本報告書は、戦国時代の島津氏第十四代当主、島津勝久(しまづかつひさ、初名:忠兼)の生涯を、単なる個人の伝記としてではなく、守護大名・島津氏が戦国大名へと変貌を遂げる過渡期の政治的力学の中に位置づけ、その歴史的役割を再評価することを目的とする。
島津勝久は、伝統的に「内乱を収めることができず、一度は譲った家督に固執して領内を混乱させた優柔不断な当主」として描かれてきた 1 。この評価は、後世に島津宗家を継承した相州家の視点で編纂された『貴久記』などの史料に大きく影響されたものである可能性が高い 4 。
本稿では、近年の研究成果、特に山口研一氏らが指摘する、勝久の行動の背後にあった守護家家臣団(老中)の内部対立という視点を重視する 6 。これにより、勝久を単なる暗君としてではなく、守護権力の弱体化と有力庶家・家臣団の台頭という時代の大きなうねりの中で、自らの意思とは別に権力闘争の駒として翻弄された悲劇的人物として、より多角的かつ深く分析する。彼の生涯を追うことは、中世的権威が崩壊し、実力主義の戦国時代へと南九州社会が移行する過程そのものを解明する鍵となるであろう。
島津勝久が家督を継承する以前の島津宗家(奥州家)は、深刻な権威の失墜に直面していた。勝久の父である第十一代当主・島津忠昌は、文明年間から続く一族や国人衆の反乱に疲弊し、守護としての権威は「一家中一揆」という一族連合の契状によって大きく制約されるなど、その治世は困難を極めた 8 。度重なる裏切りと戦乱に心を病んだ忠昌は、永正5年(1508年)、歌人西行の辞世の句「願わくば花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」を詠み、清水城にて自害するという衝撃的な最期を遂げた 7 。
当主の自害という異常事態は、守護家の権威失墜を象徴する出来事であった。さらに不幸は続き、忠昌の跡を継いだ長男の忠治(第十二代)、次男の忠隆(第十三代)も、それぞれ治世わずか7年、4年で相次いで若くして死去した 7 。この当主の相次ぐ夭折は、領国における権力の真空状態を生み出し、薩州家をはじめとする有力分家や国人衆が自立化を強める「三州大乱」と呼ばれる深刻な混乱期を招来したのである 4 。勝久の治世は、この構造的な権力基盤の崩壊という、極めて不利な状況から始まった。
文亀3年(1503年)8月18日、島津忠昌の三男として生まれた勝久(幼名:宮房丸、初名:忠兼)は、当初、頴娃(えい)氏の名跡を継いでいた 1 。これは、彼が宗家を直接継承する序列にはなく、分家の当主として生涯を終える可能性が高かったことを示唆している。
しかし、永正16年(1519年)、兄である第十三代当主・忠隆が痘疹により23歳で急逝したため、勝久は急遽呼び戻され、17歳の若さで島津宗家の家督と三国(薩摩・大隅・日向)守護職を継承することとなった 1 。この予期せぬ家督相続は、勝久の政権基盤が極めて脆弱であったことを意味する。彼自身の政治的経験の浅さに加え、父の自害と兄たちの早世によって地に落ちた守護家の権威、そして長年の内乱で疲弊した領国という負の遺産を、若き勝久は一身に背負うことになったのである 3 。彼の治世の混乱は、その個人的資質以上に、この継承時点での構造的な問題に深く根差していた。
勝久の治世は、島津氏内部の有力な二つの分家、薩州家と相州家による熾烈な権力闘争の渦中にあった。彼自身は、その正統な守護という立場ゆえに、両派閥が自らの権力を正当化するための象徴として利用され、翻弄される存在となっていく。
薩摩国出水を本拠とする有力分家・薩州家の当主、島津実久は、勝久にとって家督継承当初からの大きな脅威であった 17 。実久の姉は勝久の正室であり、実久はこの姻戚関係を足がかりとして守護家の内政に深く干渉し、その権勢を日増しに強めていった 6 。史料によれば、実久は自らの子である義虎を勝久の養嗣子にしようと画策するなど 15 、守護職そのものを簒奪しようとする野心を隠さず、勝久に対して苛烈な圧迫を加えたとされる 20 。この薩州家の強大な圧力こそが、勝久が他の勢力、すなわち相州家に助けを求める直接的な引き金となった。
実久の圧力に対抗するため、勝久はもう一つの有力分家である伊作・相州家の当主、島津忠良に接近した 3 。忠良は後に「日新斎」と号し、「島津家中興の祖」と称えられるほどの傑物であり、その軍事力と政治力は、孤立しつつあった勝久にとって唯一の頼みの綱であった 23 。
大永6年(1526年)11月、両者の利害は一致し、勝久は忠良の嫡男・虎寿丸(後の島津貴久)を養子に迎え、家督と三国守護職を譲渡するという決断を下した 1 。この時、貴久はわずか13歳であり、実質的な国政は後見人である父・忠良に委ねられることになった 26 。勝久自身は守護職を退き、伊作へと隠棲した 6 。これは、自らの無力さを認め、実力者の力を借りて領国の安定を図ろうとした、苦渋の選択であった。
しかし、この平穏は長くは続かなかった。家督譲渡のわずか半年後、大永7年(1527年)5月、勝久は突如としてこの決定を覆し、守護職への復帰を宣言する。これは「悔返し」と呼ばれ、薩州家の実久が貴久を鹿児島から武力で追放し、勝久を再び守護の座に据えることで実現した 13 。
この一連の動きは、従来、勝久自身の優柔不断さや、実久の唆しの結果として説明されてきた。しかし、近年の研究、特に山口研一氏の研究によって、この事件の背後には守護家家臣団(老中)の深刻な内部対立があったことが明らかにされている 6 。
真相は、家臣団の派閥争いにあった。勝久は家督を継いだ直後、兄・忠隆の代からの老中を罷免し、自派の新しい老中を登用するという人事刷新を行っていた 6 。この新しく起用された老中たちには相州家に近い者が多く、彼らが自らの政治的立場を強化するために、強力な相州家との連携、すなわち貴久への家督譲渡を主導したとみられている 6 。
一方で、この人事刷新によって罷免された旧老中たちは、当然ながら強い不満を抱いていた。彼らは復権を目指し、相州家と対立する薩州家の島津実久と結託した 6 。実久が貴久を追放し、勝久を再び守護として担ぎ出した動きは、単なる実久個人の野心だけでなく、この旧老中派によるクーデターとしての側面を色濃く持っていたのである。事実、守護に復帰した勝久は、この旧老中たちを再び政権の中枢に登用している 6 。
この観点から見れば、勝久の行動は彼自身の主体的な意思決定というよりも、彼を「神輿」として担ぐ二つの家臣団派閥(相州家派の新任老中 vs 薩州家派の旧老中)の権力闘争の結果として引き起こされたものであった。彼は、それぞれの派閥にとって、自らの行動を正当化するための権威の象徴として利用されたに過ぎなかった。この一連の騒動は、島津氏の権力構造が、もはや守護当主個人の権威によってではなく、有力庶家と結びついた家臣団の派閥力学によって動かされていたことを明確に示している。
表1:島津勝久をめぐる主要人物と勢力関係(大永年間)
派閥 |
主要人物 |
本拠地・基盤 |
主な支持勢力・特徴 |
勝久との関係性 |
典拠 |
奥州家(本宗家) |
島津勝久 |
鹿児島・清水城 |
守護としての正統性を持つが、実力は脆弱。家臣団が分裂状態。 |
当主(権力闘争の中心) |
6 |
薩州家 |
島津実久 |
薩摩国出水 |
北薩摩の国人衆、守護家の旧来の老中。当初は宗家家臣団の大半の支持を得た。 |
義兄。勝久を圧迫し、後に擁立して実権を掌握。最大のライバル。 |
6 |
相州家 |
島津忠良、島津貴久 |
薩摩国伊作、田布施 |
薩摩半島南部の国人衆(「南方衆」)。勝久が登用した新任老中。 |
支援要請の対象。勝久が貴久を養子とするが、後に敵対。 |
21 |
守護職に復帰したものの、勝久の権力は名ばかりのものであった。実権は彼を擁立した薩州家の実久と旧老中派に握られ、彼は再び権力闘争の渦に巻き込まれ、ついには故郷を追われる運命を辿る。
守護に返り咲いた勝久であったが、実権者である実久との関係はすぐに悪化した。勝久が政務を怠り遊興にふけるようになったことなどから、天文3年(1534年)、国老の川上昌久が勝久を諌めるためにその寵臣・末弘忠季を殺害するという事件が起きる。身の危険を感じた勝久は、大隅国の有力国人である禰寝(ねじめ)氏のもとへ一時逃亡した 15 。
薩摩へ戻った勝久は川上昌久を切腹に追い込むが、この行動が実久の怒りを買い、天文4年(1535年)、ついに実久によって武力で攻撃され、鹿児島からの追放を余儀なくされた。この時点で、実久は守護家の家臣団や国人領主に推戴される形で、事実上の守護職に就いたとされる 20 。
支持基盤を失った勝久は、皮肉にもかつて自らが追放した相州家の島津忠良・貴久親子と連携し、権力回復を図る 30 。一時は巻き返しに成功するものの、日向国の北郷氏をはじめとする有力国人たちの支持は、着実に実力をつけ、領国経営に実績を上げていた貴久へと次第に傾いていった 30 。もはや勝久に、失われた権威と実力を取り戻す術は残されていなかった。
天文8年(1539年)の紫原の戦いで貴久が実久に決定的勝利を収め、薩摩半島における相州家の覇権が確立されると、勝久の立場は完全に失われた 11 。
自らの支持基盤をすべて失った勝久は、もはや薩摩・大隅に留まることができなくなり、流浪の身となる。まず日向国真幸院の北原氏、次いで庄内の北郷氏などを頼って各地を転々とした 31 。この頃、長男の益房丸(後の忠良)は日向の有力大名である伊東義祐のもとへ預けられたと伝えられている 15 。守護の座を追われた勝久の旅路は、寄る辺なく、苦難に満ちたものであった。
流浪の末、勝久が最終的にたどり着いたのは、母・天真夫人の実家である豊後国の大友氏であった 1 。これは天文年間末期のこととされ、勝久は九州の二大勢力の一つである大友宗麟の庇護下で、亡命生活を送ることになる。
薩摩で政権を握ったのは10代から20代にかけてのわずかな期間であり、その後の人生の過半は、故郷から遠く離れたこの豊後の地で過ごしたことになる 34 。かつての三国守護の栄光は見る影もなく、失意のうちに歳月を重ねた。
そして天正元年(1573年)10月15日、勝久は豊後府内の沖浜(現在の大分市住吉町付近)にて、71歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の墓は当初、亡くなった沖浜に建てられたが、後に故郷鹿児島の福昌寺にも、父や兄たちと並んで建立されている 6 。
この勝久の亡命は、単なる一個人の悲劇に留まらない歴史的な意味合いを持つ。彼が庇護を求めた大友氏は、彼の母の実家であり、この時点では島津氏と「堅い盟約関係」にあった 34 。しかし、皮肉なことに、勝久を追放して権力を確立した相州家島津氏(貴久とその子・義久)は、やがて九州の覇権を巡ってこの大友氏と激しく対立することになる。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、島津軍は大友軍に壊滅的な打撃を与え、両家の関係は決定的に破綻する 7 。勝久の存在は、島津氏と大友氏の関係が「盟友」から「宿敵」へと劇的に転換する、まさにその境界線上に位置していた。彼の個人的な悲劇は、九州全体の勢力図が塗り替えられていく大きな歴史のうねりと分かちがたく結びついていたのである。
勝久の死後も、彼の血脈は途絶えることなく、薩摩の歴史にささやかながらも重要な足跡を残した。特に嫡男による宗家の家宝の献上は、半世紀にわたる島津氏の家督争いに終止符を打つ象徴的な出来事であった。
勝久には、継室である禰寝重就の娘・天空夫人との間に生まれた嫡男・忠良(ただよし、幼名:益房丸)がいた 6 。彼は父・勝久と共に流浪の人生を送り、一時は日向の伊東義祐に預けられるなど苦難を重ねたが、後年、薩摩への帰国を果たした 33 。
勝久は薩摩を追われる際、島津宗家(奥州家)に代々伝わる文書や武具、宝物といった、当主の正統性を象徴する品々(「御重物」と呼ばれる)を携えていた 30 。これらの家宝は、単なる貴重品ではなく、島津宗家の家督の正統性そのものを体現するものであった。
時代は下り、島津義久(貴久の子)が薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げ、その支配を盤石なものとした後、勝久の子である忠良は、父が持ち去ったこの宗家の「御重物」を義久に献上した 30 。
この献上は、単なる物品の返還以上の極めて重要な意味を持っていた。それは、旧宗家である奥州家の正統な後継者が、実力で宗家の地位を勝ち取った相州家に対し、その家督継承の正統性を公式に、そして最終的に承認したことを意味する象徴的な行為であった。これにより、大永年間から半世紀近くにわたって続いた島津氏の家督を巡る問題は名実ともに終結し、相州家を新たな本宗家とする権力構造が完全に確立されたのである。
勝久の血脈は、その後二つの異なる道を歩んだ。
嫡男・忠良の系統は、薩摩藩内で存続した。忠良の嫡子である良久は島津義久の命により僧となり、次男の久秀は還俗して藤野姓を、三男の忠辰は亀山姓を名乗り、それぞれ島津義久に仕えた 6 。かつての守護家の直系は、このようにして薩摩藩士として新たな主君の下で生きる道を選んだ。
一方、勝久の次男である久考以下の子供たちは、父が亡命した豊後の大友氏に仕えた。その後、大友氏が豊臣秀吉によって改易されると、彼らは関東に移り、天下人となった徳川氏に仕えたと伝えられている 6 。また、娘の一人である一之台は大友氏の室となっている 6 。
勝久の子孫たちの動向は、彼の生涯がもたらした影響の広がりを示している。嫡流は旧領主の下で藩士として生きる道を選び、分流は父の亡命先であった大友家、そして新たな天下人である徳川家へと仕官の道を求めた。これは、主家を失った戦国武士の血脈が、新たな権力構造の中でいかにして生き残りを図ったかを示す一つのケーススタディとして、興味深い事例である。
島津勝久の生涯を多角的に検証した結果、従来の「暗君」「優柔不断な当主」という一面的な評価は、再考されるべきである。彼は、時代の大きな転換点に生きた悲劇の当主であった。
第一に、勝久の治世は、彼が望んだわけではなく、父の自害と二人の兄の早世という権力の真空状態から始まった。彼は、守護家の権威が失墜し、有力な庶家や国人、さらには家臣団が実力で台頭していく戦国時代初期の動乱の渦中に、否応なく立たされたのである。
第二に、彼の優柔不断に見える行動、特に貴久への家督譲渡とその後の「悔返し」は、彼の個人的資質だけに帰せられるべきではない。むしろ、彼を「神輿」として担ぎ、自らの権益を拡大しようとした二つの家臣団派閥(相州家派と薩州家派)の激しい対立に翻弄された結果と見るのが妥当である 6 。彼は、自らの権力基盤を確立するいとまもなく、常に他者の意図によって動かされる客体であった側面が強い。
第三に、そして最も歴史の皮肉を感じさせるのは、勝久が意図せずして島津氏の「中興」の触媒となった点である。彼が自力で領国を統治できなかったからこそ、相州家の島津忠良・貴久親子が台頭し、その実力を示す機会が生まれた。勝久を巡る一連の内乱を通じて、旧来の勢力(薩州家や旧老中)は一掃され、忠良・貴久は薩摩半島南部を基盤に新たな家臣団を形成し、強力な戦国大名へと飛躍する礎を築くことができた 23 。
結論として、島津勝久は、その意図とは全く裏腹に、自らの失脚と追放をもって、島津氏が中世的な守護大名から近世的な戦国大名へと脱皮するための、いわば「生みの苦しみ」を体現した人物であった。彼の悲劇的な生涯なくして、後の島津四兄弟による九州制覇への道は開かれなかったかもしれない。彼の人生は、一個人の失敗の物語ではなく、一つの勢力が時代の変化に適応し、生まれ変わるために必要とされた、壮大な破壊と再生の序曲だったのである。