戦国時代の終焉から江戸時代の黎明期にかけて、日本の歴史は激動の渦中にあった。その中で、南九州に覇を唱えた島津氏は、中央政権との熾烈な対峙と協調を繰り返しながら、その存続を賭けていた。この極めて重要な時代に、島津一門の柱石として武威と知略の両面で家を支えたのが、島津忠長(しまづ ただたけ/ただなが)である。
島津忠長の生涯は、島津家の九州統一事業の最終局面における武勇の象徴であり、同時に、豊臣・徳川という巨大な中央権力との折衝において、家の存亡を救った外交手腕の象徴でもあった 1 。岩屋城攻めや朝鮮の泗川(しせん)の戦いで見せた「武」の側面と、関ヶ原の戦い後の対徳川交渉で見せた「文(知)」の側面は、彼が単なる猛将ではなく、時代の変化に対応しうる多才な能力を備えた人物であったことを物語っている。
本報告書は、島津四兄弟の輝かしい功績の陰に隠れがちなこの武将の生涯を、その出自から晩年に至るまで詳細に追跡する。そして、彼が島津家の歴史、ひいては戦国末期から江戸初期の日本史において果たした決定的な役割を、多角的に解明することを目的とする。
項目 |
詳細 |
生没年 |
天文20年7月17日(1551年8月18日) – 慶長15年11月9日(1610年12月23日) 1 |
家系 |
島津伊作家庶流、宮之城島津家2代。父は島津尚久、母は頴娃兼洪の娘。島津義久・義弘兄弟とは従兄弟の関係 2 。 |
通称・官位 |
鎌菊丸(幼名)、又五郎、図書頭、左馬頭 2 。 |
法号・戒名 |
紹益、既成宗功庵主 1 。 |
主君 |
島津義久 → 義弘 → 家久(忠恒) 2 。 |
主な戦歴 |
高原城攻め、耳川の戦い、水俣城攻め、沖田畷の戦い、岩屋城の戦い(総大将)、文禄・慶長の役(泗川の戦い)、庄内の乱 1 。 |
主な功績 |
筑前侵攻軍総大将、泗川の戦いでの奮戦、関ヶ原後の対徳川交渉代表 1 。 |
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島津忠長は、天文20年(1551年)、島津尚久(なおひさ)の嫡男として薩摩国鹿籠(かご、現在の鹿児島県枕崎市周辺)に生を受けた 2 。彼の父・尚久は、島津家中興の祖と称えられる島津忠良(日新斎)の三男であり、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げた島津貴久の末弟にあたる 4 。この血筋により、忠長は島津宗家第16代当主・義久、そしてその弟である義弘、歳久、家久という「島津四兄弟」とは従兄弟という、極めて近い血縁関係にあった。
この宗家との近しい関係は、忠長の生涯を通じて彼の地位を決定づける重要な要素となった。島津氏の統治体制は、宗家を中心とした強固な一門衆が軍事・政治の要職を占めることで、鉄の結束を維持していた 7 。忠長はこの支配構造の中核を担うべき人物として、早くから期待されていたのである。彼の家系は、後に串良、東郷を経て宮之城の領主となり、幕末まで続く名家「宮之城島津家」の礎を築くことになる 1 。
忠長が歴史の表舞台に登場するのは、天正4年(1576年)の日向国高原城攻めへの従軍からである 2 。これを皮切りに、彼は島津家の九州統一事業において、数々の重要な戦いにその名を刻んでいく。
天正6年(1578年)、大友氏との間で勃発した日向石城(いわきじょう)合戦では、最初の攻撃で総大将を務めるも攻略に失敗。しかし、その後の第二次攻撃では副将として参陣し、見事雪辱を果たした 2 。若くして大軍を率いる成功と失敗の両方を経験したことは、彼の指揮官としての器量を大きく成長させた。同年、大友宗麟の大軍を破った歴史的な「耳川の戦い」にも従軍して功を挙げ、天正9年(1581年)の肥後国水俣城攻めでは脇大将を任されるなど、忠長は宗家の兄弟たちから最も信頼される現場指揮官の一人として、着実にその評価を高めていった 1 。
忠長のキャリアは、島津家の強固な一族支配体制を象徴している。義久が大局的な戦略を練り、義弘や家久が各方面軍を率いる中で、忠長は彼らの意図を正確に汲み取り、最も困難な戦線や任務を遂行する「実行部隊の長」としての役割を担った。彼は、宗家と広範な家臣団とを繋ぎ、その意思を戦場で具現化する、まさに「一門の柱石」と呼ぶべき存在であった。彼の忠誠と卓越した能力があったからこそ、宗家の兄弟たちは安心して大局の指揮に専念できたのであり、その役割は他の誰にも代えがたいものであった。
天正14年(1586年)、沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った島津家の九州制覇は、もはや目前に迫っていた。残る最大の障壁は、豊後の大友氏のみであった。島津義久は、大友氏の本領に侵攻する前にその勢力圏である筑前国を制圧し、後顧の憂いを断つことを決断する。この、島津家の命運を賭けた筑前侵攻軍の総大将に抜擢されたのが、島津忠長であった 2 。副将には家老の伊集院忠棟が付けられ、数万の大軍が筑前へと進撃を開始した 10 。この人事は、忠長が一門の重鎮として、島津家から絶大な信頼を寄せられていたことの何よりの証左であった。
忠長率いる島津軍の前に立ちはだかったのが、筑前岩屋城であった。この城を守るのは、大友家に「風神」とまで称された名将・高橋紹運(じょううん)。彼の手勢は、わずか763名であった 11 。
項目 |
島津軍 |
大友軍(岩屋城) |
総大将 |
島津忠長 2 |
高橋紹運 11 |
副将/主要武将 |
伊集院忠棟 10 |
(城兵) |
兵力 |
30,000 – 50,000 10 |
763 11 |
結果 |
岩屋城を攻略するも、多大な死傷者を出す |
城兵全員玉砕 12 |
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圧倒的な兵力差を背景に、忠長は紹運に降伏を勧告する。しかし、紹運は主家への忠義を貫き、これを毅然と拒絶 14 。かくして、天正14年7月14日、戦史に名高い壮絶な籠城戦の火蓋が切られた 13 。紹運と城兵は文字通り決死の抵抗を見せ、島津の大軍に多大な出血を強いた。半月に及ぶ激闘の末、7月27日に岩屋城はついに落城し、紹運以下763名は全員が玉砕した 13 。
しかし、この勝利の代償はあまりにも大きかった。島津軍は、死者900人以上、負傷者1500人以上(一説には死傷者合計4500人)という、兵力差からは考えられないほどの甚大な損害を被ったのである 2 。落城後、般若台で行われた首実検の場で、忠長は紹運の首を前にして床几を降り、地に正座して「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と、諸将と共に涙を流したと伝えられている 13 。この逸話は、敵味方の垣根を越えた武人としての共感を示すと同時に、この「勝利」がもたらした代償の重さを、総大将である忠長自身が痛感していたことを物語っている。
岩屋城の攻略は、忠長の軍歴における最大の戦術的勝利であった。しかし、この勝利は皮肉にも、島津家全体の戦略目標を頓挫させる引き金となる。この戦いでの兵力と時間の消耗は、続く立花宗茂が守る立花城攻めを力攻めできなくさせ、攻城戦を停滞させた 2 。そして、この遅滞が、大友宗麟の要請に応えた豊臣秀吉の九州征伐軍が九州に上陸する時間を与えてしまったのである 14 。忠長が挙げた最大の武功が、結果として島津家の九州統一の夢を打ち砕く一因となったこの事実は、戦国乱世の非情さと、戦術的勝利が必ずしも戦略的成功に結びつかないという戦争の本質を浮き彫りにしている。忠長の流した涙は、敵将への感傷だけでなく、自軍の戦略が破綻しつつあることへの、一人の指揮官としての痛切な認識の表れだったのかもしれない。
豊臣秀吉による九州平定後、島津家は豊臣政権の支配下に組み込まれた。天正15年(1587年)、当主・島津義久が上洛する際、忠長もこれに供をし、そのまま事実上の人質として伏見に留め置かれた 1 。これは、島津家が豊臣政権に恭順の意を示し、その一員となったことを内外に示すための措置であった。忠長は、一門の代表として、中央政権の監視下で忍従の日々を送ることになる。
豊臣政権下での生活は、忠長の忠誠心を試す出来事に見舞われる。天正20年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵に際して出陣命令を拒んだとして、従兄弟の島津歳久が秀吉の怒りを買い、自刃に追い込まれた。さらにその首は、京の一条戻橋に晒されるという屈辱的な扱いを受けた。この時、人質として京にいた忠長は、政権の権威を恐れることなく、危険を顧みずにその首を奪い返し、京都の大徳寺総見院で手厚く葬ったと伝えられている 5 。この行動は、中央の強大な権力に屈しつつも、島津一門としての誇りと同族への深い情誼を失わなかった忠長の気骨と、揺るぎない忠誠心を示す逸話として高く評価されている。
人質としての役目を終えた後、忠長は島津義弘に従い、文禄・慶長の役で朝鮮半島へ渡海する 1 。ここで彼は、再びその武勇を天下に示すこととなる。
慶長の役における慶長3年(1598年)10月の「泗川の戦い」は、島津軍の武名を不滅のものとした戦いである。島津義弘・忠恒(後の家久)親子が守る泗川倭城に、董一元率いる数万(一説には20万とも)の明・朝鮮連合軍が殺到した 19 。対する島津軍はわずか7,000。絶体絶命の状況下で、島津軍は得意の「釣り野伏せ」を応用した戦術と、大量の鉄砲を集中運用する戦法でこれを迎え撃った 22 。
この大激戦の最中、『本藩人物誌』などの史料は、忠長の驚異的な活躍を伝えている。「忠長は100の兵で10,000の明の大軍を撃ち破り、義弘の窮地を救うという神業をやってのけた」と記されているのである 2 。この記述は、島津軍全体の組織的な勝利の一部を担ったものではあるが、忠長個人の突出した勇猛さと卓越した指揮能力を証明している。この泗川での大勝を含む朝鮮での戦功により、忠長は帰国後、宮之城および祁答院の地を与えられ、その地位をさらに高めることになった 1 。
豊臣政権下での人質生活、そして圧倒的劣勢の朝鮮の戦場という逆境の連続の中で、忠長の真価は一層輝きを増した。歳久の首奪還は主家への「忠」の現れであり、泗川での奮戦は主君・義弘への「忠」と自身の「武」の証明であった。彼の行動原理は、一貫して「島津一門への忠誠」に根差している。政権の圧力や戦況の不利といった外部環境に左右されることなく、自らが果たすべき役割を命懸けで実行するこの不動の姿勢こそが、後の関ヶ原後の国家的大危機において、最も困難な交渉役を任されるに足る人物であると、家中から絶対的な信頼を勝ち取る基盤となったのである。
慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いで、島津義弘は西軍に与して奮戦するも、西軍はわずか半日で壊滅。義弘は敵中を突破する壮絶な退却戦「島津の退き口」の末、辛うじて薩摩へ帰還した 24 。この結果、西軍の首魁であった毛利輝元や宇喜多秀家と同様に、島津家も徳川家康から領地没収(改易)や大幅な削減(減封)という、家門断絶にもつながりかねない最大の危機に直面した 24 。
この存亡の危機に際し、当主・島津義久と義弘は、武力による徹底抗戦ではなく、外交交渉による家の存続という困難な道を選択する。国境の守りを固め、徳川軍の侵攻に備える「武備恭順」の姿勢を明確に示しつつ、粘り強い交渉に臨んだのである 27 。この、島津家の未来を一身に背負う交渉団の代表として白羽の矢が立ったのが、島津忠長、そして家老の新納旅庵、市来家政であった 1 。
交渉は極めて難航した。家康は、交渉の前提条件として当主・義久の上洛を再三にわたり要求。しかし義久は、上洛すれば弟・義弘の責任を問われ、切腹を命じられることを危惧し、病を理由にこれを頑なに拒否し続けた 27 。一方で、忠長らは家康に対し、まず所領の安堵を保証するよう求め、両者の主張は平行線を辿った 29 。この間、忠長らは島津家の代表として、徳川方との間で緊迫したやり取りを続けた。
約2年にも及ぶ息の詰まるような交渉の末、慶長7年(1602年)、事態は劇的な決着を見る。徳川家康はついに折れ、島津義久に起請文を送り、薩摩・大隅・日向諸県郡という島津家の本領を安堵することを約束したのである 27 。これを受け、同年、義弘の子である島津忠恒(後の家久)が上洛して家康に謝意を述べ、和睦が成立した 27 。西軍に属した主要大名が次々と改易・減封される中、本領を全く削られることなく存続を許されたのは、島津家が唯一の例外であった。
この奇跡的な成果の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。第一に、島津家の「武備恭順」の姿勢が、家康に「島津討伐は多大な犠牲を伴い、得策ではない」と判断させたこと。第二に、「島津の退き口」で島津隊に重傷を負わされた井伊直政や、福島正則といった徳川方の有力武将が、逆に島津の武勇を高く評価し、和睦の仲介に尽力したこと 30 。そして何よりも、島津忠長を中心とする交渉団が、武力と外交を巧みに使い分ける島津家のしたたかな戦略を体現し、卓越した交渉手腕を発揮したことが挙げられる。
忠長の最大の功績は、岩屋城や泗川での武功ではなく、この対徳川交渉を成功に導いたことにあると言っても過言ではない。彼は、島津の「武」の恐ろしさを誰よりも知る歴戦の将でありながら、その武力を振りかざすことが最善の策ではないと冷静に判断し、「文」の力、すなわち粘り強い交渉によって家を救う道を選んだ。彼のキャリアは、戦国武将に求められる資質が、武勇一辺倒から政治・外交能力へと移行していく時代の転換点を象徴している。忠長の存在そのものが、徳川家康に対し「島津は戦うこともできるが、交渉もできる」という強力なメッセージとなり、島津家の生存戦略の要となったのである。
数々の戦功、そして何よりも関ヶ原後の交渉における大功により、忠長は祁答院宮之城の領主として確固たる地位を築いた 1 。彼はこの地を拠点とし、江戸時代を通じて薩摩藩の重きをなす宮之城島津家の基礎を固めた。慶長年間には、菩提寺として臨済宗の宗功寺(そうこうじ)を建立 32 。この寺は明治の廃仏毀釈で失われたが、その跡地に残る忠長夫妻の墓をはじめとする歴代領主の壮大な墓石群は、宮之城島津家の威勢と、忠長の領主としての足跡を今に伝えている 34 。
忠長の人物像は、多面的で奥深い。戦場では鬼神のごとき武勇を誇る「驍将」であったが、その一方で、岩屋城で散った敵将・高橋紹運の死を心から悼み、涙を流す情の厚さも持ち合わせていた 13 。この姿は、彼が単なる戦闘機械ではなく、武士の情けを解する「仁将」であったことを示唆している。
さらに、天正12年(1584年)には、従兄弟である島津義弘から、戦傷全般の治療法を扱う専門医術「金瘡医術(きんそういじゅつ)」の秘伝を直々に伝授されている 2 。これは、彼が単なる武人にとどまらない知的な探求心を持っていたこと、そして何より、多くの将兵の命を預かる指揮官として、彼らの命を救うことにも深い関心を寄せていた責任感の表れと解釈できる。また、彼の娘は、関ヶ原の退き口で英雄的な死を遂げた島津豊久に嫁いでおり 2 、一門の重要な人物たちと深い縁戚関係を結ぶことで、家中の結束強化にも貢献していたことが窺える。
慶長15年11月9日(1610年12月23日)、島津忠長は本拠地である宮之城にて、60年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。嫡男の忠倍(ただます)は忠長に先立って亡くなっていたため、家督は新納氏の婿養子となっていた次男の久元(ひさもと)が継承した 2 。
忠長が築いた宮之城島津家は、その後も薩摩藩の中で特別な地位を保ち続けた。その家格は、藩主宗家とそれに連なる御一門家(重富家、加治木家など)に次ぐ「一所持」の中でも、特に上位の家柄である「大身分」として重んじられ、代々家老などの藩政の要職を輩出する名家として、幕末に至るまで繁栄した 5 。
島津忠長は、義久、義弘、歳久、家久という、戦国史に燦然と輝く「島津四兄弟」の存在感の大きさゆえに、これまで必ずしも正当な評価を受けてきたとは言えない。しかし、その生涯と功績を詳細に検証するならば、彼が島津家の歴史において果たした役割は、四兄弟に何ら劣るものではないことが明らかとなる。
彼は、島津家の勢力が頂点に達しようとする九州統一事業の最終局面で、方面軍司令官としてその武威を示した。そして、豊臣、徳川という中央の巨大権力との対峙という、家の存亡を賭けた局面においては、筆頭交渉役としてその類まれな政治力と胆力で家を救った。まさに、攻守にわたる「一門の柱石」であった。
忠長の生涯は、戦国乱世を生き抜き、新たな時代を築くために武将に求められた資質が、もはや武勇だけでは不十分であったことを雄弁に物語っている。彼が体現したのは、揺るぎない忠誠心、戦況と政局を冷静に見極める判断力、そして最も困難な交渉を成功に導く外交手腕であった。島津忠長は、そのすべてを兼ね備えた、戦国末期を代表する名将の一人として、歴史の中で再評価されるべき人物である。