を作っており、彼や彼の家に恨みを抱く者も少なくなかったはずです。そのため、この事件の背景に、何者かの政治的な意図が働いた暗殺があった可能性は十分に考えられます 15 。「下男との口論」という理由は、真相を隠蔽するための口実であったかもしれません。
真相がどうであれ、この事件がもたらした結果は明白でした。久逸は個人的な悲しみに打ちひしがれると同時に、伊作家の将来を根底から揺るがす政治的な大打撃を受けました。唯一の跡継ぎを失い、残されたのは善久の妻・常盤と、まだ幼い孫の菊三郎(後の島津忠良)のみとなったのです 15 。当時54歳であった久逸は、政治的に完全に孤立し、後継者問題という絶望的な状況に追い込まれたのです。この焦燥感が、6年後の彼の無謀とも思える最後の行動に繋がったと考えられます。
嫡男を失い、伊作家の未来に暗雲が立ち込める中、久逸は最後の賭けに出ます。明応9年(1500年)、当時島津一門の中でも最大級の勢力を誇っていた分家・薩州家で内紛が勃発しました。薩州家3代当主・島津成久の子である島津忠興と、成久の一族(従兄弟にあたるとされる)である島津忠福が、薩摩南部の要衝・加世田城を拠点に対立したのです 11 。
この内紛に対し、久逸は忠福方として加勢することを決断します。この時点で久逸は59歳。かつての反乱は失敗に終わり、嫡男も失い、彼の政治的影響力は地に落ちていました。そのような状況で、なぜ他家の内紛という危険極まりない争いに身を投じたのでしょうか。それは、失地回復と自家の再興を狙った、最後の、そして絶望的な賭けだったと解釈することができます。もし支援した忠福がこの内紛に勝利すれば、薩州家という強力な後ろ盾を得ることが可能になります。それは、弱体化した伊作家を再興させ、何よりも唯一の希望である幼い孫・菊三郎の将来を安泰にするための、彼に残された唯一の道筋に見えたのかもしれません。もはや失うものの少ない老将が、一縷の望みをかけて打った乾坤一擲の博打であったと言えるでしょう。
しかし、この最後の賭けは、最悪の結果に終わります。島津忠興の軍勢は加世田城を猛攻の末に攻略し、この戦いの最中、久逸は討ち死にを遂げました 3 。享年60。宗家への反乱と家族の悲劇に彩られたその生涯は、他家の一族内紛という、ある意味で彼自身の人生を象徴するような混沌の渦中で、静かに幕を閉じたのです。
島津久逸の生涯を評価する際、その立場によって見方は大きく異なります。甥である当主・忠昌が率いる島津宗家の視点から見れば、久逸は一族の秩序を乱し、宿敵である伊東氏とまで手を結んだ紛れもない「反逆者」です。彼の行動は、宗家の権威に対する明確な挑戦であり、許されざるものでした。
しかし、久逸自身の立場からその行動を再評価すると、異なる側面が見えてきます。彼の行動は、自己の家と領地、そして何よりも「宗家9代当主の子」という彼の矜持を守るための、戦国乱世における合理的な生存戦略であったと解釈することも可能です。守護大名の権威が失墜し、より小規模な地域権力である分家や国人衆が、自らの実力で生き残りを図る「下克上」の時代において、彼の選択は特異なものではありませんでした。久逸の反乱は、この時代の大きな流れを体現したものであり、彼はその時代の奔流に翻弄された犠牲者の一人であった、という評価もまた成り立つのです 1 。
島津久逸個人の生涯は、挫折と悲劇の連続であり、その野心は完全に打ち砕かれました。しかし、彼の血筋は、歴史の奇跡とも言うべき、彼自身が想像だにしなかったであろう遺産を残すことになります。久逸と、その息子・善久の相次ぐ死によって、伊作家は当主不在となり、孤児同然となった孫の菊三郎が残されました。この家の危機が、外部からの介入を招きます。菊三郎の母・常盤が、島津一門の中でも有力な分家であった相州家の当主・島津運久に再嫁し、その際に菊三郎が運久の養子となることで、彼は伊作家と相州家という二つの有力分家の領地と権力を一身に継承することになったのです 14 。
この菊三郎こそが、後に「島津氏中興の祖」と称えられ、また教育者としても「日新斎いろは歌」を遺したことで知られる、島津忠良(日新斎)その人です 2 。忠良は、祖父・久逸の失敗が逆説的に生み出した強固な政治的・経済的基盤を元に、分裂し弱体化していた島津一族の再統一へと乗り出します。
ここには、歴史の皮肉としか言いようのない、壮大な物語が存在します。久逸は宗家に反乱を起こし、敗北しました。彼の家は、彼と彼の息子の死によって断絶寸前となりました。彼の人生は、客観的に見れば完全な失敗です。しかし、まさにこの「失敗」が、相州家の介入を招き、結果として孫の忠良が二つの家の力を統合するという未曾有の機会を得る直接的な原因となったのです。そして忠良は、その統合された力を背景に、祖父・久逸が刃向かった宗家そのものを、ある意味で乗っ取る形で、息子の貴久を第15代当主として送り込みました 2 。
したがって、後の島津義久・義弘・歳久・家久の「島津四兄弟」が築き上げ、九州の覇者として君臨した栄光の時代は、その源流を辿れば、「反逆者」として失意のうちに死んだ曾祖父・島津久逸の悲劇的な生涯なくしてはあり得なかったのです。久逸の個人的な野心は砕かれましたが、彼の血脈は、彼自身が想像だにしなかったであろう壮大な規模で、歴史的な勝利を収めたと言えるでしょう。
島津久逸の生涯は、宗家の権威と分家の自立性が激しく衝突した15世紀末の南九州社会を映し出す鏡でした。彼は「宗家の子」という高い出自と「一分家の当主」という現実の立場の間で引き裂かれ、時代の奔流の中で自己の権益と誇りを守ろうと抗いましたが、志半ばで倒れました。
彼の個人的な野心は、その生涯において完全に挫折しました。しかし、彼の死と息子の死という二重の悲劇が、孫である島津忠良に強大な権力基盤を与えるという、全く意図せざる結果を生み出しました。久逸は、自らの失敗を通じて、図らずも島津家が戦国大名として新たな時代へ飛躍するための「礎」を築いたのです。彼の存在なくして、戦国大名・島津氏の輝かしい歴史は語ることはできません。島津久逸は、単なる反逆者ではなく、混沌の中から新たな秩序が生まれる過渡期の、重要かつ象徴的な人物として再評価されるべきでしょう。