江戸時代初期、徳川の天下が盤石となりゆく過程で、数多の大名家がその存亡を賭けた選択を迫られた。日向国(現在の宮崎県)に成立した佐土原藩もまた、その激動の時代に産声を上げた小藩の一つである。その二代藩主・島津忠興の生涯を詳らかにすることは、徳川治世下における外様大名、特に強大な本家を持つ支藩がいかにして自立と存続の道を探ったかを解き明かす上で、極めて重要な意味を持つ。本稿では、島津忠興の生涯を、藩の成立から彼の治世、そして早すぎる死までを追い、その歴史的意義を多角的に考察する。
佐土原の地は、慶長年間以前、島津家の中でも屈指の猛将として知られた島津家久(島津四兄弟の末弟)、そしてその子・島津豊久の所領であった 1 。家久は豊臣秀吉の九州平定後、この地を安堵され、佐土原は島津一門における重要な拠点の一つとなっていた。しかし、歴史の転換点となった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが、この地の運命を大きく変える。西軍に与した島津義弘の麾下として奮戦した豊久は、徳川家康本陣への敵中突破という壮絶な退却戦、いわゆる「島津の退き口」において、叔父・義弘の身代わりとなる形で討死を遂げた 4 。
豊久に嗣子はなく、佐土原島津家は断絶。その所領は徳川家康によって一旦没収され、幕府の直轄領として代官・庄田三太夫が管理することとなった 4 。これは、西軍に与した島津氏に対する戦後処理の一環であり、徳川政権がその支配力を九州の隅々にまで及ぼそうとする強い意志の表れであった。
関ヶ原の戦い後、薩摩の島津本家は巧みな交渉と武備恭順の姿勢を貫き、本領安堵を勝ち取る。その複雑な戦後交渉の過程で、徳川家康は新たな一手を打った。慶長8年(1603年)、家康は豊久の旧領であった日向国那珂郡・児湯郡内の3万石を、島津一門の長老である島津以久(もちひさ)に与え、ここに佐土原藩が立藩された 3 。
初代藩主となった以久は、島津宗家15代当主・貴久の弟である島津忠将の子であり、義久・義弘兄弟とは従兄弟にあたる人物である 8 。永禄4年(1561年)に父・忠将が戦死した後は、伯父の貴久に引き取られ養育されたという経歴を持つ、島津一門の中でも由緒正しい血筋の武将であった 8 。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは自ら敵陣に切り込み勝利のきっかけを作るなど武功も高く、その後は種子島などを領していた 8 。家康が彼を新たな佐土原藩主に据えた背景には、関ヶ原で敵対した島津氏本家を完全に潰すのではなく、その広大な領国を維持させつつも、一門の有力者を切り離して独立した大名とすることで、その勢力を削ぎ、統制下に置こうとする深慮があったと考えられる。
初代藩主・以久は、垂水や種子島といった旧領から、母方の縁戚である松木氏をはじめとする家臣団を引き連れて佐土原に入った 3 。彼らは新興の佐土原藩において、藩主側近として重用されることになる。一方で、佐土原には旧領主であった島津家久・豊久父子に仕えていた譜代の家臣たちが存在した。こうして、藩の成立当初から、以久が連れてきた「新参派」と、土地に根差した「譜代派」という二つの家臣グループが形成され、藩政の主導権を巡る門閥対立の火種がくすぶり続けることとなった 3 。この根深い対立構造は、二代・忠興の治世を経て、その後の佐土原藩の歴史に長く暗い影を落としていくのである。
島津忠興は、慶長5年(1600年)5月29日、初代佐土原藩主・島津以久の三男として、大隅国種子島にて生を受けた 11 。関ヶ原の戦いが起こった年であり、彼の生涯がまさに徳川の世の始まりと共にあったことを象徴している。母は以久の側室であった松木氏の娘である 8 。幼名は堯秀坊(ぎょうしゅうぼう)と称した 12 。
忠興には二人の兄がいたが、長兄の彰久は文禄の役の際に朝鮮で病没しており、次兄の入来院重時はすでに入来院氏へ養子に出ていた 8 。そのため、三男である忠興が父・以久の後継者と目される立場にあった。
忠興は正室に丹生(にぶ)氏の娘を迎えている 12 。丹生氏の出自に関する詳細な記録は乏しいが、忠興の家督相続が確定し、藩政が安定に向かう中で迎えられた正室であったと考えられる。彼女との間には、三代藩主となる嫡男・島津久雄(ひさたか)、次男・島津久富(ひさとみ)、そして三男・島津久遐(ひさとお)の三人の男子が生まれた 12 。
慶長15年(1610年)4月9日、初代藩主・以久は、幕府による天下普請である丹波国篠山城の築城工事に赴く途上、滞在先の京都・伏見で急死した 8 。享年61。これにより、立藩からわずか7年にして、佐土原藩は予期せぬ家督相続問題に直面することになる。
この時、事態に介入したのが、駿府城にあって大御所として天下に睨みを利かせていた徳川家康であった。家康は、以久の嫡孫(長兄・彰久の遺児)であり、薩摩藩の有力な一門家である垂水島津家の当主・島津久信(ひさのぶ)に佐土原藩3万石を継がせる意向を示した 16 。血筋上の正統性を重んじれば、三男である忠興よりも嫡孫である久信が後を継ぐのが自然であり、家康の指名は理に適ったものであった。
ところが、久信はこの家康からの打診を固辞するという、不可解な行動に出る 3 。この相続辞退によって、当時わずか11歳であった三男・忠興が、佐土原藩二代藩主の座に就くことが決まったのである 11 。
久信の辞退は、単なる謙遜や遠慮といった消極的な理由によるものではなく、薩摩本家との関係、そして垂水島津家そのものの将来を見据えた、高度に政治的な計算に基づいていた可能性が極めて高い。この決断の背景には、いくつかの要因が複雑に絡み合っていた。
第一に、久信自身の立場である。彼は以久の嫡孫であるだけでなく、その正室は佐土原の旧領主・島津家久の娘であり、関ヶ原で戦死した島津豊久の妹にあたる宗鉄であった 3 。この婚姻関係は、佐土原の地に残る旧臣たちの支持を得る上で非常に有利に働くはずであった。家康が久信を指名したのも、こうした血縁的・地縁的な正統性を考慮した結果であろう。
第二に、彼が当主を務める垂水島津家の薩摩藩内における地位である。垂水島津家は、薩摩藩主の一門として「御一門」という最高の家格に列せられ、1万8000石を知行する大身であった 17 。これは単なる家臣ではなく、藩政にも大きな影響力を持つ、いわば薩摩藩という巨大な国家連合における有力な構成領主というべき存在であった。
これに対し、佐土原藩は3万石の外様大名であり、薩摩藩の支配を受けない独立した藩である 3 。藩主となれば、徳川将軍家の直臣となる。これは、一見すると栄誉なことに思えるが、見方を変えれば77万石という日本有数の大藩である薩摩藩の庇護と特権的な地位を捨て、幕府の厳しい監視下に置かれる小藩の主となることを意味する。
久信は、この二つを天秤にかけたと考えられる。不安定な要素を抱える独立小藩の藩主という「名」を取るか、それとも巨大な薩摩藩内における有力者としての「実」を取り続けるか。彼は後者を選んだのであろう。成立間もない佐土原藩は、前述の通り家臣団の内部対立という問題を抱え、その経営は決して安泰ではなかった 3 。将来的なリスクを考えれば、薩摩藩内で確固たる地位を維持し続ける方が、はるかに安定的かつ有利であると判断したとしても不思議ではない。この家督相続劇は、徳川政権という新たな秩序の中で、島津一門がいかにして自らの家を保ち、発展させようとしたか、その複雑な生存戦略を如実に物語る一幕であった。
若くして藩主となった島津忠興は、その治世において、黎明期にあった佐土原藩の基盤を固めるための重要な施策を次々と実行していった。それは、軍事、行政、そして宗教という多岐にわたる分野での藩体制の構築であり、徳川の世における新たな大名としての姿を模索する過程でもあった。
忠興の治世で特筆すべきは、藩の拠点である佐土原城とその周辺に対する大規模な整備事業である。
まず、家督を継いだ直後ともいえる慶長17年(1612年)、わずか13歳の忠興は佐土原城の大規模な改修に着手した 4 。この大工事によって、天守、櫓、塀、門などが新たに造営されたと記録されている 4 。これは、若き藩主が自らの権威を内外に示し、藩の軍事的中核を確立しようとする明確な意志の表れであった。近年の発掘調査では、この時期のものとみられる金箔瓦が出土しており、南九州の城郭としては異例の壮麗な天守が聳えていた可能性が指摘されている 22 。
さらに寛永2年(1625年)、忠興は藩政における大きな転換を決断する。それまで山頂にあった城の中心機能、すなわち藩庁を、山下の二ノ丸跡地(現在の宮崎市佐土原歴史資料館・鶴松館の場所)へと移転させたのである 23 。この藩庁移転は、単に城郭が老朽化したという物理的な理由だけでは説明できない、複数の政治的・経済的意図を含んだ戦略的な決断であった。
第一に、幕府への恭順姿勢のアピールである。元和元年(1615年)に発布された武家諸法度により、大名による城郭の新規築城は厳しく禁じられ、修理ですら幕府への届け出が義務付けられた 7 。戦国の世が終わり、山城のような大規模な軍事施設の維持は、幕府から警戒の目で見られる可能性があった。山城の政庁機能を廃し、平地の居館を行政の中心とすることは、幕府が推進する「武」から「治」への時代の転換に沿うものであり、徳川への恭順の意を示す象徴的な行為であった。
第二に、藩政の効率化と財政的負担の軽減である。山城の維持管理は、平時においては藩財政にとって大きな負担となる 7 。藩庁を交通の便の良い平地に移すことで、維持コストを削減すると同時に、家臣や領民が訪れやすい行政拠点を築き、藩政運営の効率化を図った。
第三に、城下町の経済的活性化である。藩庁が城下町の中心に位置することで、人の往来が活発化し、商業の発展を促す効果が期待できる。これは、軍事力のみに頼るのではなく、経済力によって藩の基盤を強化しようとする、近世大名としての新たな統治思想への移行を示すものであった。
一方で、忠興は武備を疎かにしたわけではない。藩内の各郷に弓場を設け、武芸を奨励している 11 。これは、隣接し、しばしば境界争いを起こした飫肥藩(伊東氏)や、家督相続問題で緊張関係が生まれた薩摩藩内の垂水島津家を念頭に置いた、現実的な安全保障政策であったと考えられる 3 。
忠興は、父・以久の宗教方針を継承し、それを藩の文化として定着させる役割も果たした。
父・以久は、その最晩年に京都に滞在した際、四条寺町にあった大雲院の住職に深く帰依し、島津家が代々信仰してきた曹洞宗から浄土宗へと宗旨替えを行っていた 8 。これは、以久個人の信仰心だけでなく、政治的な判断も含まれていたと考えられる。薩摩本家の菩提寺が曹洞宗の福昌寺であるのに対し 26 、支藩である佐土原藩が異なる宗派を藩の宗旨とすることは、本家からの宗教的な独立、ひいては政治的な自立性を内外に示す意味合いを持っていた。また、京都の有力寺院との繋がりは、中央の情報や文化を取り入れるための重要なパイプとなったであろう。
忠興は、この父の遺志を継いだ。慶長17年(1612年)、父の三回忌に際し、その法名「高月院殿仁雄宗恕居士」にちなんで、浄土宗の寺院「高月院」を建立したのである 9 。以来、高月院は佐土原島津家の菩提寺として歴代藩主とその一族の墓所となり、藩士たちの精神的な拠り所として、篤い庇護を受けた 9 。
忠興の治世は、藩の礎を築く一方で、その後の混乱の火種を内包する時期でもあった。特に深刻だったのが、初代藩主・以久が外部から連れてきた新参家臣団と、土地に根差した譜代家臣団との間の門閥対立である 3 。忠興の母が松木氏の出身であったこともあり、松木一族は藩政において影響力を強めていった。この権力構造の歪みは、忠興の治世下では潜在的な対立に留まっていたが、彼の早すぎる死をきっかけに表面化し、子の久雄の代、さらにはその後の「松木騒動」といった藩を揺るがすお家騒動へと発展していくことになる 7 。
徳川幕府の支配体制が確立していく過程で、全国の大名は徳川家への忠誠を試されることになった。その最大の試金石が、豊臣家との最終決戦である大坂の陣であった。若き藩主・島津忠興もまた、この歴史的な大戦役に、徳川方の大名として臨むこととなる。
大坂の陣の開戦を目前に控えた慶長19年(1614年)6月19日、当時15歳の島津忠興は、駿府城にいる大御所・徳川家康に拝謁した。この時、忠興は家康に対し、名香である伽羅、太刀、そして馬を献上している 12 。これは、単なる挨拶ではなく、徳川家に対する明確な臣従と忠誠を誓うための重要な政治的儀礼であった。全国の諸大名が徳川方か豊臣方かの旗幟を鮮明にすることを迫られる中、忠興はこの献上によって、佐土原藩が徳川方であることを疑いのない形で示したのである。
同年11月に始まった大坂冬の陣において、忠興は徳川方として参陣を果たした 11 。外様大名として、幕府から課せられた軍役の義務を遂行した形である。
しかし、和議が破れ、翌元和元年(1615年)に大坂夏の陣が勃発した際には、忠興の軍勢は戦場への到着が間に合わなかったと記録されている 11 。これは「遅参」であり、通常であれば主君の勘気を蒙り、厳しい処分を受けてもおかしくない失態であった。関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠が上田城攻めに手間取り本戦に遅参したことは有名であり、軍事行動における遅延がいかに重大事と見なされていたかがわかる 30 。にもかかわらず、忠興がこの遅参によって何らかの処分を受けたという記録は見当たらない。
この不可解な「遅参」とその後の「無処分」には、佐土原藩一藩の問題に留まらない、島津家全体の動向と幕府の政治的判断が深く関わっている。
第一に、薩摩本家の動向である。薩摩藩主・島津家久(忠恒)が大坂へ向けて1万3000の軍勢を率いて鹿児島を出陣したのは、夏の陣開戦直前の慶長20年(1615年)5月5日のことであった 31 。本家である薩摩藩の出陣がこの時期であった以上、その支藩である佐土原藩が本家に先んじて迅速に行動することは、政治的に極めて困難であったと考えられる。また、豊臣家からは大野治長を通じて、関ヶ原の遺恨を理由に味方になるよう誘いがあったことも『薩藩旧記雑録後編』に記されており 33 、島津家全体が徳川方への全面的な加担に慎重な姿勢を取っていたことがうかがえる。
第二に、幕府側の島津氏に対する複雑な感情である。幕府は、関ヶ原での敵対行動やその後の戦後交渉の経緯から、島津氏の動向を常に強く警戒していた 33 。一方で、その強大な軍事力と九州における影響力は無視できず、無闇に刺激することは得策ではないと考えていた。夏の陣は幕府方の大勝利に終わり、豊臣家は滅亡した。戦いが終結した以上、遠隔地である佐土原藩の遅参をことさらに問題として取り上げ、島津氏全体を刺激するよりも、天下泰平の世への移行を優先するという現実的な政治判断が働いた可能性が高い。忠興が何ら咎めを受けなかったという事実は、むしろ幕府の対島津政策の慎重さを物語っているといえよう。
藩政の基礎固めに尽力した島津忠興であったが、その治世は長くは続かなかった。寛永14年(1637年)6月11日、忠興は江戸にて38歳(満37歳)という若さでこの世を去った 11 。初代藩主・以久に続き、二代藩主もまた志半ばで倒れたのである。
忠興の死後、家督を継いだのは嫡男の島津久雄であったが、その年齢はわずか5歳であった 15 。幼い藩主の登場により、佐土原藩の政務は家老ら重臣による合議制で運営されることとなり、これが藩内における権力闘争を誘発する土壌となった。奇しくも忠興が没した同年には島原の乱が勃発しており、佐土原藩からは藩主不在のまま家臣が軍勢を率いて出陣するという事態になっている 15 。これは、藩主の早すぎる死が藩政に与えた影響の大きさを象徴する出来事であった。
島津忠興の生涯は、徳川幕府という新たな中央政権が確立されていく時代に、一人の小藩の藩主が直面した課題と苦悩の連続であった。父の急死と、徳川家康の意向が絡む複雑な家督相続という波乱の幕開けから始まった彼の治世は、決して平坦なものではなかった。
しかし、彼はその短い治世の間に、佐土原城の大改修とそれに伴う天守の建立、そして戦国の遺風を脱し近世的な統治体制への移行を象徴する藩庁の移転など、藩の基盤を確立する上で極めて重要な事業を成し遂げた。また、父の遺志を継いで菩提寺・高月院を創建し、藩の宗教的・文化的な支柱を築いた。大坂の陣への対応に見られるように、強大な薩摩本家と中央の徳川幕府という二つの権力の間で、巧みなバランスを取りながら自藩の存続を図った。
彼は、藩の「創業者」である父・以久の跡を継ぎ、その構想を具体的な形にする「設計・構築者」としての役割を果たした第二世代の藩主として評価されるべきである。一方で、彼の治世に潜在していた家臣団の対立という負の遺産は、彼の早すぎる死によって顕在化し、その後の佐土原藩の歴史に長く影を落としていくことになった。島津忠興の38年の生涯は、徳川治世の黎明期を生きた一人の大名の軌跡であると同時に、近世という新たな時代に適応しようとした小藩の苦闘の記録そのものであった。
和暦 |
西暦 |
忠興の年齢 |
個人の事績・佐土原藩の動向 |
日本国内の主要な出来事 |
典拠 |
慶長5年 |
1600年 |
1歳 |
5月29日、大隅国種子島にて誕生。 |
関ヶ原の戦い。父・以久の従兄弟・島津豊久が討死。 |
11 |
慶長8年 |
1603年 |
4歳 |
父・以久が佐土原藩初代藩主となる。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。 |
4 |
慶長15年 |
1610年 |
11歳 |
4月9日、父・以久が京都で死去。家督を相続し、佐土原藩二代藩主となる。 |
|
8 |
慶長17年 |
1612年 |
13歳 |
佐土原城の大改修を開始。菩提寺・高月院を創建。 |
|
4 |
慶長19年 |
1614年 |
15歳 |
6月19日、駿府城で徳川家康に拝謁。大坂冬の陣に徳川方として参陣。 |
大坂冬の陣。 |
11 |
元和元年 |
1615年 |
16歳 |
大坂夏の陣に遅参し、間に合わず。 |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。武家諸法度発布。 |
11 |
寛永2年 |
1625年 |
26歳 |
佐土原城の藩庁機能を山上から山下へ移転。 |
|
23 |
寛永14年 |
1637年 |
38歳 |
6月11日、江戸にて死去。嫡男・久雄が家督相続。 |
島原の乱(~寛永15年)。 |
11 |